[1] | 高岡さんからのコメント(2012年08月27日 02時43分38秒 ) | パスワード |
平安時代 熊本県球磨郡に八条女院領があって、「平河氏」の名があります。
郡誌には、良峯師高に関して「平河」があり、私の故郷は「良峯師高領」だったとなっています。後、相良氏領。
又 私の家があった川向に「平家城跡」があり、「熊本大学」にこの絵図があり、昔城があったことがわかる。勿論小さな地域なので規模は小さいのだが・・
・父の従弟が入り婿した 平川のおばが生前語っていたこと
川向こうの尾方という家から自分の母かおばあさん(私の記憶があいまい。戸籍を屋根裏に入れているので、それを見るとわかるけど)が嫁入ってきた。尾方は平氏だ といっていた。
・平川の墓の紋
「桐紋」
・人吉地方の人は私の故郷の辺りを「平家んしいのおらいた所」といいます。
[2] | 高岡さんからのコメント(2012年08月27日 02時44分49秒 ) | パスワード |
ネット 中世の球磨1より
球磨郡には「球磨臼間野荘」があり、平家没官領・平頼盛領 久我文書・吾妻鏡などの言葉が見えます。
[3] | 高岡さんからのコメント(2012年08月27日 02時46分00秒 ) | パスワード |
偶然 頼盛の系を見ていて、「平川景家」の名を見つけました。
※ネット 頼盛流より
※日本の苗字7000傑 桓武平氏頼盛流より
[4] | 高岡さんからのコメント(2012年08月27日 02時48分35秒 ) | パスワード |
平頼盛の母は「宗子」で、この人は 藤原道隆子孫。
ウィキでは
池禅尼(宗子)は藤原隆家の後裔としている。
藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。
・九州に菊池氏がおり、藤原隆家の孫ともいう・藤原 則隆(菊池 則隆)が祖である。
・菊池氏は相良氏の家老になった。
以上のことから 私は今まで私の父に関わってくる「平川」は良峯氏の子孫と思っていたけど、頼盛の子孫かも知れない。と思うようになりました。
[5] | 高岡さんからのコメント(2012年08月27日 02時50分01秒 ) | パスワード |
質問ですが
@平川景家の子孫はおられるのでしょうか?
A桐紋は源頼朝の紋でもあると聞いたことがありますが本当でしょうか?
B八木氏も関与しているようですが、大田亮氏の辞典では確か「振魂命」の子孫に八木氏がついていたように記憶しています。
C尾張熱田神宮の遠祖はもと天照国照彦天火明櫛玉饒速日命だったのを、「振魂命」にかえられたと本でみたことがあります。
D神宮の女子・宮司武内氏と藤原南家の男子との間の女子と源義朝との間の子が「源頼朝」で、頼盛は宗子の功により頼朝から厚遇された。
Eこういう間柄から桐紋が平川に移ったのか?と思います。
F平川景家についてご存知の方がおられましたらお教えください。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 03時47分48秒 ) | パスワード |
全く分かりませんが
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/heishi_kanmu/heishi_kanmu5.html
平忠盛
↓
平頼盛
↓
平光盛
この子供の代に
平川景家
八木盛定
の名がありますね。
ただしこの系図には山木兼隆が「山本兼隆」って書かれているようで
ちょっと・・・
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 05時45分00秒 ) | パスワード |
質問:答えになっていませんが
まず、県や市の教育委員会が土地の歴史を編纂して、その史料を持っていますから
答えがかなり見つかると思います。
@平川景家の子孫はおられるのでしょうか?
南朝方の子孫でしたら、懐良親王に従って、結果として、九州あたりにもいらっしゃるような気がします。
A桐紋は源頼朝の紋でもあると聞いたことがありますが本当でしょうか?
本当でしょうか?
B八木氏も関与しているようですが、大田亮氏の辞典では確か「振魂命」の子孫に八木氏がついていたように記憶しています。
頼盛の孫は「振魂命」の子孫の八木氏の家を継いだのかも知れませんね。
C尾張熱田神宮の遠祖はもと天照国照彦天火明櫛玉饒速日命だったのを、「振魂命」にかえられたと本でみたことがあります。
熱田さんに問い合わせたら良いと思います。
熱田さんの大宮司さんの尾張氏の御先祖さまは振魂命だったような?
ということで「八木氏」がらみは有り得るでしょうね。
D神宮の女子・宮司武内氏と藤原南家の男子との間の女子と源義朝との間の子が「源頼朝」で、頼盛は宗子の功により頼朝から厚遇された。
頼盛は平家滅亡後、翌年、1186年、死んでしまいますね。
頼朝に、母親の御蔭で自分と自分の一族の命と生活が保証されましたね。
それよりも重要なことは、
後白河院とヨリを戻して、後に、子孫の娘が天皇家に入ってますから
頼朝に厚遇されたというより、後白河院に厚遇された、の方がワタクシ的には座りが良いかな?
Eこういう間柄から桐紋が平川に移ったのか?と思います。
もし事実なら、史料に残っていると思いますよ。
家紋の下賜は記録に残っているはずです。
普通、家書に、家紋のことは記録されていると思いますよ。
我が家でも家紋の変遷のハナシはちゃんと記録されています。
F平川景家についてご存知の方がおられましたらお教えください。
どなたかいらっしゃると良いですね。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 06時07分07秒 ) | パスワード |
>川向こうの尾方という家から自分の母かおばあさんが嫁入ってきた。
>尾方は平氏だ といっていた。
オガタさんは豊後のオガタさんで
九州一帯の有力者ですね。
「豊後大野郡の緒方村の娘の所に毎夜毎夜オトコが通って来て、遂に娘は身篭って、
オトコの正体をさぐったら大蛇だった。
大蛇は生まれた子を大事に育てよと言い残して死ぬ。
生まれた子は並外れた大柄の豪傑になった」
その5世の子孫が緒方惟義だそうですね。
でも、確かに緒方三郎は重盛の家人だったけど
1183年だったかな?
反平家になって裏切っているのよね。
後に、その時、平家方の宇佐神宮を壊したのが障って、流されたんじゃなかった?
緒方氏の先祖は「大神氏」らしいですね。
でも緒方氏でも一族の中で内訌があって平家にそのまま尽くした家もあったでしょう。
おばあさまがおっしゃったのは、そういうコトだったんじゃないかな?
「緒方は平家を裏切ったけど、自分の先祖のオガタ家は、最期まで平家に忠節を尽くした」
ということで、
おばあさまのオガタ家と懐良親王に従って来た平川氏が後に平家がゆかりで結婚して
あなたのお父様の従弟さんが婿に入った
ということかな?
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 06時23分35秒 ) | パスワード |
書き直し
家紋は・・・
家紋から先祖を遡るのは難しいと思います。
家紋は1つの家に1つじゃないからね。
家紋って1つの家に1紋じゃないから、ややこしいです。
江戸時代以前は、拝領の家紋があったりして、晴れの席で下賜紋を付けることが出来たのかな?なんて思います。
でも、普通、まわりの空気を読んで、拝領紋は大事にしまっとくよね?
自分の家の家紋と上司の家紋がかぶってたら「遠慮」するのが=禁止だよ=封建社会ですから
こういう場合でも、家紋が増えていくことになるし。
逆に自分チの家紋が上司に取られるとかね。これは「召し上げ紋」だったかな?
系図でも上司にとられちゃうってあったしね。
頼朝の家紋でしたら「笹竜胆」かと思うけど
笹竜胆っていうと「これぞ!清和源氏の家紋!」というイメージだけど
せいぜい木曾どのと義経と鎌倉市と
木曾どの・義経・頼朝関係のお寺や神社に
使われるぐらいでしょ?
頼朝が実際には何の家紋を使ってたかは定説が無いんじゃない?
これまでの映画やテレビで
わたくしは1度も目にしたことが無いように記憶しておりますが。
今回の「平清盛」でNHKがどういう紋を出して来るのかな?と思っています。
今のところ、せいぜい白旗だったでしょ?
歌舞伎なんかの演目で「笹竜胆は清和源氏の家紋」として源氏のイメージを強調して使われるのを知っているぐらいかな?
ところが清和源氏でも笹竜胆紋は使ってないし、
足利と新田は違うし、○二と○一でしょ。
明智も違うし、徳川も違うし。笑
江戸時代、笹竜胆紋使用の源氏はほんの1%って聞いたかな?
笹竜胆は元々は村上源氏の代表家紋なんですってよ。
桐紋ですが
まず平氏で桐紋の家は
織田氏と高山氏。
桐紋は後醍醐天皇が足利尊氏に下賜したんだそうです。
ここから下賜につぐ下賜で
幕末には大名・旗本の5分の1が使っていたそうです。
織田信長の家は
父が足利将軍から桐紋を貰って
自分も義昭から桐紋を貰ったけど(義昭には他にあげる物がなかったから 嗤)
「こんなん、いらん。お前にやるわ」と言って秀吉に放り投げたんだったような。
で、江戸時代の庶民は家紋の使用は結構自由だったから
みなさん秀吉の出世にあやかって53の桐紋を使ったと聞いています。
またレンタルの着物で人気の家紋は無難な桐紋だと聞いてるし。
「桐紋は頼朝の紋」という話は本当なんですか?
初めて聞きました。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 06時31分08秒 ) | パスワード |
おばあさまの御家の御苗字が「尾方」ということは「緒方とは違う!」というアイデンティティの証左なんじゃないかしら?
「あの裏切り者の緒方とは、うちは別!」という意味があるんじゃないかと
漢字の違いに思いました。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 07時05分48秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54409266.html
緒方三郎惟栄
「生没不詳」
「平家追討の功労者」
「嫗嶽大明神の神裔・畏しき者の末裔」
「戸次(へつぎ)氏姓祖・戸次二郎惟澄とは従兄弟」
「「おがたさぶろうこれよし」と読む。大分県豊後大野市中心に英雄視され、十二世紀末頃の源平争乱期の
武将である。中世豊後国大野荘緒方郷を拠点として活躍した。
大野、直入地方で今も語られていることは、兄「源頼朝」に追われた「源義経」を迎える為「岡城」を築
いたという説である。しかしこの説は、こんにちでは研究者の間では否定されている。
(岡城は豊薩合戦の折、若き武将「志賀親次」が「島津義弘」の大軍を撃退した難攻不落の城でもある。)
(近世では「滝廉太郎」が子供の頃遊び、後に名曲「荒城の月」を生んだ城である)
「緒方三郎惟栄」は「惟榮、惟義」とも書く。「豊後大神氏」の流れ引き豊後国37氏の姓祖とされている
「大神惟基」の五代孫に当り、もとは「大神惟栄」と言った。
●蛇の神文・大太(だいた)の孫
大太とは三郎の五代前の先祖である大神惟基(おおがの・これもと)のことである
『源平盛衰記』、『平家物語・苧環』両本に「大太(惟基の幼名)より五代の孫なり」とある。
尾てい骨にヘビの鱗を持っていたと言われ、そのために尾形・・・緒方を名乗った。
その末裔には大分県の祖母山の麓の町である緒方町を出自とした尾形光琳・緒方洪庵・さらには俳優の故・緒方拳
などが知られている。
●おそろしき者の裔(すえ)
「緒方三郎惟榮」が「神裔、おそろしき者の末裔」と称されるのは「嫗嶽(うばだけ)大明神伝説」にあるように
「大神惟基」を「嫗嶽大明神の化身、大蛇の子」とする伝説に由来する。
また、源平盛衰記は、「惟義(惟榮)と云うは、大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打
ち随へ、西国の大将軍せんと思う程のおほけなき者なり」と書かれている。
惟榮の父「惟用」は戸次氏の姓祖「大神惟澄(戸次惟澄)」の父「惟家」とは兄弟のため「戸次惟澄」と
「緒方惟榮」は「従兄弟同士」である。
「大野荘緒方郷」に住み荘司を務め「緒方三郎惟榮」と称した。
当時、豊後国は豊後大神一族が武士化し、大野氏、阿南氏、臼杵氏、緒方氏などが台頭していた。中でも
「緒方三郎」は「豊後大神武士団」を統括する大きな力を持っていたと見られる。
「緒方三郎惟榮」は 元は「平重盛」の家人であったが、治承〜寿永年間(安徳天皇)源平の対立が激化
する中、世は、兵革、飢饉、疫病が蔓延し乱れていた。(後略)」
参考資料
豊後国荘園公領集成七(下) 『平家物語』苧環
『源平盛衰記』
『大分県史中世篇 T』
『吾妻鏡』
『大分歴史事典』
大分放送
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ogata/ogata.html
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 07時19分21秒 ) | パスワード |
南朝方がどーたら、と書きましたが
元平家の子孫が南朝方に付いた可能性は北朝方に付いた可能性よりずっと高いと思います。
14世紀頃から日本全国で南と北に別れて戦ったから
南北朝の争乱なんだけど
最初は足利尊氏も後醍醐天皇方だったのが
足利尊氏と後醍醐天皇が戦うことになって(下賜した桐紋を返上させれば良かったのにね 笑)
後醍醐天皇はお子様8人ぐらいを大将にして日本各地を制圧しようとなさったのだけど
この時に家の中で内訌があれば南北に分かれて戦ったし
元平家方は最初は鎌倉幕府と戦って後に足利尊氏と戦って
清和源氏の中も 足利尊氏側 vs 新田義貞側 で戦って
それで平川景家の子孫は懐良親王に従って九州まで行ったんじゃないかと思うのです。
だから平川の子孫がオガタの子孫と出会うのは当然
あなたも、あなたの子孫も、元平家や南朝方の子孫と結婚する可能性があると思います。
もし初めて出会った全く知らない相手でも、なんとなく気安い感じだったら
あなたの血の遺伝子が、つまり御先祖が、懐かしい人に会った!と小躍りしてるのかもですよ。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 10時23分07秒 ) | パスワード |
http://www.commit2vote2012.com/
今井四郎どのの「源平盛衰記」のURLです。
これに緒方惟義の先祖の話が載っていると思うのですが
(平家物語では 「苧環」)
見つからなかったです。
[15] | 高岡さんからのコメント(2012年08月28日 01時13分31秒 ) | パスワード |
空の青海の青様
さっそくコメントくださいまして有難うございます。良く整理されていてわかりやすいです。私は書きたいことがなかなかずばりと書けなくて、よそへ外れていくので・・・気をつけてはいるのですが。
>6 ただしこの系図には山木兼隆が「山本兼隆」って書かれているようで
「人物〜畠山重忠辞典」がネットに出ているので見たら
山本兼隆の読みに「やまきかねたか」となっておりました。
この表題が出るページは皆「山本兼隆」で書かれています。
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/heishi_kanmu/heishi_kanmu5.html をあけてみましたら、何と 「関信兼」がおり、その次が「山本兼隆」になっております。
私的には山本の表記だと、又 関氏との関係があると、母方・佐田に関与した話がでるのでうれしいのですが・・・
そして、佐田家紋・三つ巴紋から「豊前宇都宮流佐田氏」があり、ここはその先は中原を称していた ということで、中原の時、鎌倉幕府と関係がある。又、鷲尾も中原だということをネットで見たことがあります。
山本は私の母の実父で、その先は佐田といとこどおしで結婚していたと聞いています。
「北畠一族の系譜」で検索 北畠の横に「佐田」が書いてある。
北畠氏一族3−2 北畠氏庶流
神戸家(関氏一族)とあり
神戸家 子孫の女子と織田信長の子・信雄と結婚して、信孝(神戸信孝)が出来る。
[16] | 高岡さんからのコメント(2012年08月28日 01時19分22秒 ) | パスワード |
北畠親房は南朝の柱石と言われた人で、私の故郷の方では 私の家のつながりが関与する地域は「護良親王」に味方する勢力があったので、ゆっくりほぐしてみなければ・・と思っています。南北朝の頃は五摂家も真っ二つに分かれて戦ったと本で読みましたが、かなり大きくあちこち移動したのでは?と思います。
9懐良親王
親王は菊池市を拠点に活動しておられた。菊池の侍帳に高岡・白石・坂本・平川がある。(国史大辞典より)
他に 尾方 高田牧宰も書いてあった。
>8それよりも重要なことは、
後白河院とヨリを戻して、後に、子孫の娘が天皇家に入ってますから
頼盛の妻 正室:八条院女房 、側室:藤原親通の娘
藤原親通
平資盛は曾孫になる。
平資盛の妻
妻 正室:藤原基家の娘
妾:建礼門院右京大夫
女子 時明院基家→女子・
(陳子。北白河院。後高倉院妃。後堀河天皇母。母平頼盛女。
女子(平資盛妾)
女子(藤原実宗室。西園寺公経母。母同上)・・・公経の世系と縁組 公経は実宗の子、母は持明院基家(もといえ)〔1132〜1214.83歳〕の女で、平頼盛〔 1131〜86.56歳〕の外孫女にあたっていた。西園寺公経は「平頼盛」の曾孫
公経の系の
西園寺実氏と(四条)鷲尾貞子との間にうまれた姞子が両院並立のもとになる後深草天皇と亀山天皇を生みます。藤原魚名の子孫の藤原隆房は平清盛の娘と結婚し、隆衡が出来ます。隆衡の娘が(四条)鷲尾貞子です。つまり 両天皇は清盛娘の玄孫になるのです。
私の知っている天皇家に入り、南北朝で五摂家も真っ二つに・・ということになることにつながる話は以上のようなことですが、他に筋がありますでしょうか?
[17] | 高岡さんからのコメント(2012年08月28日 01時21分39秒 ) | パスワード |
投稿番号:100155 投稿日:2001年08月13日 00時16分46秒 パスワード
お名前:服部 明子
平信兼:山木(山来・八巻・八牧)兼隆父
・関氏・・・平清盛−重盛(嫡男)−資盛(維盛弟、壇ノ浦入水)−盛国(北条氏に仕える)−実忠(関氏祖)・・・・・・俊盛(伊勢亀山城主)−胤盛−盛雄−※盛信(織田信孝に従った)−・・・。
・平資盛−盛国−長崎(平)盛綱(関実忠は兄弟)・・・−長崎高綱(円喜)−高資(鎌倉幕府内管領、執権北条高綱のとき幕政独占専横を極めた。新田義貞に攻められ自刃)
と関・平資盛の関係が書いてありました。
服部明子さん 黙って出してごめんなさい。
[18] | 高岡さんからのコメント(2012年08月28日 02時23分16秒 ) | パスワード |
>9川向こうの尾方という家から自分の母かおばあさんが嫁入ってきた。
>尾方は平氏だ といっていた
この部分は私の父のいとこ(高岡の男子)が入り婿した「平川」家のことです。
尾方氏
※私の長兄の嫁も尾方家(平川の尾方と別で、護良親王に味方した勢力がある球磨郡部にある。この家が味方したかはともかく町長をしていた。)
・ひとつには 地域には「阿蘇神社」に関わる宮司に尾方がいる。
・人吉の青井阿蘇神社は阿蘇神社と祭神が同体で、大同年間に尾方権之助大神惟元が阿蘇神社を勧請して建てた。
・市房神宮の宮司・尾方氏
この神宮は皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊がおりたったとされる「霧島神宮」を「久米城主・市房」が勧請して建てた。
・尾方・緒方・尾形は通じていて五木の方の阿蘇神社の神主も「緒方氏」。わたしの恩師。
・宇佐八幡」の阿蘇神社縁起では、高知尾明神・宇佐八幡・阿蘇神社をきょうだい神としている。そして、高知尾明神を神武の二郎としている。
[19] | 高岡さんからのコメント(2012年08月28日 02時24分37秒 ) | パスワード |
九州はおがた姓が多く、尾方氏は神社に関与する家がある。
※高岡・山口・白石は姻戚関係や養子の関係があるが、これらと下益城郡守富あたりの「平江」と姻戚。平江と木原と姻戚。他坂本などの名も見える。
・下益城郡誌には 豊後の緒方氏の墓があることが書いてある。ふつう墓のことは郡誌などにかかないのでは?・・・・球磨郡の良峰氏(平河氏)も墓のことが書いてある。
※平川との姻戚関係があるとは聞いていないが同じ集落に尾方家があり、橘紋。私の家との関係では高岡・白石・坂本・この尾方が橘紋。
※おがたははるか昔に通じていく苗字だが、宇佐八幡の山王社だったか?の神紋は「橘紋」。山王日枝社は日吉神社を勧請して建てられた。日吉神社は平安時代漢王室子孫・三津首(最澄)が大和の三輪神社を勧請したものだという。
[20] | 高岡さんからのコメント(2012年08月28日 02時34分31秒 ) | パスワード |
蛇伝説
球磨郡湯山神社は神八井耳命(すなわち神武に次郎)の系が祭神でここには蛇がたまごを抱いている珍しいものがあるという。
神武や皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊に遡るならその先の歴史はまたあったことで、古代三皇五帝の身体は蛇身だった。
[21] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時00分17秒 ) | パスワード |
>6 8八木盛定
頼盛の孫は八木氏の家を継いだのかもしれませんね。
これを受けて 推考すると
同じく良峯朝臣系の「平河・平川」を継いだのかも知れない。
このことについて皆様はどう思われるでしょうか?
[22] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時03分30秒 ) | パスワード |
理由は
京都・良峯寺について考えてみると
頼盛系の平川から出ていた周りの話に「平資盛」がいるが、
@京都・良峯寺に「平資盛」が都を落ちる前権礼門院右京大夫に逢いにやってくる。右京大夫は病気の母の看病のため宮仕えを退き、母の死後は西山(善峯寺)の兄のもとに身を寄せます。
[23] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時05分11秒 ) | パスワード |
A良峯寺と花山天皇
天台宗 元慶寺の始まりは、
清和天皇の第一皇子、貞明親王(陽成天皇)の誕生の翌年、
貞観十一年(869)僧正★「遍照」の発願により親王の母藤原高子(多治比氏・十市が関与する。十市 と 中原同族 つまり 佐田に関与する)が創建した花山寺を、元慶元年(877)に陽成天皇によって定額寺に列せられて年号寺、「元慶寺」と改めました。
[24] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時06分15秒 ) | パスワード |
僧正「遍照」の俗名は「良峯宗貞」、
父は桓武天皇の皇子大納言安世(良峯氏)であり、仁明天皇とは従兄弟になり寵愛を受けていた。
この寺は、寛和二年(986)に女御祇子(ぎし)の死に悲しむ花山天皇を、
藤原兼家らが出家を促して退位させた所でもあります。後 兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。別称 「花山寺」と呼ばれる。
[25] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時11分22秒 ) | パスワード |
良峯寺
寺は、長元2年(1029年)、源算(俗姓・★大中臣氏)が創建。「『往生要集』」
長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。
さらに八年後には、東山の★「鷲尾寺」の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。
鎌倉時代初期には慈円(九条兼実兄弟)が住したことがあり、後鳥羽上皇直筆の寺額を賜り寺号を善峯寺と改めた。本尊は千手千眼観世音菩薩。善峰観音宗(天台宗系単立)。
※大中臣氏は「佐田」
※鷲尾寺の鷲尾は「四条貞子」の俗姓が鷲尾。鷲尾は中原でもあり、宇都宮氏はもと中原を称していた。
善峰寺の北隣にある三鈷寺は、「百人一首」と大変関係が深いのです。
藤原定家に 百人一首の元になったとされる 小倉山荘色紙和歌を依頼した人物が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)で、彼が当寺の堂宇
(観念三昧院華台廟)を建立して自らの供養石塔も残しているのです。
[26] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時12分32秒 ) | パスワード |
三鈷寺の由来
往生院三鈷寺は元天台宗、真言宗、律宗、浄土宗兼学の勅願所であったが、現在は比叡山延暦寺末寺。
本尊・仏眼明妃坐像画幅、宇都宮蓮生事物とされる抱止阿弥陀如来。
善峰寺と同様、源算上人が長元年間(1028〜1037)当地に小庵を建立し、阿弥陀像一躯を本尊として北尾往生院と称したのが始まりとされる。一説に承保元年(1074)頃とも謂われる。
その後、観性法橋、慈鎮和尚(大僧正慈円)と継がれ、建保元年(1213)法然上人門下、証空善慧国師(西山上人)が引き継いで不断如法念仏道場として、背後の山の姿が仏器の三鈷に似ている事から、
三鈷寺と改称されたという。
[27] | 高岡さんからのコメント(2012年08月29日 00時20分27秒 ) | パスワード |
慈円は「九条兼実」ときょうだい。
[28] | 高岡さんからのコメント(2012年12月21日 04時08分41秒 ) | パスワード |
18五木の方の阿蘇神社の神主も「緒方氏」。わたしの恩師。
緒方は「尾方」です。すみません。
高齢になり他の人が代行しておられるそうです。
先ごろ「平清盛」で、「荒田八幡神社」の紹介がありました。
ネット検索すると神戸にある荒田八幡神社は、★平頼盛の山荘があったところで、福原京の中心地でもある。
球磨郡で★良峯師高の墓に★荒田の言葉があり、平川景家・良峯氏・ヤマトタケルのつながりがみえる。良峯氏は「劉姓」であり、わが国の文化を「国風文化」にかえており、
祖先を辿っていると 漢王室子孫がみえてくるが その先には秦が見えるそのあたりが高岡・平川・尾方の姻戚関係・養子関係にでてくるのではないか と思う。
[29] | 高岡さんからのコメント(2012年12月21日 04時37分11秒 ) | パスワード |
荒田から田県神社・大縣神社
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/tumori-owari.htm より
大県神社(愛知県犬山市宮山) ※尾張国二の宮
祭神&祖神 大荒田命(大県大神)
社家 邇波(丹羽)氏
※何故ここに尾張氏と婚姻関係にはあっても別系統である丹羽氏を入れたのかというと、丹羽氏の係累にやはり尾張を本拠とする「椋橋(くらはし)氏」がいて、現在、「くらはし」繋がりにハマっているので、つい入れてしまったというのが真相です。あまり気にしないで下さい。(^^;)
社伝によれば、大荒田命の娘・玉姫命は、倭建命の妃の美夜受比売の兄・建稲種命と婚姻して、子孫は同神社と下記の田県神社を奉斎したという。大荒田命は、倭建命の三世の孫というから時代があわないし、記紀の倭建命の子孫の記述には、大荒田命の祖父・尾張丹羽建部君祖の武田王の記述はないが、この神の娘と建稲種命の婚姻の伝説があるのだから、尾張氏がこの土地へ移住してくる前からの尾張の豪族で、以後は尾張氏と融合して尾張を治めたと考えていいのではないか。
「丹羽」というのが丹波道主命の「丹波」を思わせてしょうがないのだが、「くらはし」好きの欲目か?
別のブログでは
大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫)とする説などがあり、はっきりしない。とあるが、彼らはもとはひとつになっていく。
又良峯氏の子孫は丹羽二本松城主になっている。
後子爵。
家紋が何かしら?桓武の子孫なら蝶紋かしら ? とどきどきしながら武家家伝を見たら あらら!! × でした。直違いというらしい。
[30] | 高岡さんからのコメント(2012年12月21日 05時23分42秒 ) | パスワード |
http://achakocha.exblog.jp/5696507/ より
猿賀神社
★平川市猿賀 神紋 ★五三の桐紋
祭神 ★上毛野君田道命
仁徳天王時代の将軍で、農業、漁業、産業、交通の神様だそうです。
辰年・巳年の神様
猿賀神社 | 平川市より
猿賀神社. 2010年10月6日. sarukajinja 蝦夷征伐のため北上した坂上田村麿が「神蛇宮」として建立したと伝えられる神社。その後、藤原秀衛、北畠顕家、阿部教季からそれぞれ修復、改修して尊崇を受けました。 藩政時代に入り、津軽為信公により祈願所 ・・・
平川市は青森にあり、良峯氏も秋田城司だったという。
上毛野氏の後裔は坂本氏がいる。足利将軍家の末苗に坂本がある。
うちでは坂本は父の義兄弟。父方のからまりにある。
近江日吉神社の末社・北岳神社があり、★坂本大明神ともいう。
毛野氏考
2007年4月27日 – 上毛野氏は「赤城神社」を奉斎し、下毛野氏は「二荒山(ふたあらやま)神社」(現:宇都宮市)を奉斎してきたとされている。共に祭神は、「豊城入彦命」である。ところがこの2社とも出雲神である「大己貴命」をも祀っているのである。
日吉神社は初め山上に「大山咋神」をまつり、後漢王室子孫・三津首(最澄)によって大三輪神社を勧請して建てられた。
【最澄は献帝子孫といい、帝の実母は「王氏」という。】
【坂上氏は霊帝子孫といい、この帝も実母は王氏】
大山咋神は松尾大社におり、秦人の氏神。
賀茂神社のお父さま。
桐紋・足利氏・良峯の劉姓などからつながりを求めてみました。
[31] | 高岡さんからのコメント(2012年12月22日 03時57分29秒 ) | パスワード |
「大縣神社」の神紋は「九枚笹」紋。
大阪総持寺墓地にある「林家」の紋も九枚笹で、ここには伊達氏と流れが同じ藤原山陰公の墓もある。
うちの平川のおばは うちの林家のことを屋敷と呼んでいた。
林は蘇我氏にあり、このながれは紀氏にあり、武田は武内に通じて、
漢王室子孫のグループに通じて
ひとつのくくりでみるとき、
http://www.genbu.net/data/tugaru/hakkouda_title.htm?print=on より
八甲田神社由緒(玄松子の記憶より)神紋 ヤタノ鏡に割菱
往昔阿倍比夫夷賊征討の時後潟に政庁を置き、八甲田山麓に山霊を祭り伊邪那岐大神伊邪那美大神を勧請せしが、 その後永く廢絶す。北畠顕信公その子守親公等は父親房公顕家公の遺志を継ぎて、南朝のために画策し霊山を出でて 再び緒神を勧請して南部氏を頼りしが時運に遭はず八幡岳にて一敗してその後を絶つ。 浪岡に拠りし北畠顕家の後嗣も津軽氏に打倒されて、その跡殊ど煙滅す。北畠氏につながるもの等崇敬者等、 明治百年を期しここに祭祀の場を起せり。
この神社のページを開いてさらに祭神を詳しく見ると、この神社も猿賀神社に通じている。
[33] | 高岡さんからのコメント(2013年04月10日 01時08分15秒 ) | パスワード |
簡単に漢王室子孫と秦人の関係を考察すると
劉邦の父は蓋太上公父。
★ソシモリ→陝野候・幋命→穢王 穢は解に通ず。蓋。
★・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族の姓。
★通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。
六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて解邑の君となる。
すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。
★周の僖王とは 平王の 四代位 後の人
★高姓は 秦も そうであった。高陵君。「・陽君」も同父母なので高姓だろう。
又 マガダ国阿育王と蒙女との子孫は漢人の祖先という。
うっすらと蒙⇔蒙古⇔尾方・サダ⇔女真⇔北魏の方から女真になる人たち⇔サダ⇔アイシーン・ギョロ⇔向⇔董⇔季
秦の先祖は殷の外戚でもあった有氏。有易の子孫が秦(嬴民)になる。
漢王室子孫・坂上氏の祖先、阿智の使主がつれてきた7姓の漢人の中にもサダはおり、漢王室・唐王室と姻戚関係をもつサダ突厥もサダ。サダ突厥は唐王室に真珠を売りに行っていたといい、海神族と推察される。
異本物部系図http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-mononobeshi-ihon.html これらのことは参考として・・・
・速日命ひのはやひのみこと と ふりをうっている。親の布津の御霊は石上神宮の祭神として祀られ、物部氏が奉斎。
玄松子の記憶より
斐伊神社概記
一祭神 須佐之男尊 稲田比売命 伊都之尾羽張命
合殿 樋速夜比古神社 祭神 樋速夜比古命
樋速夜比古命が・速日命に対応しているのかどうかはわからないが、この人の子供が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
大田亮氏の姓系辞典の古いほうでは皇別物部は春日の族とあり、
春日は藤原に関係あり、佐田は藤原でもあり、
・速日命の祖先はイザナギ・イザナミをとおり、国常立命とする。
国常立命は佐田彦でもあり、この関係は 時代が変わっていても同じ流れにいる人という感覚で捕らえている。
[55] | 六五四さんからのコメント(2020年09月12日 00時00分06秒 ) | パスワード |
黒口神社の祭神を知り さらに杵島岳の周辺、二方國造をふまえこちらに来ました 高岡から考えると高岳駅があり、周辺をあるきましたが後に付近を確認すると他人事でない気がしますし 佐田も本来なら話が残っていたのだと 経津主神が関連するとしたいです
[56] | 六五四さんからのコメント(2020年10月20日 00時02分25秒 ) | パスワード |
須金の地名遷移、阿仁の隣の町の地名遷移と絡むかもしれません 吉敷 陶 佐田ということも考えたいです ひょんなことより桐洞を知りました 桐紋は探してみます
[58] | うめきちさんからのコメント(2021年01月06日 11時28分08秒 ) | パスワード |
島郷という所があり地元に詳しい平川さんがいるのですが
平川はとにかくいます
高岡さんは会ったことがあり聡明な人でした
今頃になって書いています
ところで高陵とつづる人はいまでもいるのでしょうか
直接お聞きしたかったので
長勝院などに触れたかったのですが
また今度にします
[60] | 白石さんからのコメント(2021年02月09日 16時17分50秒 ) | パスワード |
こんにちわ
うちの栗山があった ところは 二股野 といいました。
このごろ 同級生と話して おどろいたことに
父は そこを 椎葉 たいな といっていたのです。
同級生が それを そこらは 股野 というところだというのです
股野を 山をむこうにくだると 宮崎椎葉です。
あの 那須の与一が 椎葉たつときゃあ 目にいいい涙
の 椎葉です。
股野は あとで 那須御用邸に つながっていきます、
股野氏
(読み)またのうじ
世界大百科事典内の股野氏の言及
【俣野氏】より
…相模出身の中世武家。桓武平氏鎌倉党の支族で大庭(おおば)氏と同族。〈股野〉とも書く。同国高座郡大庭御厨(みくりや)内俣野郷(現,神奈川県藤沢市大庭)を本拠とする。平安末期,大庭景親の弟景尚(久)が俣野を名のったのを初めとする。大庭氏は元来源家の家人(けにん)であったが,平治の乱(1159)後,景親・景尚ともに平家に属し,石橋山の戦(1180)で敗れた景親は梟首(きようしゆ),景尚は逐電・上洛したが1195年(建久6)以前に没している。…
[61] | 白石さんからのコメント(2021年02月09日 17時09分28秒 ) | パスワード |
うちがお願いしていたお寺の先代ご住職様は 種田山頭火と
友達だったことは 過去に書きました。
佐賀から養子にこられたそうです。
坊森様は 八代からこられたそうです。
種田山頭火 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 種田山頭火
種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。佐波郡(現在の山口県防府市)の生まれ。「層雲」の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一(たねだ しょういち)。
佐波郡は 母の実家があるところで 山口の佐田といえば
有名なんだと 母はよく言っていて 私たちをよく笑わせていました、
戦後教育を受けたわたくしたちでしたから、、、、、
母の何様の 言い方はおかしかったのです。
ここの佐田は塩 しょうゆをつくりもうけていたそうです。
[63] | うめきちさんからのコメント(2021年02月12日 23時16分19秒 ) | パスワード |
こんばんは
悩みましたが書きます
幡生までいって邑智へ向かう計画を立て
大雨の為、大朝経由にしたのです
話がぼんやりしますが鹿野に近いため佐波は隣と思うこのごろです
山頭火は直に調べずとも気に入ってますが
平氏かなと思う有名人を知ったあとでとある教会で睡魔におそわれた記憶があり
その当時は雅な苗字の友人もそうでした
醤油の佐田さんもお近くだったらいいなと思うので
またの機会に調査しようかと思います
ここから西海の話に持っていきたいですがお待ちください
[64] | うめきちさんからのコメント(2021年02月13日 00時26分11秒 ) | パスワード |
まだいます
実は西海 琉球で日向だけは行ってません
それなのに妥説が浮かんだり
杠日向守、佐土原、三田井などなど
なぜかひかれますが股野はどこでしょう
私は中村です
あと肥前をどこまで知っておられるのでしょうか
逆に遠慮してしまいます
美祢の土地勘もつけておきたかったですね
迷子になります
[67] | うめきちさんからのコメント(2021年02月20日 00時24分54秒 ) | パスワード |
皆様 所用が長引いており
暫く調査探究をお休みさしていだたきます
何故かは分かりませんが
私としては1.7kmほど先の町について
新田の<匂い>を感じておる最中であります
これを今手放すと後が遠退いてしまうのだと考えます
[68] | 白石さんからのコメント(2021年07月11日 19時00分53秒 ) | パスワード |
元アイヌの白石が藤原に
股野が手がかり
パソコンの調子が悪いのでこれで
[69] | 白石さんからのコメント(2021年07月11日 19時07分52秒 ) | パスワード |
なぜかひかれますが股野はどこでしょう
父の栗山があったところがピンポイントで股野でした
その先は椎葉
那須野大八の椎葉です
熊本県球磨郡のやまのなか 萩の上です
高岡の地番があります 恒松の畑もありました
[70] | 白石さんからのコメント(2021年07月11日 19時19分56秒 ) | パスワード |
コメントの受付はあったのにみるとでていません
なんだかおかしい
藤原は元アイヌであったしらいしだということがおかしいのでしょうか?
[71] | 白石さんからのコメント(2021年07月11日 20時14分02秒 ) | パスワード |
どうしてもパソコンがおかしいのでなんどもかいていますが
股野 父高岡の栗山があったところがぴんぽいんとで
股野で萩といいます
熊本県球磨郡の山の中です
恒松のはたけや 市不破神宮のお鏡を持つ田山など
おります
元アイヌの白石家が藤原になった
新田は母方佐田から出ます
私は 高岡 白石 坂本 佐田につながるものです
人吉にくま川鉄道があり岡原北でした
岡原は墓があります
宮原谷でもありました
[72] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 14時11分21秒 ) | パスワード |
こんにちわ
パソコンの調子がわるくててまどりました
年はとりたくないですね
私は梶原の子孫の人と同級生です
そこは学者がはまって 300人だかつながる系図をつくってくれたそうで
す 梶原なんとか様とかいっていました
梶原は股野ですよね
[73] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 14時19分25秒 ) | パスワード |
さっき投稿してでていたのにもうきえています
[74] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 14時41分24秒 ) | パスワード |
このサイトで みやちゃんと よばせていただいていたひとと
おはなしをしたことがありますが ミヤハラさん
みやはら事務所にでんわしても よくわかりませんでした
宮原観音堂などもっとしりたかったですが・・・
[75] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 15時11分07秒 ) | パスワード |
うめきち様
山口のダダは今は真木になっています
佐田のちを分けた人です
[76] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 17時16分40秒 ) | パスワード |
同級生の中村さんとはなしをしていたら お姉さんが 小山勝清先生をもじって
イスカリ島の犬という本をかいているそうです
双頭の犬らしいです
小さな豆本らしいですが
興味があります
[80] | うめきちさんからのコメント(2021年07月13日 18時39分57秒 ) | パスワード |
中村をどうしていいのか分かりませんが
さらに白石 山口を言えず困っていたのはあります
上村は可美村と同じく読むのだと思っていました
[81] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 19時30分34秒 ) | パスワード |
アーサー王伝説
ギリシ
ア神話の中にでるこの人の話は過去に
千田マルコちゃん 秋田の人とお話したとき
アブラハムからの系図を教えていただいたことが
あります
天皇家は西から来たという伝承をもっているそうですが
もしかしたらギリシアあたりからか?とおもいます
市房神宮にある天孫ににぎ の剣のはなし
これもこういう話の反映だろうか? とおもいます
[82] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 20時39分48秒 ) | パスワード |
豊臣秀勝は溝口秀勝だった
ウエブでこういうはなしをみて さすがとおもいました
この系から大正天皇貞明皇后がでるそうです
[83] | 白石さんからのコメント(2021年07月13日 21時09分10秒 ) | パスワード |
過去に鹿島昇先生がび姓についてかいておられる
饒速日渡来の謎という本のはなしをしたことがあります
び姓は楚の国姓で周王室になっていきます
姫姓
[84] | うめきちさんからのコメント(2021年07月13日 22時29分39秒 ) | パスワード |
野々井を見ていてから
あれれと思っていて
塩久津は書けば良かったと思います
私では書ききれませんが
全く分からないのが沼闕←
合ってますでしょうか
おそらく笠三枚臣で気づくべきでしたが
そうなると燃えても耐えた入り口の木 でしょうか
あの話にも平家がいたかと
位置からしてよくご存知なのだと思います
続きをお願いします
どうも筋金入りの平家びいきに囲まれていたような
[85] | うめきちさんからのコメント(2021年07月14日 13時04分13秒 ) | パスワード |
私ですと平仄を見ているしか無かった時もありましたが
安川 長崎 中原 の流れのときに
ご本人 名乗られていて
この話は
中村でないのですが
同苗の方々が揃っているならば
心強いと思っていました
[87] | 白石さんからのコメント(2021年07月16日 21時09分15秒 ) | パスワード |
中村という同級生の妹がイスカリ島の犬と
いう題でまめ本をだしています
今は電子本で
古代ギリシアの伝承を下地にオリンポスの話をかいていて
双頭の犬です スフィンクスの番犬
後ろを振り返り石になり頭は蛇になった話
ゼウスも出てきておもしろいです
伊勢神宮の地は中村の地ともいい
鳥居の足元には十字架がきざまれているとか
秀吉は父が岡山の人 で 本人は中村で生まれたそうですね
豊臣は溝口で溝口の血が大正天皇皇后につがれた
大きく広く輪になってつながっています
うちの栗山のところがピンポイントで股野といい
股野は桓武平氏 土地の地番は高岡ばかりで
おどんぎゃあの山といっていました
これは 後醍醐天皇の頃 下益城郡に皇子 大塔宮・・・平右衛門尉をなのったなごりで 下益城郡には白石 高岡 佐田などつながりがあります
家家小山勝清先生はそこの出で 小山は 北条
平安鎌倉室町などの名残の仏像などあります
栗山からぽちっと湧き出た水は小川になって萩に流れていましたが
萩の高岡から市房神宮がみえていました
冷たくすんでいて観音堂にささげていました
股野は鎌倉氏になっていき 梶原になります
宮田という同級生の家が子孫で 学がはまって300人くらいつながる
けいずをつくってくれたそうです
アマテラスのお鏡を管理する立場にいたそうで
大阪高槻宮田町には継体天皇のお墓がありますね
埴輪がゆうめいです
大きくおそらく船で移動した人たちがいたのでしょう
[88] | 白石さんからのコメント(2021年07月17日 09時08分05秒 ) | パスワード |
v訂正
スフィンクスの番犬でなく 牛の番犬
画像を見たら
頭は完全に右左で 丁度枯葉剤の犠性った人の形と同じで
古くにも 強力な化学兵器がつかわれたのかと・・・
地がえぐられたあとは 確か 中近東あたりにもあった
天変地異で 大洪水が起こり 船が アララト山に流れ着いた後もあったはずで
発掘調査も待たれるところです
天皇家は西から来た伝承を持っている
ギリシアのロマンを秘めていたらすてきだなと勝手にフアンです
お顔が素敵ですもん
ね
野野井
ことばでは聞いたことがありません
ウィキで見てみようと思います
[89] | 白石さんからのコメント(2021年07月17日 11時27分01秒 ) | パスワード |
野野井から多喜がつながってきました
また 富山城 高山右近なども
泉州岬も
楠木氏まで・・・・・
歴史は文字でなく 人のあつまり がおりなすものですね
大楠公もかんよしてくるとは 少し誇らしいです
富永姓は川向にありました
大原も一族にいるようです
多喜
大伴一族
昔滋賀県に藤原姓をいうものがすんでおり
甲賀
[90] | 白石さんからのコメント(2021年07月17日 13時24分18秒 ) | パスワード |
何度もすみません(__)
那須の殺生石もでました
実は過去に図書館で調べていた時このいしのことをしり書いたことがあります
九尾の狐 や 水戸光圀などでます
玉藻の前や 美福門院など
みやちゃんも みふくもんいんについてたことがありますね
球磨に八条女院領があったからとうぜんですね
抜けるほどに色が白い玉藻の前
突然変異か?
田山の女子も中学までは普通だったのに
突然驚くほど色白になり
従業員として入ったところで 女将になった
集落にはほかにも 白髪 まつ毛眉毛も白
肌は外人のように赤ら
の子がいました
遠い先祖の遺伝をもっていたのでしょうか
白髪天皇をおもわせます
ギリシアに つながっていくとすれば
ありうることですね
鳥越神社 泉岳寺と つながっていきます
[92] | 白石さんからのコメント(2021年07月17日 19時56分47秒 ) | パスワード |
ありがとうございます
心強いです
今日は携帯をなくしていよいよぼけたかと
じしんをなくしていましたが
タクシー配車センターに問い合わせたら
たくさんわすれていますよ
ということで こちらも
わたくしだけじゃあないとこころなぐさめています
警察にとどけるべきでしょうかねえ
デンマーク
風車ですね
水車と原理はおなじでしょうか?
昔にああいうすぐれたものを考え付き
作れたというのは からくり仕掛けにもつながり
平賀にもつながる可能性があると思います
平賀源内は白石です
一度 村の水車小屋にこどものときはいったことが
ありましたが 中はきれいにふかれていて
村人がたいせつにつかっているのがわかりました
複雑で 中を覗こうとするわたくしを 母が
しっかりとつかんでいました
空は青く黙っている 雲は遠く流れていく
ではじまるうたも すぺいんのほうでしたか
情緒たっぷりでした
[93] | 白石さんからのコメント(2021年07月18日 07時43分15秒 ) | パスワード |
八女に磐井の墓と伝える石人があります
磐井は白石を名乗った
磐井は君姓
安部郡
磐井の言葉もある
倭の俘囚だった元アイヌの白石は
のち ふじわらになっていった
倭人の地はアイヌに席巻されたのである
日本人はアイヌだ倭だといわず
皆様ごいっしょといってよい
八女の石人は 画像を見たところ
ぐりぐり目玉のようにみえる
ぐりぐり目玉
故郷に 古見院という寺があり
明治の頃 村役場があった
そこに立つ像も ガンダーラ形式のぐりぐり目玉です
高岡の墓もあります
維新は神武の昔にかえした
といいますが
ならば じんむのころは ぐりぐり目玉の人が
多くいたのでしょうか?
[94] | 白石さんからのコメント(2021年07月18日 08時43分32秒 ) | パスワード |
石人は頭巾のようねものをかむっています
北方? インドのようなところの 砂除け?
サリーのなりそこない?
いろいろそうぞうされます
[95] | うめきちさんからのコメント(2021年07月18日 14時56分44秒 ) | パスワード |
あさぎり町をウィキで見てました
裏白の写真が ありましたでしょうか
山椒とは思えず
石井
神官のような名前の人でした ドラゴンズファンの恩師でした
苗字として現在では東京あたりのよく見られるものと思いました
富永
確信は薄かったのですが矢張りと思います
風土からして (現在地を言ってませんが、一部有度の記憶のままです) あり得るのではと感じます
[96] | うめきちさんからのコメント(2021年07月18日 16時16分11秒 ) | パスワード |
俟野という方も近いのでしょうか
高岡筋というのは初めて聞きますが
上長飯 を調べており
その後でしょうか
このサイトが出てきたと思いました
方言がふとしたときに聞こえるあたり
家はどこかで尾方になるのだろうかと 今かいていいのかどうか
じゃうざー は教えて頂いて言葉は簡単に変わってしまうのだと寂しく思います
[97] | 白石さんからのコメント(2021年07月18日 21時27分45秒 ) | パスワード |
あさぎり町
今はごろりと変わりむかしあったものが
(うちの家 畑とか)そこで 育った姉自体が
なあんもなくなって わからんよ
といっています
かろうじて 小学校 農高 バス停?などで
位置を思い出すくらいです
こういうことをしていいのかどうか
宮原という人の サイトがありましたが
家は国会議員を二人もだしており
宮原観音堂とか しっかり しらべておられました
石井
いわいとも 呼ぶそうです
こちらの石井さんは 4月18日 総持寺で
包丁道のぎしきがあるのですが 呼ばれて
お座敷にすわっておられます
宮原さんは 私は確かな人と思っております
サhイトをみつけ れんらくされたらいかが?
と思います
でも わたくしは ネット上でお話ししただけで
あったことは在りません
あちらが どうおもわれるか は わかりません
總持寺縁起は なかなかおもしろいものです
股野姓は おりません
桓武平氏なので 小山などが近いかと ?
また 鎌倉氏 梶原氏から 宮田
アマテラスのお鏡をかんりする立場にいたひとです
高岡筋
山口がおり 本庄大根紋をつかうことから
又 他のしんせきなどから
後醍醐天皇の皇子 大塔の宮 山口平右衛門尉 のしそんとおもわれます
時代も過ぎれば普通の人に
我が家と手 父世代の時 近所のおじが
あんたんとこのおやじさんのでは ただんもんじゃあなかったっばい
とか わしらあ 高岡の殿さんというとったとばいとかいっており
岩本といういえがあり 岩本は 熊野にみられる苗字だとか
系図はないのですが 南北朝 維新をこえて
はっきりしろというのが 無理ですね
今は子供たちは 標準語ですが
昔は ぎゃんして ぎゃんして ぎゃあすっとたい
とか じゃんかと とか はやくちで
きたなくきこえました
秦人の 記憶がのこっているとも 感じました
尾方は 国宝青井阿蘇神社の神主ですね
大賀
集落の方は 松本 吉田などと祖先が男兄弟でわかれ
嫁は 五木からきています
松本は もとは お茶をつくり
あさぎり町のうちと同じ墓地では
廟のようにしていました
おふせも むかしなのに 400万とか
うちは 100万なのに・・・・
川向の溝口は 初神がもとと 思っている
といっていました
うちは あさぎり町のみぞぐちの おばあさまと
うちの おばあさんが 大の仲良しで
あとで 溝口 白石の 昔からの関係を知り
なっとくしていました
今 溝口は 豊臣としり あたらしいことを
知ったと思っております
[98] | うめきちさんからのコメント(2021年07月19日 00時18分55秒 ) | パスワード |
宮原さんのサイトみてきました
情報量多く深いです
宮原の顔は浮かびます
それこそ ギリシア デンマークになりそうな
史跡で面白そうなものが
全く見れていません
説明文は掘り起こせばでそうなのに
これがまさに白石の話になればと思うこのごろです
[99] | うめきちさんからのコメント(2021年07月19日 07時29分31秒 ) | パスワード |
太陽神 ラー
は、直ぐでてきますが
史跡にはそういった部分があると思います
この間聞いたばかりです
位置的には富永の話がどこかに と その方が合点がいくので
とにかく高岡さんがいた地域も同じ町内です
富永はっしゅく はご存じでしょうか
[100] | うめきちさんからのコメント(2021年07月19日 17時49分34秒 ) | パスワード |
玉垂さん
目は通しております
皆様
山本山から見ていきます
これがないと始まらないような
平川だから球磨
中村から平川
ここがどういうベクトルになるか
わからず苦しんでいましたが
視線を変えると まず私が寛容さ足りぬ
こう思っていました
とりあえず何らかの連絡をしたいと思います?
[101] | ミヤハラさんからのコメント(2021年07月20日 14時12分06秒 ) | パスワード |
白石様、うめきち様
お久しぶりです。
宮原です。
白石様、入院なさっていらっしゃった事を知り
お身体の方を心配致しておりました。
数回、メールを送ったのですが、送信出来ませんでした となり
困惑しておりました。
うめきち様
ブログの方へ頂いたコメント ありがとうございます。
すでに、ご覧頂けたかと思いますので、削除させて頂きます。
白石様、うめきち様
こちらに コメントさせて頂く事をせずに申し訳ございませんでした。
色々考える事は うめきち様へのブログコメントで書かせて頂きましたが
お二人のご調査に参加させて頂く事を控えていた もう一つの理由は
私が今、出来る事を精一杯行って
壊れてしまった故郷と 悲しみの為に心が張り裂けそうになっている故郷の人達に、私個人の先祖調査という事ではなく
皆の故郷 球磨 に 何かしら誇りを持って頂く事を心から念じて
個人の歴史ではなく「球磨・人吉」という大きな視点 の故郷の歴史を
この地の人達、さらに この地を出て行かれた方々に届けたい!
と調査の方向を変えて前に進んでいるからです・・・
令和2年の7月4日
一生 忘れないでしょう。
この地に住む人達は 皆、一生忘れる事が出来ない日となりました。
あの日、以降・・・
被害を受けた方々と被害を受けなかった人達は一心同体となって辛い思いを乗り越えてきました。
私の知人の相良村の方は、自宅が被害を受けなかったからと
救援物資を自宅に運び入れ、中継拠点としてご尽力なさっていました。
コロナ禍でボランティアの受付が県内居住者のみに限定されていましたので
被害を受けなかった地元の人達は、農作業の傍ら、仕事が休みの日、等
皆で、被害を受けた地域のボランティアに参加されていました。
私は自分が出来る事を精一杯やらせて頂こう と思い、被害文化財の調査等に参加させて頂いたりしましたが、病弱な身体をこの時ばかりは憎く思いました・・
ブログの方では、最初は・・
歴史の事を考える心が 悲しみで押しつぶされています
と書いた後
現状を多くの人達に知って頂こうと 内容をかえて、歴史以外の事を書いていました。
本当に
歴史の事を考える心が 悲しみで押しつぶされていました・・・
しかし、次第に
『この地の方々が故郷を誇りに感じて頂けるように 少しでも前を向いて頂けるように 』と書かせて頂きながら、古代の治山治水等にも触れて参りました。
でも・・今はまだ 心から自分個人の先祖の歴史を紹介する気分、心には・・なれていません。
今は、私が調べる事が 少しでも多くの人達に球磨を知って頂く事に繋がれば!
少しでも多くの「被災した故郷の現状に・・心が疲れた人達」に明るい気持ち
故郷に誇りを感じて頂ければと それだけが私の使命だと思って
調べた事をブログに書いています。
昨年の大災害以降のブログ一覧です
7月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202007.html
8月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202008.html
9月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202009.html
10月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202010.html
11月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202011.html
12月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202012.html
令和3年1月
https://ameblo.jp/hirom0211/archive-202012.html
もう・・きりがないですね・・
球磨川鉄道も 悲惨な状況です
テレビには紹介されない 土砂崩れ箇所は もう数え切れません・・
未だ、復旧に手が付けられていない所 は 数え切れません・・
槻木地区は つい1か月程前にようやく多良木に抜ける道路が通行できるようになりました。
私の住む集落も さら地になったお家もあります。
幼なじみでした・・
きっと 私の心も激しい痛みを味わって 壊れかけてしまっていたのかもしれません。
白石様は 歴史が全く苦手だった頃の私のお師匠様です。
心から 感謝致しております。
白石様
本当に 申し訳ございません。
今は、故郷全体の歴史を勉強する、調べる事に私は集中しております。
中々、私や白石様のご先祖様 個人々のご先祖様に意識を集中する事が
出来ないのです。
ご理解下さい <m(__)m>
しかし、ご調査は時折 拝見しております。
どうか お身体十分にお気を付けになられてお過ごしになられて下さい。
皆様方のご多幸をお祈り申し上げます
宮原
[102] | 白石さんからのコメント(2021年07月20日 18時52分52秒 ) | パスワード |
みやちゃん お久しぶりです
コメントいただけるほど 回復しておられたのですね
うれしいです
先日事務所にお電話したのですが
おなまえのほうをいわなかったので
わりません 知りませんという
へんじでした
そっせんして 災害復旧に取り組んで
おられ お忙しいとおもいます
平家物語に関しては ぼちぼちとりくんで
いきましょう
いう人間がいなくなったら それこそ
お話もきえてしまうでしょう
おどんぎゃあは 源氏たい うちはへいけたい
といっていたのもどの家がそうだったのか?
小さな集落だから 家の名もわかるのに・・・・
うめきち様
山本山
お茶漬けの山本山 の ことでしょうか?
うちの場合 母方 山口の佐田と代々つうこんしたいえにあります
この山本は下益城郡 山本郡は 九条の荘園があったところ
うちの爺様は おつきがついていた人で
自分では金感情がわからず 請け判をおしては
いえをとられること 二度サンド
どうにか 私たちが 子供をだいがくをだせるようになり
家ももてました
戦時中 朝鮮元山あさひ町で 畳を作り
億万長者になり 敗戦ですってんてんになってかえってきたので
親も頑張ったと思います
平家はなぜ西海をさして落ちたのか
?
今心をしめているのは このことです
初神集落は阿蘇神社があるように
由緒ある家が多い
中村から 男子が尾方に入り 女子が
た女子がううちのとなりの平川に
この平川は学校の先生は良峰といっていました
萩の高岡から 父のいとこが婿養子に入りました
初神尾方から嫁・・・おばあちゃん
高岡から婿養子・・・ちちいとこ
いまの嫁一武からきている
一武と木上はかわひとつで
むかいあっている
断頭坂で相良氏にきられた良峰師高はぐんしにものる
溝口は坂下にありますが
もうみんな けろりとさすれ
仲良くしています
宮原観音堂
二代目天皇妃を祭る
小さいけど 歴史を覗けば
奥深いところです
私の筆のつたなさが
くやしい
[103] | 白石さんからのコメント(2021年07月20日 21時50分12秒 ) | パスワード |
うめきち様
富永はっしゅくはしりませんでした
一つ上の自転車事故でしんだ富永君は 下唇が厚く
たれていました事故の後 交通安全の歌 くるくる車は左側 前見て右見て運転すれば
今日も自己なしけがもなし
というう歌ができ わたくしたちも その場所に歌いに行きました
下は
100メートルくらいある断崖絶壁でした
定規山
もとは平貞能に関している
貞能について 以前 集落の川下にある 小さな地蔵堂について
書いたことがあります
同族にだましうたれ 宝物も奪い去られた 相良氏初代の
たましいを祭ると伝えます
なにか 共通するものがあるかもしれませんね
[104] | うめきちさんからのコメント(2021年07月20日 23時42分54秒 ) | パスワード |
山本山
山本という人ですがおそらく紀北とか近いのだと思います
今でもご活躍と思います
平貞能
平家物語でも名前があります
きちんと読みたいですが
いつも作者の名前に目がいってしまい詮索していて
定規山
さだ とも読めます
陸前とも共通しますでしょうか、今では政令指定都市の中ですね
富永
噂だけではいけませんが
大事にしていきたい記憶です
私も転々としていて
忘れていました
近頃は未研究の領域に入ってしまったと思っています
[105] | うめきちさんからのコメント(2021年07月20日 23時54分30秒 ) | パスワード |
慶州の知人がいますが
どうしているのでしょう
元気だといいのですが
本来ならもっと隣国を理解できたのに
と思いますが
ときおり新聞でまともな情報を見て安堵します
謎かけはしていません
贏姓
(字が違うのは分かりますが)
調べられそうでしたが
断念しました
[106] | うめきちさんからのコメント(2021年07月21日 00時09分56秒 ) | パスワード |
姫姓は一応調べていました
書きすぎたのでまた今度にします
[107] | ミヤハラさんからのコメント(2021年07月21日 08時03分16秒 ) | パスワード |
白石様 おはようございます。
求麻郷土研究会で人吉・球磨地方の様々な所を周っていますが
各地域の皆さん、沢山の伝承を持っていらっしゃいます。
そのお話を記録して研究も行われていますよ(^'^)
だから、白石様は、ご自身が聞いて来られた事を「しっかりと伝えて」いかれて下さい。
私は、故郷の全体的な話を今、調べています。
紹介出来ていない、遺跡も数多く、もっと詳細を見れば、さらに深い古代の謎に繋がると確信しています。
現在、色々な活動もあり、ブログの方も毎日更新ナンテいう事は不可能で・・
こちらも、拝見していますが、コメントをすぐに書くという事は難しい状況です。
でも、気になる事は必ず、お知らせします。
所で、うめきち様へのブログへのコメント返信(削除した)にも書いたのですが
白石様は どこに電話をかけていらっしゃるのでしょうか・・?
私はどこの事務所にも務めていませんし、家は事務所ではありませんし・・
自営業でもありません・・
???????
個人的なやり取りは、以前のようにメールを送って下さい(^'^)
そうして頂くと嬉しいです。(^'^)
猛暑ですが、お身体お気を付けになられて下さい。
宮原
[108] | うめきちさんからのコメント(2021年07月21日 14時44分15秒 ) | パスワード |
皆様
相良 良峰をとばしたようになっていますが
そのつもりはないです
大事な言葉ですから精査は試みていました
中村 佐田について私が簡易にしてしまったようで
そこは気をつけますが
別で時間をとりたい話があります
それにしても西国 西海をどう使い分ければ
いいのでしょうか
ニュアンスに差違があるような
こういう時は
禅門が羨ましくなります
外国にも目を向けていた筈です
[109] | 白石さんからのコメント(2021年07月21日 20時39分37秒 ) | パスワード |
みやちゃん
私短絡過ぎました
お名前をお聞きしていたので また 小海議員をだしている
宮原ということだったので
一度だけ 災害の後かけました
あさぎり町のこと しりたかったので
過去には 連絡をとったことは ありません
白石の遠祖については わかっています
けいずがないというだけで
これからは書こうと思います
それと 遺言書
これは だいじだよと今直面している知り合いがつくづくいっています
たいへんです
財産問題が勃発しているんです
田舎はわけるといってもとちしかないし
[110] | うめきちさんからのコメント(2021年07月22日 07時20分50秒 ) | パスワード |
白石さま
溝口十郎は実在の人なのでしょうか
あのあたりからなっていけばと思いますが
下益城
多分土地鑑がないだけで
聖火リレーの人ではと思いました
どこかで登美族もあるのでしょうか
富永=豊永の話は知りませんでした
大根紋
私の中では辻褄があっているのですが
多分 禁じてです
間に合うのでしょうか
[111] | 白石さんからのコメント(2021年07月22日 09時26分22秒 ) | パスワード |
上村を可美村と呼ぶ
知りませんでした
ただ 家があったところは 上村上堀の角うえむらかみほりのすみでした
かみについては 中村の家があった初が神が上初神 下初神のつかいわけをしていて 小川を引き込み 水を使いまわす(野菜あらい せんたくなど)が珍しいと
放送局が入ったことはあります
その時 ついで? に 五木の方の黒いカラスの羽を傘につけて踊る
盆踊りがしょうけいされました
平家の落人の人が 人に顔を見られないようにしていたそうです
輪になって踊る豊穣の踊りか?
相良氏は 上相良氏 下相良氏がありました
上相良氏は 多良木などのほう
かみさがらし といいます
下益城郡
こちらは 祖母のでどころです
木原神社があり 平江が 大宮司だった
おみくじなど売っていたそうです
地域の崇敬をあつめていたそうです
4代くらいのけいずも でていたことがあります
[112] | 白石さんからのコメント(2021年07月22日 11時39分03秒 ) | パスワード |
111の 初神は
はしかみ と呼びます
はしは 最初の意味のはし
初めて阿蘇神社がまつられ
つけられました
相良村
もとは ちがう 村名でしたが
相良氏の恩情忘れがたく
相良村になりました
今 溝口君のお鼻は 目と目のあいだから
ぐわーと もりあがり 筋の良さをおもわせます
ボランティアをしており 心優しく
相良氏治政のころも 民のことを思って
していたのでしょう
[113] | 白石さんからのコメント(2021年07月22日 12時06分20秒 ) | パスワード |
あさぎり町の 千手観音堂
ここに 橘氏の女子 千寿の前の話があり
過去に 本多 本庄の言葉が出たことがあります
島津に嫁いだ人のはなしです
これも 最後 もやもやと
ただ 高岡 白石 などなど
からまっていたことは たしかでした
[114] | うめきちさんからのコメント(2021年07月22日 12時46分14秒 ) | パスワード |
確かに順法寺はみていました
本当なら直ぐリサーチしたいのですが
初神 驚きの発見でした
言われてみれば初神 槻木
遠いところで佐田と関連したりするならば
高岡さんもお世話になったのは合ってます
白石さまもそうですが
久慈も調べねばなりません
[116] | うめきちさんからのコメント(2021年07月22日 14時21分17秒 ) | パスワード |
開平江川
忘れていました
意外と身近にも跡があるとは思いましたが
本日二つ目です
四浦のひらごお
訛りの強い家族がいますし表記は気になりません
[118] | 白石さんからのコメント(2021年07月25日 20時59分46秒 ) | パスワード |
守富には木原不動尊がおられます
不動観音をまつる
平江が大宮司で 富くじをうっていた
平江は呉のほうでは ひらかわと
よみます
平河は 良峰
断頭坂で相良氏にきられた良峰師高
相良氏は 溝口
溝口は豊臣
同族に切られた
溝口は 木下も擁していて
初神の溝口家の太い柱は
熊本城を解体したとき持ってきたものといいます
お茶の伊藤園は 初神溝口といとこから 出ているときいています
うちの祖母は平江から 白石へ嫁
庄屋の娘で 天井まで届くタンスがなごりです
ひらえからは 高岡へも嫁
出来た子が 平川へ婿養子
父といとこ
白石や山口と結びつき
ぐるりん グルリンとヘビの頭としっぽに
下益城郡では 山口平右衛門大塔の宮の名が
後醍醐天皇とのつながりをおもわせ
父の栗山が 股野であったことを
うらづける
なんにもない山の中ですよ
ぽちっとわいた湧水が冷たくきれいで
きれいです
佐士原
相模の方にあるそうです
那須の御用邸もそちらかと
那須の大八から 思いを馳せてみました
守富には木原不動尊がおられます
不動観音を祭る 地域の寺神社はみなそうです
平江が大宮司でおみくじをうっていました
この平江から 祖母が白石へ嫁入り
庄屋の娘で天井までタンスが名残です
平江からは 高岡へも嫁入り
その女子は 父ともいとこ
山口平右衛門は 大塔の宮の名ですが
後醍醐天皇とのつながりもみられます
何にもない山の中ですが 股野の言葉はわすれてはいけないと
思いまえす。
越後平野からつれもちでやってきた 溝口と白石
今も集落の上下ですんでいます
もちろん 平川も
源平の争乱から ずいぶんとけろりと
けろりと忘れて 仲良くくらしています
[119] | 白石さんからのコメント(2021年07月25日 21時17分35秒 ) | パスワード |
平川家についてというブログ 79で
高階氏は宮原とありました
西経時点では 高階氏は 山口
まだ なんだか つかめませんが
古いころのつながりだろうとおもいます
[121] | 六五四さんからのコメント(2021年07月28日 18時16分08秒 ) | パスワード |
キリンソウというものは初めてしりました
てっきりトウダイグサに似ると思いましたが
どちらも粋な植物です
前の川にもあったら面白そうです
今度しらべ直してみようと思います
[123] | ロコンド_JPさんからのコメント(2021年09月23日 11時47分43秒 ) | パスワード |
忠告しますが
すこしでも良心があるのなら
謝っていただきたい
370万人を馬鹿にしないで下さい
[124] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 17時38分05秒 ) | パスワード |
彦熱を見てきました
やっぱり門司の件しってますね!
[125] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 17時43分22秒 ) | パスワード |
おっしゃりたいのは戸上の話ですよね
探したかったのに時間を使いすぎました!
[126] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 17時59分06秒 ) | パスワード |
高陵が松浦ということもありますか!?
橘と松浦が揃ってるなら すごい!
秦氏も でしょうか!
[127] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 18時02分52秒 ) | パスワード |
秦氏ですが
師長にいた?とも思いますが
畑総はどうでしょう 水の集まるところにいたということもあるのではと思います
畑総で検索してみてください!
[128] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 18時24分07秒 ) | パスワード |
字立を 眺めてなかったら、こちらには
書き込んでなかったとおもいます
村上源氏は思い当たらなかったです
[129] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 19時55分55秒 ) | パスワード |
高陵は源氏なのかなとは思いますが
家は良峰よりな気がしますが
橘が間に入っているのでしょうか
[130] | 六五四さんからのコメント(2021年10月13日 20時13分58秒 ) | パスワード |
亦野の貴重な話を有り難うございます
橘ですが一般にある紋なのでしょうか
[131] | うめきちさんからのコメント(2021年11月28日 15時51分20秒 ) | パスワード |
連絡してきました
当分こちらを見つつ調べ倒します
入交さんの記事をスクラップするつもりです
山入が頭にあったのですが
「入」つながりでしょうか
[132] | うめきちさんからのコメント(2022年03月02日 08時24分08秒 ) | パスワード |
玖月善女の話を見ていました
皆様 復帰頂いたら 三方五湖など触れてみたいのですが
[133] | うめきちさんからのコメント(2022年03月02日 14時37分48秒 ) | パスワード |
好材料をと(抵抗があったので)思いましたが
瀬頭が川頭 ということは
ありますでしょうか
水の関係で見るとすっきりします
[134] | うめきちさんからのコメント(2022年03月08日 20時44分11秒 ) | パスワード |
私は高岡で頭が一杯なのですが
もとより最近の若い人には八卦を知ってもらいたいものです
私は飽きっぽいので五行が精一杯です
全員に教えるしかありませんよね・・
二十八宿は・・
もういいです
[135] | うめきちさんからのコメント(2022年04月07日 00時51分27秒 ) | パスワード |
あの一つお伺いしたかったんですが
七千傑様がこのスレッドを立ち上げておられたのでしょうか
私は高岡研究の前に連斎研究をせねばと思い直していますが
是非是非 軌道修正をお願いします
真面目に探究させて下さいませ
[136] | うめきちさんからのコメント(2022年04月07日 01時12分39秒 ) | パスワード |
私としては
なんだか高岳と連斉で近くと感じる節もあり そうであって欲しいと悩み込んでましたが
サイトを最近になり遠近あたると高岳というより 高岳の周辺におられる方の末裔に接するような気心がしれたという部分に入ると感想を持ちました でなければ高岡のこのスレッドは選びませんでした
笹井は珍しいですね こちらでは土州 青森 下北(青森) 近江 を連想することがありますが 今のところ直ぐ近くの坂はかなり急勾配で落人との連絡というのもすくなからずと思います
今時になって中根氏との復縁をするべきと思っているしだいで
時効ではない筈で再度こちらへ書き込ませて頂いたしだいです
[137] | うめきちさんからのコメント(2022年04月07日 01時41分51秒 ) | パスワード |
宮原様にはかなりお世話になりました
私は斜め読みをしてしまい信兼以降のことは あまりわかってません
東氏でも説明がつくのやもしれませんが
順法寺の方がより鮮明でしょうか
また見直さねばなりません 御調についてですが もはや私としては皆様を頼る事を考えねば先へ進めませんでした
ご迷惑をおかけし深く反省しております
[138] | うめきちさんからのコメント(2022年04月07日 13時34分25秒 ) | パスワード |
源氏 〈も〉 上手く平氏 平家 親橘 と関わりあったのかもしれませんね
余計な話はしたくないのですけど
橘が親源氏との考えは持てませんでした
一応 為朝 全成 白川 多田満仲の近くと
それで信兼 兼隆は絶対と思ってましたし
しかし萩形コーォド 高岳でいうのか
もっと理論武装しなきゃと思います
[141] | うめきちさんからのコメント(2022年04月08日 01時57分26秒 ) | パスワード |
個人情報を書いてしまったので
上記2つは消しました
皆様 よかれと思って二方 にふれたのですが
ウチは河津です
でも口ヶ島にも呼ばれたような気がするのです
同じところを突いてます
[142] | うめきちさんからのコメント(2022年05月06日 20時01分08秒 ) | パスワード |
向こうも上がってますが、
黒田の銅像はあります。
谷水屋も近いです。
[143] | うめきちさんからのコメント(2022年05月07日 12時09分27秒 ) | パスワード |
於保 の言葉を見て久々に思い出しました。
では私は井田松江探検?を始めるか準備を進めて見たいものです、
[144] | うめきちさんからのコメント(2022年05月15日 22時04分02秒 ) | パスワード |
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7453223
当荘内の山田城が南北両朝の争奪の所であったことが知られる康永4年11月日の税所宗円申状案(同前)に「於宗円者,為御方致忠勤之間,此等子細永吉庄御代官新御領平六入道宗昌依令注進」とあるなお,年未詳3月29日付の少弐頼尚書状(同前)に「慶寿寺僧了監寺永吉ニ下向事候」,同じく12月11日付の少弐頼尚書状(同前)に「永吉庄事,条々注給候事,喜入候」と見えるさらに年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(同前)に相良遠江守(定頼)分として,「一所 肥後国球磨郡永吉庄半分〈百七十五町,五百石,三百貫 □河左近允〉頼尚跡」
とりあえず上記を貼ります。
電子辞書では無い細かいのもありました。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |