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 投稿番号:101235 投稿日:2011年04月27日 00時17分34秒  パスワード
 お名前:いちご
五枚笹 九枚笹紋
キーワード:神社の神紋にもみえる 孝元天皇 大彦命
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

他のスレッドにも 笹紋についてあるけど うちは 少し 別行動をしていたようなので ここに 書きます。まだ 荒削りですけど・・・
うちには 系図がありません。慶応か安政くらいからあります。その前の始まりの方は男女しかありません。真言宗は一時途絶え復活したとき墓石から拓本をとったそうです。傍証からつながりそうなところは または かすりそうなところは 

>服部明子さんのように孝元天皇第一皇子大彦命の子孫の服部さんもいれば
>旗本の服部家も笹紋だそうです。
>前田和歌子さまの御実家の服部家は9枚笹紋使用ですか。
>実は今朝「笹紋の服部家」の存在を知りましたから。”根笹の9枚?11枚?  笹”だそうです。






















[1]さくらさんからのコメント(2011年04月27日 00時21分25秒 ) パスワード

@大彦命は
阿倍臣を始め、膳臣(かしわでのおみ)、阿閉(敢)臣(あへのおみ)、沙沙城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣の7氏の始祖とされ(『書記』)、その他那須国造、難波吉士などの諸氏族の祖とも伝えられている。

[2]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時22分48秒 ) パスワード

うちの
@笹井
A岡山出身 その前は 信州篠ノ井に戦敗 作州に走る。森候入国に際し 出でて仕え ・・・とある。
B宗派 古儀真言宗仁和寺御室派
とあらかたは こうだが

次に
長野県松本藩士に 笹井あり。家紋 丸に九枚笹
又 戸田家家臣に笹井あり、家紋 「丸に五枚笹」

[3]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時24分22秒 ) パスワード

次に
笹井 佐々井 篠井 など 通ず。
笹井 清和源氏 根笹 


次に 
@福島大神宮社家・笹井家(常磐井家) 家紋知らない。
祖を「西園寺実氏」とする。
A岡山「今村宮」宮司・笹井。ここは 隅立舞鶴紋 とかいうもの。
 神主の黒住氏が孝明天皇にアマテラスの神道をご進講した。
B大阪茨木市「総持寺墓地」に 林家の大きな墓があり、丸に九枚笹紋。
C戸田家は 堂上家ではないが 近衛門流とある。

[4]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時26分10秒 ) パスワード

次に笹紋をつかう神社では
使用神社の例 (玄松子が参拝し確認したもの)かりました。

美奈宜神社(林田) 福岡県朝倉市林田字蜷郷205
斐太神社 新潟県妙高市宮内241
真清田神社 愛知県一宮市真清田1−1
佐々神社(伊賀市) 三重県伊賀市音羽618
上杉神社 山形県米沢市丸の内1−4−13
大縣神社 愛知県犬山市宮山3
佐毘賣山神社(益田市) 島根県益田市乙子町51
赤田神社(阿波市) 徳島県阿波市土成町成当字大場1450
篠田神社(綾部市) 京都府綾部市篠田町宮ノ下6−1
道相神社(南丹市) 京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43−1
篠座神社(大野市) 福井県大野市篠座42−5
志那神社(草津市) 滋賀県草津市志那町727
惣社神社(草津市) 滋賀県草津市志那中町240
三大神社(草津市) 滋賀県草津市志那中町309

[5]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時28分41秒 ) パスワード

美奈宜神社 神紋 九枚笹 
御祭神
素盞嗚尊 大己貴命 事代主命
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真清田神社 愛知県一宮市真清田1−1  神紋 竹の輪に九枚笹

御祭神
天火明命
織物の一大生産地に相応しく、本社の右には、
服織神社(萬幡豐秋津師比賣命)が鎮座。
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佐々神社(伊賀市) 三重県伊賀市音羽618 五枚根笹
御祭神
八重事代主命
祭神は、現在、八重事代主命だが、
『神名帳考證』や『神祇志料』では、佐々貴君の祖神(大彦命)を祀るとある。
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佐毘賣山神社(益田市) 島根県益田市乙子町51
神紋 九枚笹
   上り藤に久

御祭神
金山彦命 金山姫命
鎮座地の「乙子」は、祭神の一柱・木花咲耶姫命が
大山祇命の乙姫御子であるからといい、
本来は姫神が主であったことがわかる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
惣社神社(草津市) 滋賀県草津市志那中町240 五枚笹
御祭神
志那津彦命 志那津姫命
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道相神社(南丹市) 京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43−1 神紋 九枚笹
御祭神
神武天皇 五瀬命 木梨軽皇子


などが きれいな 五枚笹 九枚笹紋。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[6]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時30分00秒 ) パスワード

次に
京都丹波亀岡に出雲大神宮があり ここから 大国主だけが 出雲に移された。高槻文化財の笹井家のつくりは 妻入り 。

[7]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時31分07秒 ) パスワード

次に
西園寺実氏 西園寺紋は 巴紋らしい。
常盤井・笹井の祖の西園寺 実氏 
建久5年(1194年) - 文永6年6月7日(1269年7月7日)
父は准三宮 西園寺公経 母 一条全子
     
男・西園寺公相
(四条貞子・俗姓は鷲尾。鷲尾は佐田)
(四条隆房と平清盛女子・建礼門院のすぐ下の同母妹の子が 四条隆衡)
妻:四条貞子(四条隆衡女)
女:西園寺姞子(大宮院、1225-1292。 後嵯峨天皇中宮、後深草・亀山両天皇  母

四条貞子(北山准后.1196〜1302.107歳)は
『とはずがたり』巻3「北山准后九十賀」に、
「俗姓は鷲尾(わしのお)で、大納言隆房の孫、隆衡卿の娘


後白河院の寵愛を受けた清盛娘、彼女との間に儲けた隆衡を嫡男としました。 隆衡の娘である貞子西園寺実宗の孫である実氏に嫁ぐ。

とはずかたり
仁治三年(1242)の四月二十八日には、
公経の孫で、実氏の娘の藤原よし子(1225〜1292)の入内が正式に決定し、彼女は先ず従三位に叙された。それから間もない六月三日、
よし子は母の貞子につき添われ、公経や父の前右大臣・実氏の住む冷泉富小路第を出、西隣の冷泉万里小路内裏に参入した。

[8]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時31分58秒 ) パスワード

道家の外孫である四条天皇がなくなると、公経の孫・姞子を「後嵯峨天皇」の中宮とし、姞子所生の久仁親王(のち後深草天皇)を皇太子とした。
以後、西園寺家から中宮を出す慣例の先駆となるとともに、
持明院統(後深草天皇の系譜)が幕府と近い関係を持つきっかけとなった。

姞子は
正応5年(1292年)に68歳で崩じ、粟田山陵(京都市左京区)に葬られた他、聖徳太子の墓所がある叡福寺(大阪府太子町)内に分骨されて宝篋印塔(分骨塔)が建てられた。

[9]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時34分07秒 ) パスワード

その前
西園寺 公経(さいおんじ きんつね
承安元年(1171年) - 寛元2年8月29日(1244年10月2日))
内大臣 藤原実宗の子。
西園寺家の実質的な祖とされている。

源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻とし、
平頼盛の曾孫であることから、鎌倉幕府と親しく、
(平 頼盛は、平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。)

と平氏の血を引き 源氏に近い。
[10]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時35分35秒 ) パスワード

次に
大阪茨木市「総持寺」の隣に「本照寺」があり、別名「佐々木城」。
ここに 笹井家の墓が二つある。1つは違い柏紋。もうひとつは 剣カタバミ。
高槻市内にもうひとつ 笹井があり これが 文化財の家だったか? モッコウ紋といわれた。皆 流れは 違うとのこと。

高槻には 市重要文化財の 「旧笹井家住宅」があり
江戸時代の町屋だが、屋根のつくりが古墳時代の本殿のつくりと同じなので文化財指定になっている。

京都亀岡とつながっているらしい。前には市道の脇に看板が立っていて 京都紺屋町から来ている と 書いてあった。
[11]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時37分34秒 ) パスワード

雀部朝臣は 違い柏紋なので 笹紋の笹井とは筋が違うか ? と 思うが

摂津の雀部 違い柏 うはら郡
丹波の雀部 天田郡に雀部郷あり
      松尾文書 神家 雀部城(佐々木村)

      丹波志 雀部鍛冶 子孫・福知山紺屋町下紺屋町 鍛冶屋半兵衛      前田村に由緒あり。⇔これが 高槻の 笹井の もとらしい。

[12]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時38分36秒 ) パスワード

雀部造
多臣族。古事記神武段 神八井耳命は雀部臣 雀部造云々等の祖。
天皇本紀 神八井耳命は云々 雀部造等の祖とある。

雀部臣
武内宿禰の末。星河建彦宿禰

[13]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時39分46秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月27日 00時40分37秒
[14]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時44分19秒 ) パスワード

次に
うはら郡雀の松原
『源平盛衰記』巻十七に「千代に替はらぬ緑は、雀の松原、みかげの松、雲居にさらす布引は、我が朝第二の滝とかや。」とあり、また『長門本、平家物語』巻九に「福原といふ所は、北には神明跡をたれ、いく田、広田、西宮、千代にかはらぬみどりは雀の松原、みかげの松、雲井にさらす布引の滝、南をのぞめば、うみまん〳〵たるあはぢ島山、眼の前にさへぎる船」とあり古くから名勝として名高かった。

正平6年(1351年)には足利尊氏・足利直義兄弟が互いに戦った場所でもある。
[15]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時47分56秒 ) パスワード

薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如何さま大勢を恃みて、御方しそむしぬと思ければ、弥我事と気を励しけるにや、自余の勢に紛れしと、絹三幅を長さ五尺に縫合せて両方に赤き手を付たる旗をぞ指したりける。一族手勢二百余騎、雀之松原の木蔭の控えて、大手之軍今や始ると待つ処に、兼ねての相図なれば、河津左衛門氏明、高橋中務英光、大旗一揆之勢六千余騎、畠山か陣へ推寄て時を作る。畠山か兵閑り返りて、態と時の声をも合わせす。此藪陰彼木影に立隠れて差攻引攻散々に射けるに、面に立つ寄手数百人、馬より倒に射されければ、後陣ひき足に成て進み得す

– 西源院本、太平記第二九巻、小清水合戦事
[16]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時50分59秒 ) パスワード

そは和名抄。郡郷部に摂津国菟原郡住吉郷に隣りて、佐才郷ありて、訓註欠たり。今思うにこは左ゝ以とぞ訓(よむ)べき。さて其の佐才郷は姓氏録摂津国の皇別に佐々貴山の君という姓あり、此の姓の人の代々住まれし地にして、当時は佐々貴とぞ云けむ。(略)かくて其の佐才はも、雀松原のこめいなるべくぞ思ゆる。そは此の雀の字はもと鷦鷯の借字にして、古事記に大雀命(おほささきのみこと)と記されしを日本書紀には大鷦鷯皇子(おほささきのみこ)と真字に書奉られたり。されど姓氏録にはまた古事記を例として猶雀部朝臣(ささきべのあそみ)と書れたるを後世音便に佐々以部(ささいべ)と訓るより、佐才に雀の字をも借り用ゐて書き来れりなるべし。されば此の雀松原は佐々以松原と訓べきなり。さて此の地点の佐才郷ならむには、かの住吉郷の如く、今も民家のあるべからむを、松原の跡のみなるはいかにぞやと思ふ人もあるべきか、これは余まだ幼き頃、此の郷の老人の昔話に聞しこと、いささか耳の底に残りたり。抑此の五百崎の里なむ、昔の家居多くは今の住吉川の西の地なりしを、当時(そのかみ)武庫山より水いたく溢れ出て、家とも悉くおし流されつる事のありしより、皆今の地に移りて住居したりとなむ。実や昔も今もかかる例は稀しからぬを、甚くも変りはてぬるかな、など幼き心に思ひし事のありつるを、今更にまた考ふるにいとよく符号たれば、昔は佐才郷なりしを、今の五百崎の地に移りし後はやうやうに荒れ行きて、唯松原のみ茂き野原となれるまにまに、人皆佐才松原とよびたりしを又既にいえる如く、佐才に雀の字を借り用ひしより、其を又訓ひかめて須々売松原とは云ひ来れるにぞ有ける。 ”
—松尾綾平(『雀松原考』より)⇔佐才⇔佐々井⇔笹井

[17]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時52分01秒 ) パスワード

次に
佐々木と笹井 高岡は 通じているらしい。
宇多天皇敦美親王の系は 
道長と結びついたほうは 貴族になっていき、京極と結びついたほうは武士化した。京極は佐々木⇔京極道誉⇔佐々木道誉(高氏たかうじ)→多田院に関係している。

武士化したほうは 近江源氏・宇多源氏・佐々木源氏と呼ばれるが同じ。

[18]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時53分10秒 ) パスワード

治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、のち頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の五男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と、承久の乱の時、幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し近江源氏から分派して出雲国に土着したため、この一族を出雲源氏という。

[19]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時54分12秒 ) パスワード

出雲・但馬高岡氏系図より   家紋 丸に三つ柏 輪違い
高岡氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、八郎宗泰が出雲國神門郡鹽冶郷高岡邑を領してより高岡氏を名乗る。
[20]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 00時55分03秒 ) パスワード

出雲・高岡系図は  家紋 輪違い 丸に違い鷹の羽
【世系】高岡氏は源姓なり。世々摂州川辺郡多田郷の御家人にしてのち出雲藩士となる

家紋がどんどん 違ってくるが 笹井→佐々木→高岡 

[21]いちごさんからのコメント(2011年04月27日 22時46分56秒 ) パスワード

宇多源氏である源成頼が近江佐々木庄に下向し、その孫の源経方が佐々木氏を名乗った事 に始まるとされる

秀義にいたる系は佐々木宮神主佐々木下司兵庫助源経方―季定―秀義と続く。
                         ―佐々木宮神主・行定

佐々木秀義が、源頼朝の叔母(源為義の女子・娘婿になった)を妻に娶って、ここに 清和源氏と宇多源氏の血がひとつに流れ込み、2人の間に佐々木定綱が生まれる。元三つ星紋 

四つ目結紋は定綱の子息信綱のときに、菊・桐紋とともに後鳥羽院より給付されたと伝わります。

定綱の四男信綱は、九条兼実の孫・九条道家に奉仕し、道家の娘竴子の御産祈料として絹三万五千疋を献じた功績で近江守を受領しています。このとき誕生したのが四条天皇です。

[22]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 09時36分31秒 ) パスワード

沙沙貴神社は「少名彦名神」を祀っている。
高御魂巣日神・神魂神の子とされ、酒の神とされ 常世国に行ったとされる。

常世は「燕」ともいわれ、「燕」は 「周」のきょうだいから出る。

常世族としている。

ほかに併せて、仁徳天皇・大毘古神(おおひこのかみ)・宇多天皇・敦実親王(あつみのみこ)

おおむね 雀部朝臣 宇多源氏の道筋をたどるときに出る人たち。

[23]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 10時01分06秒 ) パスワード

少名彦名命は 大和「大神神社」の祭神として 隠されている。大物主・大国主になっている。

玄松子さんのページより
真清田神社 尾張國中嶋郡 眞墨田神社
御祭神   天火明命
神紋    竹の輪に九枚笹  先に出た笹紋を使う神社と輪が違う。祭神も違う。

祭神は、尾張氏の祖・天火明命。
この祭神は、1738年以降の説で、明治になって正式に採用されたもの。
『尾張式社考』『尾張地名考』など多くの書では、大己貴命。
『真清田古縁起』『神祇宝典』などには、国常立尊。
『塩尻』には、国常立尊・大己貴命・大龍神・姫龍神。
『尾張志』には、国常立尊・天照大神・月読命・大己貴命。

古い資料では、国常立尊が基本であり、江戸時代以降、大己貴命となったようだ。

天火明命に関しては、真清(ますみ)は、鏡に関わる言葉であると考え、
鏡作氏と、尾張氏の祖神を祭神と想定したもの。

龍神に関しては、弘法大師が祈雨のために作った茅龍を境内に住まわせたとか、
当社祭神が、八頭八尾の大龍に乗って鎮座し、
尾張国が八郡に分割したなどの伝承による。

神紋は、竹に九枚笹。
織物の一大生産地に相応しく、本社の右には、
服織神社(萬幡豐秋津師比賣命)が鎮座。

境内左には、三八稲荷社(宇迦之御魂神)。
神池の畔に、厳島社(市杵嶋姫命)と八龍神社(高靇神)。
服織神社の右には、愛鷹社・犬飼社・天神社。
そして、須佐之男命社・秋葉社・愛宕社が並んでいる。


[24]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 10時31分13秒 ) パスワード

萬幡豐秋津師比賣命は高木神の女子
スサノオのものだねから生まれた五人の男の子の一人でアマテラスの子とされた「天忍穂耳尊」と結婚。 天火明・ににぎを生んだ人。

アマテラスは筑紫で生まれた後 天にいた おじである高木神のところへいった。

アマテラスにも機織のはなしがあり
まわりに織物の人がいたのだろうか?。

源氏物語では 訪って来る人があったり 季節の移ろいにあわせ 本人も含めいそいで 染め物をして縫い物をして仕立てたと書いているし、
香あわせに 自分の秘術をこらし 人が立ち入るのも遠慮させたみたいなことを 書いているので

後世 権力を得た人が 人が 立ち働く上に胡坐をかいて 自分は いい身分と 人を見下すのとは 違うようだ。

必要からか そういう術を 知っていた人たちが 身の回りをしだいに 華やかにしていったものか・・・

食べるにもかき込んで食べるのでなく、みやびを重んじた所作を尊んだように生活を楽しむことから 一種 雰囲気が違うところが出来たように思える。

 

[25]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 19時09分31秒 ) パスワード

尾張と益城と球磨
山口県史に 豊浦の人が尾張氏に「益城宿禰」の姓を与えた。とある。

人吉の地域に益城をいうところがあったといい、益城郡に関与したものか?とある。

球磨は広く 郡部も含めて 球磨。

源平の頃 相良氏は 平家没官領の隙間に入り込む形で 入部した。
[26]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 19時55分51秒 ) パスワード

鹿児島
平氏禰寝家系図

清盛─重盛─維盛─高清─清重【禰寝氏】【小松氏】
『桓武平氏にして維盛の子高清、字六代律師妙覚、その子清重、称清重者用清盛之清、興重盛之重也云々、建仁三年七月三家将軍頼家卿補彼院(禰寝南俣院)地頭職之旨、賜袖判下文俟、云々、於茲改平氏称建部氏者也』
 


         ┌重延【税所氏】
             ┌存盛【佐多氏】
建部清近─┬清助──親助─┴時盛─┴兼盛【田代氏】
     │
     └清貞──清房──女子
               ├─┬清村──親村【松沢氏】【佐多氏】
 平重盛──維盛──高清──清重 ├清忠
                 └清綱──清親──清治──清保──清成

佐田は 大中臣
佐太は 漢王室子孫坂上一族
佐多は 倭タケル子孫

さだ は サダで 通じていく。




[27]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 20時28分38秒 ) パスワード

球磨 
私の家があったあたりに 田代という集落があり、川下は深水
田代という地名は 他にも 集落がある。原田のあたり。

なので 田代 深水という人がどこの人かはわからないが

田代 深水は 相良家家老。
はじめ 阿蘇氏につかえ 後 相良氏に仕えた。

球磨の荘園
平安最末期に院と平家により成立した荘園が、球磨荘や詫麻荘。国司・在地勢力との連携で設定された半不輸の荘園で、球磨荘は一郡全体が院・平家・国衙の共同所領、鎌倉幕府成立後は、王家領(八条院領)、関東御領、公領に片寄せされた。(寄進説 片寄せ説あるらしい)

源平争乱の頃 球磨あたりは平頼盛の領地だった。
7 8 9 参照 西園寺と頼盛 幕府との関わり

球磨には 八条女院領もあり
11世紀 平河氏入部
建久の図田帳※宇都宮の建久園田帳という言葉も球磨郡誌でみた。
本所   蓮華王院
領所   八条女院
預かり所 対馬前司中原清業
下司   人吉次郎
政所   須恵小太郎
地頭   会志九良
     藤原茂綱
     久米三郎
     尼西妙
 
良峯朝臣子孫・平河氏
[28]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 20時35分54秒 ) パスワード

良峯朝臣子孫・平河氏
平河が良峯朝臣の子孫のことは 郡誌にある。

川辺川筋は 良峯師高所領
川下は 皇室領

良峯朝臣は 桓武天皇の子供・・・・・・・劉姓・紀姓
百済永継女子との間の子

この女子 または きょうだいが 藤原氏との間に 冬嗣・真夏を生む。
冬嗣の子孫 北家。

真夏の子孫からは日野家を初め として、広橋家・「柳原家」・烏丸家・竹屋家・日野西家・勘解由小路家・裏松家・外山家・ 豊岡家・三室戸家・北小路家の計12家の堂上家が成立し、真夏流と呼ばれる。

親鸞聖人が 日野氏の出。
[29]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 20時43分16秒 ) パスワード

良峯朝臣は 林や 計12氏と わが国の文化を「国風文化」にした。
良峯朝臣は 劉姓を名乗るので 国風文化とは 漢風か?

聖徳太子も その頃 国語は秦語だったのを 翻訳(?)したと。

8 西園寺実氏と四条(鷲尾)貞子の子・よしこは 聖徳太子の墓所がある叡福寺(大阪府太子町)内に分骨されて宝篋印塔(分骨塔)が建てられた。

昔はお寺も ゆかりの人たちが同じところに 葬られただろう。
彼らは 同じ 流れに あるのか?

[30]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 21時39分42秒 ) パスワード

良峯寺と花山天皇
天台宗 元慶寺の始まりは、

清和天皇の第一皇子、貞明親王(陽成天皇)の誕生の翌年、
貞観十一年(869)僧正遍照の発願により親王の母藤原高子(多治比氏・十市が関与する。十市 中原同族)が創建した花山寺を、

元慶元年(877)に陽成天皇によって定額寺に列せられて年号寺、元慶寺と改めました。


[31]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 21時49分43秒 ) パスワード

僧正遍照の俗名は良峯宗貞、
父は桓武天皇の皇子大納言安世(良峯氏)であり、仁明天皇とは従兄弟になり寵愛を受けていた。

この寺は、寛和二年(986)に女御祇子(ぎし)の死に悲しむ花山天皇を、
藤原兼家らが出家を促して退位させた所でもあります。後 兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。別称 花山寺と呼ばれる。


良峯寺
寺は、長元2年(1029年)、源算(俗姓・大中臣氏)が創建。「『往生要集』」
長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。

さらに八年後には、東山の「鷲尾寺」の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。

鎌倉時代初期には慈円(九条兼実兄弟)が住したことがあり、後鳥羽上皇直筆の寺額を賜り寺号を善峯寺と改めた。本尊は千手千眼観世音菩薩。善峰観音宗(天台宗系単立)。
[32]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 21時53分29秒 ) パスワード

善峰寺の北隣にある三鈷寺は、「百人一首」と大変関係が深いのです。
藤原定家に 百人一首の元になったとされる 小倉山荘色紙和歌を依頼した人物が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)で、彼が当寺の堂宇
(観念三昧院華台廟)を建立して自らの供養石塔も残しているのです。

三鈷寺の由来 
往生院三鈷寺は元天台宗、真言宗、律宗、浄土宗兼学の勅願所であったが、現在は比叡山延暦寺末寺。
本尊・仏眼明妃坐像画幅、宇都宮蓮生事物とされる抱止阿弥陀如来。
 
善峰寺と同様、源算上人が長元年間(1028〜1037)当地に小庵を建立し、阿弥陀像一躯を本尊として北尾往生院と称したのが始まりとされる。一説に承保元年(1074)頃とも謂われる。
 
その後、観性法橋、慈鎮和尚(大僧正慈円)と継がれ、建保元年(1213)法然上人門下、証空善慧国師(西山上人)が引き継いで不断如法念仏道場として、背後の山の姿が仏器の三鈷に似ている事から、
三鈷寺と改称されたという。
[33]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 22時10分25秒 ) パスワード

この 良峯寺まで 源平の争乱の頃 平資盛が恋人に会いに やってきたという。
[34]いちごさんからのコメント(2011年04月28日 22時13分26秒 ) パスワード

花山天皇の子孫 中山氏(明治天皇の母方の血に入る) 王氏(北白川伯家本先代旧事本紀を持つ)

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