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 投稿番号:101221 投稿日:2011年03月28日 23時22分52秒  パスワード
 お名前:さくら
虎踊りでつながる話
キーワード:佐田 佐多 島津 田代 初神の虎踊り
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

島津氏について語り合うより少しいただきました。

鹿児島県史料旧記雑禄拾遺諸氏系譜二…佐多氏(島津家の分家と認められた家のみ記載)これは秀逸です。
鹿児島県史料集6 諸家大概・御家譜
鹿児島県史料集13 本藩人物誌…戦国期〜江戸初期まで

鹿児島県史料とは別です。史料は黎明館刊行で史料集は図書館刊行?
知覧文化13号 佐多家文書(佐多直忠様所蔵系譜…上郡上薗佐多家)
知覧文化18号 門−武家屋敷の門と通り−…各屋敷の門の写真集
       有馬純正筆佐多氏系譜…総領家がほとんど(忠光系の分家一部記載あり)
知覧文化20号 本藩人物誌所収佐多氏系譜…鹿児島県史料集の内容を
                    現代語訳したもの
知覧文化23号 内屋敷平山家文書…佐多(達山)氏と姻戚関係の記載あり
知覧文化25号 佐多忠光関係史料について(初代についての考察)
知覧文化28号 佐多式部少輔久治家文書…佐多毅様所蔵文書(中郡平屋敷佐多家)
知覧文化35号 佐多氏系譜公後編…総領家がほとんど(久峰系の分家)
知覧郷土誌 昭和37年刊行・昭和57年刊行・平成15年刊行?
      郷土誌の57年と15年はほぼ同じ内容です。
薩陽武鑑(雑誌扱い)総領の略系図と家紋あり(十字変形紋と牡丹紋と七銀杏紋)
日本家紋総鑑?…国会図書館の棚においてあります。佐多家の七銀杏紋記載あり

佐多氏は総領家を含めて藤原姓島津氏族佐多氏庶流○○となっています。本家が島津氏を名乗るようになってから、二男家佐多となり、その中から由緒の無い家が達山氏となり、通字が本家のみ久を名乗り、二男以下は直を通字としています。(忠・久は島津忠久からきています。直は二代忠直からとっているものと思われます)
島津光久公以降に分家した家が源姓となっているようです。(一部源姓を認められた家もありますが)
分家の家紋は主に銀杏紋が用いられ、三だったり、二や五、七のものもあるようです。投稿者の家は三つ銀杏紋です。

[1]さくらさんからのコメント(2011年03月28日 23時26分26秒 ) パスワード

鹿児島県史料に旧記雑禄拾遺というのがあり、諸氏系譜二に佐多氏の系譜(系図みたいなもの)が詳しく記載されています。だいたい1700年まで記載されています。初代佐多忠光が南北朝時代から記載されていますので、700年くらいの歴史があります。(二十一家ほどあり)私の家は除籍簿や知覧郷土誌などで五代前まで辿れています。あと二〜三代わかれば諸氏系譜のところと繋がります。その他では、知覧文化(知覧町刊行)という小冊子(国会図書館では雑誌扱いです)があります。諸氏系譜や郷土誌などに由緒無き陪臣は達山姓を名乗るように命じられまして、1700年初頭から達山氏を名乗っていました。達山の位牌があったそうです。江戸末期には佐多姓が七家、達山姓が三六〜三七家ほどあったそうです。その他の一族には伊佐敷氏も数家ありました。佐多姓の家は佐多美舟様と佐多直忠様で武家屋敷の中では最上級の郷士で役人(町長代理、町長は領主であり総領の知覧島津家)をしていたそうです。明治七年に壬申戸籍により佐多姓へ復姓しました。興味があれば調べてみてください。
PS:東別府であればかなり近い親類かもしれませんね。加治佐も頴娃に近いはずれで今は東別府という字ですので。

文中 私とあるのは 投稿者。
[2]さくらさんからのコメント(2011年03月28日 23時34分00秒 ) パスワード

武家家伝_頴娃氏より

伴氏流肝付氏族
寛仁三年(1019)の「刀伊の乱」に活躍した武士に平為賢が知られる。この為賢の一族に九州総追捕使を務めた伊佐平次がいて、その子孫から川辺氏・給黎氏・薩摩氏・別府氏・揖宿氏・知覧氏・阿多氏など、伊佐平氏と呼ばれる一族が派生した。頴娃氏もその一つで、建久八年(1197)頴娃郡荘園五十七町歩の下司として頴娃平太が見える。この頴娃氏は戦国時代の伴姓頴娃氏と区別して、平姓頴娃氏と呼ばれる。
 平姓頴娃氏は頴娃古城を拠点として室町時代に至ったが、応永二十五年(1418)、島津元久と戦い敗れて滅亡し、頴娃地方は島津久豊の領する所となった。その後、元久が死去したため、久豊が島津氏の家督を継承すると、久豊の養子の肝付兼政(忠重)が頴娃地方の領主となった。これが伴姓頴娃氏の始まりである。
[3]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 00時10分05秒 ) パスワード

秋篠宮妃殿下・紀子さまの母方の系に服部家があり、明子さんがよく秋篠宮殿下のお話をだされていることとつうじているのか?と思います。

同じく杉本家がある。私の父方の家があった集落にも杉本家がある。
ここのお母さん(故人)は 肩がこるとよく肩を切り コップをあたためて血を吸い出していた。これは 蒙古で行われているやり方なのだ と 本に書いてあった。

杉本という姓は 源氏 平氏 藤原氏 伊予橘氏竜といろいろある。

楠木正成の一族にも杉本氏が確認される。本姓は伊予橘氏(越智氏一族)。家系は河野氏の一族である橘遠保の流れを汲むという。『若狭小浜杉本院系図』に曰く、楠木正隆の子 楠木俊親に杉本貞隆という子がいたという。貞隆は右衛門尉と称され丹波国杉本に生まれ世に杉本殿と称されたという。家系は

杉本貞隆−杉本貞俊−杉本俊胤−杉本諸正−杉本正胤−杉本委正−杉本信貴−杉本盛長−杉本良海

と続いた。




[4]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 01時21分32秒 ) パスワード

紀子妃殿下のごきょうだい・舟氏と相馬中村神社宮司・田代誠信の長女で禰宜(ねぎ)の田代麻紗美さんと結婚。

この田代氏と 島津氏はつながらないのかも知れないけど 田代という言葉だけから
虎踊りに関与する丸目新八郎の上役は相良清兵衛。 
相良清兵衛(犬童清兵衛)は相良家家老。
•犬童清兵衛頼兄
犬童頼兄(相良清兵衛)
父は犬童頼安。子は相良頼安


犬童頼兄のお嫁さん
ひとり目は、椎葉山(しいばやま)の権力者、那須弾正の娘・露袈裟(今朝・つゆけさ)
ふたり目のお嫁さんの名前は分かりませんが、夫の名前は蓑田甚兵衛と言いました。すでに息子がおり田代半兵衛頼昌と言い、母の再嫁後は犬童家の養子になりました。

あさぎり町深田東、内山地区にある内山観音堂にまつわる「千手の局(つぼね)の伝説

室町時代に下相良氏に滅ぼされた上相良氏(多良木)の分家の肥知岡(ひぢおか)氏の出といわれます。
その氏の娘が島津家家老本田丹波守親泰(たんばのかみちかやす)という人に嫁いで娘を産んだらしいのです。これが「千手の局」というわけです。

「千手の局」(島津家久の母)は、薩摩の当地では「橘姫」「少納言」の尊称でよばれていて、没年はわかりませんが、鹿児島県伊集院町の破鞋庵(はけあん)跡というところに「貴久後室花室清忻大姉(たかひさのこうしつのかしつせいきんだいし)」という人の墓が残っており、これが地元では肥知岡氏女(うじめ)の墓といわれています。

戦国大名の島津貴久公の四男家久を産んだとされる「千手の局」。
家久公の娘は、相良家の重臣相良清兵衛頼兄の息子の相良頼安(よりやす)と再婚し相良頼章(よりあき)を産んだといいます。その頼章は薩摩の加治木に移り住み、島津義弘により元服し、相良長毎の次女・於(お)萬(まん)と結婚しています。
[5]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 01時52分00秒 ) パスワード

島津家久女(島津久信室 後 相良頼安室)

誕生。父・島津家久、母・樺山善久女

長女は禰寝重張にとつぐ。
次女は次女(佐多久慶室)に嫁ぐ。
三女は(島津久信 後 相良頼安室)。

「千手の局」は「御家譜」(16代義久公)の張紙注記によると、彼女は実は本田丹後守親安なる武将の娘だったが、父が戦死し、母の実家で育ったために「肥知岡氏」を称するようになったという。
[6]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 02時14分46秒 ) パスワード

2の頴娃氏
島津氏について語り合う より
「伴姓頴娃氏正統系図及び頴娃氏文書について」鹿児島県立図書館で図書館中をひっくり返して(?)探してもらった頴娃氏の系譜が到着しました。

正式名称は「頴娃家由緒 并 系譜」。

とすれば頴娃はもとは 井 だった?

井について 斉系辞典は 井手(井出) 井伊などあり 
井伊は井手で 本姓は 「余」とある。

余は扶余の余だと。扶余をたどりたどっていけば 「周」にいきつく。

また 相良氏は 十津川あたりで 井手と行動をともに している。 
[7]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 02時38分29秒 ) パスワード

田代という集落は 私の父方の家があった隣の集落にあり、虎踊りは川向の集落にある。

父方は丸目という家と姻戚関係があるが 田代という家はその集落になく 田代という家との姻戚関係はないので なかなか わかりにくいのだが、

橘薩摩氏と相良氏は仲がよく どこへでもいっしょに行った。相良氏の本系は山井を名乗り 今世代では 私の家の関係は 高岡女子の母方が 「山井」で、その女子は「高橋」に嫁いでいる。

川は 川辺川だが 
 神名式
  多神社 多坐弥志理都比古神社 二座
        四皇子社
          皇子神命神社
          姫皇子神社
          小社神命神社
          尾就神命神社  大社皇子神

天平2年大和国大税帳
多神宮 注進状
     大宮 二座  
       珍子賢津日霊神尊  皇像瓊玉に坐す。
       天祖 聖津日霊神尊 神物円鏡に座す。
     若宮 四坐
       彦皇子神社
       皇孫 日火霊神尊
       姫皇子神社
       天媛日火霊神尊
     樹森神社
       瓊玉戈神尊
     日月神社
       火瓊神尊
     若宮二社
       子部神社  皇弟 天火子日命  神像統玉に座す。
       子部神社  皇弟 天火子根命  同上
     己上は 意富郷にあり、多朝臣 禰宜たり。肥直 祝部たり。
    外宮 
     日原神社
       天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
       皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
     己上神社   川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。
     若宮一座
       天孫 国照火明命 神像竹箸に座す。
 摂社一座                                                (官社に非ず)八剱神社
          出雲速蛇建雄命  神像横刀に座主す。
          己上神社 は 川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。

大和国と九州と離れているけど 川辺の言葉が出る。
 己上は 意富郷にあり、多朝臣 禰宜たり。肥直 祝部たり。
 己上神社   川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。
 己上神社 は 川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。

 寛仁三年(1019)の「刀伊の乱」に活躍した武士に平為賢が知られる。この為賢の一族に九州総追捕使を務めた伊佐平次がいて、その子孫から川辺氏・給黎氏・薩摩氏・別府氏・揖宿氏・知覧氏・阿多氏など、伊佐平氏と呼ばれる一族が派生した。頴娃氏もその一つで、建久八年(1197)頴娃郡荘園五十七町歩の下司として頴娃平太が見える。この頴娃氏は戦国時代の伴姓頴娃氏と区別して、平姓頴娃氏と呼ばれる。

はるか昔にあった言葉が歴史をおりてくると 源平藤橘のなかにみられる。
川向こうの平家城があったところも 縄文時代 平家 相良氏外城と 遺構が重なっているようだ という。



[8]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 22時02分54秒 ) パスワード

正月頃から高岡女子(よく文中に出る私のいとこ半)が弟の還暦祝いをするといって 来阪の計画をたて 私の家にとまるといってきたので わらわらと準備をしていました。うちはバブルの絶頂期に家を建てたので 狭く お客様を呼んだことがなかったので やっと 準備が出来 用意万端よーっと思っていたところに 今回の地震で ・・・彼女から 旅行の費用に積み立てたお金を義援金に差し出し はではでしい 祝いは とりやめた といってきました。

本当に被災されたかたがたの ご苦労ご無念。胸がつぶれそうです。

週刊誌ですが 
相馬神社に関係する馬が 原発のことで 避難しようにも 農家の方などが飼っておられるので そうそううまくいかない

お知り合いの湘南ワールドの方が 飼料をとどけて くださった と 載っていました。湘南ワールドにいる国民犬のお父さん犬・カイ君も一緒に行って載っており 心温まることでした。

反面 マッサージに行ったら 
水がネット上でばかばかしい値段で取引されており、便乗して近くの湧き水をペットボトルにつめ 一箱 20万位で 売ってこようかと マッサージ師が言っているのを聞いて 
ああーと ため息が出る思いでした。
いくら 資本主義の国だから といって ・・・余りにものもうけ主義では・・・

地震では 仙台もひどくやられたのだけど 伊達氏は伊佐氏。魚名流山陰中納言の子孫といい 大友氏 四条などと 同流。

字はきをつけているのだけど 投稿して載るときにかわるのか 時々 違う字に変換されています。前後で 判読してください。


[9]さくらさんからのコメント(2011年03月29日 23時36分44秒 ) パスワード

6より
井伊は井桁橘紋をつかう。この紋は 延暦寺と仲がよく その紋をつかうようになった ということを聞いたことがあるが、橘紋は橘氏が有名。
又 扶余は 「鹿」を 意味するという。鹿といえば 「鹿島神宮」を思い出す。鹿島神宮に関与する人は 「藤原鎌足」。

橘氏 は 母方に 神魂尊がいる。父方は たどれば天皇家。神魂尊を祖にするのは 「猿田彦」もそうで猿田彦も同族になる。

神魂尊が「き姓」だったことは 知られている。又 101216 平家落人の里・五木村の豆腐の味噌漬け より
紀 伴(大伴氏) 平氏と出る。
神魂尊の宮を「大庭の宮」といい 「大庭」は平氏に関与した。

こやま家がある集落は 北岳神社に関与する。北岳神社(坂本大名神)は近江日枝社の末社。大和三輪神社を勧請したもの。祭神「大国主・大物主」。日枝社の山上には それより先に 「大山咋神」が 祀られていた。

小山(こやま)と発音するとき 橘嘉智子が出る。

北岳神社 市房神宮 青井阿蘇神社は 大同年間に建てられている。つまり源平以前に 人がいた。又 川向こうの平家城があったあたり 相良の外城 縄文時代と 遺構が重なっているようだという。

扶余をたどりたどれば周に行き着くが
扶余王・依羅(イリ)
『渤海国・国書』
渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。

依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。


この記述の信憑性はともかく、名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。第10代の崇神天皇だろうと推察される。
崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。
『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。
           
扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃である。
[10]さくらさんからのコメント(2011年03月30日 02時58分08秒 ) パスワード

扶余伝
国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を好んで着る。大人は狐狸、狖白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。
兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である。
国の古老は昔の亡命者だと自称する。
扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

周の枝分かれが「燕」(公孫氏)


古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である

@ 魏略曰:其國殷富、自先世以來、未嘗破壞。

 A 魏略曰:舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙嘘之、徙至馬閑、馬以氣嘘之、不死。王疑以為天子也、乃令其母收畜之、名曰東明、常令牧馬。東明善射、王恐奪其國也、欲殺之。東明走、南至施掩水、以弓撃水、魚鱉浮為橋、東明得度、魚鱉乃解散、追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。(訳文は、三国神話の扶余を参照されたい)

扶余などの王族には「解」姓が多く見られるが、「解」は朝鮮語で太陽・日の意とされる。

深見(深水)は 渤海の呼び名である。
川筋の下流は 深水集落で、田代 深水は もと 阿蘇氏家臣のち相良氏に仕えた。

私の母が故人になったとき 「和徳」と つけてくださり、それは崇神天皇の子供から出る。

桓武天皇の母・高野新笠と同族だという。彼女は百済武寧王の血を引いており、百済は高句麗の王族が建てた国で 高句麗と同じく扶余を祖とする。

神武天皇以来 母系。男の人が王位についても その血には母方の血がはいっており ばらばらに出る系もひとつである。

風土記は母系を 国造本紀は父系を書いているとも・・・


★殷の箕子が周武によって朝鮮に封じられた。箕子に従っていた人の大半が扶余になった。
箕子には 秦も たよってきた。

殷の微子啓が周武によって 「宋」に封じられ、 殷王朝の祭祀を続けた。
その子孫に「雀」。

荒木田家伝承では 故郷「青州」を 発って 韓をとおり 九州に来たという。

青州・山西省  5〜6世紀 北魏時代頃に現在地に移ったという平遥は、切妻両流れ屋根としたものが多く、美しい彫刻飾りが特徴だ。

山西という場合に、「箕」と同音(ji)で四声が異なる「冀」の地、山西省西南部の★河津市★の一帯も興味深い。この地は、太原を流れる汾河の下流で、それが黄河と合流する地の三角州にあり、近隣に稷山・通化・解店・太陽村という地名が見えるからである。★晋には姫姓解氏★もあり、晋の初祖・唐叔虞の 子の良が解(解池の付近)を采邑としたことに因むが、前掲の箕鄭とほぼ同時期の人で、少し遅れて『左氏伝』に登場する解揚という者もいる。
 
河津県の黄河対岸にあたる西側は陝西省韓城県であるが、この地は往時、韓原といい、姫姓の晋の公族(桓叔の子の武子万の後)から出たという戦国七雄の一、韓の王室の故地であった。これらの事情から推すると、箕子の故地ないし関係地は河津・韓城の辺りではなかったろうか。箕伯とは風伯・風の神の意味とされるから、箕氏は鍛冶氏族であったものか。これに関して、檀君が太白山に天降りしたとき風伯・雨師・雲師等を伴ったという檀君神話も想起される。「箕」は周王室の姫姓の姫と同音(ji)かつ同声であるが、冀氏も晋公族郤氏の支流や唐堯の後に見え、★後者の郡望は渤海(河北省滄県)★とされる。

河津は 川津。私の母に「和徳」とつけてくださったお寺様。川津姫は磯城に同じ。磯城は 佐田・中原(鴨王・十市)

笹井は西園寺・福島大神宮宮司。
高槻の笹井家住宅は 屋根のつくりが古墳時代の神社の本殿と同じだから市の重要文化財になっており、亀岡に通じているという。

亀岡には 出雲大神宮があり ここから 大国主だけ 出雲に移され 「出雲大社」に なった。主祭神 高御魂巣日神の娘・三穂津姫 

春秋時代
その名高いものをあげると,晋の六卿といわれる家柄を構成した先氏・狐氏・欒氏・郤氏・荀氏(知氏・中行氏)・范氏(士氏)・逍氏・韓氏・魏氏など,
            
斉では国氏・「高氏」・鮑千・「崔氏」・慶氏・「陳(田)氏」など,
          」  
楚では闘氏・成氏・薦(エン※注9※氏) ...

昔、まだ新羅が辰韓と呼ばれていた頃、辰韓(慶尚北道の慶州府)には楊山村、高墟村、大樹村、珍支村、加里村、高耶村の六村があった。

● 六村の村長は皆が天から山に降りてきた神人で、後に李・「崔」・「孫」・鄭・薛・裴の六姓の祖となる

新羅の王は もと 百済の人。
高句麗は 周の弟から 出ていた。

奈良時代の「日本書紀」の講義中の質問に、皇室の姓は「姫」氏であると講師が答えている。
周の武王の弟、康叔封→晋 → 魏 趙 韓 → 韓から高句麗→高句麗は「高氏」

百済氏=東漢氏=坂上氏
『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。

荒木田家嫡流では一書に「崇神天皇」を漢の高祖の子孫とするものがある。
又 一書に 漢の鉄官の子孫とするものがある。

私のうちのつながりで はっきりしていることは 父方 母方からは古い時代のことがでること 

それは 持っている神社 や 踊りなどにも あらわれていること などである。昔 昔 先祖がいたから 私がいるのだから・・・

   
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