[1] | さくらさんからのコメント(2011年04月14日 01時19分37秒 ) | パスワード |
白石 真木をしったのは 私の父方・高岡から養子へ入る家が白石。
真木は 母方・佐田の養子に入った人の家。祖母亡き後 籍を入れた平野という家の姻戚関係に白石 田中 がある。
辞典で白石を調べていたら 白石正一郎という人がいた。幕末 維新の志士のスポンサー。
[2] | さくらさんからのコメント(2011年04月14日 01時24分47秒 ) | パスワード |
白石邸は志士たちに開かれて、交流、集会の場となり、明治天皇の叔父にあたる 中山忠光や、三条実美ら六卿、坂本竜馬、野村望東尼なども滞在しました。
六卿の1人 錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)は、下関に到着後 病に倒れ、この白石邸で息を引き取りました。
文久3年(1863)6月には、藩命により下関に訪れた高杉晋作と白石正一郎の話し合いにより、この白石邸において奇兵隊が結成されました。
ただ 父方のつながりに白石があり、母方にも 白石という家が出るな!というだけで、うちの家は 関係なさそうです。
父・高岡の義兄弟に坂本あり。なんだか 山口の固まりと父方の固まりは似ているな・・・と思います。
[3] | さくらさんからのコメント(2011年04月14日 01時29分18秒 ) | パスワード |
安徳天皇を西海へお連れした菊池氏。
この 菊池の侍帳に 高岡 白石 坂本 平川がある。国史大辞典には尾方 高田僕宰など書いてある。
尾方は長男の嫁の実家の名。地方の町長の娘。
高田は 高岡と同じ集落にいた。4軒 高岡 高田 永田 田中で 字は 萩。
[4] | さくらさんからのコメント(2011年04月14日 01時46分24秒 ) | パスワード |
平賀源内も白石だったそうです。
家系図作成日記 太田亮・著『姓氏家系大辞典』 小野条 口語訳よりコピーしてきました。
31、清和源氏平賀氏流
尊卑分脈に「平賀冠者盛義―(大内四郎)義信―
● 清和源氏平賀氏流系図(原本より引用)
義泰の後は「孫二郎頼親―左将監信親」であります。また、竹内系図に「義信―朝信(小野三郎)」などが見えます。家紋は『左三巴』・『丸に橘』。
また、諸家系図纂に「平賀義信―朝信(小野三郎。承久三年(1221年)六月、朝時に属し、京の方、石黒・宮崎党を攻め討ちました)―時信(宣陽門院蔵人)―時村(太郎)―
● 清和源氏平賀氏流系図2(原本より引用)
とあります。
大内四郎 とあるけど 大内は普通 「山口」ではないのでしょうか?
↓
父が養子に入った家・白石の姻戚関係に山口。姉夫婦(婿・山口)はいとこどおし。
[5] | さくらさんからのコメント(2011年04月14日 01時48分21秒 ) | パスワード |
竹内
【たけのうち】 本姓:源氏。華族類別録第二十三類。 外様
清和源氏義光流。新羅三郎義光の4男平賀冠者盛義を祖とする(知譜拙記による。華族類別譜によれば、義光の子義業の二男義信を祖としている)。元、久我家諸大夫だが、足利氏と同族であった為か、室町幕府の執奏で堂上に列せられた。庶流に中務大輔久盛を祖とする竹内流柔術家がある。
家紋 笹竜胆。
明治期 子爵
[6] | さくらさんからのコメント(2011年04月14日 02時09分09秒 ) | パスワード |
4より
甲斐武田氏総集編@源義光〜武田信義兄弟|四郎勝頼の京都祇園日記より
大内義信(大内四郎・平賀冠者・義遠・駿河守・武蔵守)
平賀盛義の3子。伊賀国伊賀郡大内郷に住み、大内氏を称する。平治の乱では源義朝につき、最後まで従った。1180年源頼朝が挙兵すると直ちに応じた。1189年の奥州征伐に従軍。2代将軍頼家の乳母の夫であり、1203年10月、3代将軍実朝の元服の時には加冠役を務める。1207年までには没してたようだ。
[7] | さくらさんからのコメント(2011年04月15日 20時53分40秒 ) | パスワード |
白石正一郎
幕末 豪商だった 白石正一郎は 維新の志士を援助した。彼の援助がなかったら維新はならなかっただろう という。
20歳離れた末弟の伝七は大庭家の養子となる。伝七はやはり尊皇攘夷運動に身を投じ、高杉晋作は伝七に遺書の手紙を送っている。伝七の三男がロシア通のジャーナリスト大庭柯公で、柯公は正一郎の甥に当たる。
↓
と大庭と関係している。
白石正一郎は 後 「赤間神宮」にはいる。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木和泉の次男真木菊四郎の墓が並ぶ。
真木和泉は毛利家家臣。
[8] | さくらさんからのコメント(2011年04月15日 21時09分59秒 ) | パスワード |
もう一度 「真木神社」をみると
式内社 伊賀國阿拝郡 眞木山神社
旧村社
御祭神
天兒屋根命 經津主命 眞木山神
合祀 菅原道眞 伊邪那岐命 應神天皇 大物主命 健速須佐之男命
合祀 武甕槌命 大日靈貴命 蛭子命 火之迦具土命 天手力男命 大山祇命
ご祭神はゆかりの方をまつる。合祀・相殿なども関与する方々を祀るので、これらのかたがたは 真木のゆかりの方であろう。
天兒屋根命は藤原氏遠祖
經津主命は經津御魂に関与する神で、鹿島神宮に関与する。
「大鏡」では鹿島神宮のあたりで藤原鎌足はうまれたという。
[9] | さくらさんからのコメント(2011年04月15日 21時19分13秒 ) | パスワード |
真木山神社 眞木山神社 (伊賀市)で検索
神紋 茶のみ
橘紋と通ずる。
↓
私の父方の高岡 白石 坂本 尾方の使用紋も橘紋
真木山神社=白石明神
この白石山・御仁ヶ平は、
神武天皇東征の折、八咫烏が止まったという伝承地である。
[10] | さくらさんからのコメント(2011年04月15日 21時26分27秒 ) | パスワード |
真木和泉
筑後国久留米水天宮の祠官・真木旋臣としおみの長男。
名は保臣やすおみ、和泉は通称。
水天宮
寿永4年3月壇の浦の合戦の後、女官按察使局あぜちのつぼね伊勢(のち千代と改む)が筑後川畔鷺野さぎのに遁のがれて始めて水天宮を祀る。
時に建久初年と傅う。
平家物語と通ずるところ
[11] | さくらさんからのコメント(2011年04月16日 14時57分35秒 ) | パスワード |
若狭湾岸の古社詣で より検索
その3・小浜 「若狭彦神社」「鵜之瀬・白石神社」「若狭姫神社」「小浜府中ノ総神社 」 その4・舞鶴 「弥加宜神社(大森 ... 和銅7年(714)に下根来の遠敷川「鵜 乃瀬」の清流の地「白石」に若狭彦神と若狭姫神が降臨され仮宮を営んだことにはじまる。
白石神社(若狭彦神社境外末社・若狭彦神社奥宮)
祭神:若狭彦神・若狭姫神を白石大神、または鵜乃瀬大神とたたえて奉祀。
若狭彦神社祭神降臨の創祀の社とされるも、創建年代は不詳。
[12] | さくらさんからのコメント(2011年04月16日 14時59分57秒 ) | パスワード |
「若狭姫神社」(若狭一の宮・延喜式内名神大社・国幣中社)
<福井県小浜市遠敷(おにゅう)鎮座・
祭神:
上社:彦火火出見尊(ヒコホホデミ尊・若狭彦神)
下社:豊玉姫命(トヨタマヒメ命・若狭姫神)
上社:若狭彦神社
下社:若狭姫神社(遠敷神社・若狭彦神社の2キロ北方)
上社下社を総称して「若狭彦神社」(若狭遠敷神社・遠敷明神・遠敷上下宮)とも呼称。
[13] | さくらさんからのコメント(2011年04月16日 15時09分57秒 ) | パスワード |
神武紀の書き出しで神武天皇の「諱(いみな)を彦火火出見と云いウガヤフキアエズ( 略称しました)の第4子」とあります。
ウガヤフキアエズは 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の子・山幸の子供。
豊玉姫神(トヨタマヒメ)は、『古事記』上巻、山幸彦と海幸彦神話に登場する女神。山幸との間に鵜茅不合葺命をもうけるが、妹 玉依 姫神に養育され、後に玉依姫神との間に神倭伊波禮毘古命(=神武天皇)をもうける。
山幸は『日本書紀』では主に彦火火出見尊と呼ばれ、兄弟は火闌降命(ほすそり・火酢芹命)や 火明命(ほあかり)とあり、山幸彦と海幸彦では兄が火闌降命となる。
[14] | さくらさんからのコメント(2011年04月16日 15時17分57秒 ) | パスワード |
■木本神宮
木本(このもと)神宮は、平安末期〜鎌倉時代初期にかけて、この辺り一帯を治めていた木上の地頭平川義高が築いた岩城(いわんじょう)跡の北側に建立されています。東に霊峰市房山(いちふさやま:標高1721.8m)を望み、南に球磨川を眺め、古くから治水祈願の神、縁結びの神様として祀(まつ)られています。
その昔、人吉・球磨地方を治めていた相良(さがら)氏は、霊峰市房山にある市房山神宮(注1)に参拝していました。しかし、相良氏の居城である人吉城から市房山神宮まではかなりの道のりでした。今でも車で1時間以上かかります。また、風水害などの災害で道が通れなくなることもありました。そこで、球磨郡内に何カ所か市房神社と同じ神様を祭ってそこを参拝したといいます。その一つが木上に残る木本神宮です。
木本神宮は、永正5(1508)年に相良13代長毎(ながとし)によって建立されました。祭神は、市房神社と同じ邇邇芸尊(ニニギノミコト)ほか5神です。
(注1)市房山神宮は、大同2(807)年に、久米城主の市房という人が、霧島神宮(鹿児島県)の祭神を勧請して建てられたと伝えられ、市房山の中腹(標高約800m)にあります。
参考文献
『錦町の文化財』 錦町教育委員会・錦町文化財保護委員会 1997
上米良利晴編著 『熊本県神社誌』 青潮社 1981
『日本歴史地名大系44巻 熊本県の地名』 平凡社編集・発行 1985
[15] | さくらさんからのコメント(2011年04月16日 15時30分57秒 ) | パスワード |
と、祭神は 天孫系だという 意識がある。
市房神宮宮司・尾方氏から教えていただいた 12のご祭神を確認しなければと思うが、屋根裏から引っ張り出さないといけないので・・・
ともあれ 天児屋根 山ノ神 海の神 も 含め 高天原族であり、よそから来た人たちだということと、山ノ神 海の神はきょうだい神とされ、松浦にある淀姫神社の氏子に白石がいることと なんらかの関係がありそうだ。
やまーど神事は しめなわ張りで まれびとの変身と思われるそうだ。
伊賀にも 白石大明神がおり、どちらが後先かは兎も角 人の移動も考えられる。
[16] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 19時47分29秒 ) | パスワード |
市房神宮宮司・尾方氏の手紙より
市房神宮祭神
天津彦火火出見命 吾田鹿蘆津媛命
天津彦火瓊瓊杵尊 豊玉媛命
火明命
あえて12神というとき
山の入り口に 祓戸の祠があるので、瀬織津比売命 速開津姫神 気吹戸主神
速佐須良比売神
市房山に鎮座しているので
大山祇大神 中山祇大神 麓山祇神
尊称の命 媛 姫 神 大神 一緒ですとある。
別紙に
父・天照皇大神の孫・天津彦瓊瓊杵尊 子供・兄・火明命(海幸彦)
母・大山祇大神女子・吾田鹿蘆津媛命 弟・天津彦火火出見命(山幸)
豊玉媛命(海神の娘)嫁
とある。
神吾田鹿蘆津媛命の別名は 木花咲夜毘売
市房神宮には 「心見の岩」というのがあり、球磨川の石には 確か 願い事がかなうときは石がぴったり合わさる という。
[17] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 20時25分56秒 ) | パスワード |
6平賀盛義の3子。伊賀国伊賀郡大内郷に住み、大内氏を称する。
から
伊賀国伊賀郡大内郷を検索→玄松子さんの「猪田神社」
ちょこちょこ抜粋すれば
祭神
武伊賀津別命
相殿 少毘古那命 上筒男命 中筒男命 底筒男命
相殿 健速須佐之男命 天兒屋根命 健御名方命
相殿 速玉男命 事解男命 大物主命 大山咋命
相殿 大山祇命 金山毘古命 蛭子命 猿田彦命 應神天皇 菅原道眞公
合祀 大内社 式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社
祭神
武伊賀津別命
相殿 少毘古那命 上筒男命 中筒男命 底筒男命
相殿 健速須佐之男命 天兒屋根命 健御名方命
相殿 速玉男命 事解男命 大物主命 大山咋命
相殿 大山祇命 金山毘古命 蛭子命 猿田彦命 應神天皇 菅原道眞公
合祀 大内社 式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社
祭神
武伊賀津別命
相殿 少毘古那命 上筒男命 中筒男命 底筒男命
相殿 健速須佐之男命 天兒屋根命 健御名方命
相殿 速玉男命 事解男命 大物主命 大山咋命
相殿 大山祇命 金山毘古命 蛭子命 猿田彦命 應神天皇 菅原道眞公
合祀 大内社 式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社
5基の横穴式古墳
また、中世以降では、「住吉神社」と称されていたらしい。
とある。
[18] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 20時37分24秒 ) | パスワード |
大内は山口
前に 山口から 天手力男命 住吉神 天道女命 大内 菊池 菅原道真
川辺川下流にある 国重要文化財「十島菅原神社」祭神・菅原道真 を みちびきだしたことがある。
尾張・青衾神社より
祭神・天道日女命(あめみちひめのみこと)といい、天火明(あまのほあかりのみこと)の妃で、尾張氏の祖とされる天香語山命(あまのかごやまのみこと)の母とされる。
猪田神社は 概ね 山口に関与する神社のように 思える。
竹内 平賀 白石 山口
このうち 白石 山口は うちの固まりにいる。
[19] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 21時04分47秒 ) | パスワード |
天道日女命は丹後籠神社の宮司・海部氏始祖・彦火 明命の妻。だから海部氏の始祖神。
丹後籠神社にも 関与してくる。
出雲神魂神社
出雲国造の大祖・天穂日命がここに天降られて伊弊冊(いざなみ)大神を祀ったとされる古社。
『 野見の宿禰』は出雲国造家の出身で相撲の開祖、日本における『 埴輪』の考案者とされている人物です。 土師氏の祖であり、菅原道真などは、この『 野見の宿禰』の子孫だとされています。
と 天穂日命は 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄弟で、皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊より先に天下ったとされる。
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊のグループと同じグループがいたわけになる。
[20] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 21時18分28秒 ) | パスワード |
平賀家系図 平賀→白石
この家系図により、先祖に信州で武田信玄に討たれた平賀源心が居ること、国家の代に奥州白石に住み伊達輝宗公の家来になり白石姓を名乗ったこと、伊達政宗の命で伊予宇和島藩赴任したこと、国行の代で同僚の讒言により讃岐小田村に流れて来たこと、喜左衛門国久(源内の曽祖父)の代になり高松藩志度米蔵の蔵番に取り立てられたこと、茂左衛門良房(父)の9人兄弟の3男で国棟(クニムネ)と呼ばれていたことなどが判ります。
[21] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 21時33分23秒 ) | パスワード |
『大日本地名辭書』
おふ
内(おほち)郷……584n(伊賀國名賀郡)……和名抄に伊賀郡「大内郷。」垂仁紀に祖(おほぢ)別命。伊賀國造。
伊賀国造
13成務 三重県伊賀
伊賀国 皇子意知別命の三世孫
武伊賀都別命 古事記
垂仁天皇皇子
落別の王
小目の山の君、三川衣の君
日本書紀
垂仁天皇皇子
祖別命おほぢわけ と系列を同じくする人たち
飫富(おほ)郷……268n(大和國磯城郡)……和名抄に十市郡飯富郷。「多坐弥志理都比古(おほにいますやしりつひこ)神社」は磯城郡田原本町多569。神武天皇の第二皇子神八井耳命は多族の祖神。太安萬侶もこの一族。
と 私は 高岡 白石 佐田 山口 尾方のからまりに見ている。
[22] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 22時07分57秒 ) | パスワード |
九州の神社のつながり
宇佐八幡の阿蘇神社縁起では
宇佐八幡 阿蘇神社 高知尾明神をきょうだい神としている。
大同年間
尾方権之助大神惟元が阿蘇神社を勧請して建てたのが 人吉青井阿蘇神社(国宝)
霧島神宮はもとの高千穂神宮
霧島神宮を久米城主・市房が勧請して建てたのが 「市房神宮」
熱田神宮 伊勢神宮 丹後籠神社(元伊勢)のつながり
熱田神宮と丹後籠神社は 丹後籠神社の宮司・海部氏の祖神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と 宮司・海部氏でつながる。ただ、熱田神宮は 10年くらい前になろうか 振魂命に祖神をかえられた。振魂命は海神の子供。
倭氏・大倭氏
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇 氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもある。
籠神社と伊勢神宮
京都府宮津市に元伊勢籠神社がある。同社の説明によると、主祭神は彦火明命、亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られている。
同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命である云々。」とあり、
由緒・由来には、「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からお遷りになって、之を吉佐宮と申して一緒にお祭り致しました。その後、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は二十一代雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢におうつりになりました。依って當社は元伊勢と呼ばれております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め元伊勢の社として、また丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました」とある。
[23] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 23時03分24秒 ) | パスワード |
市房神宮宮司・尾方 人吉青井阿蘇神社宮司・尾方権之助大神惟元 宇佐八幡に関与し「源平盛衰記」「平家物語」に書かれる「緒方三郎惟栄」は「戸次氏姓祖・戸次二郎惟澄とは従兄弟」という。
戸次は
大友姓戸次と大神姓戸次がある。
九州の安東氏で検索→九州の安東氏のルーツ→左の目次から戸次氏系図2つ見る。
[24] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 23時11分01秒 ) | パスワード |
比比岐神社
【延喜式神名帳】比々岐神社 伊賀国 伊賀郡鎮座
【祭神】比比岐神 武甕槌神 経津主神 天児屋根命
『伊水温故』由気忌寸
『特選神名牒』比々岐神
「大内上之庄村」の大内社(天神とも称す。明治41年猪田の猪田神社ヘ合祀)と北山の八幡宮(当社)が比定されている。
現在は社殿が一棟であるが、明治41年の合祀までは正面に北山八幡宮(現本殿の位置)、向つて左手の今の宝庫の位置に鹿島社と恵美須社が鎭座していた。
別当寺の宝珠院は境内に南接して現存している。
とこの神社も 槙山神社(白石明神)の祭神と ほぼ 同じ。
[25] | さくらさんからのコメント(2011年04月19日 23時50分46秒 ) | パスワード |
尾張熱田神宮大宮司は南朝の総帥。これは藤原南家から婿養子が入った後のことだが・・・
熱田大宮司・竹内氏(武内)の女子の婿養子が藤原南家男子・藤原季兼
相良氏も藤原南家。
尾張熱田大宮司の尾張員職の娘を妻に迎え、1101(康和3)年、58歳で没した。なお、子の季範の娘は後に源義朝の正室となり、義朝との間に「頼朝」をもうけている。
員職は外孫であるこの季範に大宮司職を授け、自身は神宮を出て、「八剣神社」を創建した。
熱田大宮司★武内左衛門佐三河五良季頼★と云ふ。此の女、頼朝を生む。職をば季範にゆづりて、三谷にては「八劔社」にて祀る』とある
藤原南家出身で、藤原季兼の子。生母は尾張員職の娘。額田冠者を名乗る。子は範忠、範 雅、範信、範綱、範智、長暹、祐範、上西門院女房千秋尼、待賢門院女房大進局、源義朝 室(由良御前、頼朝母)、
[26] | さくらさんからのコメント(2011年04月20日 00時07分28秒 ) | パスワード |
竹内 武内
竹内文書(たけうちもんじょ/たけのうちもんじょ。磯原文書、天津教文書ともいう)とは、神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の総称。
南朝と竹内文書
茨城皇祖皇太神宮のものと、南朝竹内家のものと二通りあるらしい。
竹内家には、竹内巨麿とはまったく別系で、南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。
5 20より白石と竹内の接点
大田亮氏姓系事典より
肥後の白石は清和源氏 菊池に仕え 後 相良氏に仕えるとある。
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