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法然:
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法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。
はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖とあおがれた。「法然」は房号で、諱は「源空」(げんくう)。幼名を「勢至丸」[1]。通称「黒谷上人」、「吉水上人」とも。
謚号は、「慧光菩薩」・「華頂尊者」・「通明国師」・「天下上人無極道心者」・「光照大士」である[注釈 1][1]。
大師号は、500年遠忌の行なわれた1711年以降、50年ごとに天皇より加謚され、2011年現在「円光大師」・「東漸大師」・「慧成大師」・「弘覚大師」・「慈教大師」・「明照大師」・「和順大師」・ 「法爾大師」である[注釈 2][1]。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の「元祖」と称される。
浄土宗では、善導を「高祖」とし、法然を「元祖」と崇めている。
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、「法然上人」・「源空上人」と称し、「元祖」と位置付ける[注釈 3]。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
生涯
生い立ち
長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるま ときくに)と、母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶観覚のもとに引き取られた[2]。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。
その後天養2年(1145年)13歳(異説には15歳)で比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた[3]。久安6年(1150年)皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である[3]。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)や醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した[3]。
浄土宗の開宗 [編集]
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗をひらき、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた[3]。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。かれのもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなどしだいに勢力をひろげた[3]。
養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。
文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。
建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺の大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。
建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという[4]。
元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院「長講堂」(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻「法然上人行状絵図(国宝)」にその法要の場面が描かれている。
延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 [編集]
詳細は「承元の法難」を参照
元久元年、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって建永2年(1207年)後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。
念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった[5]。この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである[5][注釈 4]。
以下略
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親鸞
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時代背景
永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。
保元元年(1156年)7月9日、保元の乱起こる。
平治元年(1159年)12月9日、平治の乱起こる。
貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。
誕生
法界寺
承安3年(1173年)4月1日[注釈 6][注釈 7](グレゴリオ暦換算 1173年5月21日[注釈 8])に、
現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、
皇太后宮大進[注釈 9] 日野有範(ありのり)の長男として誕生する[注釈 10]。
母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ))[1]とされる。
幼名は、「松若磨[2]」、「松若丸[3]」、「十八公麿[4]」。
治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。
治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。
得度
青蓮院(宸殿)
治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。
伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。
出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。
六角夢告 [編集]
建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 11]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
意訳 - 「修行者が前世の因縁によって[注釈 12]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。[5]」
という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、
「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」
の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵[注釈 13]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[注釈 14]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[6]。
入門
法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空」(しゃっくう)[注釈 15] の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。
『御伝鈔』には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西本願寺本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。)
元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。
この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、「善信」(ぜんしん)[注釈 16] と名告ることを許される。
改名について 善信は、法名ではなく、房号とする推論[7]。 「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。 親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。 唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に、「善信房」の房号が見て取れる。
妻帯
妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。
法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘・玉日と京都で結婚したという説。
法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族・三善為教の娘・恵信尼と京都で結婚したという説。
越後配流時に、豪族・三善為教の娘、恵信尼と越後で結婚したとする説。
京都在所時に、玉日と結婚後に、越後に配流され、なんらかの理由で、恵信尼と越後で再婚したとする説。 再婚ではなく、玉日と恵信尼は同一人物とする説。
当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子[8]をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説[注釈 17]、善鸞を長男とする説もある。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年02月09日 06時43分52秒 ) | パスワード |
朝日新聞の記事より
梅原猛の話:
法然は15歳の時、父を闇討ちで殺されたと伝記にあるそうです。
たぶん、母も一緒に殺された可能性がある。
法然の父母は渡来系の秦氏の出身と考えられ
それゆえに差別を受けていたとも考えられる。
法然は誰でも往生できることを強調しているので
この教えで
父母を極楽に送りたかったのだろう。
親鸞は法然の弟子で
親鸞の母とされる吉光女は頼朝の父、義朝の娘だった
という話がある。
親鸞の玄孫である存覚の話によれば
親鸞の出家は平氏への謀議が発覚した鹿ヶ谷の変の頃とされる。
当時、権力を握っていた平氏は源氏にかかわる人間を厳しく追求していたので
親鸞が源氏の大将義朝の孫であるとすると
出家する以外、生きる道がなかった可能性が高い。
また義朝は自分の父をはじめ、多くの人々を殺した武将でもあるので
親鸞の教えの特徴としての悪の自覚をあげることができるが
それは自らに流れる、この祖父の血の自覚ゆえ、ではないか?
「親鸞は頼朝の甥だった」と考えれば、親鸞をめぐるいくつもの謎がきれいに解けてくる。
以上
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年02月09日 06時46分19秒 ) | パスワード |
五木寛之:
法然は「やさしく」
親鸞は「深く」
蓮如は「広く」日本の仏教と信仰の形を変えた。
以上
[5] | 平 戢さんからのコメント(2012年03月01日 07時07分17秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2012年03月01日 07時09分19秒
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