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 投稿番号:101275 投稿日:2012年03月07日 23時37分03秒  パスワード
 お名前:笠井
三枝家、笠井家などについて
キーワード:三枝 笠井
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

三枝家、笠井家などについて
 はじめまして、現在東京在住の笠井と申します。平家の大ファンです。自身が平家と関係があるかは甚だ疑問ですが、父方、母方のルーツを色々調べているうちに、ネットサーフィンの形でこのサイトを知り、歴史を知らない私ですが、恥を忍んで投稿させていただきました。
母の実家(三枝家)は、以前、現在の香川県高松市内にありました(旧塩江町)。私も従兄弟たちと同様、幼少時によく通い、山懐に抱かれた古い家と大自然に親しんだものです。家の近くに平家の落人を祭った祠があり、伝え聞くところによれば、屋島の戦いで敗れた兵どもが山中に逃げてきたとのことで、その付近を掘り返した者がなぜか、ひどい腹痛に襲われるなど異変が起きたそうです。
私の母の実家は、そのような平家の落人の地域のような12世紀までは古くはないのですが(せいぜい19世紀後半からか?)、祖父母の住む家の近くにそのような伝説が伝わっており、この平家関係に詳しいサイトを知るに至りまして、恐縮ですが投稿させていただいた次第です。
現在は、墓がある程度ですが、残念ながら家に伝わっていた刀(私の祖父が遊んでいて折ってしまった一振りもあったとか)も、また、文献、家系図もなく、数多い母の兄弟も、今はもう高齢となり、元気な今のうちに、家の歴史について聴いておこうと思っています。これが、私が自分のルーツ調べようとした理由です。
さて、私から数えて、少なくとも5代前=約150年頃まで(江戸時代の終わりごろか?)は、徳島県三好郡西之庄村(旧住所)という地に籍があったとのこと。少し調べたら、確かに現在の徳島県東みよし町に(大字)西ノ庄(字)三枝との地名があります。この5代前の先祖(つまり私は5代孫)が、阿波から移り住んだことが分かりました。また、阿波(現在の徳島県)の情報を調べたところ、阿南市を中心に現在でも三枝氏を名乗る家は少々あるようです。
ある情報によれば、14C頃、阿波の三枝氏は細川氏の家臣として存在したとのことです。徳島県にあったとされる城郭としては、阿南市に、かつて三枝氏の建てたとされる岩脇城があるとのこと。羽ノ浦岩脇山上。所在地は特定できません。城主は三枝紀伊守( 尾蘇(おそ)山城守)とのこと。
徳島県の三枝家は、その殆どが海よりの阿南市あたりに在住であり、かつての城もそのあたりにあったらしいです。しかしながら、私の母の実家は、そこからは遠く離れている(香川県阿讃山脈の一角)。つまり、香川県の中心部よりかなり南の奥地。一方、高松市北部や小豆島(三枝家の方が相当数いらっしゃる)の方達は、兵庫県に相当ある三枝家の方達と繋がりもあるのでしょうが、私達の方は阿南市から離れているとはいえ、やはり地理的、位置的にいって阿波とのつながりが強かったのではないでしょうか。もしそうならば、細川氏あるいはその他の武将と共に他国から阿波に流れてきた可能性もあるのでしょうか?一般に、三枝氏は甲斐の国が本拠地(本貫)と言われたりしますが、わが三枝家は、むしろ、丹波の方の三枝氏の流れでは?と考えたりもします。地理的にも少しは近いからです。
もうひとつ気になることが、私の母方の祖母。旧姓は、「今岡」で、徳島県つるぎ町一宇という地域の出身だそうです。聞いた話ですが、この地域は、同じ徳島の祖谷地域と同様、平家伝説もあるとか
そこで、祖母の出身である今岡氏(@)、あるいは、A「一宇」と平家の落人関連の情報がもしあれば、教えていただきたいのです。
ここまで、母の実家である三枝家や平家にこだわる論理的な説明は自分でもうまくできません。もともと、古いもの、歴史や由緒あるものが大好きなこともあります。本質的に保守的なのでしょう。また、顕宗天皇の時代(5世紀)にサキグサという姓を頂き、代々、名族として歴史を歩んできた(とされる)三枝氏・・・。一方、あまりにも有名な平家ですが、その華麗な一時代を過ぎた後、如何に歴史の舞台で敗れたとはいえ、人里離れた山あいの地で静かに生活を営まざるを得なかった平家の人々(縁者)。腕力に任せて天下取りを計ってきた源氏系より、悲劇を伴いながらも品と教養があり文化的な平家の方が好きなのです。・・・長くなりました。
以上が、三枝家関係(B)のお話です。ちなみに、家紋は、「五三の桐」だそうです。調べましたら、三枝家では、三階松が一般的だそうですが・・・。家系図ですが、その昔、家が大水で流されたりして存在しないとのことです。家に伝わっていた刀も祖父が折ってしまい残欠もなく、物的な証拠は何もない次第です。そのような中、唯一の手がかりは上記の地名(西ノ庄(字)三枝)です。
一方、私の父方の笠井家(C)は、葛西氏の分流とも言われたりしますが、うちの場合、親戚は殆どが香川県や関西です。家系図ですが、本家にあったのですが、残念ながら、遠縁に系図を持って行かれて今はないです。別の遠縁には(亡父の伯母の嫁ぎ先)、あの、妹尾兼康で有名な妹尾家もあります。ともかく、笠井家の出自(ルーツ)を知りたいです。ちなみに、本家も実家も高松市香川町大野という所です。家紋は、「五瓜に三階菱」です。
上記、@、A、B、Cいずれでも結構です。どのような情報でも結構です。ご提供頂ければ幸甚です。情報をお寄せ下さい。
参考になるウェブ情報
三枝氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02104.htm  
細川家家臣団:
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/keicyou.html
徳島県の城: 
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2009/06/10-1a8a.html
http://www.city.anan.tokushima.jp/docs/2011072200012/files/culture.pdf
上記の他に、各地に三枝氏に関係の城がある。
兵庫県:姫路市夢前町前之庄三枝草  
http://www.oumi-castle.net/takoku/hyougo/mieda.html
埼玉県:日高市女影字上旅屋http://gi001.gokenin.com/tanbou/11_saitama/02_iruma/013_hidaka/hidaka.html#004  

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年03月08日 11時10分32秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>城主は三枝紀伊守( 尾蘇(おそ)山城守)とのこと。
>家紋は、「五瓜に三階菱」
 
尾蘇は小曽、尾曽、於曽、隠曽と通じる。
いずれも甲斐国山梨郡於曽郷が本貫地で、三枝部氏流(於曽守継が祖)、清和源氏義光流(於曽経光が祖)の二流があり縁戚関係に有った様である。
於曽氏の家紋は、菱(三枝部氏系)、松皮菱(清和源氏系)を使用。
三階菱系は清和源氏義光流小笠原氏族に多く使用される家紋で、阿波国旗下幕紋控を参照すれば明白である。
恐らく三好氏旗下であった阿波三枝氏は、長宗我部氏の阿波平定時に讃岐へ移動したのであろう。
[2]笠井さんからのコメント(2012年03月08日 22時41分50秒 ) パスワード

「日本の苗字七千傑」様、早々にコメント有難うございます。長宗我部の動きは意識しておりませんで、歴史を感じます(ちなみに、三枝家の家紋は五三の桐で、五瓜に三階菱は、笠井家の方ですが・・・。)。
[3]清重から32代目さんからのコメント(2012年07月25日 17時06分48秒 ) パスワード

埼玉の笠井と申します。お話を伺うと、香川県にご親戚が多いのですね。だとすれば、当家と親戚の可能性があります。高松の笠井家は、水戸徳川家の家臣笠井権衛門の次男喜左衛門が、松平頼重が高松藩主になった際、水戸から同行し、二百五十石取りの重臣になっのが始まりのです。これは水戸家徳川家の水府系纂という資料に出ています。笠井権衛門は、武田勝頼の家臣で設楽が原の戦いで戦死した笠井満秀吉の子利昌です。
笠井家は、長い長い歴史を持つ、秩父平氏良文流葛西家の分家です。もし、上記喜左衛門の家系だとすれば、桓武天皇まで遡る事が可能です。ちなみに、私は、葛西家の始まりの葛西清重から32代目になります。葛西家は、奥州藤原氏滅亡から、豊臣秀吉の奥州仕置きで滅亡するまで400年間宮城・岩手を治めた大大名です。日本の歴史の教科書には出てきませんが。
ただ、何故葛西家なのに笠井という姓が違うのかと言うのが、系譜的には意味があります。笠井という姓の始祖は、笠井義邦(南北朝期)で源氏です。平氏である奥州笠井家に源義邦が養子として入り、それで源氏姓に改姓し、笠井を称するようになっています。まだまだ、書ききれない長い長い歴史がある家系です。
[4]甲斐の河西さんからのコメント(2012年07月30日 03時35分55秒 ) パスワード
URL=http://genpei.nomaki.jp/index.html

 太田亮著「姓氏家系大辞典」の3甲斐の笠井氏では『系図に「肥前守高利 (始め弘純・武田晴信に属す、長篠戦死) ― 将監利昌、弟式部少輔良昌(西島、岩間を領す)」と見ゆ。家紋丸の内三柏、扇地紙の内一文字、根附笹。』とあり、将監利昌が水戸徳川家に仕えたのではないでしょうか。式部少輔良昌の子孫は江戸末期まで甲斐に存在していた記録があります。
 甲斐には河西という地名があり、加賀美氏の子孫が名乗っていました。加賀美氏の家紋は三階菱です。
 カサイは葛西(平姓)・笠井(平姓/源姓)・河西(源姓)などがあり、それぞれ独自の歴史があります。ただし古文書によっては同一人物でも笠井を使ったり河西であったりして、紛らわしいです。因みに当家は河西で家紋は丸に三柏です。家紋もややこしいですね。
 何かお役に立てたでしょうか?
[5]清重から32代目さんからのコメント(2012年07月30日 13時50分08秒 ) パスワード

甲斐の河西さんのコメントにもありますが、笠井満秀の子、将監利昌は武田氏が滅んだ後、大谷刑部に仕えましたが関が原で大谷家が滅ぶと、井伊長政に抱えられ、その後幕臣となっています。弟良昌も同じく召抱えられ、武田信吉が水戸で武田家再興する際に、兄弟で水戸に入っています。良昌は、その後徳川家康の命により依田家に養子に入りましたが、依田家が取り潰しになったので、また水戸に戻っています。西島、岩間は、利昌に孫が五人おりましたので、そのなかの一人ではないでしょうか。もとは満秀が南部宗秀の子ですから、いずれにしても利昌、良昌の子孫が西島、岩間に入ったのではないでしょうか。
ちなみに当家の家紋は井筒です。源義邦(後醍醐源氏らしい?)が奥州葛西家(平氏:家紋は三つ柏)に入った際に源氏姓とし家紋を井筒としたと言い伝えられています。たしか笠井満秀も井筒だったような気がします。まぁ、家紋は本家と分家でも違いますから私には良く分かりません。
[6]甲斐の河西さんからのコメント(2012年07月30日 21時00分16秒 ) パスワード
URL=http://genpei.nomaki.jp/index.html

清重から32代目さんは、葛西さんまたは笠井さんでしょうか。
 良昌についてですが、甲斐には江戸末期に武田家旧臣の末裔を調査した「誠忠旧家録」という古文書があります。その中で『葛西壱岐守清重末流 河西式部少輔良昌後胤 岩間郷采地御感状賜今傳有 布施村河西藤右衛門昌品 同九代後胤河西辰五郎宗茂』という記述を発見しました。著者は加賀美光遠という人で、加賀美氏流の末裔と思われます。これによると良昌は葛西氏の末裔になってます。
 これは満秀が南部氏の後胤で明らかに源氏なのですが、葛西氏の末流とも言われているのと関係があるのかもしれませんね。ポイントは宗秀の子もしくは家臣か、という所にあると思われます。もしかしたら平氏の満秀が宗秀の養子になったのか。この辺りは研究の余地があります。
 実は私自身、「肥前守高利」が満秀のことなのか確信が持てません。「姓氏家系大辞典」の河西/1源姓では「甲斐国の豪族にして、・・・其の裔、河西肥後守満秀、其の子孫右衛門尉慶秀等名あり。紋ニ柏葉。」となっているからです。ここでは満秀の子は利昌ではなく慶秀になってますね。
 肥前守高利(肥後の間違いか?)が満秀であることを記した記録などが残っていたら、お教えいただけないでしょうか。
 この肥後守満秀は歴史上、もっと評価されてもよい人物です。設楽が原の戦いで、最後に勝頼公に馬を与えて討ち死にしたのが満秀です。武士の鑑といえます。「甲陽軍鑑」では「肥後守命は義によつてかろし命は恩の為に奉る、我等せがれを御取立有て下され候へと申て」とあり、良昌に岩間・西島を与えた由来らしきものが載っています。
 余談ですが、岩間には河西(かさい)が多く、西島には笠井(かさい)が多いです。さらに、岩間の山を超えた樋田には河西(かわにし)が多いです。面白いですね。この辺りには山中に古い墓石群があるので、調査する価値は充分にあります。
[8]笠井さんからのコメント(2012年08月03日 20時17分30秒 ) パスワード

清重から32代目さん、甲斐の河西さん、貴重な情報のご提供ありがとうございます。笠井満秀、子孫の水戸藩家臣、高松への移動、葛西家との関係、平氏と源氏の関係・・・など、久々に自分の祖先への思いを新たにすることができました。五瓜に三階菱(家紋)は一応のものとは思いましたが、武田氏との関係があることの証なのでしょう。平家い非常に関心がある私としましては、正直申しまして、源氏とのつながりがわかり、複雑な心境でもありなすが、真実(に近いこと)を知ることは、やはり大事なことと思います。
引き続き、皆様のありがたい情報をお願いします。
[9]笠井さんからのコメント(2012年08月23日 21時54分13秒 ) パスワード

清重から32代目さん、甲斐の河西さんへ
再度投稿させていただきます。
いわゆる後醍醐源氏(義邦含む)と(当欄に掲載のある)葛西姓→笠井姓の流れ(満秀等、実質的に南部氏の流れを汲むもの)との関係性がわかりません。碩学の皆様、どうかご教示ください。ちなみに、私的なことですが、父方(笠井姓)のルーツを探る気持ちでおります。よろしくお願いします。
[10]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年08月24日 00時20分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

後醍醐源氏とは、源尹良の後裔祖父江氏・氷室氏、源良宗の後裔後醍院氏などを呼称する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01059.htm
 
現時点で、笠井氏が後醍醐源氏という説は存在しません。
義邦は武田氏から養子に入ったことから源氏に改姓された説が有力です。
他に足利氏説がありますが、信憑性が疑わしいと思われます。
系図により義邦の卒年が文保2年(1318)、観応2年(1351)と二つあり、かなり離れていることから系図の信憑性にも問題が存在します。
大内家臣の笠井氏も源姓(元平姓)で末孫は武田氏に仕えている。
南部氏は南朝、武田氏・葛西氏は北朝、大内氏は南朝(後に北朝に鞍替え)だから源平でなく南北で考えた方が良く見えてきますよ。
恐らく源姓笠井(葛西)氏は、平姓葛西氏の後裔ではなく、甲斐国巨摩郡河西邑発祥の清和源氏義光流武田氏族が真実かも知れませんね。
[11]笠井さんからのコメント(2012年08月24日 05時08分34秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さま
義邦の卒年が二説あるのは初めて知りました。複雑なのですね。勉強になります。早々のご投稿、ありがとうございました。
[13]清重から32代目さんからのコメント(2012年08月28日 11時27分45秒 ) パスワード

甲斐の河西さんへ コメントありがとうございます。群書類従によると、笠井義邦という源氏の人物が、東北石巻の葛西家の清重-時重-重継-重政-義邦と4代後に養子に入っています。また、義邦-時行-時盛-弘忠-弘通とあり弘忠、弘通は大内氏に仕えています。東北に居た笠井義邦の子孫がどういう流れで武田勝頼に組したかは分かりませんが、記録は以下のサイトを参考に致しました。
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/takeda.html
高利が肥後守ですから、高利=満秀なのだろうと思います。
良昌は、西島岩間式部になっていますので、武田が滅ぶ前は、西島岩間を領していたのだろうと思います。武田が滅んだ後は幕臣になったことが、山梨姓氏辞典等に記述されています。
利昌、良昌は、武田信吉を家康が再興させたときに水戸に入ります。良昌は、家康の命で一時依田家に養子に入りますが、依田氏が改易になった後、水戸に戻り、水戸徳川家に仕えています。

私が分からなかったのは、笠井義邦が誰なのかです。どこから養子に入ったのかと言うことです。平氏の名門葛西家に養子に入り、源氏に改姓するためには葛西家よりも家格が上だったのだと思っています。つまり、義邦は正五位以上の格式を持った人なのだろうと。

葛西氏が滅び文書が残っていない現代分からないと思いますが、唯一参考にしたのが東北太平記です。奥州南部藩は、北部王家の義邦を庇護していました。義邦が王家を継いだのも、甲州南部氏の後ろ盾です。しかし義邦は東北太平記ではお家騒動とともに死んだことになっていますが、当時南朝を支持していた東北葛西家が養子に迎え、源氏を繋ぐべき人としてお世話をしたのではないかと推測しています。この時代義邦なる人物がこれ以外どこにも現れません。ちなみに東北太平記の義邦の子は小太郎で、武田の記録にも小太郎となっています。1400年当時から笠井と南部の密な関係もあり、200年後に満秀を養子に迎えるのも分かるような気がします。

北部王家の後醍醐源氏は、公式的にはどこにも認められておりません。天皇家の直系がこちらになってしまいますからね。是非とも東北太平記の元ネタの南部家に保管され門外不出の江戸時代の日記を見てみたいものです。
[14]清重から32代目さんからのコメント(2012年08月28日 11時49分52秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん

笠井義邦について、分かることがあればお教えください。
笠井義邦が平姓葛西氏の流れだということは、群書類従でも分かるのですが、義邦の出自を知りたいのです。

ちなみに平姓葛西氏は南北統一以前は南朝の重臣だったようです。葛西氏が北朝の配下に入ると同時に義邦は当時南朝の勢力下にあった浜松に移り、笠井の庄を領したようです。笠井の庄が生まれたのが1400年代に入ってからになります。

もし義邦が武田氏流だとしたら、やはり縁結びに南部氏が関与したことが推測されます。
[15]笹井さんからのコメント(2012年08月28日 22時24分04秒 ) パスワード

>9私的なことですが、父方(笠井姓)のルーツを探る気持ちでおります。
はじめまして
ルーツとは文字通り原点ということで、源平藤橘を通り越したところのことだろうと思います。

小浜市に「若狭彦神社」「若狭姫神社」があります。
祭神
祭神
(上社)若狭彦大神(彦火火出見尊(山幸))
(下社)若狭姫大神(豊玉姫命)

笠臣国造 ( 吉備 )
鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖 と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命 を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の・・・

笠かさ
笠 カサ 上サ、賀佐、風(かざ)に同じ。上西(かさ)、上在(かさ)はカサイとも称す。和名抄の讃岐国香川郡笠居郷(高松市)は、天暦十一年太政官符に讃岐国香河郡笠郷と見え、江戸時代は★笠井村、或は葛西とも書いた。足立郡遊馬村字上サ(大宮市)は古の村名にて、★八幡社宝暦七年庚申塔に「笠」と見ゆ。

葛西清重を曽我物語に笠井三郎清重と載る。

葛西氏の名は、
★源平盛衰記に「武蔵国住人葛西三郎重俊」と。笠井系図(続群書類従)に「三郎清重(武州河越人也、母下河辺庄司行平之姉)」とあり。
★吾妻鑑卷一に「治承四年十一月十日、武蔵国丸子庄をもって葛西三郎清重に賜ふ」。


[16]笹井さんからのコメント(2012年08月28日 23時01分00秒 ) パスワード

葛西氏の本名は「石井氏」
[17]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年08月29日 21時04分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>笠井義邦について、分かることがあればお教えください。
 
解らないが、義邦の卒年が観応2年(1351)と仮定すると推測が出来る。
武田氏は石和流、一条流、岩崎流、信時流の四流が存在する。
建武三年(1336)の甲斐守護は武田(石和)政義で、足利尊氏の建武政権離反に従い北朝方に居たが後に南朝方に転じた。
観応2年(1351)、足利尊氏は信時流の信武を甲斐守護に補任。
安芸に居た信武は甲斐に進出、南朝方の政義とその勢力を駆逐した。
 
この事情から政義以降の系譜は不明だが、義邦は通字から政義の子で観応2年(1351)に信武軍との戦いで没したのではないかと考える。
[18]笹井さんからのコメント(2012年08月30日 05時47分36秒 ) パスワード

>16葛西氏の本名は「石井氏」
>武田(石和)政義で、足利尊氏の建武政権離反に従い北朝方に居たが後に★南朝方に転じた。
石和の方は知りませんが、私の私事で「石井」につき、記憶していたことがあったので、あくまで参考ですが、書きます。石井という言葉だけで、系は調べていませんが・・
山  口(岩  岡)
岩岡 イワオカ 
山口氏族と称し、或は三河国足助氏の族と称し、また大塔宮後裔とも称す。
一 足助氏族説
「一世岩岡民部之輔実公は三河国額田城主であったが、元弘元年、族足助次郎重範等と護良親王の令旨を受けて吉野に戦った。

しかし、親王は鎌倉に幽閉され、実公は山口郷に逃れ、郷士★石井氏の妹を娶り一男三女を儲ける。建武二年誕生した皇子高治は実公に伴われて山口郷に移り、実公の女と結婚して、高治の長子高広が岩岡家二世となる。大塔宮護良親王―皇子高治(★母戸野氏、幼名高瀬麿、後号★山口平内左衛門尉、建武二年生鎌倉、実公と山口郷に逃る。実公の女を娶り山口城に城塁を築く。近郷の豪族、謀将岩岡民部之輔実公、山住彦三郎、部将木下大膳、森田勘解由、星見小太郎、糟谷宇内、志村八郎、向埜金吾、高野十郎、高橋治部、市野六右衛門、柳下重内、黒田左馬、片井木佐兵衛、四方の勤王来属は僅千余人、勝楽寺に塁塞を築く。終入岩崎瑞岩寺、正平二十二年九月十八日也焉。一世実公は弘和三年六月十三日卒)

―二世高広
(高治嫡子也、母★岩岡民部之輔実公之女、幼名伊佐麿、後号三河守。祖父の業を助け、鍬鋤を取り田圃を耕す。文安元年十一月二日卒)―三世一乗(母★石井氏、幼名民部、後号左衛門尉入道道岩、文明十七年七月九日卒、民部少輔也、為宗祖菩提立寺・海蔵寺)―・・・と続き、9世12世にも母★石井氏。

二 大塔宮後裔説
前述の岩岡氏養子となった皇子の名や及び足助氏族岩岡氏の名は諸書に見えずとある。しかし、
山口郷の岩岡民部之輔は片岡民部丞(みんぶのすけ)に附会するか。太平記卷三に「三河国の住人足助次郎重範」。卷五に「大塔宮熊野落ちの事。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・小寺相模・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、かれこれ以上九人なり。
ともある。

三 山口氏族説 
狭山の栞に「山口岩岡氏之記。山口者、往昔【山口平内左衛門尉の城所也】、貞治六年岩崎瑞岩寺に於て戦死。内族民部介其弟二人倶山口之姓を変て、兄岩岡を称し、弟木下を称し、次森田を称す

同書に「山口平内左衛門尉高治法号本願信阿大禅定門
村里の氏族岩岡・粕谷・向埜等、今に旧家と称す。
[19]笹井さんからのコメント(2012年08月31日 00時44分13秒 ) パスワード

>13北部王家
今日あちこち読んでいてこの言葉があり、検索して護良親王に関係していると知りました。すみません。歴史的な知識としては学がございませんので。

しかし

何故 平氏名門葛西氏と源氏の人との関係があるのか?

これも あくまで 参考で 義那がどなたか?はわかりませんが、はるか昔からの因縁により 源氏平氏のよりわけでは済まないものがあるように思います。 

若狭彦神社には「白石大明神」の言葉があります。つまり白石は笠氏と近い関係。
伊勢に「白石神社」があり、「真木神社」とセットです。

白石→幕末白石正一郎の莫大な財により維新が成し遂げられた。
真木→幕末尊攘派として活躍。
どちらも魂は勤皇。

群書類従には武田→小笠原→白石がついています。
大田亮氏辞典では 肥後の白石は士族・清和源氏。菊池に仕え菊池が相良に負けた後相良氏に仕える。とあります。

菊池は安徳天皇を西海へお連れした人がおり、菊池は懐良親王に味方している。

この頃みる辞典では白石は藤原氏になっている。

源氏 平氏の分かれ目についてはホームページなどで出ており、もとはひとつ。

武家家伝 大光寺氏
 十六世紀の天文十五年(1546)、『津軽郡中名字』によれば「今都遐流三郡の大名は、鼻和郡三千八百町は、大浦の屋形南部信州盛信と申也。★ 平賀郡二千八百町は、大光寺南部遠州源政行と申也。田舎郡二千八百町、奥法郡二千余町・保内一千貫は、伊勢国司浪岡御所源具永卿也。」とある。大光寺南部氏が津軽の有力者に成長していたことがうかがわれる。

平賀源内は「白石」だと白石正一郎を紹介した人物辞典にかいてあった。平賀は又山口でもある。

清和源氏佐竹氏族の白石が藤原へ入ると「高倉」になる。
これは いつの時代かは兎も角 両者に 何らかのつながりがあったと思われるが、

藤原北家長良流。中納言従二位文範[909-996・★【紫式部】の母方の曾祖父]十代孫で従四位範昌の子永康が、高倉を号したが、この系統からは、永康の子永定と養子の経康が公卿となっただけである。諸家知譜拙記によれば、永康の弟で冷泉を号した永経の裔の永季を半家高倉家の祖としている。
★竹田不動院・竹田安楽寿院伝奏〔雲上明覧大全文久元年版巻末〕。
と竹田の言葉がある。

南部には津軽氏が関係しているが 津軽氏は
1)桓武平氏蘇我氏族
2)1つに清和源氏という。
曽我氏族ということから
公卿類別譜竹内と打ち込んで検索すると
清和源氏義光流。新羅三郎義光の4男★平賀冠者盛義を祖とする(知譜拙記による。華族類別譜によれば、義光の子義業の二男義信を祖としている)。元、★久我家諸大夫だが、★足利氏と同族であった為か、室町幕府の執奏で堂上に列せられた。庶流に中務大輔久盛を祖とする竹内流柔術家がある。
とある。

以上 1つひもとけば 又 1つ つながって 出てくるものを書きました。義那は何者か?は不明ですが、なんで平氏と源氏が?というとき、大きなからまりの中にあることを感じます。

武田からは 日本国旗の日の丸が出てきます。


[20]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年08月31日 12時16分06秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>なんで平氏と源氏が?
 
治承・寿永期の対立は平氏対源氏ではなく、平家対源氏の対立であることを誤解されている方が多い。
むしろ伊勢平氏対坂東平氏の対立と捉えた方が解りますよ。
源頼朝は坂東平氏のシンボルに奉つりあげられたのが実態で、その後に有力な比企氏・三浦氏などの鎌倉幕府成立の立役者が消されて平氏北条執権政治が続いたのが現実。
治承・寿永期の対立については、下記URLを参照して下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm
 
南北朝の対立については大まかなモノで、足利尊氏でさえ南朝方の時期もあり地方では御家存続の為に昨日は北朝、今日は南朝という激しい事情も有り、あまり固定的に南北朝を捉えるべきでは無いと考える。
また公武を問わず一族の中でも南北に分裂が多く、阿蘇大宮司家の様に一時三分裂した家もある。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」、現代的には「選挙に落ちればタダの人」ということで昔も源平なんて関係なしで便宜的に称しているだけ。
さかのぼれば忌部西光は藤原姓、中原康頼は平姓、中原範政は坂上姓、藤原広元は中原姓(さらに大江姓)を称している。
 
室町幕府成立を境に新田氏族庶流の多くも足利党へ鞍替えをした。
まあ、北朝というより足利尊氏が武家の中で人気断トツだったからでしょう。
[21]笹井さんからのコメント(2012年09月04日 23時24分13秒 ) パスワード

20 アドバイス有難うございます。
南朝つながりの毛利
藤原広元(中原・大江・毛利)広元は人吉の後白河院の所領の預かり所だった。

鎌倉時代 平城天皇の皇子・阿保親王の子孫が尾張 熱田神宮へ養子に入り、再び出て、毛利へ養子に入った。その子孫が毛利広元。

ネットより
(文をひろって検索を書けると表題が出ます。今はここの部分だけ)

毛利家の租は、大江広元になります。(注・実際は遠祖・天穂日命とする)

後醍醐天皇の皇子・★満良親王(みつながしんのう)は延元3年9月に四国に渡り、同5年正月、新田某等と共に土佐国大高坂城を救援され、のち正平6年の頃には周防国に移り、★常陸親王と称されたらしい。親王の子孫は★大江氏がこれを匿っていたが、やがて大江氏が滅ぶと、毛利氏が長州においてその子孫を代々守ってきた。これが吉田松陰らの王政復古御維新を志した勤王運動である。松陰亡き後、木戸孝允が西郷隆盛に「我々はこの南朝のご正系をお立てして王政復古するのだ」と言うと、西郷は南朝の忠臣★菊池氏の子孫であることから衷心より深く感銘してこれに賛同したという。(参考:鹿島昇「日本侵略興亡史」)
[22]笹井さんからのコメント(2012年09月04日 23時54分37秒 ) パスワード

和徳 ヤマト
A奥州ヤマト条をみよ。尚、浅瀬石あせいしとよむ 
   石川 大光寺 南部 大浦等の条参照
   浅瀬石・・・「奥南深秘抄」南部氏
   汗石・・・・・「津軽異聞録」千葉氏
   石川・・・・@武内宿禰の末
   大光寺・・桓武平氏蘇我氏族
   藤原姓・・津軽大浦氏祖も大光寺にありといい、前項と混同しているとい   う。
   清和源氏南部氏族・・・「南部系図」南部二十代時信の弟から出る。子孫   津軽にあり、・・・大光寺南部遠州源政行。
   南部・・・攝津の国百済郡に南部郷
        紀伊の国日高郡に南部郷

   @清和源氏武田氏族
      「清和源氏系図」 加賀美三郎遠光・・・・・・・・・・宗          光・・・
                                         (秋山系図) 宗光おじ實長は日蓮上人の弟子・日本法華経の始め     
     ※ 秋山氏はもと甲斐国八代郡川合郷常葉の住,甲斐源氏の一族
    
       奥州下向・初代光行(遠光三男母は和田左ヱ門尉義盛女子)
       光行次男から分かれ、源頼朝の石橋山合戦で功有り。「南部氏」       を称する。

   大浦 
     金姓。清和源氏南部氏流。あるいは藤原姓。後の「津軽」家。
     恐らく南武家の一族「久慈氏」より分かれたと思われるが、近衛庶流     と言うと太田氏は書いている。

「杜古事記」に 大浦為信は久慈備前の末子にて、幼名弥四郎。永禄の頃、近衛当関白・・・・・
「藩翰譜」に 津軽為信は 南部の被官。いつの世か 津軽の地に 流された人の男子の末という。世に伝えるところは 近衛の庶流という。
為信の妻は南部のメイともいい、為信は南部の外舅ともいう。
大浦氏は 十三左衛門尉の後ともいう。
可足記に津軽の祖・藤原秀榮は十三左衛門尉と申し、十三におられ候。
※ 十三が 「東日流外三郡誌」のあるところ。秀榮は

いろいろ書いて、久慈氏は 奥州古代の大姓で、本姓「金」
大浦氏は久慈氏からわかれたもののようだ。 南部氏とは 別流としている。
久慈
@物部伊香色雄命の末(物部祖)
A金姓
深秘抄・・・久慈本姓「昆」也。金あるいは 今を使う。大浦為信もこの氏より出て・・・・
奥州盛風記・・・・・数代吉田の村にあり・・・

※ 吉田は藤原(卜部)中臣。にある。
南部士譜・・・・・・久慈修理実は春政公の子にて、久慈の婿となり津軽に住居。その子弥六重房 三戸へ移住。

※ 和徳はやまと 桓武天皇后の高野新笠も同族とする。


[23]笹井さんからのコメント(2012年09月05日 00時13分45秒 ) パスワード

源氏・平氏の氏神「平野神社」
平野神社
は、「凡平野祭者、★桓武天皇之後王改姓為臣者亦同、及★大江★和等氏人、並預見参」(『延喜式』太政官)とあるように、桓武天皇の子孫の王(賜姓後の王氏も含む)のほか、桓武天皇の外戚である★大江氏、★和氏らの氏人は平野祭に参列が許されている。
 
実際に平野神社を氏神として祀った氏族は、一条兼良著の『公事根源』によれば、「第一の御殿は★源氏、第二は★平氏、第三は★高階氏、第四は★大江氏、すべて八姓の祖神にてましますなるべし」とあり、他の四姓は具体的に述べられていないが、『二十二社註式』の平野神社には、前記四社のほか、「天照大神子、★穂日命、★中原★清原★菅原★秋篠、已上四姓氏神」と、中原、清原、菅原、秋篠氏の四氏が記されている。
 
このうち、『延喜式』にある「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」は諸王ならびに源氏、平氏、外戚である「大江和等氏人」からは大江、菅原、秋篠氏が相当する。和氏は子孫の伝がないため衰退していたか。高階氏、中原氏、清原氏については、高階氏と清原氏はそれぞれ天武天皇の皇子・舎人親王と高市親王の末裔であり、「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」には当てはまらないが、高階氏は桓武天皇の曾孫・★在原業平の子・師尚が継いだという伝承が平安時代中期にはできていたようだ。清原氏・中原氏はともに大外記を世襲した家柄だが、平野神社とどのように関わるかは不明である。(注・この部分はサダが姿かたちを変えている)

平野神社は桓武天皇の子孫のための神社だったことがわかる。・・・その後、平野神社は「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」のうち、「源氏の長者」が管領する事になる(『二十二社本縁』)。『十輪院内府記』の文明13(1481)年3月25日「凡源氏ゝ神、以平野社為正也、於八幡宮、清和源氏義家以来事也云々、往古以八幡宮、為氏神之条、不可有所見云々、此事猶不審事也」とあり、源氏の氏神は平野社であると明言している。

また、『姉言記』の文治4(1188)年6月30日条には「平氏、依為王孫、可行平野社已下事之由被懇望云々」とあり、平氏も「王孫」として平野社を氏神とする旨が記載されている。

[24]笹井さんからのコメント(2012年09月05日 23時30分37秒 ) パスワード

積族(おおやまずみ・わだつみ・あずみなど)

南朝の柱石・「北畠親房」の系は「佐田」も名乗っており、「護良親王」には「山口」の言葉が見える。
北畠親房
彼は伊勢神宮で2〜3冊の書を読んだだけで「神皇正統記」をあらわした。

私が?と思うことは、「神皇正統記」に「神皇」の言葉がついており、兵庫あたりの「鷲尾家」の本では神皇産霊(かみむすび)の神から神武天皇へとつないでいるという。
鷲尾は本姓・中原で毛利・大内氏は母の関係で中原つながり。

笠井氏と佐田・山口ははるか古代でもつながっている。

[25]笹井さんからのコメント(2012年09月05日 23時31分34秒 ) パスワード

山口の紹介に
 山を群・★牟礼、諸・毛呂とも云い、山は城と同じく鉱山鍛冶師等の非農民集落の意味。
 山口県たたらの浜(佐波縣★牟礼郡)に上陸した大内氏(山口)。
 菊池は「豊田」を名のる人がおり、大内氏も一子相伝で「豊田」を名のる
又牟礼には垂仁天皇の皇子が住んでおり、その飛び地が攝津にある

蹈鞴集団の首領大田田根子(おおたたねこ)の妹は蹈鞴五十鈴姫命で神武天皇の皇后である。大物主命の児大田田根子が撰録者とされる秀真伝(ほつまつたえ)に「ウタタネコ」とある。
 
オオ(ホ)・オ(阿)はア(阿)と読まれ、海積(うづみ)・内海(うつみ)のウヅ(渦)は海の意味で海洋民を称す。
 古事記に「阿曇連等は、綿津見神の子宇都志金折命の子孫也」と見え、姓氏録に「安曇連、綿積神命の児穂高見命の後也」
 
古事記に「海神・大綿津見神、山神・大山津見神」を兄弟
姓氏録・大和皇別に「山公。内臣と同祖。味内宿祢の後也」

海神の子。振魂命は尾張熱田神宮の遠祖。
熱田大宮司は南朝の総帥として男山に戦い、ようとして行方知れず。

[26]笹井さんからのコメント(2012年09月05日 23時32分25秒 ) パスワード

佐田の紹介に
娑陀(さだ)族は
出雲国秋鹿郡佐陀庄(島根県八束郡鹿島町及び松江市)に渡来し佐太大神社(鹿島町)を祭る。
其の一族は
伊勢国度会郡佐田村(玉城町)に移住し狭田国生(さたくなり)神社を祭る。娑陀族渡来地は海洋民猿田彦の移動に似ている。サルタ条参照。
猿田彦の子孫・大田命が伊勢神社の土地を提供した。
猿田 サルタ 古事記・天孫降臨条に
「僕は、国つ神、名は猿田毘古神ぞ。出で居る所以は、天つ神御子天降り座すと聞きつるが故に、御前に仕へ奉らむとて、参ひ向へて侍り

神代に渡来した猿田彦は別名「国底立神」とある。神代初代「国常立尊」の別名で、二代が「豊国主尊」である。
一説に猿田彦は出雲国秋鹿郡許曽志神社(松江市古曽志町)が生地であると伝承あり

元伊勢・又熱田神宮にゆかりの「丹後籠神社」は秘神・くとなの神でこの人は猿田彦とされる。


[27]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 00時42分31秒 ) パスワード

どこに書こうか?と迷いましたが、やはり 22で「東日流外三郡誌」がでるので、ここに書きます。

続日本紀の「道君首名」の系譜
道氏一族について

熊本・「高橋東神社天社宮 由緒書きに★道君首名は大彦命の後胤と書かれている。」
大彦命 10代嵩神(すじん)天皇時代の武人。
嵩神天皇の命により、北陸の乱を鎮める。

大彦命を祖とする氏族は★道氏,★阿部臣,膳(かしわで)臣,★阿閇(あへ)臣,★狭狭城山君,筑紫国造,★伊賀臣 「新撰姓氏録」

[28]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 00時44分19秒 ) パスワード

また越の道君族の祖は、大彦命(大毘古命)といわれている。
大彦命であるが敢国神社をはじめ多数の神社で主要祭神として祀られている。
[29]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 00時46分23秒 ) パスワード

日本書紀の「孝元天皇条」を見ると以下が記載されている。
「孝元天皇は、七年春二月二日、欝色謎(うつしこめ)命を立てて皇后とされた。
后は二男一女を生まれた。
第一を大彦命という。
第二を稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひひ)天皇という。  ※漢風諡号は開化天皇
第三を倭迹迹姫命という。
妃の伊香色謎命は彦大忍信命を生んだ。
次の妃、河内青玉懸の女、埴安媛は、武埴安彦命を生んだ。
兄の大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣等すべて七族の先祖である。」

崇神天皇条に大彦命はさらに出てくる。
「十年九月九日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。
     ※四道将軍と呼ばれる

崇神天皇は四道将軍を任命して、日本の統一を積極的に推進し始めた。
四道将軍の系譜を見ると、四人の将軍がそれぞれの世代に分かれていることに気づく。
即ち、吉備津彦命は孝元天皇と兄弟で、崇神天皇にとっては祖伯父にあたる。
大彦命は開化天皇の兄弟で、崇神天皇の伯父にあたる。
武淳川別命は大彦命の息子で、崇神天皇の従兄弟である。
そして丹波道主命は崇神天皇の兄彦湯産隅命の息子で、崇神天皇の甥である。
曾祖父さん、祖父さん、親父、息子の四世代ということになる。
[30]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 00時52分35秒 ) パスワード

「道公首名」は663年に北陸の道君一族に生まれ、新羅大使や筑後守を経て兼任肥後守に就任した。『続日本紀』には首名の系譜や生涯などと優れた業績を記録した「卒伝」があり・・・彼は大宝律令の撰修にも関わった偉人

天智天皇と道君一族の越道君伊勢羅都売(こしのみちのきみいらつめ)の間に生まれた「志貴皇子」が光仁天皇の父であり、『続日本紀』編纂期の天皇と血縁にあったことも影響していると考えられる。

★志貴皇子
かくして皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた彼の系統が現在まで長く続く事となった。

施基皇子(志貴皇子)と紀朝臣橡姫(側室)との間に出来た第六子が白壁王(709-781)。
白壁王は49代天皇で漢風諡号は光仁天皇 国風諡号は天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇。
称徳天皇は生涯独身で子がなく、他に天武天皇の子孫たる親王、王がなかったため、

天智系の白壁王(光仁天皇)が62歳にして天皇に即位した。ここにて天武系は消え去ることになる。

[31]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 00時54分27秒 ) パスワード

27から30まで
熊本県の歴史ウィキより。道君首名メモより

熊本県 健軍神社内の道君首名を祭祀する天社神社(高橋東神社)
[32]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 01時07分50秒 ) パスワード

本に「笹井」は笠井か?
又雀部朝臣は笹井

ネット姓氏と家紋 佐々木氏より
古代氏族の出自を明からにするために編まれた『新撰姓氏録』の左京皇別の条に「佐々貴山君阿部朝臣同祖」とあり、

摂津皇別にも「佐々貴山君、阿部朝臣同祖、大彦命之後也」とある。
『日本書紀』に ... 近江のササキ氏は『和名抄』の蒲生郡篠笥郷を本貫とし、『 神名帖』にみえる佐々貴神社を氏神として祭っていた。

近江国蒲生郡沙々貴神社の祭神は大彦命、少彦命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王である。
祭神は佐々木氏族の先祖を暗示している。
ササキは仁徳天皇の御名代部である雀部(サザキべ)に由来するものと思われ、近江国蒲生郡
は雀部朝臣、雀部臣、佐々貴山公、佐々貴山君などの本貫地である。


[33]笹井さんからのコメント(2012年09月07日 01時59分24秒 ) パスワード

笹井は
岡山県今村宮の宮司・笹井
この神主だった「黒住氏」が孝明天皇にアマテラスの神道をご進講した。
福島大神宮社家・笹井(常磐井)は 祖先を「西園寺実氏」とする。

平頼盛の血を引く 西園寺実氏と平清盛の血を引く四条(鷲尾)貞子が両院並立のもとになる女子を生む。

東北安部郡の地に「磐井の地」があり、白石が磐井を名のったという。
又 時代が随分下がるが、和徳城は安東氏の一族である安倍氏が築いた言われている。
和徳には いまひとつ 「和徳将軍」の言葉があり、崇神天皇の子供とも。

安東氏
安東氏の後裔である旧子爵秋田家
又 九州の安東氏系図で検索をかけると藤原鎌足からの系が出る。

阿部氏の子孫は 源融の子孫・平戸藩主「松浦氏」の系と結婚。その子孫が「明治天皇」ご生母になる。



[34]笹井さんからのコメント(2012年09月08日 22時12分23秒 ) パスワード

「津軽」より
長岡も「蓋氏の族」→京都長岡の地は平安京が定められる前の都。
長岡は細川の通称。細川は長岡の地に住んで長岡を名のったと言う。
津軽も細川も島津も「サダ」。金姓・き姓の関係は中国何千年の茫々たる歴史に分け入っていく。
[35]笹井さんからのコメント(2012年09月08日 22時15分46秒 ) パスワード

ネット13.紀氏考より
元々の紀氏が有する非公開系図上には、「須佐鳴尊を祖」としている。

また「出雲大国主の子孫」ともある。

紀氏は(旧事紀では高皇産霊尊の5世孫)
>30にでる志貴皇子の后
「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。
49光仁天皇の母(施貴皇子の妃)は、紀橡姫で紀氏の出身である。
[36]笹井さんからのコメント(2012年09月08日 22時56分38秒 ) パスワード

天道根命(あまのみちね) 
 姓氏録和泉神別に「神魂命の五世孫」とあります。


神武天皇東還のときは磯城兄弟も敵味方に分かれて戦った。

名草の名は後の「紀伊氏の系図」にも残っており大和朝廷の協力者となっている。系図によると★名草一族と天道根命は同族であり、浜の宮の伝承から天道根命は佐野命に協力している姿が浮かんでくる。
「天道根命」は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命に従ってきた。

道君に関与する「志貴皇子」

豊前宇都宮流「佐田氏」の紹介には、
本流であった紀伊氏が滅んだ後・・・と紀伊氏との関係を書いている。

又この氏は「中原」も名乗っていた。
3代安寧天皇の子供・磯城津彦の子孫は十市氏または中原氏
十市氏と中原氏は同族。中原系図は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を祖先としており、大きな絡まりとして、尾張熱田神宮の祖先伝承につながるものがある。


[37]笹井さんからのコメント(2012年09月08日 23時33分02秒 ) パスワード

又丹後籠神社ともつながり、伊勢神宮にもつながる。

古代豪族系譜が解き明かす、驚きの日本古代史より
他の氏族と複雑にからむ紀伊氏系譜

紀伊氏系譜では、『日本書紀』に登場しない人物が、他の氏族系譜に登場する。
『日本書紀』をもとに創作することは不可能である。
※鹿島氏はその著で、桓檀古記は

として、いろいろな人物名があがっている。

志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇の母の「高野新笠」と同族の「和徳」。


[38]笹井さんからのコメント(2012年09月08日 23時36分15秒 ) パスワード

すみません。37の次のコメントは消去です。
※鹿島氏はその著で、桓檀古記は
[39]笹井さんからのコメント(2012年09月08日 23時45分07秒 ) パスワード

【贏姓 高丘氏系図】. 【始祖】高陵君参 【世系】高丘氏は、もと贏姓にして、秦王室第26代恵文王の苗裔なり。
で検索をかける。贏姓 高丘氏系図1では出にくいので。

系図を下がって75あたりに百済・百済蓋鹵王妃になる人がいる。
そこをクリックすると百済・扶余系図がでる。
一番左側をずっと下がると「和氏」が出て、その下に「若狭彦神社神主」がある。
そこをクリックすると「笠氏」の系がでる。

笠氏と和氏と和徳と物部(阿部氏は長脛彦・安日彦の子孫とする。つまり、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命に関与して、秋田氏・津軽氏にも関与)
[40]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 03時18分06秒 ) パスワード

嬴姓若狭彦神社のページを右に見ると百済王禅廣(善光)がおり、クリックすると
百済王姓 三松氏系図】がでる。

系をたどると
永継の女子が藤原冬嗣をうむ。真夏も兄弟。異父兄弟に良峯朝臣。



[41]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 03時24分53秒 ) パスワード

11/10/08 ●34 12/09/09 はるか
笠氏と平氏考察(ネットからのコピーばかりだけど

笠は蓋・解

いえめく族(穢貊族)ツングース系の扶余(プヨ)族

穢王の印・・いえめく族をたばねることが出来る王の印

中国王朝から下賜された王印 に関する一節だが、扶余が保持することから扶余族が穢系部族連合の盟主だとなる。

[42]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 03時26分21秒 ) パスワード

穢は解・蓋

蓋太上皇父
劉邦の父に関して
『漢書』高帝紀第一より
漢王室始祖・劉邦の父は、『漢書』高帝紀第一より)《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累・・・在夏為禦龍氏・・・「漢帝本系,出自唐帝・・・在秦作劉・・・涉魏而東遂為★豐公・・・★豐公,蓋太上皇父・・・

『新唐書』表第十一より
劉氏出自祁姓。
帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蒍。蒍生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,★有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上)『新唐書』表第十一より

[43]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 03時27分54秒 ) パスワード

紀元2600年祭
ウスボツ
邪摩駘記の 筆者・塢須弗(宝亀4年=773年 渤海国使として来朝した烏須勃のこと)

神武天皇は 
わが国を 秋津洲と 呼んだ。
うすぼつ は 秋洲 と 書いた。

うすぼつは自分とこの王の先祖の扶余と 日本の天皇家の先祖は 親戚だったのだから、親戚の付き合いを復活しようといい、
日本のほうもそうだといって 親戚の付き合いが復活した。
    
渤海は 高句麗の遺民が建てた国で 渤海の人「高歓」が 関与する 北魏・北斉には「神武」「孝明」「孝昭」などの王名がある。

紀元2600年祭と申叔舟 「海東諸国記」
李氏朝鮮領 議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。

★成化7年辛卯季冬、申叔舟が序に云く、
「密かに国を見るに 東海の中におる者一にあらず。而して 日本最も久しく 且つ 大なり。その地は 黒竜江の北に始まり、わが済洲の南に至り、琉球と相接す。その勢甚だ長し。その初めに処々の保聚各自国を為る。

周の平王48年 その 始祖 狭野 、兵を起こして 誅討し、初めて州都を置く。大臣は各 文治を 占む。尚 中国の封建の如し。甚だしく統属せず。習性強得にして 剣槊(けんさく)に精しく、舟楫(しゅうしゅう)に慣う。

我と海を隔てて相望む。之を撫するにその道を得れば即ち朝聘するに礼を以ってす。その道を失えば則ち輒ち(すなわち)肆(し)に剽窃(ひょうせつ)す。」と。

[44]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 03時29分18秒 ) パスワード

「桓檀古記の神武天皇

陝野 の 遠祖 そしもり
「桓檀古記」 檀君世紀 三世 檀君嘉勒は
三世壇君嘉勒が即位した己亥元年はBC2182と考えられる。檀君国家は広義では北扶余・高句麗を含めるが、狭義では北扶余以前の国家で、始祖・王検がBC2333に即位してから第47代・檀君古列加が即位し、北扶余の解慕漱が即位したBC238まで続いた国家である。

三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。
から戊申10年 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。
これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。
★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。

「桓檀古記」三国遺事は 壇君朝鮮→北扶余→高句麗
日本書紀は 天皇家を伯族のウガヤ王朝の子孫として天皇家の正統を主張した。
        (鹿島昇氏)

★韓室の祖先は周の武王の弟
韓之先與周同姓[一]、姓姫氏。其後苗裔事晉、得封於韓原[二]、曰韓武子。武子後三世[三]、有韓厥,從封姓為韓氏。


[45]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 04時18分21秒 ) パスワード

周武の女子と舜の子孫との間の子から「斉」
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檀君世紀 36世 檀君売勒条
甲寅38年 陝野候 ・幋命を遣わし、往きて海上を討たしむ。十二月三島悉く平らぐ。

帝 兵を遣わし、須臾の兵と燕をうたしむ。燕人急を斉に告ぐ。斉人大挙して孤竹に入り、わが伏兵に遭い、戦いて利あらず。和をこいて去る。

馬韓世家 
甲辰 子・弓忽立つ。甲寅 陝野候に命じ、戦船500艘を率い、往きて海島をうち、倭人の叛を定めしむ。弓忽薨ず。子・東祀立つ。東祀薨ず。
★複数の書が 神武天皇の名・狭野という人について 書いている。
★ 『宋史』卷四百九十一 列傳第二百五十 日本傳
?瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮即位元年甲寅、當周僖王時也。甲寅 前六〇七年。

★★ソシモリ→陝野候・幋命→穢王
★・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族の姓。
★通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。
★六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて★解邑の君となる。
すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。
★周の僖王とは 平王の 四代位 後の人




[46]笹井さんからのコメント(2012年09月11日 21時52分27秒 ) パスワード

山本
山積族
海の神ときょうだい

山口
山積族
山口神社と★「天道日女命」(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の后)

秋田県山本郡の「七星神社」
祭神 天道豊姫

「道豊受姫」はウィキに
豊受大神で★「伊勢神宮外宮」の祭神。
豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を★多賀宮(高宮)という。

外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と★同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている。また、神道五部書等の中世日本紀の成立に大きな影響を与えた★『大和葛城宝山記』では、葛城から豊受大神の伝承を補強する書が出てくる。

伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、奈具社(京都府竹野郡)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社で主祭神とされているほか、神明神社の多くや、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、★稲荷神とトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある。







[47]笹井さんからのコメント(2012年09月11日 23時17分15秒 ) パスワード

元伊勢の丹後籠神社で秘神とされるサルタビコ(くとなの神)「佐田大神」
猿田彦の祖は「神魂尊」

佐田
猿田彦★(国底立命・国常立命)
埼玉の神社に「上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。★八剣神主田中右近の先祖か。

田中は竹内に通じて、曽我倉山田石川麻呂に関与する。石川麻呂は「乙巳の変」に藤原鎌足に組している。

★田中・佐田は「紀氏」に関与している。ここから「竹内宿禰」「天道根命」のことばがでる。

天道根命の祖先は「神魂尊」または「御食持命」。

伊勢神宮内宮宮司・荒木田家に関与する「国摩大鹿島命」
★ 中臣
児屋根命の子を 天押雲命 その子を 天種子命という。
うさつ媛と結婚し、宇佐津臣を産む。その 六世孫 大鹿島は
垂仁紀に中臣遠祖 大鹿島と みゆる。当時は 連姓を 称していなかった。

大鹿島は「多氏がまつる神社」に関与する。

近鉄笠縫駅の近くに、古事記の編者 「太安万侶」を祭る神社がある、
多神社の鳥居に掲げられている額には、「正一位勲一等多大明神」、と書かれている。 ... なお、多神社の神職は、多氏(おおし)の末裔が継続しているという。

大和国★十市郡飫富郷(現,奈良県★磯城郡田原本町多)に多氏一族のまつる多神社(多坐弥志理都比古神社)があり,この ...








[48]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 00時53分04秒 ) パスワード

佐田は中臣・大中臣・卜部・又中原であるとき 多・十市・磯城・など

道君に関わる「志貴皇子」
磯城津彦もしき。中原に関わる。


41笠は蓋・解
檜原神社
桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。 大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も 美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭 笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。・・・

笠縫邑 - Wikipedia
大阪の笠縫島
笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照 大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟 名城入媛命に託して、後に大和神社に祀った、とされる。 笠縫邑は大嘗祭、豊明節会・・・

田道間守
桧原神社から北へ向かう「山の辺の道」。
この辺りの丘陵地帯から、これから向かう穴師の里あたりにかけては、特に蜜柑畑が多い。蜜柑で思い出すのは、『日本書紀』が伝える第11代垂仁天皇と田道間守の逸話である。この田道間守は三宅連の先祖とされている。

★大和大税帳にのる多氏が祀る神社の外宮
 外宮 
     日原神社
       天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
       皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。

三ツ鳥居のある元伊勢『檜原神社』
@大神神社(桜井市) (奈良の寺社・・・2011年2月21日・・・檜原神社はまた★日原社とも称し、古来社頭の規模などは★本社である大神神社に同じく、 三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古・・・また「茅原(ちはら)」は、日本書紀崇 神天皇七年条の「神浅茅原(かむあさぢはら)」の地とされています。



[49]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 00時59分59秒 ) パスワード

先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。日本書記には、栲幡千々姫(たくはたちちひめ)、万幡姫(よろづはたひめ)、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、栲幡千千姫万幡姫命(たくはたちちひめよろづはたひめのみこと)、天万栲幡千幡媛(あめのよろづたくはたちはたひめ)

この姫神は異伝が多いが、秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。

スサノオとアマテラスの天の安河原の誓約によって生まれた5人の男の子
皇太子・天忍穂耳尊の皇后が「幡千々姫命」で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊を生む。
[50]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 01時01分00秒 ) パスワード

葛西清重
父の豊島清元は秩父氏の一族・豊島氏の当主
代々、源氏の家人になり、前九年の役や後三年の役で源義家に保元の乱で源義朝の配下で参陣している。父は豊島康家。
[51]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 01時12分39秒 ) パスワード

秩父秘話(大西シゲ著)
に「我家の先祖は、桓武天皇の子神野親王(別名恵多羅親王、嵯峨帝、即ち初代平井大衛門)であり、上州緑野郡平井村に来り住み、平井大衛門は秩父妙見大菩薩として秩父神社に祭られ、関八州よりあがめられた。即ち★関東平氏の祖である。一門秩父重忠は平井大衛門代々の家で育てた」

神野親王
この部分に私は母系をみて、嵯峨天皇の后は「橘嘉智子」。橘氏は縣犬養橘三千代が有名。縣犬養氏の祖は渡会氏と同じく「神皇産霊尊」。

源平闘諍録に「良文は村岡の五郎、将門がためには伯父たりと雖も、養子となりて其の芸威を伝う。良文に四人の子ありき、嫡男忠輔は父に先立ちて死す。二男忠頼は村岡三郎、奥州介と号す、武蔵国の押領使として上総・下総・武蔵三ヶ国を領す、下総・秩父の先祖なり。

[52]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 01時13分39秒 ) パスワード

久米博士は「世に良文を高望の子と云へど疑はし、假冒に過ぎず」と云う。今昔物語卷二十五に「東国に平良文と云有り、字をば村岳の五郎と云ふ。頼光朝臣の郎等に平の貞道と云兵有けり」。卷二十九に「村岡ノ五郎平貞道と云ける者也」と。この書は平安末期の嘉承頃の編纂であり、平良文と記されていても不思議では無い。前太平記に「信濃国碓氷郡の浪人橘氏、諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞道を生む、後源頼光に仕へ貞光と改め、靭負尉に補せらる」と。薩摩国阿久根郷の英禰(あくね)系図に「源頼光の臣四天王の一人、平貞道碓氷荒太郎より八世孫、英禰に下向す」と見ゆ。良文は俗史に村岡五郎貞光に作り、更に橘姓碓氷荒太郎貞道と云ふ。碓氷荒太郎橘貞道を平貞道に作るのは、後世の作品である為か。平群系図に「良文―忠道(号村岡二郎大夫、源頼光朝臣四天王之内。法性寺関白以来、世之人改忠字、称サダ道)」。桓武平氏金子家系図に「村岡五郎良文(下総国相馬郡御厨下司、天徳四年卒、号東光院)―村岡小五郎貞道(本・忠道、源頼光朝臣郎従)、弟村岡二郎恒明(本・忠頼、相馬郡御厨下司相伝)」と見ゆ
[53]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 01時28分52秒 ) パスワード

秩父国造 
秩父郡は古代の秩父国なり。古代氏族系譜集成に「八意思兼命―天表春命

延喜式神名帳の阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)
の祭神は思兼命と天表春命
[54]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 01時31分32秒 ) パスワード

【延喜式神名帳】阿智神社 信濃国 伊那郡鎮座
          (奥宮)阿智神社 (奥宮)

   【現社名】阿智神社 (前宮)
   【住所】長野県下伊那郡阿智村智里前宮山 489
       【祭神】天八意思兼命 天表春命 (配祀)建御名方命 大山咋命
   
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】★阿智使主
   【鎮座地】当初鎮座の地は奥宮か
        移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「★山王権現」と称していた
      【境内社】

この地は諏訪族に対抗した天孫系阿智族の開拓の地とされている。
細い尾根の上に鎮座している。小川の水音有り。
[55]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 02時08分34秒 ) パスワード

阿智使主は漢王室霊帝の子孫で、坂上氏の祖先。百済氏=東漢氏=坂上氏

「山王権現」
宇佐八幡山王社の神紋は「橘紋」。
山王日枝社には「あらはばき神」が書かれている。

何とはなく アラハバキと坂上氏との関係が見える。
坂上田村麻呂も蝦夷だった。

荒木田氏は遠祖・津速魂産巣日神。この神は藤原氏遠祖。
嫡流の人が書く「阿多羅しい古事記」に
古文書によると 青州 から出航したとある。青州とは、中国古代において九鼎が造られた九州のうちの一つである。現代では山東半島付近に当たる。

荒木田一門である我が家に第二次世界大戦後まで「倭国王の宝物」と伝わる物が百点余りも遺されていた。その主な物には、中国古代の彩陶、黒陶をはじめ、殷代に造られたと言われる九鼎、周廟の銅鐘、春秋時代の宝剣、秦代の計量器、「漢国王」印璽などがある。

また、<加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡>から出土した銅器と同じ「×」印が付けられた銅剣、卑弥呼王の「親魏倭王」金印などがある。平成初期までこれらの一部は東京国立博物館の宮内庁宝物館に展示されていたが、現在は一般公開されていない。

さらに、これらの宝物とともに、白木の箱に入った二十枚ほどの写本の断片が発見された。それらを繋ぎ合わせてみると、おおよそ二千人ほどの我々の先祖は、中国大陸の東岸を船で出航して、朝鮮半島の南端から対馬を経由し、九州唐津付近に辿り着いたようだ。その後、短期間のうちに瀬戸内海を東進して河内へ上陸し、そこから先は内陸部へ向っている。しかし、時代は縄文末期、邑といわれる集落を形成したのは比較的安全な九州北部だったようだ。
         
補足)人数: 中国黄河(中原)文明とともに日本列島へ渡来した数千人の先祖のうち、斉人の数は出雲荒神谷遺跡から出土した銅器の数と同じである。すなわち、銅鐸6個は斉王とその妃、銅矛16本は王子・・・1人は対馬海峡を渡る前に朝鮮半島南端で死んだので王子は全員では17人、銅鐸39個は神官、銅剣358本は従者・・・7人は朝鮮半島南端で死んだので従者は全員では365人、またこの他に兵士や工人、朝鮮半島に住んでいた東夷が大勢連れてこられた。
補足)居住地: 縄文末期に周斉廟の宝物を携えて到来した斉王一族の墓は福岡県吉武高木遺跡である。この遺跡からは「斉王之璽」金璽および「斉王行璽」白玉璽(鈕は鷲を型取ったもの)、また様々な色の宝石をはめ込んだ金冠と銅剣が出土している。

[56]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 02時13分30秒 ) パスワード

荒木田家の人はさらに
皇祖神の御遺骨であられる、というわけで、昭和三十年代から平成初年までの長きにわたって、東京国立博物館の宮内庁宝物館に展示されていた。実際には、九州北部の弥生時代遺跡から発掘される甕棺墓と同等の人骨である。

初めのうちは、本当に「天照大神の御精霊」と銘打っていたが、そのうち「神武天皇の御遺骨」と変わった。

荒木田神主の嫡宗である我が家の伝承では、伊勢神宮に祀られている「オオヒルメムチ」とは、倭国王である「オオクニ王」の子孫となる日女で、この女性が卑弥呼ということになっている。ただし記紀では、出雲大社と同義語である「三輪」の大神の女である蹈鞴五十鈴姫が初代天皇妃となって、我が国の初代国王を産む話になっている。


[57]笹井さんからのコメント(2012年09月12日 02時27分36秒 ) パスワード

(一説に、崇神天皇を、朝鮮半島楽浪郡から渡来した「漢の金官」とするものがある。)

皇居で、実際に天皇の先祖神として祀られているのは「高産霊尊」である。

伝承によれば、我が国最初の統治者となった「アマノタラシ日子」の母系先祖となっている。
系図の一つには神武天皇の皇后である蹈鞴五十鈴姫の父親としているものもある。

また、実在を確証できる始祖天皇としては、天智天皇が祀られている。
神話よりも現実を重視するということなのか、蘇我氏を天皇家の母系先祖として祀り、その後に中臣氏も祀っている。
さらに明治以後は、徳川家康も先祖神に加えられた。

(一説に、「高」は高句麗の王族、もしくはこれから分流した新羅、百済の王族であるという。)



[58]笠井さんからのコメント(2012年09月12日 21時16分23秒 ) パスワード

この欄に数多くの貴重なご投稿をいただき、大変うれしく思います。私事ですが、自身の父方の改製原戸籍等を入手しましたが、せいぜい明治初頭も現在の高松市にいたということくらいしかわかりません。絶対的ではないまでも、五瓜に三階菱をどの関係する墓石にも刻んでおり、武田氏に関係する系統(加賀美氏、小笠原氏などのように)でしょう、という感じはします。決め手の一つの系図は遠い親戚の手にわたって本家にない模様です。ところで、埼玉の清重から32代目さんのお話に出ておりました、笠井義邦の件(※)ですが、北部王家、南部氏、葛西氏、武田氏との関係の決め手は何でしょう。引き続き参考になる情報のご提供をお願いします。※小山田太郎高家と笠井義邦の関係を記しているサイトもどこかにありました(驚きました。ただ悔しいことに失念しました。)。こちらのほうは参考情報です。→ http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/oyamada.htm
[59]笹井さんからのコメント(2012年09月14日 05時20分02秒 ) パスワード

おはようございます
私が書いたのはルーツに関してということで、笠井義那はわかりません。

今日 小山田太郎高家で検索したら

コーナーT 中世の武士・小山田氏=小山田のルーツ - So-net
の表題が出て
かいつまむと

小山田有重の兄・畠山秩父重忠が“智勇ノ人”として最上段に、そして小山田太郎高家も“新田臣”(新田義貞の臣)として三段目にのっています。

小山田一族は、源頼朝の挙兵後、頼朝側につき、武蔵国の有力な御家人となっていきます。

新田義貞(にったよしさだ)を摂州(兵庫県)で救出した忠臣・小山田高家(たかいえ)

■「小山田不動尊略縁起」 下小山田町・若林照雄家文書
江戸麻布広尾の光宝院に安置されている小山田不動尊の縁起を述べたもので、1865年(慶応元)に刊行されています。縁起によれば、不動尊は秩父太郎重弘(有重の父)の依頼で運慶が彫り、小山田有重・行重、さらに★甲州武田家の小山田兵衛尉・備中守と受け継がれ、常に軍功勝利をもたらしたと言います。一時、小山田郷に勧請されたようですが、故あって1764年(宝暦14)に光宝院に安置されたようです。縁起は、堂宇修復のための寄付金募集のためのもので、小山田にも広く呼び掛けられたものと思われます。〔光宝院の所在は不明です。〕

と 甲州武田家のことばが出ます。

[60]笹井さんからのコメント(2012年09月14日 07時35分39秒 ) パスワード

三枝部氏をみると
日本の苗字7000傑に「天津彦根命」の末とあります。
別説
開化天皇裔の★丹波氏族の一支族が甲斐国造族 と、丹波氏が出て、おそらく母系の関係ではないか?と思うのですが、丹波★道主族なども関与。

天津彦根命の系を引く曽我倉山田石川麻呂⇔田中⇔武内(武内宿禰は紀氏考のネットを参照)⇔熱田尾張神宮男子と蘇我稲目女子またはきょうだいが結婚子孫武内→子孫から「源頼朝」。この武内は「八剣神社」を創建。別の地に建てられる「八剣神社」

サダに関し
>47埼玉の神社に「上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む★猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。★八剣神主田中右近の先祖か。


一方
笹井⇔笠井
から考えると佐々木源氏。沙沙貴山君・大彦命。

毛利氏は、系図によれば天穂日命を祖としている。のち野見宿禰などを経て音人にいたり大江氏を称するようになったという。しかし、そのあたりまでのことは確実ではない。大江匡房、さらに大江広元が出、そのあたりから比較的信憑性のあるものとなってきている

大江匡房
源頼朝を出す尾張熱田神宮の系と別に、鎌倉時代阿保親王の子孫が神宮へ養子に入り再び出て毛利に養子に入った。大江匡房である。毛利は遠祖・天穂日命で皇太子・天忍穂耳尊の兄弟。天津彦根命も兄弟。
毛利広元は「佐田神社」を崇拝した。

毛利(森)は 宇多源氏佐々木氏の一族である。宇多天皇敦美親王の子孫。佐々木道誉(笹井)と高槻の資料館にあった。

京都北野天神のそれぞれの社のひとつに 敦美親王と菅原道真に血縁関係があると書いてあった。

毛利家が満良親王をかくまい、維新への道となった。

ひとつひとつをほじくりかえすと膨大な資料が必要と思われるけれど、サダ(海神族・つみ族)を介しての母の関係とみての話です。
 
[61]笠井さんからのコメント(2012年09月17日 17時45分26秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さまをはじめ皆様の博学に敬服です。
さて、義邦のことですが、武田政義の子として、ですが・・・・
〔17〕「この事情から政義以降の系譜は不明だが、義邦は通字から政義の子で観応2年(1351)に信武軍との戦いで没したのではないかと考える。」
この部分ですが、この説によれば、武田政義の子は、福寿丸=義邦、ということなのでしょうか? 参考までに、この福寿丸は、同じ武田氏の中の流れが大きく変わったこともあり、大変な半生だったといわれているそうです。

参考となるweb情報

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage454.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%BE%A9
[62]笹井さんからのコメント(2012年09月19日 01時01分55秒 ) パスワード

22のヤマト(倭 大和 大養徳 他いろいろな表記がある)
新選姓氏録
大県史・・・和徳の後

大県史の言葉から大氏を連想するが、検索ではでない。

大縣神社・田県神社がある。二つは姫神・男神をまつる。

余りに古い神社で、大縣神社の祭神ははっきりしてないが、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、「国狭槌尊」とする説、「天津彦根命」(大縣主の祖神)とする説、「少彦名命」とする説、「大荒田命」(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、「武恵賀前命」(神八井耳命の孫)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。 境内には、いくつかの境内社がある。かつては別宮二社、末社52社があったとされる。その中の一つの摂社の姫の宮には、玉姫命が祀られている(「倉稲魂神」とする説もある)。

国狭槌神などは神代の人で、天津彦根命は田中も末にあるが、
武恵賀前命
>47埼玉の神社に「上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む★猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。★八剣神主田中右近の先祖か。
と佐田(猿田)と田中が繋がって出る。

武恵賀前命は京都方楽家(多氏)系図にのる人で大安麻呂などを出す。
多神社 多坐弥志理都比古神社
[63]笹井さんからのコメント(2012年09月19日 02時27分45秒 ) パスワード

アマテラス
★多神社 多坐弥志理都比古神社 注進状
 仲津臣が 多氏を負う。

天平時代以前からの古社。式内大社二座。『日本の神々4』によると、多氏の祖の神八井耳命と姫御神が祭神とされているが、久安五年(1149年)の『多神社注進状』には
 珍子賢津日霊神尊 皇像瓊玉坐
 天祖賢津日神像 神物圓鏡坐
 とヒコ、ヒメ神となっており、社名の弥志理都比古から水火知男と女神のヒコ、ヒメ神が神名帳の二座と言う。
佐田は藤原氏・中臣氏・卜部氏・大中臣氏
藤原で荒木田家とつながり

伊勢神宮の女神天照大神の★諡は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊、あるいは大日霊女貴尊と★賢の字でつながっている。

アマテラスを 冠するのは 4人。
スサノオ・・・広島のほうの神社に スサノオにもアマテラスを関しているところがある。
天照大神
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
藤原鎌足の弟は アマテラスを名乗り、★太洛稽氏だった。

(1)多氏がまつる 神社 外宮 
                                    日原神社
 天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
 皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
己上神社 川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。・・鉄の御影神社参照御影は御上
 若宮一座
 天孫 国照火明命 神像竹箸に座す。
 摂社一座                               (官社に非ず)八剱神社
       出雲速蛇建雄命  神像横刀に座主す             己上神社 は 川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。       
             
★檜原神社(日原神社=元伊勢の宮)
 大神神社摂社。祭神 大日霊女貴神(天照大神)
 ここは 三輪山の西北の端の山麓。崇神天皇の御子・豊鋤入姫(豊城入姫)が皇居より霊位を持って出て、最初に仮宮を置いた★笠縫村。
[64]笹井さんからのコメント(2012年09月19日 23時41分19秒 ) パスワード

鍵を握る氏族 多氏: 飛鳥昭雄研究室 より
多神社の式内社に小社神社というのがあり,祭神は太朝臣安萬侶とされています。多神宮注進状という古書が残されていてその書によると多神社の祭神2座は,珍子(うつのみこ),賢津霊神尊(さかつひこ)の,皇像瓊玉座,天祖(あまつおや)賢津霎神尊(さかつひめ)の神物圓鏡坐圓とされています。賢津霊神尊(さかつひこ)は「河内国高安郡★春日部坐宇豆御子之社」と賢津霎神尊(さかつひめ)は「春日部坐天照大神之社」と同体異名也。とあります。河内に教興寺という寺があり秦河勝創建と伝わっています。別名★秦寺といい★高座神社の神宮寺であるとのことです。
[65]笹井さんからのコメント(2012年09月20日 00時03分43秒 ) パスワード

高座神社 - 別冊・丹波霧の里
高座山高座(たかくら)神社は、
東芦田と田井縄の産土神であり、人皇第14代仲哀天皇 【西暦200年 ・在位9年:★日本武尊の子で此処では★毘沙門天としても祀られます。皇后は三韓征伐で知られる神功皇后】が創建された社で、式内大臣 :武内宿禰を伴い参拝され病気平癒を祈願され宮名を高座と名付けられたと云われ、 主祭神に人皇第14代:仲哀天皇を祀り、山南町の高座神社(谷川)や 狭宮神社(和田)と共に丹波国延喜式内社【醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された】として、氷上郡(現:丹波市)十七座の一つです。

と62ヤマトタケルとのつながりがでる。この人の3世孫が大荒田別で、熊本県球磨郡の方で良峯朝臣の墓があるが、それには「荒田」の言葉がある。

大荒田別の女子?は熱田神宮の子供をうんだということでもある。
良峯朝臣は林らとともにわが国の文化を「国風文化」に変えた。
良峯朝臣は「劉姓」。桓武天皇と百済永継の女子の間の子。異父兄弟に藤原北家になる冬継がいる。

百済氏は坂上氏であり、東漢氏であり、和漢氏である。
秦が百済になるのは?だが、
11/10/08 ●34 12/09/09 はるか 笠氏と平氏考察(ネットからのコピーばかりだけど
で、嬴姓高岡系図から笠氏への検索の仕方が書いてあるのでそれを出すと、高陵氏が秦氏であり、百済にとどまっていたことがわかる。漢王室子孫という坂上氏も百済をとおってやってきた。

彼らは半島で一度からまっているのではないのか?

殷→田斉→秦はつながっている。

斉と北魏もつながっている。
北魏に太洛稽氏がいた。

蓋馬韓の本姓は「趙」らしい。詳しくは知らないけど・・・百済は馬韓に従っていて後百済になったようだ。

きっちりはっきりルーツをこれ と決め付けるなら兎も角、混血児と考えるとご祭神などもわかりやすくなるようです。
[66]笹井さんからのコメント(2012年09月20日 01時00分53秒 ) パスワード

【延喜式神名帳】高座神社 丹波国 氷上郡鎮座
【現社名】高座神社
【祭神】★高倉下命 (配祀)天火明命 比売命 ★建御雷命
(合祀)★伊邪那美命 ★保食命★ 菅原道真 品陀別命 事代主命 大国主命 大雀命

高倉下は熱田神宮尾張氏の祖先という人で、いざなみは佐田神社がイザナミをまつる大本。又神魂神社がイザナミを祀る大本。神魂神社は天穂日命がまつったといわれ、命の子孫・菅原、毛利。

桓武平氏のもと・桓武天皇の母は「高野新笠」で和氏。大江氏にも関与。

46七星神社
豊受神
福知山市★大江町には元伊勢豊受大神社がある。元伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、★藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。河田家に伝わる文書によれば、平安時代からほぼ60年に一度の遷宮が実施されてきた模様である。その意味でかなり格の高い神社である。

[67]笹井さんからのコメント(2012年09月20日 20時51分36秒 ) パスワード

和徳⇔和氏⇔高野新笠⇔清和天皇后・藤原高子にも冬嗣をとおして同じ血が流れている。
藤原冬嗣は「桓武天皇の子・良峯朝臣」と母・百済永継女子をとおして異父兄弟。

藤原高子
父は藤原長良(藤原冬嗣の長男)。母は贈正一位大夫人藤原乙春

藤原乙春
父, 藤原総継( 光孝天皇の外祖父)で、 父, 藤原末茂(魚名男)

この魚名の系は伊達氏や大友氏につながり、四条につながり、市場(鷲尾)貞子につながる。
[68]笹井さんからのコメント(2012年09月20日 21時11分37秒 ) パスワード

すみません
67永継女子はまちがいで
飛鳥部奈止麻呂女子・百済永継です。
[69]笹井さんからのコメント(2012年09月20日 23時24分28秒 ) パスワード

62の補強
わが国の文化を国風文化に変えた桓武天皇の子供・良峯朝臣(劉姓)
球磨郡で良峯師高は平川。墓に荒田。葉木という集落に「平河」の零社があったと伝える。

ネット 津守氏・尾張氏・海部氏・伊福部氏・掃部氏より
大県神社(愛知県犬山市宮山)  ※尾張国二の宮
祭神&祖神 大荒田命(大県大神)
社家 ★邇波(丹羽)氏

社伝によれば、大荒田命の娘・★玉姫命は、倭建命の妃の美夜受比売の兄・建稲種命と婚姻して、子孫は同神社と下記の田県神社を奉斎したという。多少時代が混乱しているが昔のことと受け止めて、記紀の倭建命の子孫の記述には、大荒田命の祖父・★尾張丹羽建部君祖の武田王の記述はないが、この神の娘と建稲種命の婚姻の伝説があるのだから、尾張氏がこの土地へ移住してくる前からの尾張の豪族で、以後は尾張氏と融合して尾張を治めたと考えていいのではないか。

「丹羽」というのが★丹波道主命の「丹波」を思わせてしょうがない

田県神社(愛知県小牧市大字久保一色)
祭神 御歳神、玉姫命
社家 ★邇波(丹羽)氏
[70]笹井さんからのコメント(2012年09月20日 23時57分38秒 ) パスワード

桓武天皇や良峯朝臣は後世の人だが、天皇家も桓武天皇以前の歴史があるし、飛鳥部奈止麻呂にもその先の歴史がある。

二本松藩主の丹羽家は、安世の後裔とされているという。

華族類別録第十二類皇別良峰朝臣。桓武天皇皇子右近衛大将良岑安世の後裔。(※系図纂要では、藤原氏に分類されている)
織田信長の重臣丹羽長秀の一族。
現代華族譜要によれば、陸奥二本松藩主。10万700石〔後5万石〕。外様。大広間。
明治17(1884)年7月8日長裕が子爵を授かる。


[71]笹井さんからのコメント(2012年09月21日 00時36分55秒 ) パスワード

藤堂 高吉(とうどう たかよし)は、江戸時代前期の武将。丹羽長秀の三男で、羽柴秀長次いで藤堂高虎の養子となった。母は杉若無心の娘。

藤堂高虎は「服部半増の一族の保田采女という人に藤堂の姓を与え家老にした。

公卿類別譜より
皇別 ★中原朝臣
天武天皇皇子一品舎人親王曾孫長谷裔
従四位 ★藤堂高潔 伊勢 津藩 外様
(準譜代) 大広間 三十二万三千九百五十石
従五位 ★藤堂高義 伊勢 久居藩 外様 柳間 五万三千石


[72]笹井さんからのコメント(2012年09月21日 01時00分55秒 ) パスワード

平清盛の異父兄弟の平頼盛の孫に八木盛定・平川景家がいる。

『新撰姓氏録』によれば、和多罪豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の児神、布留多摩乃命(ふるたまのみこと)の後裔とされる八木氏。

平姓にあるのはまだ良くわからないが、平川⇔荒田のとき、熱田神宮とつながりが出てくる。

69のように古いつながりがあるからではないだろうか?
[73]笹井さんからのコメント(2012年09月21日 01時15分13秒 ) パスワード

熱田神宮尾張氏遠祖は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命・天火明命というが、
A)天火明尊は 倭氏遠祖 海神の子 振魂命の子 天前玉命の子孫。
火明の 子孫 熊野高倉下と 倭氏の 宇豆毘古は 従兄弟同士。

という系があるという。

B)天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄とされる。

(私はどうもAのとき、母系を辿っているのではないか?と考える。)
このとき、和徳 大和 倭 大倭 和氏 笠氏(こちらは多分大山祇系)がつみ族でつながる。


[74]笹井さんからのコメント(2012年09月21日 01時42分36秒 ) パスワード

ネットより 葛西氏
葛西宗家(仙台藩葛西氏)
葛西晴胤15代葛西陸奥の守晴重の養嗣子。伊達左京大夫植宗の七男。
晴胤の兄弟に亘理元宗(養父・亘理宗隆)とあり、
白石は亘理。
このあたり「東日流外三郡誌」などが関与する。伊達家家臣・支倉常長の本名が「山口余市(与一)」であることなどがこれでわかるそうだ。

又、白石が磐井を名のった。
東北安部郡磐井の地。安部(阿部)は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の皇子に関与する長脛彦・安日彦に関与。孝元天皇に関与。安日彦の子孫が源融の系を引く松浦氏と結婚。明治天皇の生母の血に入るという。


[75]笹井さんからのコメント(2012年09月22日 21時35分20秒 ) パスワード

源平をいう人たちの先祖は天皇家で、その先は高天原からやってきて、九州から出立され大和に都をおかれた。皇后はどうも先にいた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の系から出たようだ。元伊勢の丹後籠神社では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を事代主としている。

高天原神話「の発祥地とされる熊本県の「幣立神宮へいたてじんぐう」では、
地元山都町の「白石神楽」が奉納されている。踊り自体は後世他所の踊りを学んで踊るようになったそうだ。

宮崎県との県境にほど近い熊本県阿蘇郡蘇陽町(現・山都町)にある幣立神宮(幣立神社)
幣立神宮は、神漏岐命・神漏美命・大宇宙大和神・大御中主大神・天照大御神といった神々が祀られている。古事記や日本書紀にも出てくる日本の歴史を語る上で重要な神々だ。又、幣立神宮のまたの名を「日の宮」というが、これは天照大御神やその子孫である天皇の住む御殿という意味。神武天皇の孫・健磐竜命が、宮崎から阿蘇に向かう途中に幣立神宮に幣帛を立て、天神地祇を祀ったと古文書にもある。

社殿の写真を見ると、平入りのように見える。
本殿の左手に、奥に抜ける道があり階段を下りてそこから右に巻きさらに左に下りると東御手洗(ひがしみたらい)と呼ばれる池がある。清浄な気に満ち満ちている空間だ。「東御手洗社」の社が建ち、清水がこんこんと湧いている。

古の昔より八大龍王が鎮まる所とされていて北辰妙見(ほくしんみょうけん)の大神が祀られている聖地だという。

白石お天道さん神楽祭り」開催. 明治時代中期ころ、山都町蘇陽地区の白石集落で火災などの災難が続発し、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡に伝わる神楽を習い、奉納したのが「お天道さん神楽」の起源と言われています。

天孫ににぎの子・山幸にゆかりの若狭彦神社「笠氏」
白石大明神



[76]笹井さんからのコメント(2012年09月23日 01時34分25秒 ) パスワード

なんだかおもしろそう と おもうものがありました。
3で高松笠井家のことがでており、又葛西の分流。

x―――葛西清重(重忠らの従兄弟)
y―――|小山田有重(重忠兄)
    |畠山(秩父)重忠
      ||
     北条時政女子
      ||・・・二本松畠山氏へ
     足利義兼の子の義純

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。 父は足利氏の祖で源義家の孫にあたる足利義康。母は藤原季範の養女(実孫で藤原範忠の娘)で、源頼朝の従姉妹にあたる。
義兼は父方でも母方でも頼朝に近い存在であった。

今も 笠井義那が何者かはわかりませんが、大本が源氏によっていれば(頼朝は義光と流れは違うけど、)葛西家と義光の流れの南部氏との関係も出来たのではないのか?と思います。

義兼 義純と義もついていてこれもおもしろいな と 思います。


15将軍足利氏の末苗は「坂本」ですが、坂本は下毛野氏から出る。毛野氏について研究しておられるネットもあります。上毛野氏から出るのが「豊前宇都宮流佐田氏」でこの氏は「中原」を名乗っていた。
毛野氏は崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する。豊城入彦の孫の★彦狭嶋王が東山道15国の都督となったこと、その孫の★荒田別、巫別が百済に派遣されたこと、上毛野田道が蝦夷を征討したことなどが『日本書紀』に見えるが伝説と見られている。と。

ネット越智氏考をみると
2−1)彦狭島命
@父:7孝霊天皇 母:蠅伊呂杼
A第3皇子、兄弟:稚武吉備津彦 大吉備津彦など
別名:伊予皇子
B越智氏祖(新撰姓氏録、記紀)。但し伊予国に来たことを記した文献などないとされている。

蠅伊呂杼は楽家系図(中原)にある。mu
又 ・孝霊天皇と蠅伊呂杼の子
・異母兄である大吉備津日子命とともに播磨を入口として吉備国を平定した
・吉備下★道臣、★笠臣の祖という

蠅伊呂杼の別名は
倭国香媛 (ヤマトノクニカヒメ、意富夜麻登玖邇阿礼比売、古事記では蝿伊呂泥 

記 安寧の子師木津日子の子和知津美命の娘 意富夜麻登玖邇阿礼比売命(蠅伊呂泥)
記 その妹蠅伊呂杼

師木津日子の子孫が中原氏。










[77]笹井さんからのコメント(2012年09月23日 02時05分47秒 ) パスワード

57で(一説に、崇神天皇を、朝鮮半島楽浪郡から渡来した「漢の金官」とするものがある。)とあるが
6年ほど前の荒木田家嫡流の人が書く「阿多羅しい古事記」では
 一書に「崇神天皇」を漢の高祖の子孫とするものがある。
     又 一書に 漢の鉄官の子孫とするものがある。
と書いてあった。

[78]笠井さんからのコメント(2012年09月23日 09時32分32秒 ) パスワード

 毎回貴重な情報のご提供ありがとうございます。一つだけ念のため確認があります。〔71〕「・・・笠井義那が何者かはわかりませんが・・・」ですが、現在この欄で話題になっているのは「義邦」(よしくに)なのですが、単に記述誤りだとは思いますが。
[79]笹井さんからのコメント(2012年09月23日 20時24分03秒 ) パスワード

どうもすみません(恥!!)
コピーして貼り付ければよかったですね。

19に南部には津軽氏が関係しているが 津軽氏は
1)桓武平氏蘇我氏族
2)1つに清和源氏という。
曽我氏族ということから
公卿類別譜竹内と打ち込んで検索すると
清和源氏義光流。新羅三郎義光の4男★平賀冠者盛義を祖とする(知譜拙記による。華族類別譜によれば、義光の子義業の二男義信を祖としている)。元、★久我家諸大夫だが、★足利氏と同族であった為か、室町幕府の執奏で堂上に列せられた。庶流に中務大輔久盛を祖とする竹内流柔術家がある。
と書いています。
http://blogs.dion.ne.jp/natorigoro/archives/8158315.html
護良親王は、鎌倉で死なずに石巻の葛西氏をたよってきたという伝承

今日ネットをみていたら(昆孫は6世孫)
笠井義邦重政嗣重常孫重光曾孫重家玄孫重行耳孫葛西清重昆孫?武田秀高八郎左馬
というのがありました。もうみておられるでしょうか?

[80]笹井さんからのコメント(2012年09月23日 20時32分36秒 ) パスワード

76宇都宮流佐田氏の遠祖は藤原道兼の曾孫・宗円。
私の母方の家紋はここと同じで、動き(毛利にも仕えている)あと、黒田や大友・細川とつぎつぎに仕えて戦国の乱世を乗り切った。・・が似ていることからこの氏のことに注意しているのですが。
[81]笹井さんからのコメント(2012年09月23日 21時54分18秒 ) パスワード

武田氏家谱 东瀛樱花 武士の野望http://www.toyotomi.cn/simple/t8436.html

笠井義邦重政嗣重常孫重光曾孫重家玄孫重行耳孫葛西清重昆孫?小笠原流?武田秀高八郎左馬

義重義邦子小太郎

邦重義重子小次郎

重忠邦重子三郎
[82]笠井さんからのコメント(2012年09月23日 21時57分53秒 ) パスワード

[79] 笹井さんからのコメント について
貼り付けていただいたURL、先月(H24.8)初めて見ました。驚きました。
科学的な論証は私などにはできませんが、ロマンを強く感じ、未だ大震災の爪跡が大きく残るであろう石巻を訪れたい、と思うようになりました。そして、南部氏、葛西氏と「笠井義邦」なる人物との関係をいろいろ考えていくうちに、なんとなくですが、このお方はひょっとして、北部(きたべ)王家の血の流れを受けている方ではないのか?と思うようになりました。こんなことを書きますと、[17] 日本の苗字七千傑さんからのコメント =に反しますが、・・・。やはり、南部氏が所蔵されるという歴史的資料(?)に期待するしか術はないのでしょうか?早く情報を入手したい!、と世界に向けて叫びたい気持ちです(熱くなってすみません。)。
[83]笹井さんからのコメント(2012年09月23日 23時24分44秒 ) パスワード

北部王家http://homepage1.nifty.com/maholobaland/denshou/kitabeouke.htm
文安5年(1448)5代義純の代に、この名家に危機が訪れる。後に蝦夷地松前家の始祖となる野心家武田信純(蠣崎蔵人ともいう)の出現である。信純は義 純の妹婿となるが、文安5(1448)年義兄義純、その子息義元、二郎、孫娘環姫を船遊びに誘い出し溺死させ、義純の甥で、自分の子でもある茂丸をも毒殺 し、大塔宮の系統を絶やしてしまったと云う。
とこちらも義がついています。

私の故郷にも護良親王に味方した勢力がいて、この方を追いかけたら我が家の先祖もわかるはず と思い、しらべしらべしていました。何となく親王から出る話でつながって少しは心が落ち着いた気持ちです。

伊達に繋がるほうは亘理(白石)の先は「武石」でやはり桓武平氏です。

伊達は藤原魚名の子孫で、平家に関係してくる四条(鷲尾)貞子の四条も同族。大友氏も同じ。貞子と西園寺実氏との間の女子が両院並立のもとになる両天皇を生む。

真木山神社 眞木山神社 (伊賀市)
白石神社(伊賀市)で検索
ちいさい神社なのだけど
神武天皇が来られたときヤタカラスがこの地にとまったという。
眞木山神社には皇太子が参拝されたという。  
[84]笹井さんからのコメント(2012年10月03日 23時07分45秒 ) パスワード

大内氏に仕える笠井氏がいる
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm 西郷氏
清和源氏義光流の大内氏から西郷氏へ養子?
義光流で南部とつながり、武田と繋がる。
21西郷隆盛は衷心から王政復古に賛同した。

西郷氏は西郷の局を出し、徳川家康との間に秀忠を生む。

西郷氏の系を遡れば、菊池氏をとおり、藤原道隆へ。道隆の血を引く池禅尼。
池禅尼の子・平頼盛子の系は血を残し後爵位を持つ。

21満良親王
http://kanro.0394.daa.jp/?eid=1149759
18に出る高広とつながるのかはわからないけど、満良親王に関与する大江高広




[85]笠井克之さんからのコメント(2012年11月09日 23時50分04秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2012年12月02日 12時21分23秒
[86]笠井さんからのコメント(2012年11月11日 06時16分54秒 ) パスワード

岡山ご在住の笠井克之様、初めまして。
 おじい様、お父上のご郷里が香川県ということで、親近感を覚えます。
 私の先祖を調べましたら、江戸時代の終わり、明治の初めにも、現在の高松市内に居住していたようです。
 香川の笠井氏については「〔3〕清重から32代目さん」の記述にありますように、江戸時代、藩士として水戸藩から時の藩主とともに讃岐へ移住した可能性があるのですが、わが家系の系図が、親戚の方に見せていて(貸していて)戻ってきていない、とのことで、現段階では、それより昔には追ってはいけません。
 ただ、次のことはわかっています。
 家紋=五瓜に三階菱(甲州の小笠原氏に近いかも知れません。)
 江戸時代の終わり〜昭和:笠井大太郎→笠井専太郎→笠井直太郎→笠井磯七、この流れは間違いないです。
 なお、古くから香川にある、いわゆる古族の可能性もなくはないかも知れません。ちなみに、貴家の家紋はどのようなものでしょうか。
 何か、情報がございましたらご提供いただければ幸甚です。
[87]笠井さんからのコメント(2012年11月11日 06時47分39秒 ) パスワード

〔86〕の修正です。
〔笠井大太郎→笠井専太郎→笠井直太郎→笠井磯七〕

〔笠井大太郎→笠井政吉→笠井専太郎
            笠井直八郎(曽祖父)→笠井磯七(祖父)〕
[88]笹井さんからのコメント(2012年11月13日 21時53分15秒 ) パスワード

ソフトバンク球団社長・笠井氏も高松出身だそうですね。
笠井和彦氏

お邪魔虫でした。
[89]千葉の笠井さんからのコメント(2012年11月15日 13時13分39秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年02月04日 18時38分27秒
[90]笹井さんからのコメント(2012年11月15日 22時44分28秒 ) パスワード

16葛西の本名は「石井」で、維新に動く薩長土肥の肥は肥前だが、肥前鍋島藩・竜造寺重臣の石井氏がある。

武家家伝石井氏より
石井氏は藤原氏北家流で、関白兼通を祖としている。兼通の弟兼家の子が藤原氏の栄耀栄華を極めた藤原道長

忠光の孫の式部大輔忠正は、下総守護職千葉氏の女子を室とし、一子式部大輔忠城を儲けた。以後、石井氏は千葉氏に仕えて、その部将として活躍することになる。石井氏は同族武士団を形成し、「石井一門」あるいは「石井党」と称されて繁栄じ、戦国時代には竜造寺氏、江戸時代は鍋島氏に仕えて、その団結は明治の廃藩に至るまで崩れることがなかった。

藤原兼通・・・(石井氏)・・・忠光
               ||
             千葉氏の女子

又 千葉氏・葛西氏ともに遠祖・平良文
堂上平氏の宗家・西洞院家の石井氏
公卿類別譜石井氏より
平松氏
桓武平氏高棟王流・西洞院流。西洞院時慶の次男権中納言時庸を祖とする。
平松時庸――石井行豊

これらは関係なさそうで、先に出た常陸葛西氏と関係する護良親王子孫・高広、大江氏がかくまった光良親王などに底の方で関与して動く力になっているかもしれない。肥前平戸藩主・松浦氏の系の女子と中山忠能の男子の子が公表されている明治天皇のご生母。

松浦氏の祖先に東北のほうの阿部彦・長脛彦兄弟が関与する女子が結婚。

光良親王の子孫は大室家につながり、この系のこともネットに出ているが、明治天皇につながっているとする。84

ネットに出ている話では、光良親王子孫の血が橋本家に入っているとする。
ばらばらで関係なさそうな家家が固まりを持って中心に寄ってくる。

[91]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 04時08分38秒 ) パスワード

58北部王家、南部氏、葛西氏、武田氏との関係の決め手
14もし義邦が武田氏流だとしたら、やはり縁結びに南部氏が関与したことが推測されます。

上のことは まだ少し漠然としていますが、
2チャンネルを見ていたらこんなことが書いてありました。少し付け加えています。
※南部氏は「清和源氏義光流」
南部そのものは山梨からきた人であって、
加賀美遠光―小笠原長清―小笠原長経
加賀美遠光の子
・秋山光朝、★小笠原長清、★南部光行
・加賀美光経、・於曽経行、・大弐局
八戸氏=南部氏の一族=盛岡藩士。=源氏=根城南部氏=八戸南部氏=遠野南部氏
[92]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 04時14分06秒 ) パスワード

※八戸は新田家から養子を迎えていて、 遠野に移住して、八戸藩主は盛岡からの分家で、 島津から養子を迎えて、盛岡の南部家は一条家から養子を迎えて、 そもそも津軽藩主は系図上近衛家の分家でそれに石田三成の血も入っていて、 (2代藩主:津軽信枚の側室は、石田三成の三女でした。このことであろう)
伊賀から来た忍者が家老をやっていて、(服部長門守康成, 津軽藩家老1千石であろう)
[93]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 04時23分12秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub09-2.html
1530年 松永久秀、三好元長に仕える、元長の懇望で三好長慶の補佐役となる
・この頃、元長は摂津堺幕府(短期間)に居た 
 
・1550「服部城」を松永久秀は築城 遺跡なし
・島上郡服部郷(三島郡)
・所在地:高槻市服部

三好氏 ●三階菱/三階菱に釘抜
●清和源氏小笠原氏流  
小笠原氏は甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したことに始まる
幕府方で活躍した小笠原長清が阿波守護 職に補任され、阿波国に入部したのである。
[94]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 04時56分02秒 ) パスワード

三好元長・之長の肖像を見ると「三階菱に釘抜」がみえ、三好氏歴代の位牌には「三階菱」が据えられている。また、『阿波国旗下幕紋控』には、三好氏の幕紋は「松皮菱に並び釘抜」と記されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

八戸南部家
四代師行から八代政光の五代は南北朝期に、南朝の武将として活躍したことは周知の処です。その功績を以て明治期に至り、子孫は華族に列せられ、男爵に叙爵せられています。

南部氏と北畠氏
鎌倉時代末期から南北朝時代初期に甲斐を本拠に奥州の糠部で活躍、その最後には北畠顕家に従った南部師行の奥州の勤王勢力

★師行  四郎或遠江守   又次郎 ───────────┐
    実、南部次郎★政行君二男、長継外甥也、      │
  建武元年北畠中納言顕家、陸奥国司となりて宮城郡に下向│
  す、師行国代の列にありて始て陸奥に下る
※19★ 平賀郡二千八百町は、大光寺南部遠州★源政行と申也。田舎郡二千八百町、奥法郡二千余町・保内一千貫は、伊勢国司浪岡御所源具永卿也。」

[95]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 05時10分28秒 ) パスワード

南部氏 - Wikipedia

根城南部氏の当主とされている南部信長が上洛して武田信虎(武田信玄の父)の世話になって室町幕府の第13代将軍足利義輝に拝謁したという記録の存在も指摘されている。

光行三男実長の女子とみえる
女 小笠原源太郎長経妻
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[96]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 05時37分30秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miyosi.html
武家家伝三好氏
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/miyosi/miyosi1.htm
三好長慶の先祖 阿波から大和へ

擾乱の影響は阿波にも及び、小笠原一族は南朝方に転じたようで、小笠原宮内大輔頼清、小笠原一宮長宗らが細川氏と対立したことが記録から知られる。

細川澄之派の香西元長・薬師寺長忠の名がみられ、香西が近くにいたことがわかる。

元長を討ったあと、晴元政権はつかの間の安定をみせたが、一向一揆の激化、高国残党の蜂起がつづくと、阿波の千熊丸を召して事態の収拾を目論んだ。この晴 元の身勝手さは驚くばかりだが、当時の大名というものは家来の受けた痛みに思いをはせるということはなかったようである。かくして天文二年、千熊丸は大坂 に上陸し、本願寺と晴元の間の講和を仲介した。そして、このころ元服をしたようで利長(のち範長、長慶)と改めている。

長慶らが河内で戦っているとき、大和に侵攻した松永久秀はたちまちのうちに大和を征圧して、大和も三好氏の支配下に入った。
[97]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 06時37分15秒 ) パスワード

高槻
三好氏の家臣・松永氏 松永貞徳の祖父は入江政重五郎

松永氏のルーツ - nifty
「高槻城」駿河国の入江氏が足利尊氏の命により領する ・1541 城主:入江政重五郎は乱で殺された ・松永貞徳の祖父 ・1569 入江晴景は織田信長に誅された ・1571 城主は高山氏に

・松永弾正久秀の母の墓地あり(光徳寺)
 ・1572-8-12 歿 法名:★林禅尼
 ・林羅山が松永氏に詳しい
※伊藤博文と林羅山
 林家は京都の町人林信時の子の出身である林羅山(本名:林信勝)を祖とする朱子学派儒学者一門。「りんけ」

越智宿禰姓 拝志(林)・伊藤系図 
【世系】拝志(林)氏は越智姓河野氏より出づ

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 越智氏【2】


[98]笹井さんからのコメント(2012年11月23日 06時42分10秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑河野氏で検索
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 越智氏【2】が出て、河野氏をみれば、清和源氏頼清流伊予村上氏が出る。河野氏の嫡流は室町期以降へをクリック

清和源氏頼清流伊予村上氏をみれば、村上氏・越智氏・河野氏・村上源氏・北畠のからまりがみられる。

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 清和源氏頼清流【1】
【清和源氏頼清流】源頼義の次弟、頼清にはじまる。 子孫は信濃国に繁延して信濃源氏となる。 また村上御厨を中心として地域に栄えた一族は村上党あるいは村上氏族と呼ばれる。 慶應義塾の創立者福沢諭吉は、村上仲清の後裔

源頼義は★源義家・★源義光らの父(南部・小笠原・津軽・武田・三好らへつづくのだろう)

[99]笹井さんからのコメント(2012年12月02日 05時04分48秒 ) パスワード

義光流ではなく、家紋も違うけど、宇多源氏の方で、前にしらべたことがあったので書きますが
『笹井』
福島大神宮宮司は笹井。西園寺実氏の子孫という。

佐々木と笹井 高岡は 通じているらしい。

宇多天皇敦美親王の系は 
道長と結びついたほうは 貴族になっていき、京極と結びついたほうは武士化した。京極は佐々木⇔京極道誉⇔佐々木道誉(高氏たかうじ)★高槻の城跡美術館で展示されていたものに、佐々木道誉は笹井と書いてあった→多田院に関係している。

武士化したほうは 近江源氏・宇多源氏・佐々木源氏と呼ばれるが同じ。


[100]笹井さんからのコメント(2012年12月02日 05時10分03秒 ) パスワード

【出雲 宇多源氏佐々木系譜】
【出自】皇別  【始祖】源雅信朝臣

【世系】出雲源氏は宇多天皇の皇子敦實親王の御子雅信王に出づ。 後裔佐々木五郎源★義清が承久兵乱の後、隠岐・出雲を賜りてのち両國に源氏繁榮す。

【氏神】沙沙貴神社(滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
『沙沙貴神社』
は「少名彦名神」を祀っている。
高御魂巣日神・神魂神の子とされ、酒の神とされ 常世国に行ったとされる。

沙沙貴神社は阿部氏に関係してくる。

[101]笹井さんからのコメント(2012年12月02日 05時16分14秒 ) パスワード

『佐々木』
宇多源氏である源成頼が近江佐々木庄に下向し、その孫の源経方が佐々木氏を名乗った事 に始まるとされる

秀義にいたる系は『佐々木宮神主佐々木下司兵庫助源経方―季定―『秀義』と続く。―佐々木宮神主・行定 佐々木秀義が、源頼朝の .

◎Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-五枚笹 九枚笹紋
―佐々木宮神主・行定

★佐々木秀義が、源頼朝の叔母(源為義の女子・娘婿になった)を妻に娶って、ここに 清和源氏と宇多源氏の血がひとつに流れ込み、2人の間に佐々木定綱が生まれる。元三つ星紋 
[102]笹井さんからのコメント(2012年12月02日 05時19分45秒 ) パスワード

又白石の方から見るとこちらにも宇多源氏が出ます。

白石
佐賀の白石神社で検索⇔鍋島⇔鍋島氏は宇多源氏であったものが、少弐氏との関係から藤原姓を称するようになった。(武家家伝より)
文政6年(1823年)白石鍋島家第6代鍋島直章公により創建され、祭神は白石初代邑主鍋島直弘公、白石焼の先覚者である鍋島直・公、土木治水の神・成富兵庫茂安公の御三体が合祀されています。
[103]笹井さんからのコメント(2012年12月02日 05時48分52秒 ) パスワード

【出雲 宇多源氏佐々木系譜】
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-sa.html
【出自】皇別  【始祖】源雅信朝臣
秀義のひ孫・鹽冶頼泰の母は「葛西義清の女子」
兄弟の高岡八郎左衛門 宗泰の母も「葛西義清の女子」
葛西氏はこちらにもつながりを持っている。
盛綱の子に政義がおり少し系があるけど、残念ながら義邦はついていません。
高岡は嬴姓高丘系図から笠氏が出てきた。


[104]笠井克之さんからのコメント(2012年12月02日 13時35分21秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2012年12月05日 18時14分32秒
[105]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年12月02日 16時22分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>笠井克之さん へ
 
残念ながら家紋はアテにはなりません。
岡山の笠井氏は、山陽筋の多くの笠井氏同様に周防大内家臣笠井氏と同系統の確率が高いものと思われます。
従って桓武平氏葛西氏流(後に源氏に改姓)が出自です。
大きな図書館で周防大内家臣に関する文献を調べると良いでしょう。
現代に家系を語るのは葬儀や法事の時ですが、関心のあるむきが次々と冥土に旅立つので、菩提寺などを訪ねれば手がかりも掴める可能性もあります。
[106]笹井さんからのコメント(2012年12月02日 21時39分13秒 ) パスワード

103の葛西義清は清親です。ごめんなさい。
[107]管理者 Aさんからのコメント(2012年12月03日 05時42分56秒 ) パスワード

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