[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月15日 00時59分36秒 ) | パスワード |
このサイトを開いただけなのに、涙がパア〜っと出て来ました。
やっぱり「平家はオカルトかかっている」でしょうか?
景清の「平家の怨み、忘るるまいぞ」って来たのかな?
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月15日 01時00分31秒 ) | パスワード |
岡山市吉備津の鯉山小学校の傍らに兼康の墓と伝えられる宝篋印塔あり。
近年同校の校庭から1000点をこえる土器とともに出土した頭骨が妹尾兼康の首ではないかと注目されている。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月15日 01時01分35秒 ) | パスワード |
治承元年(1177)6月 鹿ケ谷の密議発覚
京都鹿ケ谷で、平氏打倒を密議した事件。
藤原成親(新大納言成親卿 1138〜79) 備前国に流罪・惨殺
6/18解官。7/2、備中(備前)有木の配流先へ到着。7/9、誅殺 「預かりの武士、難波次郎経遠」
俊寛僧都(鹿ヶ谷の山荘所有者) 薩摩国喜界島に流罪
西光(藤原成親の弟) 斬殺
藤原師高(西光の子) 尾張国井戸田へ配流、殺
藤原師経(西光の子) 備後国配流前に獄で殺。
多田蔵人行綱(源行綱) 鹿ヶ谷の密議を密告したが、安芸国に流罪
藤原成経(丹波少将成経 藤原成親の子) 薩摩国喜界島に流罪
のち、許されて都に帰る途中、藤原成親の弔いを「吉備の中山」で行った。
平家物語では、治承三年二月十日児島に到着し、「孝子成経」として語られている。
平資行(たいらの すけゆき) 美作国に流罪
平康頼(たいらのやすより) 喜界島に流罪
など・・・・
詳しいですね。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月15日 01時03分24秒 ) | パスワード |
安元3年(1177)鹿ケ谷での密議が露顕して大納言藤原成親らが捕えられた時には清盛の命で成親を呵責し、
鬼界ケ島へ流罪となった成親の嫡子丹波少将成経を一時備中瀬尾へ預かっている。
寿永2年(1183)平清盛の孫の平維盛と源氏の木曾義仲が戦ったという源平倶利伽羅合戦で、
平家方として参加していたが敗れて捕虜となり、
何とか、源氏をだまして備前までたどり着いた。
→和気町「倉光三郎成澄之塚」
そこで、倉光三郎を殺害し、
平家のために、備前・備中・備後三国の兵二千余人を集め
福隆寺縄手(ふくりゅうじなわて)、笹の迫(ささのせまり)を城郭に戦って敗れ、
さらに板倉でも敗れて一旦は敗走するが、
肥満のため動けなくなった嫡子宗康を見殺しにできず引き返して討たれた。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2013年01月15日 01時04分43秒 ) | パスワード |
妹尾兼康は、総社市井尻野の湛井堰で取水する十二カ郷用水を整備したと伝えられている。
江戸時代の記録によると、
この用水は寿永元年(1182)妹尾兼康が目論見、
福井二郎左衛門が奉行となって築造したという。
湛井堰の守護神井神社境内に「兼康神社」が祭られている。
[9] | 則岡流島崎氏さんからのコメント(2021年11月09日 20時51分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを 様
ご無沙汰しております。
下記のアドレスのブログ主が妹尾兼康公の末孫との事です。
ご存知かもしれませんが、念のため情報提供致します。
https://ameblo.jp/kakehira
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年11月10日 02時34分24秒 ) | パスワード |
則岡流島崎さま
ありがとうございました。
早速関係各所に拡散に行って参りました。
このブログ主の 妹尾兼康公の末孫さん 画像からしっかり納得です。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年11月11日 03時22分07秒 ) | パスワード |
さっそくレスを頂きました。
一部編集の上 コピペします:
岡山県の出身と書いていますので、間違いなく一族の方でしょう。
近江の野州での用水開発は普通の検索では、兼康の関係としては出て来ませんね。
平家筋は置いておいて、
鳥羽上皇の筋と言っておこう
などと言っていますから、
平家の血筋を言っているのは讃岐と備中の守護職をしていた細川氏の麾下に在って動いていた一族ですね。
かたくなに平家筋を信じていますね。
それと兼康の没年の年令のみかたが50台ですからね。
平家物語でも60と有余年ですから65才に近いはずなんですけどね。
それも清盛と同い年か母違いの兄弟・・・白河院の・・・と思われますからね。
もう一筋は橘氏の子孫を信じている筋もいます。
兼康の「兼」の字からだと思いますが、
藤原氏の子孫であると信じて居る筋もいますね。
何れも作っちゃった系図の信奉者の系列・・・。
根っこは同じ一族のはずなんですけど?。
妹尾兼康公
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B9%E5%B0%BE%E5%85%BC%E5%BA%B7
出生については謎が多く、保延2年(1136年)3月18日に鳥羽上皇とその官女であった妹尾保子との間に京都八条の平忠盛邸にて生まれたという説や、大治元年(1126年)3月18日に生まれたという説などがある。
早くから平氏に仕え、『保元物語』『平治物語』『平家物語』などに平家方の侍としてその名が記されている。
治承4年(1180年)には南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため多くの死傷者を出した。このことが後に平重衡らによる南都焼討へとつながっている。その後寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れてその捕虜となる。
しかし、備前国で逃亡を図り、監視役の倉光次郎成氏を殺害し、2000人もの兵を集めて福隆寺縄手・笹の迫に立てこもって義仲に反旗を翻す。成氏の兄・倉光三郎成澄を討ち取るなど奮戦したが、そこでも敗れて敗走。その後、肥満の為自分で身体を動かす事ができない嫡子・妹尾宗康を助けるために引き返すが、備中国板倉宿付近(現・岡山県岡山市北区)で討たれた。源義仲をして、「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたという(福隆寺縄手の戦い)。
[12] | 瀬尾さんからのコメント(2022年07月14日 06時45分39秒 ) | パスワード |
母方の名字が瀬尾です。
数年前、祖父の弟が亡くなり葬式で瀬尾家の本家の方とお会いしました。
平清盛の子分の末裔 と仰っており、岡山にお墓がある との事でした。
家系図のコピーも貰いました。
がどこかにいってしまったかも、、
祖父は私が産まれる前に無くなりましたが、母いわく うちの先祖様は海賊だったけ〜 と祖父はよく言っていたそうです。
母は冗談だと思っていたそうですが、家系図などを見てびっくりしていました。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2022年07月14日 09時27分14秒 ) | パスワード |
瀬尾さん
たぶん その家系図は誰かが借りて バックレた ということでしょうね。
おそらく大叔父さまの家族の人が持っていらっしゃるのでは?
系図など大事な物は一子相伝とか門外不出とか とにかく隠す ということで守って来たので
本家の方は御立派な人格のかただった、と思います。
さすが岡山の名家のホンヤさんは格が違いますね。
瀬尾氏の将来を見据えて 一族に繋がる人に 開示なさったのでしょうね。
瀬尾家は岡山の名家中の名家ですから
古くは それこそ 吉備真備の一族に繋がると思いますよ。吉備真備の兄上の系統 かな?
そして白河天皇の子孫になるのかな?
平家の一門として負けてしまったから 南北朝の時には 瀬尾氏の本家 としては参戦出来なかったのかな
とか思います。
>うちの先祖様は海賊だったけ〜 と祖父はよく言っていたそうです。
海運に関係してたのかもですね。
これは 岡山の土地自体が昔は島が多かったことと関係するのかな?四国との交易とか?
それか 平家に富を齎した日宋貿易の事かな?とか想像します。
お母さまがお元気で大叔父様の関係者と連絡が取れるうちに系図についてお尋ねになっては?
血縁関係が遠くなればなるほど見せてはもらえなくなってしまいます。
もし見せて頂けたらコピーして大切に保管なさって家宝になさってください。
それを元に 国会図書館や岡山の県立図書館に出掛けて調査したり
関係各所の歴史編纂所から史料を取り寄せたりできますから
あなたの子孫の方にとっても大切な史料となりますよ。
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