[1] | さなえさんからのコメント(2011年07月21日 15時43分42秒 ) | パスワード |
みなさん こんにちは(^^)
スレッド{三河国服部家家紋〜}のほうで、三河一色の服部家について、自分の足で調べたことと、直感(霊感?)のみでコメントさせていただきましたが、まだまだ知りたいこともたくさんありますし、新たにひらめいたことも出てきましたので、新スレッドをたてさせていただきました。(ありがとうございます。管理人さまはじめ、ここのサイトに関わる多くのみなさまに感謝です。)
三河一色の服部としましたのは、わたしの勘のみによりますが・・・どうも、おとなりの岡崎市の服部(徳川家康・服部半蔵のながれ)とも弥富市の服部(後醍醐天皇の御子息のおとも)とも、ちょっと違うと思ったからです。(もちろんどこかで先祖がつながっていた可能性はあると思いますが・・・)
[2] | さなえさんからのコメント(2011年07月21日 16時08分05秒 ) | パスワード |
前スレッドでは、[38]の名も無き忍者さんさんのコメント(スレッド{隈さんへ:各姓の服部氏}[34]の服部誠さんのコメント参照)より
湯舟荘五地頭のことが頭から離れずにいたのは、事実として、愛知県の現・西尾市一色町に三矢姓がたくさんある地域だからなのもあります。後でわかったことですが、三矢(または、三ツ矢)姓は、全国的にみるとめずらしい姓みたいですね。しかも、家紋は○に縦の矢羽が三つ並んでいる(服部は矢羽が二つ)ことから、関係性を充分に感じました。
なので、さなえ的に ここからもあそこからも、わかったこと気づいたことを少しずつ書いていきたいです。みなさまのツッコミお待ちしていますので、よろしくです。
[3] | さなえさんからのコメント(2011年07月24日 21時41分11秒 ) | パスワード |
地理、歴史に詳しい方なら・・・当たり前のことかもしれないですが・・・
先日、道路地図を見ながら、こんなことに気ついたのです。
「伊賀上野市から三重県津市まで、一本の道がある・・・」それは、国道163号線。よく見れば、服部町の服部川をさかのぼる川づたいの道で、長野峠を超えれば、また沢つたいに下れば・・・どうしなくても津に着ける道。
正直、「これだわ!!」と、叫んでしまいたくなる発見(私には)です。
津市とは、「津」と名の付くとおり、古くから港として栄え、人(異国人含む)や物のゆきかったところです。その昔は、安濃津と言われていたらしいです。
そこから船で、三河湾の現在の西尾市の寺津町辺りに着いて、碧南・西尾・一色あたりに住み着く・・・なんて、理にかなうというか・・・ありえる話だわ。
[4] | さなえさんからのコメント(2011年07月24日 21時50分07秒 ) | パスワード |
[2]の訂正 服部誠さんのコメントは[34]では無く[48]です。ごめん
[5] | さなえさんからのコメント(2011年07月24日 22時11分26秒 ) | パスワード |
天正以前、伊賀の湯舟庄五地頭だった、岩田・服部・三つ矢・田名瀬・杉本姓のうち、田名瀬姓以外の姓は、現在も寺津周辺にいらっしゃる・・・これは、事実なんです。
しかし、史実では、天正(伊賀)の乱で、織田信長の軍勢に焼き討ちされ、女子供も皆殺しにされたことになってる。
でもでも、情報はきっとわかっていたからね。体の悪い老人やら、足手まといになりそうな人たちは、自ら残り、一部の勇士も身体を張って残ったのかな?そして敵が来る前に、服部川を遡ったのだと思うわ。
[6] | さなえさんからのコメント(2011年07月24日 22時22分02秒 ) | パスワード |
「生きるために生まれてきたんだ。」
最近、そう思うんです。
以前の私は、現実に生きることに苦しさを感じてばかり・・・「何のために生まれてきたんだろう。」って、いつも思ってたよ。
ご先祖様がつないでくれた命だったんだね。
ご先祖さま、ありがとうございます。
ここのサイトのおかげさまです。
[7] | さなえさんからのコメント(2011年07月24日 23時01分09秒 ) | パスワード |
話が、前後して申し訳ない・・・
[3]の国道163号線は、伊賀路(大和路)というらしいよ。古くからあるんだね。
[8] | さなえさんからのコメント(2011年07月25日 09時33分57秒 ) | パスワード |
あ、また間違えた!
伊賀街道(大和街道)でした。
[9] | さなえさんからのコメント(2011年09月02日 13時10分42秒 ) | パスワード |
先日、伊賀上野のむらい萬香園(お茶、お土産の店)さんにまたまた行って来ました。新情報です。服部町の本家服部さん所に、昔から大きな水車があって「くるまや」と呼ばれていたらしいです。屋号とか、通称とかでしょうね。残念ながら水車は(昨年?)とりこわされ、ここのお店のテーブルになってます。
そこで、またひらめいたのは・・・
服部の家紋の、源氏車とか御所車とか言われる「車」の部分は、本家の服部家の水車にもからまってるかも・・・なんてね。
水車は、昔は精米や小麦や蕎麦の製粉につかわれたもので、大きなものだったら・・・周りの人も借したかな・・・?それで商売したかな?
でも、もっと前からの天皇(朝廷)と服部家とののかかわりがあることはいなめないから、やっぱりその前からかな?家紋は、御所車かな?
伊賀の服部家さんのこと、もっと知りたくなりました。知ってる方、教えてくださいね。
[10] | さなえさんからのコメント(2011年09月02日 13時37分02秒 ) | パスワード |
日本家系協会、日本家系家紋研究所出版の「服部一族」なる本を手に入れたくてしらべたら、現在出版されてないようで・・・思い切って、(株)日本家系協会に電話してみました。
「現在使われておりません」だって・・・とほほ、遅かったのね。
これも、どなたか入手のしかたわかりませんか?または、見せてください。おねがいします。
[11] | さなえさんからのコメント(2011年09月02日 13時48分16秒 ) | パスワード |
それから、伊賀街道通ってきました!よ。
感想は、思ったよりも険しさがなくて、いい街道でした。津市が近かったです。
伊賀の方がかなり険しかったからかな?伊賀は、上野を少しはなれると・・・地図どおりいっても、すごく山に入ってしまったりして、不安になりました。霧も出るしね。だけど、山に囲まれたところに、のどかな里がポンと現れると、まるで桃源郷です。これだったら、身も隠せそうだし・・・幸せに暮らせそう・・・。
それを、不便と思うか、良しとするか、は・・・やっぱり、個人の価値観か・・・
[12] | さなえさんからのコメント(2011年10月07日 20時01分50秒 ) | パスワード |
こんなことを書き込むなんて・・・いささか頭が変なやつと思われると、自分でもよく分からないが・・・先祖が書いてほしい様な気がするので、書き込むことにしました。言い訳をすると、ますます怪しいとも思ってます。
私の想像、または夢のはなしです。
え〜、三河湾の碧南から一色あたりに、たどり着いた服部氏のことですよ。
先祖がたどり着いたのは、天平の乱の後〜徳川幕府ができる頃で、とにかく世の中がぐちゃぐちゃでした。
津から海賊といわれるような人たちに、お金をはらって、三河湾でもあまり人の住んでいない、港も無いようなところにおろしてもらいました。
そこは、葦が背丈以上に生い茂り、足元は、海水と淡水が入り混じる様子です。陸地だと思って、刈のねぐらを造ったのに、明け方冷たい海水で目が覚めたりしました。雨が続くと大変です。腰まで水につかりまして、子供たちを両肩にのせたままでした。
それでも、すこしでも土地の高そうなところを探して、まわりの葦を切り取り、土砂を積み、何とか住めるようにいたしました。
葦は、身を隠すのに好都合ですし、少し上(かみ)の人たちは、持っていくとお金や物に変えていただけました。ありがたかったです。もちろん、服部の姓であることは、秘密です。
もともと、伊賀の里の人は、なんでも、自分達でできます。鍛冶のできる者は、かみ(上流)の農家の鍬を直したり、指物、大工の得意な者は、それをして生計の足しにできます。薬草の調合の得意な者もおりました。もちろん、野良仕事(農業)は、第一です。誰もが協力して土地からつくり、田んぼになりましたよ。
そうそう、綿花もつくりました。あれは、塩に強いいい木ですね。少し上流の(現・西尾市)天竹(てんじく)町の天竹神社は、大昔、崑崙人(こんろんじん・現在のインド人)が漂着したそうで、その方が持っていた綿の種を持っていて。日本に初めて、綿造りを、教えたそうですよ。面白いですねえ。でもその時代は、それから綿製品が庶民に伝わるまでは、すぐではなかったようで・・・、政治的意図があったやもしれませんねえ。
以上が、三河に着いたときのお話です。
ありがとう。
[13] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年10月07日 20時34分39秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>これも、どなたか入手のしかたわかりませんか?または、見せてください。おねがいします。
服部一族に限らず、日本家系家紋研究所出版の一族シリーズは約30年前後の昔のものだから今更購入は無理でしょう。
所有者にしても稀覯本だから、閲覧依頼は無理でしょう。
この種の本は、出版された時しか買い時はありません。
どうしてもなら国会図書館に行って、有ったら数回に分けて複写依頼をするしか方法はありません。
[14] | さなえさんからのコメント(2011年10月07日 20時46分01秒 ) | パスワード |
どうして伊賀の里の人が焼き討ちに遭わなければならなかったのか!!
先祖の思いを代弁しつつ・・・また、私の夢か空想のお話をします。聞いてくださいね。
え〜、ここは伊賀の里です。
まわりは美しい山々に囲まれております。夏はちと暑いらしいが、川があり、田畑があり、木々もあり・・・いいところじゃよ。
わたしらは、よそでは、恐れられとると聞いたけどなんでだろうなあ。
確かに、まつりごとは嫌いじゃ。まつりごとする人間もすかん。わしらは、まつりごとするやつ等の裏をしっとるで・・・嫌なんじゃよもう。そんで、伊賀の山ん中で・・・幸せに暮らしたかっただけじゃよ。
幸せに暮らすために、役行者さんみたいに強くならねばと思ったしね。身体も鍛えたさね。ただ身体を鍛えてもね・・・だめなんじゃよ。心も大事。心がピーンと真っ直ぐ、真っ直ぐ立っ取ると、自分でも信じられん力がでるもんだ。
それから、わしらは仲間を助けたいだけで、戦争したいんじゃないよ。逃げるが勝ちとは、よく言ったもんだ。わしらの七つ道具は、逃げるためのもんじゃよ。ははは・・・
わしらをスパイ呼ばわりするやからもおるらしいが・・・そんなようなことをしっとった奴も、おったらはずかしいが・・・本当はな、平和に暮らすために、情報をいち早く察知してだな、上手くまとめるっつうことをしたかったんだが・・・世の中が変わるときってのは、ほんとに恐ろしい情報ばかりじゃな。上手くいかんかったわい。
ほんとに、日本の行く末は・・・ありゃりゃ、現代の人に申し訳ない。わしらはわしらの業(カルマ)というものがある。現代の人も、心して、いい国つくってくだされよ。
聞いてもらって、うれしいぞ。ありがとう。
[15] | さなえさんからのコメント(2012年03月23日 09時22分09秒 ) | パスワード |
しばらくぶりです。
あれから、三河一色の服部氏について・・・特に、新しい資料などなく・・・たんたんと生活させていただいてました。
ところが先日、初対面で私の旧姓(服部)も知らない方に「あなたの先祖が、お腹を空かせていますよ。ひとりは、甲冑をつけた平氏の武者です。もうひとりは、室町のころ、宮中に仕える女性です。」って言われちゃったのです。びっくりです。もしかして・・・私のつたない先祖調べの意味は、そ・こ・か・ら〜??って思いました。
[16] | さなえさんからのコメント(2012年08月30日 21時14分50秒 ) | パスワード |
ちょっといい話。
結果報告?かは、どうかわかりませんが・・・(笑)、その後霊能者(太田千寿)さんにお会いして、お話いたしましたところ・・・私についていて、供養して欲しいという「平氏の武者」さんは、「先になくなっていた奥様の骨壷を大事そうに抱えて途方に暮れているようす。」とのこと・・・
たぶん、戦闘でご自分が亡くなる前に亡くなっていた奥様を、安住の地に安置すること叶わず・・・自分が亡くなったこの先どうしたらいいのかと思い、成仏できていなかったのでしょうね・・・。
でも、戦を恨んで、世を恨んで・・・というより、「愛」あって・・・奥様思って成仏できなかったのだと思って・・・ちょっと、うれしく感じます。私、御二人とも、供養するからね、大丈夫よ(ハートマーク)。
それから、「秦 みき」さん、ありがとう。わたしの前世の方々、いろいろありかとう(うふふ)。
オカルトかな?ごめんなさい、みなさん。
[17] | さなえさんからのコメント(2012年09月06日 11時11分00秒 ) | パスワード |
すみません。今また気づいた事実(一色の服部関連)があるので、お知らせします。
最近、(東北の地震・津波の影響です。ありがとう。ごめんなさい。)地元で海抜○メートルか、細かくわかるハザードマップができたのですね。
それを見ると・・・私の先祖様たち(服部たち)が住んでいるところだけ、ほんの少しですが、土地が高いのです。当時をイメージして、たとえるなら・・・干潟のなかの浮島みたいな土地です。はは〜〜〜ん・・・だんだん、見えてきましたぞ・・・(^^)。
[18] | さなえさんからのコメント(2012年09月26日 16時51分27秒 ) | パスワード |
今日、仕事休みだったので、思い立って・・・一色・碧南方面の服部を調べようとしました。そうしたら・・・頭は痛くなるし、車はぶつかりそうになるし、碧南市立図書館はお休み中・・・お寺をめぐっても手がかりなしでした。
これは、ご先祖様が隠したいのかもしれないので・・・これ以上の捜索は、とりあえず打ち切ることにします。
けれど、もしわかる人あれば、ひき続きお願いします。
[19] | さなえさんからのコメント(2012年09月26日 17時31分02秒 ) | パスワード |
(とりあえずわかったこと)
1)一色町及び碧南市の大きな寺院に、服部の墓にあたらず。=>一色町及び碧南市の矢作川下流は、岡崎まで船で物運ぶ拠点であり、敵を見張る意味もあったとおもわれるが・・・岡崎城・松平徳川家との関係が無かった可能性あり。
2)江戸から来た西端藩家臣100名の戸籍(碧南市・市史資料室所蔵)に、服部および三矢・岩田・杉本の名みあたらず。=>幕末から明治に移住の可能性なし。
3)古地図にある地名に、服部ほか同上の氏の現住所(電話帳より)が重なる。=>ほとんどの碧南市、一色町は、1605年幕府の命により米津清右衛門尉が矢作川の流れを、(現・安城市)桜井村木戸あたりから米津(西尾市)まで掘って流れを変えたために、だんだん土砂で浅くなり干拓した土地なので、古地1605年以前(江戸幕府成立前)に住んでいる可能性あり。
4)服部家についての記述、口伝がない。=>ある時期まで、素性・本姓を隠して農民に成りすましていた可能性あり。忍び(変わり身の術・隠れ身の術?)の可能性は不明。
[20] | さなえさんからのコメント(2012年09月26日 18時46分47秒 ) | パスワード |
(その他わかったこと)
*、西尾市岩瀬文庫で「西尾・三河絵図集成」が購入できます。三河の地図あります。たぶん本物も閲覧できます。
*、碧南市役所隣の図書館(中央分館)の2階に、市史資料室の廊下に、矢作(新)川(木戸から米津掘削)ができる前の地図と干拓の様子の地図の展示あります。
[21] | さなえさんからのコメント(2012年09月28日 11時56分09秒 ) | パスワード |
(おもったこと)
実家の本家のお墓は、お寺ではなく、古くからの共同墓地にあることから、徳川家などに支配されていた大きなお寺と、距離をおいていた感じがする。
その、共同墓地内にさまざまな服部の家紋がみられることから、一つの家系でながれてきたのではなく、さまざまな家系の服部氏が協力して移住してきたか、逃れてきたと思われる。
[22] | さなえさんからのコメント(2012年09月29日 10時11分42秒 ) | パスワード |
面白いHPを見つけました。伊賀の服部、岩田、杉本の記述ありました。ただHPは現在はやってなくてブログのほうのリンクで見られるようです。
「萬大控」ブログ版=> リンク=> 伊陽雑記=> 7.服部一族 11.伊乱記に登場する伊賀の地侍〜
で、見てください。
[23] | Hattoriさんからのコメント(2012年10月09日 09時34分15秒 ) | パスワード |
"萬大控"
見てみましたが、はて、丸に並び矢の我が家のご先祖は一体どなたなのやら、
またまた混乱。う〜ん・・・。
[24] | さなえさんからのコメント(2012年10月18日 10時41分57秒 ) | パスワード |
Hattoriさまへ、コメントありがとうございますね。
そうですね・・・私もわからないことばかりです・・・。私も知らないことだらけなので、(どなたか)参考になればと思い、コメントさせていただきました(のです)。
実際のところ・・・、愛知県西尾市一色町の服部氏(先祖さま)が、いつどのように来ているかさえわかりませんので・・・、いろいろな方の情報を手がかりに、(私的に)推測しているにすぎません。そして、書き留めておきたいようなこと、メモみたいに書いてしまっています。
なので、Hattoriさんにみていただいて、コメントいただいて、ありがたいし、恐縮いたしました。混乱させてしまってごめんなさい。
先日(いつか知らないですが)、NHKの「歴史ヒストリア」で、伊賀忍者のこと?やっていたようですね。
(私の思ってたとおり)自分たち地方自治のユートピア(理想郷の伊賀のくに)を守るための工夫と武力(=忍術と呼ばれる)が、かえって大きな勢力(政治的権力)には邪魔な存在となってねらわれる・・・ということでした。(私レベルのざっくりした内容で、見ている途中に眠ってしまいました)
最終的には、一部の服部含む伊賀衆をとりこんだ、徳川家に骨抜きにされたのですね。だから、とりこまれなかったほかの伊賀衆のことは、全くわからないですね。
まあ、それも良かったのか悪かったのか良くわからないことです。先祖が当地に来て生活して、家族をもって、現代に至ったのは事実ですから。
[25] | さなえさんからのコメント(2012年10月18日 11時32分58秒 ) | パスワード |
私の考えですが・・・
服部=はっとり=変な読み方の変な姓=しかし、太古からあるらしい名前
・・・の、「はっとり」の姓を、受け継いできた、先祖の思いは、(今は解らないけど)何かあったのだろうから・・・きっと大事なことなんでしょうね。きっとなにかわかる日が来るのでしょうよ(思ってれば)。
今は、そう思ってます(^^)V。
丸に矢羽も源氏車(御所車)に矢羽もざっくりと同じ出身ということでいいのではないかしら。 切竹、矢筈も・・・同じく。
その中で、同じ服部でも、だんだん子孫は枝分かれするし、もしかすると、服部に長く仕えて、服部姓をあたえられるということもあったかも知れないし・・・、その中で系統の違いから家紋の違いができるのかもしれないし、先祖からの長い時間の経過で、多少デザインが変わることもあるかもしれないと思います。それでも、同じようなデザインを使うというのは、仲間意識がつよくないとできないことですからね・・・、やっぱり、仲間ですよ。
なので、私の出所の一つ(父方の父系)は、伊賀の湯舟の服部に間違いないとおもってます。父方の集合墓地には、丸に矢羽の家紋のお墓、車に切竹の家紋のお墓、また車の桁違いのものもありましたから・・・どのように、いろいろな家系の服部姓で、グループになってたどり着いたのかな?と思いましたし、そこに、三矢姓で、丸に三つの縦の矢羽のお墓があることは事実なので・・・、各お墓の持ち主に聞く訳にいきませんが(私は学者でないので変質者に思われるといけないし、プライバシーのこともあるから)、変におもわれても、信じてもらえなくても、先祖は、伊賀地方の忍者に・・・決めました!!
[26] | さなえさんからのコメント(2012年10月18日 12時13分00秒 ) | パスワード |
新たな謎は・・・
じゃあ・・・伊賀に居た服部さん達は、どこから来たの・・・???って事でしょうか・・・
Hattoriさん、全然答えになってませんね。ごめんなさい。
[27] | さなえさんからのコメント(2012年10月18日 12時34分05秒 ) | パスワード |
HP「忍者伊賀 伊賀流忍者博物館」の、忍者とは・・・というのを読みますと・・・、忍者は、以外に小柄(体重60キロ以下)出ないといけないことがわかります。
そう思いますと、我が父や弟たちが小柄(身長160ぐらいで、肩幅がない)なのが・・・意味のあることに思えますから不思議ですね(^^)。昔は、背が伸びないのは良くない(三高=高身長・高学歴・高収入)時代でしたから。
そうです、祖父や、親戚も小柄だなぁ・・・うふふ。
[28] | さなえさんからのコメント(2012年10月19日 08時28分03秒 ) | パスワード |
もし・・・先祖が、忍びに関わるネットワークを持っていたり・・・、そのような立場にあったのなら(逃げ延びたのか、情報の拠点だったのかわからない)、上忍らしいプライドとして・・・、自分の素性のわかる資料など、残さないのは当然であるのでしょうね。
また、朝廷などとの関わりも・・・わかりにくいでしょうね。
[29] | Hattoriさんからのコメント(2012年10月19日 08時57分32秒 ) | パスワード |
さなえさんこんにちは。
本当に謎の多い一族ですが、これほど愛着を持って子孫から色々想像されている所もそう多くないのでは。ご先祖様たち、きっとあちらの方で笑って見ていらっしゃるでしょうね。
私の家系も小柄の者が多く、男で大抵165cmまでですね。体重は50kg台前半。
私も親父も球技は苦手でしたが、体が軽い割に腕が強くて鉄棒や木登り、
雲梯が得意でした。何となく”そのような血”が流れているんじゃないかな〜
なんて子供の頃思ってましたが(笑)
ご先祖様はきっと伊賀→津島→鳴海→尾張南部なのだろうなあ、と勝手に考えております。さらには伊賀の前はきっと平家一門の流れであろうと。
勝手に勝手に家長公を先祖と崇めておりますm(_ _)m
[30] | さなえさんからのコメント(2013年02月05日 12時33分53秒 ) | パスワード |
不思議なつながり・・・
「服部長七」・・・、碧南にすごい服部さんがいたもんです。
天保11年(1840)9月9日、現在の碧南市西山町(地元では)に生まれたそうです。
古地図でみると・・・やはり、三河一色(現・西尾市)の服部や、愛知県弥富市の服部家と同じく、海とも陸ともつかないような・・・土地柄であることが共通します。そして、たぶん、当時の交通・物流の手段としては、今は完全に廃れてしまって知る人もいませんが、木造で大きな帆のかかった船(名前はなんだっけ?)しか・・・考えられないな・・・。
服部長七さんのことは、「日本石灰協会・日本石灰工業組合」のHP(特集・服部長七と人造石)、「岩津天満宮」HP(服部長七翁物語)で見てください。(相変わらずパソコン使えず、貼り付けもできずごめんなさい。でも、覚える気なしかも・・・えへ。)
「だったら、服部長七の先祖は・・・?」そう思って検索したらなんですが・・・
「神野金之助」という人が(服部の先祖ではない!)、服部長七つながりで、でてしまったんです。わたし初めて知ったんですが、地元の程近くの額田郡幸田町の菱池を、埋め立てて田畑にした人物っだったのですよ。菱池が池だったのも最近知ったのに・・・、その人物がわかるなんてね、不思議です。
話がそれましたが・・・、この人は、服部長七の力を借りて、現・豊橋市神野新田(豊川流域)を作ったそうです。
で、出身は八開村(現在の三重県?)で・・・、なんと、先祖が現・奈良県五條市西吉野神野の人で、戦国末期の天正年間に八開村に移り住んだことで、「神野姓」を名のったそうです。
詳しくは「国土交通省中部地方整備局・木曽川下流河川事務所」HP(KISSOこぼれネタVOL.3 八開村特集号)参照。
神野さんの先祖も、天正の動乱期に移住したこと・・・、海や川で氾濫しやすい土地を開墾し続けたこと・・・、遠祖の土地は、後醍醐天皇・役行者・伊賀もの・鉱山・中央構造線などと・・・どこか繋がって思えます。不思議な感覚です。また・・・、すごい人たちです・・・。
上手くまとまりませんが・・・、なにかヒントになればいいです。では・・・
[31] | 箱柳永田さんからのコメント(2013年02月05日 17時21分24秒 ) | パスワード |
さなえさまへ
多分これでは無いかと、お節介、、、。
>http://www.jplime.com/bunkaisan/005/index.html
私の世代ですと、豊田水源町の明治用水取水堰は三河一円から社会見学(遠足)の定番なんです。
今でも使用されなくなった、旧取水口の堰堤が残ってます。(随分前の記憶)
丈夫すぎて取り壊し費用がかさむので其の儘にしてあるそうです。
翁の工事方法は、スクラップ&ビルドの時代には向いてないようです、が
丈夫で長持ちという点で、現存どころか、今でも現役の所も有りますよ。
今も岩津天神の宮司さんは服部さんですよ、私の通っていた中学では目と鼻先にある岡崎天神(伝馬町)より人気は高いようで(友人の目がね、、、)
子供の受験では岩津天神に家族で行きましたよ。勿論大浜熊野大神社にもね。
[32] | さなえさんからのコメント(2013年02月05日 20時27分49秒 ) | パスワード |
箱柳永田さま
ありがとう。
[33] | 箱柳永田さんからのコメント(2013年04月05日 17時39分50秒 ) | パスワード |
さなえ様
>http://www.geocities.jp/marumaru_yamane/index.html
byぽたぽた★ポタリングさん
ここに 明治用水旧頭主工(取水口と思ってました)の写真がありました。
昨年の日付けですので、やはり撤去費用がかさむ程の強度がある。
>http://kamezo.cc/blog/entry/137701 byへぼと氏
西尾の新田開拓時の水門がいまだに使用されています。
碧南の帰りに、2度程探したのですが、車で行ったので見つからなかった。
>海や川で氾濫しやすい土地を開墾し続けたこと・・・、遠祖の土地は、後醍醐天皇・役行者・伊賀もの・鉱山・中央構造線などと・
江戸期以前の開拓は小河川が中心にないます、理由は機械も無い全て人力に依りますので大量の労働者とバックアップの食糧及び資材の手配ができない。
江戸期には藩政として、開拓はしていますが幕府が関与しないと領内の川を補強する為に上流の藩と連携しては、国持ち大名でなければ難しい。
主流は池の埋め立て、小河川にダムを作り、荒れ地に水を通し水田とする。
他方、河川改修で他藩に関係しない、海への干拓工事が行われる。
明治に至り、国策として大河川の堤防強化を伴う新田開発が可能となる。
私は大浜長田の事業から、この様に認識しています。
鉱山では、丹生(水銀)に注目している方は多いですよ、特に中央構造線付近には<丹生>に関連した地名が多くあり水銀の所持量=金(きん)の産出量(灰吹き法)になりますので重要な目安になると思ってます。
他に鉛も弾としてだけでなく、化粧品(鉛白)として注目しています。
[34] | さなえさんからのコメント(2013年04月11日 12時21分32秒 ) | パスワード |
箱柳永田さま
やはり・・・、中央構造線上の水銀およびその他の鉱物資源・・・、そして「ゼロ地場」と言われるほどの、霊的パワーのある、数々の伝説のある土地は、注目せずにいられませんね(^^)!。
[35] | さなえさんからのコメント(2013年04月11日 12時38分24秒 ) | パスワード |
あ! ゼロジバの「磁」が、「地」になってしまった・・・、ごめんなさい
(><)。
[36] | さなえさんからのコメント(2013年04月11日 13時17分12秒 ) | パスワード |
(三河国一色町について、新しく気づいたこと)
現在も一色町に、「養林寺」というお寺があるんですが・・・。こちらのお寺の「等19世住職が、藤原藤房である」と伝えられているようです。歴史にうとい私は、「それがなに?」ぐらいの、「どっかの偉いさん」と思っていました。でも、最近気になり、ネットで調べましたら・・・、さっそく「ウィキペディア」にでました。「万里小路藤房」と同一人物?のようです。そしてこの方、後醍醐天皇の側近として、元弘の変では楠木正成の起用を勧めた人物であると・・・!!!ありました。はあああ・・・では、この当時よりご先祖さまと???何か繋がりが、あったのかもしれませんです。
それから、一色氏の名前は、一色の地名に由来されているのは、有名な話ですが・・・?。鎌倉時代に足利義氏が、「三河守護職」に任命されていたので、七男の「公深(こうしん)」が、地頭として住んでいて、地名から「一色氏」を名乗ったそうです。後に公深は、下総国に移りすんでいて、一色氏の名字を名乗る方は、一色町にいませんが・・・。
この、下総国、藤原藤房が流されたことのある土地(ウィキペディアより)なんですよ・・・???なんでまた繋がるのかしら????不思議です。なにか感じました。(ばか丸出しな私ですみません)
ちなみに、藤原藤房という方は、「平重盛」「楠木正成」とともに「日本三中臣」と(江戸時代から?)言われた方だそうです。全然知らなくて、ほんとごめんなさい(><)でした。
皆さんの参考になればうれしいです。また、わかったことあれば、こんな私に教えてくださいね。 では・・・
[37] | さなえさんからのコメント(2013年04月11日 16時29分14秒 ) | パスワード |
ところで、下総国には一宮の香取神宮があるところですね。鹿島神社とともに、重要な磁場の中央構造線の西の外れに当たる場所で、前から気になっていました。
[38] | さなえさんからのコメント(2013年04月11日 16時49分46秒 ) | パスワード |
再び訂正します。鹿島神社と書いてしまいましたが、茨城県・常陸国一之宮、鹿島神宮の間違いです。
また、私の住む町近郊の蒲郡市には、鹿島の地名と、鹿島神社があるんです。蒲郡は、(昔からのつながりで)熊野に関係のある神社も多いので、不思議ですね。そして、なぜか、意外なところに役行者の祠があったりするのです。ここら辺の役行者(忍者の信仰した人として知りました方)さんは、筆の神様になっています???。どういう理由でしょうか。だれか、教えてくださいませ。よろしくです。
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