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 投稿番号:101260 投稿日:2011年10月19日 12時01分02秒  パスワード
 お名前:盛さんの代理
平 基盛子孫について

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

盛さんからのコメント(2011年10月15日 12時41分19秒 )を新たにスレッドを立てました。


むかし父から先祖をたどっていくとすごく遠い所で平基盛に行きつくと言われたことがあるのですが子孫は途絶えずに続いていたのでしょうか?


[1]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時05分42秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月15日 19時17分18秒 )


牛屎氏より 家紋・向かい蝶
平基盛の子信基が「保元の乱」の軍功で薩摩国牛屎院を賜わり、・・・子孫・太秦氏を称し・・・武家家伝の系図では元兼という人は、小松内大臣平重盛の曾孫にあたるといい、牛屎を称した正蘇は平姓に改めている。
この系が後の子孫につながっている。

人名力:日本姓氏語源辞典 ウシノ〜ウズコ
石見では、うしやま条 に 屎をきらって改姓したという。

又 系はずれていくが、幕末活躍した小松帯脇は重盛子孫についている。重盛の号にちなんで小松とした。禰寝氏嫡流。

太秦とは 島津氏も 太秦に系を持っている。

余り詳しくないのでネット検索したものと、過去のスレッドから移しました。
すると


平信基子孫:平姓肥後氏+多禰氏:祁答院というのがありました。(^<>^)
すでにしらべた人がいたのですね。
でも 勉強になってよかったです。higoさんという方の家紋が向かい蝶で牛屎氏と同じなのですね。
[2]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時07分48秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月16日 05時21分26秒 )


余りきっちりと年齢をあわせるのは昔のことはむずかしいのでは?と私は思います。那須氏など源平の頃「唐」の年号を使っていたそうで・・・

平信基子孫:平姓肥後氏+多禰氏:祁答院の方に信基のことが書いてあるようで・・・武家家伝牛屎氏では平姓信基と同名の秦の信基がスライドしてきて、さらに子孫元兼からつながってきている。
[3]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時09分06秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月16日 05時37分32秒 )



昔の人は養子など入れるにも血筋から入れたりしたのは田舎では当たり前のようにしていたと思います。

そこで何故秦氏から養子が・・・というところなどは、笠氏と平氏で考えてみたことがあるのですが、要するに瀛姓高丘というのがあり、昔女子が百済武王寧を生む。子孫・若狭彦神社の中におり「笠氏」。
[4]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時10分10秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月16日 05時55分00秒 )


笠から千葉氏。
武寧王子孫の中に桓武平氏の大本・桓武天皇の母になる人がおり、清和源氏の大本・清和天皇に関して、藤原北家・冬嗣の子・長良の女子・高子は「清和天皇」に嫁し、子孫「清和源氏」。

千葉上総系図に「村岡次郎忠頼で検索すると、卜部家系図総覧以下の表記がみられた。

卜部は吉田。藤原へ。

又 「皇室と壱岐氏」で検索すると、近世の天皇家とのつながりが書いてあり、壱岐氏は卜部。

島津氏は「秦始皇帝」子孫につくが、始皇帝にいたるご先祖様の同父母兄弟に瀛姓高丘の先祖がいる。

今は昔の大陸のことは国としてとらえるが、族 として とらえると、牛屎・種子島・肥後・秦・藤原・卜部の関係もすんなりとわかるのでは・・・

「平信基子孫:平姓肥後氏+多禰氏:祁答院」最後のほうの肥後さんのコメント

肥後氏の祖は、平安末期の公卿、藤原北家勧修寺流、正二位権大納言藤原(吉田)経房卿の二男、肥後守藤原時経の子、時信(改名して信基)です。
その辺りは、公卿補任、国司体系、蔵人補任で確認出来ます。
[5]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時10分45秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月16日 14時16分56秒 )



「香淳皇后」は「島津」の系なのだそうです。
[6]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時11分51秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月17日 22時33分23秒 )



家系図の倉庫で検索
桓武平氏流 平高望 平国香 正度 基盛 行盛 種子島時信 右下に肥後信清がいる。・・・種子島 肥後 牛屎氏は同族

日本の苗字7000傑様で検索
平時信は種子島時信(信基)。北条時政の養子。

基盛には子なく、信基が養子にはいったようですね。
[7]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時13分05秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月18日 22時48分21秒 )



失礼しました。行盛を忘れていました。

>肥後氏の祖は、平安末期の公卿、藤原北家勧修寺流、正二位権大納言藤原(吉田)経房卿の二男、肥後守藤原時経の子、時信(改名して信基)

のほうは
「平信基子孫:平姓肥後氏+多禰氏:祁答院」のスレで肥後さんのコメントがあり、当人がそこまでは調べておられるので、紹介に書いたものです。

それで 『武家家伝牛ぐつ氏』で秦氏から信基がスライドしており、『日本の苗字7000傑』で平姓と種子島氏とつながっており、『家系図の倉庫』で桓武平氏子孫・種子島・肥後氏がでるので、牛ぐつ氏も同族とみて、

では何故藤原・秦・平がからまるのだろうか?と私も藤原 秦 平のからまりを探って、藤原からのスライドもありうると31の簡単な紹介になったのですが・・・
[8]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時14分00秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月19日 02時02分11秒 )




秦・藤原・平のからまりがありうる ということから
『笠氏と平氏考察』 というスレに書いたけど

すみません。長いです。しかも、深夜。私は夜しかパソコンを使えないので・・・


贏姓 高丘系図1で検索
【贏姓 高丘氏系図】. 【始祖】高陵君参 【世系】高丘氏は、もと贏姓にして、秦王室第26代 恵文王の苗裔なり。 【歴史】秦第28代昭襄王の弟「参」が、高陵に封ぜられ「高陵君」と 称す。 よつて子孫を「高陵氏」と云ふ。

百済蓋鹵王妃 クリック→百済・扶余系図が出る。→スライドして左一番下に「若狭彦神社」がでる。→クリック→皇別・笠氏系図(笠氏の出自がわかればよしとする)→祖先の枝分かれに『桓武天皇母・高野新笠』がいる。→百済王禅廣(善光)下の↓クリック→三松系図→一番右 藤原内麻呂室は桓武天皇の子・良峯安世や藤原真夏・冬嗣を生む。清和天皇の后・高子は冬嗣の子孫。

★冬嗣は北家のはじまりで、高藤・経房につながっていく。(肥後氏はここにつないでいる。)
★甘露寺家(かんろじけ)は、藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家。家格は名家。
★吉田 経房
藤原北家勧修寺流の権右中弁・藤原光房の子。のちの甘露寺家である吉田家の祖。
★宗像社の中の卜部と系がはなれているようにみえるが、高丘からつながってくる桓武の話からみると、割と近い関係になる。

[9]スレッド移行者さんからのコメント(2011年10月19日 12時15分15秒 ) パスワード

はるかさんからのコメント(2011年10月19日 03時51分53秒 )



行盛に関しては私のミスです。すみません。

私が書いたといわれる信基については『武家家伝 牛屎氏』の引用です。で、その話が与太話か?ということについてとか肥後氏のお話とか 私はありうる。藤原 秦 平はつながっているからと思います。

そして 信基の年齢が不思議・・・ということの解明になるかも・・・と思って書いています。引用はそのままにしておきます。


そして、あの鉄砲伝来のときに出てくる種子島一族が、
系図上は平行盛の子孫になっているのにも驚かされました。

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むかし父から先祖をたどっていくとすごく遠い所で平基盛に行きつくと言われたことがあるのですが子孫は途絶えずに続いていたのでしょうか?
に目をひかれて書きましたので・・・

『埼玉苗字辞典』より
蓋・笠・笠井・葛西・石井・豊島・桓武天皇子孫 村岡五郎 ・秩父・壱岐など
(選び出した言葉については笠氏と平氏考察を見てください)

『占部家系図総覧−占部家系傳』より
桓武天皇よりの系図 (国香の子孫の方が清盛につながりますよね。)
★桓武天皇―良文(村岡五郎)―常有(占部太祖なり)占部兼安
★卜部系図
臼井常有

常有(占部太祖なり)占部兼安。
又時代がさがってからだが 『吉田』姓との通婚がある。このころはもう一般人になっているのかも知れないが・・・

『HOME−占部家系傳』より
裏伊勢と呼ばれる宗像大社がここにある。占部は宗像大社の神官であり、宗像大社の大宮司宗像家の家臣であった。浦辺・浦部姓は多いが、占部姓は珍しい。今では全国に広がっているが、その殆どがこの地域の出である。

『臼井氏−占部家系傅』『大城長者昔語り』より
朝倉市佐田の山奥に今も数件の占部氏が住んでおられる。

実はここに、占部六郎常有から30代余り続いている家がある。宗像家の最後を見届けた占部貞保の次男末保の子孫である。以下はここの一族の方々からいただいた資料にもとづいている。
・ ・・・常有は宗像に潜入した後は姓を占部・・・

桓武天皇から続く卜部氏と京都の吉田氏・吉田(藤原)経房はえっ?と思われる関係になるかも知れないが、うらの(女子の)つながりをみればわかりやすい・・・と思います。
[10]はるかさんからのコメント(2011年11月15日 21時14分32秒 ) パスワード

ウィキより抜粋
伊豆の卜部
平麻呂の子孫は後に吉田社系と平野社系に分かれ、代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務める。

吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とする・・・吉田兼煕が・・・室町を・・・吉田を家名に改めた。

江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。

[11]はるかさんからのコメント(2011年11月15日 21時33分22秒 ) パスワード

平野神社は京都北野天満宮の地続きで隣にある。
ウィキより抜粋
源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。
江戸時代の伝奏役は、代々、堂上平家の西洞院家が勤めた。
[13]篠澤さんからのコメント(2016年01月13日 22時44分11秒 ) パスワード

私の性は篠澤で家紋は向かい蝶です、まわりを円形で囲っています。
親戚が吉田性で九州。
何かご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。
祖父が原爆で亡くなりましたので系図が有りません。
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