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 投稿番号:101282 投稿日:2012年06月09日 23時15分52秒  パスワード
 お名前:中村
『平姓原田氏』の通説に?異議あり!!

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

■Web「美作管氏」とは--gooWikipedia

平 忠常の子忠高が肥前原田に住んで原田氏となり、保安四年(1124年)孫の興方が高科師春を殺したことに関係し美作に流され葛虫庄を原田庄と改めた。
この平氏系原田氏が四代忠門の代に姓を菅原に改めたと言う。美作管家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっている。

■Web「管家系図」上記WEBと同じく満佐の子として、忠門 日向守

*四代忠門? 当初は単なる書き違いと思っていました。忠門 日向守?

◎<原田の四代は平 興方(?〜1141年)で、忠門は七代です。

◎<日向の守について「「原田文章系図」の四代興方の事績の記述の最後に

 弟沖春日向守曽肥前ニ住ス☛弟ノ沖春日向守ハ曽(カッ)テ肥前の国ニ住ン                デイタ
「美作管氏」「管家系図」興方の弟沖春を初代とし、忠門を四代としている。
この沖春の子孫が菅原姓に改姓したか?

■Web美穂神社と三穂太郎伝説によれば、三穂太郎は天福二年(1234年)52歳で 没とすれば(1182〜1234年)に生きた人。

◎<七代忠門は(1187〜1221年)の人なので明らかに違う。「美作古城史」寺坂五夫著 昭和31年四4月10日{非売品)も矛盾としている。

■Web-有元三穂太夫満佐(1234)の五男とされる原田日向守忠門の事績として、八幡神社の社殿修築を弘長2年(1262年)に行う。

◎<忠門は(1221年)に亡くなっているので社殿の修築は出来ない。

■『日本家系・系図大辞典』2008・7・25初版 奥富敬之著 鞄結椏ー出版
@・・・いささか信憑性に乏しいが、「菅原氏系図」に菅原道真の曾孫輔正が
京都市北区北野に住して正一位の大臣となって称号が北野宰相、その子忠貞が原田氏を呼称。

◎<この原田氏と平姓原田とは無関係と思割れる。が、■「管家系図」に道真の末裔三穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷を領して原田氏を呼称。

◎<原田としたのは初代忠高の時で、原田郷を領したのは四代興方では?

■『梅花余花」(誕生寺・昭和10年発行)原田佐秀は原田日向守忠門の子

◎<七代 平 忠門 (1187〜1221)原田佐秀が船上山の合戦で(1333年) 戦死、忠門の子ではない、この佐秀の子孫が前田利家の説あり。

以上の件で,賢明な諸氏のご教授をお願いいたします。

[1]中村さんからのコメント(2013年01月14日 03時10分01秒 ) パスワード

平姓原田氏が、菅家とも言われていたことは承知しているが。

菅家に改称!に疑念を抱きさらに調べてみました。その原因は何か?

■天保15年(1844〜1846)まで皆木保実が発起人となり、山口利治,廣戸佐賀が

世話役となって、一族後裔を調査し「美作菅家分録」を一族に配布したと言わ

れる。当時のことで大変なご苦労を推察します。この調査を基に「美作太平記

は書かれと思える。この太平記について、


◎新釈『美作太平記』(三好基之著)の解説で「美作太平記」を『岡山県大百

科辞典』での記述は美作における各氏の逸事を記した歴史書とあるが、内容の

信憑性について、相対的に歴史記録と言うよりも、戦記物語。創作された人物

が多く、内容も史実、合戦時期とその時間のずれ、二つの合戦を、一つの合戦

に混合してしまうなど、随所に著者の創作をみうける。
 
 唯、昨今、『美作太平記』の記事を、町村史などに引用して、無批判に所の

史実と結びつけて町史とする傾向がみられるが、厳に警戒すべきことである。

概略以上のように記されています。

 原田のことは【作陽誌】1691に森潘で編纂成立された公的な地誌を参照

されていれば、このような間違いはなかった。




[2]中村さんからのコメント(2013年01月29日 04時06分46秒 ) パスワード

 平家物語を熱く語る!! 大蔵系原田氏家紋:平系+管系原田
 
[53] ときおさんからのコメント

>原田家の家老家の子孫からでた資料のようです。【作陽誌】1691に編纂成立
 した。として、

○ 4代忠廉(門)は菅原・有元(美穂太郎)満佐の第五子

(注)【作陽誌】に三河守(貞佐)ノ司池上内蔵助ノ子池上十右衛門ノ妻は貞佐の娘十右衛門ハ農ト成リ此ノ村ニ在り系譜(原田)ヲ伝とあります。

池上氏の残された言葉は重いのですが、【作陽誌】「原田の系譜」との違いが見られます。忠門は七代で光沖の子。

○ 5代忠・の子「原田三郎秀佐」元弘三年菅家一門として京都四条熊野で戦死

とありますが、原田の五代忠光で、忠・は八代です。四条熊野の戦は元弘三年(1333)から、下記、原田歴代の生没年で推測しますと「佐秀」は十代頼忠 (1274〜1341)の子ではないか?と思われます。

ご参考までに歴代の生没年と官位は以下の通り (⇒は後の官位)

初 代 平 忠高 ( ?〜1059)  従五位下
二 代 平 忠次 (1046〜1099) 従五位下⇒正五位・肥後守
三 代 平 忠沖 (1087〜1106) 従三位
四 代 平 興方 ( ?〜1141)  従五位下
 *弟の平 沖春 日向守
五 代 平 忠光 ( ?〜1178)  ?
六 代 平 光沖(光興トモ) (1159〜1198) ?
七 代 平 忠門(忠廉トモ)(1187〜1221) 従五位下 中務蔚
八 代 平 忠頼 (1218〜1253) 兵右衛門⇒右衛門
九 代 平 頼興 (1249〜1296)   ?
十 代 平 頼忠 (1274〜1341) 従五位下
十一代 平 忠勝 (1322〜1367) 正五位  左京佐
十二代 平 忠平 (1341〜1401) 従五位下 河内守
十三代 平 平政 (1374〜1426) 従五位下 伊賀守
十四代 平 政頼 (1411〜1450) 従五位下 讃岐守
十五代 平 忠行 (1441〜1486) 従五位  安藝守
十六代 平 忠氏 ( ?〜1519) 五郎右衛門蔚
十七代 平 忠長 (1507 〜?) 播磨守
十八代 平 貞佐 ( ?〜1586) 三河守
十九代 平 行佐 ( ?〜1592)  ?
二十代 平 忠佐 ( ?〜1621) *秀吉により作州に放還セシム
二十一代  行佐 忠佐ノ子父ノ遺命ニ依り出家願誉ト称シ誕生寺ニ住持ス

                参照「原田系図」『美作古城史』
                
こうも錯綜していては最終的な答えを求めるのは難しい。しかし私なりには
@に原田氏 Aに四代 興方の弟沖春日向守が菅家に婿入り?した原田氏
Bに原田佐秀の原田氏があり、尚他にも原田氏の支流があるのは理解できる。   

[12]磯山さんからのコメント(2013年11月14日 16時10分13秒 ) パスワード

お久しぶりです。
岡山県立図書館に「美作古城史」の製本版と「久米郡史」「美作神社資料」(いずれも官公庁発行です)があります。参照されて観てはどうでしょうか。
「作陽誌」も作東などの美作東北部は松平氏に藩主が移ってからで検証が甘い様に見受けられます(系図を書いた当主が酔っぱらっていたとか)。松平氏は完成させる意欲を持っていなかったという指摘も有。
満佐の子が正ならば、8代忠頼を子息とするのが妥当。
1333年の元弘の乱時の当主は10代頼勝(頼忠)です。しかも彼は笠置山城へ入ったが、後醍醐帝が有王山へ逃げたので美作へ帰っているんです。菅家党とは別行動。
「梅花余花」はこの顕彰碑の目的が忠臣を褒め称えることにあったから厳密な考証があったとは言い難いと思われます(関係ない陸軍大将が式に出てます)。
[13]磯山さんからのコメント(2013年11月14日 17時27分23秒 ) パスワード

「梅花余花」の顕彰碑の発起人の一人菅氏(弓削衆の菅納氏(漆間氏、立石氏)の後裔)は神目の人と言われているが、地元の神目では誰それ?的な扱いなんです。
それよりも美咲町打穴の「菅氏」の方が名が知られているので本来の地元はこちらではないかと。
江田氏、辻氏なども随分尽力されている様なので。地元の伝承から発起された碑では無いと感じます。
[14]池上さんからのコメント(2014年03月30日 15時36分34秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年03月30日 15時54分57秒
[15]ゆめみ さんからのコメント(2014年03月30日 21時11分28秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年04月05日 07時23分47秒
[16]中村さんからのコメント(2015年03月16日 09時16分06秒 ) パスワード

磯山様 お久しぶりです。

 原田氏が平氏から菅家に改称したかの答えは、”山のことは樵に聞け”の

諺どうり、原田のことは原田に聞くのが道理ではないでしょうか?

 ◆原田系図の信憑性◆

 系図と一次資料 一般に過去に書かれた系図は、歴史学の上では「二次史料」

とされる。「一次資料」というのはいわゆる古文書であり、歴史学では特に

「良質な資料」ということが要求される。系図に「偽系図」があるように、古文

書にも偽文書が往々にあるからである。古文書に次ぐ史料は、確実な公的機関に

おいて編集された歴史書である。

              「系図研究の基礎知識」 近藤安太郎 近藤出版

 津山藩の要請で原田の古事が書かれ、編集された作陽誌の原田は平姓です。

なによりも誕生寺にある原田三河守 貞佐の墓の墓碑は「原田三河守平貞佐」

また、誕生寺への百石寄進状、また原田神社への「田一ケ所」の寄進状の署名も

平朝臣貞佐 花押となって居る。

 平熱で”まるこ”さんが「桓武平氏?原田三河守と母方のことが知りたい」、

と、かって原田の家老でご子孫が投稿されています。

なぜ原田が菅家に改称したという偽系図が流布したかは後日、、、、。


 



[17]も10、1さんからのコメント(2015年03月16日 23時16分03秒 ) パスワード

私は、新城山城の近くに住んでいます。
もっと知りたいのですが。
[18]中村さんからのコメント(2015年03月30日 22時08分27秒 ) パスワード

も.10.1 様

 はじめまして 新城には池上氏、磯山氏、原田氏等原田に関わる方が大勢いらっしゃいますね。


誕生寺の原田三河守墓前に記された案内文は

   原田三河守貞佐の墓

原田氏は平安末期から十七代四百九十八年を

美作に居城す。

 十五代稲荷山城主 三河守は勢力回復保持

し当寺寺領百石を寄進 天正六年の羅災の

際 裸馬にて馳せつけ助援の他、多大なる貢献者

 原田十八代は当寺十三世願誉和上である。

三河守は天正十四年十二月寂



上記のように記されていますが。三河守を十五代としていますが、十八代です。

また、願誉和上は十八代ではなく、二十一代(行佐)の間違いです。

スレッド「11」を参照して下さい。■Web〈「美作官氏」で忠門を四代として

記述は三穂三太郎の子としていますが

  原田系図の記述は以下の通りです。

 光沖ノ子

七代 忠門(忠廉)トモ

 母は藤原朝宗ノ娘 (注 頼朝の従弟で伊達氏の祖)

文治三年十一月晦日生ヲ受ク 以下略とあり、美穂三太郎の子でもなく菅原に

改姓はしていません。

 美作菅家はかって、京都の公家の菅家に出向いて自家の系図を調べています。

この事実からも原田についての事実を知る由もない。


余談になりますが、あるプログで菅原さんが、原田氏は菅家と親戚でないと書い

ておられますが、十二代平 忠次(1341〜1401)母は美作菅家の筆頭有本勘四郎

の娘です。初代平 忠高の妻は大江正房(子孫は毛利氏)の娘です。

大江氏は『菅原氏系図』に、菅原古人の真中が、延暦九年に大枝(大江)の姓を

を賜ったとあり菅原氏とはこんな関係です。 「家 系」豊田 武著 参照





[19]も10、1さんからのコメント(2015年04月05日 00時35分15秒 ) パスワード

中村 様
此方こそ、はじめまして、最初から貴重な情報を頂き、有難う御座います。
稲荷山、誕生寺、山城、桓武天皇、千葉、池上内蔵之助、久米の少林寺、繋がりが有りますか(?_?)教えて頂けますか
よろしくお願いいたします。
[21]中村さんからのコメント(2015年04月05日 16時48分06秒 ) パスワード

も10,1様

 ご関心をいただきありがとうございます。

実は故意に菅原氏に改姓された経緯には誕生寺、国策らの深淵な配慮があったのことも伺えるのです。この件は追って述べる前に、

太平記の事績で、昭和九年四月誕生寺境内に南朝作州七忠臣並忠死者二十人総忠魂碑が建立され、昭和七年に久米郡加美町超尾の地に原田佐秀の忠魂碑が建立されました。

  贈正五位原田佐秀卿旌忠碑

 題額 陸軍大将正三位勲一等功四級荒木貞夫閣下
美作国住人菅家ノ一党原田彦三郎佐秀は贈正一位大政大臣菅原道真公第十五世ノ孫なり其祖忠門久米郡原田ナル稲荷山に城を築キテ孫佐秀に至ルマデ三世此ニ居り武名アリ元弘三年閏二月二十八日後醍醐天皇伯耆ニ幸シ土豪名和長年ニ懲リ給ウヤ長年天皇ヲ奉シテ三年船上山ニ籠リ激ヲ諸豪ニ傳フ  -以下略ー

 上記佐秀が菅原道真の第十五世の孫となっていますが、原田系図の初代忠高は
桓武天皇ノ五代後正五位上ノ官職、上総助平ノ忠常ノ五男です。
また碑文では、其祖忠高稲荷山に城を築キテとありますが、

平凡社「岡山の地名」では原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を城称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山(注・稲荷山城)とあり、碑文の忠高は原田の七代で、城を築いたのは四代興方です。

「姓氏家系大辞典」太田 亮著も同じ記述です。

 当然ここで原田佐秀の出自が疑問になりますが今日はこのくらいで

そうそう池上内蔵助は原田の重臣で忠長,貞佐、行佐の三代に仕えた方です。
「久米の落日」元・二松学舎大学教授の原作を引用され、「作陽誌」「久米郡誌」「美作古城史二」を参考に書かれたのがあります。桓武天皇から稲荷山城
築城から書き下ろされ、。地元の方が書かれています。非常に参考になるかと思います。ご活躍の様子は、戦国歴史物語「稲荷山城主・原田氏の盛衰」がります。著者のことは調べておきます。




[22]中村さんからのコメント(2015年04月13日 00時15分37秒 ) パスワード

も10.1様

 先般の文中、平凡社「岡山の地名」で碑文の忠高は→忠門の誤りです。訂正を願います。

尚、「原田氏の盛衰」の編者は:直原宣章と言う方で、三咲町新城121 0868−66・・・・です。ご存じでは?非売品で28ページの冊子です。ご連絡されば快く頂けるのを願っています。ご歓心の桓武天皇・誕生寺・池上内蔵之助についても参考になると思います。千葉氏・少林寺らを含め原田の歴史について知る権利がおありのようで、知っている事はお伝えします。

「原田氏の盛衰」の書き出しのみ紹介します。

「原田氏」の先祖は、今からおよそ千年ほど前の奈良時代の末、桓武天皇七代胤(たね)に上総守平忠常と言ウ人がいました。この人の五男で平忠高と言う人が、肥前原田庄(現在の佐賀県)に住んでいました。そして号(呼び名)を原田次郎と名乗っていました。これが原田氏の始まりです。平忠常に始まり、そのひ孫の平興方が、保安四年(1123)2月、藤原高時が、高科師春を殺した事件に関係があって作州に流されて来た。そして翌年の保安五年(1124)に元住んでいた肥前原田庄を没収されたが、罪を許されて作州の葛虫庄(くずむししょう)(岡山県久米郡三咲町原田)を朝廷から賜り移り住んだのが始まりである。平興方は狐山(のちに稲荷山と言う)に城を築き、初代城主となる。-以下略ー

●この物語は「久米の落日」松田 存(元・ニ松舎大学教授)を一部引用し、参考文献として「作陽誌」「久米郡誌」「美作古城史」とされています。

◆前のスレッドで菅家との姻戚関係でかき忘れたので、追記します。『桓武天皇』の祖母は土師氏(大江氏)で、この姻戚関係から土師氏に、領した土地の」名を冠して「大江氏」「菅原氏」「秋篠氏」が与えられた。祖の土師氏の野見宿祢相撲の始祖です。ずいぶん古くから繋がっています。

□池上内蔵之助は「姓氏家系大辞典」太田 亮著 角川書店によれば十五代平 忠行(1441〜1486)の長男忠文の子が池上内蔵之助となっています。忠文頗る高雅。文学を練磨す。よりて忠行其の城を譲らんとしたが、忠文・之れを弟忠武に譲りとあります。忠武???? この件別途改めて   
[23]中村さんからのコメント(2016年05月18日 03時27分28秒 ) パスワード

■原田の偽家図はこの時作成された!

 新釈『美作太平記』三好基之・著者は解説で、この書物は化世紀(1804〜1830)に成立。『美作太平記』の著者、皆木保美は道真の後胤(菅原安師)を祖とする皆木氏の伝承である。内容の信憑性については、実在の人物の来歴についても創作された人物が多く、その実在は不明。史実との時間のずれ、二つの合戦を混同。昨今「美作太平記」の記事を、町村史などに引用して無批判に所の史実と結びつけて町史とする傾向がみられるが、厳に警戒すべきことである。と指摘されています。

 文中創作された人物が多く、実在は不明とされています。
『美作太平記』巻之一に、美穂太郎満佐は、菅原道真から十三代の後胤にあたる。男子が七人あった。長子が有元筑後守忠勝。二男が福本伊賀守周長、三男が原田日向守忠門。

この原田日向守忠門は、 四代原田興方の弟、沖春日向守と七代忠門従五位下・中務尉をつなげて創作してます。
 また美穂満佐は天福二年(1234)52才で死亡したと書かれていますが、逆算すると、1234-54才=1182年に誕生。忠門は(1187〜1221)なので、忠門は美穂満佐5歳のときの子になります。

*有元家勝北郡高村での検索系図では原田日向守忠門は五男となっています。

Web有元氏に、森忠政が津山に入城の時、古事を書き上げて提出の要請を機に、京都で公家として続く道真の子孫(高辻、五条、唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作管家一族の系図が間違いないことを確認している。この時一族14人にカンパを働き、銀200目という多額の土産を持参している。

古事の提出の要請で「作陽誌」に書かれた原田初代忠高から二十代忠佐まで平姓です。(当時本名というのは、公文書に署名する場合や、亡くなった後に墓に刻まれるなど極ごく限られたときときにしか使われなかったのです。親しい友人でも本名を知らないということもよくありました。日本人は古来から個人の名前を直接言わないのが礼儀でした。)「学校では教えてくれない日本史の授業」井沢元房著 ●誕生寺の原田三河守貞佐の墓碑は「原田三河守平貞佐」です。

 ■美穂満佐の事で、『日本系図大辞典』奥野敬之著で「菅原系図」道真の末裔
美穂太郎満佐の子忠門が、久米郡原田郷を領して原田氏を呼称は、いささか信憑性に乏しいとされ、国立図書館サーチ『戦国期美作国における中小領主の特質』の著者渡辺大門氏は、原田氏はいわゆる管家一党の流れを汲むといわれているが、詳細は不明である。とし「美作古城史」では疑問とされています。

 真摯な史学者を紛らわしたいきさつは次回に
[24]中村さんからのコメント(2016年05月21日 11時24分21秒 ) パスワード

伝説上の美穂太郎満佐が戦で討ち死にしたと伝えられているので、実在の人物であったろうとは?

美穂満佐の次男の、広戸氏を検索すると、満祐(満佐・満資)は、蛇女房の母から生まれたという出生譚を持ち「那岐(名木・奈義とも)山の頂上にこしをかけ、瀬戸内海で足を洗い、京の都まで三歩で行った」という伝説的人物である。また、満佐は名木(奈義)山に城を構え、飛仙の妖怪をほしいままにした武人として語り伝えられ、赤松久範なる歴史上の人物と戦い敗れて、討死したとも伝えられ、実在の人物であったろうと考えられている。・・・というのです。

 良心的な歴史学者は不確かな伝承や憶測の類廃し、文章や日記など同時代の良質な資料を用いて事実に基づき論理的に歴史を組み立てることだ。と習ったひとには理解しがたいのではないでしょうか。

   NHKの人気番組にデタラメ家系図!「2016・5・26号 週刊新潮」

デタラメ家系図だった「鳥越俊太郎フアミリーヒストリー」俊太郎のご両親等が
自家の「先祖が分からないので協力してほしい」と、肝心の鳥越氏とは違う鳥越氏に伺い、拝見した家系図を俊太郎氏のご両親と叔父が調べ作成されたというものです。
系図をお見せした一方の鳥越氏は「昨日の放送は何ですか」と抗議したが、要領をえなかったので、そのお姉さんがNHKに電話した。という記事。

 古今東西、自家の家系を都合の良いストーリーに仕上げた顕著な例として、源平交代思想があって、織田信長が平氏と名乗りました。当時から疑問視され、「姓氏家系大辞典」や歴史家は織田氏忌部姓に傾いていました。

  ■「信長のルーツ平氏にあらず」  日経新聞 2011年11月4日(夕刊)

 福井県越前町の法楽寺に始祖「親真」の墓。町教員は【織田氏は平氏でなく、真のルーツは町ゆかりの忌部氏】と指摘しています。
(信長に仕えた原田佐秀の後裔前田利家が平家でなく管家としたのは、信長に配慮した故か)
 
  ■原田日向守忠門なる偽系図が国家・誕生寺・歴史家作成されたいきさつは次回にご説明します。



[26]中村さんからのコメント(2017年02月13日 13時51分21秒 ) パスワード

「信長のルーツ平氏にあらず」

あらずをパクッて、「美作菅家の支流にあらず」として、新しくスレッドを立ち

上げました。皆さまのご教示お願い致します。
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