キーワード:安徳帝入水 コメントの種類 :質問
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赤間神宮下のみもすそ川公園に、安徳帝御入水之処碑があり、二位尼による辞世「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」が刻まれている−と観光ガイドにありました。
最近、その赤間神宮の依頼によって、國學院大學の松尾葦江教授が、赤間神宮の長門本平家の写本(旧国宝)など宝物を再調査した結果の記録と最近の研究成果を収録した「海王宮〜壇之浦と平家物語」を読みました。その中で、この辞世の歌の詠み手は、安徳帝でなければおかしい、という説(佐々木紀一「波の下の都」)がちょっと気になりました。
「みもすそ(御裳濯)川」は、伊勢神宮の最初の斎宮、倭姫が五十鈴川で裳を濯ったことからその名が生まれ、「皇統の流れ」を象徴する語句として使われるようになったといわれています。辞書を引いても「皇統のたとえ」という意味も掲載されています。
佐々木氏は、安徳帝を抱きかかえ入水した二位の尼は、たとえ外祖母であるとしても、「皇統のたとえ、みもすそ川の行く末を憂える歌を詠むのは僭越であり、詠むはずがない」という解釈です。
この歌をうっかり「みもすそ川の流れの沖にある壇の浦の波の下にも都がありますよ」と解釈していた自分に、赤面の思いがいたします。そういえば、この川の名は、安徳帝がこの川の川口に流れ着いたので「みもすそ川」と呼ばれるようになった、と子供のころ聞いたように思います。
それを確認しようと思いましたが、確認できる史料がみつかりません。事情をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示願います。
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