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 投稿番号:101256 投稿日:2011年09月29日 18時40分40秒  パスワード
 お名前:木村 URL=http://ameblo.jp/kimumasa1106/entry-10676970098.html
阿波国の郷土誌に伝わる平氏
キーワード:平氏 木邑氏 抜け丸 木村長門守重成
コメントの種類 :人物  パスワード

源平の戦いの後に平を名乗って生きられた者と言えばここにたどり着く
平家の滅亡後に源頼朝は池の禅尼の恩義に報いた、これが平頼盛の一族が生き残れた理由であろう。また平治の乱で頼朝の父義朝は敗走の途中で相伝の家人長田父子により湯殿でだまし討ちにされその首は恩賞目当てに平清盛に差し出された。平保盛の目代として尾張に赴任した平康頼は荒れ果てた義朝の墓を修理し、頼朝はこの恩に報いて平康頼を阿波国麻植保の保司に任命した。平康頼は明法道(法律)の家柄である中原家の生まれではあったが、平家が朝廷に奏上する文書を書くには法律の知識を必要としたために今で言うお抱え弁護士とでも言うか中原家とは親密な間柄に在った様で康頼に平姓を許した。
この麻植保には 平康頼と共に二人の平を名乗る者が行動を共にし家人の鶴田氏と四人が来た。この伝承は僅かに郷土史に伝わるだけのものだが郷土では疑う者はない。当時では都を遠く離れた阿波国は遠流の地として考えられていて吉野川を挟む北岸には土御門上皇の流されていた御所という地がある。平康頼も一人では心細いので二人の平を名乗る者をさそったのであろ。二人の平もすでに源氏の世となってしまった都に留まるよりは新天地を目指して平康頼と行動を共にしたのであろう。後に二代目が承久の乱で上皇側に付いたとして保司職は没収され平康頼は三代で絶家した。世間の風は冷たく平を名乗る二人も改姓した、一人は木邑を他の一人は田室を明治の前頃まで名乗っていた。平康頼の勧請した熊野神社や玉林寺のある(旧、麻植郡)吉野川市鴨島町山路寺谷の地は現在でも木村(木邑)と田村(田室)の二家で占める。
木邑家の先代古墓は文化年中に改墓され木村大明神として祀られたが、その当時本家を名乗る者は居なかった様で、話し合いで当家が本家となったが、熊野神社の脇にあり元々の本家の屋敷ではあった様である。本家が絶えたのならば代わりの者が本家を名乗っていたであろうが、誰も本家を名乗らなかったのは本家が家を譲って何処かへ行ってしまったと言う事であろうか。その当家には戦後まで反りのない刀が伝わっていた。平将門の乱頃から反りのある刀が使われたようで、反りのない刀はそれ以前になる。平家に伝わっていた名刀抜け丸も反りのない直刀ではなかったか。
 驚いたことに大塩平八郎の乱に関わる者に天保二辛卯初秋建焉 木邑権右衛門(註3)と言う者が居て同じ木邑姓であった様だ。木邑権右衛門は大阪夏の陣で討ち死にをした木村長門守重成に繋がると言われる。
(註3) 後述のように、これら無縁墓碑が悉く失われた現在、再び実物を見ることができないので、後考のため、この墓碑の正面の文字を一応書き留めておく。

詳しくは下記のコメントに記載
http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/a72b053d5f24213bab4e427cf0eb6d29

附 釈淨円墓碑破却の顛末
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/ajiro1.htm

[1]木邑さんからのコメント(2012年07月12日 09時21分48秒 ) パスワード
URL=http://ameblo.jp/kimumasa1106/entry-11035806825.html











             丸に抱き茗荷(平家の家紋)
阿波麻殖保の平の墓
 曽て平治の乱に父源義朝は敗れ十三歳の頼朝は武門の習いとして殺される定めに在ったが、平頼盛の母の池の禅尼に命を助けられ伊豆国への流罪となった。八歳の今若、六歳の乙若、そしてまだ乳飲み子の牛若も殺すわけにはいかなかった。そのかわり清盛は、当時評判の美人だった常盤を手に入れました。乱を鎮圧した今となっては、源氏に対してこれ以上追い打ちをかける必要もないと思ったのかも知れません。首謀者である義朝はすでに誅され、乱には一応の決着がつきました。保元の乱で大きな打撃を受けた源氏は、平治の乱でほとんど壊滅状態に陥った。かたや平氏はこの後我が世の春を謳歌するのである。



















              常磐御前(歌川国芳)


















   源頼朝像

 治承五年(1181年)二月に清盛が死ぬと、年号が改元されて養和元年となった。鎌倉の源頼朝は関東八州及び、遠江・駿河を支配下に収め、押しも押されもしない源氏の総大将に成長していた。それから五年間、近畿・北陸・中部地方において、平氏と源氏の激しい戦いがくり返され、寿永四年(1186年)三月二十四日、壇ノ浦の合戦を最後に平家は滅んだ。この日を最後に寿永は四年で終わり、同時に四百年続いた平安時代も終わった。
平家が滅びるとその夏、頼朝は佐々木経高を阿波・淡路・土佐の三カ国守護識に任じた。佐々木氏は、もと近江国の宇多源氏で、経高は宇治川の先陣で有名な佐々木四郎高綱の実兄である。経高は名西郡石井の鳥坂に城を築いて嫡男の高重を守護代として置き、自らは京にいた。
 頼朝はまた、文治2年(1186年)閏七月二十二日に池の禅尼や父義朝の墓を弔った平康頼の恩義に報いる為、平康頼を阿波麻殖保(あわおえほ)の保司に任じ、平を名乗る二人の者が康頼と行動を共にして、家人の鶴田氏を加えて四人が麻殖保に下向した。
保司庁を始め、鼓楼、六坊寺を建て、熊野神社を勧請し、康頼が後白河上皇から賜与された閻浮壇金の小さな千手観音を安置する寺として慈眼山玉林寺を建立し、四国山脈である前山の峠近くには鬼界山補陀洛寺が建てられ、峠に至る途中には子院の十二坊が建てられ、鬼界ヶ島で亡くなった俊寛を弔い、源平の戦いで亡くなった者を源平の区別無く供養したと云われる。麻殖保は天領で租税は朝廷の内蔵寮に納められていた。諸官庁の庁舎などの建設は宮廷の建築・土木・修理を一手にひきうけた木工寮の木工頭の指揮で建設された。

















                  後鳥羽院像
承久の乱
 承久3年(1221年)5月14日後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」と称して集めた諸国の武士1700人あまりに対して,北條義時を討てという命令を出しました.何も知らされていなかった武士は一瞬とまどいましたが,その多くが上皇につくと約束しました.
 承久の乱は天地返しの戦いと呼ぶべきであろう、関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いと言われても、どちらが勝っていたとしてもただ幕府が代わっていただけに過ぎない。
承久元年(1219年)1月、三代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐する事と成った。朝廷と幕府の二頭政治の状態にあったが緊張は次第に高まり、後鳥羽上皇は倒幕の意志を固めた。
京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。
按察使・葉室光親(はむろみつちか。藤原光親)は早くに気づいて上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。
 鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた声明を出し、動揺は鎮まった。
北条政子が鎌倉武士を前に、「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した。
「みなさん,心を一つにして聞いてください.これは私の最後の言葉です.頼朝様が朝敵をほろぼし関東に武士の政権を創ってから後,あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えました.平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでしたが,京都へ行って無理に働かされることもなく,幸福な生活をおくれるようになりました.それもこれもすべては頼朝様のお陰です.そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです.しかし,今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし,私達を滅ぼそうとしている者があらわれました.名を惜しむ者は藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り,三代将軍の恩に報いてほしい.もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい」
 政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向したが、道々で徐々に兵力を増し最終的には十九万騎に膨れ上がった。
 上皇方は鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。圧倒的な勢力差により京方は総崩れになり大敗を喫した。敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。
後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。
 葉室光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂で処刑される。処刑の直前に出家して西親と号し、武田信光に斬首された。北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという。
 葉室宗行 は一門の葉室光親と同じく実務官として活躍した。上皇に『貞観政要』を講じたという。承久の乱にも深く関与し、乱後幕府に捕えられる。鎌倉に護送される途中駿河国で斬られる。死後700年以上経った1927年(昭和2年)12月に昭和天皇により従二位が贈られている。
 承久の乱では平保盛の子の平保教(内蔵頭・木工頭・左兵衛佐)が石清水八幡で自害をしている。保教は後鳥羽院の近臣である葉室宗行の養女を室としている。藤原定家の「明月記」の人物索引によると家が隣にあったようで定家が保教を養育していたこともあったようです。平保教の第二子鞠足の名前も見えます。
阿波国天領麻殖保の二人の平と関連づける確証は得られていない。
 阿波国では阿波守護職で佐々木経高の嫡男で守護代あった高重が阿波兵六百人をひきいて、父のひきいていた淡路の兵らと合流したが、十九万とも云われる圧倒的な鎌倉の大軍を支える事ができず、佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の兵もほとんど阿波へ帰らず、手紙などの証拠となるものは戦利品として押収されていた様である。
 阿波国に対しては、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り、ほとんど兵の居ない佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城は炎上し、留守を守っていた経高の二男高兼は城をすてて、名西郡神山町の山中鬼篭野村(おろのむら)へ逃げた。しかし小笠原氏は高兼の生存することを許さなかったため、高兼は一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り、腹を切って自害した。この場所は弓折の地名として今に残る。この様に上皇方に対する処分は厳しいもので、かっての阿波守護職、近江源氏佐々木氏の家臣は百姓となる事でかろうじて生存を許された。

 一方阿波麻殖保では平康頼の二代目清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代って小笠原長清の嫡男、太郎長経が阿波の守護代及び、麻殖保の地頭に補任された。それまでは朝敵と成った者で生き延びた者は居なかったことから、清基は上皇方に加わる事を固めていた様であるが、幕府の対応が速く上皇方が不利になったが、まだ麻植保の兵を動かしてはいなかった事から、言い逃れが出来ると考えていた様である。平康頼の二代目清基は保司職を解任されたのを不服として無実を鎌倉に訴えたが、長経が証拠として提出した書状の中に、清基から佐々木経高に出した手紙があり軍に加わる内容が書かれていたために動かぬ証拠となってしまった様である。処分は厳しいものであったのだろう、二代目清基が再び麻殖保に帰って来たとの記録はない。
思えば父康頼と将軍頼朝との信頼関係も最早遠く過ぎ去った昔のこと。将軍家が滅びた後、幕府は執権の北条氏が実権をにぎり、頼朝の忠臣達を追放しえ、北条氏の天下になっていた事も、清基には不利であった。
その後康頼の三代目俊職は官職を失って僅かに内左右衛門尉には任ぜられていた様だが、食わんが為に賊徒の輩と徒党を組み伊具四郎という者を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の諏訪刑部左衛門は斬首となり牧左衛門と俊職は祖父の康頼が流されていた鬼界が島に流罪となり消息を絶った。俊職のおじ康利は森藤を引き払い越前国の縁者を頼って彼の地へ移って行き、出家して深嶺院に入り、康利の子の康綱も出家して深嶺院を浄土真宗心光山常照寺と改め権大僧都となったと言う。子孫は代々僧となった。

 承久の乱では平保盛の子の平保教(内蔵頭・木工頭・左兵衛佐)が石清水八幡で自害をしているが、平康頼と行動を共にした麻殖保で平を名乗っていた二人の者のどちらかとの関連を裏付ける確証は得られていない。
麻殖保の平も流鏑馬(やぶさめ)揃いをすると言うので京に行ったのだろうが、承久の乱が起こってしまい上皇方に加わらざるを得なかったのだろう。平清盛の轍を踏まない様に、二度と立ち上がる事の無いように、麻殖保の二人の平に対しても処分は厳しいものであった。佐々木氏と同様に麻殖保で平を名乗っていた二人の者も百姓となる事で辛うじて一族の生存だけは許された様だが、そのまま平を名乗って行くことは許されなかった、平の一人は木邑を名乗り、一人は田室を名乗り百姓となった。武士の情けとして二人の平が百姓になったことは小笠原氏及び鎌倉幕府によって伏せられ麻殖保では公然の秘密とされてきたのであろう。また百姓が平の二家では祖先を辱める事になると考え子孫にさえも詳しくは伝えず、この上ない恥としていたのであろう。ただ、元は平であったと言うだけで詳しくは何も伝わらない。

木邑家 
 木邑家の先代古墓は文化年中に改墓され木邑大明神として祀られたが、一番古い時代の墓だけは残されて居る様だ。平康頼の勧請した熊野権現の西側の細い谷を隔てた山の斜面の奥の方に誰の目にも触れることなくひっそりと墓は立って居る。墓と言っても縦長に割れただけの石が目印の様にただ立って居るだけで文字も刻まれてはいない。あるものは傾きあるものは倒れ長年の風雪を物語っている。木邑家の先祖だとして祀られて来たが元は平だと言われているのに、立派な五輪の塔ではなく、余りにもみすぼらしいこの墓とは結びつかず、先代古墓は改墓されて、何故この百姓の墓の様なものが大切に残されたのかを気付かなかった。歴史を学び承久の乱を知らなければ、これが平の墓であるなどと言っても誰が理解を出来るであろうか。敗軍の将は、以て勇を言うべからず、亡国の大夫は、以て存を図るべからず、歴史の流れにただ逍遙として跡形も残さず消え去ったのであろう、子孫にさえも何も語ることなくに。阿波麻殖保の平は今もここに眠っている。
 平康頼の時代に建てられた建物は戦国時代に長宗我部の兵火に総て焼かれて元は熊野権現の近くにあった玉林寺だけがこの近くに再建された。前山の鬼界山補陀洛寺及び子院十二坊も焼かれ、山だけが木邑家に残され峠に至までよその山を踏まずに登れたと言う。
 文化年中に先代古墓が木邑大明神として祀られたが、その当時には本家を名乗る者は居なかった様で、話し合いで当家が本家となった。元本家の家を引き継ぎこれらの墓を祀って居たので木邑家の本家とされたのだろう。
 その木邑家に、今は木村を名乗っているが、戦後まで反りのない刀が伝わっていた。平家に伝わっていた抜け丸も反りのない刀ではなかったのだろうか。まだ阿波国の中にあるのかもしれない。
 木邑の邑の文字は正確には口に巴の字の中の縦棒と下の横棒は人の字になる。
木邑家と田室家は共に丸に抱き茗荷の家紋を用いている。
平家の紋は丸に抱き茗荷であった様で、平家の末裔だと言われる長田氏も用いています。
茗荷は冥加の字にあてられたもので神仏の御加護を願うものだと言われています。
平清盛流の者は蝶紋を多用したので後世、蝶紋は清盛流の代表紋になった。
現在廃家となっている家には二枚の棟木があった、一枚目には「亨保十乙巳歳 十一月吉祥口(亨保10年=1725年)」裏面は判読出来ず、二枚目には「天保三壬辰天仲春十七鳥 四代目 茂兵衛伜 勘兵衛代(天保3年=1832年)」。二枚目の棟木によれば茂兵衛の四代目前にこの木邑家を引き継いだことになる。寛文年間より以前に元本家の家を引き継いだ様である。熊野神社のある山路寺谷には昔はたくさんの家があり建て込んでいたと言う。

 これらの墓の一番端に無住持福聖人座位と言う墓が祀られている、誰の墓だか解らない、
六親□□為菩提造立此塔、六親が居無いので菩提を造立した、の意味と取れる。
六親とは? 自分に最も近い六種の親族。父・母・兄・弟・妻・子。または、父・子・兄・ 弟・夫・婦。六戚。りくしん。四柱推命でいう六親とは、親、兄弟姉妹、祖父母、子女等を言うそうです。持福聖人と言う諡が贈られていることから真摯な態度で生きられた人の様です。我が先祖ながらなかなか出来るものではない、平康頼様を見習ったものかもしれない。

抜け丸
由来 平忠盛が六波羅池殿に於いて昼寝をしていたところ、池より大蛇が忍び寄り平忠盛を飲み込もうとしていた。すると枕元に立て掛けていた太刀が、ひとりでに鞘より抜けて平忠盛を襲おうとしていた大蛇に斬りかかった。大蛇はこの太刀に恐れをなして1度は池へ沈んでいったが、再び平忠盛を飲み込もうとして近寄ったところ、今度は鞘から抜けた太刀が大蛇の頭を切り落とし、そして太刀は鞘に納まった。平忠盛はこの様子を見てこの太刀を「抜丸」と命名した。〔『平治物語』〕

平治の乱にて平頼盛は郁芳門に押し寄せて、「此門の大将軍はたそ。名乗や、聞」と呼びかけたところ、
「此手の大将軍は、清和天皇の後胤、左馬頭義朝なり」と源義朝が名乗った。
そして源義朝は、「悪源太も二度まで敵を追出せしぞかし。すゝめや、若者ども」
と言ったところ、源朝長・源頼朝らが出撃して平頼盛に迫った。源頼朝はこの時13歳であったが、敵2騎を射落とし、1騎に手傷を負わせ、平頼盛の部隊を蹂躙した。この様を見て源義朝は大いに源頼朝を頼もしく思い、
「何といふとも、若者どもの軍したるは、まばらにみゆるぞ。義朝かけてみせん」
と平頼盛めがけて出撃、平頼盛の部隊は劣勢に回った。すると源義平も、
「義平御前仕候はん」
とて鎌田正清を随行させて出撃した。鎌田正清の下人に八町二郎という者がおり、名馬に跨り退却している平頼盛を走って追跡、平頼盛の甲の天辺に熊手をかけて引きずり降ろそうとするが、平頼盛も甲の錣を傾けて応戦し、これが数度繰り返された。ここで平頼盛は帯ていた太刀「抜丸」を以て八町二郎の熊手を切り払った。八町二郎は熊手を切られて仰向けに倒れ転げた。これを見ていた京童は
「あッぱれ太刀。三河守もよつきり給けり。八町二郎もよつびきたり」
と称賛した。平頼盛は甲に熊手をかけたままで振り返らずに退却、六波羅まで撤退した。〔『平治物語』〕














                 大塩平八郎像
大塩平八郎の乱
 驚いたことに天保の大飢饉で起こった大塩平八郎の乱に関わった者に天保二辛卯初秋建焉 木邑権右衛門(註3)と言う者が居て同じ木邑姓を名乗っていた様である。木邑権右衛門は大阪夏の陣で討ち死にをした木村長門守重成に繋がると言われる。
(註3) 後述のように、これら無縁墓碑が悉く失われた現在、再び実物を見ることができないので、後考のため、この墓碑の正面の文字を一応書き留めておく。
その屋敷には大きな椎の木があると言われるが元々の木邑の本家であったと言われる家の前にも平康頼の勧請した熊野神社があり椎の木で覆われている。熊野神社のご加護を得るため権現様の椎の木を一本連れて行ったのかもしれない。

 大塩平八郎の乱はわずか半日で鎮圧されたが、旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱以来、200年ぶりの合戦であった、大坂町奉行所の元与力が直轄地の大阪で起こした反乱は不成功に終わったものの,江戸幕府に大きなショックを与えた。大塩の発した『檄文』は江戸幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により 全国に伝えられた。腐敗した日本を洗濯するには倒幕しか無いことを悟らせ、この乱の30年後に体制を揺るがす内戦を経過し明治維新に至り、承久の乱以来の天地返しは元に戻される。
また、大塩平八郎は阿波脇町の出生であるとも言われる。同じ郷土の木邑家の事は知っていたであろう。阿波座や藍染めに関連が深い様に思われ、大塩平八郎をかくまった美吉屋五郎兵衛は染物屋を家業としていたが、その頃には当家阿波の木邑家でも藍荘をしていて藍玉の売り込みには「やまも(∧茂)」の屋号で商いをしており、当然縁故を頼った取引も在ったのではなかろうか。
 勝算の見込みの全くない戦であるなら大塩平八郎も起こさなかっただろう。戦いに勝つには全国の江戸幕府に不満を持つ者の支援を得る必要があるが、大塩の名前では知名度がなく知る者は少ない。木邑権右衛門の分家木村司馬之助は本家を誘ふべき命を受けたのは木邑本家を平家として大将に仰いだのではないだろうか、また大阪夏の陣での先祖の重成の敵討ちになると勧めたのではないだろうか。平家として本家が立つなら知名度もあり、全国からの支援を得られ徳川に勝てるのではとの目算を持っていたのではないだろうか。本家は大将として担がれても事が大であり急であり作戦が無く準備不足であったので立てなかったのではないか。幕府に楯を突いた木邑家の子孫は極悪の末とされた。
 木邑姓と田室姓は明治の前頃まで多く使われて居たが、何故だか平とは縁のない他人の姓の木村と田村に代えられた。八百年近く用いてきた姓で全国に拡散していた姓を自ら好んで代える筈がない。大塩平八郎の乱に懲りた幕府は、ただ一国が立っただけでは徳川は倒されないが、万々一にも平として担がれ全国に散らばる木邑と田室が結束されでもしたら大変と恐れたのであろうか。徳川よりも家格の高い木邑と田室は極悪の末だとして消されていったのであろう。
 承久の乱では百姓となり、大塩平八郎の乱では極悪の末とされ、昭和の戦いでは生まれて百日でててなしごとなり、もうこれ以上は堕ちる所も在るまい。
 資料1『東成郡史』東成郡役所 1922
木村司馬之助 本町木村権右衛門の分家にして、天保の頃は庄屋を勤め、大塩宅に往来せり。 或時一室に呼ばれ、連判状に血判を迫られ、且本家を誘ふべき命を受けて之を通せしが、本家は事の大なるを以て、逡巡決せず、交渉中騒勤勃発し、遂に軍用金として分家ば百両を出金し、司馬之輔之に赴き、本家は加入を拒否せる代償として五百両を出せり。乱平ぎて後司馬之輔は己罪を負ひ本家を免れしめて捕へられ牢死す。(死体は大塩の名前のごとく塩潰けにされ)大塩氏の罪定まるや塩潰の死体は市中引廻しの上磔せられたり。息司馬太郎、当時八歳、本家預となり、十五歳に及び大隅国熊毛郡上屋久鳥に遠島に処せられたり。維新後赦免となり、一旦帰国せしが、再び同地に赴き、権右衛門は司馬之輔を徳とし三百石の船を造りて贈しと云ふ。司馬太郎は島地に於て日高氏に入夫し之を姓とす。孫和歌之助、大正八年七十一歳尚生存し、本町木村家と今尚音信を絶たず。鶴橋町墓地に左の墓石あり、権右衛門之を管理す。

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/ajiro1.htm
「「猪飼野探訪」案内記」

此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは詰るところは殷の湯王と周の武王、漢高祖、明太祖が天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。

 天保八丁酉年 摂河泉播村々 庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ

※飢饉は天災ではなく人災である(大塩平八郎)
或人曰く、平八郎ハ狂人に類すと、然れ共保羅がエルサレムの階壇に立つの時ノックスが密室に叫ぶ時パトリックヘンリーが北米の空に動く時、誰かその狂人に類せずと云ふものあらんや、余れ今日の人士が視るに、彼等ハ余り智巧に失す、叫ぶべき時に会ふも、先後を顧みて得叫ばず、動くべき時に会ふも、緩急を計りて得動かず、成敗を顧み、機変を覗ひ、而して赤誠を其間に消磨せしめつゝあるもの、比々皆是れなり

事は一時の成敗を以て論ずべからず

身の死するを恨みずして心の死するを恨む

ヘンリー・ノックス(Henry Knox, 1750年7月25日 - 1806年10月25日)は、アメリカ合衆国の軍人、弁護士、政治家。初代アメリカ合衆国陸軍長官に任命された。(アメリカ独立戦争)
アメリカ合衆国陸軍長官 [編集]

パトリック・ヘンリー(Patrick Henry, 1736年5月29日 - 1799年6月6日)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家。イギリスとの開戦を強く主張していて、「自由を与えよ。然らずんば死を」という名文句を吐いてイギリスに対する抵抗運動を扇動し、アメリカに独立をもたらした。

私的解釈
英雄は身が死するを恐れず、心が死するを恐れる。
凡人は心が死するを恐れず、身が死するを恐れる。
英雄と凡人との違いは、心の持ち方の違いにある。
さて我は、身死すとも心のまま生きるか、心死すとも身のみ生きるか。

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史上最強のおやっさん
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