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 投稿番号:101217 投稿日:2011年02月19日 02時20分28秒  パスワード
 お名前:さくら
球磨郡 の 採物舞 と 出雲 の 佐田神社
キーワード:採物舞 出雲 佐田神社
コメントの種類 :その他  パスワード

「球磨神楽」(民俗芸能)
これは球磨郡にのみ伝承される神楽であり、採物舞で古風である。
また、神楽歌には古い歌が多い。他に同類を見ない独特の神楽である。

国選択無形民俗文化財
球磨神楽      (昭和57年12月21日国選択)
球磨神楽は、人吉球磨地方の各神社の祭礼などで演じられてきた舞で、
その起源は明らかではありません。「南藤蔓綿録(なんとうまんめんろく)」によれば、
文明4年(1472年)に雨乞い祈願のため、藩主相良為続(さがらためつぐ)が青井阿蘇神社に奉納したと記されていて、人吉球磨地方で神楽が行われたという.
現存する一番古い記録です。そして、天文9年の疫病流行の際には、
青井阿蘇神社で数百番の神楽を納めたことなども記されています。
特色は、採物舞を主とした祈祷の舞で独特な獅子舞を伴い、また仮面は使わず順逆順に回り、足拍子を軽快に踏むことなどで、近隣の宮崎県の神楽とは少し異なっています。

[1]さくらさんからのコメント(2011年02月19日 02時22分02秒 ) パスワード

佐田神社と石見神楽
この採物神楽は出雲の佐陀神社の御座替神事における七座の
採物舞と神能(仮面の舞)に代表されることから出雲神楽といわれる。
そして 佐田神社が 八百萬の神々の 母神の イザナミの 
大本神社。 この出雲神楽が広まって石州に入り、
石見独特の神楽(俗に石州舞)を形成したといわれる。

[2]さくらさんからのコメント(2011年02月19日 03時05分42秒 ) パスワード

岡山の神楽
出雲から 舞う人が来るといい、松尾氏だという。

松尾という言葉からは(松尾は松尾大社・スサノオ系の大山咋神・京都賀茂神社のお父様)

ちなみに 川辺川筋に 「雨宮神社」がある。相良為続の雨乞い祈願の話がある。

この神社の祭神は 京都鞍馬の祭神と同じとされる。


平成20年6月9日(月)人吉青井阿蘇神社が国宝になった。
[3]さくらさんからのコメント(2011年02月20日 23時28分57秒 ) パスワード

猿田彦は全国の警察の守護神である。丹後籠神社の秘神とされ、配神は「弁財天」。
出雲佐田神社は出雲大社と同じく「神在祭り」を行う。この神在まつりの時は、住吉の神が海上警護をした。
「佐田神社」は毛利元就が崇敬した。
出雲佐田神社の本殿は、大社造りの3つの建物が並立する、きわめて珍しい形です。
    
佐田神社は いざなみ を 祀る 大本の神社。
佐田神社」にまつられる 猿田彦は 祖を 「神魂神」。
[4]さくらさんからのコメント(2011年02月20日 23時31分22秒 ) パスワード

三重県の猿田彦神社
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、三重県伊勢市の伊勢神宮内宮の近くにある神社である。猿田彦大神と、その子孫の大田命を祭神とする。旧社格は無格社(社格がないという意味ではなく「無格社」という社格)で、第二次大戦後は別表神社となった。・・・

本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造である。欄干や鳥居には八角形の柱が使用されている。・・・

[5]さくらさんからのコメント(2011年02月20日 23時32分48秒 ) パスワード

境内には、天降りの際に猿田彦神と応対した天宇受売命を祀る佐瑠女神社(さるめじんじゃ)が猿田彦神社の本殿に向かい合うように建っており、芸能の神として信仰されている。全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」は鈴鹿市の椿大神社ということになっている(昭和10年内務省神社局調査)。

椿大神社の宮司は山本という姓で、猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじとこ)という姓である。
[6]さくらさんからのコメント(2011年02月20日 23時35分17秒 ) パスワード

私の母方「佐田」の祖母は「山本」という家の人といとこどおし。母によれば濃いつながりの家。

山口県にあった。
[7]さくらさんからのコメント(2011年02月22日 23時36分28秒 ) パスワード

伊勢の国度会郡に狭田国生神社あり。又 出雲などにこの地名存す。 
@(有)狭田氏ありさだし 条
【延喜式神名帳】国生神社くなり神社 伊勢国 多気郡鎮座
【祭神】倉稲魂命・須佐之男命
     倉稲魂命の別称は 宇迦之御魂神系譜:素盞鳴尊の子。秦氏の氏神

素盞鳴命神社 (明星神社)
明星神社は 北斗七星に関与する。

大国主に関与する神社は 屋根がそっている。
国生神社はどちらも屋根がまっすぐ。
[8]さくらさんからのコメント(2011年02月22日 23時40分10秒 ) パスワード

佐田には あり条を見よ ともあり
有条に 出雲の古族。出雲氏の族か?
 出雲国賑給歴名帳
 「日置郷有臣乙麻呂、外一人」
阿利
 記述なし
日置は 比企に 通ずる。比企は阿保に通ず。阿保は安倍に通ず。
安倍は磐井に関与している。
[9]さくらさんからのコメント(2011年02月22日 23時45分42秒 ) パスワード

 佐田 佐多 佐陀 定 貞 他 数条と 皆通ず
@ 佐太首  倭の漢 坂上氏の族
   坂上系図・阿智王に従い来た七姓の漢人の一つで、皀郭姓は佐太首祖。
   ※蹉跎突厥は 漢王室と姻戚関係を 持ち、漢王室滅亡後、「清」を 建てた。
又 唐王室とも 姻戚関係がある。
山城に住み、忌寸から 京師の宿禰になる。
後漢霊帝のひ孫・阿智王の末で、都賀直3世の孫・兎子直の後。
[10]さくらさんからのコメント(2011年02月22日 23時47分34秒 ) パスワード

風丹羽氏系図
    阿智王―高貴王―志拏直―兎子直(佐太祖)
続土記
 紀伊郡古佐田村条
 姓氏録に、佐太宿禰あり。坂上大宿禰の同祖なり。古城趾は慶賀野にあり。
      里人伝えて坂上某の城跡なり。
B 皇別 佐太忌寸 
      承和2年11月記 
東宮坊少属佐太忌寸道成、兄散位道継などに滋原宿禰と賜う。
      八多真人と同族也。で 応神天皇裔 息長氏の族という。

[11]さくらさんからのコメント(2011年02月22日 23時56分04秒 ) パスワード

★武内宿禰が富士山の神主を尋ね、秦人と知り合ったことを喜んで、子供の一人に「波多」と名づけた

A 阿波 狭田氏 
   名方郡天石門別八倉比売神社
   矢野村松尾大明神 神主に 狭田宮 大夫あり
    ・・・・・・・天石門別は高御産巣日神と神魂神との子孫で、ヤタガラスと同祖にあがる。

※ 島根県松江市[大庭町]
の神魂神社の神紋が 二重亀甲に 有の字。
祭神 いざなぎ いざなみ
  意宇六社の一社。意宇六社とは、神魂、熊野、揖夜、真名井、八重垣、六所神社。
当社本殿は、室町時代のもので、最古の大社造。国宝に指定されている。
[12]さくらさんからのコメント(2011年02月22日 23時59分06秒 ) パスワード

備中神楽、
大蛇退治大蛇に飲ませるどぶろくを、[松尾大明神](まつのうだいみょうじん) とむろお明神、きなたま明神がつくる。 備中神楽の中でも最高の名場面です。2の岡山神楽で出雲から松尾氏が来て舞う。

松尾は京都松尾大社があり、大山咋神をまつる。京都賀茂神社のお父様。

[13]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時09分02秒 ) パスワード

備中神楽、
大蛇退治大蛇に飲ませるどぶろくを、[松尾大明神](まつのうだいみょうじん) とむろお明神、きなたま明神がつくる。 備中神楽の中でも最高の名場面です。2の岡山神楽で出雲から松尾氏が来て舞う。

松尾は京都松尾大社があり、大山咋神をまつる。京都賀茂神社のお父様。

[14]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時14分54秒 ) パスワード

11の大庭の言葉は平氏からも出る。

「神魂神社」紋 二重亀甲に有
現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのものである。寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見える。

熊野には イザナミの花の窟戸がある。
有馬の地である。有つながり。



[15]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時17分25秒 ) パスワード

倥陀
  出雲国秋鹿郡にあり。
  風土記には 佐太郷とのせ、佐太大神社を挙ぐ。
当社は貞観記に倥陀神。
神名帳には倥陀神社とあり、又
風土記意冨郡国引きの条には 「狭田の国 云々」とみゆ。
後世 倥陀の庄といい、又 伯耆会見郡に倥陀邑あり。
[16]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時23分25秒 ) パスワード

 出雲 佐陀神社あり

「佐太神社」は『出雲風土記』に、佐太大神、また佐太御子神とみえ、
神名火山のふもとにあると記されている。

朝日山の麓から銅鐸が出土した。
出雲の銅鐸で出土が明確なものの一つである。
この銅鐸の出土から、佐太神社の周辺にははやくから農耕が芽生えていたことがうかがえる。

正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。
[17]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時24分48秒 ) パスワード

従来、当社が「秘説」としてきた主祭神「猿田彦命」を、
明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。
折衝の末、「佐太御子大神」と明示することとなった。
猿田彦につき、元伊勢の丹後籠神社も秘神として「猿田彦」を祭り、その配神は「弁財天」。

現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。
猿田彦は インドの青面金剛である。又 沖縄では 「サダルビコ」と呼ばれる。
佐田神社も 鹿島町にあり、常陸の「鹿島神宮」に つながる 地名である。
[18]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時26分47秒 ) パスワード

社名の変遷
『出雲国風土記』秋鹿郡条に「佐太御子社」と記載されている。
延喜式神名帳には「佐陀神社」と記載されている。
中世に入ると「佐陀大明神」とか「佐陀大社」、「佐陀三社大明神」などと呼ばれるようになった。明治に入り現在の「佐太神社」に改称した。
   所在地 島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
祭神 正殿 :佐太御子大神
北殿: 天照大神
南殿: 素盞鳴尊
[19]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時32分00秒 ) パスワード

佐陀神社も出雲大社より古くからある神社です。
その中でも佐太神社の神在祭は文献上もっとも古くから執り行われており、且つ祭の次第も約500年前の記録とほぼ同じ内容で執り行われています。

他では祭の内容が著しく変化したり、わからなくなったものもあるようですが今も変わらず『いにしえの祭り』を受け伝えている点で宗教学・民俗学等からも注目されています。
[20]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 00時35分33秒 ) パスワード

稲毛浅間神社
祭神 :木花咲耶姫命、瓊々杵命、猿田彦命。 本殿: 流造4坪、南西。 神紋:九曜。 千木:。平城・大同3(808)5/30、富士山本宮浅間神社より勧請と伝わる。
出雲・佐陀神社(島根県鹿島町)の神能を母胎としその影響は面の造形に多く残されている。
[21]さくらさんからのコメント(2011年02月23日 23時59分02秒 ) パスワード

島津家臣。
[佐多忠和] 佐多家7代当主。忠山の子。伯耆守と称した。佐多家は島津家4代当主・忠宗の三男・忠光を始祖とする。大隅国大隅郡「佐多邑」を領したことに始まる。島津も細川も「サダ」である と 書いてある本を読んだことがある。

武家家伝 佐多氏を検索すると「禰寝氏 」が出る。家紋が違うけど 前にしらべたとき 佐田 武田からは建部が出て、坊津が出て 平氏の本拠地 と 書いてあった。建部も繋がって出てきていた。

この「禰寝氏」が 二十四代清香のとき、姓を小松と改めている。禰寝氏初代の清重は高清の子、つまり平清盛の子重盛の孫とし、重盛が小松殿と呼ばれたことから、禰寝氏本宗は小松を称するようになったのだという。清香は禰寝氏の祖先に多大な関心を寄せ、先祖の墓を整備したり、平家に因む家紋を定めたりしたと伝わる。幕末に活躍した小松帯刀清康はこの末である。 
[22]さくらさんからのコメント(2011年02月24日 00時03分47秒 ) パスワード

系図はヤマトタケルから と 平貞盛からとおりてきて平氏の男子とヤマトタケル系の女子と結婚している。

大伴武田の神が尾張熱田神宮にあり、竹田川辺のことばがある。
川辺の地 と 武田(竹田)。
[23]さくらさんからのコメント(2011年02月24日 00時21分31秒 ) パスワード

人吉地域に「益城」とあったところがあり、益城郡に関係するか?とある。
山口県史に 豊浦の人が尾張氏に「益城宿禰」の姓を与えた。とある。

広い範囲で川辺 佐田でつながってくる。
[24]志都見さんからのコメント(2013年01月04日 11時38分38秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年07月17日 01時43分37秒
[25]さくらさんからのコメント(2013年01月05日 22時30分34秒 ) パスワード

志都見様 あけましておめでとうございます。
貴重なコメントありがとうございます。

国生み神話に出るイザナミ。
キサガイヒメは佐田大神(猿田彦神)のお母様でもありますね。
大国主の薬を持ってきたきさがいひめ。この人が属していた一族がいろいろな生活の知恵を持っていたことが伺える話ですね。

私は父方で育ちましたが、山口出身の母から、小さい頃 怪我をしたら 蓬をつばで汁が出るまでもんで、貼り付けたらよいと教えられて、右足の親指の裏をガラスで2センチほど切ったときも、隣の子をおぶって田んぼのあぜの水路を飛び越えようとして、額を切ったときも蓬で自分でなおしました。

額には今も少し骨があたりますが・・・

今の親なら卒倒ものです。

ちなみにわたしの父方の親戚だった家は「市房神宮」のお鏡を預かっています。
市房神宮
霧島神宮(元の高千穂神宮)を久米城主・市房が勧請して建てた。天孫系の神社。

高千穂神宮は神楽が有名ですが、近くの「日の影神楽」が神宮の大事にしている神楽だとネットで見たことがあります。この神楽は祇園神楽でもあります。

佐田神社は「神在祭り」をしますね。そのとき住吉の神が海上警護にあたったということを本で見たことがあります。

出雲は日本の歴史の曙の頃の話が満載の土地ですね。

これからも出雲に関するお話をお願いします。

球磨郡にも球磨神楽で出雲につながるものがあり、古い時代への郷愁のようなものを感じます。
[26]志都見さんからのコメント(2013年01月06日 11時44分23秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年01月17日 02時21分34秒
[27]さくらさんからのコメント(2013年01月06日 23時15分07秒 ) パスワード

こんばんわ
>高千穂は、出雲族三輪氏の裔である三田井氏や大神氏が繁栄した
土地ですね。
そうです。高千穂というか 九州は尾方(大神)やサダが結構多いようです。
国宝になった人吉青井阿蘇神社があります。この神社は熊本阿蘇神社から尾方権助大神惟基が勧請した。
尾方=緒方=尾形 
市房神宮の宮司も尾方氏。

川辺川筋には小さいけど阿蘇神社があり、そこも宮司は尾方氏。
地域は八代だったり、宮崎だったりしています。

阿蘇神社は神武天皇の二郎の筋で、宇佐八幡阿蘇神社縁起では「高知尾明神」「阿蘇神社」「宇佐八幡」をきょうだい神として、高知尾明神を神武の二郎の子としている。



[28]さくらさんからのコメント(2013年01月07日 00時23分56秒 ) パスワード

>神功皇后
このかたの 子供が応神天皇ですね。宇佐八幡に祀られる。
皇后の夫が「仲哀天皇」で、ヤマトタケルの第二子。

川筋に「白鳥神社」があり、白鳥神社は大体ヤマトタケルをまつる。

又川は川辺川といいます。
川辺という言葉には、大伴武田の神。竹田川辺などの言葉があります。

太安万侶で有名な多氏が祀る神社では
外宮 日原神社
天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
己上神社   川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。
と高御産巣霊神尊に関して川辺の言葉がある。

出雲の氷川ですか?は肥川でもあるとかで、肥人は薩摩にも肥人がいたといい、肥・多は卑弥呼にもかんしているようです。

古代には土地の取り合いが生活に関係してくるわけで、勝った負けたなどということの目を奪われていては、筋道が見えなくなりますね。

今に私たちがいるのは そのまたご先祖様たちが生き残って命をつないでくれたからだし、サダという言葉でも古代につながるものがみえてきますので。

佐田神社は毛利元就も崇敬したそうです。



[29]さくらさんからのコメント(2013年01月09日 21時41分07秒 ) パスワード

>撞榊厳魂天疎向津姫命(あまさかるむかつひめ)とふりをうっている本もありましたが、
>出雲族の向家の姫という意味
向家はもしかして(しょう)という読みをしているのではないでしょうか?
[30]志都見さんからのコメント(2013年01月12日 01時06分26秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年01月19日 02時59分40秒
[31]志都見さんからのコメント(2013年01月12日 01時24分12秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年01月19日 02時56分57秒
[32]さくらさんからのコメント(2013年01月13日 22時56分41秒 ) パスワード

こんばんわ
たくさんの情報を有難うございます。

歴史の曙の頃 イザナギ・イザナミの国づくり イザナミの死後と伝える筑紫日向で生まれたイザナギの三貴子と住吉の神 神武天皇に至ったときは山の神・海の神などの勢力と結合しており、今風に言えば財産相続権の主張ともいえる大和への東還(侵攻とも)女性の系をみるとわかってくるものがあるようですね。
母方の筋の違いによりあらわれるものか?と思いますが・・・

出雲王朝
私は偽書とされている古史古伝もあわせみなければ古代の本当の姿はわからないと思っています。

たとえば「九鬼文書」などにかかれる出雲王朝や、
わが国は島国になったため古い頃の種がのこっていたようで この本ではキリストやモーゼ・仏陀なども枝分かれしたグループから出た人としているなど 遡れば古い頃の記憶をもっている。

>大伴姓は、実は出雲臣なんですよ。
大伴氏は「高皇産霊命」の子孫として姓系辞典などにありますね。

多氏(十市氏)中原系図で
事代主命の子の鴨王命から出る 十市氏(中原)系図
事代主の筋には
孝昭天皇の時の皇后の倭国 豊秋 狭太媛の頃 中原系図に 豊秋狭太彦 などがいる。

考昭天皇(観松彦香殖稲尊・御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)。皇后は『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。
『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。
なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、
磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、
第2の一書では、
倭國 豊秋 狭太媛の娘である大井媛。

高御産巣日神の 豊秋

豊秋 は 高御産巣日神の 女子で アマテラスの皇太子・天忍穂耳尊の皇后・豊秋津師姫も豊秋を 冠する。

栲幡千千姫命
古事記』では 萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、
『日本書紀』本文では 栲幡千千姫命、
一書では 栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、
天萬栲幡媛命(あめのよろづはたひめのみこと)、
栲幡千幡姫命
先代旧事本紀 伯家本 天神本紀 は 高皇産霊尊の女、天思兼神の妹、天美地甘萬旛豊秋津師栲旛千千姫

高御産巣日神と豊秋狭太彦

両者のつながりは 豊秋 だが
中原系図の中原は 豊前宇都宮流・佐田氏(藤原氏)も中原氏を称した。
藤原氏遠祖は 津速魂産巣日神であり
高御産巣日神と きょうだい。
また 佐田彦は 遠祖・神魂尊であり 藤原朝臣を名乗り、椿氏である。
大田亮氏姓系辞典では
橘氏条に 県犬養橘三千代が 橘氏を名乗るようになり、他の 橘氏は 椿など名を変えたとある。橘三千代の祖先も神魂神に行き着く。

以上は過去に私が調べたものですが、
倭であった人たちは 多分 卑弥呼の頃 侵攻を受けた。または海部氏が関与する人たちが受けた。
>富家の伝承では、神武天皇はいなかったと言って、
彦火明命の孫、海氏、(多氏、尾張氏は同族です)の天村雲命の事としている。

>『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛
推考が入りますが、瀛は秦の姓。

日本書紀ができた頃 二神社十六家の古文書・家系図が国に引き上げられたといいますが、つまりは わが国に住んでいた人たちは消滅したのでなく 残っていた家もあり、記録が消えただけで その後歴史をおりてきて 互いに結婚しても 父方・母方の記憶が残っているのだろうと思います。

風土記は母方の記憶を 国造本紀は父方の記憶を伝えると書いている本もあります。

>支配すると言う意味で、ことむける という意味で 向家と言います。
ということは むかけ とか よむのでしょうか?
ごめんなさい。よそ様のことをねほりはほり尋ねるのは恐縮ですが、性分なのかわからないときはしらべたおさないと気が済まなくて・・・

 


[33]志都見さんからのコメント(2013年01月14日 02時08分21秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年01月17日 21時37分59秒
[34]さくらさんからのコメント(2013年01月15日 01時50分14秒 ) パスワード

こんばんわ
むかけ と よむこと
いろいろな情報有難うございます。

前からしらべていて その中で「嵯峨天皇」がスサノオはわが国の元主ぞ と いわれた ということですが、
御向社は「すせりひめ」を祭神としておられるのですね。
姫の母は「神大市姫」。たどれば山の神。
スサノオの姫神とされる人。
大国主の后。

前から佐田からしきりに大国主 国常立尊 藤原氏 などがでてきていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yyyyyokada/36263160.html より
このブログでは西王母ということばをくっつけているが
では日本で、御祭りされている西王母須勢姫命はどこにいらっしゃるかというと、春日大社の夫婦社に
大国主命、素世理姫命が奉られており、参拝すると夫婦円満になるといわれております。

そのほか
大兵主神社 奈良県桜井市穴師493 
八坂神社  京都府京都市東山区祇園町北側625番地に祀られています。と 

八坂神社はスサノオ 春日神社は藤原に関与しており 大体辿り辿れば佐田または同族の尾方 に入っていくのでは と 私的には考えています。
スサノオは尾方。

甲斐の浅間神社の古屋氏
●伴・大友氏と系が 別れ、伴は 「古屋」系図を持ち、浅間神社宮下へ。
古庄・古屋は同祖である。

●(母・大伴氏)藤原鎌足子孫・古庄能成の子・近藤能直→大友能直になる。
九州の大友氏。
大友氏 毛利氏 大内氏は中原つながりでもある。

中原は佐田も称しており、「事代主」の長男の筋から出ているといい、
大体佐田に濃く出てくる。

八束水臣津野(オミズヌ=大水主)命・天冬衣命などは「大国主」の系にもでる人ですね。

丹後籠神社では「事代主」を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命としておられるが、天照を冠するのは4人いて

スサノオもそうで
天照大神もそうで
藤原鎌足の弟も天照を称したという。









[35]さくらさんからのコメント(2013年01月15日 22時12分50秒 ) パスワード

こんばんわ
私自身は「古事記」も「日本書記」もそれを伝えた人たちはいたと思っています。
熊本には神武天皇を祀る神社が結構あり、神社があるということは神武天皇もいたと思っています。ただ系図は男子で継がれているけど、
母の血は事代主の系の血が入っていて、何代かつづいたら中味は母方、系は父方になるだろうと思います。
高姓・王姓と金姓・き姓のせめぎ合い(または姻戚関係)
からまりからまって どこが 頭だかしっぽだか わからないほどになっているようだ というふうに見えます。

歴史を降りてきて おしなべて源平藤橘をいうようになって 武士であったのでなければ何だか人と話すとき少し引ける みたいな感じを若い頃体験したことがありますが、はるか昔から綿々と続いてきたから今に私たちがいるのですね。

>諏訪大社上社大祝の系譜の南方刀美神の五世孫に会知速男命

があって、娘に阿蘇姫があるという伝承と同じです。

前に諏訪社に関して 「金刺」があったと思っています。今資料を見ていないので多少話しがずれるかもしれませんが、
大田亮氏辞典で、木曾義仲の養い親の中原の本姓は金刺と書いてあり、
中原・金刺は通じているように思い、ここからも 佐田が濃く出てくると思います。

日本の苗字7000傑多氏の表題より
【多 氏】 最古の皇別であり神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔が多姓を賜うに始まる。 阿蘇国造家や科野国造家(金刺氏)などは同族であり、子孫は全国的に繁衍する。 後裔の太朝臣安麻呂は古事記、日本書紀の撰者としてあまりにも有名である。

少し話しがとびますが
賀茂神社の女性と白河天皇との間の子が「平清盛」ということらしいですが、賀茂神社のご先祖様は高御巣日神・神魂神・途中大山積神も入っていますね。


[36]志都見さんからのコメント(2013年01月15日 23時43分23秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年01月19日 17時26分43秒
[37]さくらさんからのコメント(2013年01月16日 20時44分50秒 ) パスワード

こんばんわ
たくさんのご教示ありがとうございます。

>御向社は、クナドノ神、佐比売、佐田彦 を元々は祀っていたものです。
30>大山積(=クナド大神)−稲田宮主須賀之八耳神(佐田彦)・・・
大山積=クナド大神 大山積はイザナギ・いざなみの子供というので、イザナミの死後うまれたというスサノオ・天照などより古い伝承があるのでしょうね。

[38]さくらさんからのコメント(2013年01月18日 00時20分37秒 ) パスワード

20稲毛浅間神社
祭神 :木花咲耶姫命、瓊々杵命、猿田彦命。 本殿: 流造4坪、南西。 神紋:九曜。 千木:。平城・大同3(808)5/30、富士山本宮浅間神社より勧請と伝わる。
出雲・佐陀神社(島根県鹿島町)の神能を母胎としその影響は面の造形に多く残されている。
24佐比売とは、サイノカミ信仰の神で、岐(クナド〜フナト)大神の
妻にあたる神です。
26今日読もうと思って見たら、あらら 消えていましたが確か
キサガイヒメ=佐比売尊=三輪山の麓に狭井神社
倭姫が伊勢の内宮で祀られたのは、出雲の日の女神です。撞榊厳魂天疎向津姫命とも言いますが、出雲族の向家の姫という意味だそうです。

=稚日女尊
の言葉があったように思います。

ウィキで稚日女尊を検索してみたらhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E6%97%A5%E5%A5%B3%E5%B0%8A
・生田神社では天照大神の幼名としている。
・異説として古史古伝のひとつ「ホツマ伝え」では、あまてらすの妹・たじからおの母・下照姫・歳徳神であると書いています。
どちらにしても 天照といわれる一族の人と理解し、出雲では
出雲の日の女神です。撞榊厳魂天疎向津姫命とも言いますが、
出雲族の向家の姫という意味だそうです。
という方なのですね。

天手力男から 山口 が過去に調べたときでたのですが、
佐田 尾方 山口 は セット
・出雲古族でスサノオを敵
・スサノオは尾方
これから ヤマタノオロチが推測されますが、
天村雲の剣 はオロチの尻尾からでたのですね。
尾方には蛇伝説があり、神八井耳命系の湯山にある神社では蛇が卵を抱いている珍しい竜頭?があるそうです。

剣はすさのおが天照大神にささげたとされるが、
古代では討った方も討たれたほうも同族という。




[39]志都見さんからのコメント(2013年01月19日 02時55分27秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年01月20日 03時07分58秒
[40]さくらさんからのコメント(2013年01月19日 22時08分58秒 ) パスワード

>39出雲族は母系社会のドラヴィダ族がインドから来たと言われています。
猿田彦はインドでは青面金剛といわれ、沖縄ではサダル彦といわれるのだそうですね。
平家落人伝説で熊本県の五家荘に
平家の落人の5本の矢の伝説があり、これは熊野にあるマガダ国の善財王の5本の矢の伝説に同じで、
阿育王と蒙女(天女)の間の子が、東南アジア地方のほとんどの国の王になったといい、
はるか昔インドから人がやってきていることの 1つの証だろうと思います。

コメントをいただきながら私の力が足りず、混同したところもあり、失礼しました。いろいろの古史古伝があり、それは昔陸続としてわが国にやってきた人たちが伝えてきたことだと理解しています。

メールについて
私のパソコンに過日不思議なメールが入り、うっかりあけてあと気持ち悪い日々を送っています。ウイルスにやられたかなと思っていますが、メールをして人様のパソコンまで汚してはいけないので、きれいなパソコンを使えるようになったら教えていただくことがまだあるので、お願いいたします。

私の母方は「佐田」です。山口県に母の実家があります。山口県の山の向こうが出雲・本では広島あたりがもともとの出雲とあるのもありますが、そこらは私はわかりません。



[41]さくらさんからのコメント(2013年01月21日 21時40分54秒 ) パスワード

採物神楽 太鼓踊り
太鼓踊りはあちこちでおどられているようだけど、足で地面を踏む動作は、豊饒の祈りの動作に似ていると思いしらべたことがあります。
このことからは埼玉のほうの神社に行きついたことがあります。
人吉の太鼓踊りは相良氏が教えたという。しらべてくださった人の情報では
・そのほかに相良公が人吉に来られる以前にこの踊りの歌が和讃(ワサシ)に似ていることから念仏から出たもので相当古いものが原型にあると思われる。昔は各村々に有り長男がその役を相続すという不文律があった。
とあります。

奈良時代くらいかな?と思いますがそうだと シルクロードに乗ってやってきた文化とも思えるが・・・
伊勢地方の「羯鼓踊」かんこ踊り
・インド方面にはるかなご先祖の記憶がある。
・羯鼓踊⇔羯鼓・・・古时,龟兹、高昌、疏勒、天竺等地的居民都使用羯鼓。
・羯けつ
中国、匈奴の一種族で、五胡の一。名は山西省の羯に居住したことによるという。4世紀初め、族長の石勒(せき△ろく)が五胡十六国の一つ、後趙(こうちょう)を建国。
・石氏につき、http://www.hudong.com/wiki/%E7%9F%B3%E6%B0%8F
の中で出自は「姫姓」としている。
・下の方までスクロールすると、五代时期,有沙陀部人石敬瑭,于936年勾结契丹贵族灭后唐,被契丹册封为帝,国号晋,史称后晋,历时10年而亡。とある。時代が違うけど、沙陀部人石敬瑭・契丹贵族灭后唐など読み取れる。
中国語が読めないのがくやしいけど、感触として
唐や漢王室と姻戚関係を持ち、後世清王室を立てた沙陀突厥。彼らははるか古代にまで遡る血を持つ。唐王室に真珠を売りに行っていたと言う沙陀突厥。彼らは海神族でもある。秦とも関わりを持ち、始皇帝子孫ともいう島津は「佐多」。
こういう話が出てくる。
[42]さくらさんからのコメント(2013年01月21日 21時50分33秒 ) パスワード

出雲と倭のあけぼの
丹後風土記の世界
斎木雲州著
大元出版
という本がネットに出ていました。http://books.google.co.jp/books?id=I49bk2tY4R4C&pg=PA30&lpg=PA30&dq=%E4%BD%90%E6%AF%94%E5%A3%B2%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%83%9F%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E7%A5%9E&source=bl&ots=uRNiVfppNS&sig=YG5Gbe0JkvLVpB67o8ueXRmmUHk&hl=ja&sa=X&ei=zBv7UIvoJ8iJmwXrhIDYDw&ved=0CC4Q6AEwAA#v=onepage&q=%E4%BD%90%E6%AF%94%E5%A3%B2%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%83%9F%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E7%A5%9E&f=false
・古代出雲族は3000年以上前にインドからやってきた古出雲族
・クナ地方を支配していたクナト王
・海部氏勘注系図では
 火明命がおおなもち八代目の御子の高照姫をめとり、五十猛をもうけた。
・後に饒速日命(火明命)は市杵島姫をめとり、彦火火出見と穂屋姫をもうけ、 穂屋姫と五十猛との間に、天村雲命がうまれた。
・これらの人物と関係については海部氏勘注系図と先代旧事本紀に記録されてい る。それらの記事と向 家の伝承とが合致する。
・天冬衣の長男の事代主は、摂津三島(大阪府高槻市)の三島家より、玉櫛姫(活玉依姫)を后に迎えた。姫は奇日方と蹈鞴五十鈴姫・かわまた姫をうんだ。
ほか いろいろ書いてありますが
・彦火火出見は神武天皇の称。天村雲と一世代ちがうだけなので、この頃が神武天皇の時代なのだろう。
・神門臣家は神戸家になったという。
・南朝北畠氏一族の系譜http://www.kakeiken.com/report009.html
・3−2関氏一族の神戸氏に織田信孝が養子?に入る。
・関氏は新羅の昔氏(埼玉苗字辞典)


[43]さくらさんからのコメント(2013年01月21日 22時17分21秒 ) パスワード

もとはクナ地方にいた人たちと祖先は同じ人たちが、まわりまわって半島を経由して入り込んできた人たちがいると推考できる。

@賀夜=加夜=栢寺
 奈良飛鳥(明日香邑)栢森=加夜奈留美命 
飛鳥神奈備に坐し、皇孫の守護をした。「五郡神社記」等では、高照姫命としている。・・・栢は かや とよみ ひゃくとよみ かしわとよんだ。
 
葛城御年神社
祭神 御年神
相殿 大歳神
   高照姫

私たちがお正月に祭り親しんできた 年神様は この 神様。
鏡餅は この 御年神へのおそなえで、このお下がりの御餅には 御歳神の魂がこめられており、これを「御歳魂おとしだま」と呼んでいたのが今の「お年玉」の起源。
     
本社は 「鴨氏」の名社。御所市の高鴨神社(かみかもしゃ)、鴨都波神社(しもがもしゃ)と共に 中鴨社として親しまれている。
    

神功皇后が 韓遠征の時、事代主を尊んで、「御都波八重事代主」とよんだ。 
鴨都味波八重事代主命

                   |ー事代主・・・元伊勢の丹後籠神社                    では この人を「天照国照彦天火明                    櫛玉饒速日尊」としている。
     スサノオーーーー大国主ーーー事代主の妹 高照姫(下照姫 加夜奈                         留美命 阿加流姫命)
       ||ーーーーーーーーーーーー大歳神・・・この子孫 佐田彦
山ノ神のむすめ 神大市姫    ||ーーーーーーーーーーーーー御                       歳神
香用比売命

[44]さくらさんからのコメント(2013年01月21日 22時35分52秒 ) パスワード

系がすこしずれました。大歳神の妻が香用比売命
★ 「桓檀古記〜高句麗国本紀」
多婆羅国には、もと弁辰狗邪国人が先住して、狗邪韓国といった。多婆羅国は多羅韓国ともいう。忽本より来たり、高句麗と早くから親交を結び、烈帝(廣開土境好太皇)が制した。多羅国は安羅国と同隣して同姓である。旧、熊襲城を有す。今、九州の熊本城がこれである。

熊襲は新羅であるという。
新羅は今のところでなく 琉球あたり 台湾あたりをいっていたという。

新羅→もと辰韓12国のひとつ
祖・赫居世(朴)→学者は 稲飯命という。
季氏・○氏・孫氏・雀氏・裴(下は衣)氏・蒒し氏の祖。その長たり  と。

子孫・妹婿の倭人・昔脱解に伝う。多婆那国の人。

12代・金閼智の末の味鄒に位を譲る。17代以後 金氏。

★41に出る・羯けつ
中国、★匈奴の一種族で、五胡の一。名は山西省の羯に居住したことによるという。4世紀初め、族長の石勒(せき△ろく)が五胡十六国の一つ、後趙(こうちょう)を建国。
・石氏につき、http://www.hudong.com/wiki/%E7%9F%B3%E6%B0%8F
の中で出自は★「姫姓」としている。
・下の方までスクロールすると、五代时期,★有沙陀部人石敬瑭,于936年勾结★契丹贵族灭后唐,被契丹册封为帝,国号晋,史称后晋,历时10年而亡。とある。時代が違うけど、沙陀部人石敬瑭・契丹贵族灭后唐など読み取れる。

契丹貴族 
尾方は尾方大賀もおり ダフール族で契丹貴族。

上に掲げた人たちは古出雲族とは時代が違うけど 枝分かれした人たちの子孫という感覚でみると 繋がってくると思います。



[45]さくらさんからのコメント(2013年01月21日 23時10分02秒 ) パスワード

胡族は 女性の地位が高かった。

倭国の東北千里に多婆那国があって、またの名前を「龍城国」とも言った。国王の名前を含達婆といい、★女王国(積女国王)の女を王妃としていた。
新羅の建国が倭人により行われたと考えられる理由は、三国史記新羅本紀での王統譜で、新羅の王家が、朴氏、昔(積)氏、金氏と交替したとの伝承があることです。

積族
山口 ヤマグチ 口は人の数にて、山積族の集落を山口と称す。山条参照。
山 ヤマ 辰韓は十二国からなり、その一つに新羅(今の慶尚北道慶州)があった。

尾方 佐田 山口のセットは 蒙古にも 又 他他粒氏にも関与してくる。
日本人はお尻に青い痣がある「蒙古斑点」を持っている。



[46]さくらさんからのコメント(2013年01月21日 23時54分46秒 ) パスワード

本を見ていると 坂上が時代を引き伸ばしたと書いているのがありました。
漢王室子孫=坂上=東漢氏=百済

私はある時点から上世代は 族に分解したとき でてくるものがあるだろうとおもっています。今出雲古族が歴史に関与していることがわかりました。漠然としていたのがはっきりしてきたということです。

伊勢神宮荒木田家(ネットに書いた作者は今は神宮にはいない。姓も変わっているとしているが 本来の荒木田家嫡流だということである)の人のブログで、

天照大神のお棺は 「甕棺」だといっていた。後に 神武天皇のお棺だとなったそうですが・・・

斉王と王子の数と同じ で、 出雲荒神谷から出土した青銅剣と同じx印がついた剣を持っていた。殷周の宝物を持っていた。又 卑弥呼女王の印を持っていた。他にも宝物がたくさんあった。

と書いていました。
甕棺は王氏のときつかわれていたようですが、時代はさらに遡るものかもしれません。

周の武王の娘・太姫と舜(有虞氏)の子孫の満の間の子・胡公の子孫が   
因故奔齊,後來才以原封地"陳"之名,改為陳姓。

中國陳姓還有三個系來源,分別是春秋時楚國的劉矯後裔,隋初白永貴的後裔,還有★突厥族候莫陳氏之後裔。

「陳」は 田氏の「斉」になった。
戰國末年,齊被秦滅。齊王的長子升次子桓先後改姓王氏,

漢王室外戚は王氏で、霊帝 献帝も実母は王氏。王莽の祖先は黄帝としており、
舜の子孫。田(陳)斉の子孫らしい。前に見た本にそう書いてあった。

[47]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 20時58分01秒 ) パスワード

昔は 半島とわが国は1つの文化圏だったという説より 北倭・南倭 契丹
「北倭」とは広義には瓦族、クメール族、ナガ族、シャキィ族などの総称であるが、北倭が三分して一は日本に渡来し、一は蒙瓦室韋から今の蒙古人になり、一つは半島の朴氏と昔氏になった。

白巣氏(シュメール系初期エジプト族)黒巣氏(インドに南下したシュメール系 ドラヴィダ族) が移動を始め、この4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を 開始。 彼ら苗族&ナーガ族は高地、コーカサス山脈に行き、(ネットより)

新羅帝国の金氏は九州の駕洛国の金氏から分れたもので、これを「南倭」という。朴氏と金氏は共にいまの朝鮮の大姓である。ネットより

荒木田家の話は 親魏倭王の印もあり、これは 新羅の女王だと 吉田氏 太田氏はいっていた。新羅は 九州の加羅国から別れた。宇佐がはじまり。高天原の主宰神・高魂神。
そして 殷 周の宝物も 持っていた。斉王と王子の数と同じで、出雲荒神谷から出たxがついた銅剣を持っていた。(荒木田家嫡流のブログより)
・ ・・殷・周の宝物は新羅の昔氏が持っていた。
[48]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 21時02分32秒 ) パスワード

狗邪国を狗邪韓国とした韓国はカン(ハン)の国で,また加羅(加邪)ともあて字した 。
駕洛国の王室が軒轅の後裔でありという点は、『三国史記』巻41,金ゆ信列伝に引用された金ゆ信碑文 からも確認できる事実である。
駕洛国の始祖が軒轅の後裔である小昊金天氏の子孫であるという伝説は既に新羅統一時代の初期、つまり、7世紀の中葉に存在して いたのである。
少昊氏の姓は嬴姓 又 小昊金天氏の子孫である新羅は「金姓」
[49]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 21時53分18秒 ) パスワード

藤原鎌足の弟は 「けいぶんえ」「たいらくけいし」「金天莫氏」
「アマテラス」を名乗った。

古事記を暗誦(?)したという稗田阿礼は藤原系図につく人。
前に見たテレビで百済の王族の一人だった鎌足としていた。

沖縄の那嘉氏はのちに尚氏という王家を作ったが、その同族は契丹の王妃族蕭氏になっている。尚も蕭もシシュナガ族を表わしたものである。
因みに、契丹王族の耶律氏は匈奴チュルク族の支派であった。北支で中山国をたてたシャキィ族の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、
かれらがのちの奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり.、のちに契丹の王族と王妃族になったのである。(ネットより)

尚氏の分家が「向氏」

紀氏のルーツhttp://homepage2.nifty.com/ihmm/sub13.html より
紀氏の源=炎帝神農氏 ※神農氏(赤帝・炎帝)
漢王室劉邦には赤帝の子孫との話がある。

神農氏(赤帝・炎帝)子孫               
州 甫  甘  許  戯  露  斉  紀 中国平陽郡発祥  怡  向


許氏は 首露王の后が 許氏
向氏には もともと古くに行き着くすじがあるのではないか?沖縄尚氏は源為朝の子孫というが・・・


[50]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時00分03秒 ) パスワード

蒙古と新羅は 同族。金官加羅と新羅は同じ。金官加羅の始祖は悩窒青裔・首露王。
青裔は 少昊金天氏の末といわれる。少昊氏の姓は嬴姓とされ、
春秋時代の秦、趙、梁、徐、江、黄など九ヶ国の先祖とされて いる。
藤原鎌足の弟 金天莫氏
新羅は金官加羅。嬴は徐の本姓だった。徐は「箕子朝鮮」の保護下、「徐可殷」をたて「昆麻城」と称した。 
「固麻城」は「百済」の都だった
百済の人が 新羅の王になったと中国資料「北史〜列伝」は言う。北史とは 北魏などの資料。
高句麗 百済は 同じ祖先。百済の人が 新羅の王になったという中国の本にある話。新羅は 金官加羅。加羅は任那。天智天皇が任那の救援に向かった。

政治的なことだけでなく、故地だったのではないか?
[51]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時04分23秒 ) パスワード

大伽耶と同じ祖先。
イビガ(狗邪9部族の祭事を司った天君)─〔高官加羅〕伊珍阿{豆支}王(金首露の異父兄。母正見妃〔正見母主。大伽耶始祖神〕。悩窒朱日、伊珍阿{豆支}王、内督朱智 上伽耶うがや 下伽耶
「大伽耶山」で、倭人諸部族の始祖神話は、はるか後代の「東国輿地勝覧」に記録されています。即ち高霊県の条で、「元は大伽耶国なり。始祖伊珍阿鼓(一に 内珍朱智とも云ふ)から道設智王に至るまで凡そ十六世五百二十年、新羅真興王がこれを征服し、その地を大伽耶郡とす。」とあり、その注に「伽耶山の神、正見母主は天神、夷ヒ(田比)カ(言可)に感ずるところとなり、大伽耶王悩窒朱日と金官国王、悩窒青裔の二人を産めり。悩窒朱日は伊珍阿鼓の別称、青裔は首露王の別称なり。」(以上、「漢半島からきた倭国」李鐘恒著、兼川晋訳、新泉社、1990年)とあります。ネットより 
[52]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時14分03秒 ) パスワード

51高霊県
埼玉苗字辞典秩父
先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」
秩父国造の祖・思兼神
新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。

埼玉苗字辞典ア
阿 ア 阿(あ)は、阿(お)と読まれ、
、ア、オ、オオは同じにて、梁書百済伝に「邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。
百済のクはオ(阿)、オオ(大)で、ダラは檐魯で、クダラとは大邑、大国と云う。大 ノ国は後の百済、及び加耶地方の総称で、大加耶国(おおかや)、安羅国(あら)と称し、此の地より渡来した集団は、大野、安部、阿部(あべ)等を名乗っ た。また、阿(あ、お)はクマと読まれて、熊ノ国とも称し、熊野、熊谷等を名乗った。阿部、安羅、出雲、宇津味、大、百済、熊、越等の
各条参照せよ。
古事記の高天ヶ原とは大加耶(意富加羅国)の高霊(たがま)郡の地である。
[53]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時20分31秒 ) パスワード

後漢書〜東夷伝」
辰韓、耆老自ら秦の亡人と言い、苦役を避けて、韓国にゆき、馬韓が東界の地を割いて与えた。
当時の中国の漢字音の研究から『三国志 魏書東夷伝倭人条』に出てくる倭の北岸にあたる狗邪韓国を伽耶の古い表記とする
九州宇佐→東表国(狗邪国又駕洛国のちの 金官加羅国・任那・加羅・加邪・狗邪韓国)
王は「安羅」から入った
安羅はもと弁辰十二国の安邪です。

中国史料における任那
(日本書紀(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる)
• 『魏志東夷伝』弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
• 『広開土王碑』400年条の「任那」が史料初見とされている。
•『宋書』では、「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲され、『南斉書』も併記を踏襲している。
•『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
•525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
•『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
これらから、中国史料における「任那」は、
•三国時代(220年 - 280年)の「弁辰」に替わって、
•宋代(420年 - 479年)にはすでに成立しており、
•450年頃、加羅が任那から分立した。
•任那は、梁代(502年 - 557年)に、特に525年以前に新羅に滅ばされた。
•任那の故地に関する記憶は唐の高宗(649年 - 683年)の時代まで残っていた。
と総括できる。(ネットより)
日本史料における任那
•『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、
•『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条〜天武天皇条に「任那」が多く登場し、
・『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
[54]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時29分40秒 ) パスワード

古事記・日本書記ができた頃
賀夜 加夜は 同じ
○賀夜又は 加夜廃寺(栢寺 かしわ はく ひゃくてら)古代吉備の有力氏族 賀夜氏の氏寺 白鳳時代
○飛鳥時代・・・古墳時代の終期と重なるが、6世紀終わり頃〜8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都がおかれていた時代をさす。
         
飛鳥とは 百済の言葉で 安住の地という意味。河内あたりを近つ飛鳥。奈良のそれを遠つ飛鳥とよんだ。藤原不比等 光明皇后など飛鳥で育てられた。
県犬飼橘三千代をはさみ 藤原不比等 第30代敏達天皇ひ孫 美怒王も飛鳥にゆかり。河内国古市郡は橘三千代の本貫。
ネットより
飛鳥京は5人6代の天皇の宮があったと書かれているものもあるようですが、この場合は、天智天皇が皇太子時代の称制(即位せずに政務をつかさどること)期間を含めています。舒明(じょめい)・皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい=重祚されているので皇極天皇と同一人物)・天智(てんち)・天武・持統(じとう)の5人6代ということになります。

飛鳥とは 日本では 奈良 広陵町の一角
大阪の鶴橋 ここには 百済王氏の氏寺があった。
百済川は 「曾我川」の 古称。
百済の大井宮とは 「敏達天皇」「舒明天皇」の宮の 名。

百済は 馬韓の一国から 勢力を拡大。
馬韓は 古称 「赤間が関」
下関の別称で 近くに 壇ノ浦がある。

○ 白鳳文化・・・天武天皇 持統天皇の頃 白鳳文化が花開いた。
持統天皇の時から 伊勢神宮へ 皇族が参拝されるようになった。
この時代に「倭」から「日本」と改称したとされている。
持統天皇
天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉の大田皇女とともに父の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。
出雲と倭のあけぼの より
・東の王家・向 家むかいけ古くはむけけ
・主王はおおなもち・副王はすくなびこ
・東の向家・西の神門臣家
・両家の当主のうち年長者がおおなもちになり、もう一方がすくなびこになった。
・神門川は今は神戸川にかわっている。
・両王家の分家
 向家からは、登美家や諏訪家になった家がある。
 神門臣家からは宗形家や八島家が分かれている。天武天皇の后に上がる宗形徳善の娘。
宗像氏子孫に深田氏がおり、球磨郡あさぎり町の深田と言葉が同じ。ここに良峯師高の墓があり、良峯(母・百済 永継女子・劉姓)は荒田の言葉からヤマトタケルとつながり、タケルの孫の頃、新羅系の神功皇后と忍熊王たちの戦いで、王たちは負ける。半島の王家の話が出てくる。
[55]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時36分14秒 ) パスワード

天智天皇の頃 白村江の戦いで、倭・百済連合軍に唐と新羅の連合軍が勝つ。
田中と佐田のセット
蘇我倉山田石川麻呂と田中は通じている。田中は竹内に通じている。
天津彦根命の系を引く曽我倉山田石川麻呂⇔田中⇔武内(武内宿禰は紀氏考のネットを参照)⇔熱田尾張神宮男子と蘇我稲目女子またはきょうだいが結婚子孫武内→子孫から「源頼朝」。この武内は「八剣神社」を創建。

佐田
猿田彦★(国底立命・国常立命)
埼玉の神社に「上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。★八剣神主田中右近の先祖か。

「八剣神社」とヤマトタケル
ネットより
祭神はスサノオ アジスキタカヒコネ 大国主 ヤマトタケル 草薙の剣 誉田別命=応神天皇=大鞆和気命(おおともわけのみこと)など

高御産巣日神 スサノオ 大国主 ヤマトタケル 応神天皇 と歴史を降りてきて、ヤマトタケルにつき、田縣神社・大縣神社がある。田県神社は男神・大縣神社は姫神。
大縣神社のご祭神
大荒田命は邇波県君〔にはのあがたのきみ〕の祖で、倭建命〔やまとたけるのみこと〕三世の孫とされる(『新撰姓氏録』)。また、『先代旧事本紀』には、尾張氏十二世の建稲種命〔たけいなだねのみこと〕が邇波県君の祖・大荒田の女子・玉姫を妻として二男四女をもうけたと記されている。

⇔熊本県球磨郡あさぎり町の良峯師高の墓に「荒田」の言葉があり、公卿類別譜で良峯氏子孫は丹羽氏につながっている。良峯氏は「劉姓」
熱田神宮にヤマトタケルのはなしがあり、尾張氏とのつながりがあることともあわせ考えて、

ヤマトタケルは仲哀天皇の父。仲哀天皇は応神天皇の父。仲哀天皇の后は神功皇后。二人の間の子が応神天皇。


持統天皇の代で 日本書紀は完結する。日本書紀が出来た時 前に書いた家(二神社・十六家)の 系図 古文書が 国にひきあげられたのでした。
[56]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 22時53分48秒 ) パスワード

神武天皇母に 玉依媛がいる。実母 豊玉媛の妹。
その 出産の状況から 母は南方系。

鞍馬貴船神社
京都 鞍馬貴船神社に 反正天皇(18代)の時代に 玉依姫(神武母)が黄船に乗り、難波から 淀 鴨 貴船川を遡り、この地に上陸し、祠を建て水神を祀ったのが始まりとされている。
★熊本県球磨郡の雨宮神社が 貴船神社と同体だった。
 
京都松尾大社 に丹塗り矢伝承 がある。
祭神 大山咋命・市杵島姫命・神紋 立ち葵
★ 葵紋は 京都賀茂神社のゆかりの人が使った紋。
  徳川の紋も 葵紋

大山咋は 大歳神の子で、「葛野の松尾に座す」とある。
文武天皇のとき、秦忌寸都理が勅命により 松尾山大杉谷の磐座
の神霊を勧請し社殿を建てた。

秦忌寸都理は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之後也  と 秦
氏の中で 唯一 神別としてみえる。
   
と ここに 賀茂(田中) 松尾(山口) 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
  (高岡) 大歳(尾方) があり 磐座は 前に 高岡社にもあった。

  丹塗り矢伝承
   秦氏の女子が 葛野川で洗濯をしていたら 矢が流れてきたので ・・・子が
   でき その子は 父を聞かれたら 矢を指差した。

   その矢は 雷公となって  屋根を突き破り 天にのぼった。故に 鴨上社は 
   別雷と号し 鴨下社は 御祖神と号す。

   戸上の矢は 「松尾大明神」これなり・・・

   鴨社のそれは 秦氏の女子が 玉依日売 その父は 賀茂建角身命 母
   は丹波の 神野の神「伊可夜日女」 丹塗り矢は 乙訓郡の社の火雷神と
   なる。

   松尾山は 嵐山にあり 古くは 松尾村と称していた。
   大山咋の母は 市杵島姫。 子が 別雷神。

秦 佐田 高岡
松尾大社http://kamnavi.jp/yamasiro/matuo.htm
市杵島姫神は宗像の神である。秦宿彌・秦忌寸は惟宗朝臣に改姓している。さらに薩摩の島津家、対馬の宗家は惟宗氏の出であり、宗像の神が松埼日尾(松尾山頂)に天降ったのである。

[57]さくらさんからのコメント(2013年01月27日 23時09分54秒 ) パスワード

高岡条
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫

56この人の子孫・
秦忌寸都理は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之後也
秦宿彌・秦忌寸は惟宗朝臣に改姓している。さらに薩摩の島津家、対馬の宗家は惟宗氏の出であり、

島津氏は 佐多氏


[58]さくらさんからのコメント(2013年01月28日 22時47分24秒 ) パスワード

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子孫 秦氏
高岡条 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫
嬴姓高丘系図は秦王室子孫
高岡 高丘 高岳 は 通じている。

52
先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」

42
海部氏勘注系図では
火明命がおおなもち八代目の御子の高照姫をめとり、五十猛をもうけた。
・後に饒速日命(火明命)は市杵島姫をめとり、彦火火出見と穂屋姫をもうけ、 穂屋姫と五十猛との間に、天村雲命がうまれた。
・これらの人物と関係については海部氏勘注系図と先代旧事本紀に記録されてい る。それらの記事と向 家の伝承とが合致する。 

50
百済の人が 新羅の王になったと中国資料「北史〜列伝」は言う。北史とは 北魏などの資料。

北魏は渤海の遺民がたてた国 高歓 平城京は当時 すでに滅びていた北魏の首都の呼び名

滅亡した高句麗の遺民と靺鞨(まつかつ)の部族が合流して渤海国を建国するが、後に★渤海国人は「女真族」と改名。この女真族が清朝を立てるのだが、女真(ジェション)とは「粛慎」の音訳だとされる。

[59]さくらさんからのコメント(2013年01月29日 06時06分47秒 ) パスワード

尾方 サダ は ともに アジア辞典で 蒙古・女真族 金姓 と出る。
はるか昔に枝分かれした人たち。

ニギハヤヒの尊称は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
ニニギの尊称は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命

ニニギの子孫が神武天皇になった。

尊称が日高で繋がる人たち
スサノオ・天開国開天津★日高建速須佐之緒命(出雲皇統譜)
ニニギ・天邇岐志国邇岐志天津★日高日子番能邇邇芸命
山幸彦・天津★日高日子穂穂手見命
ウガヤフキアエズ・天津★日高日子波限建鵜草葺不合命

山幸は彦火火出見ともいい、このことばのつながりは
神武天皇・彦火火出見 幼名 狭野

アメニギシと高霊について 契丹の古代史書は
辰は 古国上代 悠遠なり。伝に 曰く。 神祖の 後に 辰云謨率(しうむす)」氏あり。
  もと 東表の 阿斯牟須氏と一たり。
  辰云謨率(しうむす)」氏 子あり。
  伯の 裔を 「日馬辰云(びばしう)」氏と なし
  叔の 裔を 「干霊辰云(かるしう)」氏と なす。

  干霊(かる)は岐れて★干來(から)となり、二千海をへだてて 望む。
干來(から)又 分かれて ★高令になった。
  然れども 今 得攷すべからざるものあり。(今はどうなったかわからない)
  その 最も 顕なるものを 安冕辰云(あめしう)」氏となす。
  もと 東表の 牟須氏にいで、殷と 婚たり。
  国を「賁弥辰云(ひみしう)」氏に 譲る。
  賁弥氏 たって いまだ 日あらず。
  漢 冠方に 薄り その先 朔巫達に入る。撃って これを 退く。
  淮委氏 沃委氏 並びて 藩を 嶺東に 列ね、辰のために 郭を守る。
  藩耶 又 兵を 亞府閭にしめし、もって 巻を 制す。
    と 述べて この 一族を 「あめにぎし」と している。


56
滅亡した高句麗の遺民と靺鞨(まつかつ)の部族が合流して渤海国を建国するが、後に★渤海国人は「女真族」と改名。この女真族が清朝を立てるのだが、女真(ジェション)とは「粛慎」の音訳だとされる

殷の箕子朝鮮 
微子啓が守る殷の礼は周につがれた。宋に封じられ、宋に雀あり。






[60]さくらさんからのコメント(2013年01月29日 21時33分01秒 ) パスワード


貊族、貉族は穢系部族の部族名で、なかでも貉は高句麗の古称とされる。

韓侯は周の武王の弟のこと。

貊と貉の古音は同じ。貉国とは貊国。漢代の東北の貊国は「漢水(漢江)東北」の貊国が遷移したもの。

四夷の国名は、粛慎を稷真、濊人を穢人、楽浪の夷を良夷、姑蔑を姑妹、東欧を且欧、渠搜を渠叟、高句麗を高夷と記している。

高夷に関して孔頻達(隋書を編纂した唐代の学者)は「逸周書に記された会議に参加した北方台地の東の高夷とは高句麗族の源流である」と注釈を記している。

高姓解析
第一は高夷族より出る。相伝では黄帝時代すでに高姓があった。高元は黄帝の臣となり、家屋を発明し、これによって姓を高とした。同時代の高陽氏颛顼帝と高辛氏帝嚳の後裔にも高姓があるが、四千余年も前のこの種の高姓の淵源は調査できない。夏や商の時代に、魯や豫の大地で鵠をトーテムとする高夷氏族が活躍していた、鵠とは白天鵞(オオハクチョウ)で、高夷は東夷族に属していた。

東夷族の先祖は高辛氏帝嚳であることから、高夷は直系の高辛氏の出身かもしれない。

紀元前1046年、周の武王が商を滅ぼした時、高夷は周王朝の東に位置し、周の属国となり、高句骊と史称したが、これが後世の東北の高句麗である。

春秋時代以後、高夷は逐次東北に遷移し、冀州の北の遼東一帯に至った。この高姓の支族は少なくとも四千年の歴史を有している。この高姓の支族は唐朝以後、主に西北に遷移し、そのなかの一部は東北に向かい、再び朝鮮に進入した。

高句麗の始祖とされる朱蒙の姓は「高」であり、高句麗は「高氏の句麗」を意味することから、ツングース族の穢系部族連合の一員である貉族に、高姓の氏族が混合したと考えるのは妥当である。
箕子が孤竹国の領域に封じられたとする史籍の記述が正しければ、高夷、貊、箕子朝鮮の三者は同様の経路、あるいは行動を共にして北上したとの想像も成り立つ

『三国志魏書』高句麗伝

 東夷の古い話では扶余の別種だとするが、言語、諸事ともに多くが扶余と同じだか、気質や衣服に違いがある。

『晋書』扶余国伝

 その王印には穢王之印とある。扶余国に古穢城があるが、古の穢貊の城である。

『三国志魏書』穢伝

 言語や風俗も高句麗に似るが、服装には違いがある。

『三国志魏書』東沃沮伝

 言語は句麗と大同小異。

『新唐書』百済伝

 百済は扶余の別種なり。



 後世、滅亡した高句麗の遺民と靺鞨(まつかつ)の部族が合流して渤海国を建国するが、後に★渤海国人は「女真族」と改名。この女真族が清朝を立てるのだが、女真(ジェション)とは「粛慎」の音訳だとされる。

高句麗に民族が形成される前、中原地区の漢民族は共同体を未だに形成しておらず、この以前は、史学界は往々にして三皇五帝らが中華民族の始祖の血統であり、秦時代の各民族と密接な文化の関係があり華夏族と総称する。それゆえ渾江流域に生息していた高夷、穢貊、扶余、高句麗ら古代民族を★華夏民族の一員だとする。

西周初年、發人、穢人、高夷(高句麗族の先祖)、良夷、粛慎が各々その地に居住した。粛慎は今の牡丹江流域、穢人は今の吉林省の大部分と朝鮮咸鏡道と江原道一帯、高夷はの渾江流域、★良夷は今の大同江中下流域(漢の武帝がそこに楽浪郡を置いた)一帯。

發、穢、高夷の領域に扶余と高句麗が登場するが、扶余と高句麗の歴史に本拠地の争奪戦がないことから、彼らを駆逐したとは思えない。また、中原諸国も彼らの領域にまで支配権を及ぼしてはいない。従って、發、穢、高夷が何者かに故地を追われたのではなく、扶余を中核とする穢系部族連合に同化したものと推察する。

 扶余、高句麗の神話には北方系の日光感精型神話とともに、南方系の卵生型神話が示されていることから、南方系の部族が混在していたものと想像できる。そして、それが高夷氏の影響ではないだろうか。
[61]さくらさんからのコメント(2013年01月30日 20時31分06秒 ) パスワード

百済は、支配階級が「扶余族」で 国民が 「馬韓人」 の典型的な征服国家。

※ 中国の本に「日本は 倭の 別種である」とある。

別に 韓半島で「倭国」の近くに 十州というのがある。洲胡で 好んで牛馬を飼育したとあり、「秦」の「始皇帝」は「斉」の方士である「徐福」を「不老不死」の薬草を求めさせに十州に送った。

「松浦氏」が 探険した北海道も十州といった。北海道は 大体 まっかつ人であるが これは金姓に入る。
「金姓」と「き姓」のからまりは ひとことではいいあらわせないぼうぼうとした歴史があると 本を読んでいるとかいてある。き姓とは 「周」「秦」「神魂命」などの姓にあり、平安時代の問答に「天皇家がき姓であるのはなぜか?」というものがある。

44石氏は姫姓。サダの言葉が見える。
[62]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 22時16分12秒 ) パスワード

荒木田家嫡流伝承記の作者は いう。
事実1.古代日本・委国(倭国と同じ)を建国したのは、中国の斉王田である。
その陵墓は福岡県の吉武遺跡で、副葬品として

    
王冠、王剣、斉王印璽が出土している。伊勢神宮をはじめとする神道で祀ってきたのはすべて、この斉王一族及び従者の斉人である。

事実2.明治天皇の実父は徳川氏の支流、田安慶頼である。徳川の前世の松平氏は源氏ではなく、その先祖

は先住民のアイヌ人である。



[63]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 22時20分37秒 ) パスワード

主に「鹿島氏著」の本を見ると
穢国は 北扶余の 前身

「魏志」が 引用する 「魏略」 の逸文に
其「扶余王」の印文に穢王の印という
とある。そのあと 
    
国に故城ありて 穢城となづく。けだし もと 穢貊の地なるべし。
而して 扶余 その中に 王 たり。自ら 中国の 亡命人といい、仰似ることあり。

「山海経」では
穢国が 「盖がい かい かさ ふた」国と なっている。
「盖国は 鉅きょ ご燕の 南に ある。」 と 述べているが、この  鉅燕は 
    
智淮氏燕で、箕子朝鮮のことである。
高句麗・ 扶余⇔ 解 貊

高麗 これを 「扶余城洲」となし、先祖が 扶余の 渤海王国(靺鞨)、
大遼帝国(契丹)、大金帝国(女真) 皆 これに 扶余城を おいた。

最後の扶余城は 吉林省地点に決まった。

扶余民族は ツングース系といわれるが、それは 人民のことで 
王族は 伯族と穢族であり、共に ツングースではなかった。

解 穢は 王 君の 意味。
[64]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 22時24分57秒 ) パスワード

日本の天皇家と親戚だったという扶余の中身
扶余→高句麗から 渤海が出て、ウスボツがおり、北魏 北斉があり 「神武」「孝明」「孝昭」などの 王名が あった。

 北扶余(潘耶)
伯夷の子孫の伯族。又は 武伯というウラルトウの民が「申候」ののちシルクロードによってバクトリアに移住し、さらに中国に入ってきたものが 主体。史記では 「趙世家」の前半。
           
周本紀や楚世家では 「申候」又は「申国」として登場している。

秦王室の后は「楚」の貴族の女子。「・陽君」・ 広陵君・始皇帝も同じ

[65]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 22時27分05秒 ) パスワード

箕子朝鮮の 立国の根幹は 
明靈りょう れい たま(東大神族)・・・後にこれを 「扶余」とも呼んだ。
東大神族は 『シウカラ』で 殷 舜 堯も 同じ。
殷は 上のふたつ。舜は 田斉に関与し、堯は漢・劉に関与する。
[66]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 23時38分17秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/shokatusei/QinShihuang/qin/01.html
紀元前2300年頃 帝顓頊とある。向 家祖先がわが国にやってきたのが3000年以上前というので、はるか昔にインドあたりで枝分かれした人たちだろう。中国史には神農氏(赤帝・炎帝)・黄帝がおり、又 盤古などもいる。
大費
||・・・・・・・・・・秦
帝舜の一族の女子

周の時代
周の武王の女子
||・・・・・・・・・・・・・田斉(陳斉)子孫に王莽などの王氏もいるという。
帝舜の子孫の男子(有虞氏)

周の武王の弟・・・魏・韓・趙

布津の御霊の素環頭大刀は物部の剣といわれる。この頃テレビドラマで秦始皇帝の頃の人「かんのちょうよう?」はっきりと聞き取れなかったが、この人の剣が環頭大刀だった。

ドラマだからなんともいえないが、韓といえば、高霊に関して、
59しうむすし がおり契丹。殷と婚たり とある。契丹は古くからいた。

契丹=サダ=有=殷と婚たり の関係があるとき、殷の王亥と有易の伝説がある。
有易の子孫が嬴民。瑶民になったといい、
嬴氏が秦になる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/isonokami/futsu4.htm


十握剣と素環頭大刀と物部の剣とかんのちょうよう の 刀

「十拳剣」、
日本書紀には、「十握剣」「蛇の麁正」「韓鋤の剣」「天蠅斫」。
スサノオがヤマタノオロチを切った刀とされる。

高天原族は半島から入ってきたと思える。その祖先はまた向 家の故郷・インドあたりではるか昔に枝分かれした人たち。

[67]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 23時45分03秒 ) パスワード

樹堂
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/turugi/turugi.htm
「断蛇剣」をめぐる諸事情
─ 備前の物部と赤坂郡石上布都之魂神社 ─
 
   宝賀 寿男  

出雲で素戔嗚尊(以下では、当論考に準じて「スサノオ」と記す)が八岐の大蛇を斬った剣が『日本書紀』の一書に「いま吉備の神部のところにあり」


吉備の物部で、史料に系譜記事があるのは御野郡の物部で、これは『続日本紀』に和気朝臣の一族と称したことが見える。もとの姓氏を磐梨別君(〔いわなしわけ〕。石生別、石成別、石无別などの表記がある)といい、垂仁天皇の子の鐸石別命(〔ぬてしわけ〕。大中津日子命)の後と称していた。

備前の石上布都之魂神社は江戸期には布都明神といい、その鎮座する旧赤坂郡石上村(現赤磐市石上)は、『延喜式』当時は石生別君の領域であった赤坂郡の宅美郷に属したが、その後に隣の御津郡に属した事情などもあり、改姓された物部が石生別公一族であったことは認めてよかろう。

当社の祠官家はいま物部というが、これは江戸時代の十七世紀後葉になって岡山藩主池田綱政が祠官金谷肥後に命じて物部に復姓させ、式内社を再興させたものである。


石生別公の実際の系譜
天孫族はスサノオ(その実体は子とされる五十猛神)を始祖として、弥生中期頃に韓地から渡来してきており、著名な鉄産地・伽耶での製品と技術を携えてきた。
★47・51参照 又 倭人が半島の経営に関わったとも。


天理駅の西側の田井庄町には、式内社夜都伎神社の論社の八剣神社(やつるぎ)が鎮座する。「石上振神宮略抄」に見える由緒には、夜都留伎の神は八岐大蛇の変身で神体は八つの比礼、小刀子なりとして、スサノオが大蛇を退治し八段に切ったので八つの小竜となって天へ昇り、水雷神となって叢雲の神剣に付き従って「布留河上の日の谷」に天降って鎮坐し、貞観年中には八剣神として祀られた、と見える。
★ヤマタノオロチもきったスサノオも同族と思える。又わが国に展開していた人たち(全部でないにしても)とまわりまわって半島から入り込んだ人たちは、はるか昔枝分かれした人たち。
[68]さくらさんからのコメント(2013年02月05日 23時58分54秒 ) パスワード

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命が天にあるときできた子を尾張氏祖先。
天下って 登美の長脛彦の妹と天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と結婚して できた子をうましまじとして物部氏の祖先。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の系は高岡にあり。高岡系図はネットに出ている。
【摂州多田院御家人 高岡氏系図】というのがある。摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟 .... もと物部伊居太足尼(五十言宿禰)の後胤

贏姓 高丘系図1があり、高丘(岡)が秦であることがわかる。
一方 島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の系だとウィキで書かれており、島津氏の分家は佐多を名のっている。

高岡 サダ と違う苗字ででるのが 不思議のようだけど、サダは向でもあり、尾方大賀は契丹でもあった。一方 高は鮮卑でもあり、鮮卑と契丹は同族。胡族でもある。
五胡に胡族のてがかりがある。
漢・晋の頃 匈奴・羯・鮮卑・・・・蒙古族にツングース系
      氐・羌・・・・・・・・・・チベット系
胡族はまた同祖としてあがっていく。
応神天皇の頃 大挙してやってきた始皇帝子孫と言う人たちが、わが国にすんなり受け入れられたことを考えると 秦もまた 東胡であったことが知られる と本にあった。島津は始皇帝子孫ともいう。

公卿類別譜
大神氏=大三輪とも表記される。建速素戔烏尊後裔。大神神社(奈良県桜井市三輪)の神主を務める家。大神の系図に比義がいる。豊後大神氏との繋がりか?豊後大神氏は「おおが」と読む。
大神神社=大三輪神社
尾方大賀 =大神氏? だが、今まで書いてきたことから推考すると 大賀=大神のように思える。尾方大賀がダフール族で契丹の貴族。
[69]さくらさんからのコメント(2013年02月06日 00時07分17秒 ) パスワード


「周」の天子は 「王」と称し、諸侯の称号は 公、候、伯、子、男の爵位に従った。

明治の 華族の爵位は これに同じ。

又周の初期のころの都は殷の都の後にあった。

殷と周は兄弟の枝分かれとされる。|帝嚳]の次妃・簡狄は有娀氏の長女で、殷の始祖の母。|帝嚳]の后・姜原(きょうげん)は 有たい氏。

周は四頭立ての馬車があったが、後に出る 高車族が連想され、この 族に まっかつ とっけつ てつろく 他。
てつろく・・・突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。
[70]さくらさんからのコメント(2013年02月06日 00時33分34秒 ) パスワード

49沖縄の那嘉氏はのちに尚氏という王家を作ったが、その同族は契丹の王妃族蕭氏になっている。

尚も蕭もシシュナガ族を表わしたものである。因みに、契丹王族の耶律氏は匈奴★チュルク族の支派であった。

北支で中山国をたてたシャキィ族の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、かれらがのちの奇子朝鮮を作り、・・・

その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり.、のちに契丹の王族と王妃族になったのである。・・・ネットより

ミャオ族がいつく女媧・蚩尤 シンボルは「揚羽蝶」
蚩尤のお顔は平将門や藤原俵太のお顔とそっくり。
又猿田彦の高鼻の伝説に同じ。



[71]さくらさんからのコメント(2013年02月11日 23時28分28秒 ) パスワード

熊野の善財王の伝説の他に もうひとつ 熊野と呉
呉王遺民熊野亡命説
熊野本宮の祭神であるケツミコノカミをスサノオノミコトとするのが、いわば定説である。だが、この神を中国最古の王朝である夏の最後の王・桀であるとする見解がある。つまり、夏、殷、周という古代国家が滅亡したさい、中国南部東シナ海よりの呉の遺民たちのなかで、熊野に亡命した集団がいた。彼らは熊野に落ち着くと、その祖先の夏の桀王をまつった。それが熊野本宮のきげんだという。(藤井尚治「国史異論・奇説新学説考」)

この伝承は江戸幕府の儒官・林羅山 鵞峰の編した近世最大の史書「本朝通鑑」に採用されている。
そして それを見て憤った水戸(光圀)黄門が「大日本史」の編纂を決意した。
水戸光圀は「神武天皇」から皇統譜をつくっている。

魏志倭人伝に「倭人には自らを(会稽北の呉の)太伯(王族)の後(後裔)、とする伝承がある」との記録がある。

荒木田家嫡流は斉王とその王子をまつっているとネットに書いていた。

田斉は 周の武王の女子と舜の子孫の男子にはじまる。
大陸では夫も妻もそれぞれの家の苗字を名乗り、王室に入った后は実家の力によっていたようだ。

熊野の伝説周の王子の話。呉の太伯の話。それぞれの夫 妻の筋のことだろうか?

熊野の他の伝説
熊野の神は、中国の天台山の王子・信(王子信は誰人なるかを知らず。もしくは周の霊王の太子・晋か)と「長寛願文」にある。が、この神の姿をとって現れたものという。
王子・信は 九州・四国を経て紀州新宮の地に到着した。それから63年後、犬飼の熊野部の千与定が樹上に三つの月を見た。
不思議に思っていると、自分は熊野三所権現である。
一社は証誠、二社は両所権現である。という声が聴こえたので祀ったという話である。

周武王時,舜的嫡裔媯滿娶了武王之女太姬,稱胡公。胡公之後,傳到十世孫媯完,因故奔齊,
● 西元前672年媯滿的第12代孫陳完,因避難逃到齊國,改姓田。
後來他的10世孫田和建立了田氏齊國。
● 戰國末年,齊被秦滅。齊王的長子升次子桓先後改姓★王氏,
● 三子田軫逃至穎川(今河南禹州、許昌一帶),恢復陳姓。從此陳氏一門在中原瓜瓞連綿,生生不息,發展成為名門望族。資料來源: 網路消息
● 許昌・・・後漢の要の都市   
● 兎州・・・鄭州に夏の兎王に関係する。黄河。「中原」。
● 穎 → これも秦氏の「羸」と同じく「えい」と読む。
丹後にある「天の羽衣」伝説は楼蘭の田章(陳章)の伝説。

周の呉と三国時代の孫権の呉の関係
古公亶父 →太伯・・・呉を建国。後、田完子孫・孫権が三国の呉を建てる。
古公亶父 →虞仲・・・・・・太白の呉を継ぐ。
※太伯・虞仲は父が季暦に王位を次がせたがっているのを知り、国を出た。この話は百済の建国神話に似ているという。

★中国資料に イリ カザフ あたりに 百済の故郷がある と いう。
カザフ族と イリ族は 現在 同じになっているが、イリ族に はじめ すばらしい馬がおり、武帝は そちらを 「天馬」としていたが、カザフの馬を見てそれを「天馬」と称した。
シルクロードとは 「汗血馬」に対する 漢の武帝のあくなき欲望が ひとつのきっかけになって 開かれた道なのである。

★ 大宛(フェルガーナ)は 匈奴の西南にあり、漢の西にあたる。・・・土着で農耕をし、稲 麦 ぶどう酒がある。この 大宛が カザフ イリあたり。

大宛とは、紀元前2世紀頃より中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。


[72]さくらさんからのコメント(2013年02月12日 20時51分34秒 ) パスワード

古く 天孫・ににぎの子供を生むとき 山ノ神の娘「木花咲夜比売」 は 火の中で出産するが、台湾あたりでは 出産のあと 火で体を温め 大量の汗を出すと産後の回復が早いとされていたという。

大宛は ゾクド人に吸収された。
ゾクド人というのが 石氏。羯けつ族の長。(ゾクド人は石氏だとテレビで出ていた。)


イーニンは イリ・カザフの州都。かっては烏孫族の一部で、13世紀には チンギスハンの息子チャガタイハン国の都 アリマリクが置かれた。
[73]さくらさんからのコメント(2013年02月15日 00時17分48秒 ) パスワード

54 百済は 馬韓の一国から 勢力を拡大。
馬韓は 古称 「赤間が関」
下関の別称で 近くに 壇ノ浦がある。
赤間とは 赤馬のこと

百済の故郷 大宛
大宛の汗血馬は赤色

馬韓は蓋馬韓 解・穢 馬韓から百済 百済の穢王の印 扶余の穢王の印
64北扶余(潘耶)は穢国の前身
史記では 「趙世家」の前半。

馬韓の辰王が三韓に君臨←朝鮮半島
*辰王が都にしたという「月支国」の場所も杳として未確認
韓国の学者も深く研究しようとしていない

古朝鮮 辰国
辰国の国王が韓王を号したことから、韓族が建てた国家との推論もあるが、考古学的に実証された訳ではない。 辰王は月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

紀元前の三韓時代に馬韓(後の百済)、辰韓(後の新羅)
弁韓(後の迦耶)あり
弁韓の弁(べん)は蓋(ふた)に通じカサと称した
★蓋馬韓 蓋国と書かれる

月氏は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。

秦・漢代に中央アジアで活躍した民族。トルコ系・イラン系・チベット系などの諸説がある。初めモンゴル高原西半を支配していたが、紀元前二世紀頃匈奴に圧迫され、その主力(大月氏)は★イリ地方からさらにアフガニスタン北部に移動、バクトリアをも支配した。甘粛地方に残存したものを小月氏という。

大月氏とクシャーナ朝
貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという『後漢書』の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。

中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。





[74]さくらさんからのコメント(2013年02月15日 00時48分36秒 ) パスワード

71荒木田家嫡流の人は 伊勢神宮をはじめとする神道で祀っているのは、斉王とその王子たちだとする。

田斉は周の武王の女子と舜の子孫の男子から出る。
推考が入るが、田中と佐田は 盤古子孫として 田 向で つながる。
● 徐 と 蘇は 微妙に発音が違いながらつながっている。

猿田彦「佐田彦」は「天孫ににぎ」の降臨をいち早く知り、先導した。
●「記紀」に猿田彦は地上から高天原まで照らす神として書かれている。
●孫氏は「田完」の子孫といわれ、「田完」が もと 陳氏だった人。田氏は陳国王の子・陳完を始祖として始まる。 陳国が乱れると陳完は斉に逃れ「陳」と音の近い「田」に姓を変えた。

西遊記の玄奘三蔵は唐国の皇帝の弟で、「陳」姓としてある。
孫悟空はお弟子であるが、同じ陳からわかれでたわけである。

陳姓還有三個系來源,分別是春秋時★楚國的★劉矯後裔,隋初白永貴的後裔,還有突厥族候莫陳氏之後裔。

舜は陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。
ちなみに白川静は舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。
[75]さくらさんからのコメント(2013年02月15日 02時40分08秒 ) パスワード

田中とサダの関係
★楚國的★劉矯後裔,
劉矯⇔陳矯
彼は本来劉姓だったそうで(つまり本名は劉矯)、家を出て母方の叔父の家を継ぎ陳矯になったそうなのです。奥さんの旧姓が劉さん。
この話の何が問題なのか?現代の日本人にはさっぱり理解できませんが、どうやら同姓同士で婚姻するのは、非常識だという常識があったそうです。
『同姓不婚の原則』と呼ばれ、風俗に反すると思われていたそうです。(三国志3 巻末注より)

71夏
呉は 夏の桀王を祖先にしている。
西夏にこういう話がある。西夏は 楼蘭で 田(陳)章の 「天の羽衣」伝説が日本(丹後)にあるが、西夏は 本 魏。
赫連勃勃の建てた 夏国が あったところ。
夏の初代皇帝は 匈奴。劉衛辰の子が 赫連氏と 改姓。
この 氏は 結婚した相手が 男系だったから 改姓したという。

劉氏は母系。
漢王室の劉邦の母は劉姓だが、父は 太公とかかれ、蓋太上公父である。
劉の 先祖が 堯。

堯の父・嚳(こく)は、上古中国神話上の帝王。名は高辛。
嚳は、黄帝の曾孫となる。陳鋒氏の娘との間の子に、堯がいる

大田亮姓系辞典は
烏条 下村に
漢士 漢王室光武帝子孫 少昊金天氏子孫と 書く。
金天氏の子孫は「金姓」を名のる人が多い。新羅もそうである。

殷 堯 舜 すべて 東大神族(シュウカラ)だった。

辰韓=秦=新羅 中国の文献では辰韓の斯(し)盧国から新羅に変わった。「三国遺事」に 本姓・解又は穢也。

新羅王家は 金・昔・朴で 昔氏が 殷・周の宝物を持っていた。
昔氏は かささぎ で、イー族に関与し、「牧羊神」 「竜頭船」 「大理国」「大和城」 に関与し、「南昌国」で 阿育王と蒙女との間の子に関与し、東アジアの王国は皆 この人の子孫とする。

高句麗・ 扶余→ 解 貊

「山海経」では
穢国が 「盖がい かい かさ ふた」国と なっている。
「盖国は 鉅きょ ご燕の 南に ある。」 と 述べているが、この  鉅燕は智淮氏燕で、箕子朝鮮のことである。
穢王は 徐姓(楚(び)

北扶余後期王朝は 「東明王」に はじまるが 東明王は 淋聖太子 にも 擬せられる。
淋聖太子は 山口から 出た。(大内氏(山口)(他他粒氏)は 淋聖太子の子孫ともする)(八代の亀蛇祭りは 淋聖太子のことと する)。

北倭記は この 王家のルーツについて
宛の 徐 が 遼河の 流域に移動したと 述べる。
宛は 河南省南陽にあった 製鉄基地。
高姓は  河南省が 源生地だった。

大宛と宛の関係は ローマを大秦といい、中国のそれを秦というに同じと言う。
東明王は百済の王で、百済は高句麗の子から始まり、百済は大宛が故郷だった。

殷の 頃は 青銅器だが
彼らは 鉄も 関係している。
契丹は 鋼鉄の 意味でもある。

契丹の古代史書に
安冕辰云(あめしう)」氏となす。
もと 東表の 牟須氏にいで、殷と 婚たり。

秦本紀 昭・王16年の条は
「公子・市の・陽君を宛に封じて諸侯とした」と 述べる。
・陽君とは 広陵(高陵)君と 兄弟。秦の枝分かれで 母は 楚の 貴族の女子で二人は同父母の子。穢邑の君は 陵君。辰伝殷(箕子朝鮮)を頼り徐珂殷 をたてるのは・陽君という。徐珂殷 が 穢国という。

徐=嬴姓=徐珂殷=穢国=金=アジア辞典に尾方・サダ・金姓
辰韓=秦=新羅 中国の文献では辰韓の斯(し)盧国から新羅に変わった。「三国遺事」に 本姓・解又は穢也。
新羅=金・昔・朴

田中 タナカ 田は多(た)の佳字にて、多(おお)の転訛なり。多(大)ノ国(後の百済、伽耶諸国)の渡来人多族、或は大族なり。古事記編者の多安麻呂も多族なり。日本書紀・崇神天皇六十五年条に「任那国の蘇那曷叱知」とあり。蘇は金(そ)で鉄(くろがね)のこと。那は国、曷は加で邑のこと、叱知(しち)は邑長なり。鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知(そなかしち)と云う。新羅国王も蘇那曷叱知を称す。多那曷・田那加は多ノ国の多族集落を称す。即ち百済人の国・邑・集落を田中と云う。




 









[76]さくらさんからのコメント(2013年02月20日 05時02分57秒 ) パスワード

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻★烏丸★鮮卑★東夷伝★倭人条の略称を指して用いられる呼称

古代モンゴルに繁栄した遊牧民族。前206年頃匈奴の冒頓単于によって滅ぼされた東胡の余類が2部に分かれ、北方シラ・レン川流域を根拠地としたのが★「鮮卑族」、南方ラオハ川流域を根拠地としたのが★「烏丸族」である。

後世 わが国に大挙してやってきた始皇帝子孫は すんなり受け入れられた。
彼らもまた東胡であったことが知れるという。

東夷と高夷
夏や商の時代に、魯や豫の大地で鵠をトーテムとする高夷氏族が活躍していた、鵠とは白天鵞(オオハクチョウ)で、高夷は東夷族に属していた。

周代以前の「夷」とは現在の江蘇省や山東省周辺に居住していた民族を差していたとされているが、史書が編纂された時代において「夷」は消滅しており、中華世界の東に居住していた諸民族を指して「東夷」と呼んでいた。主に韓,倭(朝鮮,日本)を差すことが・・・

渤海 北魏 の中の子孫・女真と靺鞨
靺鞨 - Wikipediaより
南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔 である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に 女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。清は「サダ突厥」である。漢王朝・唐王朝と姻戚関係を持つ。唐王朝には真珠を売りに行っていた。



[77]笹井さんからのコメント(2013年02月20日 05時48分42秒 ) パスワード

靺鞨 は 北海道・東北あたりにもいた。

以前テレビで靺鞨の服の着方が 左前だったのを見たが、北魏馮太后というドラマでも左前だった。

わが国では古くは左前だったが、唐の服制にならい右前に変えたという。

お釈迦様の母・摩耶夫人天人像
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_69.jpg
この画像がどちらかな ? と 思うけど、一番左端の人の襟は右前に見える。

出雲向 家の方のコメントで インドからきているということだった。

猿田彦は国常立命になぞらえられるが、猿田彦出生の話にも「金羽羽矢」伝承があり、神武東還の話にも羽羽矢の話がある。

猿田彦の母は神魂尊。
この神を隠すために他の人の名になっているという。

  
[78]さくらさんからのコメント(2013年02月21日 22時22分51秒 ) パスワード

http://asuka.jp-japan.net/index.php?page_id=44 より
池田仁三氏の画像解析により箸墓古墳(大市墓)の被葬者は倭迹迹日百襲姫(第7代孝霊天皇の皇女=第8代孝元天皇の異母妹)であることが、同古墳の環濠周 辺から発見された。墓誌「倭母母曾毘賣命戊寅年十月二十日御歳八十四歳」が解読され、生存年は115〜198 年とみられている。この生存年は、三国史記★新羅本紀に登場する倭女王卑弥乎で、魏志が伝える景初三(239 )年以前に登場する耶馬台国の女王卑弥呼である。
[79]さくらさんからのコメント(2013年02月22日 19時56分02秒 ) パスワード

箸の文化
多氏がまつる 神社 外宮 
                                    日原神社
天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
己上神社 川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。・・・鉄の御影神社 御影は御上
若宮一座
天孫 国照火明命 神像★竹箸に座す。
摂社一座                                (官社に非ず)八剱神社
出雲速蛇建雄命  神像横刀に座主す。
己上神社 は 川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。       
             
★ 檜原神社(日原神社=元伊勢の宮)
大神神社摂社。祭神 大日霊女貴神(天照大神)
ここは 三輪山の西北の端の山麓。崇神天皇の御子・豊鋤入姫(豊城入姫)が皇居より霊位を持って出て、最初に仮宮を置いた笠縫村。

・国照火明命が竹箸に坐すとある。

箸の文化
古代の日本は手づかみで飲食していた。一方、日本の「古事記」や「日本書記」には、神代の昔から日本には箸が存在したとの記述がある。

騎馬民族はあまり箸を使わずナイフで切って食べる。

殷の帝辛(紂王)(紀元前1100年ごろ)が象箸(象牙の箸)を使用したという逸話が『史記』巻38 宋微子世家[23]、および『韓非子』喩老篇[24]にある。

中国では「箸」が戦国時代に現れ、この字には竹冠が使われていることから、当時から竹製のものが一般に使われていたのではないかとされる。

中国文化が周辺地域に影響力を及ぼすと共に(周辺地域の民族が外交的に中国・漢民族から野蛮人と見られたくないこともあって)、他の国でも使われるようになっていった。楽浪郡の遺跡からも箸と匙が見つかっている。

日本では朝廷の供宴儀式で採用したのは聖徳太子とされ、607年遣隋使として派遣された小野妹子一行が持ち帰った箸と匙をセットにした食事作法を取り入れたものと言われる。日本で最も古いとされている箸は7世紀後半の板蓋宮跡および藤原宮跡からの出土品とされる。



[80]さくらさんからのコメント(2013年02月25日 06時02分29秒 ) パスワード

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen2-kisicyosen.htm
古朝鮮 箕子朝鮮

殷の箕子の朝鮮・殷の微子啓の宋。宋に雀あり。新選姓氏録に関与する万多親王は雀氏は中国上姓四姓のひとつ といった。

49因みに、契丹王族の耶律氏は匈奴チュルク族の支派であった。北支で中山国をたてたシャキィ族の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、
かれらがのちの奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり.、のちに契丹の王族と王妃族になったのである。(ネットより)

箕子の保護下 徐可殷をたてるシャキイ族。

私は子供の頃 きしちょうせん という 言葉を聞いており、長じて きじゃちょうせん と言うのだと知りましたが、又 それが 祖先伝承かはわかりません。

もうひとつ 四浦平家城 と言う言葉も聞いており、これは 縄文遺跡・平家城跡・相良外城 と 遺構が重なっているらしい と いい、存在が確認されている。

親戚が持つ市房神宮のお鏡(田山で田山の本姓は阿保氏。阿保は阿部に通ずる。青森にこの姓は多いという)。市房神宮や阿蘇神社の宮司は尾方氏。

市房神宮は天孫が降り立ったという霧島神宮(元高千穂)を勧請して立てられたもの。

私は他の場面で 前に 神代とは 必ずしも一代一代おりてきているのではなく何か 大きな 国の興亡を書いているのではないか? と 書いたことがあります。

又 古代は わが国と半島はひとつの文化圏と考えるとわかる と書いている本もあります。




[81]さくらさんからのコメント(2013年03月04日 04時42分54秒 ) パスワード

ショー族とヤマタノオロチ神話
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f11/suwa107.htm 諏訪春雄通信107に興味深いヤマタノオロチ神話と酷似する中国南部の伝説の紹介があります。
高天原系の王権神話といったん別れ、日本王権神話の体系に従って、出雲神話と中国南部神話との関係

ショー族の話も ずっと前に 他の場面で他のところに紹介したものですが

大林氏「日本神話の起源」(角川選書1973年)
日本神話の源流は中国にあり、中国南部の神話と 同じ。

ところで 漢字で書かれるのは その 発音をとってかかれた ということを本で見たことがあるのですが、向もしょう と 読む。

ヤマタノオロチに人身御供を差し出す 山ノ神系の人
おろちを退治するスサノオ
スサノオと山の神系の女子との結婚

神話の話でも わが国だけの中で起こったことを伝えるばかりではないように思えるのだけど・・・
[82]さくらさんからのコメント(2013年03月08日 23時27分57秒 ) パスワード

古代史の画像・日本人のルーツ: 竜宮城震旦国の謎と答え
http://matmkanehara.blogspot.jp/2011/05/blog-post_15.html
弥生人
「『大隈正(おおすみしょう)八幡縁起』の証言」

「山幸彦=彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」を祭神とする鹿児島神宮には、『二十二社註式』や、『惟賢比丘(いけんびく)筆記』などという
古文献に記録された『大隅一の宮・正八幡縁起』と呼ばれる物語があります。

『昔、震旦(しんたん)という国があり、<陳>という大王がいた。ところが、まだ7歳にしかならない幼い姫の「大比留女(オホヒルメ)」が妊娠していることがわかった・・・母の大比留女は、その後、筑前(福岡)の若杉山に移り「香椎聖母(かしいしょうも)大明神」と崇拝された

種子島の南部、ロケット基地に近い南種子町茎永(くきなが)に、豊玉彦と豊玉姫の遺跡だという伝承のある「宝満(ほうまん)の池」と、田の中に、こんもりと盛り上がった古墳と、それに向かい合った鳥居と小さな桐(ほこら)しかない「宝満神社」があります。

昭和30年9月、台風22号が南種子町の広田海岸を襲いました。荒れ狂った高潮が退いた跡に、白い人骨が散乱しているのを長田茂氏が見つけました。
そこで広田遺跡調査団が組織され、昭和32年から足掛け3年をかけて発掘調査が進められました。その結果、そこは弥生時代中期から後期に及ぶ埋葬遺跡で、

古代中国系と、インドシナ系の二つの系統の埋葬習俗が合流した集団墓であることがわかったと発表されました。。埋葬遺骨は百余体にのぼり、様々な彫刻をした貝殻製の装身具類も多数見つかりました。その中には古代中国の戦国時代に始まる独特の文様を彫ったとされる「貝符」や、竜の形を象(かたど)った「竜佩(はい)」。さらに「山」の字を隷書(れいしょ)体で彫ったものが見つかって、日本最古の文字として有名になりました。

ところが私が綿密に調査してみると、何と! それまで中国の古代文様だとされていたものは実はギリシャ文字だったのです。紀元前1世紀、この付近には、すでにギリシャ文化と中国文化とが合流した先進文化圏が現実に実在していたのです。

そして、そこには、紀元前から「ヤマ神」を信仰する人々がいました。
[83]さくらさんからのコメント(2013年03月08日 23時38分29秒 ) パスワード

宇佐八幡の阿蘇神社縁起には「高知尾明神」「阿蘇神社」「宇佐八幡」を兄弟神とする。

八幡宇佐宮御託宣集に「古イニシヘ吾れは震旦シンタン国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ」 とある。震旦国とはチャイナを西方から呼ぶ名である。震旦国の霊神とは道教の最高神太一神、大元神を指す。日域とは日本である。

http://ohmononush.exblog.jp/17774928
隼人と呉の関連 肥前、肥後、そして鹿児島
『続日本紀』和銅6年(713)4月3日記事に日向国から大隅国が分立された
隼人の曽於は熊襲にも繋がってくる。肥前に入ると、潮満玉、潮干玉の伝説がある與止日女神社(よどひめじんじゃ)または淀姫神社が多い。この分布を見てみると、かつて卑弥呼の時代にあったとされる狗奴国が、半島に渡るのに、女王国によって検閲されて、松浦からやっと船出したという、『魏書』倭人条や『桓檀古記』太白逸史の記事の半島渡来ルートを彷彿とさせるものである。そしてここに、隼人伝承の潮満珠、潮干珠と同じものがあり、肥前、肥後、そして鹿児島にいたる繋がりが見えてくる。これはいわゆる在来系渡来人とされる、人骨出土分布にも重なってくるのである。
[84]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 05時31分24秒 ) パスワード

震旦(しんたん)という国があり、<陳>という大王がいた。ところが、まだ7歳にしかならない幼い姫の「大比留女(オホヒルメ)」
筑前(福岡)の若杉山に移り「香椎聖母(かしいしょうも)大明神」

香椎聖母(かしいしょうも)大明神と
香椎宮 筥崎宮 宇美八幡宮 八旛 応神天皇 神功皇后 仲哀天皇
神功皇后は新羅の血を引いている
仲哀天皇の父・ヤマトタケルは平川(良峯)から 田県神社 百済 劉姓 などが関与してくる。百済氏=坂上氏=東漢氏=坂上は漢王室子孫とする

おおひるめ と 時代は違うが、半島を通りながら おおひるめの頃 住んでいた人たちの地盤に後の歴史を彩る人たちが住んでいる。 


[85]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 05時48分30秒 ) パスワード

※徐珂王は「史記」等では歳#君とする。
※徐姓は 瀛姓でもある。楚の 姓・苹姓も 瀛姓。秦は 楚の貴族の女子を后にしている。楚の人の 風貌は 中国の人と 少し かわっていた という。
  
楚は漢民族形成の母体となった黄河文明系の諸民族とは異質な、長江文明の流れを汲む南方の異民族によって建設されたと考えられている。これらの民族は、長い年月をかけて混交していったと考えられ、楚を構成した民族及び支配層がいかなる民族であったのか、また現代のどの民族に関係しているのかは、まだ明らかとはなっていない。

現在湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚の建国に大いに関わり、支配層を構成していたと見られているが、確定的な証拠はない。周を中心とした中原諸国からは蛮族として蔑まれたが、(この時代の尊王攘夷の夷とは楚を指していた)独自の高い文明を持っており、周の建国から少し経った頃に周の史書に現れ始め、熊繹が成王から子爵に封じられたといわれる。ミャオ族は 南昌国を建国したとも言われる。

[86]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 05時51分47秒 ) パスワード

中国は 契丹である。田 サダ(向)は 盤古子孫で、向は 神農氏(炎帝・赤帝)子孫である。

盤古子孫は 漢民族・苗族・田・向。
中国の人は 一世を ウバイドで有苗・三苗とし 
二世を 伏儀・女媧とする。盤古は 伏儀・女媧と同じとされる。

大陸の王室は 胡族であり、韓半島も 東胡と書かれていた。
殷も周も他もそうであり、辰伝殷も秦も徐珂殷も東族で、周の武王は辰伝殷(智淮氏殷)を呼ぶに東胡をもってし、漢の武王に至り、初めて朝鮮の名称おこれり。

[87]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 05時54分00秒 ) パスワード

夏の初代皇帝。匈奴
 劉衛辰の子・・・・・・・・赫連氏と改姓。
 後漢王室高祖はサダ突厥。

赫連勃勃{夏世祖武烈帝}(夏) 
     ||・・・西夏・陳(田)
北魏の拓跋氏の子孫
北魏・北斉
北魏・渤海の人・高歓 (神武帝)
北斉三代皇帝・孝昭帝

周武の女子
   ||・・・田斉(陳)
舜の子孫の男子(有虞氏)
田斉の最後の皇帝・王建の子孫が
漢の外戚・王莽。

彼らは胡族で同祖で上がっていく。
[88]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 05時57分26秒 ) パスワード

また 高麗の太祖・王建は新羅49代憲康王。877年生。
高句麗を継承する意味で、高麗とした。『高麗史』には、彼の先祖である★虎景は白頭山を越えて南側(開城)へ移住して来た昔の高句麗の大族だったと記録している。高句麗は 扶余(ふよ)の国に、解夫婁(かいふる)という王がいた。
穢=解 伯益の子孫・高陵が解邑に封じられた
[89]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 06時04分30秒 ) パスワード

▼ 箕子朝鮮(箕子殷)の地理
「旧唐書」、遼東はもと周が(殷の)箕子の国として封じた地で、漢代の玄菟郡にあたる。
「漢書〜地理誌」玄菟郡は真番国と朝鮮国である。楽浪郡はむかしの朝鮮国である。楽浪郡朝鮮県は周の武王が箕子を封じたところである。
遼東郡険讀$県は衛満の王都である。
★★北魏の 平洲 北平郡が 朝鮮縣であること
及び 「大明大統志」に
 朝鮮城 。 在府境内。 相傳。 箕子受封之地。
と あり、然れば 蘇秦に(周武によって) 「箕子を 朝鮮に封ず」 とある朝鮮は 今の朝鮮にあらずして、「大明大統志」にみゆる朝鮮に非るや、 研究を要します と 鹿島昇氏は 書く。
   ↓
北魏は 山西省に関与し、そこに 切妻造りの家がある。高槻の(笹井は切妻造り・古墳時代の神社の本殿のつくりと同じ)なので、高槻の重要文化財になっている。
殷の祭祀を受け継いだ 「微子啓」は 周武によって「宋」にふうじられ、子孫「雀」あり。
「雀氏」は 笹井 佐々木 雀部朝臣 などに 関与した。
住吉の 雀の松原に 詳しい。
新選姓氏録表文に 「雀氏は中国上姓四姓の ひとつ」と 書かれる。
「楽浪王」は「雀氏」である。
[90]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 06時07分52秒 ) パスワード

▼「桓檀古記〜馬韓世家、下」檀君索弗婁(22世)、白岳山の鹿山に都し、阿斯達と称した。三韓を三朝鮮と改め管境とした。古の辰韓を真朝鮮として自ら治め、黎元興に馬韓を莫朝鮮と改めてつくらせ、徐于餘に番韓を番朝鮮と改めてつくらせた。

黎元興の子、阿実。子、阿闍。(殷、滅ぶ。)子、阿火只。弟、阿斯智。兄の子、阿里遜。子、所伊。子、斯虞。子、弓忽。

★(倭人が叛いたので陜野候に討たせた。)

子、東己#。子、多都。子、斯羅。子、迦葉羅。子、加利。孫、典奈。子、進乙礼。子、孟男。
↑ 己#(+[禾へん)、

「桓檀古記〜北夫餘紀、上」五加、遂に共和の政を撤して、解慕漱を檀君(一世)とし、北天(夫)餘の始祖とする。箕丕の子、箕準を番朝鮮王とする。天を白岳山の阿斯達に祭る。陳勝の乱で秦人、大いに乱れ、燕・斉・趙の民は亡んで番朝鮮に帰する者が数万口に達した。

燕の慮綰は、遼東の故要塞を修復し、東は貝水を限りとする。
慮綰は漢に叛いて、凶奴に入り、衛満は番朝鮮に亡命した。
[91]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 06時10分41秒 ) パスワード

「桓檀古記〜北夫餘紀、上」

東明王の高豆莫汗、兵を起こして漢冦を連破する。

弟、解夫婁立つ。東明王に迦葉原に都を与える。迦葉原夫餘(または東夫餘)という。

「桓檀古記〜北夫餘紀、下」北夫餘は衰え、漢冦が盛んとなり、高豆莫は卒本(忽本)に即位し、自ら東明と号した。漢冦と戦い、九黎河を渡り遼東の西安平に至る。古の稾離国の地である。裴川の漢冦を破る。解夫婁を候とし岔陵に遷す。都城に入り北夫餘と称する(高豆莫、檀君五世)。
[92]さくらさんからのコメント(2013年03月09日 06時45分49秒 ) パスワード

高岡の言葉の由来ははっきりしないのだけど、
辞典には 美称か? とある。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子孫につく。

尾張熱田神宮社家に 桓武天皇の子供として 嵩岡がある。たかおかとよむらしい。

北魏に嵩岳寺があり、すうがく と 読むとネットにあるのだけど、北魏の皇帝の離宮だった。北魏は拓跋氏。87

北魏の次が 北斉。高氏。

もしも 嵩岳が たかおか だとしたら・・・このことは どこにも 根拠を書いていない。

左前の着方から わが国古代の服の着方に通ずる。

75田中 多
私の父方・高岡は田中と親戚だった。
高岡は白石へ養子。
白石と山口・平江と姻戚関係
と 密接につながっている。

母によれば 母方も ずうっと昔から いとこどおしで 結婚していた。それは他の家に嫁入っても そこから また 嫁取りをしていた。

母は 一族の中では 佐田 の血が一番濃く
父のほうも いとこ同士でつながっており、姉夫婦のときも いとこどおし。
高岡・平江・山口

 
   
[93]さくらさんからのコメント(2013年03月10日 21時15分39秒 ) パスワード

★大和・多坐弥志理都比古神社(多氏がまつる神社)
 神名式
多神社 多坐弥志理都比古神社 二座
 四皇子社
  皇子神命神社
  姫皇子神社
  小社神命神社
  尾就神命神社  大社皇子神

天平2年大和国大税帳
多神宮 注進状
     大宮 二座  
       ★珍子賢津日霊神尊  皇像瓊玉に坐す。
       天祖 聖津日霊神尊 神物円鏡に座す。
     若宮 四坐
       彦皇子神社
       皇孫 日火霊神尊
       姫皇子神社
       天媛日火霊神尊
     樹森神社
       瓊玉戈神尊
     日月神社
       火瓊神尊
     若宮二社
       子部神社  皇弟 天火子日命  神像統玉に座す。
       子部神社  皇弟 天火子根命  同上
     己上は 意富郷にあり、多朝臣 禰宜たり。肥直 祝部たり。
    外宮 
     日原神社
       天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
       皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
     己上神社   川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。
     若宮一座
       天孫 国照火明命 神像竹箸に座す。
 摂社一座                                                
(官社に非ず)八剱神社
          出雲速蛇建雄命  神像横刀に座主す。          
己上神社 は 川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。
祭神 ★賢津日霊神尊は「河内国高安郡春日部坐★宇豆御子神社」と
「春日部坐★天照大神之社」と同体異名とある。
神武天皇は事代主又は大物主の女子と結婚した。この女子はナガスネビコの妹と天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の間の女子でもある。(事代主=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=大物主(大国主))
子孫の多氏はつまり、皇后の実家から出る中原(佐田)と血を同じくする。スサノオまでたどれば、父母同じくつながる。アマテラスの皇太子・天忍穂耳命と結婚する高御産巣日神の女子は豊秋津師姫。

十市氏系図で、豊秋狭田彦がおり、豊秋を冠するのは 佐田。

球磨郡に川辺川があり、阿蘇神社がある。
多氏が祀る神社 に 出る人たちは 高天原族と言われる人たち
アマテラスもこの人たちが持ち込んだ。

出雲との接点は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(事代主) 長脛彦(登美)

神武天皇はわが国を「秋津州」といい、奈良時代 わが国に来た渤海の使節・うすぼつ は 自分とこの王の先祖・扶余と、日本の天皇家の祖先は昔 本枝の間柄だったのだから、親戚の付き合いを復活しよう といい、日本のほうも そうだといって 国交が復活した。というが うすぼつはわが国を「秋津」と 言ったという。

滝原宮から出る 話しに 天智天皇子孫・淡海三船がおり、神武以下の天皇の諡号を漢風にした。

葉木ということばには、国常立尊・豊国主尊などの別称がある。系統が同じと捉えてよいだろう。又 丹後の方の貴峯宮 御影山から 国常立尊は高御魂巣日神と同じ神のように受け取れる話がある。

猿田彦は国常立尊ともいい、時代が下がるが 豊秋狭田彦は高御産巣日神の女子と同じ 豊を関している。同じ流れと考えられないだろうか? そして サルタビコには 金の羽羽矢伝説があり、神武天皇東還時、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の天の羽羽矢をみせ、神武がそれを見て同族と確認する。


[94]さくらさんからのコメント(2013年03月11日 23時00分37秒 ) パスワード

祭神 ★賢津日霊神尊は「河内国高安郡春日部坐★宇豆御子神社」と
「春日部坐★天照大神之社」と同体異名とある。

埼玉苗字辞典宇津味条
宇豆はうづ・うつの当て字で、
武 蔵国の宇津味族 武蔵は胸刺の佳字でムナサシである。韓人の国を称す。我埼玉県は縄文・弥生時代以来韓人の大量渡来地にて、彼等は海洋民宇津味族で ある。注・藤原鎌足が蘇我氏をうったとき、村人 「韓人 鞍作りを殺死ぬ」といったといい、韓人の流入はあった。

埼玉苗字辞典はこのあと一・「最古代東日流外三郡暦」のこと、高天原・成王即位す(紀元前一一一五年)、日本に国王なし。

82豊玉彦
二・海部族 「彦火明命(ひこほあかりのみこと)―児彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)―児建位起命(たけいたてのみこと)―児倭宿禰命(やまとすくねのみこ と)―児天登目命(あまのとめのみこと)・亦云う葛木彦(かつらぎひこ)」と見え、その左に「建位起命―児宇豆彦命(うづひこのみこと)―児倭宿禰命―亦 云・葛木彦命」と見ゆ。姓氏録に「綿積★豊玉彦命―宇都志日金 折命・亦名穂高見命。其の弟に振魂命―武位起命―椎根津彦命」

大田亮氏辞典 別冊 あま 海部は沖縄の祖神とある。

三・以下 太秦族 多族 武内宿禰 安曇 渡部 臼井 薄 鈴木 穂積 日鉾 関氏 石井 石川 など のことが書いてある。




[95]さくらさんからのコメント(2013年03月11日 23時14分32秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典
猿田
神代に渡来した猿田彦は別名「国底立神」とある。 神代初代「国常立尊」の別名で、二代が豊国主尊である。豊国とは朝鮮僧を豊国僧と呼び、国常立尊(猿田彦)・豊国主尊の父子は豊国(朝鮮)の海部族である。ま た、一説に猿田彦は出雲国秋鹿郡許曽志神社(松江市古曽志町)が生地であると伝承あり。最初に上陸したのは出雲国で、猿田彦とは代々の海部族首領の名であ る。

と 海部族である。後 猿田大神は佐田大神とも書かれる。

わが国と半島はひとつの文化圏だった。みんなどこかからきているのだから、そう考えるのが自然と思う。
[96]さくらさんからのコメント(2013年03月11日 23時18分33秒 ) パスワード

田中と佐田
一 高麗郡猿田村の猿田氏 埼玉の神社に「上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。八剣神主★田中右近の先祖か。
[97]さくらさんからのコメント(2013年03月14日 21時02分16秒 ) パスワード

94最古代東日流外三郡暦に「支那国・周となりて武王在位す(紀元前一一二二年)。東日流(津軽)にては大船を造り、渡島および東島崎に交航す。日向に高天原天神地神の愚想信仰起こり、衆これに従ふ者多し、この尊師は女人といふ。成王即位す(紀元前一一一五年)、日本に国王なし。

女人 高天原という言葉から、93・94の天照大神を連想する。

90「桓檀古記〜馬韓世家、下」檀君索弗婁(22世)
黎元興の子、阿実。子、阿闍。(殷、滅ぶ。)子、阿火只。弟、阿斯智。兄の子、阿里遜。子、所伊。子、斯虞。子、弓忽。

★(倭人が叛いたので陜野候に討たせた。)

陜野は神武の幼名だが、ニギノ尊というとき、アメニギシの一族 が浮かぶ。
59

どこかで前にも書きましたが
紀元2600年祭と申叔舟 「海東諸国記」
李氏朝鮮領 議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。
★成化7年辛卯季冬、申叔舟が序に云く、
「密かに国を見るに 東海の中におる者一にあらず。而して 日本最も久しく 且つ 大なり。その地は 黒竜江の北に始まり、わが済洲の南に至り、琉球と相接す。その勢甚だ長し。その初めに処々の保聚各自国を為る。
周の平王48年 その 始祖 狭野 、兵を起こして 誅討し、初めて州都を置く。大臣は各 文治を 占む。尚 中国の封建の如し。甚だしく統属せず。習性強得にして 剣槊(けんさく)に精しく、舟楫(しゅうしゅう)に慣う。我と海を隔てて相望む。之を撫するにその道を得れば即ち朝聘するに礼を以ってす。その道を失えば則ち輒ち(すなわち)肆(し)に剽窃(ひょうせつ)す。」  と。

82種子島にいた豊玉彦・豊玉姫伝承をもつ人たち

神武は母に海神の血を持つ


尾張熱田神宮遠祖は海神。
42饒速日命(火明命)は市杵島姫をめとり、彦火火出見と穂屋姫をもうけ、 穂屋姫と五十猛との間に、天村雲命がうまれた。

出雲向家では 天村雲命が神武天皇とする。

向家同族から 登美という家がでるので、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と登美のナガスネ彦の妹と結婚。その子と神武天皇と結婚。

彼らはまったく別の族でなく、海人族としてとらえるとき同族で、
24イザナミは、出雲の佐比売を隠すために創られた神で元々は佐比売山神社、能義神社、神魂神社、加賀神社で祀られていたと言います。
佐比売とは、サイノカミ信仰の神で、岐(クナド〜フナト)大神の妻にあたる神です。

安曇氏の祖の阿曇磯良はイソタケルのことだと言われています。イソタケルはスサノオの子供とされ、スサノオとともに朝鮮そしもりにいた。

スサノオは天照と同時代の人とされる。

桓檀古記 は 36世 檀君賣勒の
「甲寅38年狭野候・幋命を遣わし往きて海上を討たしむ」と述べ、狭野候はソシモリの子孫だとしている。
藤原氏(和邇氏から出た春日)の「九鬼文書」には、スサノオは檀君を称し、朝鮮春川にいた と 書く。

「北倭記・契丹古代史書」第25 26章は
武伯山軍 南に跳破するに当たり、たまたま寧義騅 その 船師 及び 弩旅を以って 渝浜に会す。・・・武伯追って夏莫且を獲、寧義騅 これを 斬って 以って 徇う。
第20章はこれを 寧祺ひ(田と比)にとるものは 和義・娰嬀・猶隗なり

三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。
戊申10年 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。
★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。

「桓檀古記」三国遺事は 壇君朝鮮→北扶余→高句麗
日本書紀は 天皇家を伯族のウガヤ王朝の子孫として天皇家の正統を主張した。
        (鹿島昇氏)

50・51
ウガヤ王朝というものが実在したかどうかはともかく、ウガヤは上伽耶と捉えることもできる。






[102]空の青海のあをさんからのコメント(2013年03月27日 21時11分09秒 ) パスワード

100を超えましたので、新しくスレッドをお立てください。

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