[1] | 最初で最後の投稿さんからのコメント(2011年04月25日 10時15分17秒 ) | パスワード |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314352038
こんなリンクを見つけました。
鹿児島県枕崎市金山町(元、東鹿籠金山)に「関、佐藤、三浦と」いう3家があり、当地を知る年配者(父を含む)の話とヤフー知恵袋でのご教示で、これらの家は鹿籠金山に深く由来する家柄であることまでは、ほぼ確認できました。この3家中の「三浦」がまさに該当します。
この質問者は、三浦さんなので、
三浦さんの家系図
三浦氏の出自は桓武平姓の平高望流三浦義明の子孫と云われる。
現在の横須賀市が相模国三浦郡であり、高望ー良文ー忠道ー為道ー為継ー義継ー義明ー義澄ー朝村ー員村ー盛明ー義継と続き、義継の子・重義が大隅に下向して大隅郡垂水郷中俣を領する(出身地の三浦郡石井郷の石井を名乗る)。
この重義から分かれた一族が義茂であり、義茂=義次ー大助ー義親ー義晴=義重ー義亮ー良慶=義長と続く。
義茂は垂水島津家忠将が清水城(国分)にある時、忠将に仕える。
となっていました。
しかし、鹿児島、九州は、内陸から来た人が多かったことを
このようなことを通じて、知らされる次第です。
黎明館
遠くに住んでいるので、行けませんが、
手紙でも書いてみましょうかね。
調べてくれるのでしょうか。
余談ですが、どっかのブログで、平家系の陰陽師なんて話しもあり、
私は鹿児島の出身ではないんですが、
ちょっとその大志万さんのところで盛り上がっていた系の話しを書くならば、
20代も過ぎてから、
鹿児島に行ったときに不思議な体験をしました。
いま、この平家物語を熱く語るに昨日来て以来、
不思議な出来事が、次から次から、全部これつながりなのかと
思えてきます。
知らない、意識しない言葉が頭に巡ってきたのが
その鹿児島に行った時のことでした。
言葉の中に、 もののふ(当時、なんのこっちゃ)
陰陽(なんとなく、陰と陽だろうと思ったが、ドライブ先の全く始めての場所で
感じた)
ご先祖つながりみたいな人の暖かい声が、して「よくきたねえ」みたいなものを
これもドライブ先の初めて迷い込んだ場所で感じた。
鹿児島をドライブしたとき、そういうことが多くて、驚きました。
余談ですけれど、UFOまで見ちゃいましたっけね。
ま、あんまりこういうこと書くと、
離れていくことでしょう。
(姓探しから)
多分、私も平つながりなんじゃないかと、直感はびんびんしています。
もうちょっとかな。
どこまで探せますやら
[2] | 最初で最後の投稿さんからのコメント(2011年04月25日 10時33分32秒 ) | パスワード |
続きです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214319702
鹿児島城下からの”金山奉行”は年に一回の視察だけで、現地には手代(おそらく奉行職は本家筋が就任して、傍系の家系の者が鹿籠に移住して”郷三役”に就任したと考えます)が送り込まれ、郷の支配と採掘を指揮した。
延べられている{関家}{三浦家}については、「さつまの姓・氏」川崎大十著に掲載されていて、いずれも山奉行・普請奉行などに就いている家系です。
(城下士・家格新番であり、15石〜30石の家系です。佐藤家は全国的姓名で記載が無い)
親から聞いた話しでは、確かにその鹿児島の田舎ですけれど、
代々武家というか役人だったと聞いています。
それも、その本籍地がそのものずばりですので、
恐らくこれに間違い無いだろうと思います。
三浦という姓も親たちが話す会話では、聞いたことがあったかも
しれませんが、
私は都会育ちで、転勤が多い家だったし、
現在は海外に住んでいるものですから
親の話すローカルなことは、さっぱりこれまで興味がありませんでした。
親は平家の話しは一度もした事がありませんし、親もそもそも本籍はそこでも
外地に住んでいたのです。
せめて三浦家のように家系図がわかるとうれしいです。
平氏系でも、なんでもいいですから。
わかるとうれしいですね。
[3] | 最初で最後の投稿さんからのコメント(2011年04月25日 12時25分47秒 ) | パスワード |
一人でやってる感じありますが(笑)
続きです。
http://re.chiebukuro.name/init_sss/kwext/ 鹿籠
郷三役についてこの郷三役は、正確に言いますと「外城制度」での地頭を補佐する三役であり、有事の際には地頭が外城衆を率いて戦う臨戦体制を維持する役目で各郷をまとめていた郷の首脳陣です。一般的に地頭は寛永7年(1630)頃からは遙任となり、鹿児島城下に居住し、現地には名代として郷三役が派遣・あるいは任命されてその土地の自治権を掌握しています。この金山郷は島津家直轄地で金山奉行に付属する「暗法師」とその家族の自治権を執行する三役が現地に在りますが、この郷三役はあくまでも金山奉行の任命者であり、喜入氏の配下では在りません。関氏は鹿児島か北薩東郷士ですので、金山奉行の任命で鹿籠に移ったのではと思います。
こんな記述がありました。
もちろん、これが正しいとわかったわけではありませんが、
この記述ですと、
関氏は鹿児島か北薩東郷士ですので、金山奉行の任命で鹿籠に移ったのではと思います。
とあります。
となると、その前から鹿籠にいたわけではないということになります。
その場所だけで検索してきたので、
そうなると、また検索範囲が広がってしまいます。
けれど、この記述、鹿児島かホ草津東郷士というのは、本当なのでしょうか。
なぜなら、関氏の家紋が(我が家ですが)丸に揚羽蝶です。
金子、三浦つながりをどうしても考えたくなるのですが、
三浦は、別の時代にやってきたとどこかの記述にありました。三浦半島から大隅半島でしたね。
となると、関氏は、いずこからやってきて、我が家先祖となりえたのでしょうか。
三浦氏のように、平家つながりでも、
一の谷の合戦時の金子氏よりももっと後の可能性があるということなんでしょうかね。
なぞがなぞを呼んでしまいます。
余談ですが、直感的には、もう断然平家つながりです。
だって霊的な話しで、覚えている人の名字が、とことん
このあたり関連の名字です。
それとも偶然にそのように記憶が巡るのかもしれませんね。
ま、1000年か5000年の間に何度も結婚しているわけだから、
どっかで関以外で平家つながりなのかもしれませんしね。
その場所に住んでいたならば、その可能性はありますね。
三浦 遠縁の名前で一度聞いたことがあるような気がするような、しないような。
多分、いらっしゃることでしょう。
ま、ここまでくると、以前どおり、「そんなこともあるだろう」程度となり、
興奮も冷めてくるんですけれどね。
更に余談ですが、
こんなことがあると、思わず天皇はUFOに乗ってやってきた
異星人だ、なんて信じそうです。
と、書くと、もうここで付いて来れなくなる人、多いでしょうね。
(笑)
本人的には、浮き世船のもっと前な気持ちになりましたけれどね。
まあ、想像の話しってことで、許してください。
結構検索しましたので、疲れました。
[5] | 最初で最後のかきこみさんからのコメント(2011年04月26日 07時24分28秒 ) | パスワード |
さて、何から書きましょうか。
平家つながり。
このHPでは、オカルトっていうんですってね。
私的には、スピリチュアルな世界とか、感の世界とか、導きの世界とでもいうのでしょうか。
今から書く話しは、個人的な小さな平氏つながりかもしれない、お話です。
はじまり はじまりー。
このHPにきたのは、きっかけは、別でした。
あることを検索していて、ふと目にとまった歴史的人物のとある関
ところで、家紋が同じとわかり(実際には丸はなかったが)
果たして、我が家の関ってどうなんだろう、と思い、
そういえば、戸籍の住所、どこに引越してもずっと鹿籠だなあなんて思い出しました。
それで、検索の旅が始まりました。
今から書く話しは、ちょっとした平家つながりかもしれない、そんな生活の中の
ふとした不思議話です。
短大の頃、私は東京、東北、福岡と下ってきたのですが熊本にいたんです。
自身は九州の出身では無い。
そこで出会った人に田代姓の級友がいて、彼女は球磨の出身。
そして、学生寮で、「落ち武者の霊がでるったいよ」
と言ってました。なぜかそれを聞いてもちっとも怖くなかったのですが、
球磨の田代姓もどうやら調べたところ、平家落人みたいです。
彼女、なぜか私が子どものころにつくった造語を連発して、ジョークを言うので、
不思議な感じがありました。
性格の良い女性でしたっけね。
私は卒業して福岡、東京とまた上り、
両親が南下したので、そこにしばらく住んだことがありました。
5年ほどですね。これがはじめて鹿児島に住んだ経験。
そこでのドライブ先の不思議な話しは、すでに書きましたでしょうか。
陰陽という言葉が感じられたり、いろいろね。
ふと、開聞岳のことを思い出しました。
その日、開門岳に朝から登りたくなり、コーヒーをポットにつめて、
おにぎりをにぎって、車で行きました。
仕事は会社の人に御任せして。
っていうかいわゆる社会的には上司に任せて、なんのためらいもなく
登りに行きました。
一人で登ったのです。
行きはずっと一人。
山頂までくると、なぜかドラマなどに出ている小野寺昭さんがいました。
なので、朝からのなんとなくの感は、これだったかな、と思ったものです。
どうやら、ちょうど映画かなんかの撮影があったようで、その合間で登られたのではないでしょうか。
それ以降は、ただ有名人に出会った偶然話としてたまに知人トモダチの間で
語られる程度の話しだったのですが、
ふと、その球磨の田代と同様、平家、小野寺で今検索しました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onotera.html
こんな伝説めいた話しがあり、平家方について戦ったこともある姓名でした。
私の中では歴史的認識として、今知識を得たわけで、
面白いかな、と思ったりしました。
その芸能人の方が本名かは知りませんけれどね。
それと、これもまた別の話しですが、
アメリカだというのに、昨日は黒人系の女の子が着物をきくずして歩いてました。
カセットラジオみたいなのを持っていたので、どっかに踊りに行くんでしょうね。
けれど、不思議は不思議ですね。
このスレッドに来てから、そういう人を見かける、それも交差点だから
すごい確率かなあと思いました。
日本の演歌歌手みたいに、おばあちゃんが日本人とか、その着物とか
そういうことなんでしょうかね。
[6] | 最初で最後のかきこみさんからのコメント(2011年04月26日 08時27分33秒 ) | パスワード |
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage8.html
『鹿籠』には、「大宮姫鹿籠采女」の伝説があり、東の「岩戸」、西の「春日」には今も、露天掘りの金山があり、北の蔵多山でも、江戸時代は金が掘られ、「金山」なる集落もある。
その『鹿籠の十五夜歌』で歌われる『伊予の方々』や『天の岩戸』などの文言は、「伊予(愛媛県)」と「大和」に天降りした『天の香山』伝説の本源が『枕崎市鹿籠』であったとモーソーさせ、
『天香語山命』なる「物部氏、尾張氏の祖」が、「海幸・山幸彦物語」に登場し、かつ、地域の「笠沙の宮跡・竹屋神社」の祭神でもある『火明命』の子とあれば、
日向出身の「神武天皇」や、「粘土の古語・はに」を負う「埴安彦」の妻なる『吾田媛』と、「隼人の呪能・嚴咒詛(いつのかしり)」が著く『天の香山の粘土で造った甕・土器』に関する「かたりもの」に、『南九州の古代隼人』が無関係であった、ハズワナイ、とモーソーするのである。
> 地元の方のHPですが、
興味深いものです。
伊予の方々という歌があるそうで、伊予方面から来た人たちがいたということなんでしょうか。
私は歴史とんちなので、
日向出身の桓武天皇というのは聞いたことはあるのですが、
果たして、そうなんですか?
よくわかりませんが。
A『鹿籠』の『岩崎』集落に、『まさきのかずら 日陰のかすけ 天の岩戸のこいごいとすれど さまがめんぐりよ』(枕崎市誌下巻 482頁)と歌われるの『十五夜歌』が伝わり、
B薩摩半島「開聞岳と枚聞神社」を舞台にした『天智天皇のもとで「大宮姫」として仕えた開聞町山麓の娘が鹿の足をしていた』という名高い「大宮姫伝説」についても、
江戸時代の地誌「麑藩名勝考」に、『所謂大宮姫は、鹿籠采女とて鹿籠村の産なり』云々(麑藩名勝考 88頁)とあり、
「日本書紀」の九段本文『鹿葦津姫』(紀上 141頁)の名は、「鹿の足形」の娘が「鹿の足の姫」とされ、そこから映された名称と考えている。
根拠は、『神懸つたものは一般に土足になることを忌む』(和歌森太郎著作集第三巻 119頁)とされたことと、
日本の伝統的な狩猟族人である「マタギ」の間では、集団で狩をして羚羊(かもしか)をしとめた人に対する褒賞がその膝から先の脚の部分で、『羚羊の脚の皮は手袋や足袋の素材として最上だった』(山民と海人 164頁)と民俗学が明らかにするところにあり、
太古、いわゆる「巫女」は「鹿の皮の足袋」をはいていたために「鹿足姫」とも称され、「大宮姫伝説」がそれを裏付けてくれる、と考えるのである。
つまり、『鹿籠』は『鹿兒』と同義で、とにかく『鹿』に縁があり、あるいは『神鹿』の「志賀海神社」、利根川河口の「鹿島・香取の神社」、奈良の「春日神宮」や丹波の「籠神社」までも関係がありそうに思われ、
神話の『天の香山』は、枕崎市『鹿籠の山』 だった、と モーソー する。
>うーん、籠ねえ。
神話には、その『鹿籠』に関係ありそうな『天鹿兒弓』と『天鹿兒矢』まで載せ,
『東国尾張の人々の遠祖に「香山命」』なる人物まで載せる。
>尾張?
余談ですが、
『木花咲耶姫』
が、この検索をはじめてから頻繁にでてくるのですが、
数カ月っていうか半年前に私は恐らくはじめてくらいな感覚でこの言葉をネットで知りました。
神様の名前なんでしょうね。
そのくらい何も知らないので(日本の歴史、古い書物はとにかく苦手。
でもなぜか読めてしまうこともありますが)
ということで、あんまり名前に関する知識はここにはなかったようです。
ところで、秦氏と隠れダビデなんかを探していくと、
不思議すぎる話しもあって、
その人的考察、思うところってことなんだろうけれど、
予言ものにどうしてもこだわる人は、気の毒に思います。
あくまでもあくまでも余談ですが、
予言は未定。
防ぐ、変更するってことをその自分の思考の呪縛を解いて、
もっと考えていかないとならないと思いました。
いや、秦氏なんかの検索したら、いい線いってそうだけれど、
なぜか旧約聖書を現代の日本に当てはめたり、なんだかめちゃくちゃな人が
いたので。
防止する、癒す、そんなことを書いているのに、
なぜかそこだけは納得できないHPというのも日本語でありました。
そういうサイトは秦氏などの情報は面白いのですが、
あまりにも日本、日本、日本が世界の中心で、とやりすぎてるんですな。
その結果、本当にオカルトになってます。
悪い意味のです。
[7] | 最初で最後のかきこみさんからのコメント(2011年04月26日 09時29分51秒 ) | パスワード |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1024615300
知恵袋に、なぜか鹿児島鹿籠の関の家紋をたずねた人がいたらしい。
我が家のは、その本籍で、関で
それで、丸に揚羽
揚羽の形はいわゆる桓武平家と言われている筋のあれそのもの。
[8] | 最初で最後のかきこみさんからのコメント(2011年04月26日 09時40分46秒 ) | パスワード |
http://reo.lib.kagoshima-u.ac.jp/~kicho/zuroku_select.php?key=H9
この中ある鹿籠古帳 など、見て見たいものですけれど、
まあ、どれも見てみるチャンスが無いのは残念です。
狩夫銀御旧法記(かりふぎんごきゅうほうき)
鹿籠御廻文留帳・鹿籠古帳
これあたりの記帳を行っていた人が先祖あたりかと想像します。
母方のある人は、記帳をしていて、その人の日記があったのですが、
それは、誰かが作った偽物だとか、論議があったそうです。
けれど、私の感的には、それは本物だと思います。
[9] | 最初(以下省略)さんからのコメント(2011年04月27日 07時01分29秒 ) | パスワード |
http://homer.pro.tok2.com/sub12-4 (bounotutyou).htm
姓は違う方のようですが、坊津のあたりで、揚羽蝶家紋の方のブログ
興味深いです。
坊津町清原平原地区は平家の落人集落があり「平」に「山」をつけて平氏であることを隠したと伝えられています。
しかし管理者である私は伝説とは思っていません。私が大学時代の夏休み(昭和52年頃)、京都大学の先生が平家の落人の調査に来ました。坊津に1軒だけある私の実家の苗字の存在を大阪いる私の親戚から聞いて、九州の落人伝説の里の調査の一環として訪ねて来たといっておりました。先生の話によると私の苗字は桓武平氏の家臣一門の一つで、また私の家紋のアゲハチョウの「向かい蝶」の家紋は平氏の一門が使うもらしいく(私の村には私の家以外にはありません)。そのときに先生から桓武平氏の系図や源平合戦の絵巻に描かれた旗指物など見せてもらいました。それにして我先祖たちは壇ノ浦からはるばる地の果てまで生き延びたものだと思いました。
向い蝶 参考http://www.otomiya.com/kamon/animal/tyo.htm
なるほどねえ、形と名前が違っても蝶がおおいんですね、そのあたり。
ここで気になるのは、一の谷落人が、金子姓ほか、
壇ノ浦落人は、また時期が違うと思います。
このあたりの、時期と誰が、というのがもうちょっとはっきりしてくると
良いのかと思います。
桓武平家ということで、ひたすら系図になっているのですが、
それだけだと時代背景、つまりその彼らの移動した場所、理由、どこからどこへ、までが
はっきりしません。
[10] | 最初(以下省略)さんからのコメント(2011年04月27日 07時35分27秒 ) | パスワード |
http://shusen09.web.fc2.com/kagonoyurai01.html
これも興味深いですね。
枕崎、地名、鹿篭(鹿籠)の由来
島津氏五代である貞久が正平十四年(1359年)4月に7カ条の置文を残し、それと同時に「薩摩国河辺郡内嘉古村」を子に譲る旨の譲状を残している。
「嘉古村」すなわち「鹿籠」という地名が歴史書に現れるのはこの時からであり、この時代にはすでに一つの知行所として一村を形成していたことが理解される。
枕崎市誌には記載がないのですが、地元枕崎には次のような伝説が伝えられてるようです。
神代の昔、霧島の高千穂峰に、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫、ニニギノミコトが降臨してのち、都を吾田宮に定められ、笠狭野間崎(カササノマミサキ)のオオヤマツミノカミの娘、コノハナサクヤヒメノミコトをおきさきにむかえられて、お生まれになったのが、海幸彦(火照命・ホテリノミコト)と山幸彦(火遠理命・ホオリノミコト・別名彦火火出見尊・ヒコホホデミノミコト)のご兄弟でした。
山幸彦は兄神海幸彦の釣り針をなくされて、探しに出かけられました。
国分八幡下のカゴ山から舟を出し、錦江湾を南下した目なしかごは、黒潮に乗り、最初に着いた場所が開聞岳と向い合う、この景勝の地鹿篭の海岸であったというので、山幸彦の別名「火の神」を、ここ一帯の名称にしたということです。
(火之神公園内の案内板より)
また、同じ南薩摩地方の頴娃町には、次のような伝説が伝えられているとのことです。
山幸彦が海幸彦の釣針を探しに出かけられたとき、国分八幡下のカゴ山から、目なし篭に乗って出発された。そして最初に着いた場所が、鹿籠の海岸であった。
(徳留秋輝−「南薩の伝説」を参考)
さらに、同じく南薩摩地方の笠沙町の二王・には、次のような伝説が残されているとのことです。
二王・は「二皇・」の意で、有名な海幸彦と山幸彦の争いのあった場所で、即ち彦火火出見尊が釣針を失われて泣いておられた所だと言い伝えられている。
又、尊は、この辺から船に乗って出発されたが、潮に流されて枕崎の鹿籠に漂着したとも言い伝えられている。
(徳留秋輝−「南薩の伝説」を参考)
寛政7年(1795年)に刊行された、薩摩藩の国学者、白尾國柱(しらおくにはしら)による「麑藩名勝考」(げいはんめいしょうこう)
同郡(阿多郡)鹿籠郷 鹿籠の二字にて加呉と唱ふ、即籠の義にて、勝間より出たる號といへり
「古事記」に出てくる「勝間」と「鹿籠」が何の関係があるのか、という疑問にここで答えておかなければなりません。
鹿児島には「高千穂の峰に天孫が降臨した」という伝説を始め、日本神話に関係する伝説が各地に存在しています。
古事記に書かれている、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫であるニニギノミコトが高千穂の峰に降り立ってから、笠沙でコノハナノサクヤヒメと出会い、阿多で三人の男子を儲けたという南薩摩を舞台にした伝説も残されています。
ニニギノミコトの長男が海幸彦で、末っ子の三男が山幸彦です。海幸、山幸の話も古事記に出てきますが、山幸が海幸から借りて無くしてしまった釣針を探しに海神の宮に行くときに乗った乗り物が「无間勝間」(まなしかつま)という船なのです。
この後、山幸は海幸との争いに勝ち、フキアエズノミコトという男子を儲けますが、これが神武天皇の父親になります。神武天皇が鹿児島の地から東征して大和政権を打ち立てたというのも、鹿児島の地に残る伝説です。
>ここまでこの伝説を読みますと、
京都から都落ちしてきたので、平家桓武筋という話しがもっぱらのようですが、
この古事記には、
鹿児島の枕崎にある鹿籠から、神武天皇が東に制覇していって、京都奈良あたりに
大和政権を建てたということが書いてあります。
それが、伝説じゃなくて、単に本当の史実だと考えると、
つまり、最初から出発地点は、鹿籠であったことが考えられます。
となると、なぜに我が家の丸に揚羽蝶の家紋は、
その鹿篭の本籍であったのか、
もっともっと、さかのぼった理由によること、
本籍は残しておけ(父はなぜか晩年変えてしまったのですが、それでも抄本には
残っています)
残しておくか、(誰もいない場所なのに)
という理由がその辺りの謎解きにつながってきそうで、
面白いと感じています。
本日に至まで、日本の歴史とんちなわたくしは、
今まで経済学、外国語、法律など、現代の生活における三種の神器(ほんまかいな)
ばかり学んできたわけですが、
もっとも嫌いだった日本の歴史と歴史文学が、こんなにも面白いものだったなんて、
気づきもしなかったのです。
また、有り難いことに、このことをやっているときだけは、
私のその、普段なんとうのか、感というか、サイキック的というか、なんというのか
わかりませんが、周囲の人の潜在意識的な考え、それも最近においては、
仲良くしようとか、ではありませんから、嫉妬、妬み、嫌がらせ、侮辱、
そんなものばかりがずっと聞こえていて、不快でたまらない日々を
もうアメリカで6年ほども送っているのですが、(日本では日本で
また別のうるささが漂っていましたが、94年以来ですから、もう
17年ほども、そのごちゃごちゃに苛まれているといえばそうですし、
時に助かることもあるのですが、
この先祖探しをやっている時だけは、それらの嫌な部分のごちゃこちゃが
きえて、すっきりするのです。
これは、わたくし、続けなければならないと思います。
つきとめなければ。
京都落ちした平家だと思っていたのですが、そうなると
出発は、京都よりも、鹿籠だったということで。
私は別にどっちでもいいんです。
優劣なんか考えてませんし、ただ、恐らく単純に事実を知りたいだけ、
そのほうが良いだけなんだと思います。
参考までに神武天皇(古事記に出てくるという)
は、初代天皇さんのようで、
桓武平家といわれるその桓武天皇は、50代目にあたるんですね。
>
、ニニギノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)、フキアエズノミコトの三代を「神代三代」(かみよさんだい)と呼んでいますが、この三人(神様なので「三柱」というべきでしょうか。)の陵墓も鹿児島県内のそれぞれ、川内の可愛山稜、溝辺町の高屋山陵、吾平町の吾平山稜にあります。
少し神話の話に夢中になり過ぎたようです。「古事記」に出てくる「无間勝間」(まなしかつま)の話に戻しましょう。
「古事記」では、山幸彦が海神(わたつみ)の宮に行く時に乗った船は、「无間勝間」(まなしかつま・目が無いほど堅く編んだ籠の意味)とあります。
また、日本書紀では、山幸彦が乗った船は、「無目籠」(まなしかたま・堅く編んだ隙間の無い籠の意味)とあります。
堅く編んで水が入らない様にした乗り物のようです。これは「日本書紀神代下第10段本文」の記述です。
一方、「同書第10段第一の一書(あるふみ)」では、同じ場面で「大目麁籠」(おほまあらこ・目の荒い籠の意味)となっています。
「目の荒い籠」では水が入り、乗り物は沈んでしまうので、本文と明らかに矛盾しますが、堅い目でない小船を作って海の中に入って行ったことにして、海の中の物語になるように試みたという説もあるようです。
「鹿籠」は「勝間」から出た、と言っている「麑藩名勝考」ですが、唐突に「勝間」という言葉が出てくるのですが、実は「鹿籠」の説明の前に、「鹿児島」の由来について記している箇所があって、そこで「勝間」について詳しく説明しているのです。
傳称、麑島とは、籠島なり。古に謂ふ、無間(マナシ)の籠より出たる名なりとそ (中略)
所謂籠是今の竹籠也。漢語抄、籠カタミとあるハ、カタマの轉りたるにて、方言謂バラ籠なり、此の麑嶋の地は、彦火〃出見尊、かの籠の小船に乗りて、海宮に出幸給ひし故址なるをもて、籠島の名を負せしよし也。
それも鹿児島の元が、篭島なのではないでしょうかねえ。
>
「麑藩名勝考」では、ここで詳しく、古事記、日本書紀に出てくる「无間勝間」や「無目籠」の解説をし、「鹿児島」の由来は「籠島」であると言っています。
なので、「鹿籠」を紹介している箇所では、「勝間」に由来するとだけ言って、説明を省いているようです。
色々と「鹿篭」という地名について探ってきましたが、どうやら「鹿籠」は古事記、日本書紀に出てくる「籠」から出た名前であるとの説に辿り着きつつあります。
>これはこれは、興味深すぎます。
姓のことよりも、もっと面白いではありませんか。
古事記?読んだことないです(苦笑)
家には百科事典古事記抜粋みたいなのがあった気がしますが、読みませんでしたね。
どうしても興味が持てなかったんですねえ。
>
一方、「鹿籠の」地名の由来には別の説もあります。「籠(こもり)」という地名に由来するという説です。
鹿籠の字に含まれる「籠(こもり)」という地名には「入り江」という意味があり(南日本の地名−小川亥三郎著より)、枕崎の「鹿籠」の地名も、もとは「籠(こもり)」と言う地名から派生したのでは、という方もおられます。
(yan1123 さんのブログを参考)
でも、やっぱり古事記は強いでしょう。
古事記、日本書紀に出てくるんだから、まあ、びっくり。
つまり、桓武平家 揚羽一族は、
この古事記でいきますと、みな鹿児島が最初ってことになってしまいすか?
反発を感じる方もいるかもしれませんね(笑)
私個人的には、どうでもいいことなんですけれど、
その鹿児島にやってきた宇宙人だったとか、まだそんなことを言っていたりするわけですが、
冗談はともかく、
興味深いですね。
HPにしてくださっている方々、ありがたやありがたや。
古事記なんて、アメリカでは読めませんし、はて大学にあるかなあ?
今度検索してみましょう。
[11] | 最初(以下省略)さんからのコメント(2011年04月27日 10時33分40秒 ) | パスワード |
その丸に揚羽蝶の金子サンが桓武平家では無いという人もいるようですが、
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage7.html
『平清盛の全盛時、西暦1166年』に、信仰という文化にかかわる「磯間嶽」が、地元に伝わる。
関連するように、大浦町誌は、『金子家の系図によると、同家は平家の落人とされている』(407頁)と載せ、鹿児島県姓氏家系大辞典には、『京都出身で、薩摩国河辺郡大浦(大浦町)の大木場を開発した金子氏がある。元暦元年、金子兵庫頭忠信が一族三十六人とともに京都から薩摩国鹿籠の浦(枕崎市)に移った。文治二年同国大浦の小古場(大木場)の谷を開発して住んだという。金子氏は大山祇神社を祀った』(同書 553頁)と、「金子氏」なる一族が、『元暦元年・1184年』に京都から枕崎に、その2年後には大浦町に移った、と載せる。
「1184年」は、『磯間山延命寺の開山』よりも18年後になる。義経と木曽義仲が京都近辺で争った源平交代の時期で、翌年が平家滅亡の年になる。都は不穏な時期であったと思われるが、「兵庫頭」なる源氏名?らしいものが冠される頭領と配下など、時期的に、言われるような「平家の落ち武者」的「流れ者」とは考えられない。
インターネット「大木場平家」に見るように、地元では、この「金子氏」も桓武平氏の系譜にうちに伝えられるのであるが、そこには「頼朝がムホン人」とあり、阿多平氏の地元にあっては「鎌倉勢の謀反」が、しかるべく伝えられる。
【参照URL】 http://www.minc.ne.jp/~hotei/ookoba.html
>この意味が、正直よくわかりません。
http://www.minc.ne.jp/~hotei/ookoba.html
源氏頼朝公ムホン之時平家一之谷ニテ打負セメオトサレテ
備前児島ニ隠篭、其時源氏方ノ定綱カ許事ニヨリテ三男
盛綱カ先鋒渡其合戦ニツイニ打負セメオトサレテ薩州
カゴノ内始テ、浦入下向仕リ其ヨリ始ノ浦ニ住シ右合戦
干時元暦元年甲辰十月二十六日之事ナリ
源氏頼朝公 謀反の時、平家(が)一の谷 において 打ち負かされて攻め落とされて
備前児島に隠れ、そのとき源氏方の定綱が、許した事によりて、
三男(平)盛綱が、合戦についに攻め落とされて、
とうとう、薩州かごの内、(鹿籠)に始まって、
ということでしょうか。
この個人的なHPも、邪馬台国を語るときには、興味深いのですが、
この金子の碑文を読むときには、読み間違えているわけでしょうか?
つまり、謀反を起こしたのは、源の頼朝が平家に対してであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 源頼朝
金子一族が、平家に対して謀反を起こしたわけでは無く、
この枕崎市の個人研究家さんの、知識不足による(いわゆる源平合戦の)
あるいは、言葉のニュアンスからの勘違いによる、
勘違いだと思われます。
ですが、この個人研究家さんのいろいろな別の部分での引用分や
邪馬台国などは、興味深いと思われます。
面白いですね。
つまり、私は金子氏は、桓武平家だと思います。
が、関がみつかりません(苦笑)
郷三役のうち、三浦サンは、はっきりと三浦半島からの流れがわかっていいですね。
佐藤と関は、みつかりません。
ま、気長に探しましょうかね。
余談ですが、黎明館は、ご丁寧にご返信くださいました。
黎明館には特に関、佐藤についての資料はないとのことです。
私が先に上述してきた古い文書などは、目を通すには興味深いかもしれませんが、
現地に出向けず、残念です。
好きなんですけれどね、そういう文書を一日ながめて探す事自体は。
[12] | 最初(以下省略)さんからのコメント(2011年04月27日 11時49分52秒 ) | パスワード |
一息入れて、無関係な話しを
実は、この系図探しをはじめたのが、ほんの4日前、鹿篭が、金山という地名なんだとわかっても
きんざんだった(ゴールド)という認識は、文章によりやっとこの二日ほどで
わかってきました。
つまり、ゴールドあったところに、本籍があったわけですね。
不思議なこと時々まじえて書いてますが、
この名前探しをしている間、頭のごちゃごちゃが感じられません。
しても、かなり弱くて、以前の自分みたいです。
以前とは、94年よりも前。
様々な人の考えからなにからやってくる、来すぎることはないんです。
時々それでも、別のブログを書いているんですが、
今朝更新した分のせいでしょう、そっちからの読者のネンパみたいなのが
ずいぶんしばらく(つまり、彼らの感想や、彼らが最初に思ったことが
固有名詞のように、ずっと彼らの特徴を伝えているんです。
たとえば、その人がはじめてブログにやってきて、「このブロガーは貧乏だな」
と思ったとします。
すると、「お金が無い人」と思っている様子がずっと伝わってくるので、
その人だと解る気がするわけですが、まあ、確証こそないですが、
以前、そうなのではないかと実際に毎日会う人間で思ったことがあったんで、
その人の最初の偏見とか第一印象に思ったことが、ずーっと言葉で伝わってくるため、
つまりある固有の言葉で伝わってくるので、それは言葉ではない言葉であり、
けれど、そのひと達がその言葉を私にむけて無意識で発している間、
その人たちはたいてい私に対して悪い偏見、ネガテイブな偏見を持っているようです。
それらが彼らの中から消えると、それを感じなくなりますので、
ま、それゆえ、感じるこちらとしては、ずっと気持ち悪いです。
なんでしたっけ、その金山ですね。
なぜそのことを書いているかというと、
アメリカの生活の中で、あることがきっかけのせいか、
ずっと頭にごちゃごちゃと人の偏見の考えがかなりつたわってきていて、
毎日であり、辛すぎたんですけれど、
霧が濃いと特に酷くなったりしていたんです。
いろんなことを試して、それが無いときもあります。
が、たいてい寝ていて、起き抜けくらいに、それらがどわっとくることもあります。
この大変に不快な人の身勝手な思い込みや、考えなのですが、
あるとき、元金山だった場所にドライブしました。
カリフォルニアのとある場所です。
本当は、そこに行く予定ではなくて、仕事で夫と
その先にいくはずでした。
そのゴールドラッシュの場所でなぜか車がエンストはじめたので、
修理に出して、レンタカーを借りて、仕事は終えました。
が、車の修理が翌日までかかるというので、
そのゴールドラッシュの町に一泊しました。
とても小さな町で、のどかで、
けれど、博物館がいくつかありました。
そこには、日本からの移民もいたんでしょうか、
日本製の古い缶などが展示してあった家もありました。
そこで、原石なども買いましたが(クオーツでしたかね)
とにかく、とても良い雰囲気の場所で、ニ度ほど行きました。
一度目の時、その晩はホテルでぐっすり寝ました。
その晩はいつもと違って、ごちゃごちゃは一切無く、
とてもありがたい気持ちで寝ました。
その年は、それが先だったでしょうか。UFOも出たんです。
ま、それだけでしたけれど。
とにかく、精神がすっきりして、ごちゃごちゃが消えて、良くねました。
二回目に行ったときは、夫がトモダチとその姉を誘ったのですが、
彼らのうち、姉はヨーロッパからきた外人でしたけれど、
アメリカ人ではないわけですが、
なんだか政治の話しで怒りだして(イラク戦争の後で、反アメリカが酷かったとき)
その平和な私たちの場所で、怒って帰ってしまうという行動をとられて、
私は思いました。
「自分たちは、まともな平和主義者のつもり。けれど、こうやって私たちの
生活の平和を乱している。それも小さな平和な町を紹介しているのに、
そういう気遣いには、まったく気がついていない。」
そう思えたものです。
平和主義者も、身勝手なことには、変わりないと思ったものです。
ですから、恐らく、あそこは、夫と私の場所なんでしょう。
余談ですが、夫はそのわりと近くでずっと前にUFO見た事があるそうです。
この、ごちゃごちゃが聞こえてしまうようになった理由には、
単に自分が、他人が本当は何を考えているのか、わかればいいな、と
思ったからなようです。
94年、やっぱりUFO見ました。
そのときからであり、願いが叶えられてしまったものの、
人は、よこしまだったり、ネタんでいたり、
結構下らないことを考えている人もいて、
しっかり感じ取れるので、不快なんです。
これが、すっきりする時(聞こえないとき)は、よく寝れます。
昨年ですけれど、ブログの読者層が広がってしまった時、
ベッドに入っても、ごちゃごちゃ彼らの感想だとか聞こえすぎて、
うるさくてうるさくて、思わず、PCを開いて、「うるさーい」
と書いておきました。
書いた後、ベッドに戻ると、今まで体験したことがないことを
体験しました。
耳にあのレイキみたいなかんじで、手のような暖かいものが、あてられるのが
感じられました。
ふわっと両耳にそれを感じたとたん、
英語でしたけれど、アルトの歌声で、ハピネス、うーんみたいな(笑)
男性の歌声が聞こえてきました。
そして、まるで催眠のように、こてっと寝て、一度も起きる事無く、
朝に目が覚めたことがありました。
誰かが助けてくれたのですが、
正直、この世の中の人のよこしまさや、嫉妬などの不快さ、
悪巧みなどを感じたりしながら、毎日をおくるのも、辛いものですよ。
気が安まらないのです。
日本にいた頃は、結構守られていたと思います。
ふと、この名前探しをしだしたら、
不思議と、そのごちゃごちゃが聞こえないし、不安も消えてきました。
やはり、多くの神様(日本の)おかげなんでしょか。
と、思えてきます。
[13] | 最初(以下省略)さんからのコメント(2011年04月27日 14時45分34秒 ) | パスワード |
余談 アシュラ
アシュラは、日本では有名な言葉ですけれど、
さっき見ていたテレビで、
発掘されたとても小さな女性と赤ん坊のフィギラ、
それの名前はアシュラなんだそうです。アシュラは、受胎の神様なのだそうです。
良い物が発掘され、発見されて良かったと思います。
そうそう、日本の秦氏のあたりでもよく最近はいわれる
ヤハウエという言葉、でまくってました。
発掘をしていた場所そしてイスラエルについて歴史をまじえて語ってました。
ヒブルーで書かれた古代書が、戦渦を免れ、
ある洞穴みたいなところにカメに入れられて置かれてあったそうですが、
偶然に羊飼いが見つけたのだそうです。
そして、清書されて、本になり。
ヤハウエという神様の名前ですか。
日本にも十戒の碑があるそうですね。
それで、モーゼ?が来ていたとか。
けれど、その十トライブ(十のイスラエルの部族)
がもたらしたものなのかも知れませんね。
そっちの本も興味ありますが。
日本の古い書物に、日本の武士などもクリスチャンだったとあり、
かつては、そのために戦ったと。
日本人が、宗教は戦争だと思ってしまうのは、そのためかも知れません。
が、我々が良い神父と出会うと、「神の愛」
人へのおおいなる神の愛、家族愛、友情愛、
ボランテイア愛、そういうことを語られ、言葉は少ないです。
聖人に達しそうな方ほど、言葉少なく、人を責めるのではなくて、
そういう発言になっているように思えます。
余談でした。
[14] | 最初(以下省略)さんからのコメント(2011年04月27日 15時00分52秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 阿修羅
本来はシンプルで、うつくしい、アシュラ 安産の神様
本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされる
なんてウイキにありますが、今でもそのままでいいと思います。
それが、日本に入ってくる前、インドあたりで、悪い神様と解釈し間違えられたのか、
戦いの神様になったのだそうです。
けれど、素直にとれば、安産の神様かと思います。
阿修羅の起源はインド・イラン共通時代のアスラ神からさらにさかのぼり、古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。
ですから、出土しています。
さかのぼってください。
アシュラは、安産の神様です。
今までもなんですが、日本だけじゃないんでしょうが、
なんだか意味まがっちゃってるな、というのが多かったのですが、
アシュラ、イスラエルのヒブルーですから、シュメールではないのではないかと思います。
けれど、場所は正しいでしょう。
イランのあたり、でも当時は範囲(シュメール)はひろかったのですから。
[15] | 最初さんからのコメント(2011年04月29日 12時19分41秒 ) | パスワード |
結局、まだ何も探せませんが、田布川の金子氏の写真を何度もみて、なんというのか、
こころが落ち着くのが不思議です。
ところで、なぜ桓武平家から、関 になっていったのでしょうか?
それもわからないです。
子どもの頃は、家族で、「関所の関でしょう。」と納得していたんですが、
桓武平家だとか、考えたこともなかったです。
親もびっくりしているのかもしれません。
それも多くの平家血筋が(天皇血筋)がジュイッシュのうしなわれた10部族に
あてはまるかもしれないなんて。
私もジュイッシュ血液鑑定してほしいかな、と思ったりします(笑)
思い当たる節は、確かにそのこのスレッドでのオカルト的な(笑)
部分で、あーなるほどねーと今にして思う事がいくつかあります。
一つは、日本にいた頃、とある大学の語学学校に通ってました。
同じクラスの女性と話しをしていて、なぜか
イラク戦が始まったとき、夢でそのミサイルなどの様子を誰かが見ている、
そんな夢を誰かの視点で見ていたことがあったのです。
そのことをふと口に出すと、彼女も「私もある」ということで、
不思議でした。
彼女ももし、それ系だったら、そういう世界のそういう視点なのかと思います。
その後も、爆撃地にて、もうだめ、という夢を見た事があり、
そのとき、四次元の扉が開いて、誰かが扉から逃がしてくれました。
そして声がしました。「あなたもそのことについて理解するべきです」
実際英語で言われたんですが、戦争に無関心だったので、夢のメッセージだと思って、
しばらく反戦コメントしてました。
けれど、反政府だとか、そういうんじゃありません。
人の立ち場にたって家族がいる、個人として大変だ、そういうことを
わかってほしくて、ずいぶん書いた時期ありましたが、
そのせいで、もしかしたらずっとメールなんか全部読まれているかもしれませんが、
私は別にいいです。
その信念は、変えられませんでしたから。
でも、反政府じゃありませんから、戦争は、人の立ち場にたつと大変だ、
そのことの繰り返しで、ハッキングするわけでもないし、
良識はわきまえてました。
過激になることもありませんし。気を使って主張したものです。
それはそれで、戦争も終わりましたので、終了しました。
あとになって思うと、確かに危険だから戦地に出向いて治安を行わないとならない
場合もあるだろうと思うのです。
私もその点、理解は深まってきているとは思います。
それから、もう一つは、
あるとき夢を見たんです。
オーソドックスでしょうか、ジュイッシュにもいろいろ宗派があります。
黒い帽子をかぶった方々は、アーミッシュなのかもしれませんが、
お父さんと子どもが電車に乗っていて、子どもほうが私にあることを言いました。
それは夢で、忘れてしまいました。
が、翌日すっかり忘れて忙しく電車に乗っていると、
ふと気がつくと、前の席に黒い帽子をかぶったお父さんと子どもがいました。
いわゆる外人さんであり、「はて、夢でみたような」と思いました。
私もやっとこさ結婚しましたが、結婚前は、紆余曲折というか、
簡単にいえば、相手が不真面目だったりで、ちょっと不快なつきあいがいくつか
ありました。
悩むよりも前にそういう不思議なことがおきて、「そいつはやめとけ」
とは言わないまでも、変な現象が起きて、「これはきっと相手がまずいんだ、やめとこ」
ということで、さっさと縁を切るということになっていきました。
ふと、そういう出来事もあったことを思い出しました。
けれど、日本人と同じく、ジュイッシュさんもたくさんいらっしゃるわけで、
いろんな人がいますから。
そうそう、本家とか、分家とか、我が家にはそういう言葉が祖父母の代からなくて、
きままといえば、きままな家族だったのですが、
ここらあたりを読まれて、「本家の嫁は苦労が多い。好き勝手やっている人たちには
わからない」なんて女性の声がしました。
で、ちょっと正直不快にもなり、けれどまあ、ご苦労なんだろうと思い直しました。
けれど、考えてみると、そのお嫁さんは、血筋ではないわけでして、
けれどそうじゃない人のも聞こえるんだな、と思いました。
それはもうオカルトよりは、精神の病じゃありませんか?と言われますと、
自分でもそんな気はしなくもありません。
今日も、病院で検査しましたが、検査そのもは良好でしたが、
それまでの間、変な気みたいなのが、脅かしたり、
そんな感じで、私は落ち着きませんでした。
帰りに、ちょうど病院に礼拝堂があり、そこに入ってしばらくお祈りしてから
出て参りました。
ま、日々の出来事を書き出すと、きりがありませんので
そのくらいにしますが、恐らく精神鑑定をしても以前と同じ、異常無しだと思います。
いわゆる悪いような気は、なんとか天国に上げたいのですが、
ずっとそうやって祈っているのですが、
平家のところ、もうちょっと見させていてください。
こんなことおこるともおもいませんでしたが、
なぜか、そのごちゃごちゃがきえて、すっきりした頭になり、
落ち着くのです。
皆様も、どうぞ健やかに御過ごしください。
[19] | 最初さんからのコメント(2011年05月18日 09時37分11秒 ) | パスワード |
夕べ、変なユメみました。
今朝なんですが、起きても声が残っていて。
どんな夢か。
旗本の侍が、少年武士のような人をまあ、短刀のようなもので、その殺生していました。
それも残酷で、抵抗できないのに、ざっくざっくとね。
その横に助けようとして20代から40代くらいの別の侍がいて、
武士なわけだけれど、なんだかその旗本に抗議しているけれど、
目の前で少年武士は、やられました。
そのやられているところがクローズアップされて、嫌がらせみたいな夢で、
それも、起きても旗本がどうとか聞こえていて、不気味でした。
どうもネットで探し当てた陰陽師系の図柄に何か悪いものでもあったでしょうかねえ。
以前、不思議なことがあって、
それは、知らない人で道に本をもらったこと。
無料で配っている。
それは、今にして思うと、その陰陽師系の護符がいっぱい書いてある本でした。
当時は初めてみる図柄で、なんだかさっぱりわからなかったんです。
最近ネットで検索したら、そうらしいことがわかりました、
で、本はどっかにいってしまったので、ネットで似たようなものを陰陽師で検索したら
やっぱり同じような図柄で、感で、陰陽師で検索したんだけれど、
そのものズバリでした。
けれど図柄とは関係無いかもしれません。
多分、その旗本意地悪男は、別のことかもしれないな。
[20] | さなえさんからのコメント(2011年05月21日 16時57分24秒 ) | パスワード |
因果は、出したら消えますよ。
[21] | さなえさんからのコメント(2011年05月22日 13時08分43秒 ) | パスワード |
最初さんの幸せを願います。
最初さんの幸せを願う会(^^)
[23] | 関はさんからのコメント(2012年02月26日 20時33分27秒 ) | パスワード |
初めまして。
グーグル検索からお邪魔させて頂きました。
平家物語について、とても興味深く拝見させて頂きました。
私は鹿児島は大隅半島の出身で、名字は関(本来は關)、家紋は揚羽蝶です。
親は『うちは平家の落ち武者だろうな〜』とは言っておりましたが、学術的な記述はないので半信半疑です。関姓は鹿児島には意外にも少ないです。今思えば鹿児島に金子・佐藤姓の知人はほとんどいないような・・関は薩摩の方に何名か親戚ではありませんが知人がおります。
枕崎は鹿児島でも異色な文化で、また大隅出身の私としては薩摩は全く違う文化なので、地元民ですがとても勉強になりました。
またお話聞かせてくださいませ。
[24] | 戻ってきた最初で最後さんさんからのコメント(2012年04月24日 11時25分56秒 ) | パスワード |
で、結局系図をのぼっていくと、山幸彦、その前はいざなぎの命
で、今はやりのイスラエル人だって話もネットで見かけます。
私はアメリカに住んでいるのでいろんな国から来る人がいるわけで、
この話をするとおもしろがります。
私もアメリカに来る前はこんな事知りもせず、まあ何度も驚く限りです。
で、昨年日本に行きまして、墓参り(揚羽)しました。
なんで今までぼやけていたのか不思議ですが、
父も一度も言わなかった事がありました。
父のおばあさんがかつて「平家の人と結婚した」
と言っていたそうで、
いや、私のおばあさんですから父の母ですね。
とにかく。
ついでですが、母方のおばあちゃんまで突然記憶がはっきりいたしまして(笑)
やはり武家の家ですが、今まで聞いた事がない参勤交代の時の休む場所になっていた
という話を教えてもらいました。これは平家とは関係無いです。
揚羽のほうは金鉱に関係があったようで、金鉱を2カ所たどりました。
鹿児島の中です。
でもその前の消息がわかりませんが、
揚羽だってのと関なのはわかっていて、
最近ほら、平の清盛でしたっけ?
ドラマになっているらしい。
でも私は海外にいるので見てませんが。
揚羽関はたどっていくと平の清盛でさらにさかのぼると釣り針を無くしちゃった
山幸彦であり その前はいざなぎの命であり、
よってイスラエル人だった???
私はてっきり桓武天皇あたりで結婚した女性あたりがそうかと思ってました。
ちなみに清盛の母親が妾だとかなんだとか噂がありますが、
ある晩、強烈なエコーが寝ている私の頭の中にやってまいりました。
「正妻だった 正妻だった 正妻だった 」
女性の声で強烈でしたので、ご先祖様の声だと思われます。
それで、不思議といえば、まだ揚羽の意味も平家って誰?くらいに思っていた頃
94年ですね、
変な体験しました。
そうですね、鹿児島にやってきて急にしました。
信じてなかったアダムスキー方のUFOが出まして、
それがちっとも怖くなくて奇麗でおもちゃのようでした。
そんなものがあるもんだねえ、と思いました。
それからテレビやラジオを通してまあ、いろんな不思議な事が見聞きされたのですが
その中で、あるとんでもない言葉が私から飛び出しましたが、
なぜそんなこと言っているのか自分でわからなかったし、後になると作り話だったと
自分のデマなんだと思ってました。
それは意味合い的に 「天皇家の裏っかわの人」みたいな事でした。
けれど系図をたどって行くと、たしかに桓武天皇までのぼれるわけで
現在の天皇家の裏っかわの人って言えば、まあそうなんです。
つまり、ただの人なんですけれど(笑)
まんざら口からひょうたんじゃなくて、デマでもなかったんだなと。
で、テレビで変なもの見ましたわ、正直。
ヨーロッパっぽい王朝みたいなのが突然出てきて、女性(白人ですね)の戴冠式
やっていて、なんの脈絡も無く突然ニュース中にそれが出てきたんで、
なんだこれ?と思ってみてました。
で、見ているうちに最後が女性の戴冠の時であり、何となくまるで
自分にかぶされるようないやーな気がしてしまい、心の中で 嫌だと思ったわけです。
そしたら突然ニュースキャスターの画面に戻って
「彼女はどうしていつも逃げてしまうのでしょうか?」
と一言言ってコマーシャルでした。
民放ニュースでしたが、異様すぎました。
アノ頃、なんであんなものが見えてしまったのか、さっぱりわかりません。
わからないまま10年以上すぎて、日本を離れてから平家筋だって知りました。
ネットもすごいですね。
で、金鉱はアメリカでも近づくと、自分にとっては精神が休まります。
さては、大元がイスラエル人でやっぱりその前は宇宙人かなんかで
(笑い)
でもこれしゃれになりません。
だって英語でユーチューブとかでそういうことで
ほらイルミナテイとか言って中傷している人達がいるんですよ、前からね。
でも、そんな事言われてもねえ。
言われても困りますよね。
一体、なんだかさっぱりわからないっていうか、
産まれてくる前から差別されているのとこれじゃ同じじゃないですかね。
なものですから、私は人種差別みたいなのは、嫌いですが、
どの人種であれ無礼だったり乱暴だったり厚かましいのは大嫌いです。
それはそうと、日本の震災被害 大変です。
放射能汚染がこれ以上広がらず、消えて行く事、
祈っております。
私も日本に行ったので、被曝したようで、2週間前は
吐き気がして倒れていました。
青あざもできたし、昨日も気持悪かったです。
解毒みたいな事やってます。
大変です。
がれきは燃やさず固めたほうが多分いいんでしょうね。
起源をイスラエル人としますと、
まあアメリカのジュイッシュで日本に住んでいた事がある知人が喜んでききっていましたが、
実際アフリカ、ヨーロッパにも彼らは散っていったのであり、
無関係そうなチェルノブイリ関連でもおそらくドウソな方はいると思います。
そうなんです。いざなぎの命の前に、実は血筋だったりするわけで、
人種が違い、肌の色が違っても血族だったりするわけなんです。
私はもう、アメリカに来た理由はこういうことだったのだと
ぐわーんとなったところで、日本に行って被曝しましたが、
下痢などみなさん気をつけてください。
私は木下黄太さんも多分四国だし、ドウソだと思うんだけれど(感で)
とにかく、今は被曝から身を守ることが大切です。
どうか皆さん、頑張って被曝を避けて下さい。
[25] | 戻ってきた最初で最後さんさんからのコメント(2012年04月24日 11時47分07秒 ) | パスワード |
それと以前これを書き込んだ頃は、実は新居で泥棒が酷かったので
大変だったときでした。
その後毎晩祈りまして、良い解決方法をという事で朝起きたときに思いついた事を全部実行しました。
カメラをつける。フェンスをつける、
フェンスの高さを高くする、鍵をつける、等全部やりました。
全部やりあげて、おかげで良く寝れます。
実は泥棒などの話ごえや計画なども聞こえます。
イメージで来る事もある。
現在の悩みは性格よい知り合いが増えつつあるものの、まだまだ少ないかもという事です。
なぜか競争意識や意地悪い考えを持った人が周囲をうろつきやすい、あるいは人のものを
ほしがるタイプもですね。
それらも内心が聞こえてしまうので、結構不愉快です。
が、戦っております。
で、私はそういうサイキックみたいな仕事はやってません。
普通に仕事を得る予定ですが、アプライ自体をまだ数こなせていなくて
特に日本から戻ってきて急激な体調の変化に何もできないまま半年が過ぎてしまいました。
生活していける希望の仕事がみつかればいいのですが。
昨日も草取りして吐き気がして、今日もこのとおり、ベッドの中です。
ふらつきます。
ガイガーもってまして、0.16Bqが草の根っこでしたが、
私はこれで吐き気がするようです。
体質ですから仕方がありません。個人差があると思います。
94年のその不思議な体験の時に、原子力についての
不思議な問答みたいなものがありました。
で、良くないと答えたら、なんだかそのままでした。
宇宙のどこまでもすすみたいと答えたら、なんだかピアニストが怒ってました。
ま、このあたりは意味不明でもあるわけで、うまく表現できません。
夫にいざなぎの尊がイスラエル人だったと言ったら、笑われました。
結構本気だったのに。
あ、それで泥棒よけは成功しまして、
最近は精神的にもやってこないようにと研究しています。
でもそれをやっている間、他人がなんといおうと
ノアの箱ぶねてきな気分でした。
最近変だと思うこと。
カメラをつければ、それだけいいに決まっているのですが、
それでもそれをやろうとしない人達。
そして我家がそれをやったので、他の家も泥棒が迂回するようになって助かっているのに
自覚がありません。そして笑いものにするような精神状態。
「なにあれ?なんであんなものがいるんだい?」という反応の人がいるんです。
まあ、外国人同士なので他の人種を馬鹿にしたいというのもあるでしょうが、
まあ、それにしてもそれらの愚かなことです。
そういう人もいます。
一方日本では、放射能は被曝するので良いはずがない、
だからレントゲンでも女性には腰のあたりにかぶせものしますよね。
良くないってわかっているからするわけですね。
ところが、事故で飛び散って空中に入っている放射能について
「危険性等無い」と言って放射性被曝を馬鹿にする医師がいるそうで、
木下黄太さんのブログで読みましたが、
ご本人具合が悪くて医者を点々とするも、一笑されるとのことで
酷い話がありました。
それも考えてみると、とっても変な現象です。
福島の事故が起こるまで、広島長崎の事で日本は被曝についてかたり、とても怒っていたはずです。
それが福島という日本国内で放射能事故が起きたとたん、
被曝なんて無いよ、という話になるのは、異様です。
南相馬は平家の落人さん文化があるところで、
大変に気の毒な話でもあります。
が、被爆者は都内でも、そしてその他の地域でもいらっしゃるので
私のように1ヶ月程度しかいなかったものでも出ているので、
賠償がどうとか言う事よりも先に放射能を完全に止めないとならないです
止めるとは汚染で外に出ている物をこれ以上空中や水に流さない事だと思うんです。
できると思うのですけれどね。
[26] | たかさんからのコメント(2012年04月25日 01時06分07秒 ) | パスワード |
はじめまして
鹿児島におられる関さん ということで、興味深く読ませていただいています。
わたしの探した筋道のひとつを書いてみます。なぜ枕崎にきているかはわかりませんが。
桓武平氏=関東平氏=坂東平氏
埼玉苗字辞典をひらく
平氏→ひら で 検索 → 平井 平姓平井 秩父氏などのことばがある。
[27] | たかさんからのコメント(2012年04月25日 01時10分51秒 ) | パスワード |
秩父1 2 3 とみて「三宅連」→関野は関
関1 勢州四家記に「関の一党とは、平清盛の子重盛、其の子資盛・勢州鈴鹿郡関谷久我と云う所へ六年の間流さる。其の時一子あり、源氏の世となりて、北条家是を預り命を助け、盛国と号し、関東に死去せり。其の子関左太夫将監実忠、始めて関谷を領地し、関と号す。其の苗裔関四郎・足利尊氏に仕へて繁昌す。関勢与力五千人也、足利家の侍也、関家幕紋は上羽の蝶也」と。南方紀伝に「貞治六年閏六月十七日、河越城没落、平一揆走勢州。此子孫留勢州亀山、関一党是也」と見ゆ。
関家幕紋は「上羽の蝶」とあります。
平清盛も桓武平氏
[28] | たかさんからのコメント(2012年04月25日 01時12分13秒 ) | パスワード |
秩父氏8
・橘姓の良文
今昔物語卷二十五に「東国に平良文と云有り、字をば村岳の五郎と云ふ。頼光朝臣の郎等に平の貞道と云兵有けり」。卷二十九に「村岡ノ五郎平貞道と云ける者也」と。この書は平安末期の嘉承頃の編纂であり、平良文と記されていても不思議では無い。前太平記に「信濃国碓氷郡の浪人橘氏、諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞道を生む、後源頼光に仕へ貞光と改め、靭負尉に補せらる」と。薩摩国阿久根郷の英禰(あくね)系図に「源頼光の臣四天王の一人、平貞道碓氷荒太郎より八世孫、英禰に下向す」と見ゆ。良文は俗史に村岡五郎貞光に作り、更に橘姓碓氷荒太郎貞道と云ふ。碓氷荒太郎橘貞道を平貞道に作るのは、後世の作品である為か。平群系図に「良文―忠道(号村岡二郎大夫、源頼光朝臣四天王之内。法性寺関白以来、世之人改忠字、称サダ道)」。桓武平氏金子家系図に「村岡五郎良文(下総国相馬郡御厨下司、天徳四年卒、号東光院)―村岡小五郎貞道(本・忠道、源頼光朝臣郎従)、弟村岡二郎恒明(本・忠頼、相馬郡御厨下司相伝)」と見ゆ。
[29] | たかさんからのコメント(2012年04月25日 02時02分03秒 ) | パスワード |
京都梅宮大社のご祭神は九州に天下ったとされる天孫ににぎほかゆかりの方をまつり、縣犬養橘三千代が関与し、橘氏一門の氏神とされる。
この祭神や 三千代 などから
上の桓武平氏 関さんが書いておられる はるか古代の遠祖の道筋があろうか と思います。
又 玉木は玉置に通ず。
ネットに
玉置(たまき)日本人の名字の一つ。
平資盛は一ノ谷落城後は河内伊勢に退かれ、玉置山へと入られて“玉置直虎”と改称、下野守を称された。 十津川村折立の松雲寺(※廃寺 というのがあり
のち 紀州徳川家に仕えたようです。
このあたりは 古代に活躍された方方を書いておられたので・・・
関は桓武平氏と思います。
父方遠祖を桓武天皇とするとき、母もいたから子孫がいるのだから、母方を考えるとき、玉置が手がかりになるのでは ?と考えています。
[30] | たかさんからのコメント(2012年04月26日 22時40分48秒 ) | パスワード |
清盛へ至る国香と『源平闘諍録』には良文が甥である将門の養子となっていたとの記述がある。という平将門と関連する良文の系。
父・高見王または葛原親王
―――――――――――――――――――――――――平高望王
母・★橘春成 または仲野親王、藤原是雄の娘
===================================
父・平高望
――――長男:★平国香(?-935) -子孫は伊勢平氏(平清盛)・常陸平氏
母・正室:藤原良方の娘
===================================
父・平高望
――――――――――男子:★平良文(886-953)(村岡) 子孫は坂東八平氏
母・側室:藤原範世(または藤原師世)の娘
===================================
[31] | たかさんからのコメント(2012年04月26日 23時39分57秒 ) | パスワード |
★1つの仮定
橘氏が関与する。良文は祖母の姓を名のっていたのでは?藤原範世は南家系。
良文の妹は常陸介藤原維幾の妻となって「藤原為憲」の母になったという。為憲の子孫に当たるのが伊豆の伊東氏・工藤氏・狩野氏ら伊豆藤原氏であり、伊東祐親・工藤祐経・狩野親光らも坂東平氏の血を引いていることになる。
又 球磨・人吉に下向した相良氏も子孫になる。
又 尾張熱田神宮の社家の「千秋氏」。鎌倉時代に南家から婿養子に入り、「源頼朝」を生む。大宮司は「武内氏」。
相良氏 神宮 良文はつながるものがある。
相良氏も「揚羽蝶」紋が 家紋の1つにあり、どのようないわれでつかわれるようになったか?知りたいと思っているが、なかなか 手につきません。
[32] | たかさんからのコメント(2012年04月26日 23時53分20秒 ) | パスワード |
相良氏と仲がよく どこへでも 一緒に行き、球磨へも下向した という「橘薩摩氏」。
村山 ムラヤマ
一 武蔵国造後裔の村山氏
多摩郡村山郷より起る。古代氏族系譜修成に「足立郡司判官代武芝―野与二郎武宗(居武蔵足立郡野与)―周防八郎元宗(武宗の猶子と為し、其女を妻とす。実父は平忠頼の子周防権介なり)―村山頼任(村山党祖)と見ゆ。
二 桓武平氏村山党
千葉系図に「村岡良文―忠頼―忠常(武蔵押領使)―恒親―恒仲―村山貫首頼任」。豊島宮城系図に「千葉小次郎忠常―秩父七郎恒親―藤橋太郎恒仲、恒親の弟恒家―周防八郎元宗」。藤橋氏は藤橋村(青梅市)より起る。
★武蔵七党系図に「村岡良文―忠頼―野与胤宗―元宗―村山貫主頼任―村山貫主頼家―大井五郎家綱、弟宮寺五郎家平、弟★金子六郎家範、弟村山小七郎家継(号山口七郎)」と。
平 忠頼
父は村岡五郎平良文。平将門(平良将の子)とは従兄弟にあたる。
少し系がずれるけど、「金子」の名がここにも見える。
[33] | たかさんからのコメント(2012年04月27日 06時11分14秒 ) | パスワード |
>1より
三浦さん
義茂は垂水島津家忠将が清水城(国分)にある時、忠将に仕える。
鹿児島は島津氏という認識が 離れた地域にいると あります。
島津氏 相良氏は 縁があり、又 池田氏 島津氏 相良氏 徳川氏もお互い縁があるようです。池田氏に揚羽蝶の家紋があり、紀姓 アマテラスに関係するはなしもあります。
アマテラス
天孫ににぎの諡号は 天にぎし国にぎし。私の知るところでは
スサノオ アマテラス大神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 藤原鎌足の弟の4人が春日でアマテラスを名乗った という。
摂州池田氏
摂州池田氏は、もと物部伊居太足尼(五十言宿禰)の後胤
単純に物部氏に関与するな ととらえる。
[34] | たかさんからのコメント(2012年04月27日 06時18分29秒 ) | パスワード |
4人が春日でアマテラスを名乗った
は 鎌足の弟が 名乗ったです。
4人がアマテラスを名乗った です。
ネットより
神理教
また巫部神道は饒速日命から十代目の五十言宿禰に端を発し、天之御中主神から天照皇太神までの十八柱を天在諸神(あめにますもろもろのかみ)として奉斎する。 これらには先代旧事本紀大成経や竹内文書など、古史古伝的な要素も見られる。
もはや 宗教の世界のことなど私には わかりませんが、これらの神様、先代旧事本紀大成経や竹内文書などの言葉から、熱田神宮が関連してでる。五十言宿禰
からつなごうとするのでなく、大きくとらえて ですが。
[35] | たかさんからのコメント(2012年04月27日 20時13分39秒 ) | パスワード |
尾張[真澄田神官]
ネットより
関氏。
関十郎左衛門の子。一宮城主。小十郎。織田信長、 豊臣秀吉に仕える。小牧長久手合戦で討死。
「甲府日記」 と 「甲府御館記」 にみえる関新助孝和
関新助 (別の通称、弥右衛門 ?3) 孝和 $(1645?^{4}-1708)$ の実家 内山家は信濃国
第 2 節 関新助孝和の履歴
甲府日記の寛文 5 年 11 月 23 日, 12 月 18 日, 21 日の記載から, この年の甲府藩で関姓. の跡目相続が 1 件あり, その 養父は関十郎右衛門で, 養子が関弥右衛門であることが記載. されている.
真清田神社
ご祭神
天 火 明 命(御本社)天照大御神の孫神
さんみょう
三 明 神 社 (別宮)
昭和40年、御本殿向かって右に摂社として、服織神社が造営され、真清田の御神徳を象徴しています。
真清田神社の神紋は 竹の輪に九枚笹。
[36] | たかさんからのコメント(2012年04月29日 04時52分35秒 ) | パスワード |
重盛ーーー維盛ーーー金子
重盛ーーー資質ーーー関だと思うのですが、
ネットより
平重盛
兄ーーーーーーー維盛(母は官女)
弟ーーーーーー資盛(母は藤原親盛の娘)
資質は異母兄であるとされている維盛よりも官位で上回っていた事から当初は重盛の嫡男として扱われていたと見られている。
平資盛の子孫が福井県東部である越前国敦賀郡織田剣神社神官となり称す。子孫に織田信長。信長の家紋の1つに「揚羽蝶」。
[37] | たかさんからのコメント(2012年04月29日 23時12分53秒 ) | パスワード |
八 多摩郡豊田村の山口氏
風土記稿豊田村(東京都日野市)条に「旧家百姓平左衛門、山口氏なり。先祖は当国七党の一、村山党の内★金子十郎家忠が叔父★小七郎平家継なり、始て入間郡山口の郷に住し、四十九ヶ村を領したり、故に山口を以て苗字とす、真知屋と云所に城を築く。家継の子山口六郎家俊、其子十郎高家なり。・・・・・
高家より八代の孫山口三河守高実・・・高実の子★山口平内左衛門高清・・・・大膳が妻は小田原北条の家人西島越後守の女なり、一男一女を産む、然るに・・・夫婦不和となりしかば、妻は於阿茶局に仕ふ、年老て豊田村に至りて死す。大膳の子高家は初め山口金丸と云、後★加茂宮平兵衛、又布施平治兵衛などゝ改名せり・・・平治兵衛男子ありて、加茂宮山口の家名をかすかに民間にのこし、子孫連綿として今の山口平左衛門に至ると云ふ」と見ゆ。
[38] | たかさんからのコメント(2012年04月29日 23時15分43秒 ) | パスワード |
スレッド32とあわせ 考えるに、私は「山口」で ひとくくりにしていますが、山口は又 ★加茂にも関与しているように思います。
他のスレッドで、清盛の母は 賀茂の女性 だったように 書いて在りました。
賀茂の始祖は高魂産巣日神・神魂神。又 大山積神・ヤタカラスなどのことばがみえるが、山は山積に関与する。(埼玉苗字辞典をいろいろ出てくる言葉で追いかけるといろいろわかってくる。)
>「日本書紀」の九段本文『鹿葦津姫』(紀上 141頁)の名
は「別名・木花咲夜姫」で 大山積神の女子。つまり 山口に関与する。
山の神・海の神は兄弟とされる。古代のことは漠然としていますが、山口の始祖・関の始祖は関与してつながってくると思います。
[39] | たかさんからのコメント(2012年04月29日 23時17分11秒 ) | パスワード |
★ 山口平内左衛門高清
11/09/30 ●23 11/10/14 はるか 服部 藤堂高虎で、
福岡県●八女市●今山の現人神様
源平の戦いのときに,新中納言知盛卿の家臣であった★伊賀平内左衛門尉家長の話
と平内左衛門 が 出てきます。
>藤原秀郷後裔
藤原としてでてくるが、藤原氏は天智天皇の頃より名乗ったもので、鎌足の祖先には それ以前の話があるはず。
しかし、藤原も橘も 賀茂も 遠祖の なんとかの神も 高天原の人たちで、結局 ひとくくりになっていく。
[40] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 14時27分43秒 ) | パスワード |
34 鎌足の弟が 名乗ったです。
は 鎌足の弟が春日を称し、アマテラスを名乗った です。
あとから 読むと 意味がわからないところがありますね。すみません。
[41] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 17時57分04秒 ) | パスワード |
伊勢平氏の関氏からは少しはずれますが、平氏ー南朝ー明治天皇は南朝正統論をとなえられた ということから、南朝は北畠親房 資盛子孫は織田 さらに 坂東平氏の秩父氏だが、秩父国造は
五秩父郡司
武蔵国大里郡及び秩父郡は、藤原冬嗣の子良房、其の孫忠平、其の子右大臣九条家藤原師輔の所領にて、秩父郡司は其の家宰である。大里条参照。秩父郡司の後裔秩父氏は中村郷(秩父神社附近)に居住していたが、武基が秩父牧別当に任ぜられてからは吉田郷を本拠地とする。秩父氏後裔の薩摩国★伊地知氏★系図(平安遺文十一・・・・・・・
埼玉苗字辞典秩父氏
・先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。
・秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。
地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。
関氏も新羅出身。
先代旧事本紀卷三・天神本紀
八意思兼神の児、表春命・信乃阿智祝部等祖、★★★天下春命★★★・武蔵秩父国造等祖」。
子孫の加祢夜須命の金安も鉱山師の意味がある。知々夫彦命は代々の襲名で数代・数百年の人名である。
[42] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 18時04分23秒 ) | パスワード |
三 秩父国造族三宅連
「景行天皇五十七年十一月、武蔵国知知夫大伴部上祖三宅連意由、木綿を以って蒲葉に代えて美頭良を巻く。此より此かた木綿を用い、日影等の葛を副えて用いることと為したりき」と見ゆ。天上腹(あまのうわはる)は天表春命、天下腹は★★★天下春命★★★である。是等の子孫が三宅連(みやけのむらじ)であり、皇室直轄領の屯倉(みやけ)を管理した。姓氏録に「三宅連、新羅国の王子天日桙の後也」とあり。日桙(ひぼこ)は代々の襲名で数代、数十代の名なり。
天表春命兄弟は鍛冶師日桙集団の一員である。新羅王の昔(せき)氏が本姓で、三宅連の子孫知々夫氏は昔ノ氏(関野)を称す
[43] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 23時27分24秒 ) | パスワード |
昔
東国通鑑に「昔脱解は、もと多波那国の所生也。其の国は倭国東北一千里に在り」と見ゆ。昔一族を率いた新羅王の王子天日槍(あまのひぼこ)は多波那国に渡来し、丹波国(多波那)より分国した但馬国出石郡(兵庫県出石町)出石川流域に居住し、一族は天日槍命を祀る出石神社(出石町宮内)を奉斎す。後に此地から新羅国へ渡り王となったのが昔脱解である。古代氏族系譜集成に「新羅王家昔氏。次々雄(号檀君)―神乎多―迎烏(号天之日矛、亦曰・花浪神)―天佐凝利命―阿加流日古(移于多波那。多遅麻公祖)、弟の知古(止于韓地)―沙莫(為昔氏)―麻智―烏流―解布曹―脱解(第四代新羅国王)―休鄒―伐休(第九代国王)―伊買―奈解王(第十代国王)―伊飡―微伐(応神天皇七年九月帰化。近義首、山田造の祖)」と見ゆ。
[44] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 23時32分45秒 ) | パスワード |
一方これも関氏ではでないけど 平氏
平 ヒラ 検索
百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。
いうなれば 金 昔 朴 新羅王家の3氏
新羅 高句麗 百済は 前に調べたとき つながっていた。
[45] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 23時35分00秒 ) | パスワード |
平姓平井氏 検索
上野国緑野郡平井村(藤岡市)より起る。秩父秘話(大西シゲ著)に「我家の先祖は、桓武天皇の子神野親王・別名恵多羅親王(嵯峨帝、即ち初代平井大衛門)であり、上州緑野郡平井村に来り住み、平井大衛門は秩父妙見大菩薩として秩父神社に祭られ、関八州より崇められた、即ち関東平氏の祖である。一門秩父重忠は平井大衛門代々の家で育った」と。嵯峨天皇の家司平井大衛門屋敷は秩父神社の北西にあり、東方に小名神野台あり。秩父氏の本名か。秩父条七項、畠山条六項参照。
[46] | たかさんからのコメント(2012年04月30日 23時43分35秒 ) | パスワード |
熊本は龍城国とも聞いたことがあり、若狭「白石明神」の話からも 龍王が出たことがあり ようけ からんでるなあ と 思いますが、(龍城は 後燕にかんよするらしい。燕は周の枝分かれ。龍王は鹿島・毘沙門天などに関与するらしい。さがら龍王などの言葉があり、松浦地方に関与している。)
私は 歴史のあるところからは 部 族 氏などに 分解して考えるとわかるのでは? と 考えているのですが・・・
[47] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 00時19分11秒 ) | パスワード |
阿 ア 阿(あ)は お とも読まれ、大ノ国は後の百済、及び加耶地方の総称
阿部、安羅、出雲、宇津味、大、百済、熊、越等の各条参照せよ。
安 ア
古事記の高天ヶ原とは大加耶(意富加羅国)の高霊(たがま)郡の地である。
此の地に居住していた海洋民の越族は韓族の南下により、縄文・弥生時代に我ヶ国へ大量移住した。
大は、意宇、意布、意冨
源流は越族である。揚子江の南地帯から越国(ベトナム)あたりまでを百越(ひゃくえつ)と云い、越人は筏舟に乗って漁労をしながら安羅国に土着した。しかし、北方の満州地方に住んでいた韓民族の夫余族(後の高句麗、百済を興す)の南下移動により、押出された。
越族は出雲国古志郡、北越地方(越ノ国)へ上陸し、日本全国の地へ移住する。
出雲 スサノオー大国主
ーーーーーーーーーーーーーーーーー建御名方命ともいう。
高志 沼川別命女子(後四道将軍の一人の名にある。襲名)
そのまえ やがみひめと結婚していたが、このひめは 本妻のすせりひめを恐れて実家に帰る。すせりひめはスサノオの女子。
[48] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 01時06分35秒 ) | パスワード |
南朝北畠親房
佐田系図
はた氏
北畠氏一族の系譜
北畠氏一族(3−1)(潮田家、佐田家) に移動: 北畠氏一族系図(3−1)(潮田家、佐田家). 『尊卑分脈』、『系図纂要』、『群書系図部集』などの主要系図では確認出来ないが、地元の史家が発掘したものである。佐田系図は異説もあり疑問な点もある。とネット表題で紹介しているが・・・
大納言北畠教具の系に佐田が見える。
系図3−4教具の系に東門院が見え、「興福寺別寺」のことで、興福寺は藤原氏の寺。
系図3−2関氏一族 養子縁組により 織田信長の系の信雄がついている。
系図3−1北畠親房がついており 佐田がある。
系図伊勢北畠系図には 土御門 源義朝からの系などある。
系図村上源氏北畠一族では 北畠親房が村上天皇子孫
系図伊勢北畠では 教具の子孫の女子が織田信雄の室(つまり佐田と関と織田のからまり)
系図2−1では ふり が うってあり 教具は のりとも
系図1では 親房は 源
[49] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 02時48分25秒 ) | パスワード |
笠氏と平氏考察(ネットからのコピーばかりだけど・・・)のスレッドに卜部 壱岐 卜部にいたる嬴姓高丘系図から検索して若狭彦神社(市房神宮と祭神が同じ) 良文の桓武平氏など書いてあり、卜部は中臣で 佐田。
サルタビコ=佐田彦=国底立尊=国常立尊
又豊秋狭田彦
隅さんへ の スレッドに書いてあるが、中原におりてくる 中に 豊秋狭田彦がいる。
サルタビコの子孫の大田氏は伊勢神宮の土地を提供した。
サルタビコの子孫・藤原朝臣
関氏からは少し外れているけど 関与する人たち
[50] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 03時11分19秒 ) | パスワード |
卜部は伊豆の卜部から平野社系・吉田社系に分かれた。
壱岐の卜部もいる。
ネット畑氏の謎 検索
八太氏
注 はた とは
女福が秦人といっており、武内宿禰が知り合ったことを喜び、子供の一人に「はた」とつけた ということを本でみたことがあります。
武内宿禰は襲名。この人に関与して曽我も出る。武内宿禰に関与するのが 紀氏。橘神道は武内氏。紀に関与するのが 椎根津彦。倭氏。海神の系・振魂命。
又 紀氏の遠祖・神皇産霊尊は サルタビコの母方の祖でもある。
高魂産巣日尊と神皇産霊尊の子孫が賀茂氏。平清盛はこの系の女子が母だとか。
・「北畠氏はまた畑ともいう」と『姓氏家系大辞典』にあります。
・藤原氏一族と畑氏との関連を丹波篠山にある佐々婆神社(畑宮)・・・
畑三河守経房という人物は確証がありませんが、吉田(藤原)経房のことと考えられます。・・・
この多紀荘の荘官は前述の三河守資経の孫経世です。また、経世の兄経継は大和の水分神社の神主藤原刀禰の娘を娶り、その子が伊勢北畠氏の養子となり畑氏を称しております。
注 元伊勢の「丹後籠神社」では 「事代主」が「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」としている。秘神が「サルタビコ」で配神は「弁財天」
・事代主ー藤原氏
鎌足に関与する藤原の地のある大和国高市郡波多郷の名の由来は、土佐国高市(高知)郡旙多から来ているものと考えられる。・・・
土佐国に高知坐神社があり、高知は高市のことであり、高市坐には事代主命が祀られています。大和国高市郡にある波多神社の祭神もやはり事代主命です。・・・
[51] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 03時16分08秒 ) | パスワード |
丹波篠山八百里山東南山麓に鶏谷山願成就寺(後鳥羽帝系で伝領されている丹波国曽我部荘)というお寺があります。このお寺は源通親(村上源氏土御門)の菩提所として建立されたとする伝承があります。源通親(土御門を名乗る)は藤原北家道長の孫娘と源雅通の子(注・親房の祖先)。・・・
藤原北家の中での姻戚関係を少し遡って見てみますと、太政大臣関白兼家の男.道兼の三代後が宇都宮氏の祖.宗圓であり、その孫宗房(母は中原氏)は後述します待賢門院の院庁での事務主体者である主典代でした。道兼の弟の道長の孫娘(長信の娘)が前述しました源通親(土御門)の母親であり、その兄弟がやはり前述しました隆澄です。又、兼家の弟である公季(閑院)の流れから茂子(白河院)、苡子(鳥羽院)、璋子(鳥羽中宮.待賢門院、崇徳天皇.後白河天皇の母)等が出ています。・・・
[52] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 03時18分39秒 ) | パスワード |
宇都宮宗房(中原宗房)の妻が土御門通親の叔母にあたるという関係から、宗房の弟.朝綱が鳥羽院武者所に、同知家の男.知尚が鳥羽院北面となっています。又、土御門通親の孫.雅家が南北朝期、南朝の柱石とうたわれた北畠氏の祖になります。
吉田経房の系統は、土御門通親の祖父長信の兄、長家から出ています。・・・
[53] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 03時21分55秒 ) | パスワード |
鎌倉幕府の重臣であった二階堂行政
行政の娘婿であった藤原秀郷の後裔佐藤伊賀守朝光
その長子光宗は伊賀氏を称します。
三男朝行、四男光重そして奇しくも後に稲葉氏となる遠祖、河野通信
二男光資が稲葉三郎左衛門尉と名乗って稲葉山城主となり、ここに初めて美濃に稲葉の名字が誕生するのです・・・
稲葉正成の室は後の春日局
[54] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 03時32分18秒 ) | パスワード |
「埼玉苗字辞典」が出ています。
山口→山→辰韓は十二国からなり、その一つに新羅(今の慶尚北道慶州)があった。新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)である。
金 昔 朴が 新羅王家。山口と関も無関係ではない。
山を群・牟礼、諸・毛呂とも云い、山は城と同じく鉱山鍛冶師等の非農民集落の意味。また、
「蹈鞴集団の首領大田田根子(おおたたねこ)の妹は蹈鞴五十鈴姫命で神武天皇の皇后である。大物主命の児大田田根子が撰録者とされる秀真伝(ほつまつたえ)に「ウタタネコ」とある。」
牟礼は山口県佐波郡にあり、「たたらの浜」といい、大内氏祖先がここに上陸した。嬴姓高丘系図から出るぶねい王の子孫が「淋聖太子」といわれ、この人を祖先にしている。
積族 うつみ 安曇など 大山積神の女子が木花咲夜姫でににぎの皇后。
古事記に「阿曇連等は、綿津見神の子宇都志金折命の子孫也」と見え、姓氏録に「安曇連、綿積神命の児穂高見命の後也」と見ゆ
山ノ神 海の神は きょうだい神とされる。
[55] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 04時01分41秒 ) | パスワード |
山口(岩岡)
岩岡 イワオカ
山口氏族と称し、或は三河国足助氏の族と称し、また大塔宮後裔とも称す。
一 足助氏族説
「一世岩岡民部之輔実公は三河国額田城主であったが、元弘元年★★★族足助次郎重範等★★★と護良親王の令旨を受けて吉野に戦った。しかし、親王は鎌倉に幽閉され、実公は山口郷に逃れ、郷士石井氏の妹を娶り一男三女を儲ける。建武二年誕生した皇子高治は実公に伴われて山口郷に移り、実公の女と結婚して、高治の長子高広が岩岡家二世となる。大塔宮護良親王―皇子高治(母戸野氏、幼名高瀬麿、後号★★★山口平内左衛門尉★★★
注 山口平内左衛門尉
福岡と真木氏と平内左衛門尉
福岡県八女市今山[荒人神]より
福岡県●八女市●今山の現人神様
源平の戦いのときに,新中納言知盛卿の家臣であった【伊賀平内左衛門尉家長】の話。妻の縁で子孫は,「服部」の名前を名乗った。徳川幕府下【服部半蔵】が出る。
[56] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 04時08分32秒 ) | パスワード |
二 大塔宮後裔説
前述の如く、岩岡氏養子となった皇子の名、及び足助氏族岩岡氏の名は諸書に見えない。
大塔宮後裔に文明頃大膳あり伊豆国の領主にて、岩岡氏伝承と同じような記録がある。
大塔宮の末孫大膳は、岩岡系図の山口大膳のことか。此の地は伊豆国那賀郡那賀郷(松崎町)の吉田村に吉田寺、桜田村に郡定寺、那賀村に西法寺、伏倉村に多福寺、建久寺村に建久寺あり。
↓
微妙に 佐田(卜部・吉田)が重なってくる。
[57] | たかさんからのコメント(2012年05月01日 04時13分02秒 ) | パスワード |
三 山口氏族説
狭山の栞に「山口岩岡氏之記。山口者、往昔【山口平内左衛門尉の城所也】
兄岩岡を称し、弟木下を称し、次森田を称す。
【木下大膳】は慶長頃の人と伝承あり。
[58] | たかさんからのコメント(2012年05月09日 21時27分15秒 ) | パスワード |
琉球の古名を 「うるま」という。
新羅は もとは 今頭に描く位置ではなく 沖縄 台湾あたりをいったと 地名辞典に書いてある。
又 卑弥呼は 3世紀頃ですか 時代が さがってからの人で わが国の神代の話は もっと ずっと 古い。
今度 故郷に帰省してきました。
「霞桜」がみつかった と 同級生の集まりで 盛り上がっていました。
[67] | 關 静盛さんからのコメント(2014年04月03日 17時51分54秒 ) | パスワード |
私の母方も鹿児島県犬迫に本籍のある關氏の出です、關氏の家紋ですが枕崎市(鹿籠金山)三役の系譜の關氏の家紋は一般的な対揚羽でしょうか?私の調べによると向い対揚羽でわないでしょうか?また家紋もさることながら藩政解体の折新政府より禄の変わりに(省に属し)俸金が家格ごとに支給されていたと思いますよ、その辺りから調べたら系譜等が判ると思いますよ、また下級の氏族も平民に統合されていましたから、昭和20年頃までは戸籍謄本に氏族印が押してありましたよ、その辺からも辿れるのではないでしょうか
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