【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101241 投稿日:2011年06月27日 22時23分11秒  パスワード
 お名前:いちご
白石 平賀 竹内
キーワード:真木和泉 家長
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

白石が磐井を名のった。→九州の磐井は「君姓」→古代 君姓は 天皇の子だった。→磐井の頃 武列天皇にいたり 子がなく 山陰にいた人が天皇になった。→継体天皇

白石=平賀=竹内 竹内臣麿(南朝) 竹内文書 白石神社・真木神社


さなへさんとこから 神谷。神谷は神屋。宇都宮。→佐田
紋の1つに 「唐花」これは 四辻が使う。

幕末 豪商であった 白石は 皇軍のスポンサー。彼の財力がなかったら維新はならなかったろう と いわれている。

真木和泉も維新に尽力する。

うちの高岡と白石の関係。肥後の白石は 清和源氏だと。
高岡から白石へ養子。山口と姻戚関係。高岡と佐田は姻戚関係。
佐田文書には 橘薩摩氏が肥後の守護職であったことが書いてある。

佐田に関係する戸籍に 平野があり、その 姻戚関係に 白石・田中がある。
田中は 竹内に通ずる。

ひとつの 枠として 
うちの 母方の佐田は 平野を きらっていた といい、
父方のほうは 平野が 地域にいる。

母方は 平氏を 意識していたような感じを 私はうけていた。
白石は 王氏だと 昔 事典でみたことがある。

王氏もサダ突厥も 漢王室に関与するが 
これらは ライバル意識というか
とにかく 
ともに 並び立つには ・・・ という 感じがする。





 

[1]いちごさんからのコメント(2011年06月27日 22時54分51秒 ) パスワード

武家家伝 平賀氏をみると 紋・梅ヶ唐花。藤原姓/古代豪族三国真人後裔か
とある。
松葉の系で、井伊氏の系図では 井伊と松葉は つながっている。。

ネットより三国真人 息長氏、坂田氏、坂田酒人氏と同じく継体帝を祖とする一族。
古代氏族系譜集成』に収録された「三国真人系図」を見ると、こちらも井伊氏と松葉氏とは同族となっている。

出羽国には平賀氏のほかに秋田郡に橘氏、 山本郡 (仙北郡) に中原氏、 雄勝郡に小野寺氏、 比内郡に浅利氏などが関東から入部している。

四男泰実は油河、五男経宗は吉田を称しているが、いずれも平賀郡内の地名であることから平鹿氏は惣領を中心に一族を郡内に配置して平賀郡の支配にあたったことがわかる。

安芸の平賀は 庶子。
東広島市白市地区には、江戸時代、製塩、酒造業を営み商家として栄えた平賀氏一族の木原氏が続いている。
[2]いちごさんからのコメント(2011年06月27日 23時55分05秒 ) パスワード

木原→大蔵の系にある。山口。
井伊・井手・井保などは 橘にも 関与する。
井手は十津川あたりで 相良氏と行動をともにしている。
山本 中原は 山本・佐田で考えるとよい。
浅利氏は 那須氏の本姓。八代の人だと。
扇を射落とした那須与一は義経の軍におり、相良氏といっしょにいる。那須兄弟は平氏に組したが、与一一人源氏につき、武田系図に載る。
同級生に那須さんがいた。

那須弾正の娘・露袈裟(今朝・つゆけさ)
||
犬童頼兄
||ーーーーー、頼兄の息子・内蔵助頼安)のもとに島津以久の娘入輿
||−−−−−頼兄の娘が相良長毎の嫡男・人吉藩2代藩主の頼寛嫁。頼兄は頼||     寛の舅
||     長毎の次女阿万(おまん)が、頼兄の孫である喜平次頼章)嫁
○○
||ーーーーーー田代半兵衛頼昌(犬童家養子・犬童半兵衛)
蓑田甚兵衛

話を整理していてわかったけど、
蓑田さんは 集落にいて 同級生がいた。
蓑田に関して田代。田代という家がない と思っていたけど、蓑田つながり。

蓑田は 松浦に関して 渡邊=蓑田源次とある。

橘→高岡 木原→山口 平賀→白石 山本・佐田で うちの 固まりと 同じ固まりがここにも。
そして 
相良 田代(蓑田) 犬童 島津 と 展開。

[3]いちごさんからのコメント(2011年06月28日 00時15分24秒 ) パスワード

宮本武蔵 の ところで
16淀姫神社には 恒松からたどった。
うちの 集落の中の市房神宮(天孫ににぎ系)のお鏡を預かる家と同じところに恒松はいる。

恒松でネット検索すると うちの恒松に関係しているかどうかは兎も角 恒松も同級生にいた。

相良晴広女(島津義弘室後上村長陸室)
年度不明), 誕生 父・相良晴広、母・側室恒松氏(御東殿), 「南藤蔓綿録」巻之五 巻頭系図. (年度不明 永禄7〜永禄11年頃), 1564〜1568, 成人後、島津 忠平(後の島津義弘)の居城である飯野城に嫁ぐ, 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月 ...

と こちらも 島津に関与する。
[4]いちごさんからのコメント(2011年07月05日 22時23分08秒 ) パスワード

勝手にもってきて ごめんなさい。
島津のことでは 09/11/04 ●20 10/08/17 林原英祐 課題:比企筋『女系ロマン』 人物に

こんにちわ。呉服問屋です。

もし間違っていたらごめんなさい。
確か篤姫も比企系ではなかったでしょうか。

鎌倉比企家の女性が源家の寵愛を受け
子供を授かったものの正室から嫉妬をされ
縁戚のお公家さんを頼って京都へ。

その後、そのお公家さんの領地だった薩摩の
現地管理者的な立場を任され薩摩へ移住。

島津家(篤姫のお家)には、そういう言い伝えがあるそうです。

というのがありました。
[5]いちごさんからのコメント(2011年07月05日 23時32分44秒 ) パスワード

ネットより
3 比企氏の出自
問題なのは、この比企氏が如何なる出自を持っていたのかということである。
 
比企氏の出自に関しては、秀郷流藤原氏とも、小碓命(倭建命)の末裔とも言われてはっきりしないのである。
前者に関しては、秀郷流諸氏の元来は毛野氏であり、同氏族と比企郡の位置づけを重ね合わせれば、考えられなくはない。

武家家伝禰寝氏より
日本武尊 →建部→ 佐多・田代
       |
       ―禰寝 女子
            ||
平貞盛・・・・・・・・・高清


平重盛→禰寝氏→「小松氏」
幕末の小松帯刀(1835−1870)はその子孫に当たる。禰寝氏は中世には豪族として、角、池端、山本氏など、別の名字を名乗る数多くの庶流を輩出した。近代では首相を務めた山本権兵衛海軍大将が出自として本姓を禰寝氏に求めた。
[6]いちごさんからのコメント(2011年07月05日 23時54分23秒 ) パスワード

姓系事典に
佐田には [あり]条を見よ ともあり
「有」条に 出雲の古族。出雲氏の族か?とあり
 出雲国賑給歴名帳
  「☆日置郷☆有臣乙麻呂、外一人」

阿利
 記述なし

日置は 比企に 通ずる。比企は阿保に通ず。阿保は田山に通ず。
阿保は安倍に通ず。
安倍は磐井に関与しており、磐井は 白石が 名乗った。

又 安曇比羅夫は 安部比羅夫ともいう。
[7]いちごさんからのコメント(2011年07月06日 00時15分20秒 ) パスワード

大阪茨木に牟礼神社がある。
12代 景行天皇
 天皇と 皇后播磨稲日大郎との間に生まれた 日本武尊(やまとたける)が 有名。
女装して 九州の 「熊襲(くまそ)」を 退治し、東国を平定し、
「尾張熱田神宮」に 立ち寄り、 熊野の賊を 退治するとき、
「伊勢神宮」の 倭姫から 預かった神剣 「草薙の剣」 を 置いていったため 
熊野に没した。
又は 古市まで来て 「ヤマトは 国の まほろば」の 言葉を残し 没したと言われる。

ヤマトタケルは 山口県佐波郡牟礼(防府市)から 船出された。
ここの牟礼には 垂仁天皇の皇子が住んでいたといい、その飛び地が攝津の牟礼で、牟礼神社があるところ。
佐波郡の牟礼に うちの 佐田があった。

景行天皇の熊襲征伐は実に60回くらいを数える。八代に 球磨族 そお族平定のみぎり と碑がある。
ルートが 確立されていたことがわかる。
又 熊襲も 「いざなぎ・いざなみ」の子供。
伝説の世界では 討った方も 討たれたほうも 同族。
[8]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 00時35分07秒 ) パスワード

5より
3 比企氏の出自
問題なのは、この比企氏が如何なる出自を持っていたのかということである。
 
比企氏の出自に関しては、秀郷流藤原氏とも、小碓命(倭建命)の末裔とも言われてはっきりしないのである。
前者に関しては、秀郷流諸氏の元来は毛野氏であり、同氏族と比企郡の位置づけを重ね合わせれば、考えられなくはない。

毛野氏→宇都宮氏
[9]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 00時43分50秒 ) パスワード

 比企一族の概観
 比企氏の姓は、武蔵国比企郡に由来する。
その比企郡に勢力を拡大して、館を構えたのが、武蔵秩父党の次郎大夫重隆と、その娘婿である帯刀先生源義賢である。

(義賢は 木曽義仲の父。義賢の館を「大蔵の館」といい、京都嵐山松尾大社あたりにあった大蔵は 山口からたどれた。

この義仲の養い親が「中原・本姓 金刺 これは 佐田」)で、
山口 佐田 の ワンセットが 出て、

森(毛利)は 義仲に 従っており、
後世 岡山に森氏が 入国したとき「笹井」が 仕える。 
徳川氏が 写真をとったものに 「毛利城(森城)」と 
書いてあった。
[10]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 02時55分29秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典より
古代荒脛(あらはばき)族と称する種族が武蔵国及び奥州に多く居住していた。京都の人々は彼らを蝦夷と呼んだ。足立郡に荒脛社が多くあり、今は氷川社の末社となっている。

荒脛王阿部氏は熊谷郷に王居を構えていた。阿(くま)族の集落をクマガイと称す。阿族は安部、阿部、熊谷を苗字として奥州太平洋岸に多く居住している。埼玉古墳稲荷山鉄剣銘の被葬者は熊谷郷出身の阿部氏である。熊谷郷は後世の成田村で、此地より荒脛族羊氏の後裔成田氏が発祥する。

大ノ国(百済)の渡来人を胡(えびす)或は羊(ひつじ)と呼び、居住地を大胡、多胡と称した。奥州十和田湖附近に荒脛族の成田、奈良、秋元、安保の一族が多く存し、津軽では成田氏が大姓である。

武蔵は胸刺(むさし)と書き、胸(むな)は空(むな)でカラ(韓)の意味、刺(さし)は城(さし)で非農民の集まる所を云う。鍛工、石工、木工、織工等を業とした韓人の渡来地を胸刺と称し、本国の名を取って大田庄と称した。田は郡県の意味。海洋民石(いそ)族は石川、石田を苗字とす。上州では磯部と称す。

海洋民渦族は薄(うす、うすい、すすき)と称し、碓氷、鈴木、須々木を苗字とした。古代朝鮮語の阿(あ、お)は日本語化される前は、ウと読まれた。海洋民渦海(うづみ)族は宇津見、内海、内田を苗字とした。安曇、渥美のアツミはウツミの転訛である。

相良氏の子孫は 内田も名乗る。
相良氏は藤原氏。佐田も大中臣 中臣 藤原。

ういさん すずきさん については 熊野権現の左右の翔となってついてきたとあり、彼らは 三本足の烏を 旗印にする。

阿(お)はホと読み穂積、保泉と称した。巴(うずまき)は円で遠藤を称し、渡辺となる。渡(パタ)は海の意味。すなわち、頭文字にアイウエオが付く苗字は海洋民の渡来人である。埼玉県の人が住所録を作る時はア行を多めに用意したほうが良い。是等の苗字の由来については詳細に記した。

古今の姓氏辞典では、苗字の発祥を村名に結び付けているが、これは大きな誤りである。埼玉県内では神官、修験僧などの特殊な例を除き、村名より発祥した苗字は殆ど例が無い。

尚、秩父平氏及び武蔵七党の武蔵武士は、村名より発祥した在名であり、苗字では無い。平家物語及び吾妻鑑等には武蔵武士の苗字は一切記載されていない。然し、当時の農民は全て苗字を持っていた。岡部六弥太忠澄は在名で、岡部ノ滝沢六弥太忠澄が苗字である。現在岡部を苗字とする人は六弥太の子孫では無く、滝沢氏が子孫である。武蔵武士は他国出身の出稼衆が多い。成田氏は上野国小野郷中村出身の小野里氏が本名であり、児玉党は下野国出身の富野氏が児玉党各氏の祖となっている。武蔵武士の本名は詳細に調査した。

本書は、古代苗字発祥から、中世武蔵武士、近世農民の苗字をすべて記載した。埼玉県内の1900余の村々を訪れ、寺院、神社等の碑文に記された苗字を書き写し、寄進帳や過去帳及び古文書を調査した。本書第一卷で苗字数8600余を収録した。旧家については県内全村の正副戸長(旧名主組頭)を始め、由緒等を詳細に調査した。
[11]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 22時25分07秒 ) パスワード

娑陀(さだ)族は出雲国秋鹿郡佐陀庄(島根県八束郡鹿島町及び松江市)に渡来し佐太大神社(鹿島町)を祭る。其の一族は伊勢国度会郡佐田村(玉城町)に移住し狭田国生(さたくなり)神社を祭る。娑陀族渡来地は海洋民猿田彦の移動に似ている。

さるた さった さいとう つつき うつみ 宮道
斎藤とは斎宮頭の藤原氏より採った組織名の斎藤
済(わたり)の神は海洋民の守護神であり、神武東征以前の渡来人の奉祭神である。

比企 竹田
斎藤氏流野本氏 比企郡野本村(東松山市)より起る。
疋田斎藤為延―為頼―竹田四郎大夫頼基

渋江=橘薩摩氏と藤原のからまり(この家からつながるのではない)
同郡村国村(岩槻市) 風土記稿村国村条
岩槻太田家及小田原北条家より与へし文書を蔵す、宛名渋江鋳物師
小五郎の末孫の家にある書状に
小曽河小五郎殿、虎松丸花押』。『永禄七年甲子十一月二十八日、如前々、諸公事令免許者也、渋江鋳物師、花押(太田氏資)』

村国村記念碑に「当所はもと埼玉郡渋江郷に属せし地にして、現在字鋳物屋敷と称し、古来居住の斎藤氏は歴代里正を勤め鋳金を業とせし旧家なり」

笹井=後世西園寺と鷲尾のからまりにみられる この家からつながるのではない。
同郡扇町屋村(入間市) 笹井村宗源寺文書に「弘化四年、観音堂へ大般若経寄進、扇町屋村斎藤忠左衛門」。

服部と斉藤(サダ)
同郡川越町 嘉永七年服部文書に十組大世話役斎藤弥兵衛。万延元年川越小銭相場取建願書に大世話役斎藤太兵衛。明治元年川越藩分限帳に「藩医針治川瀬宗斎は町医斎藤周甫弟なり」。他いろいろ

高麗郡柏原村(狭山市) 当村に此氏多く存す。

同郡新堀村(日高市) 八項参照。高麗神社明治三十八年碑に斎藤春吉あり。八戸現存す。

同郡大塚村(川島町) 諏訪社天保三年御神燈に斎藤林蔵。明治九年副戸長斎藤芳三郎・嘉永五年生あり。六戸現存す。

比企 斉藤
同郡五明村(玉川村) 白石神社
武州比企郡釜形郷八幡宮
八幡社文書に「鎌形八幡宮別当本山修験大行院は藤原姓斎藤氏なり。

小川(鷲尾(サダ・中原)から小川が出た。)
同郡小川町 明治十四年本街一丁目消防委員斎藤利八.。

同郡大塚村(小川町) 字中城に城跡あり別名猿尾城と云う。正徳二年当村栃本観世音縁起に「比企郡大塚村如意輪観世音は、六条天皇の御宇、土豪増尾十郎兼信、斎藤六郎輝実、力を協せて殿堂の衰頽せるを再建し、庄園を寄進し、又百体観世音像を造りて、百僧を供養し給ふ。増尾氏は元弘の頃まで栄えたりしが、守邦親王に再挙を勧め事成らずして共に亡び、斎藤氏は一族と共に南朝に尽くし、一族中には名を顕はしたるあり云々」・・・斎藤氏子孫は当村名主大塚氏なり。

同郡児玉町 賀美郡金窪村陽雲寺略記
風土記稿児玉町条に「旧家者正右衛門、斎藤を氏とす。家系一巻を蔵す。其略に左大臣魚名の裔孫越前追捕使斎藤越前権介為頼二十五代の孫摂津守定盛と云ふ。管領山内上杉民部大輔憲政の麾下に属し、当国賀美郡金久保の城主たり。天文二十年上杉没落の後、北条氏康に属して永禄七年七月十五日卒す、法名崇栄寺宝山道一と号す。

同郡帯刀村(上里町) 菅原神社安政七年碑に斎藤又左衛門あり。現存無し。

少しながいけど
娑陀族渡来地は海洋民猿田彦の移動に似ている。
さるた さった さいとう つつき うつみ 宮道 
比企 竹田 渋江(橘薩摩氏)笹井(西園寺) 服部 柏原 日高 川島
白石神社 小川(鷲尾・さだ・中原) 児玉 菅原神社
は 関連している。 
 
[12]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 22時56分09秒 ) パスワード

百済氏=坂上氏=東漢氏=和漢氏で 蝦夷をうった坂上も 蝦夷。
球磨郡において 山田・葉木明神に平河の霊社があった。平河は 桓武天皇の皇子・良峯子孫で良峯は 「劉姓」。

猿田
古事記・天孫降臨条
天孫ににぎの降臨をいち早く知り 先導した。のち 貝に手をはさまれ 溺れ死んだ と あり、海神族としれる。

サダ突厥族は 漢王室・唐王室と姻戚関係があり、唐王室に真珠を売りにいっていた。

猿田彦は別名国底立神
神代初代国常立尊の別名で、二代が豊国主尊である。
豊は 周 秦 漢に関与する。
猿田彦は出雲国秋鹿郡許曽志神社(松江市古曽志町)が生地であると伝承あり。
猿の尻は赤いので赤秦と称すが、その実は、百済系祭神を赤と称し、新羅系祭神を白と称す。

高麗郡猿田村の猿田氏
上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。八剣神主田中右近の先祖か。

八剣社については
熱田神宮の竹内氏の女子が源頼朝をうんだので、自身は藤原氏に職をゆずり八剣社を創建した という 話がある。
同じ名の 神社は 系を同じくしており、 田中=竹内=猿田=サダ =白石=平賀のつながりが出来る。

比企郡別所村字猿田
長野県南安曇郡堀金村

サダは 尾方と同族。山口とワンセット。
サダは 金姓。女真族に顕著に出る。清。
しかし 古代において 有である。
漢王室は 劉姓だが 父方は 高姓。

う条 下村条に
漢光武帝の子孫。少昊金天氏の末 とある。少昊金天氏の子孫は金を名乗る人が多い。新羅もそうである。
[13]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 23時04分27秒 ) パスワード

内海 ウツミ 宇津味 宇津見 宇都見
長野県小県郡真田町

宇津、宇都、宇豆、禹豆は、渦(うづ)、太(うづ)、打(うつ)、内(うつ)の当字で、ウツはウツウと発音され、渦生(うづう)、打生(うつう)、内生(うつう)の生はウミと読まれ、海の字を当て、打海、内海はウツミ、ウツウミ、ウチウミと称し、宇津見、宇津味とも称す。

武蔵国の宇津味族 東日流外三郡誌
最古代東日流外三郡暦に「支那国・周となりて武王在位す(紀元前一一二二年)。東日流(津軽)にては大船を造り、渡島および東島崎に交航す。日向に高天原天神地神の愚想信仰起こり、衆これに従ふ者多し、この尊師は女人といふ。成王即位す(紀元前一一一五年)、日本に国王なし。奥州に津保化族、武州に宇津味族、越州に長三毛族、濃州に津祢奈族、大和に津止三毛族、紀州に奈津三毛野族、南海道に大賀味族、淡路に賀止利族、因州に宇津奴族、芸州に亜羅三毛族、筑州に猿田一族・日向一族ありて君主の領座を闘争す」と見ゆ。紀元前一千年頃の武蔵国に宇津味族が居住していたと云う。
[14]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 23時10分56秒 ) パスワード

海部族 
和名抄に海部を安萬・安間・阿末・阿満と註す。
丹後国天ノ橋立にある籠(この)神社宮司第八十二代海部光彦氏は海部族の宗家である。
同神社海部系図に「彦火明命(ひこほあかりのみこと)―児彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)―児建位起命(たけいたてのみこと)―児倭宿禰命(やまとすくねのみこと)―児天登目命(あまのとめのみこと)・亦云う葛木彦(かつらぎひこ)」と見え、その左に「建位起命―児宇豆彦命(うづひこのみこと)―児倭宿禰命―亦云・葛木彦命」と見ゆ。

此の一族は宇豆(渦)族海洋民なり。また、信濃国の穂高見命、大和国の椎根津彦命も同族なり。姓氏録に「綿積豊玉彦命―宇都志日金折命・亦名穂高見命。其の弟に振魂命―武位起命―椎根津彦命」と見ゆ。宇都(打、内)族海洋民にて、椎は棹を操る船頭の意味である。国造本紀に「大倭国造(やまとのくにのみっこ)。神武朝の御世、椎根津彦命を以って、初めて大倭国造と為す」と見え、

日本書紀神武天皇条に「東を征ち給ふ。速吸の門に至ります、時に一の漁人あり艇に乗りて至る。天皇・之を招き、因って問ひて宣はく、汝は誰ぞやと。対へて申さく、臣は是れ国神なり、名を珍彦と曰ふ。魚を曲浦に釣り、天神の御子、来りますと聞る故、即ち迎へ奉る云々。乃ち特に名を賜ひて椎根津彦と為し給ふ。此れ即ち倭直部が始祖也」と見ゆ。此の一族は珍(うづ)族にて、神武東征以前より丹後・大和地方に居住していた海洋民の国神(くにつかみ)である。

和徳は 大養徳で 倭で 桓武天皇后・高野新笠と同族で、上の人たちと同族。
つまり 安東大将軍 安部彦 長脛彦も 同じ流れにある。

又 竹内宿禰を出す 紀氏にも つながる。
[15]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 23時25分53秒 ) パスワード

下野国宇都宮は宇都族紀姓の氏神なり。
宇都宮氏は見聞諸家紋に右巴、或は左巴と云い、巴は渦(うづ)である。

太秦族
勝(すぐり)は郷・村の首長を意味する古代朝鮮語で、新羅系秦氏は勝の字を用い、阿耶系漢氏は村主(すぐり)の字を用いた。

秦は 新羅系。漢は百済系。

多族
古代氏族系譜集成に「神武天皇―神八井耳命―武宇都彦―武速前命―敷桁彦命―武恵賀前命―武諸木命(多臣祖)」と見ゆ。宇都彦の末裔にて海洋民なり。神武以前のはるか古代に大の国(後く百済)から北九州に渡来した集団で、神八井耳命の後裔説は仮冒である。オオ、浅見、江条参照。
サダ 中原 事代主 この子孫 代々皇后にたつ。

内族
ウチはウツの転訛にて、内、打は、氏、宇治、宇智、宇遅、及び渦、珍、宇豆、宇都、宇津に同じ。古事記に木国造の祖宇豆比古(うづひこ)と見え、景行紀三年条には紀直の遠祖菟道彦(うぢひこ)と見ゆ。紀国造の祖宇遅比古命の妹・宇遅比女(亦は山下影日売とも云)は、孝元天皇の皇子彦太忍信命の児屋主忍男武雄心命の妻となり、武内宿禰を生む。武内宿禰は于地能阿曽(うちのあそ)、于知能阿曽、或は宇知能阿曽と見え、内の朝臣の意味なり。また、武内宿禰の兄は山代内臣の祖で味師内宿禰は山城国綴喜郡有智郷に住居す、有智郷に内神社(八幡市内里)がある。味師(うまし)、武(たけし)は美称なり。内宿禰の兄弟は菟道(宇遅)族にて、日槍族葛城氏と同族である。

武内宿禰は代々の襲名で 後世 南朝 ・竹内臣麿など。
竹内=平賀=白石 で
斉藤に白石が関与。後に 清和源氏佐竹氏族の白石が藤原に入ると 高倉になる。藪である。かれらは 閑院で 他の人たちと つながる。高丘 西園寺など。

安曇族
厚見、渥美、阿積等にも用いる。大物主命の児大田田根子(おおたたねこ)が撰録者とされる秀真伝(ほつまつたえ)に「ウタタネコ」とある。ウはオオ(ホ)或いはオの原語であり、ウタタネコと表記した頃は、まだ日本語化していない渡来語である。内海(うつみ)、海積(うつみ)のウヅミは、日本語化されてオオヅミ(ホヅミ)、オヅミと称された。オ(阿)は、アと読まれて、安曇(あづみ)、阿曇(あづみ)、阿積(あづみ)の字を用いる。即ち、大積(おおづみ)、穂積(ほづみ)の転訛である。

古事記に「底津綿津見神・底筒之男命、中津綿津見神・中筒之男命、上津綿津見神・上筒之男命、此の三柱の綿津見神は阿曇連等の祖神として以て伊都久神也、故に阿曇連等は、其の綿津見神の子宇都志金折命(穂高見命)の子孫也」と見ゆ。信濃国安曇郡穂高地方に海洋民の臼井氏、斎藤氏等が多い。
[16]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 23時36分34秒 ) パスワード

渡部族
綿積(わたつみ)、海積(わたつみ)族は渡部、渡辺と称した。

日槍族
新羅国王の王子天日槍は代々の襲名にて海洋民の首領なり。
日槍は菟道(うぢ)・山城国宇治郡宇治村居住の宇津味族である。

関氏 斉藤を介して 真田と関連
仲哀天皇八年紀に「筑紫伊覩(いと)県主の祖五十迹手(いとて)の本土を号けて伊蘇国と曰ふ」と。筑前国風土記に「五十跡手、奏して曰く、高麗国意呂山に天より降来る日桙の苗裔五十跡手・是れ也。五十跡手の本土を恪勤(いそし)の国と謂ふべし」と見ゆ。伊蘇(磯)部は伊勢国に移住して伊藤氏を称す。伊勢最大の苗字なり。海洋民は、西国では海部と称し、伊勢国では伊勢部を称し、是より東国では磯部と称す。また、日槍の新羅国王の名は昔(せき)氏なり。多波那(丹波)の昔脱解は日槍の後裔にて、海運・鉱山等で財を成し新羅に渡り、新羅国王第四代となる。昔・関・関野・関根氏等は日槍集団にて海洋民なり。秩父国造家の本名は此の関野氏なり。武蔵国へ移住した磯族は石(いそ)と記し、石井、石川等を称す。
[17]いちごさんからのコメント(2011年07月07日 23時51分23秒 ) パスワード

尾張[真澄田神官]
ネットより
関氏。

関十郎左衛門の子。一宮城主。小十郎。織田信長、 豊臣秀吉に仕える。小牧長久手合戦で討死。

「甲府日記」 と 「甲府御館記」 にみえる関新助孝和
関新助 (別の通称、弥右衛門 ?3) 孝和 $(1645?^{4}-1708)$ の実家 内山家は信濃国

第 2 節 関新助孝和の履歴
甲府日記の寛文 5 年 11 月 23 日, 12 月 18 日, 21 日の記載から, この年の甲府藩で関姓. の跡目相続が 1 件あり, その 養父は関十郎右衛門で, 養子が関弥右衛門であることが記載. されている.

真清田神社
ご祭神
天 火 明 命(御本社)天照大御神の孫神
さんみょう
三 明 神 社 (別宮)
昭和40年、御本殿向かって右に摂社として、服織神社が造営され、真清田の御神徳を象徴しています。


真清田神社の神紋は 竹の輪に九枚笹で 九枚笹は笹井の家紋と同じ。





[18]いちごさんからのコメント(2011年07月08日 00時27分31秒 ) パスワード

いろいろな本の抜粋
新羅の王家の金・昔・朴の中の昔氏が殷・周の宝物を持っていた。伊勢神宮荒木田氏も殷・周の宝物をもっていた。
・・・鹿島昇著・にぎはやひ渡来の謎・荒木田家嫡流伝承

宮中の儀式のときの言葉は「新羅」のものだと言語学者は言っている。
中国文化伝来辞典 寺尾義雄 河出書房 ¥3800  p172
宮廷の大祓え
   百済系の東西文氏が道教に因んだ祝詞を漢音で読奏した。
   大宝令・養老令・延喜式
道教
   ベトナム・カンボジア・韓半島に伝わり日本でも七世紀にはかなり広く行われた。
日本書紀
   神道の語の由来は、道教の典籍にある。神道の語は易経に初出し、二世紀半ばに道教の義に用いられている。
妙見信仰
   北斗七星に対する信仰。道教に北斗七星に対する信仰がある。仏教にはなかった。仏教以前に入ってきて仏教と結びついた。関東に土着した韓半島からの渡来人の後裔である千葉氏(坂東平氏)が自らの氏神とした。

千葉氏(平将門) 蚩尤 ( しゆう )  田原藤太 の お顔は 同じ。天狗のよう。これは 同じ流れにあると考える。

天狗は天つキツネと鳥の間の子。天狗が関与する鞍馬。そこの魔王護法尊は毘沙門天。龍神 が 眷属。

蚩尤と女媧は同じ系列。ミャオ族は 女媧をまつり 蚩尤の子孫とし、シンボルは 「揚羽蝶」である。苗族は 有苗。

盤古子孫
   
漢民族・苗族は盤古子孫とされる。
田・向は盤古子孫につき、
向は神農氏(炎帝・赤帝)子孫にある。

中国の人は一世をウバイド人とし、有苗・三苗。二世を伏儀・女媧とする。

中国文化伝来辞典 寺尾義雄 河出書房 ¥3800
苗族が祝いにつく丸い餅が近畿以西の日本と同じで紀元二〜三世紀にはあったという。苗族は日本との共通点が多く、日本の民族や文化の源流とされている。

東流日外三郡誌には 南蛮より一束の稲を持ってきた 日味子 と 書かれる。南蛮は 太公望も旅したことがある 荊楚の地。
きをまつる人たちがおり 龍を飼う人たちがおり 熊 虎をまつる人たちがおり、殷は き であり、周との 牧野の戦いでは 70万ともいわれる人が傘下にいた。
[19]いちごさんからのコメント(2011年07月10日 14時37分04秒 ) パスワード

宮本武蔵から
[35] (2011年04月24日 23時07分34秒 )
高岡   天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
笹井   八重事代主
佐田   大中臣 中臣 卜部
白石   皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊 山幸(白石明神より)
に 関与していた。

吉田 卜部は 吉田。
尾方 スサノオ 
松本 私の集落で 尾方 吉田 松本は 親戚だと。

田中    高岡の姻戚関係にある。
高田    萩は 四軒で 萩。高田はそこにあった。
永田    萩にあった。
山口    下益城郡にいた。


[36] (2011年04月24日 23時19分40秒 )
『古事記』・『新撰姓氏録』・『先代旧事本紀』・『阿蘇氏系図』によれば、神八井耳命の子孫は繁多に分かれ、多君(太安万侶の一族)・小子部連・坂合部連・火君・大分君・雀部臣・小長谷造・伊予国造・金刺舎人・石城国造・丹羽臣・茨田連・嶋田臣等

笹井は 根笹を使う 清和源氏がいる。




[37] (2011年04月24日 23時32分06秒 )

孝元天皇の兄の家が 雀部朝臣だと。(この頃は朝臣といってない。)。



[38] (2011年04月24日 23時32分48秒 )
雀ささき  雀部条を見よ
      (大)雀臣 武内宿禰の末
       臣勢氏の族 雀部朝臣

      摂津の雀部 違い柏 兎原郡

      丹波の雀部  天田郡に雀部郷あり。
             松尾文書 神家 雀部城(佐々木村)
             丹波志  雀部鍛冶子孫 福知山 紺屋町 下荒             野町 鍛冶半兵衛 前田村に由緒あり。

雀部造  多臣族。 古事記・神武段 神八井耳命は雀部臣 雀部造云々等の祖。

雀部臣  武内宿禰の末。星河建彦宿禰

越智 越智はこしち をち条を見よ

皃島 備前国皃島郡 和妙抄 古之末 神代以来 旧地 
          イザナギ・いざなみ 国うみ条 古事記に建日方別 吉          備・皃島を生む。
皃島高徳  父・備前国 和田二郎範長
      松崎・和田同族  和田は 佐々木氏流

      今木三郎和田備後の守範長が子・ 新羅王の子・天日槍の後な       り。
                   「西源院本太平記」
16より
昔・関・関野・関根氏等は日槍集団

萩の高岡は 天孫ににぎゆかりの神社「市房神宮」のお鏡を預かる家と姻戚関係があった。又 尾方とも姻戚関係。
古くににぎの祖母・アマテラスと尾方のスサノオの頃
倭(和)の海神族
海神系とつながる アマテラス子孫・神武まで 彼らは又 「日高」「彦火火手見」で 山幸系とつながる。
スサノオ系という事代主の女子と神武のドッキング。神八井耳命子孫
欠史8代といわれる人たちだが、和徳から川津姫・磯城につながる。
川津・磯城は歴史のあけぼのの頃にみられる。

ストーンと 西園寺実氏・鷲尾のからまり この女子 両院並立のもと。
西園寺実氏を祖とするのは 笹井。鷲尾は中原でもあり、佐田でもある。
サダは藤原・大中臣・中臣でもあった。

笹井の笹紋・真澄田神社の笹紋・関氏
事代主
事代主→藤原→平氏・源氏


[20]いちごさんからのコメント(2011年07月10日 14時53分45秒 ) パスワード

4から9で 比企氏・毛野氏・秀郷・宇都宮などが出た。又 サダ・天孫ににぎゆかり神社は高岡を介しつながる。白石も高岡からつながり、佐田の戸籍に入る平野のつながりから 出る。

ヤマトタケル・比企氏については「武蔵の比企氏の系譜 」ネットより
をみたが、だいたい、萩のグループにおさまる。
又 秀郷・建部がサダから出ることで、私のグループが古い時代のことがわかるのが特徴ということに一致する。

15より
日鉾族は葛城族である といい、葛城に鴨氏がいた。大阪高槻の鴨神社では欠史8代といわれる頃の葛城にせまる としている。
[21]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 02時39分04秒 ) パスワード

毛利氏
遠祖・天穂日命
途中 平城天皇の皇子・阿保親王の子孫が熱田神宮に養子に入り、再び出て毛利に養子に入った。大江を名乗る。子孫・中原広元(大江広元・毛利広元)

毛利城(萩城)を写真に撮った徳川氏は 森城と書いている。

[22]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 02時40分43秒 ) パスワード

森甚五兵衛
阿波水軍を率いた森氏の系は 藤原氏・魚名・秀郷・佐藤・首藤・鎌田・佐田
椿泊にある佐田神社。森家先祖の佐田九朗兵衛が祀られている。
森家成立書によれば、森家の先祖は因幡の国出身の鎌田九朗左衛門と言い、細川家の家臣であった森飛騨守と久米安芸守の仲介により細川家に仕官した。
鎌田九朗左衛門は、佐田九朗兵衛と改名し沖の原(現鳴門市大津町段関)に移ったという。

後に三好氏に仕えた。松永久秀に兵法を教授したとされるが、意見が対立し阿波国に戻ったと云われている。

阿波(あわ)(徳島県)の細川氏につかえ,のち大和(奈良県)の松永久秀(ひさひで)にまねかれ兵法をおしえた。阿波水軍森家の祖として佐田神社(阿南市)にまつられている。因幡(いなば)(鳥取県)出身。姓ははじめ鎌田。
[23]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 02時43分46秒 ) パスワード

ネットより
鎌田家譜で検索
鎌田正清が我が家の先祖であるという話は聞かされていた。私は正清に興味を持ち、 いろいろ・・・・という項目
・鎌田は藤原不比等の子孫。
・魚名をとおり
・秀郷をとおり
・佐藤さとう 公清きみきよをとおり
・首藤すどう 助清すけきよをとおり
・鎌田通清をとおり(源義朝を養育)
・正清まさきよ(正家)義朝郎党
・光次(源義経郎党)
・これより19代子孫・正廣(孫太郎)三好義賢に仕えた。
・二代続いて・孫左衛門を名のる。
・正照は縫殿亮1585年頃の人
・正照の4世孫・5世孫彦左衛門を名乗る。
・その子・有的は1718年生まれ。
[24]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 02時47分38秒 ) パスワード

ちなみに、「光次」の上の「光政」は、義経四天王の一人のあの鎌田光政のことである。
 また、その上の「俊長」に関して、

―― 俊長は伊豆志稿に「政家の子俊長、本州伊東に来る。・・・」と見ゆ。

 との記述がある。
 そういえば、伊豆半島の伊東市に「鎌田」という地名がある。こことなんらかの関係があるのかもしれない。
[25]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 02時51分51秒 ) パスワード

阿波細川氏の滅亡
天文21年(1552)、阿波守護・細川持隆もちたかは阿波公方の義冬を再度入京させ、将軍に就かせようとした。しかし、三好長慶の弟・義賢よしかたはこれに反対した。
 結局、この争いがきっかけとなり、三好義賢は細川持隆を阿波見性寺けんしょうじにて自害させた。そして、持隆の遺児・真之さねゆきを傀儡の守護に擁立して、実権を握った。このとき、義賢は持隆の妻であり、真之の母でもあった女性を妻に迎え、のちに三好長治ながはる・十河そごう存保まさやすとなる二子をもうけている。
[26]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 03時00分08秒 ) パスワード

細川家 家臣団【付記】
細川持隆の愛妾小少将局は細川真之を産んだ。彼女は後に三好義賢の妻となり、三好長治、十河存保を産んだ。小少将局は長治を偏愛したと云う。長治には横暴な振る舞いがあり、これに怒った異父兄真之は、天正四年十二月、直臣と共に福浦連経を頼り茅ヶ岡城に籠もった。仁木伊賀守、林喜内、大粟右近、服部因幡守、森監物、源田源九郎らがこれに従った。天正五年三月、長治は茅ヶ岡城攻めを行うも、その道中、地の利を活かした細川勢に敗れる。さらに一宮成助、伊沢頼俊、吉井行康、多田元次らも真之側に寝返り、長治は篠原長秀を頼り、今切城に逃れる。しかし、今切城を攻められ自刃した。

矢野国村は長治自刃の報を受け、主君の仇討ちとして伊沢頼俊を討つ。天正六年正月、国村は十河存保を三好家当主として勝瑞城に迎えた。一宮成助は三好家に対抗するため、長宗我部元親に援軍を求めることとなった。天正十年八月八日、三好家臣江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進ら数百名は茅ヶ岡城を攻め、細川真之は自刃した。これにより、阿波細川家は滅んだ。
[27]いちごさんからのコメント(2011年07月14日 03時10分13秒 ) パスワード

「阿波志」には、藤原正廣(鎌田孫太郎)――正忠(初代・孫左衛門)――正光(二代目・孫左衛門)――正照(縫之助)と四代にわたり、三好氏に仕えたことが書かれている。
[28]いちごさんからのコメント(2011年07月15日 21時03分36秒 ) パスワード

細川持隆
||ーーー細川真之
小少将
||ーーー三好長治・十河存保
三好義賢

藤原正廣(鎌田孫太郎)以下4代 三好に仕える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

関氏・森氏・池田氏(森長継おかやま人物往来・銀河通信18大神太郎より)
関長治(1657年)9月6日森長継の六男として生まれる(九男との説もある)。
叔父の宮川藩主・関長政 関 長政(せき ながまさは美作宮川藩の初代藩主。
新見藩関家初代。正室は真田信吉の娘。
子は養子に関長治、養女に松平康雄室、毛利元次室。 の養子
☆以前福岡大川家具の関氏と真田氏は関係があったのだろうか?と疑問をいだいたが古い頃の関係があった。田舎ではこういう関係が続いていることがあるようだ。

昔 森家を継いだのは森長可であった。長可の弟三人が蘭丸、坊丸、力丸であり、その三人は織田信長とともに本能寺の変(1582年)で死ぬことになる。

長可自身は、天正12年(1584年)の長久手の戦いで義父の池田信輝(長可の室は池田信輝の娘)・信輝の子之助と共に討死にする。長可の後を継いだのは、長可の弟、森忠政であった。この忠政と池田家は縁が深く、池田輝政の先妻と忠政の先妻は姉妹であった。また池田長幸(輝政の甥)の室、池田忠継
(輝政の子)の室はどちらも森忠政の娘であった。
☆池田の遠祖は紀氏。高岡も関与していた。

忠政は嫡子忠広に先立たれ、外孫である長継を森家の後継ぎとした。長継の実家関氏は森家の家臣で、長継の母は森忠政の娘であった。
また長継の実父関成次の母は森可成の娘であった。

森長継は弟の関長政に1万8千7百石余りを分知し、支藩として関家を立てた。

源姓森氏と大江氏子孫毛利氏
相模の毛利荘園は従前森荘園といった。源平合戦はなやかしき頃、八幡太郎源義家の6男、源義隆が鎌倉の森荘園(前出の毛利荘と同じ場所)の支配者となり、森義隆と称した。これが義隆流森氏の始まりである。

木曾義仲の養い親・中原兼遠(中原=佐田)
森氏と木曽氏・池田氏
源姓森軍団は信長公亡きあと、豊臣秀吉軍に属した。信州の木曽義政軍が森長可軍を攻撃するとの情報に接し、森長可の軍勢4万は海津城28万石を放棄し、美濃兼山城に戻る決定をした。森軍は深夜木曽義政の私邸を包囲し、木曽義政に面会を求め、宿泊を要求した。驚いた木曽義政は、森軍の宿泊を同意した。その際、木曽義仲嫡流木曽義昌(木曽義昌の嫡女子は苅安賀城主の森高政と婚姻する)の嫡男を人質とした。

森高政の軍勢は、中島郡大和町の刈安賀城主の浅井一族と婚姻関係にあり、・・・本能寺の変直後に、豊臣軍と毛利軍は、豊臣方軍師蜂須賀氏、黒田氏と毛利方大谷氏が交渉し和解した。毛利家側保証人は、長州藩家老で毛利元就の娘五竜が嫁いだ先の源姓宍戸氏と決まり、秀吉側保証人は、尾張国の豪族で藤原流森重政・豊臣秀吉の庶子森高政兄弟と決定した。森重政、森高政は毛利輝元と面会し輝元の指示により森高政から毛利高政と氏名を変更した。

保証人=人質は血縁関係のある者に限られるは戦国の世の常である。豊臣秀吉には多くの庶子が存在したと推定する。

森高政は海岸線を有する豊後日田・佐伯城主となり、・・・そろばんを持ち込んだのは豊臣秀吉の家臣であった森勘八郎高政であり、高政は秀吉の側室・森氏の出で、秀吉の庶子ともいわれる。

佐伯城主森氏末裔の森千代子は、戦前の昭和時代にドイツ・イタリア・スペイン等と共に国家社会主義運動を進めた近衛文麿元総理大臣の妻となっている。
長身近衛文麿元総理の母は元加賀藩前田家の娘である。

近衛文麿嫡子温子(よし子)姫は侯爵細川護貞と婚姻した。よし子の嫡子には元総理大臣細川護熙と近衛文麿家の養子となり近衛家のあととりとなった近衛文麿元総理の外孫細川忠輝氏がいる。
[29]いちごさんからのコメント(2011年07月15日 22時39分53秒 ) パスワード

古代に遡る
山田 葉木明神
山口 高御魂巣日神から出る
き  佐田 紀
内田 うづ
那賀 常陸那賀郡
渋谷 鎌田でも出る。菱刈 総州家に 通じる祁答院・入来院らの渋谷一族
ヤマトタケル 比企氏 佐田が関与
常磐 笹井 佐田
大阪 太田神社 近く 太田陵 継体天皇陵
   高田 橘 など 守戸 高田→阿部高田姫→佐々木→和徳稲荷→阿部
鶴田 高槻の私の家の近くの鶴田さんは おばあさんが 白蛇様を まつって   いたという。敷地に小さなお堂を持っている。 

言葉の抜粋
山田・山口・きの庄村・内田・那賀郡・渋谷・ヤマトタケル兄・大うす命・常磐・鶴田

おっさんのひとりごと 鎌田家譜より
鎌田正清が我が家の先祖であるという話は聞かされていた。私は正清に興味を持ち、いろいろと調べた。彼のお墓のある知多半島・野間へ行き、野間大坊という寺で「源義朝公ご最期のご絵解えとき」も聞いた。相模国に居た頃の住居跡「鎌田堂」や居城があったといわれる山田神社も訪ねた。

わが故郷は徳島県阿南市山口町である。


忘れられた「きの庄村」についての若干の史料
―名古屋市博物館蔵「蜂須賀はちすか家政いえまさ判物はんもつ」の周辺―

1  「蜂須賀家政判物」 ― 「きの庄村」のなぞ―
きの庄村の有力者は蒲田縫之助

鎌田孫左衛門は那賀郡桑野村浦之内に住んでいた

二上山 當麻 鹿島神社

景行天皇 山辺道上陵 奈良県天理市渋谷町

守部氏(大喜氏) は大碓命の子孫で、朱鳥元年に初代守部宿彌孫谷が社職となり、代々正六位大内人として 熱田神宮に社職として、明治4年まで奉仕した。

発祥は鎌田次郎正清を祖とする守部姓 首藤氏流

『尊卑分脉』の佐藤氏系図をみると、資清に「本姓守部氏」とあり、おそらく資清は地方 豪族守部氏の子であったとみられる。公清は武門として名高い藤原秀郷の嫡流であり、資清は公清の猶子となることで身を立てようとしたものであろう。

「守部姓、藤原秀郷流」による首藤氏は、 藤原秀郷の後裔である佐藤姓の祖とされる 佐藤左衛門尉公清の猶子となった藤原師尹の血をひくという資清が首馬首(しゅめのかみ)という役職に就いたことから「首馬首」の「首」の字を冠して「首藤」と名乗ったのが、首藤姓の元祖と言われているようです。

4世紀ごろ 河内に 山田 佐田の地があった という。(?)

河内の陶村にいた大田田根子

歴史倶楽部 第166回例会 6月5日高槻市
太田神社 参照

中臣勝海連の家が中臣氏族の本宗家ともみられるが、大化前代にはこれに替わって常盤(勝海との関係に諸説あり、確定しがたい)の流れが本宗家となっており、そのなかでも大化改新時の功績により藤原姓を賜った鎌足の家が本宗家となった。常磐→笹井 佐田 これが西園寺 鷲尾との関係にかわり、私は笹井 佐田どちらが 鎌足になる筋か? どちらにしろ 殷 きをまつる人たちにつながると 思っている。

武家家伝 菱刈氏より
応永八年(1401)、渋谷一族の鶴田氏は氏久のあとを継いだ元久に応じたため、総州家に 通じる祁答院・入来院らの渋谷一族に居城を攻撃された。元久はただちに救援に向かった が、相良氏、牛屎氏らが総州家を支援したため、敗れた元久は菱刈久隆のもとに逃れ・・・
[30]いちごさんからのコメント(2011年07月21日 23時14分15秒 ) パスワード

三ツ矢伝説|總社 和田八幡宮
今より千五十年前の959年(平安時代中頃)、源 満仲公(最初に天皇様より源氏の姓を 賜る清和源氏)が摂津(現大阪)住吉大社より神託を受け、矢を放ち、落ちた先の北摂津 (現兵庫県川西市)にお城を築き、矢を見つけた御家人に三ツ矢の姓と家紋を与えた

三ツ矢伝説の中に登場した北摂津(現兵庫県川西市)、この地に源 満仲公が狩りをしに訪れた際、天然鉱泉を発見しました。この天然鉱泉をもちいて炭酸水の御料工場を建てたことが三ツ矢サイダーの名称の由来となっています。

和田八幡宮宮司・宮城氏
和田八幡宮は清和源氏之祖源満仲創建之宮の1050年の歴史がある神社です。
祭神 西御前 足仲彦命 タラシナカツヒコノミコト (仲哀天皇 チュウアイテンノウ)
   中御前 誉田別命 ホンダワケノミコト (應神天皇 オウジンテンノウ)
   東御前 息長帯比売命 オキナガタタラシヒメノミコト (神功皇后 ジングウコウゴウ)

若宮八幡宮祭神は「仁徳天皇」・宮司和田氏
武家家伝_和田氏
清和源氏源満政の二男忠隆の孫惟家は近江国高島郡善積に拠り、善積氏を称した。惟 家の子忠頼が近江和田氏の祖になるという。太郎左衛門氏家のとき近江国甲賀郡和田村に 住し和田氏を称した。 惟助は天文十五年、高槻城の荒木山城守との戦いで戦死。

和田家文書
織田信長の比叡山焼き討ちに関わる和田家文書
東日流外三郡誌に代表される和田家文書(和田喜八郎)
[31]いちごさんからのコメント(2011年07月21日 23時52分53秒 ) パスワード

祇園の鯉山鉾の織物は 支倉常長が持ってきたものだと いう説がある。

和田家文書には 支倉常長の本名が 「山口与一」だと書いており、このことでも和田家文書が本物であるということが言える、 と東日流外三郡誌を研究した人は書いている。
 
ネットより
あの有名な支倉常長はネットによっても 「与市」 ... で父は「山口常成」ということの ようです。地元和田 家の史料でも 「山口与市」 で載っているとのことです。

10のアラハバキが出る東日流外三郡誌
13の東日流外三郡誌

サダと尾方と山口は同じグループ
契丹=鋼鉄に顕著に出る。
源氏の本拠地は武蔵大蔵の地。大蔵は山口につながる。

5比企氏
6姓系事典に
佐田には [あり]条を見よ ともあり
  「☆日置郷☆有臣乙麻呂、外一人」

日置は 比企に 通ずる。比企は阿保に通ず。阿保は田山に通ず。
阿保は安倍に通ず。
安倍は磐井に関与しており、磐井は 白石が 名乗った。

又 安曇比羅夫は 安部比羅夫ともいう。

仁徳天皇の系 武列天皇に子がなく 越前にいた継体天皇が即位。この頃 磐井の乱が起こる。継体天皇は 応神天皇5世孫(6世孫とも)。
 
この天皇の系が祭神なのが 和田八幡宮。

これは 
白石系から サダ(尾方・山口)系の血が濃くなったとも いえる。



[32]いちごさんからのコメント(2011年08月25日 08時20分41秒 ) パスワード

山口文書館 佐田家文書(毛利家永代家老・益田家家臣)・・・増野家文書
 増野家・・・平知盛子孫
 益田家・・・初代は藤原忠平の9世の子孫、石見守藤原国兼といわれる。
      ウイキの紹介
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応.
(9) 和邇氏(和珥氏). 多くの氏族を 輩出する ... 天足彦国押の母親は尾張氏の世襲足姫であるから、尾張氏と同族となる。 和邇氏は春日氏、小野氏、 柿本氏などの十六氏族を輩出したとされる。

[33]いちごさんからのコメント(2011年08月25日 09時14分22秒 ) パスワード

西郷の局・・・西郷氏はおおむね菊池氏子孫(山口)・・・32は佐田
遠江西郷村(静岡県掛川市上西郷)の名家で、五本松城主であった西郷正勝の孫で、名は 昌子という。西郷局の母親である正勝の娘は、戸塚忠春と結婚し、西郷局が生まれるが
西郷局は、今川氏家臣の戸塚忠春の娘として誕生
家康の側室で、徳川幕府の二代将軍 「徳川秀忠」 の母。 幼い頃から伊賀忍 軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」であるとも言われている。 成長してから家康の侍女となり、秀忠 を生んで側室となった.

吉良氏(きらし)・・・おおむね清和源氏。
日本における武士の名家の一つであり、菅沼定村は長男。長女は隣郡・八名郡五本松の西郷正勝に嫁して いる。

1.清和源氏足利氏支族の吉良氏(長氏流)。三河吉良氏。
2.清和源氏足利氏支族の吉良氏(義継流)。奥州(武蔵)吉良氏。
3.清和源氏為義流の吉良氏。土佐吉良氏。

足利
新田
世良田(小川)・・・初代姫路城主黒田官兵衛(如水)は豊臣秀吉の軍師として播磨から筑前へと戦国の世を駆け抜ける。妙圓など三姉妹もそれぞれの数奇な運命を辿る。官兵衛(如水)の家臣となった浦上一族と小河一族の知られざる事実が今明らかになる。福岡城研究の新しい動き・名島学校の新解釈・伊野皇大神宮の豊丹生家の系譜の解釈を試みた。 (ネットより)
得川・・・徳川

[34]いちごさんからのコメント(2011年08月25日 10時39分51秒 ) パスワード

浅井達子(秀忠継室・江)
浅井氏・・・白石(どうつないだかは忘れたけど)
肥後の白石は清和源氏。菊池に仕え菊池氏が相良氏と争い敗れたあと相良氏に仕える。
清和源氏の白石・・・平賀。竹内に関与。

ネットより
南朝正統皇胤を自称した熊澤寛道氏(熊澤天皇)の著書「南朝と足利天皇血統秘史」に掲載の戦国熊澤氏宗家の縁組系図が、尾張浅井氏(刈安賀浅井家)を通じて三英傑と姻族関係にあると記した点と、従来、歴史雑誌などに掲載される戦国浅井氏の系図が正規町三条家の落胤末裔としていることである。

徳川家の関連系譜集に秀忠の継室・崇源院(浅井達子)の系譜が掲載されている。(柳営婦女伝系)が全く異質の系図である。

正規町三条家は特大寺家と同じ流れ
特大寺・黒田に関与する「宮本武蔵」
「閑院と藤原の高丘・堀川」
同じ発音をするが漢王室子孫とする高丘(国史事典)では坂上一族。
秦子孫の嬴姓・高丘系図

味岡姓が、何故 熊本県球磨地方にいるのでしょうか?55より
川辺→伊勢神宮宮司→河辺(秦河勝) 荒木→伊勢神宮宮司・荒木田家
とつながるとき

那須氏ははるか古代の 
大臣命←建沼河別命←孝元天皇←神武天皇←イザナギ・いざなみの関係も出て、
『伊佐須美(イサスミ)神社』福島県大沼郡会津高田町

古事記によると崇神天皇十年、天皇の勅命を受けた四道将軍の、北陸道を進んだ大毘古命と、東海道を進んだ建沼河別命の親子が、新潟と福島の県境にある天津嶽(御神楽岳 1386m)の頂に、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祀ったのが創祀という。

高田には 阿部高田姫の言葉がある。
又 お江の女子・勝姫も高田姫という。その女子・高松宮初代妃寧子親王なのだと。

阿部高田
東北安部郡磐井の地
磐井は白石が名のった・・・白石・高田の関与

徳川の女性陣をみるとき 白石・高田・高岡・山口・佐田などがでてきて私の故郷の家のからまりと同じものをみる。
[35]いちごさんからのコメント(2011年08月30日 21時47分25秒 ) パスワード

先人の背中を見つめて

私のベビーの頃から私の娘の成長も見守ってくれた同級生のお母さんから自筆のお手紙をいただきました。
9月で85才になり、92才のお姉さんと二人暮らしています。
これを恐ろしいと言わば言えの元気なお便りでした。
嫁との折り合いが悪いわけでなく長男夫婦と同居して孫も育て上げ、今のんびりと毎日をすごしておられます。
今は便利な世の中ですから元気でぼけてもいなければ自分たちのペースで時間をすごせるほうが良いのかもしれません。

もう一人はお父さんが91才でなくなり、残されたお母さんが施設に入っている同級生と、その施設で働いている別の同級生から消息が入ったのですが、こちらも元気で、娘からの頼りに感謝の言葉がつづられていた のがうれしい と、同級生の便りでした。

他にもいろいろ田舎の人たちからお便りをいただきましたが、長寿の人が目立ちました。

中国のある地方の「菜の花」は 普通は1週間くらいしか花期がないのに、3週間も咲き続けるのだそうで、それは 「朝霧」があたるから だと テレビで言っていました。

田舎もお茶に朝霧がかかって 田舎のお茶は美味しい と 評判なので、空気のよさ、水のよさ、のんびりと流れる時間が体にもいいのだろうと思います。

又 しいたけ こんにゃく 緑茶 etc など 古来 からだに良いと言われる物をつくっており、そういうものを食べていれば 自然と長生きなのだろうと思います。私の父母は 86才で逝きました。

かたや 一人だけ 60代なのに 寝たきりでもないのに 世話してくれるものの心配を手紙のたびに 書いてくる人がいます。
こういう手紙は人の心を重苦しくさせるなあ と 思います。

体に注意して元気に長生きし いつも 楽しい話題で周りをなごませたいものだと思いました。

私のおじは (故人)鉄工所をしていました。人を使っているから 部屋は隅々まで掃き清めて 茶碗の糸底まできれいに洗って と おばが うるさく言っていました。

後になって (故人)宇野千代先生のエッセイに 
夜寝る前にお皿を一段づつ漂白剤につけたらいいんですよ と書いてあり
あっ そうか と思いました。

この頃は 台所仕事も いすに座って出来るし
楽に片付くようになって 
若い頃 12時頃 ようやく片付き 朝は5時半ころには 起きだし
しんどくてたまらなかった家事も さっさと片付くようになりました。

静かに元気で生きていく田舎のおばあちゃんたちに 拍手です。


[36]いちごさんからのコメント(2011年08月30日 22時10分17秒 ) パスワード

ネット 肥後の山と伝説より
異本 阿蘇氏系図:多氏の系図
・異本阿蘇氏系図は宮内庁にある
・ひとつ知ったのだが、阿蘇氏と同祖の他田氏の祖先は多氏だそうなのであ 
 る。

永田は長田に同じ。他田に同じ。・・・姓系事典より

これ以上のことがわからなかったけど、どうしても うちのつながりから考えて、母方の佐田は 父方の集落・萩にある永田となんらかのつながりがある とずっと思っていて、

溝口の女子の結婚式に 高岡 永田(どちらも同級生にいる)がきていて、遠いつながりだといっていた。

こういう形にあらわれてくるのだ
と思い、これが 
他田の祖先が多氏 ということに もともとの形がある。私の田舎は古い頃の形をそのままもって歴史をおりてきている と 思うにいたる1つのてがかりだと思います。

高岡の姻戚関係の1つにあった 市房神宮のお鏡を持つ家 が ある ということも そういう過去の形を記憶しているのだと思います。

この家の本姓・阿保 佐田から比企 から ヤマトタケル が 出る話がネットにあるが、とにかく 今は 佐田と永田の関係がひとつわかった。
[37]いちごさんからのコメント(2011年09月03日 22時24分30秒 ) パスワード

父方・高岡 母方・佐田共に 古い時代の記憶を持っていると思い、私の氏神が阿蘇神社であることが それを 裏付けている と思っていたけど、系図がなく 親や周りの人が教えてくれた記憶だけではなんともいえない。と思っていたけど

嬴姓・高丘系図 高丘氏・高丘系図などが出ており、私の記憶などに合致する点など集めてみたい と 思う。

高丘は系図上 後 高岡と書かれており、高丘 高岡は通ず。

 
[38]いちごさんからのコメント(2011年09月03日 23時06分18秒 ) パスワード

★ ソシモリ→陝野候・幋命→穢王
★ ・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族
の 姓。
★ 通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
         悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。
         六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて解邑の君となる。
すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。

※「宋史」
?瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮(6)、即位元年甲寅(7)、當周僖王時也。

※神武天皇に関与する神社の数の多い県順
熊本(70)、廣島(37)、岡山(32)、福岡(16)、宮崎(15)、鹿児島(15)です。
大部分が天草郡にあります。

※神武天皇の 幼名・狭野 と 日本の始祖・狭野候と 書かれる事から

※ 陝野 の 遠祖 そしもり
  「桓檀古記」 檀君世紀 三世 檀君嘉勒は
   三世壇君嘉勒が即位した己亥元年はBC2182と考えられる。

檀君国家は広義では   北扶余・高句麗を含めるが、
   狭義では北扶余以前の国家で

始祖・王検がBC2333に即位してから第47代・檀君古列加が即位し、
北扶余の解慕漱が即位したBC238まで続いた国家である。

   三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。
   
戊申10年 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。
余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。
これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。
★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。・・・韓は周武の兄弟から出る。

「桓檀古記」三国遺事は 壇君朝鮮→北扶余→高句麗
「日本書紀」(中原・佐田・多氏)は 天皇家を伯族(貊)のウガヤ王朝の子孫として天皇家の正統を主張した。
と 鹿島昇氏は 述べる。


市房神宮のお鏡を持つ家が父方のほうにあることから佐田は母系(海神)か?


佐田は アイシーン・ギョロでもあり、 貊族・董・季氏である。西方の雑種。「清」でもあり 漢王室・唐王室と 姻戚関係があり、唐王室には 真珠を売りに 行っていた。

尾方から出る「元」と同族。元はチンギス・ハーンがいる。
市房神宮 青井阿蘇神社など 尾方氏が関与する。
[39]いちごさんからのコメント(2011年09月03日 23時35分00秒 ) パスワード

嬴姓・高丘系図を歴史をさがって89あたりに右兵衛藤原雅亮室
というのがみえる。

藤原雅亮は北家・長良流で高倉・堀川(堀河具視)・高子などがみえる。
具視は康親の子で岩倉に養子に入った。

私の知っている話の記憶では
道長から堀川
道隆から山口
道兼から佐田に通じている。

高子と和徳は同族。
和徳には 和徳稲荷神社があり 阿部に通じていた。
[40]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 00時30分08秒 ) パスワード

嬴姓 高丘系図
75あたり
 百済蓋鹵王妃
 眞華姫
がおり

76あたり
 |百済第25代武寧王
  斯摩(462-523)

とある。高野新笠の血にはいる武寧王。
39の高子は高野新笠のまちがい。

高野新笠は
天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇。)の側妾となり、733年に能登女王、737年に山部王(後の桓武天皇)、その後早良王を生んだ。

一方皇后は聖武天皇皇女・井上皇后。
井上について
岡山県倉敷市に漢王室子孫阿智王子孫坂上一族が住んでいて、井上町という。

井上皇后の失脚につき
藻咋足嶋という人物がおり、この人は 高野新笠と同族なのだと。


天智天皇の頃
30敏達天皇のひ孫・美努王(葛城王)と県犬養橘の三千代→橘氏。
藤原不比等と三千代→藤原四家のはじまり。(不比等は実は天皇の子供だと)









[41]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 00時58分49秒 ) パスワード

40につき
高子は藤原長良流にみえ、
高野新笠は桓武天皇の母。

大蔵系図
秋月 丹羽 坂上 大蔵系図(ネットより)
文中に
神功皇后の世にあたるとき 石秋王 阿智王 高尊王の中国の名不同。疑是国人尊之為王号。

大蔵より 木原をとおり山口。山口は宗像三神 宗像徳善 大蔵 高階などに関与した。


漢の献帝が魏に封ぜられ山陽公になり、子・石秋王が魏明帝の女子を娶って有天下とある。

石秋王の子孫・阿智王の子・阿多倍 本号・高尊王 初入日本国。
阿多王妻・敏達天皇の孫・ちぬ王の娘。
ここから坂上。山本。大蔵。蔵内が出る。その子葉奥州にある と。
[42]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 01時11分48秒 ) パスワード

漢室は 遠祖・劉塁の子孫 劉邦。

★劉氏
堯の子孫である祁姓の劉氏。
歴史的には漢(前漢、後漢、蜀、劉宋、前趙、後漢 (五代))の国姓である。
堯の嫡流(一説には堯の長孫の式、一説には堯の第九子の源明、一説には堯の子の丹朱)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。



祁姓劉氏
からは、夏孔甲の世に一人の竜を御する名手が現れている。
劉累という。一頭の竜が病死するということがあったあとは、劉累は家族を伴って魯陽(今の河南の魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。
劉累の子孫からは御龍氏(職業を氏とした)、唐氏(周初の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした)、杜氏(周の成王が劉累の子孫を杜に移した)、士氏(杜氏の杜伯の子の隰叔が晋に移り,士師に任じられたことから、官職を氏とした)、范氏(晋の士会(范武子)が范に封じられ,地を氏とした)の各氏が出た。

周文王の後裔の姬姓の劉氏。
周成王が曾祖父の王季の子孫を劉に封じたが(河南偃師)、後に絶えた。
後に、定王が劉邑に王弟の王季子(父は頃王)を封じ、季子は劉康公を称し、劉国を建てた。但し周後期には、この支流は没落した。

なお姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。
[43]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 21時56分28秒 ) パスワード

女王卑弥呼は「公孫氏」。
※常世国は燕の別称. 常世氏. 燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫とする。
 古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」
御毛沼の命は 神武天皇の皇兄。

公孫氏の 民族・風習とも、まったくの漢民族である。
燕満は衛満のこと
「史記」朝鮮列伝
   朝鮮王満は もと 燕人なり・・・

燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に滅亡するまで約八百年続いた国家。

※「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」 中に、
 [争乱に明け暮れる「倭」に一人の女王が擁立(ようりつ)され王となって
乱が収(おさ)まった。その女王の名を「卑弥呼」と云う。彼女は、かつ  て 「西晋(せいしん)の始祖・宣帝(せんてい)」に滅ぼされた「公孫  氏」であった] と明記されている。

 彼女の出自氏姓(しゅつじしせい)は、
   遼東侯「公孫(こうそん)氏」の繋類(けいるい)である。
   238年に遼東太守の公孫氏(こうそんし)が、魏の司馬懿(しばい)に滅   ぼされ、帯方郡が魏の直轄地になると、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、   朝貢使の難升米(なしめ)を派遣した。

   ↓
   大田亮氏は 
    多氏条に
     卑弥呼女王も 多氏のひとである と書いている。
     多氏は 「中原」でも ある。

※丹後籠神社
  當社の古伝承で、別名を彦火火出見命とも云われた御祭神彦火明命。
  火火出見命は「山幸」「神武」の別名でもある。

  海の彼方の海神の宮(これを龍宮とか、常世とも呼ぶ)に行かれた。

  彦火明命が最初に天降ったと伝えられる冠島があるが、この島の事を国宝  
  海部氏系図では、一名を常世島、又は息津島とも云うと出ている。

  當宮(古稱吉佐宮)に祭った天照大神を、後に倭姫命が伊勢にお遷しした  時、御神霊が、この地は常世の重浪寄する美し国であると教えられた事   が、書紀に出ている。


[44]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 22時24分29秒 ) パスワード

漢室のもとは 女系。
漢王室は劉姓だが、それは 母が劉温で、父は太皇としかかかれない。
劉姓の話に 夏の始祖・劉がいるが、この氏は結婚した相手が男系だったからカクレンボツボツと姓を変えた と。時代が下がって 西夏にかさなるところが夏があったところ。 

姓系辞典 う条 下村に 
漢士 光武帝子孫 少昊金天氏子孫 とある。
もし 本当なら 少昊金天氏の子孫は 「金」姓を名のる人が多い。新羅もそうである。宮中の儀式のときの言葉が新羅のものだということは 言語学者がいっている。荒木田家嫡流の人は崇神天皇は一書 漢の鉄官の子 一書 漢の高祖の子孫としている。
又 劉邦の父は 「蓋太上皇父」とも ・・・蓋は解。高姓。

金で 佐田と通ずる。

多氏 中原氏 十市氏 磯城氏 など 同族
中原氏は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の長男から出る。

丹後籠神社では 事代主を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命としている。

佐田 永田につながりがある。(佐田に養子に来た人は永田))(父方・萩の集落にある永田。父方・高岡は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫が第一項。)


[45]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 23時31分28秒 ) パスワード

少し 脱線だけど 球磨郡の古い地名に くる があったけどと思い見てみようと熊本県の難解地名をネット検索したら
熊本市植木町豊田に「服部はらべと読む」という地名がある。
さっきネットでみたばかりで 歴史がまだわからないが、こういう呼び方は古代の言葉に通ずるのではないか?と思う。たとえば 聖徳太子が 昔 わが国の国語は秦語だったのを 漢語に翻訳した。その前の言葉では?とか思いながら見てみたけど

服部に「五輪の塔」があり、1275年のものだと。

豊田は菊池に通じて、菊池氏の話が出てくる。
又 近くに益城郡があり、富合(守富)は8世紀頃肥後の国府があったところ。うちの「山口」もここにあった。
アマテラスなどのイザナギの子が生まれたのは 筑紫日向小戸橘の阿波木原だがここは 「江田の地」という。
益城には 江田船山古墳がある。

アマテラス スサノオ 宗像三神 などは 山口から出た。山口は大内に通じ、豊田に通ずる。

山口(大内)は「他他拉氏」。神武の皇后・姫蹈鞴五十鈴依姫にもたたらの言葉で通ずる。

アマテラスは織姫だったという。織物などから 服部に通ずる。

五輪塔には阿弥陀の梵字がほりつけてあったそうだ。

近くには 小野小町生誕の地がある。西南の役に関与する「田原坂」も近い。
西郷さんは 菊池氏に関与する人。

はらべについてまったくわからないが 興味があることである。

高岡が秦に関与し、後 百済と姻戚関係があり、百済系図もあわせ持つ大内氏(山口)。
父方・高岡は山口と姻戚関係がある。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を祖神にしていた熱田神宮あたりには真澄田神社があり、織物に関与する。席氏が宮司。

山口県史には 奈良時代 豊浦の人が 尾張氏に 「益城宿禰」の姓を与えたと書いてある。

豊浦の大臣は 蘇我のことだが、蘇我は竹内宿禰に関与しており、佐田のき氏も彼らに関与してくる。海神族。

熱田神宮は海神の子・振魂命に祖先をかえられた。
高岡→天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
佐田→和徳→高野新笠と同族→和氏 漢王室子孫坂上一族=百済氏=東漢氏=和漢氏
[46]いちごさんからのコメント(2011年09月04日 23時40分24秒 ) パスワード

45はらべ は はらぶ のまちがい。
[47]いちごさんからのコメント(2011年09月05日 22時22分34秒 ) パスワード

近くに加茂の横穴群があり、加茂別雷神社がある。
横穴群は原始時代に分類されている。

山代の秦氏本系帳
 初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を灌濯す。時に一矢あり、上より流下す。女子これを取りて遷り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。………戸上の矢は松尾大名神これなり。………而して鴨氏人は泰氏の婿なり。

加茂建角身ははじめ日向のほうにいて神武を先導して大和に行った人で、
賀茂氏は
1−4三輪一族(2) | 八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜ネットより
によると

三輪氏系図を検証すると、スサノオからオオタタネコまでが、賀茂氏系図と全くの同一であり、筆者は三輪氏と賀茂氏は同族ととらえている。

初代天皇・神武(ジンム)、第2代天皇・綏靖(スイゼイ)、第3代天皇・安寧(アンネイ)。少なくとも初代から3代までの皇后の名が三輪氏系図に明記される。

母方・佐田のもとは 尾方・山口と同族の 大陸では 契丹にあらわれる人たちだったと思われ、尾方は三輪氏に関与している。後に契丹にあらわれる ということで、古代は 有 だったようだ。(有)さだ など。

神武の話に 解・高陵があり、 秦非子の子孫。
高岡は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫が第一項。
私の中では 神武の系も天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の系も同じ高氏。

高階氏が事典では山口条に書かれているが 高氏になっているのは 山口 高岡のからまりがあってのこと だと 思う。

高階貴子 高階栄子。
菊池氏の血に入ってくる貴子。
菊池氏は豊田になる。
山口は姫蹈鞴五十鈴依姫のたたらに通ずるものがある。




[48]いちごさんからのコメント(2011年09月05日 23時33分22秒 ) パスワード

山口=菊池
高階貴子は菊池氏の血に入る。
姓系事典で高階氏は山口に出るが、高階氏は高氏。

菊池は豊田でもあり、豊田に服部があるのは遠い昔につながるものがあるのでは?

嬴姓・高丘系図を歴史をさがって89あたりに右兵衛藤原雅亮室
藤原雅亮はネット検索すると北家にある。
しかし 目を皿のようにしてみても見つからないので、もう一度検索すると藤原茂範の子につないであるので、茂範でけんさくすると公卿類別譜に南家貞嗣の系があり、そこに茂範の名がみえる。

そのおじいちゃんが孝範で 孝範は、永範の猶子で、実は、藤原北家の従五位上斉院次官利永の子。〔※実父利永(俊長?)の父盛仲は、尊卑分脈には、良仁子孫忠頼の子、真夏(日野流)子孫光憲の子として、2箇所に記載されている。〕
[49]いちごさんからのコメント(2011年09月06日 00時21分44秒 ) パスワード

藤原の中はややこしいが、南家と北家は入り乱れているので、前はそこでとまったが、もう一度北家の系図を見ると親実の子に親能がいる。

ネットの説明では厳島神主家に
藤原姓神主の登場 藤原親実は中原親能の養子となった者 で、系図的には大友氏・門司氏と一族になる人物であった。

藤原親能を検索すると中原親能が出る。中原親能については
明法博士中原広季の子で大江広元と兄弟であるとする説 と、参議藤原光能の三男で中原広季の養子になったとする説がある。後者は大友氏 系図にあるものだが、親能は後に中原姓から藤原姓に改姓していることの反映と思わ れる。

藤原 永範[ 康和2(1100)年 〜 治承4(1180)年11月10日 ]
従四位下行文章博士永実朝臣二男。母肥後守中原師平女。
この人のひい祖父の枝分かれが源頼朝を出す。

豊前宇都宮氏が中原を名乗っていた。うちの佐田の三つ巴紋と同じ。
藤原系図に中原がいた。

熱田大宮司家は 武内氏。
源頼朝が生まれ、藤原氏に職を譲り、武内氏は神宮を出て、「八剣神社」を創建した。

大宮司家と17世紀ごろ 山口へ養子に行った人がいる。
又 高丘家と結婚している人がいる。

昔の名残だったのだろうか?
[50]いちごさんからのコメント(2011年09月06日 20時07分16秒 ) パスワード

ウィキには
毛利氏は大江姓で、厳島神主家の藤原氏(中原氏)と同族でもあった。
と書いてあるが、具体的にどういうことなのだろうか?

私の知っている毛利は
遠祖・天穂日命で天孫・皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄弟
土師氏や能見氏をとおり 
平城天皇の皇子・阿保親王の子孫が熱田神功に養子に入り、再び出て 毛利に養子に入った。→大江匡房
後 大江広元は中原広元・毛利広元。

大江氏は古代の氏族である土師氏が源流とされる。桓武天皇が即位10年となった延暦9年(791年)に、縁戚関係にある土師諸上らに大枝の姓を与えた。

後 音人のとき 大江になる。

天孫族である。
中原が同族とすれば 中原も天孫族の末裔?




[51]いちごさんからのコメント(2011年09月06日 21時04分05秒 ) パスワード

50皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄弟は間違いです。
その父の天忍穂耳尊と兄弟。

中原氏
尊卑分脈等によれば、安寧天皇の第三皇子磯城津彦命の後裔ともされているが、明治期の押小路家の呈譜では、饒速日命の後裔(物部氏族)ということになっている。有象の時に中原姓を賜る。代々、大外記を世襲。家業、明経道・明法道。

・川津媛
(紀)3安寧天皇皇后一書第1:川津媛。磯城県主葉江の娘。
3安寧天皇后・4懿徳天皇の母 3安寧天皇后・4懿徳天皇の母は、事代主神孫鴨王の娘渟名底仲媛(渟名襲媛)となっている。
(記)阿久斗比売:師木県主波延の娘。3安寧天皇后・4懿徳天皇の母

私の母に「和徳」とつけてくださったお寺様は 川津氏。

和徳は 大田亮氏は 桓武天皇后・高野新笠と同族と書く。
丹後籠神社は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は事代主とするので、

中原=サダ でもある。

47三輪氏と賀茂氏は同族。
その系に事代主がおり中原も同族。
天孫族大江氏と中原は同族。









[52]いちごさんからのコメント(2011年09月08日 02時15分01秒 ) パスワード

嬴姓高丘系図をみると、百済百済蓋鹵王妃になる人がおり、武寧王斯摩王を生む。

大内氏 毛利氏は 百済系図を併せ持っている。
[53]いちごさんからのコメント(2011年09月08日 02時50分39秒 ) パスワード

嬴姓高丘系図をみると百済・蓋鹵王の后になる人がいる。その子が武寧王斯摩で、百済系図を見ると

【百済 扶餘系図】
温祚王―――比流王―――蓋鹵王―――武寧王斯摩―――淳陀太子―――宇奈羅賜姓 倭史―――和史―――宅継和朝臣「若狭彦神社神主」
とあり

クリックすると
【皇別 若狭 笠氏系図】
________________________________________
【始祖】笠臣小篠

【世系】若狭 笠氏の始祖は、人皇第6代孝安天皇―大吉備諸進命―稚武吉備津彦命の子・鴨別命の子小篠に出づ。小篠の玄孫三枚は國造姓を賜ひ、後裔麻呂、御室、金村、長目、吉麻呂等が朝臣姓を賜ふ。

若狭彦神社笠氏で検索すると
社家の姓氏―牟久氏が出る。
若狭彦神社の神官は牟久氏で、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔鴨別命の子小篠 が笠臣を賜り、笠氏の祖となった。

吉備氏・笠氏・賀陽氏・上道氏・日奉氏・和気氏
若狭彦神社(福井県小浜市、上社は龍前、下社は遠敷)
※若狭国一の宮祭神 上社: 若狭彦神(彦火火出見尊)、下社:若狭姫神(豊玉毘売命) 遠敷明神・白石大明神とも。


この祭神は市房神功の祭神と同じ。白石に関与している。
[54]いちごさんからのコメント(2011年09月08日 02時54分23秒 ) パスワード

鴨神社 (吉備中央町)
別鴨命を祀る。 『日本書紀』応神紀に「以波區藝縣封御友別弟鴨別。是笠臣之祖也」と あり、 『吉備温故秘録』には、 上古、津高郡は鴨縣といい、 笠臣(笠国造)が、その始祖 である鴨別命を祀ったものとある。
[55]いちごさんからのコメント(2011年09月08日 03時23分47秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様のページを見させていただいたら孝霊天皇の末に笠氏がおり孝霊天皇の子に 「彦狭島命」がいる。


上記の他【宇自可氏】【牛鹿氏】【春庭氏】【笠氏】が彦狭島命の裔。とある。

前に服部さんの遠祖は孝元天皇とありましたが・・・
孝安天皇ー孝霊天皇ー孝元天皇
         ー彦狭島命ーーー楠氏で前に書いた。卑弥呼がつく系図で海部氏系図など前に書いたけど・・・
[56]いちごさんからのコメント(2011年09月08日 03時33分06秒 ) パスワード

孝安天皇
孝昭天皇の第二子。母は「瀛津世襲」の妹・世襲足媛(よそたらしひめ)。

世襲足媛(よそたらしひめ)
孝昭天皇の皇后。孝安天皇(第 6代天皇)と天足彦国押人命の生母。

『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。
『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。

なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。



[57]いちごさんからのコメント(2011年09月09日 22時25分47秒 ) パスワード

尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛

熊本県の地名事典
熊本県に豊田は二つみえ、
植木町豊田に五輪塔がある。
合志川支流豊田川流域に位置する。縄文時代の余内遺跡や字宗像には、圭頭太刀の柄頭を出土し、約40基の横穴を擁する宮穴古墳群や乗超横穴群余内横穴群の他、宗像古墳(円墳)がある。

字上原には菊池氏家臣角田益吉の城跡と伝える賀茂城跡(豊田城)がある。

・・・字服部に建治元年銘の五輪塔・・・

近代豊田村
明治7〜22念の村名。山本郷のうち加茂村と横尾村が合併して成立。
白河県を経て明治9年に熊本県に所属。字中原に人民共立小学校がある。・・・

服部 豊田 山本 中原 の 言葉がみられる。
[58]いちごさんからのコメント(2011年09月09日 22時46分16秒 ) パスワード

城南町の豊田
鎌倉時代頃の話がみられ、うちの山口 白石 高岡 佐田のからまりがあるところ。

木原山(雁回山)東麓一帯に位置する。
八条院領目録
内閣文庫蔵山科家古文書
玉葉
九条家領伊豆国馬宮荘
に山本郷に関していきさつが書いてある。

このあたり益城郡。

奈良時代 山口県史には 豊浦の人が尾張氏に益城宿禰の姓を与えたと書いてある。

尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛
嬴の世(余)の女子と思える。

人吉のあたりに 益城というところがあった。益城郡と何らかのつながりがあろう と 郡誌に書いてある。

尾張氏の遠祖は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命で鹿島氏は「・陽君」にあてている。高陵君の同父母兄弟。

神武の即位は周の平王の頃 と 書く本があるので、はるか昔の頃のことはこうだとはいえないけど、流れとしては 殷の子孫秦に至るまでの間の人だろう。

九州東に秦国があった と 指摘する本はある。
安羅 加羅 迦耶
[59]いちごさんからのコメント(2011年09月09日 23時26分28秒 ) パスワード

若狭彦神社の牟久氏の系図
この系図は十二世紀後半ごろからの系図が、ふつうの系図のように男系だけではなく、女系を広く含んでいることで注目されているものである。
 すなわち、同系図には牟久氏と姻戚関係にある他氏の系図、さらにその他氏と婚姻となっているこの氏の系図がある程度詳しく書き入れられているのである。たとえば、十代の禰宜利景の女は、一・二宮に付属する祈祷所の供僧多田慈心坊の妻となり、多田資政を生み、資政は御家人の和久利政氏の養子となっている。同じように十一代禰宜景高の女の嫁した池田氏の系図が盛り込まれ、十二代禰宜景継の女の場合は、その夫木崎沢方俊氏の系図はもとより、俊氏自身の孫娘の嫁した在庁官人田中氏の系図までが記されているのである。
[60]いちごさんからのコメント(2011年09月09日 23時46分14秒 ) パスワード

若狭彦神社のあたりには天日鉾の話もあるが、この人は 神功皇后の系にある人で、

若狭彦神社神主笠氏を検索すると 7000傑様のページが出て、
児島も別れの系に出る。

児島高徳と言う人も 児島なので 検索すると
作楽神社 宮司・福田氏
祖先は児島高徳 として 天日鉾 まで つないでいる。
[61]いちごさんからのコメント(2011年09月11日 22時40分56秒 ) パスワード

私の田舎の近くの集落には小野・初神・晴山・平野などに縄文遺跡がある。
初神には弥生遺跡もある。
(熊本県の地名事典より)

小野には観音様があり、宮田・松本・村山ほか 伊勢神宮社家の家の名と同じ苗字の家がある。

初神は初めて阿蘇神社が祭られたことが地名由来で、子供の頃は「はしかみ」といっていた。同級生にその話をしたらきょとんとしていたので、時代の流れだろうと思うが、はしかみ の 読みは 服部はらぶと同じく 秦系統の読み方ではなかったのだろうか?と思う。

五木のほうは縄文時代の遺跡しかなく初神に弥生時代の遺跡があることからコメをつくるようになるにつれ、川下に下りてきたのだろうと事典には書いてあった。

球磨郡の古地名
くる が あったと思っていたけど辞典をみたら「くく球玖」だった。

[62]もみじさんからのコメント(2011年09月16日 15時25分21秒 ) パスワード

ネット 皇室と壱岐氏 で 検索

京都、地主神社・中川 平氏の講演 松尾大社にて私は長らく雅楽の笛を吹いてまいりました、壱岐氏・「松室」同族会会長幸雄氏とは親戚の間柄です。

という人のページで、ありがたい話がかいてありました。

松尾大社は賀茂神社のお父様だと、前に松尾大社の人からお聞きしていましたが、

月読社の松室氏はもと「壱岐氏」で、秦始皇帝につながるとのこと。
松室さんの先祖は壱岐族で、すなわち、占部です。さらに遡ると、天児屋根命といわれ、五摂家のもとである、藤原氏の先祖でもありますが、松室さんは藤原氏といわず、「壱岐氏」といっています。

「おしみのすくね命」が安閉臣事代がが(ママ)神がかりして、そのご神託を受けて壱岐から移住して御祭りした神様です。
 三重県上野市に敢国(あえくに)神社というのがあって三重伊賀一の宮となっていますが、この神社は阿閉族という豪族の社(祭神 大彦命ー阿閉氏の祖神)です。




[63]もみじさんからのコメント(2011年09月18日 22時04分46秒 ) パスワード

荒木田家伝承阿多羅しい古事記 ウィキ(ネットより)によれば、
香淳皇后の血統は島津で、くにの宮だとしている。
島津氏は秦の始皇帝子孫だという。

荒木田家の人は藤原南家の部智麻呂の妻は曽我氏で、やはり秦人だという。

52 53より
嬴姓高丘系図から百済とつながり、子孫・若狭彦神社神主笠氏・牟久氏

牟久氏の系を引くと
孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔鴨別命の子小篠 が笠臣を賜り、笠氏の祖となった。

吉備氏・笠氏・賀陽氏・上道氏・日奉氏・和気氏



[64]もみじさんからのコメント(2011年09月18日 22時25分52秒 ) パスワード

63武智麻呂です。部智麻呂はまちがい。

ウィキより
大和朝廷と吉備氏
1.景行天皇の妃となった播磨稲日大娘は、ヤマトタケルを生んだ。
2.そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの 妃となった。
3.吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。
4.兄媛は応神天皇の妃、黒媛は仁徳天皇の妃となった。
 このように、王家に娘を入れて婚姻関係を結び、その軍事行動に参加すると いう形で、大和朝廷と連合関係にあった。

佐田
佐田も藤原氏。中原氏。藤原遠祖は 津速産巣日神で神魂神の妹が妻
           西園寺から橘・渋江が出て、母方・神魂神が出る。
           神魂神神社は二重亀甲に有の字紋。
           佐田にある 有狭田・伊勢の国度会郡の国生神社 渡           会氏は神魂神子孫
伊勢の国度会郡に狭田国生神社あり。又 出雲などにこの地名存す。 
@ (有)狭田氏ありさだし 条
【延喜式神名帳】国生神社くなり神社 伊勢国 多気郡鎮座
【祭神】倉稲魂命・須佐之男命
        倉稲魂命の別称は 宇迦之御魂神系譜:素盞鳴尊の子。秦氏        の氏神
素盞鳴命神社 (明星神社)
明星神社は 北斗七星に関与する。

笹井や佐田から出る 「大国主に関与する神社」北向き神社は 屋根がそっている。
国生神社はどちらも屋根がまっすぐ。


[65]もみじさんからのコメント(2011年09月18日 22時37分26秒 ) パスワード

島津系図に「佐多」があり

禰寝氏資料あれこれ
平氏禰寝家系図

清盛─重盛─維盛─高清─清重【禰寝氏】【小松氏】
『桓武平氏にして維盛の子高清、字六代律師妙覚、その子清重、称清重者用清盛之清、興重盛之重也云々、建仁三年七月三家将軍頼家卿補彼院(禰寝南俣院)地頭職之旨、賜袖判下文俟、云々、於茲改平氏称建部氏者也』

             ┌重延【税所氏】
             │   ┌存盛【佐多氏】
建部清近─┬清助──親助─┴時盛─┴兼盛【田代氏】
     │
     └清貞──清房──女子
               ├─┬清村──親村【松沢氏】【佐多氏】
 平重盛──維盛──高清──清重 ├清忠
                 └清綱──清親──清治──清保──清 成

建部清近は日本武尊の子孫。

[66]もみじさんからのコメント(2011年09月18日 23時04分08秒 ) パスワード

秦高陵君・「・陽君」の母は 楚の貴族の女子だったという。
秦の昭王の母、宣太后。
その(宣太后)祖先は楚の人で姓は羋。

昭王の同母弟はそれぞれ、高陵君、・陽君といった。

羋びは嬴の本姓。

昭王の3代後が始皇帝で、高陵君は昭王の兄弟の子孫。

いいかえれば島津氏と嬴姓高丘は同じ祖先に行き着く。
[67]もみじさんからのコメント(2011年09月21日 04時39分14秒 ) パスワード

佐田は「大中臣」でもある。中臣 卜部 藤原などとながれは同じ。遠祖が同じ。

壱岐氏は卜部でもあり、中臣でもある。藤原だが 壱岐氏でとおしているという。吉田でもあるという。

私の父方のほうで、尾方 吉田 松本は お互い親戚関係。
父方の集落では 「市房神宮」のお鏡を預かる家があり、市房神功は天孫系の祭神をまつる。

宮司つながりで 市房神宮宮司・尾方氏 青井阿蘇神社宮司・尾方氏(尾方大神大賀惟元が阿蘇神社を勧請して建てた)。

尾方はスサノオ系で出た。

族として考えるとき、尾方 佐田 山口は 同族とか近い関係にある。




[68]もみじさんからのコメント(2011年09月21日 04時55分07秒 ) パスワード

★アマテラスを冠するのは4人
@アマテラス大神
Aスサノオもアマテラスを関している。
 広島県甲奴町の「須佐神社」は、「神天照真良武雄神」をまつり、スサノオ のこと。
 スサノオの名は 「勝速日健速須佐之緒之命」
 出雲王朝皇統譜では 「天開国開天津日高建速須佐之緒命」
B藤原鎌足の弟は 「太洛稽氏」で、アマテラスを名乗った。
C「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」は
 丹後籠神社では 「事代主」が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としている。
 この人は 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄とされる。
事代主=大物主=大国主=甕玉命=天照御魂=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

   先代旧事本紀 伯家本 天神本紀では
     「天照地照天火明梳玉饒速日尊。」

壱岐氏がまつる「月読命」もアマテラスもスサノオも鎌足などの遠祖も「高天原族」で つながっていく。
[69]もみじさんからのコメント(2011年09月21日 05時22分43秒 ) パスワード

スサノオは 簸川郡佐田村宮内にある須佐神社にまつられている。

神武天皇・・起源2600年祭り宋史より
?瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮(6)、即位元年甲寅(7)、當周僖王時也。

本のひろい読みから
百済は 高句麗の子孫。新羅の王は もと 百済の人。高句麗は 周の弟から出ていた。これらの先 扶余。

周の武王の弟、康叔封→晋 → 魏 趙 韓 → 韓から高句麗→
高句麗の祖先でもある扶余地域の住民が日本に渡来したのが大和民族のはじまりである。 百済は高句麗の王族によって建国された。 また百済自体が扶余を祖先とする。

高陵氏の女子が百済王と結婚して「武寧王」になり、子孫・6孝安天皇皇子子孫として出る。

そして又 「倭は 自ら 呉の太伯の 子孫」という。
とあり、 中国周王朝の古公亶父の長男。姫姓。

太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出奔した。
周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り、全身に刺青をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。
この国は呉ともされる。荊蛮には「楚」などもあり、楚の人は他の国の人と容貌が異なっていたという。
太伯が死んだときに子がいなかったために、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の裔である呉に敬意を表したものであろう。

髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないように、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。
この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られると言う。
倭に関する記述でも同じような風習を行っていることが見られ、
これが元となって、中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、
倭人は太伯の子孫であるとする説がある。

例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに
「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、
日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。

これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。
[70]もみじさんからのコメント(2011年09月21日 05時55分31秒 ) パスワード

本の拾い読み
倭をとく鍵箕子朝鮮
夏の初代皇帝。匈奴
 劉衛辰の子・・・・・・・・赫連氏と改姓。
 後漢王室高祖はサダ突厥。

赫連勃勃{夏世祖武烈帝}(夏) 
     ||・・・西夏・陳(田)
北魏の拓跋氏の子孫

北魏・北斉
北魏・渤海の人・高歓 (神武帝)
北斉三代皇帝・孝昭帝

周武の女子
   ||・・・田斉(陳)
舜の子孫の男子(有虞氏)

田斉の最後の皇帝・王建の子孫が漢の外戚・王莽。

彼らは胡族で同祖で上がっていく。

また 高麗の太祖・王建は新羅49代憲康王。877年生。
高句麗を継承する意味で、高麗とした。『高麗史』には、彼の先祖である「虎景」は白頭山を越えて南側(開城)へ移住して来た昔の高句麗の大族だったと記録している。高句麗は 扶余(ふよ)の国に、解夫婁(かいふる)という王がいた。
穢=解 伯益の子孫・高陵が解邑に封じられた。

「虎景」も又 荊蛮の地にいた。
漢王室遠祖・劉氏も同じ。
殷 周すら同じ。

呉王遺民熊野亡命説
 熊野本宮の祭神であるケツミコノカミをスサノオノミコトとするのが、いわば定説である。だが、この神を中国最古の王朝である夏の最後の王・桀であるとする見解がある。つまり、夏、殷、周という古代国家が滅亡したさい、中国南部東シナ海よりの呉の遺民たちのなかで、熊野に亡命した集団がいた。彼らは熊野に落ち着くと、その祖先の夏の桀王をまつった。それが熊野本宮のきげんだという。(藤井尚治「国史異論・奇説新学説考」)

この伝承は江戸幕府の儒官・林羅山 鵞峰の編した近世最大の史書「本朝通鑑」に採用されている。
そして それを見て憤った水戸(光圀)黄門が「大日本史」の編纂を決意した。

藤井尚治
熊野牛王という熊野三山で頒布しているお札がある。
これには 75羽の烏が図案風に並べて記されているが、問題は何故75羽かということだ。

これは 信州一ノ宮の諏訪神社の御頭祭に供えられる「猪」の頭の数が75であることとあいまって、何か意味が無ければならない。特に日本の名数表にこの数字が出てこないことからしても、きわめて特殊な意味があるはずである。

夏から殷・周にいたり、その霊王の時代までの王の代数が75だという。つまり75羽の鳥は75代の王にちなんだものだ というわけだ。
 
諏訪社の祭神は「建御名方神」で、事代主の兄弟。
ネットで壱岐氏が書く おしみの命があべ事代に神がかりして大彦命をまつった伊勢敢国神社。



[71]もみじさんからのコメント(2011年09月21日 15時45分29秒 ) パスワード

勝手に世界遺産 熊本北部2 菊池・植木方面/伝説まんさいを検索
岡稲荷大明神 熊本県菊池市泗水町田島
天狐に乗った神様の像が祭られている神社。この神社の由来は江戸時代の書物に残っている。
雅人治部という人が夢のお告げにより、山城の国の「藤森稲荷」を勧請した。
高台にあるお稲荷さん、赤い屋根の素敵な社殿と、祭られている神様の木像が素敵。狐って乗れるんだな。さすが神様。

雅人治部を検索
伏見稲荷が出る。

藤森稲荷は伏見稲荷の古称で、伏見稲荷は昭和21年から伏見稲荷大社と呼ばれるようになった。

藤森神社
平安遷都以前から鎮座する秦氏ゆかりの古社 藤森神社
藤森神社は,摂政3年(203),神功皇后が新羅出兵から凱旋してその兵器と旗をこの 地に納め,神を祀ったのが起源とされている



[72]もみじさんからのコメント(2011年09月21日 16時02分49秒 ) パスワード

神功皇后の祖先は天日鉾。
児島高徳に関与する「作楽神社」 宮司・福田氏
祖先は児島高徳 として 天日鉾 まで つないでいる。

その先に若狭彦神社がある。

大阪高槻富田 「白菊大名神」。ここは小さいけど狐が両脇におり、中心は鏡。
前に 祖父母と探した大分県大在の墓 で、姫野さんがおられましたが、高岡の地姫野
紀氏で検索
越中国 高岡市
    ー荘園ー
     @1459「姫野保」石清水八幡宮領(菊大路家)
      ・郡名:射水郡 高岡市
      ・明治村字:姫野
ご祭神の誉田別命・神功皇后は応神天皇と神功皇后で宇佐八幡にまつられておられるのと同じなので、比口羊大神をネット検索したら

社家の姓氏-上道氏
白山比口羊神社は遠く神代の昔、霊峰白山の神体山として、生きとし生けるものの「いのちの親神」と仰ぐ白山比口羊神社大神を奉斎したことに始まり、・・・祭神は白山比口羊(菊理媛神)、イザナギ神、イザナミ神で加賀国の一の宮でもある。

上道という氏は、吉備氏族の上道朝臣姓かと推測されるがその確証なない。

おあるが、なんだかつながってくるような・・・

高岡ー紀なのも 紀氏につながる天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫高岡・池田氏につながるようで、紀氏はウズ彦に関与し、後武内宿禰に関与してくる。

嬴らしい尾張よそひめ。尾張氏は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫。熱田氏は海神子孫とする。熱田氏の本姓は大田亮氏は安曇だとする。 

 
[73]もみじさんからのコメント(2011年09月23日 00時12分59秒 ) パスワード

本の拾い読みから
高岡・佐田が形を変えてある図。(紀 前田 佐々木 ほか)
嬴姓高丘 眞華姫
||百済第25代武寧王 斯摩・・高野新笠の血にはいる武寧王・・高野新笠
百済蓋鹵王                                                             ||
  天智天皇孫(白壁王)(施基皇子の第六子。母は紀朝臣橡姫。)光仁天皇

武寧王子孫→若狭彦神社笠氏(孝安天皇子孫)
若狭彦神社祭神 彦火火出見尊
この祭神は霧島神宮を勧請して建てられた「市房神宮」と同じ。宮司は尾方氏。尾方氏はスサノオに関与する。

作楽神社
児島高徳祖先
タジマモリ(田道間守)が児島公の祖であることは有名だが、このタジマモリは新羅の王子アメノヒボコの四代めにあたる。
一説によれば、新羅の王はスサノオノミコト(須佐之男命)の子孫といわれるから、スサノオノミコトをもって児島公のご先祖と申してもよいかもしれない。

南朝の忠臣・児島高徳
前田氏 呈譜に
 元は 「穂積氏」 後 丸子に 改む。とある。
※穂積氏は 「石切神社」に 
祖先は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 と する。

前田氏は「菅原朝臣」としている。が、すなおに考えれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫。

児島高徳関係
智勝院主川島氏がもっている古系図
@初代 神武天皇の即位がBC661年1月1日とある。宋書では?瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮(6)、即位元年甲寅(7)、當周僖王時也。

☆川島だけを見れば、川嶋皇子がおり、天武皇女との間の子供に高丘王がい  る。
☆父は天智天皇。この天皇子孫に淡海三船がいて歴代天皇の諡号を漢風の四文字にした。

前田氏の系
【菅原】古人─清公─是善─道真で系図は出来ているが、是善の養子として、前田道真は、はじまるから、後胤の、梅紋は、前田姓を名乗った。
「前田氏の祖は前田臣」で、福岡県朝倉郡夜須【古代では、筑前国奏言郡大領、を治めていた、

斎藤は埼玉苗字辞典参照
※娑陀(さだ)族は出雲国秋鹿郡佐陀庄(島根県八束郡鹿島町及び松江市)に渡来し佐太大神社(鹿島町)を祭る。其の一族は伊勢国度会郡佐田村(玉城町)に移住し狭田国生(さたくなり)神社を祭る。娑陀族渡来地は海洋民猿田彦の移動に似ている。

さるた さった さいとう つつき うつみ 宮道
斎藤とは斎宮頭の藤原氏より採った組織名の斎藤
済(わたり)の神は海洋民の守護神であり、神武東征以前の渡来人の奉祭神である。
(藤原利仁後裔)【斎藤】頼基──基康──基重──基成──基高──基永──玄基─忠親─忠章─忠光─仲光─仲利─【前田】種利─女

本家兄玄基【前田】種利──種定──長種
分家弟【前田】利成─利昌───利家

(藤原利仁後裔)【斎藤】頼基──基康──基重──基成──基高──基永──玄基ー【前田】季基─利世─利見─利恒─利茂─基茂─基光─玄似─

忠親─忠章─忠光─仲光─仲利─【前田】種利─女

【種利母系は前田氏】玄基─尚基─基康─利男─利倫─女子が母となった。

種利の娘は、佐久間信盛にとついで、佐久間正勝と狩野孝信妻、を生んでいる、

宇都宮氏宗家は後醍醐天皇方の最強軍団となり、美濃の南朝方土岐氏と行動を共にした。





[74]もみじさんからのコメント(2011年09月23日 00時36分14秒 ) パスワード

73新笠と光仁天皇と結婚

73宮道は色々あるが、ヤマトタケル子孫とするのと物部守屋子孫に濃い系と藤原が目につく。これはサダでみると皆同じ系になる。
ヤマトタケル系・・佐多 物部系・・佐田・中原・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 藤原・・佐田は大中臣

後に、佐久間信盛子甚九郎正勝不干斎との接点?
美濃の南朝方土岐氏と明智氏の姻戚は、佐久間信盛祖の居城、西広瀬城
美濃の南朝方・土岐氏といい、美濃の臨済宗・大徳寺派、妙心寺派とは、親密な関係があった。
今も続いている佐久間信盛胤児島宮家の墓は、大徳寺高東院と縁戚の妙心寺、智勝院である。
高徳に至る系
佐々木盛綱男加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳
佐々木盛綱流佐々木加地一族 信実には、系図上で九人の男子がいたことが確認される。冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
佐々木盛綱の子加地信実ー 武田ー逸見冠者清光ー逸見重氏盛綱女婿三宅定心ー玄孫家長ー紀家弘女婿児島範長ー女頼宴室ー児島高徳

後鳥羽上皇─冷泉宮頼仁親王(児島宮)室佐々木信実室母北条時政女─東寺長者道乗──頼宴室児島範長女母紀家弘女─高徳

佐々木盛綱の子加地信実女ー道乗ー頼宴ー児島高徳

伊予の守護、河野通信の長男通俊が鎌倉初期(十二世紀初期)土地の名前をとり得能を氏とした

得能四郎太夫通俊の子深厳也 家勝子紀家弘後継タリー深厳

越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳

備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後三郎、
祠官)
飽浦胤泰東郷胤時子加地時秀孫信実曾孫十郎左衛門. 信胤胤泰子三郎左衛門佐々木薩摩
延元頃. 信清美作. 行胤胤泰子左衛門 ... 基泰東郷胤時子七郎. 新発田長綱飽浦行胤子.
長経. 経綱. 治綱. 長綱. 能敦源次郎. 綱貞

【加地】盛綱─信実─時秀─【東郷】胤時─【飽浦】【東郷氏】
【加地】盛綱信実─【佐々】氏綱─景綱景綱【佐々氏】─宗綱
【加地】盛綱信実─【佐々】氏綱─経綱─宗経─氏宗【佐々氏】

紀家弘室の父東郷胤時ワ云エリ、家弘婿ワ、児島範長デ、範長ワ、今木
範俊ノ子ナリトテ、大平記ニ児島し河野は一族ニテ、児島祖六代孫ヲ今木備後高長トアリ

児島盛綱後継ぐ婿逸見冠者清光子重氏(号ス定心)子李房(相模国三浦郡和田邑ニ住み和田号ス)此レ母は和田義盛女也故、
児島盛綱ー信実ー時秀ー東郷胤時ー女紀家弘室ー女児島範長ー女頼宴室ー児島高徳トゾ

児島範長と紀家弘と母 ... 東郷胤時甥 子児島高徳 紀家弘の女は足利尊氏の男に嫁し、三代将軍足利足利義満となる。
三代将軍足利足利義満となる。
高徳とはいとこにあたる。
紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系

紀家弘は岩清水八幡宮家
岩清水八幡宮は姫野さんの祖父母と探した大分大在の墓で、高岡姫野の地が出た。
又 佐田も岩清水八幡宮に関与する。

この紀家弘こそ、善法寺通清その人である。
義満と後円融天皇は従兄弟
仲子は権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后

【崇賢門院 すうけんもんいん】 建武三〜応永三十四(1339-1427)

従一位贈左大臣広橋兼綱の娘。実父は石清水八幡宮別当善法寺通清という。
北朝・後円融天皇の生母・崇賢門院の御名は紀仲子、御父は石清水別当・紀(善法寺)通清。仲子は権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后となり、のち国母として弘和三年(一三八三)四月二十五日、女院号・崇賢門院を宣下された。『尊卑分脈』の広橋家の系図に、権大納言広橋兼綱の娘として「准三宮・叙二・異本従三位・国母・崇賢門院仲子」の記載があります。応永三十四年(一四二七)五月二十日崩御、御歳八十九才。
[75]もみじさんからのコメント(2011年09月23日 00時57分25秒 ) パスワード

宮本武蔵25
まったく別口の話だが 恒松で検索すると 河野が出る。
伊予八塚 八塚氏の系図
河野通信・・・・彦狭嶋王命より50代なり。本家筋なり というのがある。
2−1)彦狭島命
@父:7孝霊天皇 母:蠅伊呂杼
A第3皇子、兄弟:稚武吉備津彦 大吉備津彦など
別名:伊予皇子
B越智氏祖(新撰姓氏録、記紀)。但し伊予国に来たことを記した文献などないとされている。
で 佐田が関与する蠅伊呂杼がいた。

又 別府という家が河野系図に見え 高岡 佐田をおいかけるとき なにかでみたのだが そのときは 意識していなかったので どこで みたか思い出せない。・・・別府長治

系図に別府ということばが良く出る。
別府は高岡を追いかけているとき よく 出てきた。

恒松
相良晴広女(島津義弘室後上村長陸室)
年度不明), 誕生 父・相良晴広、母・側室恒松氏(御東殿), 「南藤蔓綿録」巻之五 巻頭系図. (年度不明 永禄7〜永禄11年頃), 1564〜1568, 成人後、島津 忠平(後の島津義弘)の居城である飯野城に嫁ぐ, 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月 ...

27
恒松で大田亮氏辞典
肥前 淀姫社 承元3年文書 基頴郡恒松みゆ 

淀姫神社は松浦に2つ 佐世保に1つある。・・・長崎県の地名 日本歴史地名大系43 平凡社

北松浦郡 528上
佐世保市 602中
松浦市  615下
淀姫石器製作跡(佐世保)588中

1小佐々村(こささむら)
山代文書(関東下知状1244寛元2年)
松浦家脈族譜 松浦史料博物館蔵

永仁5年1297年
永仁3年 近江佐々木氏の一族 佐々木小四郎が当地に來住して小佐々氏を称したとしている。(永徳寺由来記)

岳の木場免に宝永3年(1706年)再建 淀姫神社

2 松原村
大野村南島部南に烏帽子岳がある。江戸時代平戸藩領

淀姫神社はトヨタマヒメ命をまつる。
ヤモード神事(注連縄をかける)
ヤモード→山の人 山ノ神のことで マレビトの変身と考えられる。

3松浦市志佐町浦免
祭神 景行天皇 淀姫命 豊玉姫命

淀姫とは神宮皇后の妹で 三韓出兵に随行したという。欽明天皇24年の創建。

4佐世保湾の東の天神丘陵にある旧石器時代の遺跡。
未発掘 黒曜石

旧石器時代・縄文時代の石材として用いられた。
旧石器時代の瀬戸内技法の工程が再現できる。
ー日本歴史地名大系43平凡社ー

29
大悲観岩陰遺跡 永徳禅寺
第92代伏見天皇の永仁3年(1295、鎌倉時代)近江の豪族、佐々木盛綱入道の子孫・佐々木 小四郎が当地にくだり、小佐々小四郎と称し地頭矢岳大守の時、佐々正興寺黙堂和尚の 道風を慕い開山したと伝えられています。

この佐々木盛綱とは「加治」盛綱ではないかと考える。

30
佐々
佐々神社 開化天皇の後 丹波道主族
志夫美宿禰は佐々君の祖。
志夫美は伊勢国安濃郡渋見邑(今安東邑の大字)より起こる。渋見神社あり。

玄松子さんのページより

佐々神社
 ささ
三重県伊賀市音羽618   神紋 5枚根笹
式内社 伊賀國阿拝郡 佐々神社

御祭神
八重事代主命
合祀 須佐之男命 倉稻魂命 大己貴命 金山彦命 大山祇命

祭神は、現在、八重事代主命だが、
『神名帳考證』や『神祇志料』では、佐々貴君の祖神(大彦命)を祀るとあり、社名の「佐々」を祭祀していた氏族の姓によると考えているようだ。






[76]もみじさんからのコメント(2011年09月23日 01時09分37秒 ) パスワード

40
武家家伝佐田氏を検索すると 画面に 「筑後佐田・新 田氏系図」の言葉が出る。
新田 朝氏(にった ともうじ)は、新田氏本宗家の7代当主。新田基氏の長男で、新田義貞・脇屋義助の父。

脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男で、新田義貞の弟

脇屋義助の子・義治の妻が皃島高徳の女子。

皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係

義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)

義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.

家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室 

(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…松平清康━広忠ー徳川家康



[77]もみじさんからのコメント(2011年09月24日 22時43分03秒 ) パスワード

相良氏は人吉の下相良氏と球磨郡部の上相良氏に大きく分けられ、上相良氏がいた上村に本家があった。

南北朝期に上相良氏は護永親王に味方し、人吉の相良氏は北朝に味方した。
福岡たたらが浜に大内氏家臣の人吉の相良氏と同族の相良氏がいた。たたらが浜に足利尊氏は来て、勢力を盛り返し、京へ馳せ帰った。

時代が下がり 最終的に人吉の永里相良が残った。
[78]もみじさんからのコメント(2011年09月24日 23時22分32秒 ) パスワード

75に出る恒松と同じ苗字の家がある集落に市房神宮のお鏡を預かる家があり、又 山北という家もある。
山北と同じ苗字からは相良氏。

又 橘薩摩氏は相良氏と仲がよく、どこへでも一緒に行ったといい、球磨郡へもいった。

後 8男を残して橘薩摩氏は 長崎へ、同じく8男を残して相良氏も八代へ行き、山井はその子孫が名乗る。

内田という苗字の家もあり、教師をしていた。
内田も相良氏子孫で八代へ行った人の子孫。

相対に地域は下相良氏・上相良氏の子孫が多い。
 
[79]もみじさんからのコメント(2011年09月24日 23時24分58秒 ) パスワード

「佐田文書」には 「橘薩摩氏」が 肥後の守護職であったことが書いてあるといい、佐田文書は 豊前宇都宮流佐田氏が 持っている。
[80]もみじさんからのコメント(2011年09月25日 15時04分01秒 ) パスワード

中国人の姓の由来 - (大紀元) - 大紀元日本(ネットより)
(1)使用人数の多い姓1位
「董」、徐、邴、安、杜、胡、弘、郭、麻、鮮于、張、阿布、阿跌、舎利、羅、朱邪の計16の姓に「李」姓が授けられた。
「李」はそもそも「嬴」に由来するとされる。春秋時代には官職の名称を以って名字とすることが多く、道家学説の創始者・老子は、祖先が理官(司法官)の職についていたことから「理」を姓とし、それがのちに「李」となった。
[81]もみじさんからのコメント(2011年09月25日 15時06分02秒 ) パスワード

董はトンと読む。アイシーン・ギョロは金で 董で、伯(狛)である。
つまり 嬴に由来する。高岡と佐田が微妙に重なるのはこういうところにあるのだろう。

鹿島氏は 日本書紀の作者は 伯(狛)族の立場から書いた という。
原初の形を国としての前に 族(?)として考えると良いのでは?

応神天皇朝 多数の始皇帝子孫という人たちが、同じく多数の漢王室子孫という人たちと時期を同じくして流入してきた。このように多数の秦人が流入するのを許したのは、民族対立の歴史上 わが国の国体を考える上で深く考えさせられるものである と 本に書いてある。つまり それ以前 秦人がいた。そして 天皇も 15代を数えている。

[82]もみじさんからのコメント(2011年09月25日 15時07分36秒 ) パスワード

(2)第2位:王

 「王」姓もその出所は多岐にわたるが、主には「子」、「姫」、「嬀」を由来とする。「子」姓に由来する「王」姓は、商王朝の王子・比干が祖先であるとされる。「姫」姓に由来する「王」姓は、周文王の第15子・畢公高、周平王の孫・姫赤ならびに周霊王の太子・姫晋が祖先とされている。「嬀」姓に由来する「王」姓は、舜の子孫・嬀満が祖先とされる。これら「子」、「姫」、「嬀」の3つの姓に由来する「王」姓が、現在の「王」姓を持つ人々の主流を構成している。

 「王」姓はまた、その他の様々な姓から変化したものもあり、古代高麗の君主までが「王」姓であった。
[83]もみじさんからのコメント(2011年09月25日 15時08分46秒 ) パスワード

商(殷)は 勾(こう・く)でもある。

中国の最も古い姓は、そのほとんどが、「姜、姚、姒、嬀、嬴」などの女偏の字であり、いくつかの女系祖先から代々継承された氏族のグループであることが伺える。

一方、氏は姓より後に生まれたもので、父系による血縁関係を表すものであった。ということは、氏は、父権家長制の確立後に生まれたと考えるのが妥当であろう。

 「黄帝軒轅氏、姫姓」ならびに「炎帝列山氏、姜姓」という言い方から、中華民族の共通の始祖である黄帝と炎帝はそれぞれ、2つの異なる母系血縁関係からなる部落あるいは部落連合に属していたということが分かる。

[84]もみじさんからのコメント(2011年09月25日 15時43分26秒 ) パスワード

荒木田家嫡流伝承を書いた人は、殷・周の宝物を持って青州を建ったと書く。
先祖は 斉王田であるとする。斉は周の武王の女子と舜の子孫の人から出た。

●孫氏は「田完」の子孫といわれ、「田完」が もと 陳氏だった人。田氏は陳国王の子・陳完を始祖として始まる。 陳国が乱れると陳完は斉に逃れ、「陳」と音の近い「田」に姓を変えた。西遊記の玄奘三蔵は唐国の皇帝の弟で、「陳」姓としてある。
孫悟空はお弟子であるが、同じ陳からわかれでたわけである。
●周武王時,舜的嫡裔媯滿娶了武王之女太姬,稱胡公。胡公之後,傳到十世孫媯完,因故奔齊,
●陳姓還有三個系來源,分別是春秋時楚國的劉矯後裔,隋初白永貴的後裔,還有突厥族候莫陳氏之後裔。
●西元前672年媯滿的第12代孫陳完,因避難逃到齊國,改姓田。後來他的10世孫田和建立了田氏齊國。
●戰國末年,齊被秦滅。齊王的長子升次子桓先後改姓王氏,
●三子田軫逃至穎川(今河南禹州、許昌一帶),恢復陳姓。從此陳氏一門在中原瓜瓞連綿,生生不息,發展成為名門望族。資料來源: 網路消息
●許昌・・・後漢の要の都市   
●兎州・・・鄭州に夏の兎王に関係する。黄河。「中原」。
☆児島高徳関係は 夏の兎 越 などをあげ、封禅の儀式をあげる。
●穎 → これも秦氏の「羸」と同じく「えい」と読む。
[85]もみじさんからのコメント(2011年09月26日 20時52分46秒 ) パスワード

[九鬼文書」では、「皇室と壱岐氏」のネット作者と同じく、月読の子孫に天那可登美をあげ、黒人根の祖とし、子孫に釈迦をあげる。

中臣は神道として知られているので、釈迦につながるのは今私にはわからないが、二つはそう書いてある。

「九鬼文書」では次に天佐登美をあげ、野安神別命 母宇世 伊恵斯をあげる。

さらに建速須さ鳴天皇として
檀君と称し、朝鮮春川に降り 檀国を造営なしたまう。


鹿島昇氏は 
「桓檀古記」三国遺事は 壇君朝鮮→北扶余→高句麗
日本書紀は 天皇家を伯族のウガヤ王朝の子孫として天皇家の正統を主張した。
三国遺事 法敏篇の 注
白村江の戦後 国史を大改ざんした と 述べる。
※※ 伯は 貊である。

奈良時代 渤海の使者「うすぼつ」は、自分とこの王の先祖と日本の天皇の先祖は親戚だったといい、日本の方もそうだといったといい、共に扶余を先祖にしている。

それが伯族の子孫になっているが、伯は高岡・佐田同じく関与していた。

高句麗子孫百済には嬴姓高岡が関与している。

これらを考えるとき族に分解して考えるとわかりやすい と 私は思います。
[86]もみじさんからのコメント(2011年09月26日 20時55分00秒 ) パスワード

荒木田家嫡流の人は殷・周の宝物を持っていたといい、新羅の昔氏が殷・周の宝物を持っていた。
[87]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 23時16分48秒 ) パスワード

扶余をたどりたどれば周に行き着くが
扶余王・依羅(イリ)
『渤海国・国書』
渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。

依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。

☆この頃韓流テレビをみることがあり、後燕は慕容氏だと知りました。

この記述の信憑性はともかく、名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。第10代の崇神天皇だろうと推察される。
崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。
『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。
           
扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃である。

[88]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 23時19分54秒 ) パスワード

扶余伝
国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を好んで着る。大人は狐狸、狖白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。
兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である。
国の古老は昔の亡命者だと自称する。
扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

周の枝分かれが「燕」(公孫氏)


古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である

@ 魏略曰:其國殷富、自先世以來、未嘗破壞。

 A 魏略曰:舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙嘘之、徙至馬閑、馬以氣嘘之、不死。王疑以為天子也、乃令其母收畜之、名曰東明、常令牧馬。東明善射、王恐奪其國也、欲殺之。東明走、南至施掩水、以弓撃水、魚鱉浮為橋、東明得度、魚鱉乃解散、追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。(訳文は、三国神話の扶余を参照されたい)

扶余などの王族には「解」姓が多く見られるが、「解」は朝鮮語で太陽・日の意とされる。

[89]もみじさんからのコメント(2011年09月26日 23時43分56秒 ) パスワード


★殷の箕子が周武によって朝鮮に封じられた。箕子に従っていた人の大半が扶余になった。
箕子には 秦も たよってきた。

鹿島氏は箕子受封の地は「平州」ではなかったか?研究を要します。と書く。

私は小さい頃「きしちょうせん」という言葉を聞いたことがある。父のひざに抱かれていた頃のことで、家の先祖伝承かどうかはわからない。

しかし お寺様の苗字は 「川津」で、磯城津彦の母。中原系図によれば磯城津彦の後を十市県主とする。豊前宇都宮流佐田は中原を称していた。

殷の微子啓が周武によって 「宋」に封じられ、 殷王朝の祭祀を続けた。
その子孫に「雀」。

荒木田家伝承では 故郷「青州」を 発って 韓をとおり 九州に来たという。

青州・山西省  5〜6世紀 北魏時代頃に現在地に移ったという平遥は、切妻両流れ屋根としたものが多く、美しい彫刻飾りが特徴だ。
大阪高槻の笹井家住宅は「切妻つくり」。古墳時代の神社の本殿のつくりと同じということで高槻重要文化財になった。

山西という場合に、「箕」と同音(ji)で四声が異なる「冀」の地、山西省西南部の★河津市★の一帯も興味深い。この地は、太原を流れる汾河の下流で、それが黄河と合流する地の三角州にあり、近隣に稷山・通化・解店・太陽村という地名が見えるからである。★晋には姫姓解氏★もあり、晋の初祖・唐叔虞の 子の良が解(解池の付近)を采邑としたことに因むが、前掲の箕鄭とほぼ同時期の人で、少し遅れて『左氏伝』に登場する解揚という者もいる。
 
河津県の黄河対岸にあたる西側は陝西省韓城県であるが、この地は往時、韓原といい、姫姓の晋の公族(桓叔の子の武子万の後)から出たという戦国七雄の一、韓の王室の故地であった。これらの事情から推すると、箕子の故地ないし関係地は河津・韓城の辺りではなかったろうか。箕伯とは風伯・風の神の意味とされるから、箕氏は鍛冶氏族であったものか。これに関して、檀君が太白山に天降りしたとき風伯・雨師・雲師等を伴ったという檀君神話も想起される。「箕」は周王室の姫姓の姫と同音(ji)かつ同声であるが、冀氏も晋公族郤氏の支流や唐堯の後に見え、★後者の郡望は渤海(河北省滄県)★とされる。
[90]もみじさんからのコメント(2011年09月27日 23時10分40秒 ) パスワード

スサノオは「牛頭天皇」ともいい、牛に関係している。

壱岐氏 九鬼文書から 月読命ー釈迦と インドに関係してくる。

又 五家荘の平氏の伝説から 五本の矢・熊野の伝説からインド善財王の五本の矢とこちらもインドに関係してくる。

[91]もみじさんからのコメント(2011年09月27日 23時18分48秒 ) パスワード

「桓檀古記」の皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊

詳しく書いてあるので著書を引用させていただくと
鹿島昇著
陝野 の 遠祖 そしもり
「桓檀古記」 檀君世紀 三世 檀君嘉勒は
三世壇君嘉勒が即位した己亥元年はBC2182と考えられる。
檀君国家は広義では 北扶余・高句麗を含めるが、狭義では北扶余以前の国家で、始祖・王検がBC2333に即位してから第47代・檀君古列加が即位し、北扶余の解慕漱が即位したBC238まで続いた国家である。

三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。
戊申10年 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。
★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。
三国遺事は 壇君朝鮮→北扶余→高句麗
日本書紀は 天皇家を伯族のウガヤ王朝の子孫として天皇家の正統を主張した。
(鹿島昇氏)
★三国遺事 法敏篇の 注
白村江の戦後 国史を大改ざんした と 述べる。

檀君世紀 36世 檀君売勒条
甲寅38年 陝野候 ・幋命を遣わし、往きて海上を討たしむ。
12月三島悉く平らぐ。
帝 兵を遣わし、須臾の兵と燕をうたしむ。燕人急を斉に告ぐ。斉人大挙して孤竹に入り、わが伏兵に遭い、戦いて利あらず。和をこいて去る。

馬韓世家 
甲辰 子・弓忽立つ。甲寅 陝野候に命じ、戦船500艘を率い、往きて海島をうち、倭人の叛を定めしむ。弓忽薨ず。子・東祀立つ。東祀薨ず。

神武天皇即位の年
原田常治 記紀以前の資料による古代正史
★神武天皇即位の年は「辛酉かのととり」といろいろな本に書いてある。
AD241年がその年に当たり、その前はAD181年。
★紀元2600年祭
AD241年に900年を加えると同じ辛酉かのととりになる。
★「鹿島神宮」 「牟礼神社」も 紀元2600年祭りをした。

鹿島氏の著より
★ソシモリ→陝野候・幋命→穢王
★・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族の姓。
★通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。
六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて解邑の君となる。すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。
[92]もみじさんからのコメント(2011年09月27日 23時44分31秒 ) パスワード

桓武天皇の母は高野新笠
百済武寧王につながり、笠氏などから彦狭島王につながり、欠史8代の天皇につながる。
又 彦狭島王は伊予橘氏 河野氏にもつながる。
笠氏は吉備津彦につながり、この人は 大彦命 丹波道主命などと共に四道将軍。

玄松子さんの記憶より
「相良皇子」という人がいる。桓武天皇の皇子。
京都府丹後久美浜に衆良神社すらじんじゃがあり、ご祭神は「河上魔須」神紋「桐」
垂仁天皇の御世の勧請。『古事記』には、「丹波道主命」は、河上摩須の娘を娶ったとある。
比婆須比賣命を生む。
社号の「衆良」は、延喜式写本には「モロヨシ」の訓が付けられている。

以前は相殿に牛頭天王宮(八坂神社)を祀っており、
中世には河上牛頭天王と呼ばれ、牛頭天王が信仰の中心であった。
牛の神として崇敬され、現在でも一般には「天王さん」と呼ぶ。

衆良神社については、牛頭天王宮(八坂神社)と麻須良皇子との話がある。
須田の大雲寺に保存されている奥書天正16年(1588)の『天龍山大雲寺記録』の記述には「(前略)桓武天皇に御皇子豫多在しけり。第一は平城天皇、大同元丙戌に御即位在しなり。第二は弘仁元庚に兄君の位を即せ給ふて嵯峨天皇と奉申なり。第三は、相良皇子と奉申れり。御心悪かりなん兄君の御位を奪んと御媒叛の御企有ければ小野岑守等の計ひにて淡路の國へ渡らせ給ふが遂に彼地にて薨じ給ふ(中略)然るに第四の宮は摩須良皇子と奉號兄君相良天皇(皇子)之御媒叛に組せられければ丹後國に御下り給ふ。後に御料を御許有りて都へ可歸勅使立せ給へども歸り給ふべき御心なかりしや、當所塔垣(殿垣)といふ處に玉關を御立成されて此地に居住成給ふて御年67歳にて薨じ給ふ。後に牛頭天皇宮と奉崇しとなり。御存生の間に國家安全の為に當寺を御建立有りて御代長久を祈り給ふ。(後略)」とある。

[93]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 00時27分40秒 ) パスワード

桓武天皇の第3の皇子は「伊予親王」。この人が相良皇子と考えられる。

伊予親王(いよしんのう、延暦2年(783年)? - 大同2年11 ... 自害した。異母兄平城天皇 の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に失脚させられたものとされる (伊予親王の変)。 後に親王の無実が判明し、・・・

子供は平城天皇弟・嵯峨天皇により復位。

伊予国の橘氏や越智氏の祖とされる藤原為世(浮穴四郎)は伊予親王の子であり、嵯峨天皇が勅して皇子に準じられ、藤原の姓を受けた、という説がある。

母は藤原吉子といい、藤原南家出身の女性でした。

伊予親王は父の桓武天皇に深く愛されていたと伝えられており、天皇は遊猟や巡幸に際して親王と吉子のもとを度々訪れ、歓楽を共にしたことが『日本紀略』などに記されています。

藤原吉子は父は藤原南家藤原是公。幼名黒麻呂。

この頃には同じ藤原氏の中でも北家・南家・式家・京家の主導権争いが激化しており、この伊予親王の事件に連座させられて南家は没落した。陰謀の匂いの濃厚な事件である。

雄友(是公の子:大納言)・乙叡(継縄の子:中納言)が伊予親王の変により失脚し、仲麻呂に続き、豊成・乙麻呂の系統も中央貴族としては衰退した。なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は各地に広がり、工藤氏、伊藤氏、伊東氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏、天野氏といった各氏の祖となった。

平安中期以後は、北家に押され政治的に衰退する中、武智麻呂の四男巨勢麻呂の子孫が中央貴族として続き、多くの学者を輩出した。院政期に院近臣として勢威を得た藤原通憲(信西)はその代表である。また、後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫からは堂上家である高倉家(室町時代末に絶家後、江戸時代に再興し藪家に改号)を輩出した。
[94]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 00時49分16秒 ) パスワード

丹波道主命と河上魔須の女子の間の女子・ひばす姫

垂仁天皇と比婆須比売命の系統
印色之入日子命・・・・・・・・・・・太刀千本を石上神宮に奉納
大帯日子淤斯呂和気命・景行天皇・・・皇子・ヤマトタケルその子・仲哀天皇
大中津日子命・・・・・・・・・・・・山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖
☆山口県佐波郡に垂仁天皇の皇子が住んでおり、その飛び地が大阪摂津にあった。茨木市の「牟礼神社」で、祭神は牟礼別祖の大中津彦命。この神社は「鹿島神宮」と共に 紀元2600年祭りをした。

倭比売命・・・伊勢皇大神宮の斎宮。ヤマトタケルを支援
若木入日子命

私はこういう話の底に 島津氏・相良氏・高岡・白石をみる。
[95]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 22時09分22秒 ) パスワード

伊予国の橘氏や越智氏の祖とされる藤原為世(浮穴四郎)は伊予親王の子であり、嵯峨天皇が勅して皇子に準じられ、藤原の姓を受けた、という説がある。

蒲池氏の歴史と史蹟 というのがネットに出ているので見てみると・・・蒲池は山口に関与していて、私の家のつながりになおすと、高岡・白石・山口の固まりになる。

蒲池氏は、嵯峨天皇の第十王子の伊予親王の子の藤原為世の 子孫で、藤原為世は 越智家時の婿となって越智氏を継ぎ、その越智氏の後裔と称するのが河野氏をはじめとする伊予水軍の一族であり、先に述べた伊予の橘氏も藤原為世の流れを汲むとされている。

もう1つ
平将門のブレイン興与王
「皇胤誌」に載っている興世王の出自は2種類あって、ひとつは伊予親王の子高枝王の孫というもの。
高枝王は一度平姓を賜ってるが、賜姓されても子孫が王を名乗る例はある。
もうひとつは参議の十世王の孫というもの。

皆詳しく調べないといけないだろうけど参考にコピーしておきました。

河野へは「恒松」からたどったけど、恒松は松浦の淀姫神社などに関与し、豊玉姫・さがら龍王などが出た。
さがら龍王は8大龍王の最強の王で、竜宮の王は、塩満玉・塩ひる玉を山幸に与えた。
「清水寺・奥の院御本尊御開帳」 を検索すると、さがら龍王は5匹の蛇を持っているという。
「鹿島神宮」にも8大龍王はいる。
天狗は 天津狐と 鳥の間の子孫で 龍神と 共に 毘沙門天の眷属。

こちらのほうからもインドに行き着く。

[96]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 22時30分31秒 ) パスワード

先代旧事本紀の島津神。島津とは志摩のことだと。
伊勢神宮荒木田家は津速魂神の子孫とし、そうなら藤原。嫡流が書く「阿多羅しい古事記」(ネット)で、倭国王の名前とされる「アマノタラシヒコ」のいわれ。を書いている。


天足彦国押人命(天押帯日子命)
記紀によれば、孝昭天皇の皇子で、母は「瀛津世襲」の妹・世襲足媛命『日本書紀』本文、『古事記』では余曽多本毘売命、「日置姫」)。同母弟に日本足彦国押人尊(孝安天皇)がおり、『日本書紀』本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述される。天足彦國押人命の事績は伝わらないが、『古事記』には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・「小野臣」・柿本臣・春日臣・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖、『日本書紀』に「和珥臣の祖」とし、『新撰姓氏録』にも同様の系譜記載がある。なお、子に和邇日子押人命(稚押彦命)がおり(『和邇系図』)、名からして和邇氏族の宗祖的存在と言える。


「瀛津世襲」・「日置姫」・・比企に通ずるらしい。「小野臣」・春日臣・「和珥臣の祖」などがみえ、小野・・・多氏・中原氏・十市氏に関与する。
[97]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 23時02分47秒 ) パスワード

菅原道真の 母も 大伴氏です。出雲臣の祖先は 一書に、高魂神の系ももっており、武蔵の国は大伴氏も関与し、天穂日命の子孫出雲臣の分かれも関与する。高魂神を祖先とする大伴氏と菅原氏ともつながっている。
高魂神→大背飯三熊之大人(建三熊之大人)・・・天穂日命を親とする。これは娘婿?

私の故郷の集落の1つに小野というところがある。縄文時代の遺跡がある。宮田・松本・村山などの家があり、伊勢神宮社家にも同じ苗字の家がある。
近世小野という家では

小野(旧姓出雲)氏。天葺根命後祭主春日守の裔。
小野 尊安[ 文化10(1813)年9月19日〜明治13(1880)年12月7日 ]
尊道二男。
元治元(1864)年6月8日叙従三位。
出雲国日御碕社検校。
小野(旧姓出雲)氏は天葺根命後祭主春日守の裔で、明治6(1873)年10月12日華族に列せられる〔家譜〕。明治17(1884)年7月8日には尊光が男爵を授かる〔現代華族譜要〕。

天葺根命を検索
現在では大国主といえばソサノヲの子のオホナムチのことをいう場合が多いが。又 荒木田家伝承にも大国主・ひみこが出て、熱田旧記 「大国主」は 素戔鳴尊第七の皇子で、紀氏の祖神也。 とのせて、紀氏を出雲 神の 後裔とする。紀氏は佐田・武内・孝元天皇に関与する。

とりあえずネット作者に従うと(これは秀真伝えをとっているらしい)大国主―テコヌシ(くしひこ)ーコモリー

こもりは子守神/守。 
クシヒコとミホツ姫(タカキネの娘)の子で第3代オオモノヌシ。 
斎名:ミホヒコ。 幼名:ヨロギマロ。 
ニニキネ・ホオテミ・ウガヤの剣臣(右の臣・オオモノヌシ)。 
ニニキネがツクシに巡幸に行くと、ミヅホの宮にコヤネと共に侍り、央君であるムメヒトを補佐する。 18男18女を生み育てアマテルよりコモリ守の名を賜る。 父クシヒコによってか医学・薬学に明るい。 俗に子守明神といわれ、全国の子守神社の祭神はこの人である。 また祭神名の水分神というのは御子守神がなまったものと思われる。

まずしい子守唄といわれる五木の子守唄ではあるが、全国の子守唄のルーツみたいにもネットでかかれており、しかも 犬童求渓(相良氏)が作詞したものでもとは たくさん 歌詞があった。
滋賀県高島郡安曇川町青柳、與呂伎(ヨロギ)神社。
奈良県奈良市本子守町、率川(イサガワ)神社(子守明神)。
京都府長岡京市栗生清水谷、子守勝手(コモリカツテ)神社。

天神立命。 
コモリの第一子。
京都府長岡京市東神足、神足(コウタニノ)神社。
京都府京都市伏見区久我森の宮町、久我(コガ)神社末社・歯神社。

★『旧事』山背久我値(やましろのくがのあたい)等の先祖。
★『古事記』淤美豆奴神。

天葺根命。 天冬衣神。 
カンタチとフトミミの子。 サシクニワカメを妻とする。
大物主を継ぐ。
島根県簸川郡大社町大字日御碕、日御碕(ヒノミサキ)神社。 
佐賀県小城郡小城町大字池上字牛尾、牛尾(ウシオ)神社。 
石川県輪島市河井町、重蔵(ジュウゾウ)神社。

■*はオオモノヌシ +はコトシロヌシ

ソサノヲ━オホナムチ*━クシヒコ*+━コモリ*┳カンタチ━フキネ*
                       ┃
                       ┗ツミハ+━━━━┓
      ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
      ┃
      ┗クシミカタマ*━アダツクシネ*━タケイイカツ━タケミカジ                リ┓
  ┃
       ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━       ━┛
       ┃
       ┗ミケヌシ━オミケヌシ━タケイイカタス━オオタタネコ┓
        ┃
       ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
       ┃
       ┗ミケモチ┳オオカモツミ
       ┃
       ┣オオトモヌシ
             ┃
       ┗タタヒコ

嬴姓高丘系図から出たつながりは尾張氏・熱田氏・荒木田氏(結局神魂命・高魂巣日尊)などにもつながっていて古代のことがわかる。

[98]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 23時19分16秒 ) パスワード

柳田國男 / 知る / 椎葉村観光協会で検索
明治42年柳田國男が「のちの後かり狩ことばのき詞記」を著した。これが日本民俗学の 最初の出版物であり、しかもその内容のほとんどが椎葉村の狩猟民俗に関して占め られていた。 柳田國男が椎葉村を訪れたのは明治41年7月13日から一週間。当時の 中瀬 ...

日本の民俗学の源流

椎葉は那須の大八郎と鶴富姫のひえつき節で知られるところで、
門川町
江戸時代は延岡藩に属していた。廃藩置県後は延岡県→美々津県→宮崎県→鹿児島県と所属県が幾度と変更されたが・・・

宮崎県議会
本町と美郷町、諸塚村、「椎葉村」、で選挙区をなす。

こちら方面に 昔 球磨川の水運が開けなかった頃、人吉相良氏は鹿児島の方へ出るか宮崎のほうへ(米良超え)するかしかなかった。
米良超えは難所をきわめた。又白石門(百姓でかためていた)もあった。
[99]もみじさんからのコメント(2011年09月28日 23時50分39秒 ) パスワード

若狭彦神社・・・白石大明神
武内・平賀・・・白石
清和源氏・佐竹氏族の白石が藤原に入ると「高倉」になる。
肥後の白石は清和源氏で、菊池が相良氏に負けたあと相良氏に仕えた。

白石は王氏だと辞典でみたことがある。
白石が磐井を名のった。東国安部郡に磐井の地。
九州の磐井は「君姓」。これは古代天皇の子だった。
武列天皇にいたり子がなく、丹後にいた応神天皇子孫・継体天皇がついだ。
丹波道主命は景行天皇・ヤマトタケルに入る系。
その子の仲哀天皇と作楽神社・児島高徳に関与する先祖・天日鉾命の子孫・神功皇后の子が応神天皇。

荒木田家伝承の人が書いているのには、先祖の遺物に出雲荒神谷遺跡の銅剣と同じxがきざみつけられた銅剣があった。
王氏は斉の子孫にもいるが、
青州から船出した荒木田家祖先の人数: 中国(中原)黄河文明とともに日本列島へ渡来した数千人の先祖のうち、斉人の数は出雲荒神谷遺跡から出土した銅器の数と同じである。すなわち、銅鐸6個は斉王とその妃、銅矛16本は王子(1人は対馬海峡を渡る前に朝鮮半島南端で死んだので、王子は全員では17人)、銅鐸39個は神官。銅剣358本は従者(7人は朝鮮半島南端で死んだので、従者は全員では365人)。また、この他に兵士や工人、朝鮮半島に住んでいた東夷人(揚子江流域から北上して来た民族)が大勢連れてこられた。

と書く。熊野の伝説のもうひとつ
周のしんか?と言う人。周の外戚または王族にも王氏はいた。



[100]いわいさんからのコメント(2011年10月26日 10時44分59秒 ) パスワード

醍醐天皇の頃の和名抄に球磨郡に六郷があるという。その中の球玖の読み方が分かりません。教えてください。
[101]いちごさんからのコメント(2011年10月26日 21時53分12秒 ) パスワード

今はこの地名はありません。地名辞典にも載っているのですが、ふりはうってありませんので、わかりません。私は字のおおよその感覚から「くく」と思っています。地名辞典では六郷でなく五つだったように記憶しておりますが・・・明日あたり図書館に行って確かめてみます。

この地名は私の故郷にあったように書いてありました。
[102]いちごさんからのコメント(2011年10月27日 01時27分32秒 ) パスワード

球玖から離れていってすみません。

九州脊梁山脈;落人の里で検索
相良村初神の白鳥神社クリック
文中の初神神社クリック
田川市白鳥神社
九重町白鳥神社
樅木白鳥神社
椎葉村白鳥神社
えびの市白鳥神社

大体ヤマトタケルとそのゆかりの人、又 白鳥の槍を持つ平重盛がでるが、
大分県九重町の白鳥神社に「玖珠郡」の文字が見えます。

「くす」と読むのではないでしょうか?それなら 上の文字は「くく」ではないかと思います。」

又ここの神社では 近江の浅井氏の名がみえます。
神功皇后の頃の人のようです。神功皇后の夫の「仲哀天皇」が「ヤマトタケル」の子供と世系には書かれています。

私の故郷の白鳥神社の集落は「阿蘇神社」「初神神社」といいます。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.