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 投稿番号:101258 投稿日:2011年09月30日 19時18分26秒  パスワード
 お名前:はるか
服部 藤堂高虎
キーワード:五家荘 八女 中原
コメントの種類 :人物  パスワード

服部姓のことはスレッドにも良く出ていたのでもうしらべられているとは思うけど藤堂氏について・・・
隅さんへより
後にイガの地に[伊賀上野城]を築城する藤堂高虎

藤堂高虎は、服部半歳の一族である保田采女という人物に藤堂という姓を与え、後には、家老職にまで重用した。
采女の本姓は保田で伊賀の郷士であった。 また徳川家臣服部半蔵正成の甥でもあった。

福岡県八女市今山[荒人神]より
参考文献(1) 筑後郷土史研究会誌 筑後市郷土史研究会 筑後市水田17-2 筑後市郷土 資料館 鹿毛康夫「今山荒人神由来記」(八女市今山) 筑後郷土史研究会誌7号1986・3 鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌3号,1984・3 鹿毛康夫「安徳天皇伝説 下野水天宮 由来史」 同誌8号1986・9 ....
 
福岡県●八女市●今山の現人神様
源平の戦いのときに,新中納言知盛卿の家臣であった伊賀平内左衛門尉家長の話
ここでは
知盛は,家長のことばにまかせ,肥後国五箇山に籠もり,子孫広がって,やがて米良氏と改名し,その村の大名相当の身分を与えられた。とある。

家長の妻も,知盛の家臣に
「武蔵三郎左衛門尉有国の娘と名のる。

家長の妻子3人
子孫は,「服部」の名前を名乗った。
その由縁は,母方の有国が武蔵国服部を治めていたからであった。
平家が,まだ没落する前のことであったが,
源義朝が高倉院に謀反をおこしたとき,
有国が一方の大将として活躍したため,
その恩賞として武蔵国服部郷を拝領した。
そのために,「服部」の名前を子孫は用いたのであった。

簡単には伊賀氏は武家家伝によれば藤原秀郷の後裔で、鎌倉初期の朝光が伊賀守だったことから伊賀姓を呼称したとされて いる。

有国は藤原頼通の子に見える。

保田は源頼光の子孫に見え頼政がいる。又 藤原秀郷後裔湯浅氏の族とも。
頼政・・・英保 播磨国飾磨郡英保地頭 本姓中原氏/称源頼政後裔





[1]はるかさんからのコメント(2011年09月30日 19時49分33秒 ) パスワード

藤堂高虎の系は天武天皇後裔。
公卿類別譜
公卿類別譜→僧呂・皇別→皇別の一番下第9類中原朝臣
「天武天皇1品舎人親王曾孫長谷裔」
従四位 藤堂高潔・・・・ 伊勢 津藩 外様
(準譜代) 大広間 三十二万三千九百五十石
従五位 藤堂高義 ・・・・ 伊勢 久居藩 外様 柳間 五万三千石

藤堂高虎で検索
伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代であり最後の藩主。藤堂家宗家12代。



日本書紀舎人親王(中原)
・舎人親王は天武の皇子。弘宗王 姓を 中原真人と賜う。
・左京の人 中原真人 正基に 姓を 清原真人と賜う。その先は 「舎人親王の末」
・舎人親王の末から藤堂氏へ

舎人親王は「日本書記」の編纂に関与した。
「古事記」は多氏(太安万侶)が関与した。
舎人親王に関与する「中原」。
中原と多氏は同族。

平家物語を熱く語る 平清盛の子孫より
十市とは 『新撰姓氏録』は、十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載する。 ... 十市氏系図より(―事代主の子―鴨王の子―大日諸命 で 大日諸命は磯城でもある。 ... 志賀高穴穂宮のとき、稚足彦天皇の時、武恵(心は四 つ点)賀前命 の孫・仲津臣(武彌依米命の子)に詔し、多氏を負う。

中原=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫。=事代主
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年10月01日 10時17分52秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

藤堂氏は江州中原氏(舎人親王裔、旧説は崇峻天皇裔)。
治景の代に藤原に改姓、景盛の代から藤堂を称する。
 
詳細系図は、姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )を参照のこと
江州中原氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213c.htm
三井氏/藤堂氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm
[3]はるかさんからのコメント(2011年10月03日 22時37分42秒 ) パスワード

目を引いたのでいただきました。
投稿番号:100376 投稿日:2002年10月01日 22時28分49秒
 お名前:服部 明子
南朝の忠臣・楠木氏発祥の地?2つ

越中皇祖皇太神宮の神主家の子孫で密命により皇室守護の任務を負って河内の山中に子孫を残したのである。

楠木正成は皇祖皇太神宮神主家竹内宿弥正系一四代目紀竹内真麿と妻の田眼内親王(敏達天皇の皇女)から生まれた三男奈麿を祖先として分かれた楠木氏の子孫であった。
戦前に伝えられてきた様に敏達天皇の御血筋をひく橘諸兄を祖先としているのではなく、敏達天皇の皇女の御降嫁先、竹内家から出ているのというのである。

日本の苗字七千傑様 ありがとうございます。
三井氏/藤堂氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm
目を引きました。
[4]はるかさんからのコメント(2011年10月03日 22時40分14秒 ) パスワード

そして、南朝を走ったという竹内宿禰
竹内文書で検索
竹内文献・日本のピラミッド・古代史・古文書・謎・偽書・武内 ...
竹内文献とは、越中富山(富山市)の御皇城山(おみじんやまー現在の呉羽山)にあった 、皇祖皇太神宮(こうそ こうたいじんぐう)に伝わった古文書類である。 伝承によれば・・・、 ... この古文書をさして「竹内文書」といい、機器類(ママ)を「御神宝(ごじんぽう)」といい、この 総称を「竹内文献」と呼ぶ。 「竹内文書」は .... 神代皇統譜、別記古文書、竹内家系図 史料、南朝秘録、臣家古文書など、竹内文献の未公開文書をすべて網羅。 かつて越の 国、・・・・
とあり、上の皇祖皇太神宮と同じではないか?と思います。

南朝と竹内文書
古史古伝の代表みたいな竹内文献には、茨城皇祖皇太神宮のものと、南朝竹内家のものと二通りあります。
ここでは、南朝小倉宮竹内家の竹内文書の資料を掲載します。

南朝後醍醐天皇の直系・武内宿禰

竹内家には、竹内巨麿とはまったく別系で、南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。竹内巨麿は養子だったが、こちらの竹内家は、代々実子に受け継がれ、現在七十三世の竹内睦泰氏にいたっている。この南朝竹内家は、門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。巨麿の竹内家が、越中の婦負郡神明村を拠点とするのに対し、睦泰氏の竹内家は、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点としている。また全国の二上山でも祭祀を行なう。
[5]はるかさんからのコメント(2011年10月03日 23時35分30秒 ) パスワード

武内は「8孝元天皇」の皇子・または子孫から出ている。
武内は武内宿禰を現在でも世襲している。その武内宿禰から「平群」が出て、
◎歴史書編纂
第二十三世の平群子首は、天武朝に開始された『日本書紀』の編集で、臣姓伝承編集を担当した。連姓伝承担当は中臣大嶋である。以後、最初のうちは国司、のち代々郡司となったが、四十五世の平群清幹の時に、平将門の乱追討の征伐副将軍となった。配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。以後、秋田城介・平群利方、鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の「頼義が若くして出家したため、再び没落する。
」◎平群氏から源氏へ
頼義には出家前に子供がいて、その孫の平群義宗の時に男子が絶えたため、娘を清和天皇八代孫の「大内義信」に嫁がせて武内宿禰の血を伝えた。
彼は武蔵守兼守護として善政を施し、将軍・源頼朝より全国の模範とされたが、孫の伊勢伊賀守護・大内惟信は、承久の乱で後鳥羽上皇方についたため失脚した。幸い、子の惟時が宗尊親王の側近となったので復権した。しかし、それ以後は京都の方で公家として暮らすという変わった経歴だ。

武内(結婚)大内⇔平賀
・・・平賀は白石(平賀源内が白石と白石正一郎の紹介について書かれた本に書いてあった。)
又木原(平賀)・・・木原は山口で源姓。萩藩資料では清和源氏の百姓がいた。
大内は山口
大内惟信出典: フリー百科事典『ウィキペディア
氏族 河内源氏義光流、平賀氏 大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(結城秀康の叔母)。

・・・叔父の平賀朝雅・・・伊賀・伊勢の守護を継承し・・・







[6]いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時54分52秒 ) パスワード

【 六宮神社 】より

<御祭神> 天津彦根命
      応神天皇

      厄除の神
      旧 坂本村の氏神

<鎮座地> 神戸市中央区楠町3丁目4−13
六宮神社は 八宮神社に合祀しています。
拝殿正前に その旨を記した板が掛けられています。

六宮神社は現在の楠寺の前に鎮座されていましたが、
明治42年12月に 楠高等小学校の新設により 八宮神社の御社殿に合祀されました。
厄除の守護として 古くから厄年の人の参詣が絶えません。

坂本村に『皇別坂本臣紀朝臣』が御住みになっておられましたので、
坂本臣紀朝臣は 武内宿禰の御仕えさせられていました応神天皇を御祀りせられたものと伝えられています。
出雲系の神ですから 御一緒に祀られたものと思います。
旧 矢田部坂本村鎮座として奉斎。
六宮神社は 大和国高市郡の御県神社の祭神の『天津彦根命』と同じで、
これは 武内社の高市御縣神のことのようです。
紀朝臣は 中央で活躍した紀氏の一族をさしていますが、その氏族の祖先は『武内宿禰』とされています。
紀の国の紀氏は紀直であったが、後に 朝臣となっています。
また 『紀直の祖神を素戔嗚尊』とする秘密系図が日前国縣神宮の紀氏に伝わっていると言われています。

[7]いちごさんからのコメント(2011年10月04日 22時05分48秒 ) パスワード

スサノオー大国主ー事代主ー中原
私がうすうす感じている事代主・・・中原・・・藤原。そして源氏・平氏。
楠も中原。

スサノオ
||・・・・・・・・後の皇統譜へ
アマテラス

スサノオ子孫
||・・・・・・・・武内宿禰
天皇子孫
[8]はるかさんからのコメント(2011年10月04日 23時58分38秒 ) パスワード

新選姓氏録 皇別
70 左京 皇別   坂本朝臣 朝臣 紀朝臣同祖 紀角宿祢男白城宿祢之後也     162
71 左京 皇別   林朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 武内宿祢之後也   日本紀合    162

ネットより

13.紀氏考
1)はじめに
 紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。
宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。
この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。
これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。
これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。

ネットより天道根命で検索
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。
日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し、國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。

その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。
天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。




[9]はるかさんからのコメント(2011年10月05日 22時16分53秒 ) パスワード

埼玉県苗字辞典より
田口 タグチ 梁書・百済伝に「邑を檐魯と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と。クダラのクは大きなの意味、ダラは邑・郡県の意味で、クダラとは大ノ邑・大ノ国と云う。★大、太、多はタと読まれ田の佳字を用いる。口は人の数で、大族の集落を田口と称す。オオ条参照。大和国高市郡田口村(橿原市田中町・和田町附近)は百済族蘇我氏一族の居住地なり。古代氏族系譜に★「武内宿祢―蘇我石川(蘇我臣)―満智―韓子―高麗―鳥―田口川堀(田口臣蝙蝠)―島古(高市郡少領)―田口麻呂(田口朝臣)」と。姓氏録・左京皇別に「田口朝臣。石川朝臣と同祖、武内宿祢大臣の後也。蝙蝠臣・推古天皇の御世、大和国高市郡田口村に家す、仍りて田口臣と号すと。日本紀に漏れる」と見ゆ。此氏は武蔵国、常陸国、羽後国に多く存す。○群馬県邑楽郡明和町六十戸、佐波郡玉村町四十五戸、館林市百十戸、高崎市二百五十戸。○茨城県那珂郡那珂町三十七戸、東茨城郡茨城町七十二戸、大洗町七十戸、西茨城郡岩間町四十八戸、鹿島郡鉾田町七十六戸、旭村六十六戸、大洋村三十五戸、水戸市二百戸。○長野県小県郡東部町四十戸。○秋田県由利郡岩城町九十二戸、仙北郡角館町九十八戸、太田町四十戸、千畑町六十戸、田沢湖町百九十戸、中仙町九十戸、西仙北町七十三戸、六郷町三十五戸、西木村四十戸、河辺郡河辺町百三十八戸、山本郡二ツ井町五十三戸、本荘市百四十七戸、大曲市百五十六戸。○宮城県登米郡南方町三十八戸。○岩手県二戸郡浄法寺町百十三戸、二戸市百五十戸あり。

阿 ア 阿(あ)は、阿(お)と読まれ、熊谷市に阿部(おべ)さんがいる。古語に、小は「を」、大は「お」と書かれた。埼玉郡の古文書に大沢氏を小沢、大島氏を小島と誤って書かれている。また、信濃国の大日方(おひなた)氏、大和(おわ)氏、下野国の大貫(おぬき)氏、出雲国の大芦(おあし)氏等あり。すなわち、ア、オ、オオは同じにて、大野は青野(おおの、あおの)、大鳥は青鳥(おおとり、あおとり)と書き、鎌倉妙本寺文書に同郡大船村を粟船(アオフナと註す)と書いてある。

梁書百済伝に「邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。★百済のクはオ(阿)、オオ(大)で、ダラは檐魯で、クダラとは大邑、大国と云う。★大ノ国は後の百済、及び加耶地方の総称で、大加耶国(おおかや)、安羅国(あら)と称し、此の地より渡来した集団は、大野、安部、阿部(あべ)等を名乗った。また、阿(あ、お)はクマと読まれて、熊ノ国とも称し、熊野、熊谷等を名乗った。阿部、安羅、出雲、宇津味、大、百済、熊、越等の各条参照せよ。

かなり時代を下がった話だが、明の頃だから季氏朝鮮と滅んだ高句麗の遺臣の話だけど、改姓・王氏は左右に線を足し田にし、上に線を足し全にし、点を足して玉にした。そうで、韓流テレビドラマだがやっていた。


[10]はるかさんからのコメント(2011年10月05日 22時43分58秒 ) パスワード

坂本
昔は韓半島の方が大陸の文化が早く伝わっていた。嬴姓高丘系図からは百済王と結婚する人がおり、尾張氏には嬴津世襲姫と(世は扶余の余らしい)百済に関与するらしい人がいた。

北岳神社
熊本県球磨郡にある神社で、別名・坂本大明神という。日枝神社の末社。AD810年ごろの創建。日枝神社は平安時代に漢王室子孫三津首・別名最澄が大和の三輪神社を勧請したもの。

最澄の先祖・後漢献帝の実母は王氏。霊帝の実母も王氏。

昔の話は日本と韓半島の歴史を考えながらたどらないとわからないようだ。
又川辺川の名からもでるが、鹿児島河辺の地(建部の地・坊津)は平氏の本拠地だったそうだ。

多氏がまつる神社では「八剱神社」は
「出雲速蛇建雄命」(神像横刀に座す。)
をまつり 石上神宮では壇上に祀られる。  
「八剱神社」で、もうひとつ あるはなしは
尾張熱田神宮の宮司・武内氏は 女子が 「源頼朝」をうんだので、職を娘婿の南家藤原氏に譲り、自身は 神宮を出て 伊豆あたりに 「八剱神社」を創建した。

持統天皇
父は天智天皇(中大兄皇子)、
母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、
母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。
父母を同じくする姉に大田皇女がいた。
遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、
美濃は当時三野とも書いた。

美野は 岐阜のうちでもあり、岐阜は 「」のことだった。大陸の岐山は周がおこった所。


[11]はるかさんからのコメント(2011年10月05日 23時15分52秒 ) パスワード

★大和・多坐弥志理都比古神社
天平2年大和国大税帳
多神宮 注進状
 大宮 二座  
  ★珍子賢津日霊神尊  皇像瓊玉に坐す。
   天祖 聖津日霊神尊 神物円鏡に座す。
 若宮 四坐
  彦皇子神社
  皇孫 日火霊神尊
  姫皇子神社
  天媛日火霊神尊
 樹森神社
  瓊玉戈神尊
 日月神社
  火瓊神尊
 若宮二社
  子部神社  皇弟 ★天火子日命  神像統玉に座す。
  子部神社  皇弟 天火子根命  同上
 己上は 意富郷にあり、多朝臣 禰宜たり。★肥直 祝部たり。
 外宮 
  日原神社
   天神 ★高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
   皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
 己上神社   ★川辺郷にあり。★肥直 禰宜たり。
  若宮一座
   天孫 ★国照火明命 神像竹箸に座す。
 摂社一座                               (官社に非ず)★八剱神社
          ★出雲速蛇建雄命  神像横刀に座主す。
 ★己上神社 は ★川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。

[12]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 09時20分45秒 ) パスワード

武内は曽我倉山田石川麻呂であり、これは「田中」から出る。
佐田と同族。

越中にある「皇祖皇大神宮」。越中の国府は、高岡市伏木にあった。 現在の勝興寺の附近が国府跡とされており、浄土真宗の名刹。

平山御稜違い山形紋(鷲尾墳墓出土)と王冠 - 浮世よいしょと より
鷲尾墳墓は福岡県朝倉郡夜須町にある。
平山御稜違い山形紋は出雲文字で伊勢祝詞につづられています。

鷲尾貞子は平清盛の女系の子孫。
鷲尾(佐田・中原)は・西園寺実氏との間の子が両院並立のもとになる天皇を生む。

中原は事代主・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子孫。

ネットより
今天子の神社が福岡県朝倉郡夜須(現)筑前町篠隈の児島宮とわかった。

児島範長と紀家弘と母 ...
東郷胤時甥 子・児島高徳
紀家弘の女は足利尊氏の男に嫁し、三代将軍足利足利義満となる。
高徳とはいとこにあたる。
紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系

紀家弘は岩清水八幡宮家
岩清水八幡宮は姫野さんの「祖父母と探した大分大在の墓」で、高岡姫野の地が出た。
又 佐田・田中 も岩清水八幡宮に関与する。


[13]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時16分29秒 ) パスワード

天御中主尊から神武の頃まで・・ほぼ 母系が優勢で「有」姓に含まれる人が藩居していた。例・・・殷の有易の子孫・嬴民。遥民。周の嫁方・有○氏。周武の女子と舜の子孫から田(陳)国。舜は有虞氏。

神武には海神族の血が入っている。神武は「高姓」「王姓」。
祖先が兄弟の枝分かれ同士で結婚。融和。

母系の人がその後后になる。

崇神天皇は漢の高祖の子孫。または 漢の鉄官の子孫という。
しかし、う条 下村条 は 漢士の末。光武帝の子孫で少昊金天氏とする。
劉邦の父は「高姓」

鷲尾は中原で佐田(サダ)金姓で尾方と同族。

さらに 応神天皇の頃 漢王室子孫が来て、後 からまる。坂上一族は「百済氏=東漢氏=和漢氏」。

これも 有姓の続き。

桓武天皇の頃 百済・ブネイ王子孫の女子が后。ブネイ王は嬴姓・高丘と百済王の間の子。和徳は崇神天皇が百済にいたとき生ませた子らしい。

南朝後醍醐天皇の血を受けているのが「児島宮」。
足利義満には
貞成親王の『看文御記』(かんもんぎょき)
1.貞成親王は40歳まで、菊亭左大臣家に匿姓(氏素性を隠す)暮らしを続け、後に伏見宮家に参候(居候入り)した。
2.父である筈の栄仁親王の事を、「御所様」(御主人様)と呼んでいる。
3.自分よりも十歳も年下の「弟」治仁王の事を、栄仁親王の「一の宮」(第1皇子)、「新御所様」(新御主人様)と書き、席次も自分よりも「上座」に迎えている。
ことより 北朝は足利天皇になった。という。といううわさがある。

児島範長と紀家弘と母 ... 東郷胤時甥 子児島高徳 紀家弘の女は足利尊氏の男に嫁し、三代将軍足利足利義満となる。
高徳とはいとこにあたる。
紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系

紀家弘は岩清水八幡宮家
岩清水八幡宮は姫野さんの祖父母と探した大分大在の墓で、高岡姫野の地が出た。
又 佐田も岩清水八幡宮に関与する。





[14]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時20分08秒 ) パスワード

田辺史の祖思 須美・和徳が仁徳朝に百済から渡来したとき、上毛野公竹葉瀬の子孫であると主張 したため混入した。和徳という意味を辞書で見れば「やまと・大養徳」のち日本になる。

不比等は田辺史大隅の家で育った 田辺史氏は上毛野氏同族と称す。
車持氏も上毛野氏族。

後 桓武天皇后の高野新笠と和徳は同族なので、つまり祖先は嬴姓・高丘の血がはいる百済。上毛野氏・・・宇都宮、下家野氏・・・坂本で崇神天皇の子孫。
微妙に高姓から金姓・紀姓にかわる。
しかし 香淳皇后に秦氏、天皇に壱岐氏(卜部)・・・佐田大中臣・卜部でもある。遠祖は高天原族でつながるので、ある時点より先は 族に分解するとわかりやすいし、親子でも 子供は本当にこの父母の子なのかわからないし、又わが孫と信じられるのは娘の子しかないのに、少し枝分かれした先ならあれは違う これは違うといっていたら憶に近い日本人にはいっぱいちがう人たちが出来る。万民のシンボルの天皇なのだからみんなの天皇。平氏もその血をわけておりそれぞれ家で語り伝えてきたことがあろうし、それが真実だろう。
私の父の出所の高岡から婿養子に入った平川の母は川向こうの平家城があった集落から来ており、尾方。平氏だと平川のおばが教えてくれたけど、郡誌だかに 「信じがたし」と書いてあった。他の人がいうことでもないと思うけど・・・

[15]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時22分57秒 ) パスワード

高姓には4つのもとがある。
1)羌姓。神農氏(炎帝・赤帝)の子孫。 西周も そうだ。黄帝も羌姓。
2)父の字から出る。
3)他の族から改姓
・魏の 鮮卑族。 有楼氏が 高氏に 改姓。
・五胡16国の 燕 皇帝 慕容氏は 自分で 高阳氏の末という。遂に高姓に変えた。
・南北朝、有之氏・和徐氏・改姓高氏。
・北●文宣帝 高名詳 元 鮮卑族。
・他にいた 重臣 徐姓も 高姓へ
4)“高”→高●氏
例えば 高●氏、高堂氏、高阳氏、高陵氏 等。

分布
源地  河南省
       春秋の頃、秦。
       渤海王太守 高洪定
       南北朝 渤海の人 高
       高洋称帝

       中国史上 高姓 称 帝王 者 14人。
[16]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時24分51秒 ) パスワード

ウイキより
高(こう、中国語ピンイン
高夷族
『呂氏春秋』勿躬篇によれば「高元作室」とあり、高元なる人物が黄帝のために家屋を発明し、人類史上で穴居時代を終了させた貢献者であると伝えられている。

姜姓
姜姓より出、西周が天下を平定した際に斉王となった姜尚(太公望)の六世孫文公(姜赤)の息子が高(今の河南省禹州市の西南)に封ぜられ「公子高」と名乗ったのが高姓の始まりだという。
この末裔である高洪が207年に渤海太守となって、渤海修県(現・河北省景県)におり、当時の望族であり、末裔の多さから渤海を郡号とした。(ふかみ)

他いろいろ
[17]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時26分33秒 ) パスワード

紀元2600年祭と申叔舟 「海東諸国記」
李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。

注 
前771年. ・西周の滅亡. ・周の東遷. 前770年. ・東周の平王の元年. ・春秋時代のはじまり 。平王48年 狭野 初めて州都を置く。
★成化7年辛卯季冬、申叔舟が序に云く、
「密かに国を見るに 東海の中におる者一にあらず。而して 日本最も久しく 且つ 大なり。その地は 黒竜江の北に始まり、わが済洲の南に至り、琉球と相接す。その勢甚だ長し。その初めに処々の保聚各自国を為る。
     
周の平王48年 その 始祖 狭野 、兵を起こして 誅討し、初めて州都を置く。大臣は各 文治を 占む。尚 中国の封建の如し。甚だしく統属せず。習性強得にして 剣槊(けんさく)に精しく、舟楫(しゅうしゅう)に慣う。我と海を隔てて相望む。之を撫するにその道を得れば即ち朝聘するに礼を以ってす。その道を失えば則ち輒ち(すなわち)肆(し)に剽窃(ひょうせつ)す。」  と。
[18]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時27分56秒 ) パスワード

契丹と北魏・北斉
★奈良時代 渤海の使者うすぼつが日本に来た。
契丹秘史謎の九鬼文書p126
明治28年(1905)、日露戦争に従軍した主計将校浜名寛祐が奉天(瀋陽)のラマ寺で発見したもの。
神話遍20章、歴史遍20章、古頌など6章、封46章からなるが、前文わずか3500字(オール漢字)の巻物。
契丹語を漢字で記録するという朝鮮の吏読や日本の万葉仮名と似た方式をとっている。

浜名は 「日韓正宗遡源」大正15年 と題して出版した。この題名の由来は日本の皇室の出自や韓国の皇室の出自やその系譜などが、この巻子によって明らかにされているということからの命名である。
「神頌叙伝」「契丹古伝」「東族古伝」ともいう。

[19]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時29分22秒 ) パスワード

ネットより
浜名によれば、『契丹古伝』はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝える。
契丹秘史によると、日本は「秋洲」と記され、「阿基氏末あきしま」と呼ばれる。
これは「阿基田と比あきひ」(あきひめ)を祖霊とするからである。
だが このあきひを祖霊とする民族は
「阿靳」あき「泱委」わい「淮委」わい「漢耳」わに「潘耶」はんや などがある。

粟末靺鞨=渤海
そして、契丹秘史の 邪摩駘記の 筆者・塢須弗(宝亀4年=773年 渤海国使として来朝した烏須勃のこと)の観察によれば、当時(奈良時代の)日本国民は この4つの民族から構成されていたという。
[20]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時31分17秒 ) パスワード

このうち阿靳あき族は 日本に渡来したあきひ 族のうち の 最大勢力であり、「秦卒旦阿祺ひ」しすなあきひ ともいう。
泱委族わいは 韓民族であり、陽委やい族は、殷や周を形成した有力民族、漢耳わに族も殷帝国を構成していた河南省の一族、潘耶はんや族は)貊倭はい族であり、扶余はい族、「淮委」わいは 濊わい族だと浜名は述べている。

これらの諸民族は、中国史では一応「塞外」の蛮族ということになっているが、かつては、中原に覇をとなえたり、唱えようとした強大な民族である。彼らは、やはり中央アジアからシルクロードを経て、中国に至り、やがて、その一部が、間宮・宗谷・津軽海峡経由・あるいは朝鮮海峡経由、さらには北は沿海州から日本海を横断、南は江南から東シナ海を渡って、それぞれ日本列島に渡来したわけである。

それが 8世紀の頃は ウスボツのような外国人使節から見れば、まだはっきりとそれぞれの民族的形状が窺い知れたということだ。
[21]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時35分37秒 ) パスワード

この頃韓流ドラマで「広開土王」や「大世宗派」などを見ている。
着ているものをよく見ると、高句麗は左手の方の襟を上にし、マッカツは右手の方の襟を上にしてきている。そんなところにも民族的形状というものは現れるものなのかもしれない。

[22]はるかさんからのコメント(2011年10月06日 12時43分52秒 ) パスワード

弁韓=濊かい・ワイは

すでに言えるごとく、夏殷の王都に鄰し、常に相親密にして、遂に箕子に付随して粛慎の地に来たれるもの。
夏殷周三代は 文事(祭礼の礼)に 冕べんを冠し、武事に弁を冠す。

後に加羅(任那)となり、やがて新羅に併合。弁辰・伽倻
★加羅から 分れでたのが 任那。このあたりには 倭人 帯方郡からおりてきた 漢王室子孫の人たちもいた。
(秦)辰韓
この中から起こった 新羅によって統一。
新羅
北方民族系高句麗王族の一派が南下し韓族を支配したのが国の始まりだという。

★岩波文庫 魏志倭人伝 p30
わが国では百済を保護国視していたのに、中国ではこれを独立国視し、かえって対立的であった新羅を附庸国視している。
★『新撰姓氏録』が新羅の祖は稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。
新羅の昔氏が殷・周の宝物を持っていた。荒木田家嫡流の人は殷・周の宝物を持って青州をたった。出雲荒神谷の剣は斉王と家来の数と同じと書いている。
その境は南にある弁韓と接しており入り組んでいた。

秦から逃れてきた亡命人の末裔と称し、そのため秦韓とも書いた。
もと6国であったが後に分かれて12国になった。

そのうちの斯盧国が後の新羅になったと言われている。
馬韓人とは言葉が異なっていたが、弁韓とは似通っていたようである。
  ↓
新羅の金(菌) 昔 朴のうち 昔が 殷 周の 宝物をもっていた。
昔は かささぎ の ことで、黒イー 白いーもかささぎ。牧羊神。これらを総合すると 殷にいきつく。
古姜の子孫・イー族は 「黒人」を優位に置く。
神農氏は「黄人」の棟梁。九鬼文書でアマテラスに対応する人は「黄人」直統。
[23]はるかさんからのコメント(2011年10月14日 23時10分07秒 ) パスワード

笠氏と平氏考察より
1)良峯氏の子孫は「藤堂高虎」の嗣子になる。丹羽長秀の子・高吉である。
華族類別録
丹羽氏系図
又 他の本で見た中に 『良峰は「劉姓」。』と書いてあった。

伊予の隅々:玉川町
2003年11月23日 ... 藤堂高吉・今治藩第2代藩主・天正7年(1579)、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男 として生まれた。 ・幼名は仙丸。 ・4歳の時、豊臣秀吉に請われて、羽柴秀長(秀吉の弟 )の養子となった。 ・その後、臣籍に下り、藤堂高虎の嗣子となった。
[35]児島宮考古学研究室さんからのコメント(2014年08月14日 11時02分41秒 ) パスワード
URL=http://9009.teacup.com/cojimagu/bbs

大分大在の墓で、高岡姫野の地につて、もっと、くわしく知りたいのです。
よろしければ、お話をしたいと思います。児島宮考古学研究室
紀家弘は岩清水八幡宮家
岩清水八幡宮は姫野さんの祖父母と探した大分大在の墓で、高岡姫野の地が出た。
又 佐田も岩清水八幡宮に関与する。

岩清水八幡宮は宇佐神宮の分社となっています。紀家弘(坊門娘が児島範長室で、その女が頼宴僧正の室となり、児島高徳が生まれた。

紀家弘の養子は児島高徳の祖父児島和田範長であり、正統
な立場で謂えば、児島高徳側にある。  小寺藤兵衛の相関図

紀家弘の姉は藤原兼綱[廣橋]の女となる) 祖父範長は紀家弘の女を室にした関係から、和田胤とか号し備後国児島郡


いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】

京都府八幡市の男山に鎮座。祭神は誉田別(ほんだわけ)尊,息長帯比売(おきながたらしひめ)命,比・(ひめ)大神。旧官幣大社。859年(貞観1)大和国大安寺僧行教が大菩薩の示現により宇佐宮から山城国男山の地に八幡神を勧請したのが始まりという。861年に京畿名神七社の一とされ,876年には山城国年米42石をあてられるなど朝廷の崇敬はあつく,かつ945年(天慶8)に上洛してきた志多良神を同宮へ吸収してその摂社にするなど鎮護国家神としての位置づけがなされている。





[43]空の青海のあをさんからのコメント(2022年07月09日 04時31分09秒 ) パスワード

八女出身の政治家・服部良一氏
   平家関連なのか
   南朝方関連なのか
   諫早の西郷氏の侍大将関連なのか
すっごく気になってました。


それで  ついでに  上げたままにしておきます。
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