[1] | 谷山正夫さんからのコメント(2011年08月06日 13時30分17秒 ) | パスワード |
谷山繭子様
2.私谷山家につきまして:
私谷山家の家紋は丸に五本骨扇です。他に幾つか家紋があります。(自分の家紋について実は最近知ったのですが)
繭子様の家はどのような家紋ですか。もし同じなら近いご先祖かもしれませんね。因みに私は家系を4代まで遡って調べてみました。曽祖父は江戸時代末期(幕末)の人で20歳の頃戊辰戦争に知覧外城士として出征しています。後に鹿児島県議会議員になっています。祖父は明治末期の人で知覧で開業医を営んでおりました。私の父は大正時代の人で関東軍を除隊後母の生まれた東京で一級建築設計事務所を営んでおりました。父はラスト・サムライ(鹿児島県士族)でした。私は海外営業担当のサラリーマンです。最近とうとう定年を迎えてしまいました。
3.嶋津家との繋がり:
良く調べると長い歴史の中で谷山家から嶋津家へ何人か嫁に嫁ついでいます。その中でも鎌倉時代嶋津宗本家忠実へ嫁いだ妻がいました。その縁で郡司職と地頭職を兼任しており、後に谷山隆信が薩摩南朝方大将として嶋津氏と敵対する強大な軍事力を持つ事が出来たと謂われています。
私谷山家の親族会員にも佐多家があります。ご存知の通り嶋津佐多家は知覧院領主嶋津久慶の代々の御子孫です。
薩摩や日本人は長い歴史の中で見れば最初から敵みかた主従だけでなく元は皆兄弟だったのかもしれません。
[2] | 谷山さんからのコメント(2011年12月04日 15時54分13秒 ) | パスワード |
4.薩摩藤原氏の末裔:
>谷山城と懐良親王など色々・・・
鹿児島薩摩には天皇家・公家藤原氏の末裔が多くいます。私の鹿児島出身の友人にもそのような方がいます。
南朝方征西府将軍宮懐良親王一行との関連。
興国三年懐良親王一行は伊予から海路薩摩山川津に到着した。谷山隆信の出迎えと警護で隆信の居城谷山城に入城した。一行は懐良親王、先遣隊三条泰季を含めて五辻宮、五条頼元親子、冷泉持房、中院義定、藤原孝範、宇都宮真泰など他13名。みな殆どが8歳、10代、20代の若者だった。
逗留期間先遣隊三条泰季は約10年、懐良親王は5年ほど谷山御所に逗留し北朝方嶋津氏と戦った。
この間一行のご子孫も誕生した。その男子の多くは庶子である為か父親の姓は名乗れず新たに姓が創られた。その苗字は「五代」などゴダイ、・・院、・・寺など後醍醐天皇や公家藤原氏の由来を連想させるものが多い。又ご子孫の多くは室町時代以降武家と成り嶋津氏に服属している。五条氏は肥後熊本にて矢部を名乗っていたが後五条に戻されている。
(注):五代氏、五条氏については、既に公表されている為その名前を参照させてもらいました。
これらご子孫の家系図について、家臣として嶋津氏に提出された家系図の室町時代以前平安・鎌倉時代の頃の系は庶子である為父親の嫡子と同じ系を同列に記述する事は困難であったと推測される。その為もしこの間の系が曖昧に記述されても止む終えない事と思われる。
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