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 投稿番号:101304 投稿日:2013年01月17日 08時03分44秒  パスワード
 お名前:アカコツっッコ
南全史−大覚寺統から後南朝へ
キーワード:黒田荘:名張郡
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

昨年オークションで落札した本で、読んでみて凄く感銘をうけ
色々と間違って解釈しておりましたので勉強になりまた反省をもしております。
【南朝全史−大覚寺統から後南朝へ】(森茂暁氏著)講談社選書メチエ(2005:10月発行)以下本文より、
後醍醐天皇が神器を奉じて内裏を出奔したのは延元元年の事とされ、大和吉野に移ると再び綸旨を出し始める。吉野に移ったのはそれなりの条件が整っていたからと考えざるを得ない。何もない所に移るはずが無い。吉野の古代以来の地理的条件のほか、一つの朝廷としての組織を作る見通しが立ったからと見るべきだろう。吉野が近畿地方の中心都市京都に対して南方の山岳地帯における流通や交易さらに信仰の拠点として独立な地位を堅持していたことがあげられよう。暦応三年ころ、吉野の北東の伊賀国名張郡の悪党*(東大寺領黒田荘・伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らが、東大寺の文書において悪党*とされていた。この例が示すように、荘園領主や荘官が維持していた支配体系に対し、荘園・公領の外部から侵入ないし妨害しようとした者が悪党として観念されていた。悪党は南朝と結んでおり、同郡は吉野へ通路となっている東大寺衆徒の証言もあり、『東大寺文書』
吉野から名張郡を経由するルートは吉野の外港たる伊勢国大湊に繋がっていたであろう。『太平記』巻1にわざと官を辞した日野俊基(後醍醐の側近)が山伏に変装して大和・河内に行って城郭に相応しい場所を探したと記されているが、吉野が選ばれたのもそのような探索の結果であるかもしれない。
*悪党:(ウイキより)(東大寺領黒田荘(伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らが、東大寺の文書において悪党とされていた。この例が示すように、荘園領主や荘官が維持していた支配体系に対し、荘園・公領の外部から侵入ないし妨害しようとした者が悪党として観念されていた。

[1]アカコッコさんからのコメント(2013年01月17日 08時08分18秒 ) パスワード

また冒頭に著作者が以前出した『皇子たちの南北朝・・・後醍醐天皇の分身』に読者からの手紙が紹介されていましたが、【実は○○家は赤松円心の末流故、拙父は北山宮・河野宮に参拝して不忠を謝罪したことがあり、私は楠公精神で教え、戦後は豹変して文部省(それ自体豹変】通り、吉野朝本位より南朝迭立、平等に扱って教えてきました。ただし、尊氏に先見の明があったにせよ、南風不競に同情をき禁じえません。
阿倍野神宮・湊川・四条畷神社・や藤島神社に参拝して各御祭神を慰めました・】との一文がありおおいになぐさめられました。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月17日 15時43分31秒 ) パスワード

アカコッコさん

北山宮・河野宮について書かれていましたら
お知らせくださいませんか?
[4]アカコッコさんからのコメント(2013年01月18日 07時53分00秒 ) パスワード

あおさん御無沙汰しております。

 北山宮・河野宮の概要には何も書かれておりません。が以下の文に少しだけ関係箇所が。
*嘉吉三年(1443年)9月23日に起こった後南朝の一味による土御門内裏襲撃、神璽強奪事件、いわゆる禁闕の変であるこの事件は、皇位の回復を悲願とする後南朝勢力と幕府政治に不満の体制内者(公家と武家の双方に予同者がいた。結託しておこしたもので、天皇に近い日野家や細川・山名といった有力大名に同心者がでたことは、幕府体制の矛盾をさらけだすこととなった。この時三種の神器の一、神璽が後南朝一味に奪いさられた。
しかしこの時奪われた神璽は長禄元年12月、吉野の奥、北山・川上に侵入した赤松氏の一統によって奪い取られそうになった。同時に南朝皇胤一の宮(北山宮)・二宮(河野宮)兄弟が殺害された。おいたわしいことである。他の皇子達は各地で活躍したのに。
初期の南朝構成者は側近の面々および僧侶・公家・皇妃・女官などで構成されており、具体的には、後醍醐妃の新侍賢門院河野廉子、十従三位周子、等々

吉野の城郭については「太平記」には二丈一基の笠鳥居、二丈五尺の金鳥居、金剛力士の二階門、来たの店宮の示現言(宮)、七十に間の回廊、三十八の行化神、楽屋、宝蔵、竃殿、三尊光を和下手万人頭を傾し、きん金剛蔵王の社壇まで一時に灰塵とn なりて煙、蒼天に立登る浅増かりし有様なり。と「太平記」に吉野皇居の佇まいを書いている。
吉野皇居の中心的な建造物は金峰山寺の蔵王堂であったと思われるがほかに北野天神の示現の宮をはじめあまたの附属施設はさほど広くない吉野山上にひしめくように列立していたもの考える。 南北朝が滅びず足掛け60年近く存続したのは、
鎌倉幕府の「両統不可断絶」と言う方針が室町幕府にも受け継がれておりそんな事情があったわけであります。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月19日 04時34分09秒 ) パスワード

アカコッコさん


ありがとうございます。
ぺこり

    今朝とうとう冷凍庫のコンプレッサーが壊れてしまって、バタバタしているところでございます。


>後醍醐妃の新侍賢門院河野廉子

これは多分時代的にも  阿野廉子  かな?と思います。
でも摂津の記録でも阿野姓ではなく河野姓になっていますが。


ウイキより:
阿野廉子

阿野 廉子(あの やすこ/かどこ[1]、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。


後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。


父は右近衛中将阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫実直を始祖としている。


元応元年(1319年)8月西園寺禧子が後醍醐天皇の中宮に冊立された際、19歳で上臈として入侍したが、間もなく禧子を押しのけて後醍醐の寵愛を一身に集めるようになった。


嘉暦3年(1328年)に義良親王を出生。元弘元年/元徳3年(1331年)3月[2]従三位に叙され、三位局と称した。元弘2年/元徳4年(1332年)、前年の元弘の乱のために後醍醐の隠岐島配流に随行する。


建武の新政下においては皇后並みの待遇を受け、建武2年(1335年)4月准三后の栄誉に与った。内政にも影響力が及んだと考えられ、恒良親王の立太子や、足利尊氏と結託して後醍醐天皇と対立した護良親王の失脚・殺害にも関与したとされる。新政瓦解後は吉野遷幸にも同行して後醍醐天皇を助け、その亡き後は後村上天皇の生母として南朝の皇太后となり、正平6年/観応2年(1351年)12月に院号宣下を受け、正平12年/延文2年(1357年)9月落飾した。正平14年/延文4年(1359年)4月河内観心寺で崩御、享年59。


準勅撰集『新葉和歌集』に20首が入集する歌人でもある。墓所については、観心寺境内のコウボ坂陵墓参考地、境外の檜尾塚陵墓参考地などが伝承されているが、天授4年/永和4年(1378年)に当寺を参詣した賢耀の『観心寺参詣諸堂巡礼記』を参照すると、現在境内に「楠公首塚」と称している五輪塔の辺りが真の女院墓に相当するようである[3]。


『太平記』は、廉子が「殊艶」のみならず「便佞」であったために後醍醐天皇からの寵愛を独占したとする一方で、新政挫折の一因には、廉子と護良親王による政権内抗争があるとして、「雌鳥が鳴いて夜明けを報せると一家が滅ぶ」という中国の諺を引き合いに出し、批判的な叙述を行っている。また、北畠顕家が死に臨んで書き上げた諫奏文においても、「女官の中に、私利私欲により国政を乱すものがいる」と名指しこそしていないものの、廉子を重用する後醍醐天皇を暗に非難している部分がある。
[6]アカコッコさんからのコメント(2013年01月19日 11時43分51秒 ) パスワード
URL=http://www.aa.alpha-net.ne.jp

表題の本には阿野前内大臣実為(あのさいきのないだいじんさねため)をルビ仮名がふってある箇所もあり、なしのところがありタイプミスではありません、。長慶天皇の綸旨に河野行部大輔通尭(こうのぎょうぶだいぶみちたか)を伊予国守護にするという天寿元年の綸旨がある(築山河野家譜)などの記載があるので誤植ともおもえず載せてしまいました。間違いを犯し、お詫びいたします。
昨日通いなれた地元の図書館に訪れたタイトルと同じ本を発見し、何か因縁めいたものを感じました。これは南朝のことを皆さんにお知らせすべき事とお告げを感じたみたいです。長年書棚を見て居た訳ですが、発見できずにいたもっと早くに知っていたらばと反省しきりです。
同作者の本はありましたが、肝心の『皇子たちの南北朝・・・後醍醐天皇の分身』ないのでこんだ国会図書館にでもでむいてみようかと思っております。昨年閲覧カードを取得したばかりで。あまりなれていないけども。そんな事ばかり言っておられない。

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月19日 14時03分40秒 ) パスワード

アカコッコさん

いいですねえ。
国会図書館に通えますね。


「長年見てたはずなのに目に入らなかったのに今回気が付いた」
というのはやはり御先祖さまからのメッセージが「来た」んでしょうね。
徳川氏は南朝方ですから、そちらからのパワーも来たのかも。


>実は○○家は赤松円心の末流故、拙父は北山宮・河野宮に参拝して不忠を謝罪した

こういう人もいるんですねえ。


先祖とはいえ、裏切った事実を子孫が申し訳ないと参拝する。
嬉しいことでございます。


また北山宮・河野宮について出会う機会がございましたらお知らせくださいね。


冷凍庫は無事に直りました。

当地の本日はまだ金曜日で、土日月(祝日)と修理業者はお休みですから、
その後も一体何日待たされるのかとヤキモキしました。

業者が帰って行ったら途端にドッと疲れが出て、COQ10を2粒服用して、ちょっと元気になりました。

[8]アカコッコさんからのコメント(2013年01月20日 11時41分11秒 ) パスワード
URL=http://www.aa.alpha-net.ne.jp

『皇子たちのナ南北朝-後醍醐天皇の分身」は図書館に行くよりも思い、アマゾンの検索で出てきた。通販で購入できるみたいだが、買い物籠に入れてもその先がわからない、古いPCだからか。

『新葉集』『李花集』を編纂して有名な御兄弟の宗良親王:の『李花集』のなかから、歌のご紹介を『吉野の柱石宗良親王)川田順著・第一書房(S13年発行)

『おのづから雪ふみわけて訪ひ来しも都に近きすまひなりけり』(伊那にての御作)
宗良親王吉野に入り給うた時、恰も弥生の花盛りであったらしい。此の吉野山恩滞在中の御歌の一部を拾いあげると
「わけ来きても雲居とぞ見る吉野山君が御垣の花の梢は」
「み吉野の谷の古巣も出でにけり君が春る知る鶯の声」

後醍醐の臨終の場での遺言として語られる。古来著名なくだりであるが、以下・・・・
『朝敵をほろぼして、四海をして太平ならしめんと思うのみ、朕が早折の後は、第八宮(義良)を天子の座につけたてつまりて、忠臣・賢世事をはかり、義貞(新田)、義助(新田)が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として、天下を鎮撫せしむべし。これを思ひき故、玉骨(ぎょこつ)はたとひ南山の苔にうづもるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし、命を背き、義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
後醍醐の怨霊は容赦なく尊氏を悩ませた。やがて尊氏は後醍醐の怨霊を封じ込めるために。換言すれば。鎮魂の目的で京都西郷の亀山に天竜寺を開創した。室町幕府はこれ以降。後醍醐の怨霊を静めるため仏事を長く欠かすことができなかった


[9]空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月20日 12時07分02秒 ) パスワード

アカコッコさん

ありがとうございます。


アマゾンでの買い物の件ですが
次に行けなくて  逆に  ラッキーだったかもでございますよ。


と申しますのは

ネットでカードでの購入というのは   うまく行けば便利ですが
もしカード使用で悪用されたり間違いがあったりの場合
お金を返してもらったりカードを止めたり

それはそれは面倒になります。


ですから、将来、欲しい本を見つけた場合
本屋さんなどで取り寄せてもらうのが1番簡単かと思います。


   昨年友人が5ユーロほどのドイツの本をフランスの書店に見つけ
   銀行間の送金の手数料に4500円かかり、更に、送付用の送料と手数料が当然かかり、
   結局、500円の送金に1万円ほど入金し

   なんと!

   フランスの本屋が言うには(店員はイタリア人でした)売り切れの上に絶版ということで

   500円ユーロの返金に   なんと!  4500円の復路の手数料が・・・・


こういう場合、(笑)と書いて良いのでしょうか?


この5ユーロの本の購入について

アメリカ在住のわたくしは
「通信販売はうまく行けばいいけど後で厄介なことになることがあるから止めた方がいいかも」と言い
オランダにお住まいの人は1ヶ月かかると思っていたら3ヶ月かかった、と言い

結局は5ユーロは戻って来たけれど、5ユーロを取り戻すのにものすごくお金がかかった、でした。
「ドブにお金を捨てる」
まさにそんな表現がぴったりでした。

5ユーロ取り戻すのに銀行に支払った手数料では9000円かかり、何ヶ月も連絡を取り合い

あれは一体何だったのか?



なのでこういう面倒を避けるには  御近所のプロにお願いするのが1番ラクかと。


義良親王は第八宮でしたか。
後醍醐天皇には男女合わせて50人以上のお子さんがいたのは知っていましたが。


また宗良親王の直筆の御歌が神戸の旧家で見つかった話も知っていましたが


アカコッコさんの御宅はバリバリの宗良親王ゆかりの御家でもありますし
何重にも南朝方と結ばれていらっしゃいますから
『皇子たちの南北朝-後醍醐天皇の分身』は是非ともお読みになってください。

そしてお裾分けをお願いいたします。
ぺこり
[10]アカコッコさんからのコメント(2013年01月23日 10時59分13秒 ) パスワード
URL=http://www.aa.alpha-net.ne.jp

『皇子たちの南北朝・・・後醍醐天皇の分身』やっと借りてきました。
何時もの図書館で検索をかけてもらい、同じ区内の図書館に在庫してあり、出向いてきました。【1988・7月中央公論社発行
『北山宮』「河野宮」については何処目を通してもその文字さえも書いてなく、期待していたのでガッカリしました。作者の演出かなとガッカリしてしまいました。
だが、本を読んだだけでは、知り得ないことが述べてあるので、赤松氏の末裔は確かと思われる。がまさか本の宣伝のため、かわからいが、世のなかには奇特な人がおるものだと理解するしかないみたい。

宗良:二の宮には『増鏡』が世良をあて、『太平記』は宗良(法名尊澄)をあてる。

宗良親王略伝(官幣中社井谷宮司後藤周治朗によれば以下・・・・、

御母冷泉為世卿の女、為子と申奉る。親王の母がかうした歌道の家を御生家賭しと給うたという事は成人に於いて豊かななる御詩藻を示し給うに至った素因と言はねばならぬ。武人としての親王はその時代が育んだ結果であろうが。
護良:(もりよし)法名尊雲
南朝を支えた地方の戦力のうち最も影響力を与えたものは、なんと言っても九州である。
途中瀬戸内海の海賊宮那の本拠伊予怱那島に三年滞在したのち懐良一行が九州に到達したのは興国三年五月一日、場所は「薩摩津」であった。8現在の鹿児島県の揖宿郡の山川港と推定されている。この薩摩入りは守護島津貞久と対立していた薩摩国谷山郡司谷山隆信の受け入れによるものであった。この後懐良は肥後国菊池武光のもとへ北進し、正平一○年には貿易都市は博多をおさえ、一四年八月筑後大保原の戦いでの勝利を踏まえ、同一六年菊池武K光を露払いとして筑前大宰府にはいった。で、黄金時代がはじまるが、それは十一年という長期間に及んだ。

[11]空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月23日 15時11分05秒 ) パスワード

アカコッコさん


図書館にあって、ラッキーでございました。


>『北山宮』「河野宮」については何処目を通してもその文字さえも書いてなく、期待していたのでガッカリしました

本当に残念です。

北山宮は後南朝最後の天皇にあたるのに、書かれていなかったのですか。



>宗良親王略伝(官幣中社井谷宮司後藤周治朗によれば以下・・・・、
>御母冷泉為世卿の女、為子と申奉る。
>親王の母がかうした歌道の家を御生家賭しと給うたという事は成人に於いて豊かななる御詩藻を示し給うに至った素因と言はねばならぬ。

そうなんですか。
宗良親王の母君は冷泉家の出身の女性でしたか。

二条家とばかり思っていましたが

   冷泉家と二条家はどっちにしろ現在でも近い親戚ですから

歌の家の血を引いていらっしゃったということなのですねえ。


ひょっとしますと、このスレッドは私達の南朝方の先祖が私達に呼び掛けているのかも。
[12]アカコッコさんからのコメント(2013年01月25日 08時07分35秒 ) パスワード
URL=http://http://www.aa.alpha-net.ne.jp


>二条家とばかり思っていましたが
それで良いのです。
ものの本によっては前大納言為世の子為子(いつこ)とあり、尊良。女三の御璦子・法親王(宗良・尊澄)と多くの子を成しているが。『皇子たちの南北朝・・・後醍醐天皇の分身』より
皇子たち十七人・皇女たち(十五人)で母二十人)とありました
二条家は同じ大覚寺統の系統であるが南朝側の後醍醐天皇とはきっぱり袂をわかち、敵対する北朝の公家社会にどっぷりつかり、北朝社会のなかで不遇をかこちつつ、生存のための努力を傾けていたことが知られるのである。大覚寺統は完全に分離し、南朝を生きる皇胤は後醍醐流だけである。
以上の様な訳で令泉家としているわけです。令泉家は二条家の分家である。

「河野宮の御産所」というHPがありました。http://www.7kamado.net/jiten.html
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月25日 17時38分55秒 ) パスワード

アカコッコさん

冷泉家は二条家の分家になりますか。

  それでしたら冷泉家の姫が二条家の養女という形になって後醍醐天皇に仕えた
  というのもアリですね。

ありがとうございました。


また
http://www.7kamado.net/jiten.html
このURLもありがとうございました。



UCLAに東儀先生とおっしゃる雅楽を教える方がいらっしゃいました。
確か奥様が二条家の御出身だったと思います。
   美しい方でした。
東儀先生がお亡くなりになってから奥様は日本にお帰りになったような?

   東儀先生の奥様はロスの  伊達家の外孫姫や南部藩の家老の姫君達のサロンに属していらっしゃいました。
   
      伊達家の外孫姫は千利休の没後400年祭だったかのお茶会に御出席で
      その時に大変貴重な香木を1片頂いていらっしゃって
      そのサロンで新年会に皆さんで聞いたようです。

        わたくしは仕事だったような。

   ロスには、もう1つグループがあって  
   そちらは徳川家達公のお孫さんを中心としたグループでした。
      彼女のお姉さまは上杉に嫁に行ったと聞きました。
   ジャズ歌手のミッチー・サハラのお母さまもこちらのグループでした。
      確か酒井さんという御苗字だったと思います。
      お母さまは連鶴折りの名手でいらっしゃいました。



   さらにロスでは徳川家の徳川氏がいらっしゃって
   でもアメリカ生まれのアメリカ育ちなので日本語は・・・という感じでした。
      NY育ちとおっしゃってました。
   旅行にはダンベル持参で鍛えていらっしゃいました。荷物の中身はダンベルだけ・・・笑
   180cmを超す立派な体型でいらっしゃいました。


二条と三条がこんがらがっているのですが

確か東儀先生の奥様が二条家の御出身で

三条家の女性の方は
御主人がカリフォルニア州立大学のサンディエゴ校で研究をなさってた教授で
平成8年だったかに御主人とお嬢さんが大変な目に遭わされました。

   御主人はアルツハイマーの研究をなさってたのでロックフェラー家の陰謀の犠牲になったなんて噂でした。
  
[15]アカコッコさんからのコメント(2013年02月25日 07時53分22秒 ) パスワード
URL=http://http://www.aa.alpha-net.ne.jp

下記のようなHPがありました。もう少し暖かくなったらお参りに行ってみようと思っております。
http://www.kamakuraguu.jp/about.html
鎌倉宮は、大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)をお祀(まつ)りする神社です。

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