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 投稿番号:101287 投稿日:2012年07月17日 20時09分23秒  パスワード
 お名前:六原
平頼盛の子?とされる隆弁と光成について
キーワード:頼盛 隆弁 光成 静遍
コメントの種類 :質問  パスワード

初めまして。
先日、放映中の大河ドラマをちらっと見たついでに平頼盛の家系について調べていたのですが、少し分からないことがありましたので質問させて頂いています。
(説明の便宜上、必要な段落に番号を振ってあります。)


1. とあるサイト(http://www.geocities.jp/okugesan_com/heishi.htm )を見ていましたら、頼盛の子に「隆弁」という者がありました(伊勢平氏 →〔d〕正衡孫 に記載)。
しかし、他のサイト等ではこの隆弁についての言及はほとんど出てきません。(今のところ専らインターネット上の情報しか確認していないので、この出典の「系図綜覧」は未確認なのですが...。)

2. また、同サイトの別のページ(http://www.geocities.jp/okugesan_com/takafujison.htm )を見ましたところ、(藤原)重長なる人物の子に「光成(猶子。実平頼盛男)」とありました(高藤孫の部分、高藤→定方→朝頼→為輔→宣孝→隆光→隆方→為房→為隆→光房→定長→重長→光成 の順で参照)。
この書き方でいくと、光成は実親は平頼盛であり、後に重長の猶子となった...ということですよね? しかし、頼盛に光成なる子がいたという記述は、ここ以外には見当たりませんでした。(一字違いの光盛はいますが、まさか書き間違えということはないと考えています。)

つまり、分からないのは、
・隆弁とは何者か、本当に頼盛の子にいたのか
・光成とは何者か、頼盛の実子なのか
という2点です。

3. この点、もう少し色々と調べていましたところ、頼盛の子とは別の隆弁(四条隆房の子)について書かれているサイト(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/nakagawa-hiroo-ryuben-01.htm )で、「本稿とは別人の隆弁に、藤原氏師通流に仁和寺執事である成海の二男・隆弁 (仁和寺の僧)、大中臣重長の二男の隆弁 (僧) がいる」(要約) という記述を見つけました(1章の10段落目)。(ちなみに、大中臣氏は、藤原氏の前身である中臣氏の一流です。)
(また、余談で関係はないと思いますが、四条隆房の子である隆弁の母は葉室光雅の娘ですが、その父の隆房は正室に平清盛の娘を迎えているようです。)


これら1、2、3の情報を総合して考えてみますと、一つの可能性として、頼盛の実子で大中臣重長の猶子となり後に僧となって隆弁と名乗った者がいた、と考えられるのかなと思いました。
しかしそうすると、「光成」という名前はどこにいった、という疑問が湧いてきます。この場合、その子が元服して光成と一旦名乗った後に僧となり隆弁と名を 変えたとも考えられますが、通常、隆弁のような僧名で名が伝わっている者は、幼い頃から仏門に入っている場合が多いようにも思いますので、果たして一旦元 服していたのかどうかも疑問です。ただ、西行や信西のように元服後に出家しているが僧名の方が有名という者もいますので、この疑問は一概には相当しないと も認識はしています。

もう一つの可能性として考えてみたのが、隆弁とは、頼盛の子の一人である静遍の以前の名ではないか、ということです。これに関しては、何ら史実的な根拠はなく、あくまでも私の想像に過ぎないのですが...。
静遍について、参考までにURLを載せておきます。
 http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/gunzou/jouhen.html
 http://kotobank.jp/word/%E9%9D%99%E9%81%8D
要約しますと、静遍は、初め醍醐寺(真言宗)に入って勝賢の教えを受け、次に仁和寺(真言宗)で仁隆に学び、その後に浄土宗に帰依して高野山の明遍に師事をしています。
つまり、静遍という名は「遍」という漢字からも明遍の下について以降の名であり、以前は別の僧名を用いていたのではないかと考えています。仁和寺での師の 名が仁隆であることからも、その弟子が一字を受けて「隆弁」と名乗っていたことは十分に有り得るのではないか、と考えた次第です。


と、このようにあれこれ考えていたのですが、いかんせん手元に参考になる文献がなく、想像の範疇を越えません。
実際のところ、「隆弁」や「光成」の正体は明らかにされているのか、また歴史資料を基に何らかの考証はなされているのかなどなど...もし些細なことでも何かご存知でしたら是非教えて頂きたいと思い、質問させて頂きました。
長々と申し訳ありません。

[1]中原さんからのコメント(2012年07月18日 06時07分27秒 ) パスワード

おはようございます
なんと 興味深いコメントがでているのか?と思い 投稿させていただきました。

詳しくは知りません。また専門的な知識もありませんが

隆弁 を 中原隆弁で検索をかけたら

貫達人.『鶴岡八幡宮寺』.隆弁がでました。

また熊本県球磨郡誌には
八条女院預かり所 対馬前司中原清業
がおり 彼は、

平頼盛の後見人でもあった。

頼盛との接点は私の知っているところではここですが

もう少し詳しくわかったらまたコメントさせていただきます。
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年07月18日 13時46分09秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>つまり、静遍という名は「遍」という漢字からも明遍の下について以降の名であり、以前は別の僧名を用いていたのではないかと考えています。仁和寺での師の 名が仁隆であることからも、その弟子が一字を受けて「隆弁」と名乗っていたことは十分に有り得るのではないか、と考えた次第です。
 
「系図綜覧」によれば頼盛の子は保業、保盛、為盛、仲盛、知重、光盛、静遍、女子(藤原基家室)、隆弁の九人。
静遍は大僧都、号小野僧都、勝賢弟子で隆弁とは別人。
 
勝賢は藤原通憲(信西)の子で静賢の弟、有名な鹿ケ谷謀議は静賢の鹿ケ谷山荘で行われた。
当時の信西一族、頼盛一族、中原一族は反平家で動いていた様に思われる。
静遍の静が静賢の一字ということが暗示している。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm#002
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#001
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#002
[3]中原さんからのコメント(2012年07月18日 19時57分17秒 ) パスワード

同じく貴氏の書く隆弁は
四条隆房(1148〜1209.62歳)は平清盛の娘を正妻とし、その間に生まれた嫡子隆衡(1172〜1254.83歳)の子が後深草院二条の祖父に当たる隆親(1203〜1279.77歳)である。つまり隆弁は隆親の叔父。

[4]中原さんからのコメント(2012年07月18日 21時18分44秒 ) パスワード

同じく貴氏は 園城寺出身と書き
松殿系図では
 隆弁 園城寺
とある。

 投稿番号:101195 投稿日:2010年09月09日 23時30分15秒  パスワード
 お名前:もみじ
平清盛の子孫
では
隆衡の娘が(四条)鷲尾貞子です。つまり 両天皇は清盛娘の玄孫になるのです。(両院並立のもとになる)
とある。

この 「鷲尾」は 中原。
[5]中原さんからのコメント(2012年07月19日 23時11分39秒 ) パスワード

このころは女の系も見たがよいのでは?
ウィキ参照
3にでる隆房 藤原隆房=四条隆房=冷泉隆房

藤原光雅=堀河中納言=葉室光雅
言仁親王(のちの安徳天皇)の職事となり、清盛の命により新関白近衛基通の執事を務める。法皇と源義仲の対立による法住寺合戦後に松殿師家の年預となる。

女子が藤原隆房室・男子が男子:藤原顕俊(1182-1229) - 藤原宗頼の猶子

藤原顕俊
公卿類別譜 四条別系
藤原北家高藤流。高藤11代孫光雅の子顕俊を祖とする。又号岩蔵。
四条家系図
顕俊までの系図は、葉室家系図を参照。


藤原 顕俊(本名忠方)
※本名は、尊卑分脈によれば、光成。



[6]中原さんからのコメント(2012年07月20日 00時10分04秒 ) パスワード

西園寺金経の子供・西園寺実氏
西園寺実氏 妻・四条(鷲尾)貞子・・・父は四条隆衡)

西園寺公経は平頼盛の曾孫

源義朝━坊門姫(一条能保室)━一条全子(西園寺公経室)━西園寺綸子(九条道家室)━ 九条頼経(鎌倉幕府四代将軍)━頼嗣(五代将軍)

平頼盛━持明院基家室━西園寺実宗室━西園寺公経━ 西園寺綸子(九条道家室)━ 九条頼経━頼嗣
[7]中原さんからのコメント(2012年07月20日 00時43分07秒 ) パスワード

隆弁の初名は「光覚」

藤原光覚で検索すると藤原基俊の息子は、奈良の大きなお寺・興福寺のお坊さん 光覚(こうかく)でした。

という表題がでる。

興福寺と隆弁で検索
原文『とはずがたり』巻2.隆親、隆顕らの贖い、隆遍鯉を切るが出て、おおよそ隆弁のことである。隆偏との対比



[8]中原さんからのコメント(2012年07月20日 02時07分22秒 ) パスワード

藤原基俊は藤原道長の曾孫で、父の藤原俊家は男子・基頼が「時明院家」の祖になる。
[9]中原さんからのコメント(2012年07月21日 02時17分57秒 ) パスワード

私の推理
>四条隆房の子である隆弁の母は葉室光雅の娘ですが、その父の隆房は正室に平清盛の娘を迎えているようです。)

藤原基俊の子・光覚(こうかく)は時明院家を軸に西園寺家とも関与。

葉室光雅は
言仁親王(のちの安徳天皇)の職事となり、清盛の命により新関白近衛基通の執事を務める。法皇と源義仲の対立による法住寺合戦後に松殿師家の年預となる。

と初め平氏政権によっている。平氏滅亡後十津川あたりで「普賢寺」殿と名のった基通の失脚(?)後、西園寺家によっていったものか?

西園寺実氏と四条(鷲尾)貞子との間の女子・よしこが両院並立のもとになる天皇をうみ、以後 代々皇后は西園寺から出すことになる。

それは自然幕府にもよっていくことになる。

光覚は隆房の子として「隆弁」になっていった。

清盛女子が多く関与する人たちの中にいて、後幕府に厚遇された「頼盛」や政権に関与していく「西園寺」の中にいる形。

松殿系図では
 隆弁 園城寺
藤原忠通の次男・基房〔松殿〕―忠房―良嗣―隆弁 園城寺とあり、

藤原でおりてきて時明院に別れていく基家の次男・保家の母は平頼盛の女子。 持明院 保藤は基保男(実松殿良嗣男)。

[10]中原さんからのコメント(2012年07月22日 06時03分01秒 ) パスワード

平頼盛の系と四条(鷲尾)との関係がもう少し詳しくわからないか?とおもっていますが

みつかったのは

 投稿番号:100367 投稿日:2002年09月22日 22時08分00秒  パスワード
 お名前:代理投稿
平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔で

また池禅尼の父、藤原宗兼の妹は藤原家保の室となり、家成を生んでおり、
家成の二代孫、隆房は清盛の娘の夫であり、
また家成の娘、経子は平重盛の室になっており、また家成の子、成親の娘は平維盛の室になっています。

というものでした。すみません。人様がしらべられたもを勝手にあげて・・・

家成の二代孫・隆房は清盛の娘の夫 という部分が四条隆房と思われる。
宗子の子供が頼盛



[12]六原さんからのコメント(2012年07月26日 01時35分00秒 ) パスワード

所用ありまして返信が遅くなりました、大変申し訳ありません。


>中原 様

鶴岡八幡宮寺の隆弁は四条隆房の子ですよね。光覚もこの隆弁の初名のようですね。
ただこの隆弁は、生没が1208年〜1283年とはっきりしており、頼盛の没年が1186年であるため、頼盛の子とされる隆弁とは別人であると思われます。この点、中川博夫氏も無関係と書かれていたように思います。
(また、藤原基俊の子・光覚も、基俊の生没が1060年〜1142年ですので、鶴岡八幡別当となる光覚とは別人のように思います。)

中原清業は頼盛の家人ですよね。この方は隆弁とはどのような関係なのでしょうか。すみません、中原隆弁でも調べてみたのですが、私の探し方が悪いのか、繋がりを探し当てることが出来ませんでした。

[5]で藤原顕俊の本名が光成とのことですが、女系も辿って調べてみたのですが、頼盛の子とされる光成の猶親である藤原重長との関係を見つけることが出来ませんでした。一口に藤原氏といっても系統がかなり多いので同じ名前が付く多いのでしょうかね。



>日本の苗字七千傑 様

系図綜覧には「静遍」と「隆弁」の名前が両方同時に載っているのでしょうか? そうだとすればやはり両者は別人ということですよね。想像で勝手なことを申し上げましてお恥ずかしいです...。
それにしてもこの時代は信西一族の僧侶が多いですよね。ご指摘のあった醍醐寺の勝賢も、仁和寺の仁隆も、高野山の明遍も、全員が信西の子のようです。つまり、静遍は生涯を通して信西の子らに師事していたのですね。

系譜によっては、平宗清(宗盛の嫡男)の妻も頼盛の娘であると書かれているのですが、平家嫡流の妻ともなればその事実を忘れられていたというのは考えにくいとも思うのですが、それでも系譜には書かれていないことというのは良くあるものなのでしょうか。重長の猶子となった光成についても、このように系譜上省かれた一人と考えて良いのでしょうか。

頼盛の子らについては、その他にも、仲盛と知重については不明な点が多かったり、資料によっては為盛が次子か三子かで諸説あったりと、色々と分からない点が多いですよね。
[13]中原さんからのコメント(2012年07月27日 23時14分10秒 ) パスワード

こんばんは
「系図綜覧」・・・図や覧は昔の字ですが、コピーを前にとったものがあったので、それを見ました。

平氏系図
清盛流系図
頼盛の子供・僧隆弁(僧や弁は昔の字)  法眼とかいてあります。


[14]中原さんからのコメント(2012年07月28日 00時20分39秒 ) パスワード

中原清業と隆弁との直接の関係もわからないようです。

バイネッケ図書館所蔵の日本中世古文書から という表題のネットに
兼実の日記の1184 年4 月1 日と7 日の条に平頼盛の後見として清業の
名が見えるのである。

兼実の日記に清業が頼盛の後見として登場するのは、この時期、
頼盛が鎌倉に滞在中であり、清業が頼朝と後白河法皇との間の連絡役として上洛したこと
を記したものなのである。

とかかれており、頼盛の子供・隆弁とも近くにいたのだろうと推察します。


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