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 投稿番号:101300 投稿日:2012年12月05日 22時04分59秒  パスワード
 お名前:笠井知己
三枝家、笠井家などについて2

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

 管理者さんから、「重くなりましので、新たにスレッドを立ててください」と言われましたので、ここに新たに立てさせていたきます。
 なお、最近は、笠井家関連の投稿が多いですが、三枝家(三枝姓)の方もよろしくお願いします。
 また、笠井家関連では、葛西→笠井のつながりのキーとなる「笠井義邦」の関連情報の提供を是非お願いします。

[1]管理者 Aさんからのコメント(2012年12月06日 00時09分18秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101275_107.html
の続きです。
[2]笹井さんからのコメント(2012年12月08日 23時16分14秒 ) パスワード

こんばんわ
笠井義邦のこと 他の笠井様からのコメントが寄せられると良いですね。他姓のことは核心がつかめないので。

三枝氏
一般に、三枝氏は甲斐の国が本拠地(本貫)と言われたりしますが、わが三枝家は、むしろ、丹波の方の三枝氏の流れでは?と考えたりもします。地理的にも少しは近いからです。
[3]笹井さんからのコメント(2012年12月08日 23時48分29秒 ) パスワード

三枝氏もなんのなにがしの子孫とは知りませんが、
丹波の三枝氏が甲斐に移住
三枝とは (サエグサとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
dic.nicovideo.jp/a/三枝
2011年10月8日 – 甲斐国の古代豪族、三枝氏がよく知られる。カバネは直。宿禰を賜った者もいる。丹波国から甲斐国に移住してきたといい、三枝の名は仁明天皇の時、丹波国安大寺に枯れた三股の榎木があり、そこに初代の三枝守国がいたからと伝わる。
榎木のことは他の説もあり。

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 三枝部氏ではさらに先祖を遡って天津彦根命(凡河内氏と同祖)の裔孫とある。



[4]笹井さんからのコメント(2012年12月08日 23時53分39秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/azalea-house/moritomo.htm では
信虎は三枝氏の旧族・石原丹波守守綱に三枝の名跡を継がせ・・・と石原が出てくる。

三枝氏には河原氏も出てくる。
一 河原党三枝氏 武蔵志に「河原氏古文書に云。治承四年三月、惣侍列位・三枝弥市太、是は河原太郎家の武家法令也」と見ゆ。
河原
四 清和源氏河原党 南河原村今村文書に「姓河原、其先源氏、今は今村を以て姓と為す」とあり。次項参照、武蔵志・埼玉郡北河原村条 に「河原太郎高直は新羅三郎義光四代、一谷にて戦死の人なり、弟二郎盛直同日同所戦死。河原氏古文書に云。治承四年三月、河原一家歴々・河原源五常直・稲 村八郎正直・中村四郎正広・和泉田藤太正信・間宮仲太盛久・毛利三郎友直。着座面々・布施田新平次・今藤正五郎・鈴木二平治・新井弥平太・高沢七郎太・川 瀬四郎三郎・大井五郎治・川島三郎太郎・加藤仲治五郎・小沼八郎次・藤田弥平太・長井弥太郎。惣侍列位・名越十五郎・大河内三郎太・吉田仲五郎・布施田新 平太・高野小平太・沢田十郎太・酒井源次三郎・鈴木二平太・川島又五郎・中条八郎次・同一十郎・加藤新八郎・川島五郎太・薬師寺四平太・平井三郎次・今藤 九八郎・松本七平次・同六郎太・小和泉金平太・平野大三郎・田中小惣太・太田小五郎・森武平次・金沢藤次太・馬場門太三郎・橋本八五郎・岸軍次三郎・篠塚 弥太三郎・竹井仲次太・園田太四郎・正田小軍治・三枝弥市太・津田定五郎・同藤八郎・小笠吉郎太・同文治三郎・新村吉五郎。是は河原太郎家の武家法令也」 と見ゆ。河原党の人々は本名にて埼玉郡に存す。

と清和源氏新羅三郎義光流

[5]笹井さんからのコメント(2012年12月08日 23時55分33秒 ) パスワード

二 大里郡石原村(熊谷市) 真宗寺万延二年寄付に絹太織商三枝文次郎。明治九年副戸長三枝助治郎・天保八年生、副戸長三枝文治郎・文政十年生、副戸長三枝儀兵衛・弘化二年生。明治十二年議員三枝保次郎あり。現存無し。石原条参照。
石原氏
一 三枝氏族の石原氏 武蔵国石原村に三枝(さえぐさ)氏存し、同村の秋山氏、桜沢氏、保科氏、若松氏、その他、多くの武田家臣団が居住してい る。彼等は出稼衆として集団で甲斐国へ行き、出身地の石原氏を名乗り、甲斐国に多く存する三枝(さいぐさ)氏族石原氏に仮冒し、帰郷後に三枝氏を称す。甲 斐国三枝一族は其の居住地に氏神・橋立明神を祀るを常としているが、武蔵国石原村には此の社は無い。また、石原氏も現存無し。よって、甲斐国三枝氏族石原氏の移住説は誤りである。

[6]笹井さんからのコメント(2012年12月09日 00時09分31秒 ) パスワード

氏神はご先祖様である。
橋立明神
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/hasidatejj.html
『宮津府志』に、
橋立大明神   在二同郡天橋立一

     大河太明神
 祭神  豊受皇太神
     八大龍王
『大日本地名辞書』は、
【与謝宮址】今の切戸文珠堂の境域なるべしと云ふ、近世まで其祠を遺ししを、橋立に移し、改めて橋立明神といふとぞ。〔宮津府志神祇志料〕

天津日子根命は皇太子・天忍穂耳尊の兄弟でアマテラスの子孫
その子孫に田中がいる。

原初のころの関係は小さくまとまり、
八剣神社のことで、田中と佐田は同じだった。

八大龍王は鹿島神宮にもおり、籠神社も龍王がいた。
[7]笹井さんからのコメント(2012年12月09日 00時38分22秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/hasidatejj.html のブログでは大川大明神の正体がわからないとしているが、

大川神社
http://www.geocities.jp/engisiki/tanba/bun/tab380605-01.html

【延喜式神名帳】佐陀神社 丹波国 何鹿郡鎮座

   【現社名】大川神社
   【住所】京都府綾部市栗町上村
       北緯35度18分52秒、東経135度13分45秒
   【祭神】大山祗尊
 【由緒】天長2(825)佐陀神社に大川神社を勧請
       天明2年(1782)製作の幟に「佐陀神社大河大明神」
       明治6年式内佐陀神社と指定
【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「佐陀大川明神」と称していた


舞鶴大川
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ookawa.html
大川の主な歴史記録
《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
岡田庄大川村
天一位大川大明神
    神主 高田出雲
    神子 荒木式部
大川神社
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/shrine/ookawa/ookawa.htm
大川神社は、王朝時代から「笠(うけ)の国」(食料の国)として知られた丹後の国、若狭湾にそそぐ由良川の河口近くに鎮座しています。延喜式にも記されている丹後きっての著名な古社です。
大川明神は、五穀豊穣、養蚕守護の神ですが、明神のお使いは狼といわれ、狼を遣わす神様としても有名です。

佐陀・・・佐田彦は佐田大神で、籠神社の秘神とされる。又国常立神。
文殊菩薩は阿部に関与しており、阿部高田の言葉がある。阿部から大彦命など。
荒木は伊勢神宮荒木田家は荒木でもあると前に見たことがある。
丹後若狭神社は祭神・山幸、豊玉姫 つまり 母系で大山祗尊になる。
父系は皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊・イザナギ、イザナミの子が大山祗尊。









[8]笹井さんからのコメント(2012年12月09日 01時07分39秒 ) パスワード

笠 山幸 などから 高岡・白石

甲斐の三枝氏は家紋・三階松ででるので、桐紋の三枝氏はどこにつながるのでしょうね。

桐紋の三枝氏で検索をかけると
http://www.horado.com/kouka/jinjya.html
高賀神社の始まり(高賀宮記録より)
祭神
• 国常立尊(クニコトタチノミコト)
• 天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)をはじめ、そうそうたる神様を祭る。
高賀神社所蔵の大般若経
構成:
【第一期】
第451.454.459.460の4帖の首題の下に「願主 當社氏人前介 三枝守廉芳・保延五(1139)年と記されています。
{三枝氏について・・・山梨県勝沼郡勝沼の大善寺の創建者、平安時代、甲斐の国の在庁官人}

社紋
高賀神社本殿の扉には、三種類の紋章が掘り込まれています。本殿の一番中央に「五七の桐」の紋、その両脇に「十六菊」の紋、そして一番外側に「剣花菱」の紋が刻まれています。
菊の紋は、天皇家の紋として使われており、高賀神社創建が霊亀年間、元明天皇の命であるとのことから、菊の紋章があることは説明できます。


桐の紋は、古くから菊の紋と並んで名誉ある紋章として尊重され、菊の紋章の副紋として扱われてきたもので、菊の紋と併用して社紋としています。
花菱の紋は、大陸伝来の文様であり、正倉院の宝物の織物にこの文様が使われていて、これを初めて家紋としたのは、清和源氏義光の流れ、甲斐の武田氏です。

と 古代にまで遡る三枝氏なので、その先の神様も出て来られ、桐紋(五七の桐だけど)も出てきます。

[9]笠井さんからのコメント(2013年08月01日 19時24分59秒 ) パスワード

 笠井氏関係の興味深いサイトを発見しましたのでご紹介します。
なお、私事ですが、当家の先祖が、このスレッドの「1」に掲載されています高松藩士の笠井喜左衛門の流れをくんでいるのかどうかの確認はできておりません。どなたか情報がございましたらご提供願います。江戸時代末期に既に現在の高松市香川町大野というところに在住しておりました。また家紋は五瓜に三階菱です。あてにならないと思いますが・・・。

http://www1.ocn.ne.jp/~syk/1401.html

http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/yuisyo/kakukou/ka05.htm
[10]笹井さんからのコメント(2013年08月02日 21時42分42秒 ) パスワード

http://www.hasegawa.in/story/yuraiki/syuokyu2.htm
これに関連して興味深い事実として昭和43年阿波郡土成町の旧家★秋月城主の子孫森本義男氏★が入田の近藤忠男氏に案内され秀夫氏を訪問したことである。
 その後自分も土成に森本氏を訪づれ調査したが、それによると★葛西清重の曽孫に政平★という人があり南北朝時代一の宮城に阿波の守護であった小笠原氏(長京ならん)を頼ってその客臣となりーの宮に滞在していたが政平は新田義宗を慕って伊予を経て阿波入りし小笠原氏を頼り客分として滞在中そのすゝめにより★★★笠井姓★★★に更め、開谷城に義貞の甥★脇屋義春★を訪ね細川氏に対抗したが敗れ、のち曲折を経て子孫帰農して土成に笠井姓の家数家あり本家は東京に番転しているが森本氏の妻が笠井氏の出身なりという以上断片的ではあるが当時の情勢を分析判断することによってある程度堆察出来る。
史実によると伊予の南朝方は気焔をあげ、建武4年懐良親王は新田義宗を伴い伊予に到着し一世紀近く続いた南北朝動乱は永く尾をひき一波は万波を呼び平地で破れた阿波南朝方は一の宮より焼山寺に至る山嶽に本拠を置き散発的な小勢力として残存し、阿波山嶽党の勤王といわれるのもそうした理由であろう。葛西家臣小野氏の阿波入りも阿部野原合戦に出陣し敗れて阿波小笠原氏を頼って入国したものと思う。

 故書によると陸中の小野寺氏、磐井郡一の関城に拠る封内記に一の関古畳葛西家臣小野寺伊賀守の拠る処なりと、歴代葛西家臣にして南北朝時代正平7年3月11日同家文書に阿波朽田庄地頭職に補せられ出雲守時有これを奉じ小野寺八郎これを受け日時と理由不明であるが、遠く奥羽の蒙族が阿波入したのも前記によるものと思う。
 この南朝方と足利氏の天下分け目の合戦は阿部野ケ原の合戦(1338)であるが、地方における両派の争いはその後約一世紀続いている。肥後の土豪菊池氏の如き鎌倉末期から足利時代にかけて九州を三分する三大守護職、肥前など三ケ国の大守少弐氏、筑後、肥後、豊後三ケ国の大友氏、更に大隅、薩摩、日向三ケ国の守護島津氏など全九州の兵力と戦い一勝一敗その智勇は南朝の精華として誇り高く、一方東北に於ては敗れたりと雖も葛西清貞戦死せる顕家の弟顕信を迎へこれを盟主と仰き南部伊達田村との連合軍は、興国元年(1345)三迫に於て奥羽探顕、吉良貞家、石塔義房らと勢力を争いこれを破り活気を呈している。

文中※秋月氏は大蔵氏の子孫で、大蔵から木原・山口が出る。
  ※脇屋は児島高徳に関して、新田氏・脇屋義助・・・
  ※脇屋義治 - Wikipedia
    脇屋 義治(わきや よしはる)は、南北朝時代の武将。脇屋義助の子。    新田義貞の甥。

こんばんは
お久しぶりです。他のスレッドに投稿していたら、久しぶりに笠井さんのコメントを拝見しました。
それで、そうそう 漠然としているけど武田・小笠原など出ていたのだった。と思って、
これも 多分 水戸からこられている笠井氏と昔枝分かれした先なのかも知れないと思いながら、
葛西から笠井へ苗字をかえたいきさつが書いてあるので載せてみました。
南朝 徳川家康につながる系に かすっている。

家康も 菅原朝臣 藤原朝臣 平氏 豊臣朝臣と つぎつぎと 変え、近衛に教えてもらって源氏を名乗ったのだという。

家康は平氏(だと前に読んだ読んでみました)で 母系で 賀茂氏にいきつく。
[11]笹井さんからのコメント(2013年08月02日 22時07分45秒 ) パスワード

伊賀餅と伊賀忍者の関係3
[54]
(南朝の忠臣)皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係
義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.

家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室 
(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…松平清康━広忠ー徳川家康

地域の本棚 - 香川県立図書館
問 吉野朝時代の忠臣脇屋義治の墓について (香)
答 大人名辞典によると「脇屋義助は伊予で死に、その子義治 (1323〜) は足利尊氏と戦い破れ、終わるところを知らず」と記されているが、丹生村今昔物語には大川郡大内町「丹生の西端に一つの小山あり、その森の中に淨淋居士脇 屋君の墓と銘せる古代色つける塔あり、これぞ脇屋義治の墓である」とあり、「その子義長家を継ぎ子孫繁栄す」とある。
  
また、古今讃岐名勝図絵と大川郡誌には次の脇屋家伝 (漢文) を記している。
義治ー義長(掃部)ー義信(民部)ー徳光弥助兵衛ー★★★義則(善助)★★★世良田をつぐのはこの人か?
○ 丹生村今昔物語 P7〜P8 古今讃岐名勝図絵 P42
  大川郡誌 P271   日本伝説 讃岐の巻 P197〜P198

http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-500.html
児島高徳と脇屋義助
新田義貞の傘下で戦い、義貞死後は弟の脇屋儀助にしたがって四国征伐に赴き、義助の死後はその子・義治を擁し京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年 (1372年・南朝年号)摂津の天王寺に行宮せられた後村上天皇に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命を受けて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協 力で兵一万騎を京都に向わせるなど、新田氏との深い関係を保ちました。児島高徳はその後も義助の子・義治を助けて北朝側と戦ったが利あらず、建徳二年 (1371)に新田荘に近い佐貫荘古海(大泉町)の古海太郎広房を頼って定住した。その後は剃髪して備後三郎入道★志純義晴★と名乗り、弘和二年 (1382)に医王山延命院高徳寺(群馬県大泉町古海2209・地図)に隠棲し72歳で没したと伝わる。

高徳寺の200mほど南の利根川近くに墓が残されているが全国に多くの諸説もあり、定かではない。

建徳二年(1371)、上野国新田荘に御滞在中の宗良親王の許へ使いしたのを契機としてこの地古海に隠棲し軍中守護神だった摩担利尊像を安置し宗良親王に仕えたり南朝の再建にも苦慮した。永徳二年(1382年・南朝年
号)11月24日享年72歳でこの寺で永眠されました。



[75]
もみじさん からのコメント(2013年06月23日 21時35分26秒 )
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村上師清は脇屋義治とその一族に大島内の稲井城を与えた。義治は安住の地を与えられたことを喜んで姓を稲井に改めた。
 
しかし、師清もすでに幕府の軍門に降り再起の力はなく、義宗、義治の温泉郡湯の山日浦に蟄居させて、土居・得能氏に保護を依頼した。
やがて、義宗・義治は宇和郡に送られたが、義宗の三男と娘、義治の次男の3人を村上師清は引取り、自分の子として末長く養育することを約束した。

その後、まもなく師清は亡くなり、村上氏宗家を継承した長男義顕は、父の遺言をよく守り、3人の幼児を舎弟として養育し、成長すると新田義宗三男を村上義久、脇屋義治次男を村上義俊と名乗らせた。
そして、村上義久には自分の妹を嫁がせ、村上義俊には自分の姪を嫁がせた。新田義宗の娘・好姫は義顕の三男左馬太夫の嫁とした。

[76]
もみじさん からのコメント(2013年06月23日 22時05分49秒 )
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75は
謎その43 脇屋義助の子孫はどうなったのか? - しまなみ人より

『浪合記』は(天野信景の著書とされる)
清水昇『消された一族』によれば、政親の娘の子・脇屋義則(新田義宗を父とする)が世良田の名跡を継いだという。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E9%A1%95 ウィキ新田義顕
義和(義一)?、天野顕政


『筑後佐田新田系図』によると、義顕は義和(義一、よしかず)という子がおり、子孫を残したと記されているが、真偽の程は不詳。また、安芸国の天野氏に養子に入り、後に「天野顕政」と名乗った子が居たとされる[要出典]。

足利氏の一流に細川氏があり、
肥後細川氏の姻戚関係に豊前宇都宮流佐田氏がある。
これもまた 新田=佐田 という ひとつの 図式のあらわれではないだろうか? 細川氏は 近衛でもある。



[13]笹井さんからのコメント(2013年08月07日 21時23分51秒 ) パスワード

10阿波の守護であった小笠原氏(長京ならん)
この小笠原氏が通当の系につながるかどうか?ですが、
秀真伝えに関する家に愛媛県宇和島の小笠原家があります。

簡単に紹介すると
http://page.freett.com/aspc/p4-001.htm#%E3%80%8E%E7%A7%80%E7%9C%9F%E4%BC%9D%E3%80%8F%EF%BC%88%E3%81%BB%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%9F%E3%81%88%EF%BC%89
『秀真伝』(ほつまつたえ)
編者は三輪季聡(みわすえさと)。大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、景行朝に宮中に献じたものである。
なお、季聡は記紀で崇神朝に三輪山の神を祀ったとされる神官オオタネコと同一人物という。
本書は大三輪氏の流れをくむ井保家に伝えられていたが、安永八年(1779)、
井保勇之進(和仁估容聡)によって近江国高嶋産所村の三尾神社に奉納された。
その写本が天保年間ごろ京都の天道宮宮司・小笠原通当(みちまさ)によって書写され、
以来、小笠原家に代々伝えられてきたものである。
※完本の元本は、天保14年、小笠原通当が近江三尾神社の神宝を転写した「神代巻秀真政伝紀」12巻だったと云う。同年、フトマ二全巻を発見している。これを「小笠原長武本」と云う。

昭和四十一年、松本善之助氏は古書店の片隅で本書の一部を発見し、努力の末、
小笠原家の所在を確認し、その全貌を公開した。
[14]笹井さんからのコメント(2013年08月07日 21時50分17秒 ) パスワード

磯輪上秀真国とはイザナギがわが国を表現したものだが、
イザナギの系を引く垂仁天皇につき、
山口県佐波郡に昔垂仁天皇の皇子が住んでおり、その飛び地が大阪茨木にあった。牟礼神社。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101200.html 58.59
大中津日子命は山辺之別、★三枝★之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖である。

秀真伝えを小笠原通当没後 長弘が 郷里 愛媛県宇和島に伝えた。

小笠原長弘は通当の 甥 で、京都に出た後、安徳天皇をおまつりしている下関・阿弥陀町の「赤間神宮」宮司。(小笠原の末苗は「白石」)
長弘が「秀真伝え」を秘蔵していた人についての聞き書きを、大久保芳治というひとから聞いて書いている。明治23年のこと。

※幕末豪商・白石正一郎は志士たちに資金援助した。彼の財力がなかったら維新は到底ならなかったろう と いわれる。維新後他の人達がつぎつぎと政界入りする中一人赤間神宮に入った。
※明治維新後は、赤間神宮の2代宮司となった。明治13年(1880年)、69歳で死去。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。
20歳離れた末弟の伝七は大庭家の養子となる。伝七はやはり尊皇攘夷運動に身を投じ、高杉晋作は伝七に遺書の手紙を送っている。伝七の三男がロシア通のジャーナリスト大庭柯公で、柯公は正一郎の甥に当たる。当時、安岡の横野に親戚がいた。

義邦はわからないけど
新田や小笠原に近くいた葛西(笠井)
若狭彦大明神(白石・山幸)・・・山幸はイザナギの系
イザナギの系の三枝

維新に動く人達

書に書かれなくても昔からの縁を忘れず養子に入ったり(血縁者がはいるはず) 嫁がきたりして 繋がってきたのでしょうね。
[27]美波町笠井さんからのコメント(2013年10月20日 17時51分23秒 ) パスワード

笠井の先祖を調べております。
徳島県美波町には笠井が1件しかないようで県内では吉野川流域に多いと聞きました。
戸籍で6代前の名前まで分かりましたがそれ以上は調べあぐねております。墓には5代前からしか記載してないので5代前からどこからか移って来たのではないかと推測してますが何の手がかりもない状態です。何かアドバイスや手がかりとなる情報を頂けないでしょうか?先祖を調べる目的はもともと歴史が好きであり父祖父が亡くなったのをきっかけで戸籍を調べそれ以上も調べられる所まで調べたいと思いました。
[28]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月20日 22時33分21秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>笠井の先祖を調べております。
 
笠井は466位で、人口は全国に約44,300人も居る天下の大姓。
この程度の手がかりでは、五里霧中でしょう。
断定は困難だが徳島県の笠井氏は、
桓武平氏鎌倉氏族(丸に剣酢漿草)、桓武平氏族千葉氏族(丸に三つ柏)の2系統が多いが、他にも多くの出自があり、多くの家紋が使用されているでしょう。
 
基礎知識として、下記URLを御一読下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm
 
最初に図書館で太田亮著「姓氏家系大辞典」を閲覧して大まかな見当を付けることが第一歩。
詳細は県内の大きな図書館で郷土史を徹底的に調査するしか方策なし。
そうすれば、おぼろげな流れはつかめるでしょう。
家系が明確に解るのは、1%程度の狭き道と考えて下さい。
[29]笠井さんからのコメント(2013年10月20日 22時58分09秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん 貴重なご指南ありがとうございます。自分の努力が全く足りないと反省しております。
[30]美波町笠井さんからのコメント(2013年10月23日 21時22分31秒 ) パスワード

家紋は丸に三つ柏でした
ありがとうございました
[33]三重の笠井さんからのコメント(2017年01月24日 00時00分02秒 ) パスワード

私は三重県津市伊勢街道沿いの笠井です。実は、伊勢街道のある津市の河芸町と言う町にも笠井がたくさんいます。残念ながら当家は幕末の5代前までしか遡れない状況ですが、町のお寺で聞いてみた所、武田家臣と繋がっていると言う事でした。おそらく、笠井光秀だと推測していますが、定かではありません。東京都立図書館で調べてみた所、笠井光秀-慶秀-親秀-兵三郎-兵九郎-憲高と掲載されておりました。ただ、別の書物では、笠井慶秀以降のどこかで池田に改姓したとの記録もありました。井伊家に仕えた笠井利左衛門が慶秀の子孫だとの情報もあります。
三重県津市に散在する笠井はおそらくではありますが、井伊氏に使えた彦根藩士の流れではないかと思います。笠井一族と言う古書が存在するそうなので、そこからもう少し調べられないかと考えています。
[37]笠井知己さんからのコメント(2018年04月29日 18時57分20秒 ) パスワード

久しぶりに投稿します。高松藩士録、国会図書館墓地調査、身内からの聞きとりなどによりの父方の先祖の一人が、笠井伝兵衛であることが判明しました。藩士録に記載の内容や墓の情報を合わせると、元々は、笠井伝右衛門が讃岐における紫蘇的存在だと確信します。つまり、下館から来たのでしょう。個人で調べるのは限界があらます。なんとかここまで漕ぎ着きました。
[38]通りすがりさんからのコメント(2018年05月25日 18時31分00秒 ) パスワード

私は岐阜市の笠井です。岐阜市の北部に数十件の笠井家が集まっている地域があり、その地域特有の祭りもあるそうです。それなりに歴史があるのでは?と思いますが、噂によると平家の流れで桓武平家までたどれるとか… 五瓜に下り藤の家紋なので武田家臣からの流れで山梨〜浜松経由?と想像してます。

全国的な分布では、山梨県(武田領)以外で人口が多いのが徳島県〜香川県で、特に阿波、高松あたりに集中しているようなので、この地方での笠井さんの歴史を調べたいるところです。そういえば正月には近くの金比羅様へ参拝するので、こちらの地域とのつながりもあるのかもしれません。ネットサーフィンの情報では、忌部氏の流れで笠井氏が関連しているようなので、関連を調べられないかと考えてます。
[39]白石さんからのコメント(2018年06月20日 16時00分02秒 ) パスワード

こんにちわ
横から 突然すみません

笠井義邦のこと お分かりになったのでしょうか?
ネットをみていましたら

北部王家と蠣崎蔵人の乱 ( 歴史 ) - 奥羽*温故知新 - …
https://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/19973175.html より

後村上天皇の系
尹義には三歳になる嫡男「太郎丸」(のちの義邦)が居りましたが・・・


順法寺義邦である

というのがありました

[40]笠井の子孫さんからのコメント(2019年02月13日 17時07分34秒 ) パスワード

こんにちわ。

笠井で検索していましたらこのページに行きつきました。
笠井の系譜について、以前詳細について調べました。

笠井の始まりは、奥州葛西氏の確か六男の家に、笠井義邦が養子に入った時から始まります。葛西氏は平氏ですが、後醍醐源氏から義邦が養子に入った際、源氏姓の笠井になりました。義邦は後醍醐天皇の子孫です。義邦親子は北部王家を追われて、南部氏の計らいで護良親王をかくまった奥州葛西氏を頼ったと思われます。

当初、葛西氏は南朝派だったのですが、北朝が強いことから次第に南朝を裏切るようになります。その流れの中で、南朝出身の笠井氏は、南朝派が強い遠江、南信に移り住みます。

遠江に移り住んだ笠井氏は、居城を浜松に置くことになります。現在の浜松市東区笠井です。そして戦国時代を迎えると源氏の武田に付きます。地図を見ると、浜松市東区は、徳川の浜松、井伊の井伊谷と隣り合わせです。設楽が原の合戦で笠井満秀が討ち死にした後、二人の子供は大谷刑部に助けられ、その後井伊長政に見いだされて、徳川に仕えることになります。満秀が忠義の士だったことが良かったのでしょう。ちなみに満秀は甲州南部氏の長男で従五位くらいだろうと思います。笠井の家格が高かった証ですね。

徳川家康は名の通った旧家を再興してくれています。武田も関ヶ原の合戦の後、水戸に再興してくれたのですが、その際満秀の二人の子は、幕臣として水戸に入ることになります。その後武田信吉は16歳で亡くなると、水戸徳川家になるのですが、笠井二家は優秀だったようで、その後も水戸徳川の家臣になります。特に弟の家系は、紀州徳川を作る際に、和歌山に入っています。また、高松に松平が入った時に、笠井から供に入っています。

まだまだ色々な話題もありますが、こんな流れです。
[41]笠井の子孫さんからのコメント(2019年02月18日 14時13分56秒 ) パスワード

PS
義邦の出自の確証はありませんが、源氏の出身、平氏葛西氏(奥州鎮守府将軍)よりも高い家格であることから、多分北部王家から逃避だと思います。笠井義邦以前は、群書類従姓氏編に詳細に出ています。義邦以降は源氏ですから、甲州の武田氏家臣団録に系図があります。1600年以降は水戸水府系纂(水戸家家臣系図)で確認できます。武田家臣の笠井慶秀と弟が幕臣になった事は、山梨県姓氏事典に幕臣になった事だけが書かれています。当時、幕臣の笠井氏は水戸に入った笠井慶秀と弟のみだと思います。
[43]笠井知己さんからのコメント(2019年08月18日 10時52分22秒 ) パスワード


「笠井の子孫」様 お尋ねさせて下さい。「40」の「高松に松平が入った時に、笠井から供に入っています。」という個所について、詳しいことがお分かりでしたらご教示いただきたいのですが。
 具体的には、次の「高松藩士由緒録」に掲載の笠井権之助、笠井次郎右衛門、又は笠井伝右衛門と関係があるかどうかを知りたいのですが。
 お分かりなれば、ご教示をお願いします。ちなみに、わが家系は、「高松藩藩士録」より、笠井伝右衛門ということがほぼ判明しています。下館から高松に来たのは間違いないようです。

<ご参考>「高松藩士由緒録」より
「笠井権之助
先祖喜左衛門,水戸より御附,下舘において百石,高松御入部二百石となり後二百五十石横目となる。
その子喜左衛門・養子後藤彦左衛門次男,家督百五十石受ける。
その子喜左衛門,切支丹奉行となる。
その子,五十俵役料物頭となる。
その子,馬廻番組となる。

笠井次郎右衛門
 笠井伝右衛門,下舘より後百五十石うける。孫伝右衛門は御暇となり家断絶する。
先祖次郎右衛門・伝右衛門同姓,寛永19年(1642)召しだされ側小性となる。のちに二百五十石寺社奉行となる。
その子次郎右衛門,奉行となる。
 その子次郎右衛門,寄合番頭となる。
その子次郎右衛門,側小性後,用人となる」
[46]笠井知己さんからのコメント(2020年03月22日 16時47分28秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑 が見当たりません。ご存じの方、ご教示お願い致します。
[47]相良四郎さんからのコメント(2023年11月08日 18時50分27秒 ) パスワード


度々見させて頂いております。
当方武田氏の関連と聞いています。
あとウェイバックマシンで七千傑さんのHPは出ると思いました。

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