【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101229 投稿日:2011年04月01日 11時25分30秒  パスワード
 お名前:さなえ
三河国・・原(桑原・くわはら)姓について

コメントの種類 :質問  パスワード

たびたび質問させて頂いてます・・・よろしくお願いします。

桑原姓の発祥を検索してみますと、新羅帰化人説、菅原氏説、あとは地名によるもの・・・らしいです。

・原とは、わたしの主人の姓です。聞くところによると、何代か前の大本家さんはかなりの土地を所有していたそうですが・・・今は・・・
家紋は○に桔梗です。

去年家族で伊賀国西湯舟の平泉寺さんに寄らせて頂いたおり、奥様に姓を聞かれて、びっくりされたんですが・・・西湯舟に桑原姓も何件かいらしゃるそうです。

主人の姓のルーツまで調べることになるとは・・・自分でもびっくりしております。よろしくです。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 13時02分57秒 ) パスワード

1.祟神天皇の末
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 13時09分22秒 ) パスワード

2.
土師氏の一族
  ↓
大和添下郡菅原出身儒家の菅原氏
  ↓
高辻・五条・東坊城・唐橋・清岡・桑原・前田など
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 13時45分37秒 ) パスワード

3.
信州諏訪に祀られた建御名明方神の子孫  神家(みわけ)・諏訪家(すわけ)。


南北朝時代に神家1党33氏を率いて信濃宮宗良親王に尽くした。
その33家とは
  関屋・深沢・皆野・三塚・四宮・若尾・不覚・保科・神野・笠原・千野・
  藤沢・松島・坐光寺・栗原・上原・栗林・矢崎・風間・平島・平方・栗沢
  遠山・向山・中村・西保・真志野・真野・脇間・薗屋・大妻・小島・中野
  中島・禰津・浦野・大垣・有賀・平井・平出・神田・神内・知久・桓原
  宮所・小坂・阿倍・元沢・高遠・原・安倍・元沢・
52だよね(笑)



その他  神家の一族に

岡屋・栗田・三輪・箕輪・埴原田・一ノ瀬・武井・安宿・足羽・桑原              ← ココ
山井・花岡・関・大平・大島・小野・林・小林・平林・周防・片倉・藤森
矢沢・宮下。宮崎・金山・津波木・岩波・高木・横田・海口・西条・桜井
粟沢・福島・春日・大塩・宮坂・吉田・小井弖(こいでの「で」はアテルイのテに同じ。弓の下に一)
香坂・平栗・早出・浜・波間・木村・大木。


粟沢氏の子孫は沢氏を称し
以後、○○沢といういろいろな名字を名乗るようになった。
60ぐらいあるけど、沢ばっかり後ろにつくのでテキトーに。笑
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 13時54分18秒 ) パスワード

4.
保元の乱の時、義朝の元に味方した面々に
(保元物語上巻・官軍勢沙へ)

「信濃国には  舞田・近藤武者・桑原          ←  ココ
安藤2・安藤3・木曽仲太・  以下略」
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時05分37秒 ) パスワード

原文(今井の四郎どののところからパクって来ました。感謝>今井四郎どの)


十一日の寅刻に、官軍既に御所へをしよす。

折節東国より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。

先鎌田の次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国には佐々木の源三・八嶋冠者、美濃国には平野大夫・吉野太郎、尾張国には舅熱田大宮司が奉る家子郎等、三河の国には志多良・中条、遠江国には横地・勝俣・井の八郎、駿河国には入江の右馬允・高階十郎・息津四郎・神原五郎、伊豆には狩野宮藤四郎親光・同五郎親成、相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名の源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には安西・金余・沼の平太・丸の太郎、武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斉藤別当実盛・同三郎実員、横山に悪次・悪五、平山に相原、児玉に庄の太郎・同次郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者、上総には介の八郎弘経、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎・物射五郎・岡本の介・名波太郎、下野には八田四郎・足利太郎、常陸には中宮三郎・関次郎、甲斐には塩見五郎・同六郎、


信濃には海野・望月・諏方・蒔・桑原                ← ココね

・安藤・木曾中太・弥中太・根井の大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎を始として、三百余騎とぞしるしたる。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時10分46秒 ) パスワード

4.
大和国葛上郡桑原郷の出身者は漢人の裔。

新羅の俘虜と言われているが元は祖は漢の高祖。
子孫は近江・河内などに。

その他に異流で
美濃・遠江・相模・武蔵・下総・丹波・備後・安芸・紀伊・伊予・豊前・肥前などに土地の名を称す。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時11分41秒 ) パスワード

5.
家紋に梅鉢を用いているものは菅原道真の後裔。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時22分04秒 ) パスワード

桔梗紋は源氏の土岐氏の代表紋で    (明智はこの土岐氏の支流)
平氏系で江間氏が桔梗紋を使っているのは土岐氏から拝領したから。


桔梗紋で桑原氏が使用、という公的記載は見つかりませんでした。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時28分14秒 ) パスワード

家紋は名字より使用が緩いから
菅原氏の末でも何かあって桔梗を用いるようになったのかも知れないし。


源氏系で桔梗紋を使っていたのかも知れないし。


家紋から調べるのはかなり難しいことと思います。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時35分08秒 ) パスワード

<3>に書いた宗良親王がらみかなあ?


宗良親王なら信濃まで転戦して浪合村で亡くなっているので
三河も近いし。

もし南朝方だったという言い伝えがあるなら、宗良親王がらみかなあ?


やっぱり家のアイデンティティを一族の方から聞き出さないとね。
・源平時代はどっちだったか?
・南北朝の頃はどっちだったか?
・家紋はいつ頃、どんな事情があって桔梗になったのか?
・いつ頃から三河に住むようになったのか?
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 14時50分44秒 ) パスワード

大地主だった家なら昔は豪族だったでしょうから
(戦時には武士を率いて戦っていたでしょうし)
かなりの話が今に伝わっているはずです。

ホンヤさんで御訊きになるのが確実ですよ。


土地と家紋の関係で
三河で一般的な紋といったら源氏系の二引き両  ○に二   か  桐か 
美濃ですと  桔梗  ですけど。 
尾張は 木瓜 なんて言います。うちの父方の親戚(NY在住)もコレを使っています。織田家の紋です。
うちは木瓜じゃないですし、信長とは仲が悪かったので木瓜紋なんて使うワケがないです。
父の親戚が、なんで、そんな紋を使うんだ!(怒)です。それなりの理由があったのでしょうね。

それが家のアイデンティティということです。


ですからホントのところを知りたかったら、ホンヤさんに訊きに行くのが1番です。
[12]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年04月03日 00時08分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

さなえ さんへ

桑原姓は約10.5万人の大姓ですから、発祥地もすこぶる多く出自も数十流に達するでしょう。
姓氏辞典などの出自掲載は、1%未満と考えた方が宜しい。
三河だけでも額田郡と設楽郡に桑原邑があります。
加茂郡には桑原田邑があります。
 
家紋は当てにはなりませんよ!
丸に桔梗の桑原さんなら、児玉党桑原氏が使用していますが武蔵じゃ見当違いでしょう。
改紋、下賜紋の例も沢山ありますから、出自と無関係なこともある。
 
やはり地道に過去帳・墓碑を探り、発祥地の郷土史を研究することです。
本家の菩提寺なども貴重な情報源です。
また法事などに積極的に参加することです。
その様な場所でしか、家系は語られないのが現代です。
しかも家系に詳しいむきが続々と冥土へ旅立っているので急いでください。
[13]さなえさんからのコメント(2011年04月07日 23時31分22秒 ) パスワード

ありがとうございます。

桑原姓って意外と奥が深かったのですね。私はてっきり桑の原っぱのお百姓さんかと・・・
全国の桑原さんごめんなさい。

本家さんに聞くというのは・・・
何の因縁か、大ほんやさんも本家さんも血族は耐えてしまってます(もらい合わせとかいって、成人男女を夫婦として養子にむかえているの)(実は我が家も血はあやしいらしい節が・・・)それに、何代も前の本家さんなので・・・突然私が聞きにいっても変に思われそうで、なかなか・・・。

機会ができたらお寺さんで聞いてみたいと思いますので、よろしくおねがいします。
[14]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 00時03分10秒 ) パスワード

あちこちでおじゃましてすみません。私の母方の中原から
大友氏(古代)を検索していたら、大友桑原氏が出ました。

ウィキより
大友氏は、古代日本の近江国とその周辺に住んだ氏族。
姓 (カバネ)は村主、曰佐、史、連、 ...
大友桑原史は、桑原史と同族。前漢高祖の後裔 で高句麗人の万徳使主(万得使主)を祖とする。万徳使主を前漢の景帝の後裔とする・・・平安時代に、787年(延暦6年)大友広道が志賀忌寸の氏姓を[5]、837年(承和4年)大友弟継は蕃良宿禰の氏姓を[1]賜与された。

と志賀忌寸が出て、この人は
佐味神社
滋賀県伊香郡高月町柏原47 由緒

 式内社の佐味神社は、余呉町と高月町の当社の二カ所ある。当社は今でも藤の宮と呼ばれており、佐味神社を名乗ったのは明治五年のことと言う。
 祭神の豊城入彦命は近江国人志賀忌寸の祖にあたり、佐味朝臣が祀ったとされる。境内周辺に佐味田、佐味屋敷と言う地名が残っているが、佐味氏が居住した記録は見あたらないようだ。
 『近江伊香郡志』によると、「創建は光仁天皇宝亀年中(770〜781)、佐味朝臣が垂仁天皇の皇子の豊城入彦命を祀る。」と書いてあるそうだ。→崇神天皇皇子らしい。

伊香郡って伊賀とはちがうのでしょうか?



[15]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 00時19分38秒 ) パスワード

宮本武蔵で柏原をしらべていたら、ここにも 柏原がでて驚き!!桓武天皇は柏原天皇ともいうのですね。
[16]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 01時40分33秒 ) パスワード

蕃良宿禰はここにつながるかは?だけど
阿保親王
平城 天皇の第一皇子で、母は葛井道依の娘・葛井宿禰藤子(のち蕃良朝臣藤繼)。桓武 天皇の孫に当たる。妃は桓武天皇の皇女伊都 内親王。子に在原行平、在原業平ほか。

葛井は俗姓・藤井 宮中に入ると 呼び方がかわるのだとか・・・藤井はたとえば親鸞聖人(北家日野氏)も俗名藤井だったはず。

葛井氏系図では胆津(白猪史)・・・葛井になる。
[17]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 01時51分57秒 ) パスワード

藤井寺市のページをみると
葛井寺と国宝千手観音
重要文化財四脚門[葛井寺]       国宝千手観音菩薩坐像[葛井寺]

 葛井寺のご本尊千手観音菩薩坐像は、わたしたちに通称「観音さん」として親しまれています。この仏像と葛井寺について、紹介したいと思います。

葛井寺は、紫雲山三宝院剛琳寺と号し、剛琳寺ともいいます。古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳時代に建立されました。寺蔵の古絵図や『河内名所図会』からみると、東西に塔をもつ薬師寺式の伽藍配置をとっていたことが知られます。
飛鳥時代から奈良時代にかけては、全国各地で有力な氏族が、仏教興隆を奉じて競って氏寺を造りました。葛井寺もその一つなのです。葛井氏は、6世紀に活躍した渡来系の王辰爾の甥の胆津を祖とし、『日本書紀』によれば、吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績で白猪氏の姓を賜りました。その後、葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建したと伝わります。
とある。
[18]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 02時02分30秒 ) パスワード

王辰邇は30敏達天皇のとき、高句麗の法によって政治を行うということになり、高句麗の烏の羽に書いた国書が届いたが、誰もよめなかった。が、王辰邇だけ読めたという。

王辰爾の孫に当たる王後の墓が柏原市松岡山にあり、その墓から出土した墓誌銘は「船王後(ふねのおうご)墓誌」として有名である。

柏原天皇から柏原市をみれば 隣が 藤井寺市。

船恵釈
船氏の祖王辰爾の子か孫という。姓は史,名は恵釈とも書く。『日本書紀』によれば,乙巳の変(645)で中臣鎌足,中大兄皇子(のちの天智天皇)らに襲われた蘇我蝦夷が自害したとき,その邸宅にあった「国記」が焼失しようとしたのを火中から取り出して中大兄に献上したと伝える。
[19]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 02時11分57秒 ) パスワード

「蕃」という言葉は 字が違うけど
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の別名・『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命にある。
[20]さなえさんからのコメント(2011年04月12日 11時28分37秒 ) パスワード

さくらさんへ

たびたび気にかけて頂いて、ありがとうございます(笑)。

ところで、さっきほかのスレッド読ませて頂いていて、また知ったんですけど・・・たまたま、わたしの実家も、嫁に来たところも、浄土真宗大谷派(東本願寺)でしたので・・・ 何か関係しますか?  (服部家・神谷家・・原家)

反織田派?なのでしょうか?(個人的に、豊川悦司の織田信長も、名古屋おもてなし武将隊の織田信長も好きですが・・・)(もちろん、焼き討ちは嫌ですよ!まちがいなく・・・)

親鸞聖人さんの生き方や教えは、なんとなくわたしのDNA的に、合ってますけど・・・ね、仏教も奥が深くてね・・・
今、京都でやってる親鸞展、めちゃめちゃ行きたいんですけどね。

なんだか、とりとめない文章になりましたが、このへんで(ぺこり)。
[21]さなえさんからのコメント(2011年04月12日 12時04分03秒 ) パスワード

空の青海のあおさんへ

(今さらですが)・原家の出自について、とてもよくわかりました(ぺこり)。

わたしも、信濃国・近江国あたりが気になります。

ありがとうございます。また、おねがいします(笑)。

[22]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 19時20分26秒 ) パスワード

>その祖母は母方で、神谷姓です。
>当神谷家の家紋は、○に揚羽蝶です。

今日図書館へ肥前の淀姫神社のことを調べに行きました。
そして そうそう 神谷様は どうだったかしら? と思い 
苗字から引く家紋事典 高澤等著 東京堂出版 ¥4800 2011・1・18出版

かみや かみたに かめがい 神谷 神屋 紙屋
1愛知県刈谷市小垣江町・藤原北家道兼流 宇都宮氏族。和邇姓朝比奈氏族。藤原氏秀郷流伊賀氏族

丸に上り藤
丸に揚羽蝶
対い蝶
左三つ巴
丸に左万字

出自に諸説あり。全国的に揚羽蝶紋を使う家が多い。本来は他の地よりおこったものか?

2福岡県福岡市博多区神屋町・出自不詳

丸に剣桔梗 
丸に揚羽蝶

神屋寿貞は石見銀山の開発に携わり、子孫の神屋宗湛は博多の豪商
とある。

千賀屋氏の家紋辞典では愛知県の家は皆宇都宮流でした。家紋にひとつ浮き唐花とかいうのがありました。桔梗紋と酷似している。これも宇都宮でした。

03kamonでは 四辻家が唐花をつかう。

道兼
道隆
道長 三兄弟ですね。道兼は 病気で死んだ。

宇都宮流のとき 私の母方・佐田と関与しています。私は豊前宇都宮流佐田氏が同じ紋の三つ巴。で ひとつの候補として 考えています。

私の母方は 本願寺派で 周坊国最古の真宗寺院だそうです。住職・香川氏。
真宗は徳川家康により 貴族に味方したほうは本願寺派に 
武士に味方したほうは 大谷派に真っ二つに分けられたそうです。

政治的にわかれたとすれば このあたりでしょうね。でも もとは 同じだった(?)はず・・・そう思います。

豊前宇都宮流佐田氏は もと 中原氏を名乗っていた。
ここらから はるか 昔を私は調べているところです。

それで こころにかかっていたのが 私の佐田のまわりに 神力という家があり 浜人のだんな様 といわれていて 塩をつくっていたようで、昔は塩は貴重品だったでしょう。同じ神をつかうので 昔は神人に関係していたのかとか私の家のまわりのことも いろいろ 思い巡らせています。

[23]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 20時20分18秒 ) パスワード

「和徳」→桓武天皇后・高野新笠と同族。

和徳稲荷神社
この神社は、弘前駅の北1.2km程の辺り、弘前の街中に鎮座しております。街中ですが和徳城跡にある神社なので、後ろは土淵川となっており、弘前中心部とは思えない程深い緑に囲まれた、落ちついた神社です。

弘和年間(1381〜84)に、藤崎城主である安東氏の庶流、安倍某が築城したとされる和徳城ですが、宅地化が進み、遺構はほとんど残っていないようです。

[24]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 21時06分23秒 ) パスワード

安東氏
安東家勝北郡真加部村
安東氏は藤原北家流といわれますが、真加部安東系図によると、 「市郎高胤母は安東 兵衛高平娘であったので、外祖父高平の養子となり家を継いだ。安東はもと安倍氏で代々 東奥州の豪族でその子孫は京都に住んでいる」 となっています。

藤原とは母方の家をついだ 関係。
九州の安東氏の由来より 〜鎌倉までの系図をみると、鎌足から7代目秀郷9代目常遠が安東左衛門尉。子孫大友氏累代の家臣となる。
[25]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 21時36分27秒 ) パスワード


(事代主)天孫ニギハヤヒ(長脛彦の娘婿でもある)         
  ‖・・天香語山命・・・尾張氏へ・・神武皇后の義兄
            宇麻志麻治命・・・物部氏へ・・・神武皇后義兄
長脛彦の妹・登美夜比売

長脛彦・・・・・晋の姫と結婚→安東氏へ。物部氏子孫和田氏と姻戚関係
       「東日流外三郡誌」では安東大将軍・日ノ本大将軍     長脛彦兄・安日彦・・・・晋の姫と結婚→阿部氏へ。安東氏。
[26]さくらさんからのコメント(2011年04月12日 22時18分34秒 ) パスワード

宮本武蔵4 5で
佐田から出る桓武平氏千葉氏流鷲尾(英保・本姓中原・称源頼政子孫)
嵯峨源氏の流れを組む渡辺党の上に摂津 源氏の嫡流多田氏があり、それらを代表する形で頼政の系が源氏の一派を形成する。

明治天皇ご生母を出す松浦氏
25よりアベ氏の血が入る。

嵯峨源氏・渡辺綱は源融の流れを汲み、摂津(大阪)の渡辺氏の祖である。
筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源融の子孫であり
平家物語・百二十句本(国会本)剣の巻によれば、安倍宗任が前九年の役で敗れたあと、治 暦三年(1067年)に太宰府に流されるが、子孫繁栄して、松浦党となった。この伝えは、百練抄、前太平記、歴代鎮西要略でも記されている。

宗任の三男・安倍季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。

平安時代は松浦党が盤踞した地域は平家の 知行国であるため、松浦氏は平家の家人となっていたが、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭となる。

松浦市史によると、同市内に安部宗任の居城や邸宅跡、起請した神社などがあるほか、源久の 娘・真百合との間にできた子が松浦氏の祖 ... また宗任と松浦党関連を平家物語が とりあげていることは、鎌倉時代なかばにはそう信じられていたということで、「志佐記 」などにある 。

源融流嵯峨源氏・渡辺綱の系譜
松浦清は17男16女に恵まれた。そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。

[27]さくらさんからのコメント(2011年04月13日 20時45分59秒 ) パスワード

私の母方・佐田がある(あった。かな?今は親戚にゆずって家の人たちは関東に住んでいる)
頼山陽が「華浦かほ・はなのうら」と名づけたといい、美しいところだとお寺様が言っておられた。
佐波郡(防府市)の隣は四辻町・高倉町だったみたい。→22の唐花紋からつながる四辻家。

四辻家は藤原北家23家のひとつ。
高丘家にも養子にきている。高丘には高倉からもきている。

ぶっちゃけた話、藤原北家23家のうち4家は坂上一族。国史大辞典に書いてある。四家の苗字も書いてある。

四辻家は江戸時代 後水尾天皇に徳川家康の孫娘が入内するに際し、すでに四辻氏に皇子・皇女がいた。ために 家康から 厳しくされている。

唐花紋より推考して 貴族の方にも つながりがあるようにも思える。
武士に味方して わかれたようにも・・・

四辻
【よつつじ】 本姓:藤原氏。華族類別録第五十四類。
旧家 内々 近衛家門流

藤原北家閑院流。西園寺家庶流。西園寺公経の四男実藤を祖とする。元号、室町(実藤は藪内とも号した)。室町実藤から6代目・季顕の頃より、四辻を称す。
明治期に室町に改姓。
北野大報恩寺伝奏〔雲上明覧大全文久元年版巻末〕。
家紋 唐花。



23の和徳は宇都宮と直接関係ないことですが、うちの佐田(サダという族だったと思っている。そのひろがりは藤原とも関係ある)。

 
[28]さなえさんからのコメント(2011年04月13日 21時04分48秒 ) パスワード

実家の近くに、安藤さん(大家さん)あります・・・安藤とは安東に通じるかしら?

やっぱり現世いろいろあるように・・・先祖さんもいろんな人と関わったろうから・・・たいへんです。
[29]さなえさんからのコメント(2011年04月13日 21時23分40秒 ) パスワード

それから・・・
ちょっと横道それますが・・・

やぱり実家の近く(西尾市・旧三河国幡豆郡福地)に、富永姓もあります。楠木正成に関わってたらおもしろいわね。
[30]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 14時08分09秒 ) パスワード

武家家伝 富永氏では
富永氏は、古代豪族として著名な大伴氏の裔で、『応天門の変』の首謀者として没落した伴善男の後裔とされている。善男の子清平は平松太郎と称して甲賀富永氏の祖となり、弟にあたる清助は三河幡豆郡司となってその子孫が三河富永氏となった。

南北朝期には足利氏に属していたことが種々の記録から知られている。

尊氏と九州の南朝方菊池氏とが戦った「多々良浜の合戦」では・・・とあるので
それは ないかも・・・

富永姓は うちの近くにありません。
伴から 松永 柳原 など でるけど
この苗字の家はとなりの集落にあり
堀川もあります。

こんな 直近のつながりは ありえないですが

堀川は明治天皇弟君の母の家だとか・・・
柳原愛子は 大正天皇の實母。

南北朝期 球磨は 上相良氏の方は 南朝・護長親王が走ってきて勢いを盛り返し
人吉・下相良氏の方は 北朝方といいます。
人吉の相良氏と同族の(結局 皆 つながるけど)相良氏が 福岡多々良の浜にいて 大内氏の家臣でいた。

う〜ん う〜ん??
やっぱり つながらないかも(〜〜)
[31]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 14時14分00秒 ) パスワード

>堀川は明治天皇弟君の母の家だとか・・・
>柳原愛子は 大正天皇の實母。

は 母の家の名に見える。
實母の名に見える。

です。誤解されそうでしたね。うちの隣の集落のことではありません。

[32]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 14時21分45秒 ) パスワード

安藤で検索したら
美濃安藤氏は伊賀氏とも称し、その出自は藤原氏秀郷流という。『美濃明細記』の伊賀系図によると、藤原定就が美濃国大野郡に住したとあり、定就は伊賀太郎左衛門の男とみえている。代々、伊賀守を称していたようで、定就の子定重も伊賀守を称し、その子守就もまた伊賀守を称している。
 この守就が戦国時代の美濃において、稲葉一鉄・氏家卜全とともに「西美濃三人衆」と称された安藤伊賀守である。そして、守就のときに安藤と改め、守就は出家して道足を号している。

伊賀氏は「三つ藤巴」が著名。 ですって。

神屋にも 秀郷流伊賀氏がありますね。
[33]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 14時59分24秒 ) パスワード

・・・美濃安藤一族は滅亡の憂き目となったが、のちに、守就の甥可氏が山内一豊に仕えて安藤氏の血脈を後世に伝えた。・・・郷氏は安東守就とともに北方で討死した守重と同一人物で、その嫡男可氏が天正十三(1585)年頃、叔父山内一豊に召 し出され、千石を与えられて安藤氏を再興した。
・・・のちに「山内」を称することを許され、「山内左衛門佐」と名乗った。以後、子孫封を継ぎ明治維新に至り、明治政府が成立したのち山内姓を返上、さらに安東氏から伊賀氏に改め男爵を授けられている。

ですって。

安東ということばが でますね。

[34]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 15時00分16秒 ) パスワード

安東氏世 では
土佐藩『先祖書覚 御家老一』の「安東太郎左衛門子 山内左衛門佐可氏」の項目には、「 姓橘氏、安東累代美濃国本巣郡豊原之北方七間城主」とあるように、安東家は「橘姓」を 称していたことがわかる。

[35]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 15時03分05秒 ) パスワード

うちでは
高岡から平川に婿養子
平川親戚・五藤。高岡姻戚関係・五藤なので

★五藤は橘氏。正行をとおってくる。と位置づけて

正行は正成の嫡男。
正行の庶子・佐正が池田家へ入る。→摂津・池田系図を見る。★

池田系図の下のほうに 相良頼之次男が養子に入る。

相良家の方では
相良頼基 - Wikipedia
天保12年(1841年)5月12日、第13代藩主・相良頼之の四男として生まれる。安政2年( 1855年)に兄で第14代藩主の相良長福が死去した。このとき、長福には実子の相良頼紹が いたが、幼少のため弟である頼基が養子となって家督を継いだ。

長福の系は 山北が出るというが
山北は うちの高岡の家があった山の市房神宮のお鏡を預かる家と同じところにある。

[36]さくらさんからのコメント(2011年04月18日 15時11分50秒 ) パスワード

虎踊りでつながる話 より
佐多氏は総領家を含めて藤原姓島津氏族佐多氏庶流○○となっています。本家が島津氏を名乗るようになってから、二男家佐多となり・・・

4 5 7 あたりにつながっていく。


池田系図ではひい祖父に島津斉興次男が養子。

佐多が島津だということ 
高岡のつながりから 出る話。

[37]さなえさんからのコメント(2011年04月18日 18時45分17秒 ) パスワード

さくらさんへ

私のコメント、質問の仕方がわるいのですが・・・いっぱい苗字が出てきてこんがらがり中です(混乱するの方言)。ちょっと、理解してないと思います。また、さくらさんの家系やお住まいの地域もよく分かっていないので、つながりにくいです。せっかくなのに、ごめんなさいね。もし、なにかピンときたらまた、コメントしますね。
[38]さくらさんからのコメント(2011年04月19日 18時53分19秒 ) パスワード

そう 私の家の方は おえらさんになる前の苗字なので よそとつきあわせるときは 資料がいるでしょうね。

富永は同級生に電話したら
川向こうの縄文時代の遺構 平家城遺構 相良氏外城遺構と遺構が重なっているらしい という地域にありました。

川辺という家もあり
初めて神をまつった というのが 地名の由来になっている。

こんがらかっての言葉は 私たちも使います。
河辺は 伊勢大宮司家のはず。
川のこちらの 小野というところに 宮田 松本 村山などの家があり 伊勢神宮社家の紹介があった本だったか ネットだったか で 同じ苗字の家を 見ました。

源平の頃 うちは 安徳帝を 西海におつれした 菊池の侍帳にのるので 平氏方らしい。富永はどちらか知らない。あくまで 私の家の動きです。以下も同じ。

南北朝期は 南朝方らしい。・・・上相良氏は護長親王が走ってきて勢いを盛り返し京にはせかえった。
下相良氏(人吉)は北朝方。福岡たたらの浜にも同族の相良氏がいた。たたらの浜へは 足利尊氏が走ってきて、勢いを盛り返し京へはせかえった。

この戦では 山田という地が 戦場に選ばれ、その頃で 400人位の死者がでた。このあたりの住民の数を考えると 相当な数。

一方 父方に見える 高岡は 
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子孫、高岡親王の子孫、高岡肥後の守貞望などの名がみえ、丹後男山におり、一色の陣代たり と 一色によっている。
高岡系図 池田系図 など参照

菊池と平氏の話は もっと 前、源平の頃なので 枝分かれした 同士に思える。

上相良氏(球磨・本来の本家がここにいた)の子孫がつかった苗字の家が近くにある。
相良氏は一子相伝だったので 藩主の子供に生まれても 時代をさがればただの人に。子孫は土地を開発して土着した。

関が原では 藩は 西軍。幕末には 幕府に味方したが いずれも 許された。西南の役では地域も二つに分かれて戦った。
700年間 藩は 一度のお国替えもなかった。
[39]さくらさんからのコメント(2011年04月19日 19時06分40秒 ) パスワード

武家家伝 富永氏で検索し その系図をみると
大友宿禰御行からはじまる系図と
近江富永氏系図があり、実吉(1394年生まれ)という人が

土肥富永氏系図の佐々木高綱子孫・高政という人の養子に入っている。
高政という人は 三河移住。

高岡系図でひくと 摂州多田院御家人 高岡系図 池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔 紀長谷雄 などあり... 記録によると、伊秩地区(窪田)において、暦応4年(1341)、佐々木高綱5代の 孫・佐々木備後守常宗が、足利尊氏の命によって、吉栗山に城櫓を・・・(佐田町誌)

と 隅さんへで調べた  伊秩城がでる。
[40]皆野さんからのコメント(2012年06月15日 20時10分34秒 ) パスワード

はじめまして私の苗字は皆野です。青森県むつ市在住です。むつ市の一部に集中しており皆親戚です。諏訪神党と関係があるのでしょうか?ルーツについてご存じの方がおりましたらお願いいたします。たぶんこの場所にしか無い苗字だと思います。お願いいたします。
[41]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年06月15日 20時47分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

皆野姓は信濃国皆野邑発祥で諏訪神家族。
後に武蔵国秩父郡皆野邑へ移動、地名を遷移されたものと思われます。
現在も埼玉県在住の皆野氏は、丸に立ち梶の葉を使用しています。
その後青森県に移動した事情は良く解りませんが、梶の葉系の家紋を用いていれば諏訪神家族と思われます。
祖については、下記URL参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02120a.htm
[42]皆野さんからのコメント(2012年06月17日 20時31分24秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
ありがとうございます。埼玉にも皆野姓があるんですね。前に祖父より少し聞いた記憶はあるのですね?昔祖父から先祖は武士で諏訪神党だみたいな話しが記憶はありましたが幼かったもんで。ありがとうございます。
[47]桑原さんからのコメント(2017年10月22日 15時05分20秒 ) パスワード

初めまして、私も桑原と申します(^^)。実は私の母が今年2月に94歳で亡くなりました。
私は家の都合で桑原性を引き継ぎこれからも桑原性を名乗る上で桑原の系図が気に成りお便りを致しました。

母の故郷は島根県の現在は吉鹿郡六日市町で生を受け嫁いで広島県の方で住んでおりました。

母の里は凄く田舎で現在では過疎の村に成っていて昔の事を知っている者もほとんど居ませんし桑原性は2軒しか有りませんでした。

私が子供心に覚えているのは母の父・僕のお爺さんが無くなって墓所に行ったとき本家の墓は5基ぐらいしか有りませんでした。

亡くなった母が言って居たのは4Kmほど離れた神社と遠縁に成ると聞き、またお爺さんは戦前・出雲大社で近衛兵をしていたと聞きました。

私の桑原はどの地区の出身でしょうか?知っている方が居れば教えて下さい。
宜しくお願い致します。






[48]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 03時45分16秒 ) パスワード

桑原さん

>私の桑原はどの地区の出身でしょうか?知っている方が居れば教えて下さい。

100%知らないのですが

まず
亡きお母さまから遡って除籍謄本を取得する。
取得理由は  母の供養に  親族を知りたい  でいいかも。
これには物凄い数の情報が入ってますよ。
ビックリするわよ。


とにかく明治の初めのご先祖さまが分かると良いですね。
小さな役場だったら公務員の方が親切に助けてくれるかも。


明治の初めは江戸時代に住んでいた所でしょうから
それでかなりの情報が得られます。


      今は過疎化していると言っても
      逆に
      ご先祖さまのお話が古老からたくさん聞けるかも。

          除籍謄本から名前や住所が分かったら
          話がはずむと思います。
          ただし、早くしないと皆さん鬼籍に入られますよ。



その次に

島根県吉鹿郡六日市町ということで鹿足郡吉賀町町役場に歴史編纂の六日市町ぶんの史料をお願いする

津和野藩の歴史を徹底的に読む


とにかく除籍謄本を徹底的に参考にして歴史系の書物を徹底的に読むことです。
そうしますと
知らなかったご先祖さまのことがたくさん分かりますよ。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%A1%91%E5%8E%9F

【名字】桑原
【読み】くわはら,くわばら,くわばわ,くはばら,くはら
【全国順位】 204位
【全国人数】 およそ105,000人     って、ことは結構普通に多い名字ですね
                   特に島根県・岐阜・山梨・新潟・山口・広島に多いですね。


現奈良県である大和国葛下郡桑原郷が起源(ルーツ)である、新羅帰化族。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家、
菅原氏、
越智氏(物部氏の子孫)などにもみられる。

桑の広がる原野や広い地域が語源。


想像としては
お祖父さまが近衛軍にいて出雲大社で近衛兵をなさってたということで  ご先祖が出雲大社と関係があるのかもね。


出雲大社と大昔に関係があったかも知れないしね。


桑原さんということで養蚕とか織物と関係があったかも知れないし
布を織って出雲大社に奉納する家だったかも知れないし。


アレコレいろいろ読んだり見たりしていると  向うから  情報が降って来ますよ。

頑張ってね。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 04時34分20秒 ) パスワード

関係無いけど
もしかしたら、ということでご紹介:

http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1001000003244/simple/gekidounobakumatutohamadahan.pdf

こちらは  浜田藩  ですが。
浜田市教育委員会の編纂したもの。



ワタクシ事になりますが
幕末の浜田藩は
尾張藩の美濃国にあった飛び地・高須藩から養子が行ったのです。

     この人の兄弟は幕末に必ず名前の出る会津の殿様とか桑名の殿様などがいます。尾張藩主も。一橋家にも養子に行ってるし。


で、この高須家とちょっと大いに関係のあったうちのホンヤさんの話では
「この付近の名家って言うと  桑X家」 と言ってたのです。
桑山だったか桑原だったか忘れてしまいました。

人間は動くから
どこで、どう、どこに、動いたか?
辿るのはもの凄く難しい作業なわけですが

ひょっとすると浜田藩も調べた方がいいかも、と思ったのです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%AD%A6%E6%88%90

松平 武成(まつだいら たけなり / たけしげ)
石見浜田藩の第3代藩主。
越智松平家7代。


美濃高須藩主松平義建の三男。
母は徳川治紀の娘。      水戸の殿様の娘です。
正室は田安斉匡の娘。     つまり吉宗の次男の子孫。
官位は従五位下、右近将監。


尾張藩主徳川慶勝の同母弟で、
一橋徳川家当主徳川茂徳、
会津藩主松平容保、      この人の弟は戊辰戦争で戦死
桑名藩主松平定敬、
高須藩主松平義勇の兄に当たる。



天保13年(1842年)、先代藩主の松平武揚(血統上は母方の従弟にあたる)が早世したため、その跡を継ぐ。

藩財政再建のために天保14年(1843年)より倹約令を出し、
さらに弘化3年(1846年)には横井小楠の意見を用いて
山林の藩経営化や瓦・陶器の製造、養蚕業や製鉄業、製糸業、鉱山開発などの産業奨励に尽力することで藩政再建を目指したが、
弘化4年(1847年)9月20日に23歳で早世した。

跡を養嗣子(武揚と同じく母方の従弟にあたる)の武聰が継いだ。     徳川慶喜の弟です
法号は鋭岳大憲院。墓所は東京都荒川区東日暮里の善性寺。



島根県の県庁所在地は松江市でしょ?
これは幕末の時に佐幕系だったから。要するに新政府の敵だったから。


官軍というか新政府軍に味方した県は県名と県庁所在地名が同じでしょ?
それで佐幕だったところはわざわざ誰も知らないような地名を持って来たのです。

例えば石川県の石川なんて地名は誰も知らないような場所。
こうやって新政府はイジメをやってたのよね。

逆に
静岡は徳川慶喜が江戸から引っ越した「駿河府中藩(駿府藩)」で
県名や県庁所在地に「府中」を使っては「フチュウ者」(不忠)になってしまうでしょ?
それで泣きついて「静岡県静岡市」になりました。
もうしっかり明治政府にゴマ摺ったわけです。

ま、お蔭で静岡出身者は軍隊で余分に殴られずに済んだわけです。
足利出身の兵隊は足利出身というだけで殴られたそうですよ。
       明治政府お気に入りの日本一の忠義の武士・楠木正成の敵の足利尊氏の出身地ですからね。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 04時38分53秒 ) パスワード

http://www.tsuwano.net/www/contents/1365480453388/files/2syou_001.pdf

津和野のお話です。



ここから引っ張って来ました:

http://www.google.com/search?q=%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E8%97%A9%E3%80%80%E6%A1%91%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E8%97%A9%E3%80%80%E6%A1%91%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...8459.17848.0.18500.29.29.0.0.0.0.270.3590.0j18j4.22.0....0...1.1j4.64.psy-ab..10.7.1256...0i4k1j0i7i4i30k1j0i7i4i10i30k1j0i7i30k1j0i4i30k1.0.3rFuylv6Q1Y

その中の
www.tsuwano.net/www/contents/1365480453388/.../2syou_001.pd...

藩校養老館(島根県史跡:安政3年(1856)建築の津和野藩の武術. 場。間口24 間半、 .... とめてきた桑原家に所蔵されている『由緒書調』(江. 戸末期)によると、室町時代 ...


         桑原家って?
         ということで引っ張って来ました。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.