[1] | 桔梗さんからのコメント(2011年09月25日 20時40分01秒 ) | パスワード |
最近、少し「お休み」を頂いていますが、、、
「比企の乱」について、私見をまとめましたので、書き込みます。
ご意見を頂戴できますれば、、書き込み願います。
私見:鎌倉の大事件「比企の乱」(上意討ち)の真相について
一般に『比企の乱』と云われる謀反話は吾妻鏡に少し詳し過ぎるぐらいに書き込まれておりますので、省略いたしますが、そのあらすじが何となく「胡散臭い!」と歴史家に指摘されてきました。
小生なりの考えの一環を記しておきます。
本当は北条一族の陰謀として企てられたこの『乱』のお話は頼朝の暗殺説の正否は横に置くとしましても、正治元年(一一九九年)一月十三日頼朝が死ぬところから始まっていることは確かです。
蛇(頼朝)に睨まれたカエル(北条)がその頃から急に動き始めました。
北条でこの種の企てに関わった方々が誰であるかが少しずつ見えてきました。
歴史の時間には『北条時政』「北条政子」が首謀者であったともっともらしく教えられてきたのですが、小生は異なった考えをもっています。
確かに、歴史の流れから、鎌倉(中世)の歴史は源平の盛衰、、すなわち公家化した平家の衰退に取って代わって、正義と勇猛を掲げて源氏が旗挙げしました。
日本人なら「血沸き肉踊る」歴史の華やかなクダリの一つであります。
その流れを鑑みると、初代鎌倉殿(頼朝)の嫁(室)である「政子」と舅「時政」が頼朝無き後を『北条一族』の執権政治で繋いで行ったと言うお話なのです。
「なるほど、、なるほど、、」の話なのですが、、
ことはそんなに簡単な話ではありません。
あれだけの「頼朝(源氏)」の兄弟や子孫を絶滅させたこと、、旗挙げの忠臣(御家人たち)の粛清の連続は単に、頼朝の猜疑心の強さや、梶原景時の諫言癖や、政子の嫉妬心で説明のつく話ではありません。
流れが淀みにかかり少し静かになる頃、具体的には「三代執権」北条泰時の代に入ってから分かり始めたことがたくさんあります。
その後の徳川時代に置き換えますと、「秀忠」(二代)では無しに、三代「家光」になってから見えてきました。
「北条義時」にとらわれ過ぎると迷い道に入ってしまいます。
「北条泰時」の時代までテープの早送りをすることで、概ね狙いが何であったかがはっきりして参ります。
少し話しがそれますが、、私の頭から離れない話としまして、江戸時代の三代将軍「家光」と「駿河大納言徳川忠長」の確執が『泰時(本当は頼時)』と名越『朝時』との闘いに現われています。
一瞬の出来事ですが、名越流北条「朝時」が主流になった時は確かに存在したのでありました。後に述べる『竹御所』の時代はその一瞬を醸し出していたのですから、、、、
土井利勝が「家康」の落胤だと言うお話がありますが、鎌倉の土井利勝は北条時房(五郎)だと思っています。
泰時の影絵であった北条時房(五郎)の激しい動きを注視すればおおよその泰時の腹が読めると言うことです。
話を戻します。
上記に登場する人達の相関図を頭の片隅に置くと、頼朝死後の北条の「首謀者たち」の狙いが見えてきます。
再度、申しますが、出発点を頼朝の死に置き、到達点を泰時の執権政治の確立とすれば、北条の描いたシナリオが簡単なものとして見えてきます。
すなわち、北条の本音では、頼朝無き後に頼家も実朝も存在しなかったと云うことであります。
少し遠回りしてしまいましたが、頼朝から北条の執権政治が直接生まれているとしたら、北条の露骨な「乗っ取り劇」が誰の目にもはっきりすると思います。
武州(泰時)が頼朝と阿波局(政子の妹)との間に出来た『一枚の切り札』で、政子が拠り所とする「鎌倉殿(源氏の血)」頼家、実朝を排斥して、妹の阿波局(保子)に乗り換えて、、北条を前面に押し出す、陰謀であったと云うことです。
鎌倉初期の時政、政子の頼朝との縁組は、まだまだ平家の統治下での話ですから、頼朝側も北条側もドキドキの話であったと想像できます。
政子も純粋な恋物語として、リスクと夢が半々の想いであったと思われます。
「内助の功」「源氏の勝利と繁栄」「子孫を殖やす」を心から念じていたと考えられます。
その頃の政子の気持ちは『比企尼』の志と殆ど一致していたのです。
間違い無しに、源氏(頼朝)が『与党』そのものであるとの考え、、頼朝=北条氏が一体であるとの考えが自信と誇りを形成していたと思うのです。
その象徴が頼家、大姫、乙姫、実朝の四人の子供達であったと思います。
しかし、北条一族の側近の中に、狡賢く冷静にこのことを見る事ができる人達が居ました。
その人達は少し離れたところから、政子の「幸せいっぱい!」を見つめていたのです。
頼朝が、当主「時政」や跡継ぎ「義時」に、まるで下男か召使を扱うように『口汚い言葉』で指図するのがたまらなく嫌でした。
北条は頼朝にとって、所詮「この程度」の存在なのか?。
単純に容認できることはない!
頼朝側から言わせれば、初めて味わう家族の気安さの表れであって、そんなに深くは考えていなかったのですが、「政子」も時々は少し他人前では父や兄に言葉を選んで欲しいと頼朝に頼んだりしていました。
同じような、立場であった安達盛長や比企能員にも云えるのですが、「能員」は頼朝が『比企尼』への遠慮から扱いに気配りがあったし、「盛長」は以前から永く下男のような扱いに慣れっこになっていたから気にもしていないようであった。
その事を一番、心の傷にしていたのは、北条義時(江間四郎)であった。
そのことが、「政子」と「義時」に少しづつ隔たりを作っていくのですが、本人たちは気づいていなかったようです。
その隙間風に「北条時房(相州)」と『阿波の局(保子)』(泰時の実母?)が加わることになります。
又もう一人の助演女優賞「牧の方(時政の後妻)」の公家育ちの気位が輪をかけることになって行きます。
そして、義時から三代執権北条泰時(武州)に引継がれる頃には「新北条」の想いがはっきりと形を現してきます。
「新北条」は武州(泰時)を担ぐことで結束することが出来たのです。
それは、「義時」の訃報が京都探題の武州(泰時)と相州(時房)に届けられたときに決まったのだと確信しています。
この四人の同盟「義時」「泰時」「時房」「阿波局(保子)」が源氏(鎌倉殿)与党に対する、野党(北条の北条による北条の為の、、)が鎌倉の乗っ取り劇を画策することになるのです。(本当は「武家の武家による武家の為の、、、」と言います)
それは「政子」は直接的には関与していない話なのです。
この「北条四悪人」からすると、稲毛も梶原も比企も和田も畠山も三浦も安達も『鎌倉与党軍団』であって何ら違いは無いと言うことです。全て敵と言うことです。
小生が、このような「北条野党説」に辿りつき、『時政』「政子」首謀説を放棄したのはそれなりの根拠があります。
前に、江間四郎義時(北条義時)のことで北条家の嫡男(北条三郎宗時)が石橋山で戦死した為に代役として登場したとを書いた事がありましたが、昔を知っている頼朝は庶子義時をどこまでも、『四郎!』の一言で呼びつけていたのです。
頼朝の女癖の悪さを政子は癖々していたといわれますが、ゴタゴタの後処理をこの「四郎!」に全て任せていたと思われます。又猜疑心が深い性癖が有名ですが、諜報員役(スパイ)の仕事に「五郎!(時房)」を使っていたそうです。
あの頼家(金吾将軍)の側近に北条筋で名を連ねていたのはこの「五郎時房」だけだったのは有名な話です。
比企筋からは、二股膏薬『五郎時房』は「にっくき裏切り者」なのですから、、、
『鎌倉御家人』の粛清には、それぞれの「一族」をそれぞれの「理由(謀反)」で始末しなければならなかった訳ですが、何度も何度も、、この謀反話を読み返していると、必ず例外無しに諫言(垂れ込み話)が登場します。
頼朝が生存していた頃の諫言は梶原景時が有名でしたが、余り女性の諫言話は登場しませんでした。
ところが、頼朝死亡後の謀反話は『女性』の諫言(耳打ち)が主流になっています。 一番多く登場するのは「阿波局(保子)」でその次が「牧の方」他です。
私は比企の乱についての、「政子」が襖の陰で頼家に若狭局(比企)が北条の誅殺を策するのを聞いた、、云々は信じていません。
政子は尼御台として担がれている「与党」そのものの立場に有る方で、時政に諫言する必要など全くない。即座に行動できる立場であります。
特に、翌日の騙まし討ちに一役かったなどはとても考えらません。
それよりも、頼朝死後、北条の本流(得宗)が代わったと云うことが驚きなのです。
時政、政子から義時、時房へ主流が移ったと云うことです。
諫言の主流も、頼朝時代の「景時」から、女性(阿波局など)の垂れ込みに代わったのです。
噛み砕いて申しますと、
景時時代の諫言(垂れ込み)は景時に主体性がありましたが、女性(阿波局他)の諫言は、どうも北条得宗(義時、時房)の策謀が先に存在して、「北条の北条による北条の為の、、、」諫言がほとんど占めるようになって行ったと言うことです。
諫言者(女性群)は指示通りの内容を演じるだけの役割になったということです。
だから、演技者が結果について裁かれる事例は皆無であったのです。
たとえば、阿野全成の妻、阿波局の無罪放免も何か不自然さが残ります。
吾妻鏡の嘉禄三年(一二二七)十一月四日の記事
巳右 晴る 御所の女房阿波局卒去す。武州の大叔母なり と一行ある。
(義時より三年後、政子より二年後の話である)
「武州の大叔母なり」とあるが義時の妹、政子の妹、時政の娘の何れの表記も選択されなかった。
勿論、「武州の実母」の表記は見当たらない。
その一行記事の割りには妙に目立つ,大きなオーラのようなものが漂うのはなぜか?
北条一族の政(まつりごと)は一回りも二回りも小さく小さくなっていったと云うことです。
それが、側用人や執事しかやった事の無い人達、「義時」「時房」「泰時」などがやってきた政治そのものであったのです。
昔の「垂れ込み」犯人が頼朝死後の政治の表舞台に登場してきたと推理するのです。目的は一つではっきりしています。北条以外の排斥!であります。
「皆が言っている!」「そんな噂が流れている!」「襖の陰で聞いた!」「誰が誰に言っていた!」そんな話で殺されたら堪ったものではありません。
しかし、権限がなく、自分の主張を信じてもらえない執事や召使や下士の品格の無さはこのような所に出てくるもので、「義時」「泰時」「時房」「阿波局」は側用人の経験はあるがピラミッドの長を勤めた心得がないため、女性(無私)の証言として、誅殺を即断したのです。
唯一、大江広元(書記)に話を通す(ヘッジする!)ことだけは忘れませんでした。
与党である「時政」「政子」は、最早政治の表舞台から引退し、主犯では無くなっていたのです。
何か、「平成の世に話を見てきたような嘘をつく!」と云われそうですが、本当に有った話なのですから、「トラスト・ミー」。
『私は嘘はついていません!』
北条野党説によれば、何も「力」の根源がない、功績もない!集まりですから、、
どうしても頼朝(源氏)の血筋を拠り所とすることことが避けられなかったのです。
「虎の威を借る狐」にとって、阿波局(保子)の云う泰時(幼名頼時)の血が錦の御旗として必要だったのです。
平成の世にあっても二世議員が辿りつく、「出所進退」と「群れを組む」帰結に突き進んでいたのです。
やがて訪れるであろう「北条の末路」がすぐそこまで近づいていたのですが、
以上が小生の「比企の乱(謀反)」についての解説です。
以上
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