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 投稿番号:101284 投稿日:2012年06月29日 18時28分36秒  パスワード
 お名前:Hattori
平忠正の孫の長光が服部氏なのはなぜ?

コメントの種類 :人物  パスワード

こんにちは。
以前鳴海伊賀衆について質問をさせていただいたことのある服部です。

私はずっと服部の家祖は平家長で、家長は平家貞の息子かあるいは貞能
の息子(家貞の孫)かと思っておりました。しかし日本の苗字7千傑を拝見すると忠盛の弟、忠正の子孫であるとされております。

こちらのHPをご覧になっている皆様はどのように思われますか?

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月01日 03時53分24秒 ) パスワード

Hattoriさん

>以前鳴海伊賀衆について質問をさせていただいたことのある服部です。

http://hikoshima.com/bbs/heike/101108.html
コレですね。

その時に書き込みした者です。
お久です。


   タダしく理解するには教育委員会などの発行する史料を読み込むことです。
   ただし、事実の断片ですね。
   それで「タダしく」と書きました。笑


        教育委員会発行の物なら、一応「正当」な話が書かれていると思います。


この平熱の服部系スレッドを見て頂ければ服部家の立ち位置が分かると思いますから
続きレスはしませんでした。

あなたのレスの中に答えが書かれてもいましたし。


   >私の家では桶狭間の際に今川方として戦に参加し、そのまま鳴海に居ついたと伝わっております。


はい
これで良いのですよ。

これがあなたの御家のアイデンティティです。
これで良いのですよ。


    まだピンと来てはいないでしょうか?

では書きますね:
尾張服部家は今川と手を結んでいました。
また当時、家康は今川方でした。確か大高に派遣されていたように記憶しています。


    家康は義元が死んでから岡崎に戻り、また信長に従いました。

        尾張南西部の服部家には義元の死は アッチャー ><; の出来事でした。
 


>残念ながら我が家は有松の服部様のような名家ではありません

いえいえ「残念ながら〜名家ではありませn」は間違っています。


有松の服部様が鳴海近辺の服部家ホンヤになるんだと思いますよ。
家紋からしても。

Hattoriさんのお家は、その家からの分家または関係者でしょう。

    家紋はいかがですか?
       並び矢じゃありません?
       または車とか?


有松の服部様も  横になった並び矢が車の中にあったような?
尾張の服部家ホンヤさんも、いろいろある使用紋の中に  車の中に横になった並び矢紋も使用なさっています。

   この車の中に横になった並び矢が当時の正統な家紋だったと思います。


        その家紋が戦国時代の家紋じゃないかって思います。
        デザインが古いから。

   服部半蔵の紋の1つに車の中に横になった並び矢を見たことがあります。

       ああ、やっぱり半蔵とも一族なんだって思いました。


            それに服部家が大久保家と仲が良くて共に疑獄事件で失脚したのはムカシは同じ平家だったからか
            と納得した記憶があります。


   
尾張南西部の服部家ホンヤさんの籠の家紋は  車の中に縦の並び矢紋  でした。

これが戦国時代が終わってからの正統な家紋になっていったと思います。
デザインがスッキリしているから。


    あ、うちはただの○の中に並び矢ね。
    服部家ホンヤさんに対しては馬の骨レベルの服部なので。


ワタクシ的な結論:
尾張南西部の服部家ホンヤさんと鳴海の服部様は、ムカシは一族だったんだな、って思います。


   まだ他に
   猿投にも戦国時代、立派な服部様の家があったようですよ。
   現在のことは知りません。
   さちこさんに調べて欲しかったのですが、さちこさんには興味が無かったようです。



戦国時代、服部家は尾張南西部で勢力を張っていて

    当時の服部村で日本史上の有名人物での女性は「お松さん」ね。前田利家の奥さん。
    今は七宝村(町)になっています。

       ここで七宝焼きをしている服部さんも尾張服部家の一族です。


戦国時代の服部家は当時斯波家に仕えていて
    足利将軍家に仕えていた服部家もありますね。それはさちこさんが詳しいです。

新参の織田家が旭日のごとく勢力を伸ばしていくのを腹立たしく思っていました。

    服部家ホンヤさんの表現では「うちと織田は犬猿の仲」。
    でもホンヤさんの奥様は織田家のお姫さまです。


で、尾張服部家は信長を今川義元と挟んで殺すつもりだった・・・



結局は義元が殺されてしまった・・・



だからHattoriさんの御家のアイデンティティはまさしく尾張の服部家の一族ですよ。
そして鳴海に勢力を持っていた有松服部様の一族。

  
前置きはこれぐらいで良いでしょうか?


    とにかく服部家ホンヤと半蔵も服部一族で、
    徳川家康を支えたし
    三河の服部も服部一族ですし。


ま、服部というのは三重県・愛知県・岐阜県・静岡県あたりの一大勢力です。  
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月01日 04時05分50秒 ) パスワード

ではタイトルにあるご質問の件ですが

7千傑さんも「え?そう解釈した?」とビックリじゃないでしょうか。



>私はずっと服部の家祖は平家長で、家長は平家貞の息子かあるいは貞能
の息子(家貞の孫)かと思っておりました。
>しかし日本の苗字7千傑を拝見すると忠盛の弟、忠正の子孫であるとされております。


う〜〜〜


最初に見るべき7千傑さんの表:
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
姓氏類別大観の「桓武平氏総括」ですね。


次に見るべき表:
「貞盛以降へ」

次に見るべき表:
「桓武平氏季衡流」

次に見るべき表:
家長の「《平姓服部氏》」へ。

この流れね。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月01日 05時22分06秒 ) パスワード

>しかし日本の苗字7千傑を拝見すると忠盛の弟、忠正の子孫であるとされております。



  >忠盛の弟、清盛の叔父、右馬助忠正は保元の乱で崇徳上皇方に従い敗戦後、子息等と共に六条河原において斬首される。 

  >孫の長光は乱後、母とともに伊賀に逃れて以後は服部を称する。後裔は江戸幕臣となる。



思い出してください。
平家の人間関係を。

   保元の乱当時、伊勢伊賀平氏には忠盛・忠正兄弟がいて
   家貞はこの家の家老だった。


忠正の孫・長光は当時いくつに相当するか?   
   赤ん坊。または元服前。ですよね。
だから孫は斬首の対象にはならなかった。
そして孫は母が伊賀に連れていった。そして、そこで成人して服部姓を名乗ることになった。



ここから何を推測しますか?
何故母は伊賀に逃れたか?


わたくしでしたら可能性として
孫の長光は誰の孫でもあるのか?を考えます。
   母方のことね。母方の祖父・曽祖父は誰だったのか?


伊賀に逃れた
ということから長光の母は伊賀の服部村関係者でしょう。


    ひょっとすると家貞の子の家長の娘だった可能性がありますね。
    そうすると長光母子が伊賀に匿われたり服部姓を名乗る理由に納得がいきませんか?


もし母が藤原から嫁に来たなら「藤原姓」または「平姓」を名乗ったと思うのよね。
何故、服部という俗姓なのか?
ここを考えてみてください。



平家は忠盛が亡くなった時、清盛が相続した伊賀の荘は
・長田
・六ケ山
・黒田
・広瀬
・阿波
・有丸
・服部
・鞆田
の8つ。

    他にも伊勢や尾張その他にも所領があったようです。
        尾張だと御器所なんか。←秀吉の母の出身地ね
        笑

       おねねさんの家も平姓がらみだから
       おねねさんと秀吉はモトモト結婚する下地があったんだろうな、と。


          お松さんは服部村在住で、庄内川の向こうの荒子の母方の従兄の前田利家と結婚したし。
          お松さんの父上は篠原って苗字だったように記憶。
  
          ムカシはどこの家の誰とも分からないような結婚はしなかったから
          おねねさんと秀吉は平氏平家つながりで結ばれるべき2人だったと思いますね。



    館ひろしの御先祖さまも忠盛の弟だったようですね。
    本姓平・俗姓館。


こんな感じで長光が生き永らえた理由を考えてみてください。

そして史料を取り寄せて仮説が合っているかどうか検証してください。



忠正の子の維盛の子孫も長く続きましたね。
この子の母の家の御蔭なんでしょうね。
そうすると母はどういう家から嫁に来たか?


その上に平家の嫡流公達に同名の維盛がいますよね。
ムカシは名前をつける時に今より気を使ったでしょうから
重盛の子の維盛という名前が同じということは


忠正の子の維盛の母は伊勢伊賀平氏がらみかもね。
それか藤原氏出身者。
   例えば、藤原家成の一族。これでしたら忠盛の正妻の宗子さんの従兄妹関係者だし。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月01日 06時04分02秒 ) パスワード

どこで読んだのか記憶に無いのですが

尾張南西部の服部家ホンヤさんは「源氏」を称しているようです。
さちこさんもお書きだったような。


わたくしが読んだ記憶では
1400年代に源氏姓に変わったような。
良王君のあたり。

   家康との関係から、家康が源氏の長者になった時にホンヤさんも再び源氏になったというのも考えられるし。



わたくしの母方は源平藤橘姓じゃないけど
源氏だし平氏でもあるし。

7千傑さんの表でもそうなってるし。


伯母達は源氏で通しているし。


    これまで続いて来た長い歴史の中で「お前も源氏でいいよ」「平氏でいいよ」というのがあったし。


    母方の家紋もいろいろあって、どれを使って良いのか、悩ましいところです。


母方の家の83代目の伯母から近年一子相伝の話を伝授された以上
わたくしはどうしたら良いの?
    源姓を称するの?
    家紋はどれを使うの?
と困っています。笑

    藤原氏の悪口を言うたびに母から「私のおばばさまの家の悪口は言うな」と言われるし。


日本人は何重にも血が交錯しているからHattoriさんが忠正の子孫を名乗りたかったら
それでも良いと思いますよ。


忠正の孫の服部長光さんも初恋相手は服部村の娘でしょうしね。
家貞の血を引く娘と子供を作っている可能性もあるし。
南北朝の騒乱の時にもやっぱり昔の仲間の子孫と子供を作っているんだろうし。

日本のような土地では全くの外国人の血が混じるというのはあんまりないしね。
   良い家なら考えられないし。
   たまたま中国人や朝鮮人の血がちょっと入ったあたりでしょう。
永きに渡って命のやり取りをして来た民族ですからヨソ者よりは先祖の分かっている人と子供を作って来たと思いますよ。



有松の服部様の家は、鳴海の服部家一族のホンヤさんだから敷居が高いと思うのは当たり前で
勢力が大きければ大きいほど、兄弟は他人の始まりだから、ですよ。
それに力があればあるほど兄弟姉妹の数が多いしね。

   昔は子供の数が20人以上なんてザラだもの。

     それで嫡流だの庶流だの、嫡男だの次男以下だのという区別や差別が存在したしね。

   身分は低くても手柄を挙げて名を高めれば本家に取って代ることが出来たしね。
   元はその家の出身者なんだから。


平忠正の孫の長光は家老だった家貞が保護したと思う。
それで服部姓を名乗ったと思う。
母方で家貞の血を引くなら、1番、座りが良いね。
[7]Hattoriさんからのコメント(2012年07月02日 11時09分30秒 ) パスワード

私のような不勉強者に対して余りある御教示、本当に有難うございました。
5年ほど前に父が亡くなり家督を継いでから我が家の成り立ちに
興味を持ちました。不勉強のまま、ただ的を得ない質問ばかりで大変失礼
いたしました。


我が家の家紋も丸に並び矢ですが、有松旧東海道沿いの井桁屋服部邸から歩いてすぐの所にやはり丸に並び矢の服部さんがおみえになります。こちらあたりがもしかしたら我が家と昔は親類だったのかもなどとぼんやり考えておりました。


忠正は主筋、家貞や家長は家来筋でも、確かに母方の血で混じり合ったり
後にお互いの子孫の血が所領の伊賀で混じり合った可能性は十分にありますね。想像力に欠けておりました。現在の服部は両方の子孫でも矛盾することではないのですね。

タイトルについては、申し訳ありませんが良いものが思いつきません。
宜しければ空の青海のあを様のおっしゃる「忠正の孫の長光が服部姓なのはなぜ?」にしていただけますでしょうか。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 13時00分35秒 ) パスワード

Hattoriさん

家紋は矢張り  ○に並び矢 ですか。
我が家と同じですね。


尾張南西部の服部家ホンヤさんは「うちは並び矢」なんておっしゃってて
実は  車に並び矢  でした。

   初めの紋の矢2本は横に寝ています。
   でも後には矢2本は縦に立っています。


半蔵の古い紋も鳴海の有松服部様の紋も  車の中に2本矢が寝ている。


でも「矢」というよりは何だろう?
名称は知りません。

鳴海の有松服部様と同じです。


また尾張南西部の服部家ホンヤさんの御近所の服部さんの紋は「矢筈」と呼ばれるなんておっしゃってました。
「く」の字だと。


尾張藩に仕えた服部家も「矢筈」と聞きました。

我が家やHattoriさんのは「矢筈」とは呼ばないですよね。


いろいろバリエーションがあるのは
嫡男の紋
次男の紋
3男以下の紋
庶流の紋
など区別・差別があったからのようですよ。

また、家来に下賜した紋もあるでしょうし

嫡男の家でも富裕であったりデザインに凝ったりして紋をスッキリさせていきましたしね。


例えば3男以下の場合は「並び矢」じゃなくて  3本矢  とかね。

だから昔は家紋を見れば一族の中の立場・分が一目で分かったんでしょうね。


ちなみにさちこさん宅は車の中に並び矢紋だそうです。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 13時03分41秒 ) パスワード

そうそう尾張南西部の服部家ホンヤさんの話では


「家紋に○がついているのは武家ということ」
なんておっしゃってました。

もっと詳しくお訊きすれば良かったのですが
なんせウチは馬の骨の服部ですから敷居が高くて
とても質問など出来なかったです。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 13時22分17秒 ) パスワード

母の大阪の従姉妹ですが
彼女の夫は甲賀の出身で家紋は○に並び矢でした。


この母の従姉妹の家に遊びに行った時に
何やらを袱紗に入れて渡されて

    ああ、名古屋の母にこのまま返してくれという意味か

と思い、そのままもらっておこうとしたら「袱紗は返してね」と言われ
キョトンとしてしまいました。


家紋が同じ○に並び矢でしたから名古屋に戻って母に話したら
   「あの子の旦那さんは甲賀の出身」
というので2重にビックリしました。


日本人が日本人と結婚する時はそういう引っ張り合いがあるのか?
と思いました。


    昔、伊賀と甲賀は山を挟んで向こうとこっちの関係だったそうです。
    それが後に伊賀と近江(で良いのかな?)に別れたのだとか。


服部家と徳川家が仲が良かったのは戦国時代以降じゃなくて
もっと前の、南北朝の時の、南朝方同士だった、関係からでしょう。
残念ながら源平時代はどうだったのか分かりませんが。


でも三河の友人の話によると
「うちの近所でも源平の戦いがあって、うちの家紋は揚羽蝶だよ」
でした。

でも彼の苗字は三河バリバリの苗字で、平家方にそういう苗字があるなんて聞いたことがない苗字です。


きっと途中で苗字が変わったのでしょうね。
それで全然赤の他人の関係。


でも40年以上の親友ですよ。
別に恋愛感情とか何も無いけど切れない関係です。

これも御先祖さまがらみなんでしょうかねえ?
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 13時52分58秒 ) パスワード

忠正の末っ子の維盛の件ですが
何故、この維盛の家は存続出来たのか?


多分、この子の母は藤原家成がらみだったんじゃないかな?と思います。


この藤原家成と得子は従兄妹関係なんですってよ。
そうすると忠盛の妻の宗子さんとも、みんな親戚ですね。


忠正の末っ子の維盛の母が家成がらみって充分に考えられますね。


忠正は清盛に家成の親戚の女性と結婚して欲しがっていた(笑)ものね。
自分の歳若い妻も家成の親戚だったなら


清盛の嫡男の重盛の妻が家成の娘で、生まれた子供の名が維盛というのも
なんとなく納得が出来ます。
これだけ何重にも藤原家成と親戚なら同じ「維盛」という名でもおかしくないのだろうなと。


とにかく昔は子供の数がやたらと多くて
第一子と末っ子が親子ぐらい離れていてもおかしくないから
現代人の我々からはゴチャゴチャしててワケ分からないですね。


重盛の妻が成親の妹だなんて、感覚がついていかないですね。
   成親も重盛の妻も家成の子なんてね。
   世代が違う。


   この家成というのは当時は凄い力を持っていたそうですよ。
   保元の乱で殺された藤原頼長のライバルだったんですって。


そうやって考えると
清盛が妻に高階明子を迎えたことは
忠正には面白くなかったって分かりますね。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 14時35分30秒 ) パスワード

我が家というか尾張南西部のわたくしの昔の実家ですが
近所は親戚だらけです。

でも親戚だなんて全然知りませんでした。
知ったのはごくごく最近です。


それこそ家からバス停までの10分ぐらいの距離に親戚の家がゴロゴロしてて
親戚でなくても出身村が同じという関係。つまり遠い親戚ですよね。


父の兄弟姉妹とは親戚として付き合っていましたが
父の従兄弟姉妹の代とは付き合ってないから
小学校の同級生に服部という苗字の男の子がいたのを父の従兄弟の子とは知らなかったです。

   つまりわたくしのハトコですよね。
   全然知らなかったです。最近、母が、ああ、あの子?あれはアンタのハトコと言うまで。



親戚ということで付き合い出したら大変なことになります。


なんせ我が家の近所はそれこそ南北朝の終わりの時に(1400年代)尾張南西部に定着したので
それ以来ですから

   600年分の親戚と付き合うことになってしまいます。



Hattoriさんとは戦国時代あたりに分かれた関係って今日ハッキリしましたね。

   尾張南西部・鳴海・猿投の服部は同じ一族なんでしょうね。


三河の服部一族は半蔵系とばかりも言えないのですよ。


三河の服部さんでも「本家は尾張南西部」と聞いたことがありますから。

    尾張南西部の服部家ホンヤさんはこの家を御存知でした。


でも今はホンヤさんが亡くなって、息子さんは多分御存知無いと思います。
こうして兄弟は他人になっていくんです。

    でも誰かが知っているんですよね。わたくしが知っているように。




小学生の時によその学区の塾に行ってました。
その塾の先生の家は苗字がKなんですが

母から聞いた話では「同じ村の出身」でした。

    で、K先生の弟が議員に立候補した時に

わたくしの祖父の葬式の棺担ぎをしたそうで
    うちの祖父が亡くなったのは7月の終わりの暑い日だったから
「みんなで暑いなあと言い合ったけど、
  XXさんが、あんたの爺さんはもっとあついぞ。なんせ今から焼かれるんだからなと言って、みんなで笑った」

    なんて教えてくれました。


わたくし達日本人って他人の関係のつもりでいるけど
実は、何代も遡ると、みんな親戚なんですよ。
何かの機会に分かるまで、知らないだけで。


わたくしとHattoriさんも1560年以前に分かれた一族ですものね。



有松の○に並び矢の服部さんもきっとHattoriさんの御親戚ですよ。
お父さまのはとこかまとこか
もっと遠い関係か、で。



明治維新頃の最初の除籍謄本が手に入ると良いですね。明治8年あたり。
お父さまの書類箱にでも昔の戸籍謄本が入ってませんか?

住所を見れば思わぬ服部さんと親戚だったって分かりますよ。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 15時25分16秒 ) パスワード

徳川家と服部家の関係について書きますね。


徳川家はもともとは三河の松平郷の山の中にいて

酒井の先祖が松平家に婿入りして


この酒井家が新田氏なんだそうです。
清和源氏ですから、源頼朝の子孫ですね。
三河碧海郡の酒井村の出身だそうです。

それで徳川家は源氏を称しているわけです。


いろいろ悪口は言われますが
家康は源氏の氏の長者になっているのですから
正当な源氏です。



「浪合記」というのを読んでください。
これは明治維新後、徳川家を否定する勢力に、浪合記も否定されていますが

服部家の名もココに出てますし
服部家がどういう家かも分かりますし。


徳川家は新田系子孫ということで
   南朝方
となりますから

我々の服部家と徳川家は共に南朝方だったと分かります。


浪合記を読めば当時の仲間の家の名も出てますから、感慨深いものがあると思います。

検索できますよ。
1つURLを書いておきます。
    他にもいろいろありますから検索してみてください。

http://nanteo.s14.xrea.com/nami/nami001.html

抜粋ね:

吉野より付き添ってきた武士
 大橋修理大夫定〔宗〕元     岡本左近将監高家
 山川民部少輔重祐(或いは朝祐) 恒川左京大夫信矩
この四人を新田家の四家という。

   吉野より付き添ってきた公家衆の庶流
 堀田尾張守正重      平野主水正業忠
 服部伊賀守宗〔正〕統   鈴木右〔左〕京亮重政
 真野式〔民〕部少輔道資  光賀大膳亮為長
 河野相模守秀〔孝〕清
この七人を七名字という。先の四人とあわせて吉野の十一党と、宮方の武士の間で呼んでいた。おのおの裏切る心もなく尹良君をお守りした。


わたくしは「服部伊賀守宗純」の名でホンヤさんから聞いています。


後醍醐天皇の子が宗良親王で
後醍醐天皇の孫の尹良親王は「いずよし」とお読みします。
その子が良王君で「よしたかのきみ」とお読みします。
ホンヤさんから教えて頂きました。

良王君はホンヤさん宅で亡くなりました。


大橋さんは津島神社の大橋さんで
元は平家どころか、平家貞の子の貞能の俗姓になります。
名古屋に二女子とかって地名があるでしょ。


http://www.nakagawa-ho.or.jp/spcial/rekisi/rekisi5.html

大橋氏家伝には「寿永文治の残兵大橋肥後守平貞能此地に来て、住居す、時に農家に兄弟二人の女子あるを愛妾と為す、ここをもて二女子の名あり、扨て、年月を経て、其二妾また各二人づゝの女子を産み、ここをもて四女子と名付けるといふ」とある。この説は巷間に広く伝播している。


服部家ホンヤさんも津島神社の神職さんです。



そうそう蜂須賀小六の話を読んだ時に
確か蜂須賀家の正妻さんは大橋家の出身だと書いてあったように記憶しています。
それで小六が大橋家出身のその女性に敬意を持っている、って話だったように記憶しています。
小六のお祖母さんだったかも。


きっと蜂須賀家も南朝方だったんでしょうね。


  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%88%88%E5%AF%BA
あ、尾張の北朝方の本拠地は一宮の妙興寺だそうですよ。

   
こんな目と鼻の先で戦ってたなんて、信じられないですね。


また時間がありましたら書きます。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 15時44分42秒 ) パスワード

そうそう
尾張徳川家は1代おきに養子を迎えることになっていて

服部家ホンヤさんの代の時の尾張藩主は堀田家から養子に入って
ホンヤさん宅に御挨拶にいらっしゃったそうです。


数年前に堀田家御出身の尾張徳川家当主が亡くなって
少し後、次の年になりますが、ホンヤさんも亡くなりました。


ホンヤさん宅には高松宮殿下も遊びにいらっしゃって
当時
田島宮内庁長官(田島道治氏)がお共でいらっしゃって

ホンヤさんに美智子皇后様のこともお話になって行かれたそうです。

   ちょっと、いろいろ、聞きました。


で、この田島長官はわたくしの名古屋の中区の家のすぐ御近所に生まれていて
元は三河の500年続く旧家の人です。

  上記に三河の揚羽蝶の友人がいると書きましたでしょ。
  田島長官の御先祖さまはその友人の御近所さんになります。  


で、個人的なもっと面白い話は
ワタシは市河三喜大先生の孫弟子で
この線でも田島氏と繋がってしまって(笑)


日本という国は「そういう」世界なんだと思います。


思わぬところで全てが繋がるんですよ。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 17時21分27秒 ) パスワード

また書きます。



忠正の5男の名前が  維盛
清盛の嫡孫の名前が  維盛


昔は身分の高い人の名前を低い者が使ってはいけなかったです。

明治維新後でも皇室のせつこ様と嫁に入ったせつこさんが同じ漢字で存在することになって嫁は勢津子と変えたそうです。


江戸時代でも使って良い漢字・使ってはいけない漢字というのがありました。
例えば藩主の通字なんか家来が使ってはいけない、とかね。
いくつか使ってはならない漢字があったそうですよ。

   分を弁えて遠慮する、というのですね。空気を読んで。


それで重盛の子の維盛は
たぶん忠正の子の維盛にあやかったのだろう
というのが分かると思うのです。

では何故あやかったのか?


と、考えていくと、藤原家成の亡霊が出て来るわけです。家成がらみだな、と。


忠正の6男は俗姓を名乗っているようですね。
中根氏。
ということは母の家が中根氏だったのかもね。
母のお腹にいる時に父親が斬首されたのかも。
それで最初っから中根氏を使っていたのかも。

   中根ってことは三河出身者かもね。
      それで家康の松平家には早くから仕えていたのかもね。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 18時11分34秒 ) パスワード

尾張南西部の服部家がらみで有名どころは

最近では江崎真澄ですね。

   海部とは政敵になります。笑
   海部(かいふ)は「あま」じゃなくて先祖は徳島のかいふ出身者なんですってよ。それで三木と仲が良かったんですって。
   カイフはいつの間にやら尾張の「海部」もどきに化けてますね。
   みんな尾張の海部のカイフっておもっているでしょうね。


ちょっと古いところでは加藤高明ですね。
佐屋の出身です。
大伯母の家に養子に行ったから加藤姓になっています。

   普通選挙もやったけど、人気が無いのは、治安維持法をやっているからでしょうね。
   治安維持法は徳川公爵のみ貴族院議員で反対したそうです。
   それでガックリ来たのか風邪をこじらせて亡くなってしまいました。


母親の兄が新選組を辞めた佐野七五三之助だそうで
しめのすけさんの元の名字は寺西だそうです。
    佐野氏に変えた話を思い出そうとするのですがすっかり忘れています。


元新選組で、しめのすけさんの仲間に服部武雄って人物がいるけど
この人は赤穂の人なんですって。


ま、赤穂=浅野=なんて尾張バリバリの名字ですから、やっぱり回りまわって、仲良くなっていたんでしょうね。
しめのすけさんは武雄さんに「妹の嫁ぎ先が服部だぜ」なんて言ってたのかしら?


まだ他にもいろいろ名古屋がらみでビックリさせるのがあるけど、自慢になって行くから、遠慮しときます。


本当に日本人って回り回ってみんな親戚ですよ。

加藤高明のことはウイキで検索してみてください。
ビックリしますよ。


加藤高明の像のあることはホンヤさんがらみで知りました。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月02日 18時38分56秒 ) パスワード

また源義朝が美濃の青墓から尾張に逃げた時、
船に柴を積んでその下に隠れて
降りた所で柴の「荷を上げた」=荷の上=と呼ぶようになった、と記憶しています。

ホンヤさんの家の御近所です。敷地内かも。


義朝を殺した長田父子は伊勢や尾張で活躍した人で
どこの長田荘かハッキリしないんだそうです。

伊賀の長田の出身なのかな?と一瞬思いました。
清盛が父から所領を相続した時の村の表の名前で思いました。


長田家と言えば知多の野間・内海ですね。
でも長田さんは清盛なんかの平氏とは系統がちょっと違うそうです。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 03時11分41秒 ) パスワード

服部家で、ここはホンヤ格の家だと思った服部さんに
川越の服部家があります。


家紋は車に並び矢です。


元は甲斐武田に仕えて
武田が滅びてからは商人になったそうです。


川越の「服部民俗資料館」です。
今のご商売はお菓子屋さんで良いのかな?
行き易いと思いますよ、お店ですから。


以前、何かの歴史の特集を見てた時に
甲斐武田家の母衣衆の中に服部家の紋を見たことがあります。
ああ、この人の子孫か、と分かりました。


何故甲斐なのか?
については多分南北朝の戦いの時に後醍醐天皇のお子様の宗良親王に従って
浪合村まで行っているから
そこで甲斐に留まることになったんでしょうね。

わたくし達の先祖は尾張まで戻りましたが。


御親戚に下関出身の女性がいらっしゃるってお聞きしました。
長門国は平家がらみですから
面白がって頂けました。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 03時44分27秒 ) パスワード

戦国時代に南蛮から宣教師やらが日本に来てキリスト教を広めました。


南蛮と言えばスペインで
ポルトガルはその手先でした。

当時スペインはペルーの金、メキシコの銀などを一手に自分の物にしてバブルでした。
   でも16世紀の終わりにイギリスに敗れバブルがバーストしてフェリペ2世は5回も不良債権を出してしまい、
   今に至る破産国家ですが。笑
   
        スペインの次に台頭したのがイギリスね。


このスペインは中南米の人々をキリスト教化して、5歳から鉱山で働かせ
中南米の人々を早死にさせました。

   20年も鉱山で働いたら塵肺で死んでしまいますものね。
   今で言うアスベスト被害のように肺がやられてしまうから。


で、スペイン人は日本に来て、日本にキリスト教をもたらして
何をしたかと言うと
後に鎖国の原因の1つになる  日本人をかどわかして売り飛ばしていたんですって。


戦国時代、50万人からなる日本人を奴隷として連れ出していた、なんて本も数年前に出版されていたようですよ。



日本国内では戦争で負けて奴隷として売買されていたというのはNHK大河の「風林火山」でもちょっと描かれていました。


    甲斐のある男性は7回だったか売り飛ばされたなんて記録があるとどこかで読みました。


で、信長ですが
伊勢長島一揆で負けた我が軍は村人を殺され尽くしました。
伊賀でも動くものは全てなぶり殺されたなんて書かれていますね。


で、我が軍の美しい女性達は南蛮人に売られた、という話を加賀の人から聞いたことがあります。


   だから「名古屋は日本3大ブス県の1つ」なんて言われる所以です。
        他の2つは仙台と水戸だそうです。
   信長が美人は売り飛ばしたし、殺したし。


この加賀の友人は「アンタの家がお松をちゃんとシメておかなかったから何タラカンタラ」と言います。


彼は加賀で確か150石取りの家の出身者です。
最近、加賀がらみで有名になった家と親戚の人です。堺雅人が演じました。
   このソロバン侍の家の3男が養子に行って立派な身分になり後に疑獄事件に関わって娘が女学校でいじめに遭ってたそうです。


この加賀の人は
「お松と利家が加賀をダメにした○カ」
と言ってこの2人を憎んでいます。

ま、確かに、お松は前田家を自分の侍女のお千代の子に乗っ取られているから○カと加賀藩の中では蔭で言われていたのかもですね。


このお千代さんですが
前田家の娘に「ちよ」というのがいて
同じ音だから
お千代さんは「お千代保」  おちょぼ  と名前を変えられていたそうですよ。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 03時55分29秒 ) パスワード

まったく話は飛びますが
自分の侍女に夫が手を出した
という話は家康にもありますね。


家康の次男の結城秀康は家康が正妻の築山殿の女中に産ませた子、という話。


でも於万さまは知立神社の永見家の出身だそうですから
「女中」と言っても下働きの女という意味ではなく
築山殿の秘書みたいな立場だったのでしょうね。

知立神社の娘なら家康も心を許せる女性ですから。
時間の問題だったんでしょうね。

   コッチは「心」で結ばれた関係ですから家康は本気だったかも。

利家の方はお千代保が美人だったそうですから「色香」に迷った浮気だったかもね。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 04時02分31秒 ) パスワード

徳川家2代目将軍の秀忠の生母は西郷殿と呼ばれる女性で
母の後夫が服部姓。


この西郷ですが


諫早に西郷という家があって
ここの侍大将に服部(右京だったかな?)というのがいて
西郷の娘と服部との話があってドラマ化もされています。
本のタイトルは「落城記」です。野呂という作家の本です。


西郷は竜造寺に滅ぼされました。


多分、南北朝の時、後醍醐天皇の子の懐良親王に従って九州に下向した服部家と思います。
それか壇の浦で敗れてから九州に土着した服部家かも。

どっちにしろ南北朝時代は南朝方だった家だと思います。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 04時29分54秒 ) パスワード

それで西郷局の継父が服部姓というのは

やっぱりそういう運命の糸が結んでいたんでしょうね。
日本ですね。



尾張南西部の服部家ホンヤさん宅は尾張徳川家8代目の宗勝を養育した家としても知られています。

だから国宝級の美術品も拝領してて・・・1つは俵宗達と光悦の合作とかね。
    今は京都の美術館にあるのかな?

宗勝は美濃国にあった尾張藩の飛び藩の松平高須家の人で
今の海津町(市?)です。


この家からは幕末に
尾張藩主・会津藩主・桑名藩主・一橋家・浜田藩主を出した。


    幕末の会津と桑名は大変なことに巻き込まれました。

    わたくしの友人の鈴鹿のT家は戊辰戦争で会津に行くのがイヤで
    12歳の息子に家督を譲って隠居した家です。
    その時に結婚もしたそうです。

    で、この家の皆さんはその後海軍に勤め
    海軍と陸軍が仲が悪くて呆れて辞職し帰農。
    戦後アルゼンチンに渡り
    わたくしの友人が生まれました。現在彼はアメリカに住んでいます。
    伯母になる人はチリの大学で海草の研究者をしてました。

    この家はマラソンの瀬古と親しいようですよ。

  
    このTさんですが、わたくしの父にそっくりです。
    鈴鹿だし、平家つながりかもです。

    でも似ていると言っても顔の骨格なんでしょうね。
    父と並べたら全く似ていないけど、DNAが同じ物が多いって思います。笑



高須松平家第10代藩主・松平義建には子が多く、

次男は尾張藩第14代藩主・徳川慶勝
三男は石見浜田藩主・松平武成
五男は高須藩第11代藩主・義比、尾張藩第15代藩主・徳川茂徳、さらに後には御三卿・一橋家当主・一橋茂栄となった。

七男が会津藩主・松平容保
九男が桑名藩主・松平定敬
十男・義勇は高須藩第13代藩主。

義建は「子福者」と呼ばれていたそうです。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 04時47分52秒 ) パスワード

徳川家2代目将軍の生母の継父ですが


この服部という人物が「動いていた」というのは分かりますよね。
忍者説も聞いたことがあるし。

でも当時でもかなりの歳ですから、この人物について、あんまり分かっていないそうです。


当然「鳴海伊賀衆」にも絡んでいるでしょうし。
そこの辺りは有松の服部様が御存知かもですね。


西郷氏は元は九州の菊池氏が三河に土地を貰って移ったということです。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 09時34分45秒 ) パスワード

以下はさちこさんの情報から:


2代将軍秀忠の生母お愛は西郷清貞が養女にて
実父は伊賀衆の服部平太夫正尚なり

この服部氏の先祖は能楽の観世と同祖と伝うれば
正しく伊賀の服部の流れの系族なり


    

系図
服部某
1.
某ーー →保章(出羽守  名張城主)ーー
→女子(光秀 妻)  +  某(近江の北村に住し  北村姓)

2.
上記服部某の息子の次男某 ーー→ 正尚平太夫  ーー →
    光秀の反を家康に告げ大和路に於いて蓑と笠を奉る
    これより蓑笠之助と改め徳川氏に仕う
    老年のために隠居し弟を将軍家の近習とす

→娘・お愛
    西郷清貞に養われ家康に侍す
    秀忠・忠吉の生母
    西郷局(以下めんどうなので略)

→子・惣右衛門
    忠吉に仕え、後、尾張家に仕う。子孫尾張にあり

→子

→子

→子・平四郎(蓑笠之助と改名・猿楽宝生座?の人



正尚弟・七右衛門
    兄の代りに出仕
    青山氏を号す
     


観世について

観阿弥の出自

観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。

また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。

一方、1962年(昭和37年)三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見もあり、1975年に永富家子孫によって、伊賀市に観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が立てられた。しかしこの文書の信憑性を巡っては議論が分かれており、この説は研究者の間では広く受け入れられているとは言い難い。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 09時44分00秒 ) パスワード

初代名古屋市長服部直衡はもと尾張藩士。

時計製造工業に成功せし服部金太郎も名古屋の人なり。← セイコーのことね

一族に「丸に並矢羽」を家紋とする流れ多し。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 10時18分15秒 ) パスワード

「伊乱記」


鎌倉幕府滅亡後、          略、長すぎるので省略
火術謀術が世に忍術として伝えられ
隣接する近江の甲賀郡にも転住して
伊賀甲賀の忍者と称せらるるに至る。



「関岡家始末」


伊賀国服部党は大名にて北部に威を振るい
信楽の多羅尾も相従いける。

2千人の大将にて国司(伊勢の北畠家)の与力なれば
関岡家と水魚の交わりを為す。


或いは其の家紋に関して下記の如く伝えたり。

「服部平内左衛門家長なる者
武芸の誉れ多く
其の名、遠近に隠れなく
人々是を尊敬せり。

是より服部氏益々盛んになりて
国中に充満す。

或る時、清涼殿の弓場殿にて、弓箭の勝劣を顕す。

時に家長、名誉ありて79代六條院より
眞羽の矢  1千を手車に積みて宣下あり。

家長自他の面目是に過ぎず。

是よりして矢筈車の紋を平氏服部一族の惣紋と為せり。


その紋、3男までは丸に2つ矢にして
4男以下は丸に3つ矢を用う。」


「又、伊賀服部氏に2流あり。
共に(秦の)酒公の後也。

その1は織榎を以って徽章と為し
その1は箭羽を用う。

宗族州内に蕃えんす」と。   えんは漢字が無い。行部の真ん中にサンズイ。はびこるとか広がるとかの意味。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 10時22分28秒 ) パスワード

長曽我部家も光秀に娘を嫁がせていました。

当時は子供を大勢持って
娘を各国の力のある人に嫁がせ
娘が足りなければ身近な娘を養女などにして嫁がせていたので

服部家も娘を光秀に嫁がせていたようです。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 10時26分41秒 ) パスワード

そうしますと
わたくしが見た車の中に矢が2本という紋は

尾張南西部の服部家ホンヤさんや鳴海の有松服部様や半蔵の紋は
惣領家という身分を示し
あの車の中に並び矢というのは「横矢筈車紋」と呼ぶようですね。

あ〜
ややこしい。
[29]Hattoriさんからのコメント(2012年07月03日 10時29分08秒 ) パスワード

興味深く拝見させていただきました。
服部家はこちらのHPにもありますが、楠木家や秦氏との絡みもあり
興味が尽きません。

私の曽祖父(日露戦争に従軍したくらいの年代)が、当時鳴海で造船業
を営んでいたのですが、弥富に別宅?があって鳴海と弥富を行き来していたと
先日聞きました。弥富という土地は何かご縁があるのですね。


三河の西郷氏が菊池党の裔とは存じませんでした。
南朝方のコネクションというのは、私の思うより相当深く根強いものなのですね。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 10時34分36秒 ) パスワード

服部半蔵の家は伊賀の西端で奈良のすぐ近くで笠置山の東で月ヶ瀬村の東の
予野というところだと思います。

もっと特定すると
千賀地
と呼ばれるところです。

神社があります。
桜があって
今の桜は30年ぐらい前に植えられたものかな?
まだ若いです。


千賀地の服部なんか我等より下なのにと
江戸時代の初めに伊賀者がストライキをやったことがあります。

その話を自分で平熱に書いたのに詳しい話を忘れてしまいました。

予野の桜のことも書いたのに(1999年の春)スレッドがどこに埋没したか記憶にありません。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 10時40分52秒 ) パスワード

24の系図は書き方が悪くてごめんなさい。

正尚には娘と4人の息子がいたという意味です。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 10時44分00秒 ) パスワード

わたくしのメモによると上記に書いた多羅尾って旧甲賀になるようです。
今でも甲賀ならごめんなさい。

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 16時46分37秒 ) パスワード

Hattoriさん


>楠木家や秦氏との絡みもあり興味が尽きません。

はい。

伊賀と楠木家とは地理的にも近かったようですね。
だから当然「血」でも近かったでしょうね。


秦氏との関わりは
元々秦氏が伊賀に勢力を持っていて「服部」という地名をつけていたところへ
11世紀の初めに平貞盛の子孫が伊勢伊賀に来て
力を持っていく内に
秦氏と通婚したりして平氏が「服部」を名乗るようになったんでしょうね。

秦氏系の服部さんがいて
平氏系の服部が新しく出た
そんな流れでしょうね。

   桓武天皇の平安京造りに秦氏がかなり力(お金)を出していたって話ですしね。



>私の曽祖父(日露戦争に従軍したくらいの年代)が、当時鳴海で造船業
を営んでいたのですが、弥富に別宅?があって鳴海と弥富を行き来していたと
先日聞きました。弥富という土地は何かご縁があるのですね。

そうしますと、戦国時代の服部水軍に関係するのかも知れないですね。
信長の水軍に負けましたが
家康を伊勢から水路で逃げさせた時に力を貸した
という場面で活躍していたかも知れないですね。

    そうしますと有松の服部様が御存知かも知れないですね。

伊勢長島一揆の時にも信長に負けたとはいえ活躍してたのかも知れないですね。


天白川ですか?
ここを通って弥富に行ってたんでしょうか?
桑名にも当然行ってるでしょうし。

案外、有松の服部様と弥富の服部家ホンヤの中継ぎをしていたのかもですね。


意外な展開になって来ましたね。


ひょっとすると猿投の服部家とも連絡係をしてたのかも、ですしね。


そして三河とも連絡係をしてたのかも知れないし。碧南や西尾あたりへ。




>三河の西郷氏が菊池党の裔とは存じませんでした。
>南朝方のコネクションというのは、私の思うより相当深く根強いものなのですね。


菊池は源平時代は平家方になったり源氏方になったりしてますが
南北朝時代は南朝方になっていたし。

日本は命のやりとりをしていた時代が長かったのですから
やっぱり昔のヨシミとか
刎頚の友とか
そういうので繋がっていたと思いますね。

そうでない「馬の骨」「ヨソ者」「どこの誰か分からない人間」というのには警戒したんでしょうね。


NHKの喉自慢を見ていると
いろいろな場所に父に似た人とか母に似た人を見つけると
昔は顔を見れば「信用できる人間」かそうでない馬の骨かスグに分かったと思います。

流れ者でも顔を見て(この人は信用できるな)と思うと
源平時代はどっち側だったか?南北朝時代はどっち側だったか?と
訊けば敵か味方か受け入れて良いか拒否すべきか
そういうのが分かったんでしょうね。

「肌」で「感覚」で、そういうのが昔は分かったと思いますよ。


今は人間が動き過ぎているし血が薄まっているから分かり難いんですけど
でもやっぱり初対面でピンと来ると思いますよ。


わたくしなんぞ平家の侍大将だった忠清の子孫とお互いにビシバシ感じ合いましたから。


更に、全く知らない日本の女の子とアメリカのロスで初対面で
「ひょっとして阿下喜の向こうの山の人?」=平家
なんて訊いて、彼女にビックリされましたし。


初対面で分かるんですよ。1000年もの昔の仲間には血が沸くんです。肉が踊るんですよ。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月03日 17時56分12秒 ) パスワード

弥富の服部家ホンヤさん宅には今川義元を刺した服部小平太の槍があって

でも服部小平太は「津島の服部さん」と、ホンヤさんは嫌って?ました。
つまり信長配下なんて(裏切り者)ですから。


きっとこの槍は小平太が秀吉に秀次の始末で詰め腹を切らされた後
ホンヤさん宅に来たのでしょうね。


1993年だったか
藤原秀郷の墓に行きました。
神社じゃない方です。


お墓の近所の住人に「藤原秀郷公に御挨拶に来たんです」と言ったら
雷が突然鳴ったんですよ。

これも忘れられない不思議な出来事でした。


藤原秀郷が平貞盛と共に従兄弟の平将門を殺したのは西暦940年あたりでしたか?

その子孫達が伊勢に移って、平家で力を合わせ
更に現代、またまた出会いました。

全く知らない同士が初対面で(あ゛)とばかりにお互いを昔っから知っている友のように認め合ったのです。


この忠清の子孫とはお互いに不思議なことがたくさんありました。
考えていることがソックリでしたしね。

   わたくしは初対面の彼の姿の向こうに藤戸の合戦に行く平家の侍大将の姿を見てたし
   向こうはワタシを名のある家のお嬢様と勘違いしてましたしね。


お互いに平家時代の姿を見ていたんですよ。


それにわたくしが伊賀に行った時にも不思議なことがあって
その話をしたら
向こうは伊賀に住んでいたことがあって
    伊賀のお城を見ながらワタシの姿を見てたんですって。


1993年〜1999年は不思議なことがたくさん起きました。


赤間神宮に行って名古屋に帰る新幹線の中で家長の手を感じましたしね。
まさかココに家長の塚もあるなんて知らなかったのに
どうしても赤間神宮に戻れというパワーが来て行ったら家長の塚があって。
名古屋に帰るのにバスが全然来なかったのも不思議でした。


1970年に榊原温泉で忠清の子孫と出会ったんですが
1999年に知らずに泊まった旅館が同じ旅館でした。
    その夜、1970年にあの男の子の向こうに見てた平家の侍大将が光となって、来たんですよ。
翌朝、窓の外を見てビックリしました。
1970年に忠清の子孫と歩いたあぜ道があったからビックリでした。


そして翌朝予野の桜を見に行ったんですが
その途中に1970年に見た平家の侍大将が赤い橋の所に待っていたんです。
でも服装は直衣姿というのかな?大鎧はつけてなかったです。
いかにもわたくしが来るのを待っていたという風情でした。



それで逡巡の末、半年後ですが、
何十年ぶりかで電話していろいろ話をしてビックリしたんです。

全く同じことを考えていたんですから。
現代の我々のこと、というより
平家時代や反信長時代の我々のことです。

彼は今でも「武士」でした。


その後もいろいろ不思議なことが起きました。


弥富のホンヤさんの戦国時代の御先祖の墓(信長方に謀殺された)は米野という所だったと思います。
平熱に書いてあると思います。

彼の家の結構近くです。


北畠に正月の挨拶に行って謀殺されたのだそうです。
8坪ぐらいのお墓だったような。
[37]Hattoriさんからのコメント(2012年07月03日 22時44分01秒 ) パスワード

我が家の記憶では、はっきりした人は幕末頃?の服部清兵衛までです。
この人は非常に腕の良い船大工でしたが少々怠け者?で、いつも近所の川辺
で寝転んでいたので、”清兵衛川”と小川に名前がついたそうです。
注文された船を納めに江戸まで航海し、帰りに船一艘分の骨董を買って
帰ってきたなんて話も聞きました。怠け者と道楽者の血が私には流れている
ようです・・・。

今でも町のお年寄りに聞くと清兵衛川で話が通じます。
残念ながら今は蓋がされて地面の下を流れているようです。

元々鳴海で造船をしていたそうですが、埋め立てや、橋の建設で海まで遠くなるため(造った船が橋の下を通れなかったそうです)、いつの頃か造船場を天白川河口に移したそうです。

私から7代前まではお寺に過去帳が残っているそうですが、未だ見ておりません。いずれは、と思っているのですが。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月04日 15時42分36秒 ) パスワード

Hattoriさん


>私から7代前まではお寺に過去帳が残っているそうですが、未だ見ておりません。いずれは、と思っているのですが。

過去帳って
本家の仏壇の引き出しに普通は入ってますよね。


お寺の過去帳は時系列って言うんですか?
ズラズラと亡くなった檀家の名が順番に書いてあるので
途中によその人の名もたくさん書かれているから
お寺にお願いしても大変な作業ですから
教えてもらえないかもですね。かなり包まないと。

でも自分の家が寄進したお寺ならやってくれるかも知れないですが。


1993年か
母方のお寺(1600年代の初めに創建)に行った時

お寺さんも破産のようなことがあるんですねえ

柱だけで何億円やらかけたそうで、とうとう、16代だか続いたおっさまの家が退去することになって

柱代だけの寄進でもとても出来ない自分に
うちの母方も没落したというのが良く分かりました。


でも少々包んだら
明治維新の時の先祖のことを調べてくれて
その時の先祖の秘密を知ってしまいました。

知らない息子がいました。
明治の初めの戸籍に載っていなかった人です。

ひょっとすると戸籍に登録する前(明治8年?)には亡くなっていたのかも知れないし


戸籍謄本もですが過去帳もなかなか罪ですよ。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月04日 16時23分07秒 ) パスワード

清兵衛さんの職業から考えますと
服部水軍は鳴海伊賀衆だったかも知れないですね。

http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_1.pdf

爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟
干艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へ
ども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所よ
り下り立て、町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、町人どもよせ付けて、焜と懸け
出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り侯ひき。



「信長公記」からです。
これは太田牛一が信長を称えるために書いたものですから
適当に読んでください。


現代語訳http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho2.html
河内を占拠していた服部左京助は義元に呼応して大高の沿岸まで兵船を出し、熱田の町を焼き討ちしようとしたが、住民の反抗にあって数十人を討たれ成果なく河内へ引き返した。

[40]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月04日 16時29分06秒 ) パスワード

信長公記  現代語訳  桶狭間


23、臨戦  鳴海の城へ御取出の事

 尾張に今川の勢力が進入していることが、信長公の苦痛のたねであった。
 今川方の前線鳴海城は天白川の河口近くにあり、東は丘陵が連なり、西には深田が広がる。信長公はこの城の押さえとして丹下・善照寺・中島@に砦を築き、それぞれ水野帯刀・佐久間信盛・梶川平左衛門を入れた。さらに鳴海と大高城との間にも丸根砦・鷲津砦Aを構築して両城を分断し、丸根は佐久間盛重に、鷲津は織田玄蕃秀敏と飯尾近江守親子に守らせた。

 @いずれも名古屋市緑区。鳴海城を半円状に囲み、北に丹下・東に善照寺・南東に中島が位置する。 A鳴海南方。南の大高を押さえる。

 

24、桶狭間  今川義元討死の事

 永禄3(1560)年5月17日、今川義元勢の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。この動きから、今川勢は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

 しかしその夜、信長公は特に軍立てをするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていった。懸念の通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。

 注進をしずかに聞いたあと、信長公は奥に入った。
そこで敦盛の舞を舞い始めた。

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

ひとしきり舞った。
そして、
「貝を吹け」
「具足をもて」
とたて続けに下知を発した。出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。このとき急な出立に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎であった。


 主従六騎は熱田までの三里を一気に駆けた。辰の刻(7時)ごろ、上知我麻神社@の前で東方に二条の煙が立ち上っているのを見、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。この間、出陣を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになっていた。

 熱田からは内陸の道を進み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に進んで兵の参集を待ち、陣容を整えた。そして前線からの諜報を待った。御敵今川義元は、このとき桶狭間にて四万五千の兵馬を止めて休息していた。

 時刻は19日の正午にさしかかっていた。義元は鷲津・丸根の陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡をうたっていた。また徳川家康は、この戦で先懸けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に追い使われ、大高城でやっと休息を得ていた。

 信長公が善照寺に入ったのを知った佐々隼人正らは、「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と語らい、三百あまりの人数で打って出てしまった。攻撃はいとも簡単に跳ね返されて佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死した。これを聞いた義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けた。

 信長公はさらに中島砦に進もうとした。しかし中島までは一面の深田の間を縫って狭い道がつながっているのみであり、敵からは無勢の様子が丸見えとなるため、家老たちは馬の轡をとって諌めた。それでも信長公は聞かず、振り切って中島砦へ移った。この時点でも人数は二千に満たなかったということである。信長公はさらに中島をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられた。

 ここに至って信長公は全軍に布達した。
「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。くらべてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」

 ここで、前田又左衛門利家・毛利十郎・木下雅楽助らがそれぞれに斬穫した首をもって参陣した。信長公はこれらも手勢に組み入れ、桶狭間の山際まで密行したA。するとにわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の嵐によって、沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れた。人々はこれぞ熱田明神の御力であろうとささやき合った。

 やがて空が晴れてきた。信長公は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」と最後の下知を下した。全軍は義元本陣めがけ黒い玉となって駆け出した。

 この様を目にした今川勢は、ひとたまりもなく崩れたった。弓も槍も鉄砲も打ち捨てられ、指物が散乱した。義元の塗輿までも置き去られた。未刻(午後2時頃)のことであった。

 この混乱の中にあって、義元は周囲を三百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数度にわたって攻撃を受けるうちに五十騎ほどにまで減ってしまった。

 信長公も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい、敵を突き伏せた。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬を削り鍔を砕いて激戦を展開した。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだ。そのうちに服部小平太が義元に肉薄した。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだが、その横合いから今度は毛利新介が突進してきた。義元も今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられてついに首を預けた。毛利は先年武衛様が遭難された折、その弟君を救った者である。人々はその冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうとのちに噂した。

 戦は掃討戦に移った。桶狭間は谷が入り組み、谷底には深田が作られている。まったくの難所であり、逃げまどう今川勢は田に踏み込んでは足をとられ、織田勢に追いつかれて首を挙げられた。信長公の元には首を得た者達が続々と実検におとずれた。信長公は実検は清洲にて行うと申し渡し、義元の首のみを見、もと来た道をたどって帰陣した。晴れやかな表情であった。

 これより先、信秀殿の死後すかさず今川方に寝返った鳴海城の山口親子は駿河に召し出され、切腹させられていた。この度義元は鳴海に四万の大軍を置きながら、わずか二千の信長公に討たれてしまったが、これも山口親子を殺害した因果というものであろう。

 一方今川方にも勇士がいた。駿河の士でかねて義元に目をかけられていた山田新右衛門という者は、義元討死と聞くや馬首を返して織田勢に突入し、戦死を遂げた。また二俣城主の松井五八郎は、その一党二百人とともに戦場に枕を並べて討死した。

 河内を占拠していた服部左京助は義元に呼応して大高の沿岸まで兵船を出し、熱田の町を焼き討ちしようとしたが、住民の反抗にあって数十人を討たれ成果なく河内へ引き返した。

 信長公は馬先に義元の首を下げて日付の変わらぬうちに清洲に帰着し、翌日になって首実検を行った。首数は三千余にのぼった。義元の同朋をつとめていた者が下方九郎右衛門に捕らえられ、引き出されてきた。同朋は義元をはじめ見知った首についてその姓名を書きつけてまわった。信長公はこの同朋に褒美を与え、僧を伴わせて義元の首を駿河に届けさせた。

 清洲から熱田へ向かう街道筋の南須賀には義元塚が築かれ、供養のため千部経が行われ大卒塔婆が立てられた。義元の佩いていた左文字の銘刀は信長公の愛用するところとなった。

 鳴海城には岡部五郎兵衛元信が篭っていたが、降伏して退去した。前後して大高城・沓懸城・池鯉鮒城・重原城も開城した。

 @現名古屋市熱田区 A従来、織田軍は善照寺から北に迂回し、桶狭間北方の太子ヶ根に出て眼下の谷間にいた今川軍を攻撃したと語られてきたが、最近では中島から東海道沿いに南東へ直進し、桶狭間南方の山に陣を取っていた今川軍を一挙に叩いたとする説が有力となっている。速力はこの頃の織田軍の最大の強みであり、信長はそれを見事に活かした。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月04日 16時38分32秒 ) パスワード

>河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟
干艘計り、


「二の江」 とは   荷の上

「坊主」  というのは  聞いてないです  (一向宗=伊勢長島一揆 だからか?)

「うぐゐら」とは  鯏浦  という地名   うぐいって岐阜の知り合いは「はや」と呼んでいました


服部左京は千艘で義元に加勢しようとした
ということですね。 
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月04日 17時02分49秒 ) パスワード

すごく長いので、
全文はこちらへ

http://kagiya.rakurakuhp.net/i_258833.htm



(1)伊勢湾の水軍について     (2007.08.05)   

当時の伊勢湾での海上通運は盛んであり、海賊行為もそれに応じて頻発していただろうが、水軍の発生は聞かない。後世、漁業や通商を主とした海民とも言うべき人々が海賊行為を働いたことをもって、如何にも陸の戦国大名に匹敵するかのような「海賊大名」が伊勢湾にも存在したかのように考える人がいるかも知れないが、それは飛躍し過ぎた見方だろうと思う。

知多半島では大野水軍が有名なのだが、大野佐治氏[1]が「海戦」をした話はない。勿論、海賊行為は商取引の表裏であり、常に豹変するものであるから、それを否定するものではない。大野佐治氏自身は、船を使って生計を立てる海民というよりも、商人から利益を吸い上げることが主体の領主であったというに過ぎないようである。

これは、緒川水野氏、常滑水野氏[2]、河和戸田氏[3]、師崎千賀氏にしても同じであって、海戦の話も海賊稼ぎの話もない。大野佐治氏にしてもその根拠地は陸上にあり、陸上からの攻撃には頗る脆弱であって、海上に逃れては独立を保てないからである。これは、瀬戸内海が多島海であるのと立地条件が違っており、倭寇が猛威を奮えたのも官憲の手が及ばない海外の諸島に根拠地を持てたというのとも違う。つまり、伊勢湾には聖域[4]がないのだ。

そして、伊勢湾ではそのような条件にあうところは、伊勢志摩など、非常に少ないのである。木曾川河口などもそれに見合うように思えるが、あれは川の中州だから、恒久的な根拠地としては大雨洪水に対して脆弱である。それでも、長嶋一向一揆などでは信長も攻めあぐんだのだから、一見よさそうに見えるが、実際には長嶋城を根拠地にした海賊大名などは生まれなかった。



『信長公記』に登場する荷之江鯏浦の服部左京助なども瀬戸内海賊を基準に考えれば、海賊のうちには入らないだろう。単純に、戦争に際して領地や仲間の漁民の船を徴発したというだけのように思えるからだ。何故なら、後の一向一揆においても信長に対抗しての海戦などを、ただの一度も起こしていないからである。つまり、彼等がおこなったのは、漁民や親派の商船を借りてのゲリラ「的」活動だけだったのだろう。

                                  そうか、うちはゲリラだったのか


このように。知多半島の諸城砦は悉く廃棄されているのだが、だからと云ってその海賊たちが他の武将の下に再編されたなどという話は聞かない。亀崎城は、水野信元が天文十二年(1543)に新海淳尚を攻めて宮津城を降し、稲生七郎左衛門政勝を亀崎水軍の船奉行とし半田市亀崎町に築かせたものであり、海上警戒の重要拠点であったとされているが、殆んど事績は明らかではない。では、その主人であった緒川城の水野信元が水軍を持っていたかというとこれも疑問だし、刈谷城も水軍を持っていたようにはみえない。それどころか刈谷水野氏などは、当時三河湾最大の湊であった大浜湊を支配下に置こうとした形跡などはまるでないのである。このように、知多半島の水軍があったと思われる城砦は、一戦もせずにみな廃城になっていて、その水軍が他の武将に付属させられたわけでもなさそうである。だから、知多半島には組織化された水軍などはなかったというしかないだろう。


目を転じて伊勢湾西岸の状況を見ると、伊勢国は南北朝期に南朝方北畠氏が国司に任ぜられ、これに対抗して北朝足利氏は高師秋を、さらに仁木義長、土岐頼康をつぎつぎと守護に補任し、伊勢国では戦いが繰り返され、高氏・仁木氏・土岐氏らは没落して国司北畠氏のみが戦国時代にまで勢力を維持していた。それが戦国時代になると、南伊勢を北畠氏が領し、安濃郡長野を拠点とする長野氏、鈴鹿郡関・亀山に拠った関氏が、それぞれ勢力を振るい「伊勢三家」と称されている。この外に、三重郡千種城主の千種氏、河芸郡神戸城主の神戸氏、朝明郡萱生城主の春日部氏が「六人衆」と呼ばれて存在したうえ、北伊勢には四十八家と称される諸領主が割拠していた。それが次第に淘汰されて、北伊勢は関一党が、中伊勢は工藤長野一族が、そして南伊勢は北畠氏がそれぞれ覇を打ち立てるのだが、互いに戦いを繰り返しており、伊勢一国の統一はできていなかった。だからといって、伊勢湾西岸ではその間隙を突いて諸海賊衆を組織して瀬戸内海の海賊大名といえるような勢力が生まれることも又なかった。そうこうしている内に、戦国時代の中期を過ぎるころ、尾張から出た織田信長が俄かに勢力を拡大し、永禄十年(1565)頃から伊勢の領国化に乗り出したため、群小海賊衆もその軍門に屈してしまい、瀬戸内海のような海賊を海賊衆として組織している暇がなかったのである。


その結果、伊勢湾西岸はどのような状態であったかと云うと、知多半島とは異なっており、伊勢大湊を始めとして各地に「公界」が誕生していた。宇治と山田では共に年寄衆による自治が行われており、禁裏御料所であった桑名も「十楽の津」と言われた自由な商売を認めた都市として、戦国大名の介入を許さないでいた。松坂も自由な商取引が認められ、科(トガ)人の逃げ込む場であった。この内、大湊・桑名は天正以前の太平洋沿岸にある問丸であった。伊勢・志摩でも海賊衆は彼等自身で統一できずに、各自割拠したまま広域戦国大名となった信長の下に組み込まれてしまう[5]わけですから、伊勢湾には組織化された海賊も水軍もなかったことが窺われる。伊勢湾の海賊は瀬戸内とは違うのである。


このような伊勢湾沿岸の状況が、戦国時代の一世紀半の間に、後背地の農村・農民の生活向上を基礎として、尾張の師崎・内海・野間・宮・墨俣・三河大浜(問丸あり)なども港湾都市として発展しており、伊勢湾沿岸の相互の取引も活発化していたことを窺わせ、それに伴って海賊行為も頻発していたことは考えられるが、それはお互い様の関係にあり、瀬戸内海のように、通過していく他者から関料を徴収する様な意味合いは少なく、港湾維持料の意味合いの方が強かっただろうから、海賊・警護によって大名化できる要素はなかったものと考えられる。すなわち、大名化した領主たちはみな、海運業に寄生した者たちであり、伊勢・志摩などの海賊商人たちも、自ら商人として西は堺と、東は東国へと出かけているか、湾内を駈け廻っていて、水上戦力として常時徴発できるのは、湾内および近海において小舟で操業する漁師たちだけであったものと思われるからである。つまり、伊勢湾海域で海賊衆と言われる内の有力者はみな大船を所有して遠距離海運業を営み、中規模の海賊衆は軍戦でいえば関船や小早クラスの船で湾内及び港渡りの沿岸航行による海運業に従事し、その他は小舟を所有して漁業に従事していたものと考えられるのである。これを裏付ける出来ごとに、天正元年(1573)の長島一向一揆攻めがある。この時の織田信雄は、大湊会合衆と伊勢川崎町に桑名までの船の出港を大湊と河崎に命じる[6]も、長島城攻めまでに舟を集められず攻撃を断念している[7]。遊ばせているわけではない商業に従事している大型民間船、すなわち建前[8]としては安宅船クラスの大船の徴用などは、急にはできないということである。また、東国を結ぶ東南海航路は遠州灘という難所があり、後世に考えるような自由な航海は望めない風待ちをしなければならなかったのである[9]。

 

伊勢湾東部で大野水軍・常滑水軍・師崎水軍・亀崎などの海民が戦国史に登場して活躍しだすのは、信長が長嶋一向一揆を海上封鎖するために、広く伊勢湾沿岸から船舶・水夫を徴発した[20]ときからだろうと思われる。それでも海戦に従事したとは聞くことはなく、長嶋攻めで艦砲射撃した[21]以外では専ら軍需物資の海上輸送だけのようです。その長嶋攻めでも敵の兵船と交戦したわけではないらしく、専ら艦砲射撃をもって敵の砦楼を取り崩すことに終始したように思われる。その後も海戦らしきものは一切行われず、徳川家康による大阪城攻囲戦の時にも九鬼水軍と徳川水軍[22]の間に海戦などは起きず、九鬼水軍は専ら陸戦隊による乱取を行い、千賀水軍は大阪への物資輸送に従事していたのである[23]。つまり、伊勢湾では船舶が軍事利用されるのは、ほとんど輸送船としてであったように思えるから、兵船=軍艦としては発達しなかったと言えると思う。現に、南蛮船が来航していたにもかかわらず、外洋航海に耐える軍艦を製造することはなく、その結果朝鮮水軍には完膚なきまでの敗北を喫したのである。

軍事使用されても、ほとんどが海兵隊の揚陸艇のような役割であったと思われ、例えば、桶狭間合戦では服部左京助が「戻りざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を」と『信長公記』が書いているし、他にも長嶋一向一揆は、「小田御崎(コタノミサキ)の川口に舟を寄せて、一揆勢は舟から降り、堤に上がって、そこを確保している」というような具合である。このように伊勢湾の水上勢力は、全て海兵隊による上陸作戦と艦砲射撃もどきの攻撃に終始しており、その最大の作戦が信長による長嶋一揆撲滅作戦であり、それに次ぐものが関ヶ原合戦に伴う九鬼嘉隆による伊勢湾沿岸への敵地略奪作戦でしかないのである。それ以外は、兵員や兵粮の輸送・機動に使役されたに過ぎなにのであり、その最も大規模なものが豊臣秀吉の小田原攻囲戦である。

現に、津島や熱田を支配していたはずの織田弾正忠家も長嶋一向一揆に際して必要に迫られて組織するまでは水軍などは持っていなかったのであるから、例え、松平氏や今川義元が三河湾において最大の大浜湊を支配下においたにせよ、それをもって直ちに水軍を保持できたことには繋がらないと考えるのが妥当だと思われるのだ。  (2007.11.06) 


以上のように考えると、桶狭間合戦で今川義元が大高港から服部水軍に輸送してもらうだとか、武田信玄が西上するにあたって水軍をもってするなどという事は、与太話でしかない事が判るはずである。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月05日 01時36分44秒 ) パスワード

レス<20>のお万さまの知立神社
レス<40>の池鯉鮒城


鳴海城には岡部五郎兵衛元信が篭っていたが、降伏して退去した。前後して大高城・沓懸城・池鯉鮒城・重原城も開城した。



大高に家康がいたと記憶しています。
そして知立は於万さまの御実家の永見。

そして重原城ですが
刈谷近辺の重原さんがわたくしを可愛がってくださってました。


この<40>の文章を見て背筋がゾーッとしました。


全く知らない関係だったのに
こういう背景があったのかと。

それこそ40年ぶりぐらいに知ったことでした。


日本人というのはやっぱりDNAの中に過去の記憶が刷り込まれているって思います。

当人達は知らない者同士でも、背後にいる先祖達が「よお、よお久し振りだな」って笑い合ってるんですよ。


この重原さんという名字をちょくちょく思い出してて
どうして気になるの?
と不思議でした。

1560年という数字が出て来て400年以上を超えて蘇ったんでしょうね。



そして今頃気付いたのですが
猿投の服部さんは甲斐武田の(今は川越の)服部さんと連絡を取り合っていたんだろうな
と。


特に表向き商売をしているというのは、人の出入りが自由ですから
情報を得るにはピッタリだったんでしょうね。


人が結婚するって、赤い糸で結ばれているなんて表現しますが
これはDNAに刷り込まれた過去の記憶なんじゃないか、って思っています。


わたくしもヒョンなことからアメリカ人の夫と結婚はしたものの
この人は「昔は蟹だった」とか変なことを言うのですよ。
そして「厳島神社に行きたい」とかね。

日本に里帰りするたびに厳島神社には何度も行きました。
名古屋から近いですから。ちょくちょく出掛けてました。

厳島神社の蟹を「自分の過去だ」なんて言ったり。

赤間神宮にも行きたがってました。


当時は平家は意識の外だったので厳島神社も赤間神宮もなかなか連れて行かなかったです。
1993年に赤間神宮に初めて行って凄い体験の数々をして
それ以来「服部って平家だったんだあ」と確信になったんです。


   父は馬の骨の服部だし
   何度も伊賀に行ったけど何にも感じなかったから
      昔のことなんか分かるか
   という態度で、
   父方が伊賀に関係するなんて全く考えたことも無かったです。


初めて伊賀に夫を連れて行った時
名古屋から列車で行ったのですが

電車に乗ってて、立っていたのですが、山の中だし、寒かったです。

伊賀に近づいた時、
わたくしの顔のあたりがボーっと温かくなりました。
感触としては「よく来たね」と誰かが近づいて来た体温のようでした。


夫と結婚して以来いろいろアリました。
本が向こうから「ねえねえ、読んで!」と言って来て
それは母方の先祖の歴史を詳細に書いたものでした。

最初母方から入って
その次に父方に入りました。


母方父方ともに源平時代には最初は平家方でしたし
南北朝の南朝方ですし
反信長ですし
江戸時代には江戸幕府がらみですし。

なるほど自分が生まれる素材がいっぱいあったんだって思いました。
そしてアメリカ人の夫と結婚する素材も。


そういうのがハッキリしたのが1993年〜1999年にかけてでした。
[44]Hattoriさんからのコメント(2012年07月05日 10時02分32秒 ) パスワード

実は私、善照寺砦や中島砦の近所に住んでおります。
善照寺砦は鳴海城から歩いて3〜5分程度の所で、桶狭間の方まで見渡せる小高いところにあります。今川軍を観察するには絶好の場所なのですが、中島砦は善照寺砦から坂を降りて、昔の海岸線とほぼ同じ海抜の旧東海道沿いにあります。ここからですと、仮に物見櫓が建っていても桶狭間方面は見通しにくいかと思います。何故そうまで逸って前に進もうとしていたのかちょっと疑問に思うところです。


私も伊賀に行くと、何か温かな気持ちになります。
spiritualな印象ではないのですが、地名や川に”服部”
と名が付いていると、何か故郷のような、「ああ、ここに居てもいいんだな」
と思うような受け入れられている気分(勝手にそう思っているだけですが)になります。

厳島はまだ行ったことがありません。そのうち家族で参拝に行きたいと思っています。
[45]Hattoriさんからのコメント(2012年07月05日 10時22分56秒 ) パスワード

そういえば急に思い出したのですが、
15年程前に日本の苗字を研究されている?という初老の男性に
お会いしたことがあるのですが、その方は手相と顔の相を見られる
方で、「貴方には高貴な血が流れている」と言われたことがあります。
あの後から何となく先祖について知りたいという気持ちが芽生えたんですよね。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月05日 13時30分56秒 ) パスワード

Hattoriさん


まず、赤間神宮が良いと思います。
朝早い時間帯で、観光客の来る前、が良いと思います。

七盛塚(実際にはたくさんあります)を是非参ってあげてください。
家長の塚も捜してみてください。
パンフレットを参考にすれば簡単に見つかります。


この七盛塚は江戸時代の奇特な方が塚を立ててあげたそうです。


赤間神宮の七盛塚は知ってましたが家長の塚があるなんて知らなかったので
自分には関係無いと思っていました。


赤間神宮をちらちら見て
早く名古屋に帰ろうと新幹線に乗るために駅行きのバス停に行ったのですが
バスが全然来ないし

夫は平家がらみのバス停の飾り?が可愛いなんて喜んでいたのですが
   マンホールの蓋だったかも?

なんか髪の毛を引っ張られる感じ(「後ろ髪を引かれる」という日本語の意味が文字通り分かりました)


それで赤間神宮のパンフレットを見たら七盛塚の武将の名前に家長もあって
慌てて赤間神宮に戻って家長の塚に手を合わせました。


この時の2回目の駅への帰りのバスはすぐに来ましたよ。



帰りの新幹線はガラガラで
横1列を占領して荷物を置いたりして
夫とそれぞれ別の窓際に座ろうとして

背中のバックパックを下ろそうとしたら手を感じました。
「よく来てくれたね」
と言われたように思いました。

それで  ???  と思って
夫がバックパックの下に手を入れて背中を触ったのかと思って後ろを見たら
夫は全然違う場所で自分の席を快適なように作っていました。


いくらなんでも人間の手では届かない距離でした。


こういう経験があったので
平家物語を読むようになりました。


家長は忠盛が昇殿を許された時に父の家貞と共に護衛し
この時、家長は確か16歳ぐらいだったような?

絵巻にも階の下に控える姿が描かれていて

そのほか、いっぱい調べました。


厳島神社では長い時間が取れると良いですね。
泊まれると良いですね。
そうすれば干潮時と満潮時を見られますから。


とっても親切な神職さんがいらっしゃって
神社と神宮の格の絶対的な違いについて教えてくださいました。

例えば厳島神社は立派な神社ですけど
格に置いては「神宮」には及びもつかないとか。


この神職さんの出現も不思議でした。
わざわざ教えてくださったなんて。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月05日 13時35分13秒 ) パスワード

http://dobes.jp/historic-geo/linkword.php?linkword_word=%E9%B3%B4%E6%B5%B7%E5%9F%8E

鳴海城の石碑鳴海城(なるみじょう)は、かつて愛知県名古屋市緑区に存在した城である。

 別名「根古屋城(ねごやじょう)」。
 応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。
 その際にこの地にあった成海神社は北の乙子山に移された。
 宗範の死後、廃城になったといわれる。
 
天文年間には織田信秀の支配下にあり、配下である山口教継が今川義元に備えるべく城主を務めていた。
 しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。

 その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。
 天文22年(1553年)、信長は800の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。
 やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれたため(信長の計略によるともいわれる)、義元は代わりに岡部元信を城に置いた。
 これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。

 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こるが、今川側が次々と敗れていく中で鳴海城だけは落ちることは無かった。
 信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。

 戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。


 現在でも彼の名にちなんだといわれる「作町(さくまち)」という地名が城下に残っている。
 城の規模は記録によっては一定しないが、丘陵の西に立つ東西に長い城郭であったようだ。
 たとえば『鳴海誌』によると「東西75間半、南北34間」とされている。
 現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社のある東の小さな高台あたりといわれる。

 これらには碑が立っているほか、近辺にある東福院という寺院には、鳴海城の廃材で造られたという門が存在する。
 それほどはっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月05日 14時23分44秒 ) パスワード

親戚が暫く本星崎に住んでいました。
鳴海って、近いんですねえ。知らなかったです。


鳴海というより大高の公園には町内の子供会主催の遠足でよく行きました。
大人になってからはもうちょっと向こうの駅の、番号のついたお馬さんをよく見に行きましたが。



その頃は、前後とか左京山とか桶狭間とか(ふ〜ん)と思いつつ電車から眺めていました。
知立の向こうに住んでいたことがあったので。


Hattoriさんは鳴海にお住まいということで
17才の家康が大高にいたとか
桶狭間の戦いがあったとか
日本の歴史の転換場所を御存知なんですねえ。
それも御先祖さまが関わったんですものね。
感慨深いですね。


生まれ育った場所の近くに神社があって
大人になってから知った名前は池鯉府神社でした。
知らなかったとはいえ、本当に何重にも、関わっているんですね。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月05日 14時39分25秒 ) パスワード

>「貴方には高貴な血が流れている」と言われたことがあります。

どういう意味だったんでしょうね?


だいたい「服部」という名字は「武士の家」という位置づけだそうで
上総国にいた頃から源平時代、
南北朝時代、戦国時代
そして江戸時代
さらに戦後ちょっとまでは、名古屋じゃ「電話機」の持てる家=当時の富裕層だったそうです。


「高貴な人物」
とはどなたのことでしょうね。


わたくしの場合は仲の悪かった人から「アンタにはお地蔵さん(仏様?)と神様がついている」と言われたことがあります。

言われたわたくしは良い気はしなかったのですが立正佼成会の人が「羨ましい」なんて言ってました。

神様の方はどこの神様か2つ3つ分かっているんですが、
仏さまだかお地蔵さんだかはどの方かはハッキリとは分からないです。多分、というのは見当がついていますが。


1993年あたりからは「守られている」というのが実感になりました。
最近は御先祖さまには遠くなっているので見放されているかも。


きっとHattoriさんにも、どなたか御先祖さまが守護霊としてついていらっしゃるんですよ。
でも、ホント、知りたいですよね。
多分、先祖の徳をたくさん受けていらっしゃるのかも。
[50]Hattoriさんからのコメント(2012年07月05日 15時02分35秒 ) パスワード

空の青海のあをさんも元々近くにお住まいだったんですね。
鳴海城跡はお寺や公園になっていますが、一番高いところは小学校になっていますよ。恐らくその辺までは城の縄張りのうちだったのではと思っています。

この辺は歴史好きにはたまらない所ですね。
熱田には、家康幼少の折りに人質として幽閉されていた加藤図書助順盛の家が今でもあります。普通に加藤と表札が出ていて、近所の方に伺ったところ子孫にあたる加藤さんが東京に住んでらして、いまでも土地は加藤さんのものだとか。面白いですね。
[51]Hattoriさんからのコメント(2012年07月05日 23時10分51秒 ) パスワード

学生の頃、私の周囲にも数名霊感の強い人がいましたが、私には全く
そういうものはありませんでした。

私は、「僕はご先祖様が守ってくれるからそういうものが近寄って来ないんだ。」なんてうそぶいていましたが、そのうち”九死に一生”とまでは言いませんが、”運良く助かった”なんてことも何度か有り、やはりご先祖様に守られているのかも、なんて思うようになりました。

私自身は何の努力もしているわけではなし、なんだか申し訳ないような気がして時々「ご先祖様、有難う」なんて胸の内でつぶやいてますが、いつかあの世に行ったときに、「ああ、守って下さったのは貴方だったのですか!」なんてことになったらいいなあ、なんて思っています。




なんだか貴重なスレッドを、私のつまらない話で汚して申し訳ありません。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月06日 03時50分26秒 ) パスワード

Hattoriさん


そうすると鳴海城というのは結構大きかったのですねえ。
近くの砦のような規模を考えていました。恥


わたくしは尾張南西部の生まれで育ちなんですが卒業後に転々として
実にいろいろな所に住むようになり
今でも引越癖から抜けていないです。



わたくしも九死に一生を得たという経験が何度かあります。

2度は死神に引っ張られました。
矢作川の上で、名鉄電車の中です。
この死神、西洋の真っ黒な大きな鎌を持っている姿で見ました。
名鉄電車の窓から矢作川に引き摺り込まれそうになりました。


その後、アメリカで、ですが
    その前に母方先祖の主君の墓に行って写真を撮って来たんですが
    その写真に、殉死した仲間が数十人写っていて、
    怒っているのやら泣いているのやら酔っ払っているのやら笑っているのやら
    その写真を日本の親戚に配り、

その後、いろいろありました。
・母からは気持ちの悪い物を送って来るなと叱られ
・大阪の母の従姉妹は・・・息子ともども、大変な目に遭いました

・わたくしはトラックに跳ねられて・・・でも一応五体満足です
  
    大阪の母の従姉妹は2階から何度も落ち
    母の従姉妹の息子は僧侶で、檀家さんの帰りにトラックとぶつかって・・・大手術の末に・・・普通に戻っています


*******************


上記に書いた、わたくしを大っキライだと言った人の話では
「アンタにはお地蔵さん(仏様?)と神様がついているから、そんな風に生意気なんだ。
だから玄関の出入り口の所に髪の毛を切って埋めて毎日踏めば、普通の人間になる」
んだそうです。


   立正佼成会のちょっとエライ人が「なんて羨ましい。そうなりたい」なんて言ってくれて
   あ、悪いことじゃないのか、と気がつきました。


もう1人の人は「私もあなたのことが妬ましくて悔しくて、コンチクショウと思っている」と言ってました。


で、今、気付いたのですが
立正佼成会の人を除いて、
2人とも同じ名字です。

さらにこの2人の先祖はうちの先祖と仲間です。


実はその2人の御先祖という人物は戦国時代に家康と仲が悪かったのです。

    ココにわたくしが妬まれた理由があったのでしょうか?



********************

学生の時に、非常にわたくしに関心があって近づいて来ていた男の子がいて
それが素晴らしい広大な土地を有する大地主の一人っ子で  
         どれだけの土地かを書いたらHattori さまもビックリだと思います(ネットで書けないのが残念)笑

でも、興味が無かったので、振ってしまいましたが
         バブルの時には惜しいことをしたなあと反省(笑)


この男の子も上記の2人と同じ名字です。

    それでこの男の子の件についてはかなり早い時期から先祖が邪魔したと分かっていました。


今日は2人の女性の言葉を書いて、またまた改めて、先祖が背後にいるんだ、と実感しました。

何百年も前の仲間内での妬みややっかみって、親しみ同様、子孫に受け継がれるのかも。


************************

三河の服部さんにも数軒出会いましたが
やっぱり凄かったですよ。弥富の服部家と同格だったかも。


それで三河の服部家の力もすごかったんだなあと。
でもやっぱり家康がらみですよね。


********************



実は実は、忠清の子孫にも出会っていると書きましたでしょ。
彼が勝手にわたくしを名家のお嬢様と思い込んでしまったのも
やっぱりウチは家康がらみだからでしょうね。


忠清の子孫の方は家康とは繋がらなかったようで
   でも、南北朝の時は南朝方の「5名家」の1つだったんですよ

       これが分かったので1999年に半年の逡巡の末に何十年ぶりかで彼に電話をしたのです。



    教育委員会なんかが学術的な調査をさせて欲しいと言っても
    彼の家(の本家?)は蔵に入れさせないそうです。

    それで三重県の学者達が残念がっていると読みました。


    読んだ時に、弥富の服部家とは、随分、違うんだなと思ったのですが
    そうさせたくない、そうされたくない「意地」があるんでしょうね


    でも、彼から聞いたところでは
    ある老人が一族を集めて、「家」のことを皆に伝えたそうです。


******************


1970年の春からエンエンと向こうは勝手にワタクシのイメージを膨らませていたようで
1999年の秋にそのイメージの内容を聞いて

    やっぱり先祖の姿をお互いの後ろに見てたんだなって思いました。


あ、うちの父はわたくしを「お嬢様」に育てたかったのに出来上がったのはとんでもない暴れ馬でガッカリしていますが

世の中には「いいよーに  誤解  してくれる人」がアッチコッチにいるわけで
やっぱりコレはわたくしの先祖の徳なんでしょうね。



    1999年に彼といろいろ話をして
    そしたら1970年に彼から聞いていた話とは実際が違ってて
    (何なのよっ!あの時、私に言ってた事とエライ違うじゃないかっ!)
    というのもあって、

    ま、わたくしも勝手に彼のイメージを膨らませていたって事でした。
    恥

でも大筋に於いて、
忠清の子孫の彼=忠清の息子の景俊どの=のことを思い出すと「せつない」です。
    壇の浦の戦いから、ずっと、予野の花垣神社の桜で「彼の無事」を待っている昔のわたくしが泣いていますからね。      


    この「せつない」という言葉は1999年に彼から言われた言葉です。


ちなみに「平清盛」の忠清の行動・言動が彼にそっくりです。
   うるさいところね。
   とても近くにはいられない。武芸が苦手な経盛の心境です。

でも誠心誠意本物の「武士」です。
   忠清は一生懸命なんですよね。彼も一生懸命わたくしに話していたんだって今は思います。煙たがって、悪かった。


花垣神社の桜を芭蕉は「一里はみな花守の子孫かや」と詠んでいます。
今でも10mの八重桜があるのかな?
1999年には見なかったです。
若木しか見なかったです。

   すごい方向音痴なので違うところを神社跡と思ったのかしら?
   謎


「沙石集」(芳心アル人ノ事)に著名な起源伝承が見える。

それによると、「奈良ノ都ノ八重ノ桜」として有名であった興福寺の桜を上東門院彰子が寺の別当に命じて京に運ばせようとしたところ、大衆が憤慨して別当を追放せよと騒いだため、風流心に感じた彰子は「伊賀国余野ト云庄ヲヨセテ、花ガキノ庄ト名ヅケテ、カキヨセサセラレ、花ノサカリ七日、宿直ヲ置テ是ヲ守ラセ」たという。


伊賀にまたいらっしゃる時は
是非、西の端の予野にもお出掛けください。(余野や与野ではないです)治田ランプの近く
ここは半蔵家の出身地の千賀地ですから。

http://www.ict.ne.jp/~sakura-8/yono.html


そして「服部」から服部川沿いに東へ行った、大山田の平田という所の明昌寺が服部家継の城跡です。
家貞の子です。
まだ石垣が残っているそうです。写真で見ただけ。
南に喰代があります。
これって百地がいた所ですよね。
http://www.m-network.com/sengoku/ninja/ninja03.html


あ、わたくしは凄い方向音痴なので、全然違ってるかも・・・・
予野が伊賀市の中心部って?
[53]Hattoriさんからのコメント(2012年07月06日 09時04分25秒 ) パスワード

>>そうすると鳴海城というのは結構大きかったのですねえ。
近くの砦のような規模を考えていました。

いえいえ、歩いて数分の規模ですから。
城とはいっても仰る通り、砦のような柵と物見櫓が有るくらい
の物だったのではないでしょうか。

激戦地ですから、それは多くの亡くなった霊がいるのでしょう。
「落武者の霊が云々」というような方はとてもじゃないけど
住めないのではないでしょうか(笑)



話が転々として申し訳ありませんが、天正伊賀の乱当時、
服部の面々はどこにいたのでしょう?

百地、藤林らの活躍は聞きますが、服部の名が出てくるのは乱後の
神君伊賀越、しかも三河服部ですよね。

友貞公の死去、長島での痛手から回復を待つべく埋伏していたのでしょうか。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月06日 18時31分01秒 ) パスワード

>>歩いて数分の規模ですから。
>>城とはいっても仰る通り、砦のような柵と物見櫓が有るくらいの物だったのではないでしょうか。


あの辺りはそこら中に砦があって
鳴海と大高だってスグの距離ですし

昔の戦いって怖いですね。


そして近所の農民なんかが弁当を持って見物に行ってたし。
関係無い人々には面白いミモノだったんでしょうね。


>>激戦地ですから、それは多くの亡くなった霊がいるのでしょう。
>>「落武者の霊が云々」というような方はとてもじゃないけど住めないのではないでしょうか(笑)

宇高連絡線のところは
船にゾロゾロ亡くなった人々がついて来るって聞いたことがあります。

桶狭間も聞いたことがあります。


わたくしの場合は子供の時に空襲でたくさんの人が亡くなったと聞いてからか?
自分の家の2階に昼間でも1人で上がれなかったです。

誰もいない日なんか怖くて玄関の近くにいました。



学校を出て最初に働いた所はお給料が物凄く良かったのですが
夜中の見回りというのがあって
それも山も敷地内にあって
山の中に建物がいくつかあって
そこも見回りに行かなくてはならず

挙句に、ある建物には空襲で亡くなった人々の位牌が安置されているというコトが後で分かるようなコトがあって

とにかく「気のせい」で頑張りました。
でもスグに辞めてしまいましたが。


敷地内に池もあって
池も見回らなくてはいけなくて
ある夜なんて池に人間が隠れていたことがあって
   池の水の中ですよ

いろいろ、経験し過ぎました。
お給料は本当に良かったですよ。
この時に(人生、お金なんて、どーでもいい)って思いました。



>>天正伊賀の乱当時、服部の面々はどこにいたのでしょう?

天正伊賀の乱   1581年(天正9年)
伊勢長島一揆   1570年ごろから1574年
服部友貞     生年不詳 - 永禄11年(1568年)


尾張の服部家は伊勢長島一揆で既に壊滅状態でした。
村人は数万人殺されていますしね。


天正伊賀の乱は元々が伊賀国内の問題があって
   名前は忘れたのですが殺人事件があって、伊賀の中で内訌が始まっていて

このことから伊賀の中から信長の息子の信雄に「伊賀を滅ぼすチャンスですよ」と入れ知恵したのがいて(柘植某だったような)
それから多羅尾も信雄の味方になったし

それで信雄が動いて大負けして
信長が激怒して
信長は丹羽や滝川や蒲生に命じて伊賀の虐殺をした

こういう流れだったと思います。


服部家ホンヤさんの先祖は伊勢長島の戦いの後
許されて荷の上に天正四年(1576)からだったか(完成したんだったか?)
今の場所にあの屋敷を造り始めて
村の再興に力を入れてたので伊賀には協力してないと思います。


   このあたりはさちこさんが詳しいかも。



伊賀を攻めたのは信雄に恥をかかせた伊賀勢の粛清で織田家の問題でしたから
家康に仕えていた三河服部家は、全く、動いていなかったんじゃないでしょうか?


伊賀勢は藤林家・百地家・滝野吉政(柏原城主)が中心だったそうです。
千賀地の服部半蔵家は藤林家とは親しかったようですが
百地とは仲が悪かったみたいな記憶です。

   伊賀の頭領の座を服部・藤林・百地で狙ってたんですから
   そういう力関係から服部半蔵派は遠くから見てたかも。家康の立場もあったし。


尾張南西部の服部一族は伊勢長島以降、表立って戦うことは放棄したという印象です。

それで家康配下の半蔵方が歴史に残っていったんだと思います。


   さちこさんの方が御存知でしょう。


わたくしの古い友人の忠清の子孫ですが
母上が藤堂の家老の出身なんです。

不確かなんですが藤堂の家老だったら元は半蔵の兄の系統のようで
ということは彼も服部の血が半分なんですよね。


で、彼は伊賀にいたことがあって
彼の話だったのか、彼が聞いた話だったのか
天正伊賀の乱の亡霊話を聞いたことがあります。
すごかった・すごいという話です。


1970年の春に彼と知り合ったというのは伊賀でも藤堂の家老の件でも
結局は引っ張り合う下地があったということになりますね。


あ、ちなみに
わたくしの源平時代の姿は平田家継の末娘か孫のように思っています。
平田家継の名を見るだけでバンダの涙が止められないです。
京都にいた感覚は全く無いです。

久居から予野
あのあたりをウロウロして居たような。


ま、日本人ですから、彼もわたくしも同じ血を何重にも共有しているんですね。
戦国時代の終わりにプッツリ切れてて
服部の血を受けた母上が忠清の子孫の彼の父上と大恋愛して彼が生まれた
そういうことで
1970年に久居でわたくしと彼が出会った
こんな感じ。


その後、
わたくしは伊勢長島一揆で我が家の味方だった武士の子孫の人と結婚するのどうのという騒ぎがありました。
この人は「着物を着て床の間に座っているだけで良い」なんて言ってくれてました。
    この人の家は江戸初期にお取り潰しになりました。

結婚話は、父が反対して、終わりました。


本当に日本人ってDNAに過去の記憶を刷り込んでいると思います。


それでバカ話ですが


平家が壇の浦で滅びてから
信兼と忠清と家継で鎌倉方と戦いました。

   忠清子孫の彼は自称「瞬間湯沸し機」
   わたくしは「暴れ馬」ですからね

それで思ったのですが
忠清と家継の友情から   ひょっとすると  源平時代のワタクシの母は忠清の娘か一族の娘だったのでは?と。


こうして考えますと藤原秀郷の墓に参った時、雷が鳴ったのも、必然だったのかも。


実を言いますと伊勢長島の一揆で味方になってくれた武士は母方とも関係がありますし。


日本人は8代遡るとみんな繋がってしまうと夫の親戚の子が京大に行ってた時に聞いたのです。

わたくしは生まれるべくして生まれて来た
そして出会うべき人と出会って来た

そういうことかも知れないです。


Hattori さんとも今回こうしてこのスレッドでいろいろ情報を交換して
ひょっとすると、実は、思わぬところで繋がっているのかも。

母の親しくしている人が有松で絞りをやっている家で
姉が有松絞りの着物を貰ったことがあって(ものすごく高価なものですものね)
母の親しくしている人は鎌倉幕府がらみで母とは繋がる家なのです。


向こうのスレッドではレスは非常に客観的なレスしかするなって守護霊が指示してて
このスレッドではたくさん書いてやれって守護霊が言うのですよ


実は母の家は明治維新後、武士を止めてから海運業をやってて、祖父は名古屋港に派遣されて来たのですから
それも南区にも関係してたし

ひょっとするとわたくし達の祖父あたりの代でも知り合いだったかもですね。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月07日 07時28分04秒 ) パスワード

大橋さんのスレッドに津嶋神社の天王祭の案内が出ています。

7月28日29日の土・日です。

大橋家も服部家も代替わりです。
みんなどんどん他人の関係になって行きます。

お出掛けになってはいかがですか?
[57]Hattoriさんからのコメント(2012年07月08日 11時47分09秒 ) パスワード

>>実は母の家は明治維新後、武士を止めてから海運業をやってて、祖父は名古屋港に派遣されて来たのですから
それも南区にも関係してたし

ひょっとするとわたくし達の祖父あたりの代でも知り合いだったかもですね。


十分に考えられますね。人と人の縁というのは世代が進むに従って、近寄ったり離れたり、また近寄ったり鎖のように見えるものかもしれませんね。
人の織り成すDNA鎖といったところでしょうか。名古屋という土地柄当たり前かもしれませんが、私も大橋さんや加藤さんという方で親しくさせていただいている方がいます。

今年は息子の行事で(お寺でお勤めを体験するそうです)かないませんが、
必ず天王祭りは行きたいと思っています。

[58]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月08日 12時15分44秒 ) パスワード

大橋さんや加藤さんは「名古屋」ですね。


隈さんも超優秀な薬学部の学生として名古屋に来てて
そこで「大橋さん」と親しくなったそうで

ところがワタクシの場合は多分1人も大橋さんという知り合いがいないのです。
これまた不思議ですよね。
近所にもいなかったような。



加藤さんは親戚に何重にも遠い親戚がいます。
でも近くではいないんですよ。
これまた不思議です。
初代じゃない名古屋市長の親戚に加藤氏がいてウチの親戚でもありました。

   でも市長の姪とは全く知らない関係で親しかったんですよ。


加藤姓とは先祖がわざわざ出会わないようにしたのかも。
特に男性の加藤姓は1人も身近にいなかったです。



息子さんがお寺でお勤めがありますか。

わたくしの小学校の時は夏休みに暫くお寺にお経の詠みかたを習いに行ってるのがいました。

今、思えば、一向一揆で頑張った土地の子孫なんですから
今でも子供をお寺に暫く行かせる家があっても不思議じゃないなと思います。
2070年あたりは長島の願証寺あたりで一向一揆500周年忌をやって欲しいですけど
さちこさんもその時には鬼籍に入っているでしょうし

どんどん風化していくんでしょうね。


50年後あたりに、このスレッドを見た人が、是非とも500年忌を主催して欲しいです。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月09日 02時20分50秒 ) パスワード

<58>のレスは不思議な感覚で書いていたのですが

一夜明けましたら(ああ、こうして、歴史は記憶されていくのか)と思いました。


息子さん、または、お孫さんが
桶狭間500周年や伊勢長島一揆500周年それから天正伊賀の乱500周年忌をやってくれるかもですね。

なんか、そんな確信が「来ました」よ。


今夏のお寺さんでの修行を頑張って欲しいです。
[68]Hattoriさんからのコメント(2014年08月12日 10時19分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様



しばらくぶりに書きこみさせていただきます。

お盆ですね。先程、お坊様がいらしてお経をあげて行って下さいました。
久しぶりにこのスレッドを開いて、ご先祖様へ思いを馳せております。

2年前にこちらに書きこみましたが、向いにお住まいの大橋様はやはり津島神社の関係の家柄だと仰ってました。1000年昔は兄弟であったかもしれないなんて不思議な気持ちがいたします。8年ほど前に現在の宅に越してきましたが、その際ご一族揃って温かく迎えていただいて以来親しくさせていただいております。
また鳴海城主だった山口氏のご子孫の方とも、仕事の関係でお付き合いさせていただいております。

以前は歴史とは浪漫に富んだ夢物語のようなものと思っておりましたが、最近は自分が脈々と流れる歴史という大河の上の一葉のように思えてなりません。
歴史とは過去に起こった他人事ではなく、今現在も歴史上の人物のご子孫や自分達が近づいたり離れたりしながら一緒に流れて織りなしているものなんですね。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月12日 14時57分47秒 ) パスワード

お久し振りでございます。


実は本当に最近ですが
昨年のお正月からのご縁ですが
駿河国の今川家の軍師だった朝比奈さんのご子孫と親しくなりました。


なんとなく引き合ったという感じです。
でもちゃんと御先祖さまの引き合わせだったんでしょうね。
ひょんなことから「うちは静岡の朝比奈」とおっしゃるので「ひょっとして今川の軍師だった朝比奈?」と訊いたのです。


日本人はこんなものでしょうね


なんとなく友達になるけど実は先祖も親しい間柄だった
なんて。



平家の失敗は先祖の 平正度 の子供達を中心に仲良くやってた  ということでしょうね。


1006年寛弘3年  平貞盛の子である平維衡が伊勢に来て  
その息子が正度。  
この正度に男子が5人いて   この子孫がずっと何代も仲良く付き合って平家一門を形成した。


こうして名前を見ているだけでも 「貞」「盛」「維」「衡」「正」「度」  など
平家の皆さんの名前の名付けの元がココにあったのかって分かりますよね。


日本人の伝統的な名前って共通性があるから一族だなって分かり易くていいですね。  

    当時はこういうのがキラキラネームだったんでしょうか?
    笑


今年になってからも先祖がらみの某大豪族のお名前の方と親しくなりました。
南朝がらみです。


2012年には親しくしていた医者から紹介されてある人物を知ったのですが
いえいえ
30年ほど前にわたくしは友人の入院先でこの「ある人物」と会っていました。

    入院している友人を介して会ったので親しく話はしていませんが
    まさか30年後に全く別の人=医者=から紹介されるなんて
    不思議過ぎるご縁でした。


その上にこの「ある人物」は、上記に書いた昨年のお正月以降に知り合った女性とも今川で繋がりました。


2012年に知り合った医者は今年親しくなった某大豪族の一族でしたし。

    全く全員接点の無い人達でしたが芋蔓式に繋がってました。笑


みんな赤の他人のつもりですけど、ちょっと話せば先祖の刎頚の友だったのかと。
これが日本人ということでしょうね。


Hattoriさんの御近所の大橋さんも元は平家の一族だったなんて
  It's so Japanese!
つまり日本人ってことよ、です。


日本の歴史って、過去のハナシじゃなくて、自分のアイデンティティそのものなんですよね。


久し振りにご近況を伺えて楽しかったです。
[70]Hattoriさんからのコメント(2014年09月23日 17時25分51秒 ) パスワード

超亀レス失礼します。
”九死に一生”  で、子供の頃聞いた話を思い出しました。
名古屋の工業地帯を空襲された時の話です。
私の父がまだ幼稚園くらいのころですが、屋根を突き抜けて
焼夷弾の束の一つが今に落ちてきたそうです。
なぜか不発で、父の姉(私の伯母)が拾って庭に投げ捨てたところ
燃え上がったそうです。
正にご先祖様に守られて私や子供達がこの世に居るのだと改めて思いました。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 22時30分03秒 ) パスワード

>ご先祖様に守られて私や子供達がこの世に居るのだと改めて思いました

我々は偶然に助けられて命を繋いで来たように思いますが
実はそれは必然であったということでしょうね。


男前な伯母さまに助けられたけど
実は何かのパワーが伯母さまに瞬時の判断をさせた
家も助かったし命も助かった

偶然ととるか、必然ととるか


謙虚に生きていきたいものですね。

[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 02時06分48秒 ) パスワード

たまたま見つけたのでアップしておきます:


平長盛


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/08/06 12:38 UTC 版)


平長盛(たいら の ながもり、生年不詳 - 保元元年7月28日(1156年8月15日))

平安時代末期の武将。

平忠正の長男。

弟に忠綱、正綱、通正がある。


長盛のみ父の偏諱が含まれない名前だが、「長」の字は父が仕えていた藤原頼長からの偏諱(「盛」は平氏の通字)と考えられる。
[73]Hattoriさんからのコメント(2014年10月06日 09時44分38秒 ) パスワード

ありがとうございます。

長光のお父さんなんですね。
清盛に処刑されていますが、長光が許されたのはやはり
母方の血のおかげかもしれませんね。

清盛の情もあったのかもしれませんが。

最近、”やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです ”
というのを見つけてながめてました。
義経の娘も、母が名家の出であれば救われたのかもしれませんね。
[74]Hattoriさんからのコメント(2016年01月12日 12時39分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

こんにちは。ご無沙汰いたしております。
昨日心に残る体験をしたので久しぶりに書き込みをさせていただきました。
長男がいよいよ来年中学受験を控えており、この3連休は遠出をしませんでした。
連休最終日の昨日だけ、浜松のフルーツパークという所へ行って家族でイチゴ狩りを楽しんで来ました。帰宅時の渋滞を避けるために早目に夕食をとりたいと思い予め餃子のお店を調べておいたのですが、移動間際に月曜定休に気が付いてがっかり。
それではと他の店を調べてみても、どこも休みだったり夜の開店時間が遅かったり。
やっと一つ見つけて行ってみた所、そのお店は立派な神社の真横にありました。
気になって改めてカーナビを見てみると、神社の奥に史跡の記号があり宗良親王墓所とあるではないですか。
後で調べてみてこちらは明治時代に創建の井伊谷宮とわかりました。墓所も明治時代に定められた所ですが、なんだか「近くまで来たのだからちょっと寄って挨拶していけ」と言われているような気がして食事中も気がそぞろ。店を出てから暗くなりかけの神社にお参りをして墓所に移動しましたが、残念ながら門が閉じて墓前までは行けません。神職の方に伺った所、毎年元旦から7日までは門を開いているそうです。それでは、と家族で門の前で手を合わせて参りました。
息子たちに「どうしてお墓にお参りしたの?」と聞かれましたが、南北朝の話をしても5年生と3年生には良くわからなかったようでしたので、
「昔もしかしたらご先祖様がお世話になった方」なんだよ、と答えておきました。
2歳の娘が参道の砂利でお砂遊びを始めてしまったので、あわてて治して帰って参りました。
[75]Hattoriさんからのコメント(2016年01月12日 13時23分50秒 ) パスワード

そういえばお詣りの際に息子たちが見つけたのですが、寄進された方の名前なのか、神社の鈴緒に「服部某」さんの名前が彫られていてちょっと驚きました。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月12日 13時50分46秒 ) パスワード

Hattoriさん


お久し振りでございます。

不思議ですね
ご先祖さまからのお導きだったのかしら?
パワーが来ると良いですね。



>神社の鈴緒に「服部某」さんの名前が彫られていて

どこの「服部さん」だったんでしょうね。

尾張の服部家ホンヤさんなら神職さんですし、全く、違和感が有りませんが
尾張服部家ホンヤさんだけでなく
服部政信系や服部中保次系のお家も可能性がありますし
他にも伊賀守宗純子孫はいるでしょうから

次回いらっしゃる事がお有りでしたらお訊ねになってください。
その時には「吉野忠臣11名字の服部の子孫です」とおっしゃれば分かっていただけますから。

    このあたりのハッタリでしたら服部家ホンヤさんもお許しくださるでしょう。キャハハ
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