[1] | さくらさんからのコメント(2011年02月08日 20時45分01秒 ) | パスワード |
はじめまして
姫野総大将のことは知りませんが
お願いがあります。
姫野姓の由来をおしえていただけないでしょうか?
好奇心ではなく 純粋に姫野のことを 知りたいのです。
以前 姫島出身の 姫野さん と知り合いになったことがあります。
姫島の由来は ネットで知りました。
ここには 狐踊りがあると。
どんな 小さなことでも結構ですので 教えてください。
名前の横にあるところを押すと 私へのメッセージが開くみたいです。
[2] | 姫野修一さんからのコメント(2011年02月09日 18時29分50秒 ) | パスワード |
私が祖父母から聞いた内容では、平家の落人(源平合戦を経た後、大分県大分市大在に上陸し総大将の命により武器を鍬や鋤に変えて暮らしを始め姓を「姫野」(総大将のもの)名乗ったものと。ですから、知る限りでは、大分市以西には「姫野」姓が沢山おられますしネットで検索したところでは宮崎県北部や熊本南部に同姓が多い様です。ちなみに、歌手ではチューリップの姫野さんも大分の出身ですよ。ネットでは(鼠算ではありませんが)その後継者で広がっているようです。
[3] | さくらさんからのコメント(2011年02月09日 22時32分38秒 ) | パスワード |
姫野さんって 結構いらっしゃるんですね。
辞典で読んだのでは 平氏の子孫もその数ふえにふえ続けて 源氏に負けないのだと・・・
私の知っている姫野さんは 未婚の女子で 細身細面 鼻筋がすなおにとおって気品の有る顔立ちでした。
私の実家(父方)は熊本南部です。姫野さんはいらっしゃいませんが
紀氏で検索
越中国 高岡市
ー荘園ー
@1459「姫野保」石清水八幡宮領(菊大路家)
・郡名:射水郡 高岡市
・明治村字:姫野
石清水八幡宮 京都府八幡市の男山山頂に鎮座する神社
朝廷より木工寮権允橘良基が宣旨を承けて六宇の宝殿を建立し、同二年、誉田別命・比口羊大神・神功皇后を奉安したのが石清水神宮の初めである。
初代神主には行教の甥・紀御豊が任じ、のち俗別当に御豊の曽孫・良常が任じて、以後別当職を紀氏が独占し、良常の子聖清の時から世襲となった。29代別当慶清が田中を家号とし、32代祐清が善法寺(菊大路)を称し、二流に分かれた。以降、紆余曲折を経ながらも、田中・善法寺の二家は相次いで社務につき、現代に及んでいる。
というのがありました。
へえ〜 姫野のことばが ここにもある って感じですけど。
紀氏って源氏 平氏に関わるのかも知れませんね。
[4] | さくらさんからのコメント(2011年02月09日 22時37分51秒 ) | パスワード |
八幡宮のことは ウキからとったものです。神紋 三つ巴紋
紀氏で検索の方は紀氏の荘園・姓(国別)(5) です。
[5] | さくらさんからのコメント(2011年02月10日 22時46分47秒 ) | パスワード |
ご祭神の誉田別命・神功皇后は応神天皇と神功皇后で宇佐八幡にまつられておられるのと同じなので、比口羊大神をネット検索したら
社家の姓氏-上道氏
白山比口羊神社は遠く神代の昔、霊峰白山の神体山として、生きとし生けるものの「いのちの親神」と仰ぐ白山比口羊神社大神を奉斎したことに始まり、・・・祭神は白山比口羊(菊理媛神)、イザナギ神、イザナミ神で加賀国の一の宮でもある。
上道という氏は、吉備氏族の上道朝臣姓かと推測されるがその確証なない。
[6] | さくらさんからのコメント(2011年02月10日 23時21分12秒 ) | パスワード |
菊理媛神
この神は神代の人で、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。
邪馬壹国で書きましたが 大田亮氏姓系辞典より7 豊前国 仲津臣
中臣との関与が濃い
8 常葉
紀姓 岩清水司官族
太田亮氏の 姓系辞典から
★ 常石 ときは
和名抄常陸国那珂郡に起こる。後世 常葉 常磐に つくる。
@ 中臣姓 佐田前司為清の子・清佐
A 大和の常磐
十市郡常盤里より起こる。
中臣氏の族。天児屋根命18代黒田大連の孫
B 紀姓 常葉 常磐 石清水祠官族・兼清の子。兼清 号 常磐・・・
C 北家 長良流
長良の子 八条国経8世孫 為忠 子孫 為兼は 大鏡作者
D 桓武平氏 北条氏族 北条義時・・・
ほか いろいろ
★ 常盤井(井は 常磐に 井を つけたもの だと 書いてある。・・・松前神楽 笹井より)
西園寺 橘 渋江 等の条を見よ。・・・とあり、橘と渋江は同じ。
3ででる橘氏は父方・30敏達天皇 母方・神魂命で、神魂命系の出雲・佐田神社祭神の猿田彦も同族。
[7] | さくらさんからのコメント(2011年02月10日 23時32分27秒 ) | パスワード |
6西園寺
松前神楽 社家笹井より
藤原北家閑院流西園寺家 福島大神宮宮司・常盤井(笹井・佐佐井)
常盤井家は京都の常盤井の地名から生れた、神楽を司る堂上の家系であるとし、
また、その遠祖は常盤井大政入道藤原実氏としている。
藤原(西園寺)実氏と鷲尾貞子
平清盛の子孫に書いている。
[8] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 00時08分24秒 ) | パスワード |
大田亮氏辞典より
紀(常葉で紀姓が出る。
木 紀の左にんべん 記 域 等に通ず。中世以後 紀伊につくる。
紀井 域井 基律の左は長 にも 通ず。紀野にも つくる。
ほとんど 紀朝臣と称し、武内宿禰の末というが、数流あることは明白。
平 橘などの 盛んなるや これらと まぎれて 分かつべからざる者おり。
平安末期にこの現象起こる。
魏志東夷伝に 鬼国みゆる。
@ 出雲系紀氏
紀伊国すなわち紀国は出雲神族と関係深い。
★熱田旧記
「大国主」は 素戔鳴尊第七の皇子で、紀氏の祖神也。
とのせて、紀氏を出雲神の 後裔とする。
★地神本紀
「五十猛神(大屋彦神)」、大屋姫、抓津姫神は 紀伊国造斎柯神 也。
この 紀伊国造は 天神系統の 道根命 の 後裔の
紀国造と同一のようだが、道根は 神武東征の際、この地方の郡虜を 征服して、国造に補せられたと伝える。
道根後裔の紀氏には、別に「日前国県」の二神を 氏神とすることに より、別のようだ。こちらは 神皇産霊尊の子孫とする。
[9] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 14時20分38秒 ) | パスワード |
5の吉備氏のまわり
A倭氏 大倭氏
大倭氏の祖「椎根津彦(宇豆毘古」は神武天皇の東還の際、豊予海峡で出会った海人。
椎根津彦は 吉備海部直の祖。
岡山 吉備津神社(桃太郎神社ともいう)
祭神 大吉備津彦命・・・・・・・・崇神天皇のとき 四道将軍
相殿 吉備津彦命・・・・・・・大吉備津彦の子供
孝霊天皇・・・・・・・・・・・・・・大吉備津彦の父(第7代天皇)
孝元天皇・・・・・・・・・・・・大吉備津彦命の兄弟(第8代天皇)
開化天皇・・・・・・・・・・・・・・孝元天皇の子供(第9代天皇)
祟神天皇・・・・・・・・・・・・開化天皇の子供(第10代天皇)
彦刺肩別命・・・・・・・・・・・・大吉備彦命の実兄
天足彦国押入命・・・・・大吉備津彦命の親族・第5代考昭天皇の御子
大倭迹迹日百襲比売命・・・大吉備津彦の姉
大倭迹迹日椎屋比売命・・・大吉備津彦の妹
金山彦大神・・・・・・・・・・・・鉱山や金属業の祖神
大山咋大神・・・・・・・・・・・・山の神
● 夏至の日には 神殿の鳥居から朝日がまっすぐにお鏡に刺すことから「朝日の宮」と呼ばれた。
● 大和朝廷から派遣された大吉備津彦が 吉備の地を平定するに際して、渡来人として吉備の国に製鉄文化をもたらした 温羅(うら 百済の王子)との戦いが 、童話「桃太郎」の物語として今に伝承されている
● 吉備氏の祖 吉備津彦の母の名に 倭 大倭が冠せられている。
● 倭氏は 綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の[振媛命]
を始祖としている。
●安曇氏とは 親戚になる。振魂氏は 尾張氏・津守氏の祖でもある。
振は 石上神宮の布留御魂神の「布留」である。
[10] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 14時31分58秒 ) | パスワード |
A 天神系の紀国造
国造本紀
神武朝 道根命を以って紀伊国造となす。紀河瀬直祖。
紀伊国造 橿原朝の御世、神皇産霊尊5世孫・
天道根命を国造にさだめたまう。
紀伊国造職補任
天道根命日前国県両大神宮・天より降坐の時、天道根命従臣となりて仕え始 める。
神武天皇 二種の神宝を天道根命に託し、奉祭させた
名草邑に 名草刀畔を誅滅せらる。
日前国県宮
『日本書紀』の岩戸隠れの段の第一の一書には以下の記述がある。
「故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也」
三種の神器の八咫鏡に 先だって つくられた 2つの鏡という。
[11] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 14時33分11秒 ) | パスワード |
「石姥凝」を もって 治工となし、天の香山の金をとりもって 日矛をつくる。又 真名鹿の皮を全剥ぎ、以って天の羽韛をつくる。
古語拾遺
これにおいて、思兼神の議に従い、石姥凝神をして日像の鏡を鋳せしむ。 初度に 鋳るところは 少しく 意に合わず。(これ 紀伊国日前神也。)
釈日本紀
大倭本きにいわく、 天孫の始めて天下りますとき、共に守りの斎の鏡3面、子鈴一合を副ふる也。
一鏡は 天照大神の御霊にして天県神と名づけ奉る。
一鏡は 天照大神の御前の御霊にして、国県大神と名づけ奉る。
今 紀伊の国名草宮の大神なり。
一鏡 子鈴は 天皇・御食津神にして、朝夕の御食を夜護り、日護り斎き奉るの大神なり。
社家伝記
「・・・神武のとき、天皇 国々を経て摂津の国・難波に至ります時、天道根命二種の神宝を戴き奉り、紀伊国名草郡毛見郷に到り、琴浦の改定の岩上に安置し奉る。
崇神天皇の時、豊鋤入姫命・天照大神の御霊を戴き奉り、迂ります時、日前国県両太神は海底の岩上をはなれ宮を離れ共に進む。
天照大神は吉備名方浜宮に還りますといえど、日前国県太神は留まりて名草浜宮に住み、垂仁に至り浜宮より同郡神宮 名草郡萬代宮に還りて静まり坐す也。(今 宮地これなり)
[12] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 14時40分47秒 ) | パスワード |
道根命の後は
比古麻命―○―○―大名草比古命―宇遅比古命(孝元段 「木国造の祖・宇豆比古」)景行紀3年条 「紀直遠祖・兎道彦」)―○―○―等興美美命(神功紀「紀直豊耳」。補任「その子・豊布流・始めて大直を賜ふ。」)−○―○―○―○―○―○―○―○―20代・牟婁―○―○―23代牟婁の子・古麻呂―24代林直解任(古麻呂子)=25代千島(林直弟)・・・後宿禰になり、38代奉世に至り、文煥をムコとなす。文煥は紀淑光男・長谷雄の孫なり。39代は文煥の子・行義が継ぎ、これより皇別となる。
[13] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 15時03分25秒 ) | パスワード |
C 紀直
神代本紀
天御食持命(神魂命の子)紀伊直等の祖
G 紀臣
前項氏とは別。
武内宿禰の子。木角宿禰の後。
孝元本紀
「彦太忍信命は紀臣等祖」
古事記孝元段
「木角宿禰は木臣云々の祖」
この氏名は武内宿禰の母姓をおそいたが如し。
景行紀3年春2月条
「紀伊国に幸し、・・・屋主忍雄武雄心命(武雄心)をつかわして祭らしむ。・・・住むこと9年、紀直遠祖兎道彦の女・影姫をめとり武内宿禰を産む。」
古事記
「比古布津押の信命、木国造の祖・宇豆比古の妹 山下日売を娶りて子 建内宿禰を生む。」
G 山城の紀氏
京師の紀氏の他、岩清水祠官は多く紀氏と称す。
木
紀と通ずる。
@ 木国造=紀国造
A 常陸の木国造
「天津日子根命は木国造云々等の祖」
B 紀伊
宇都宮氏流
(紀井)紀伊
八幡愚童訓に見える。
C 菊池氏流
菊池系図
「西郷三郎隆房―隆有(紀伊三郎)
[14] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 19時57分58秒 ) | パスワード |
筑後の山城: かささぎの旗 で 検索すると
▼ ひめのかささぎの発言
甘木氏。姫野は、甘木氏の家臣。
かささぎにはうかがい知れぬ次元の話。
代々の養子の呪縛をどうやって解こうか。
と、そればかり考えていた。
と こちらの姫野さんとこも 私の家と同じように女系らしい。
私自身は 女の血が近いほうが 家の中がうまくいくように思うけど・・・
甘木氏
上妻郡甘木村より起こる。
「重家、中関白道隆後裔、西牟田刑部大輔と號す」(甘木系図)、その子家恒、甘木村を領す。「天正五年日州耳川役家棟安家父子共に戦死す。此の處に乗じ龍造寺兵来攻、幼主家長、留後の兵を催し城を鬼口に構へて防戦、同十四年薩州勢来襲、家長難を避け、肥後国石村に蟄し、久して卒し、子無して家絶ゆ」(系図)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1235/shizokufu.html
参考
http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/nisimutasi.htm
[15] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 20時36分37秒 ) | パスワード |
菊池氏 - Wikipedia からとりました。
肥後菊池氏 - 陸奥菊池氏 - 常陸菊池氏 - 下野国の菊池氏
菊池氏は日本の氏族の一つ。主なものとして下記の系統が挙げられる。 肥後国の一族、 藤姓(鞠智族)肥後菊池氏については本項を参照のこと。 伯耆国の国人領主、伯耆菊池 氏については菊池氏 (伯耆国)を参照のこと。 陸奥国の一族、遠野菊池氏は肥後菊池氏
熊本県の歴史
中世の始まり
菊池氏は、その初代・菊池則隆が、刀伊の入寇において大宰権帥藤原隆家の配下で活躍した藤原系の郎党・政則(蔵規)を父に持つとされる。隆家は道隆4男。
菊池氏の始祖伝承は多少混乱しているようだけど 肥後にいる。
[16] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 20時45分28秒 ) | パスワード |
姫野氏は関白道隆後裔についていて肥後にもきていたのかもしれない。
菊池は子孫・豊田氏。
大内氏も一子相伝で豊田氏。
大内氏は山口。
高階貴子と藤原道隆の子供が隆家。
高階は山口。
山口から大蔵氏。
木原氏。
[17] | さくらさんからのコメント(2011年02月11日 21時14分06秒 ) | パスワード |
丹後局(たんごのつぼね)ウキより
●平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。後白河天皇の側室となり権勢を振るう。高階栄子を参照。
同じ高階姓で
高階基章の女(重盛・基盛母)
佐田と山口はワンセット
同じく佐田と尾方もワンセット
16山口から大蔵氏は大蔵氏へ遡る です。mucha
[18] | さくらさんからのコメント(2011年02月13日 23時12分37秒 ) | パスワード |
六代 隆直(菊池九郎肥後守) 寿永、元暦の頃(1182-85)安徳天皇に仕え奉る。この頃鷹羽紋はじまる(これ以前は日足紋)。阿蘇に参詣の時、鷹羽が土器の上に降りたことによって紋にしたという。阿蘇十二宮大明神の歌がある。あさくとも ふかくたのめや菊池川 阿蘇のけふりの たえぬかぎりは
確か 大田亮氏辞典でも 安徳天皇を西海へおつれしている。この人だったかは忘れたけど・・・
[19] | さくらさんからのコメント(2011年02月13日 23時29分09秒 ) | パスワード |
大阪府高槻市富田に小さいけど「白菊大名神」という祠が有る。キツネとお鏡がまつってある。小さいけど「正一位」である。
謡蹟めぐり 金札 きんさつ
伏見とは日本の総名であると教え、そのいわれなどを説いた後、金札を取ってかき消えますが天に声が残り、我は伊勢大神宮の使いの天津太玉神であると告げます。
伏見(高天原より臥して見たる日本のこと)
所在地:京都市中京区麸屋町通押小路下ル橘町の白山神社の摂社に
<摂社>
白菊稲荷大明神がある。
天満宮社
猿田彦社
摂社は本宮にゆかりの方をまつる のだと。
<白山神社(はくさんじんじゃ)>
石川県白山市の白山比・神社を総本社として、日本全国に2700社程ある
白山の神を祀る神社で、
祭神は、菊理媛神(白山比・神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の三柱としているものが多い
古くから比叡山・天台宗と関係があり、天台宗の普及とともに全国に勧請された。
[20] | さくらさんからのコメント(2011年02月13日 23時45分59秒 ) | パスワード |
近くに三島鴨神社があり、阿威川をはさんで 「茨木神社」がある。
天石門別神社があり 地主神だったと。
天石門別神社の 系は
高皇産霊尊
|| −−−高皇産霊神ーーー天太玉命ーーー天石戸別命ーーー天富命
神皇産霊尊 |
−−天神玉命ーーー天櫛玉命ーーー天神魂命ーーー櫛玉命ーーー天八咫烏
邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され・・・
天太玉神とはこの中にでる神だろうか?
[21] | さくらさんからのコメント(2011年02月13日 23時58分59秒 ) | パスワード |
「茨木神社」
大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切の里(地名「茨木」の由来)を作った際、今は奥宮となっている天石門別神社が創建されたのに始まると伝えられる。当時は、現在の茨木市宮元町に鎮座していた。天石門別神社の名は、「延喜式神名帳」にも見える。楠正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座し、以後代々城主の崇敬を受けた。
坂上田村麿は漢王室子孫と伝える。
阿智王の系図のひとつ『大蔵系図』によると、阿智王は後漢帝の子孫。
後漢献帝〜石秋王〜○〜阿智王〜阿多部王と連なる。
阿多部王は高貴王と号し、初めて来日して準大臣になり、
茅渟王の娘と結婚して坂上、大蔵、蔵内の三子をなした
(30代 敏達天皇の孫娘と結婚)という。
『大蔵系図』の傍系の『秋月系図』には、高貴王は大臣に任じられ、
妻は斉明天皇だったとある。
[22] | さくらさんからのコメント(2011年02月14日 00時25分48秒 ) | パスワード |
大蔵も秋月も「山口」
三島鴨神社は「高倉天皇」の安産祈願がなされたところ。
近くにある「総持寺」は 豊臣秀頼の再建
富田は 豊臣秀吉が 山崎の合戦において 陣をしいたところ。
と 平氏と関連があることをうかがわせる。
近くに「茨木神社」と同じ宮司が管理する「牟礼神社」があり、仲津臣
12 仲津臣
大田亮氏姓系辞典より
★ 仲津臣
豊前国に 仲津郡あり。郡内に中臣郷あり。関係あらん。
又 後世 下毛郡に中津の大邑あり。
@ 仲津臣 中臣条をみよ。
A 豊前の仲津氏
B 下毛郡の豪族にこの氏みゆ。
応永の頃 仲津江太郎あり。大江姓を称したか?と。
★ 中臣氏発祥の地
豊前国中臣郷仲津郷付近
神武紀
中臣祖種子と 豊前国 兎狭津姫と結婚したことを伝え、
中臣系図がその子を宇佐津臣としている。
神武天皇は 東還のとき 宇佐によられている。
景行紀 12年条
天皇熊襲 親征の際 柏峡の大野にて、直入中臣神を遥拝されている。
このことも 中臣が 古く 豊国に 栄えたことを 語っている。
[23] | さくらさんからのコメント(2011年02月14日 00時39分51秒 ) | パスワード |
「牟礼神社」
往古 この地を本貫とする牟礼別の祖である「大中津日子命」を祀ったものであるこの神社も紀元2600年祭を 行っている。このあたりは 「縄文遺跡」がある。
大中津日子命は
山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、
許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖である。
この牟礼は 山口県佐波郡牟礼に住んだ「垂仁天皇皇子」の飛び地。
牟礼つながりで 香川県に牟礼があり、源平屋島の合戦の接地。
武家家伝香川氏と同じ言葉から平氏つながりが出る。
[24] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 20時21分32秒 ) | パスワード |
大友氏を調べたことがあります。九州南部との間あたり
菊池氏は九州左側なので右側あたり。菊池氏へは阿蘇氏 大友氏から養子が入る。
大友氏発祥の地は
「相模国足上郡 大伴郷」(現 神奈川県 小田原市 足柄上郡 東大友 西大友)。東国の要所である箱根、足柄古道を治めていた大伴部の所領地。
後世、大伴氏は「伴」、「大友」に改姓。その名の残り。又 この地は中大兄(天智天皇)の子供「大友皇子」がいたところとも・・・
[25] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 20時27分01秒 ) | パスワード |
●伴については 「富士 浅間」の神社の 「宮下文書」に 関して、「古屋」の由来がある。武田信玄がその由来を聞いて まさに そのとおり の意味のことをいったと。
●伴は松永が 出る。
●大伴武田の神が 尾張熱田神宮に 祭られている。大伴武田 竹田川辺の言葉がある。
●伴・大友氏と系が 別れ、伴は 「古屋」系図を持ち、浅間神社宮下へ。
古庄・古屋は同祖である。
[26] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 20時34分22秒 ) | パスワード |
大江維光
‖―――大江広元 毛利氏へ養子
母 ↓↑
‖―――中原広元
中原広季 ・・・・・中原親能・能直・親実・師員・師俊・親家
↑ ↑
藤原光能――――親能 ↑
(母・大伴氏)藤原鎌足子孫・古庄能成の子・近藤能直→大友能直
伴・大友と枝分かれする 向こう側に 富士浅間の神社の宮下にいる「古屋」氏がいる。
[27] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 20時45分02秒 ) | パスワード |
大江広元は大江維光の子で母が中原広季と再婚したので、広季の養子となり中原姓を名乗ったが、のちに大江姓に復したものが誤って伝えられたものである。
大友氏 大内氏と中原つながりで義兄弟の 毛利氏遠祖はアマテラスの皇子・天穂日命である。大国主と仲良くなった。
平城天皇の皇子・阿保親王の子孫が熱田神宮の養子に入り、後 再び出て愛甲郡などを経て、萩 などを経て、毛利氏に養子に入った。大江匡房。
熱田神宮はもう一つ、藤原南家から養子に入り「千秋家」を名乗る。この筋と大宮司・武内氏との間の女子「源頼朝」を出す。
※結果的に 熱田神宮では 千秋氏が最後まで残る。熱田大宮司が南北朝期に南朝総帥となった。熱田神宮の人たちは 後世 多くが名を変えられ 実体はわからない。
[28] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 20時51分26秒 ) | パスワード |
中原広季は広元のほかに藤原光能の子親能を養子としていて、親能は源頼朝の側近として重用され、鎮西奉行も務めた。親能も父広季と同様に能直・親実・師員・師俊・親家らを養子としたことで、多くの中世武家が中原氏から分かれでた。能直は近藤氏から養子に入った人物で子孫は豊後に本拠をかまえて大友氏を名乗り、親実・師員・師俊・親家らは一族から養子に入ったものたちで、それぞれ厳島神社大宮司・三池・鹿子木・門司氏らの祖となった。
摂津氏の祖となったのは師員で、親能とは従兄弟の関係になる師茂の三男であった。
大友氏をはじめ、三池・鹿子木・門司氏らが鎮西に勢力を築いたのは、親能が鎮西奉行を務めたことにちなむものであろう。
[29] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 20時54分09秒 ) | パスワード |
●藤原秀郷の後裔脩行が近江掾となり、やがて土着した。そして、官名の「近」と藤原の「藤」とを結び付けて近藤太と称したのが近藤氏の始まりである
●脩行の孫景親は駿河権守となって、駿河島田郷に土着して島田氏を名乗ったようで島田権守とも見えその子景重は島田八郎大夫を称した。景重はやがて伊豆に移住し、平治の乱において源義朝に従って戦死している。景重の子が国澄で、『尊卑分脈』に近藤八として見え、『源平盛衰記』には「伊豆国住人近藤四郎国澄」とある。その子国平は『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、いずれも「近藤七国平」と記されている。
●藤原秀郷九世孫位に「大伴能直」がいる。
[30] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時01分15秒 ) | パスワード |
大友氏(おおともし)
豊後の戦国大名。源頼朝の庶子を祖とするといわれるが、藤原秀郷八世・古庄能成の子・能直が中原親能の養子となり、相模国大友郷を領して大友氏を名乗ったのがはじまりとする説が有力。
義鎮(宗麟)の代に全盛期を迎え、義鎮はキリスト教を保護して自らも改宗したキリシタン大名でもあった。
義鎮の子・吉統は、その後、徳川家康に属し、徳川旗本として家名を保った。
[31] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時04分50秒 ) | パスワード |
大友氏は
「藤原鎌足」子孫。左大臣 魚名をとおる。大阪茨木市「総持寺」に関与する藤原山陰も同流 東北に飛ぶ鳥落とす勢いだった 秀郷をとおり、孫の常遠が「安東氏」を 名乗ります。安東氏も大友氏と関与しています。前九年の役後、阿部貞任の子・高星が安東(あむどう・あんどう)を称す。「阿部伝記」長脛彦兄安日子の末。案東太郎頼良が後に頼時と改める。
阿部一族は、第8代・孝元天皇の皇子大彦命の子孫と伝えられる。
「前九年の役」に敗れた阿部貞任・宗任兄弟のうち、貞任の子が陸奥国津軽郡藤崎に逃れ、安東・藤崎・安藤を称した。その安東氏の後裔が戦国大名秋田氏で、徳川に仕えて岩城三春藩主となった。また、讃岐の安部氏は、伊予に流された安倍宗任の直系だという。
安東氏は後「秋田氏」を名乗る。「東日流外三郡誌」の「秋田氏」。
[32] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時22分28秒 ) | パスワード |
藤原鎌足の母・大伴氏。
「宮下文書」や「東日流外三郡誌」に関与する人たち。
大友氏遠祖は「高皇産霊尊」とされる。この人は 現在天皇家が祖神としておられると荒木田家嫡流の人が書いている。
[33] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時41分02秒 ) | パスワード |
平清盛には、徳子の他にも何人か娘がいたようです。
そのうちの一人は、藤原隆房という人と結婚しました。
吉屋信子さんの小説「女人平家」では佑姫という名前で登場し、相思相愛だった大江広元と無理やり引き離され、藤原隆房に嫁がされた悲運の女性として描かれています。
この清盛女の夫となった藤原隆房は、藤原秀郷や奥州藤原氏、藤原道長の母時姫と同じく、奈良時代に左大臣にまで昇進した藤原魚名(北家の房前の子)の子孫になります。
隆房は藤原道長の母・時姫の 祖父・山陰の父 隆房とは 別人だが 魚名流は 同じ。
隆房自信は、「平家物語」での小督局とのロマンスで有名です。
また、壇ノ浦で命を助けられた建礼門院を手厚く世話しています。
隆房と清盛女との間に産まれたのが藤原隆衡です。
そして隆衡の娘が北山の准后と呼ばれることとなる「藤原貞子」です。
貞子は、西園寺家の「藤原実氏」と結婚しました。
西園寺家は、藤原公季(藤原兼家の弟で道長の叔父)を祖とする藤原氏閑院流の一派です。実氏は太政大臣にまで昇進しました。
そして、実氏と貞子の間に産まれたのが藤原(女吉)子です。
(女吉)子は、後嵯峨天皇の後宮に入って中宮となり、
後深草天皇と亀山天皇の母となりました。
つまり、後深草天皇と亀山天皇は清盛女の玄孫ということになります。
[34] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時45分17秒 ) | パスワード |
四条 隆親(しじょう たかちか、建仁2年(1202年) - 弘安2年9月6日(1279年10月12日))
鎌倉時代前期の公卿・歌人。藤原北家魚名流。四条隆衡の次男。母は坊門信清の娘。
正室は足利義氏の娘。★坊門家は道隆流★
子に四条隆顕(嫡子)・四条房名(四条家)・鷲尾隆良(鷲尾家の祖)・隆遍(興福寺別当)・四条識子(鷲尾一品)・大納言典侍(後深草天皇乳母)らがおり、「とはずがたり」の作者とされる後深草院二条は孫に当たる。
[35] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時52分44秒 ) | パスワード |
四条隆衡の母方の系
藤原道長
||→→→二男・頼宗―――――――――――――――――――――――――――――――――
源明子
二男とはいっても正妻・倫子腹ではない。
子孫は摂関家嫡流と姻戚関係を結び養子縁組をなどを通じて皇后(四世孫・呈子)も出ており、
さらに頼宗の五代後には源頼朝と姻戚関係を結ぶ一条能保もおり、時代に名を残す人物を多く
排出している。
頼宗の子・藤原俊家の母 藤原伊周娘
藤原道隆
||→→→→ ( 藤原 伊周 (嫡男)又は(三男))
|| ・・・・・・・子孫 菊池氏
高階成忠女貴子
道長子孫
藤原俊家
||→→→基頼
源為弘の娘
藤原基頼
||→→→→次男・藤原(持明院)通基
藤原国仲の娘
父国仲は元来桓武平氏高棟王流の一族(播磨守平生昌の次男以康の子)であったが、
のちに良門流・藤原資国の養子となり藤姓に改めたとされる。
[36] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 21時57分25秒 ) | パスワード |
坊門信隆
||→→→→→→ 坊門信清・・・源実朝は 婿
藤原(持明院)通基の娘 ||→ → 女子・四条隆衡の母 次男・四条隆親
藤原公保の女子
[37] | さくらさんからのコメント(2011年02月15日 22時00分28秒 ) | パスワード |
四条隆衡の父方の系
藤原北家 魚名流・実頼流 藤原家成(四条家の祖)
||→→→隆季
高階宗章(高階貴子が道隆の妻・宗章の二代前の先祖の枝分かれが栄子(丹後の局))の女
藤原北家善勝寺流藤原 隆季
||→→→四条隆房(冷泉隆房)
大蔵卿藤原忠隆(道隆の筋)の娘
四条隆房(冷泉隆房)
||→→→→四条隆衡
平清盛娘
[38] | さくらさんからのコメント(2011年02月16日 20時37分49秒 ) | パスワード |
菊池と相良
吉田東吾は
菊地の子供が 相良の人吉 大村におり、 又、相良長毎の内室が延岡城主高橋右近将監元種の妹なので、元種の末子 権之助種貞改め 菊地庄太隆充の苗字養子となる。その後 菊地玄蕃武貞と称し 武貞の後裔は代代 当家家老の職に列す。
大村
人吉市街の北偏にして、今も別立して大村と称す。
○ 肥後事蹟通考云、天文23年正月、菊地義武、私謀大挙、撃大友義鎮、事覚、3月義武挈妻子人吉、依永国寺、新築館于大村天神森而居之、(今俗謂其地為屋形)11月義鎮三使固請義武、義武与長子即治如豊後、同廿日於父子生害云々。
○ 増補国志云、独聚覧曰、菊地義武当群へ被残置候は、次男十郎則直、その嫡子主水武益也、北野天神御自筆の御影、菊池系図、鷹羽紋の幕、皆菊地家の遺物として当郡にあり、寛永13年、前延岡城主高橋右近将監元種の末子、権之助種貞、当家(相良)を頼み来る。
長毎公の内室は元種の妹なれば也、種貞その後菊地庄太隆充の苗字養子となる。願意公許ありて、菊地玄蕃武貞と称す。武貞の後裔は代代当家家老の職に列す。一説云、相良の家臣に菊地氏二流あり、一つは高橋養子の家にて、一つは実子相伝の家とす、共に則直の孫 隆充を祖とす。
菊池系図に載る 合志九郎などあり、合志は相良氏からでた。相良氏と菊地氏は繋がるものがあった。
[39] | さくらさんからのコメント(2011年02月16日 21時22分59秒 ) | パスワード |
菊池風土記所載 菊池系図には
「不比等 母 讃州漢士族、後 天氏と号し、改めて是を賜う。云々。異邦より帰るとき、讃州 房前にとまる。妻、海士。4人の子を生む。すべて 8人。讃州漢士の子4人。すべて12人 と。」
天氏から
★アマテラスを冠するのは4人
@アマテラス大神
Aスサノオもアマテラスを関している。
広島県甲奴町の「須佐神社」は、「神天照真良武雄神」をまつり、スサノオのこと。
「九鬼文書」に書かれる 「出雲王朝」に アマテラス王朝もあることを うらづけるかも・・・
スサノオの名は 勝速日健速須佐之緒之命
出雲王朝皇統譜では 天開国開天津日高建速須佐之緒命
★B藤原鎌足の弟は 「太洛稽氏」で、アマテラスを名乗った。
C天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は
丹後籠神社では 「事代主」が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としている。
この人は 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄とされる。
事代主=大物主=大国主=甕玉命=天照御魂=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
先代旧事本紀 伯家本 天神本紀では
天照地照天火明梳玉饒速日尊。
[40] | さくらさんからのコメント(2011年02月16日 21時25分11秒 ) | パスワード |
藤原氏
・ 藤原高子(高子内親王)
祖父 百済王 教俊
母 永慶ようけい
・紇豆陵氏 改め 賨(うかんむりの中土四貝)氏
庫狄氏 改め 狄氏
太洛稽氏 改め 稽氏
柯枝(左てへん)氏 改め 柯氏
・一説
藤原鎌足の弟を 稽 主勲 その子 是純を 稽 文会といい、天照大神 春日と称したという。
・・・・・・・・11面観音巡礼 白洲正子 新潮社 ¥2400−p35
[42] | さくらさんからのコメント(2011年04月30日 21時24分00秒 ) | パスワード |
姫野様
まだ見ておられるでしょうか?
かささぎの旗
2009年8月25日 (火)
黒木(笠原、八女茶発祥地)
2009年8月24日 (月)
調一族の血 ー しらべさんからの手紙1
星野氏(調一族)
待宵小侍従(貞政院)は母親の小侍従(阿波内侍)と父親は源頼政となって
います。
黒木助能自身は摂津源氏の嫡流で多田蔵人行綱の子供なので、同じ摂津源氏の
本流である頼政
と 待宵小侍従や 源頼政などの 言葉が目を引き ブログを読んだのですが、
私は斜め読みしてしまうので 読んでいただきたいのですが、他の日付でもかいてあるので・・・
いろいろ このブログをみると
かささぎの旗の姫野さんも 一族で
蒲池もグループで(松田聖子さんが子孫にいる)
別のネットでは
蒲池は 阿蘇氏系と結婚しており 神宮皇后に仕えていたそうです。
蒲池は又 宇都宮氏とも 姻戚関係がある。
たぐりたぐれば 昔 大挙してわが国に来た人たちのグループで
子孫の中には 後の歴史上 重要な地位を占めている。
姫野姓のルーツの1つの 候補。
[43] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時06分12秒 ) | パスワード |
八女市今山荒人神さまの由来
伊賀平内左衛門尉家長にちなむ話
知盛の身代わりで死んだ家長。
知盛は,家長のことばにまかせ,肥後国五箇山に籠もり,
子孫広がって,やがて米良氏と改名し,その村の大名相当の身分を与えられた。
家長の妻も,知盛の家臣に
「武蔵三郎左衛門尉有国の娘と名乗り、
子孫は,「服部」の名前を名乗った。
その由縁は,母方の有国が武蔵国服部を治めていたからであった。
平家が,まだ没落する前のことであったが,
源義朝が高倉院に謀反をおこしたとき,
有国が一方の大将として活躍したため,
その恩賞として武蔵国服部郷を拝領した。
そのために,「服部」の名前を子孫は用いたのであった
という。
[44] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時20分14秒 ) | パスワード |
しかし、現在 五箇荘では 平重盛の子・清経が緒方氏の娘婿になり 緒方を名乗った。 と なっている。
はるか 昔なんか 五箇荘に限らず あちらでも こちらでも 原野 沼 林が広がっており、現在のように 瞬時にして 顔 形まで 全国に しられることがなかった時代 何が どうなったのだか?
五箇荘にいくのは重盛三男・ 平清経で重盛の白鳥の槍を持ち、川辺川筋に「白鳥の槍」伝説がある。
平知盛は(父・平清盛の四男。母は平時子)
平重盛は(母は右近将監高階基章の女)
平清経は(平重盛の三男。母は藤原家成の娘・経子。妻は 藤原成親の娘。)
米良になるのは 菊池氏
市房の東側・米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題今川了俊に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだという。
九州でいまも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だと称している。
[45] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時23分46秒 ) | パスワード |
高階は姓系事典では 「山口」から出る。しかし、「高氏」だそうな。
米良姓も私の家があった集落にあった。
菊池は 藤原道隆・高階貴子の子孫という。
道隆は道兼の兄弟。「佐田・山口」に濃く関係している。
[46] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時30分37秒 ) | パスワード |
平清盛の血を引く四条隆衡
・四条隆衡の父方の系
藤原北家・魚名流・実頼流・藤原家成(中御門を号す)(四条家の祖)
||→→→隆季
高階宗章女子
藤原北家善勝寺流藤原 隆季
||→→→四条隆房(冷泉隆房)
大蔵卿藤原忠隆(道隆の筋)の娘
四条隆房(冷泉隆房)
||→→→→四条隆衡
平清盛娘
藤原家成
平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。
[47] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時32分50秒 ) | パスワード |
高階貴子
従二位高階成忠(923年 - 998年)の娘、生母は不詳。成忠室には紀淑光女が知られ、貴子はその所生だとすれば、名だたる学者・紀長谷雄の血をひくことになる。
高階貴子
||→→→定子・隆家(いろいろあるが 菊池氏祖先。定子は源氏物語で有名 な中宮・定子)
藤原道隆
[48] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時33分56秒 ) | パスワード |
・宗章の二代後の枝分かれが栄子(丹後の局))
高階栄子・・・・父は法印澄雲とも上座章尋とも
高階成章(高階業遠三男)─章行(弟章親[子:敦遠─敦行─業行─忠業]、弟為家[母は 藤原宣孝と香子〔紫式部〕の女賢子])─章尋─澄雲(比叡山の僧、法印、上座章尋。 山法師)─栄子(丹後局、浄土寺二位。後白河法皇の側近の相模守平業房の室となる。
[49] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 18時35分29秒 ) | パスワード |
※ 北家本流
藤原不比等の三男の宇合(694-737)を祖とする藤原一門。
北家本流(摂関家流) 鳥養・永手・楓麻呂流. 魚名流. 真夏流(日野家流) 長良流(法性寺流)
ただし、生存時期において嫡流と見なされていた人物がその後の子孫の盛衰によって傍流と位置づけられた者もいる(例・藤原永手・実頼など) ... 実頼流(小野宮家流)
実頼の祖先は 魚名流の枝分かれになる。
[50] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 19時07分42秒 ) | パスワード |
43から49には 高岡に関する諸系図にみられる形と似ている話がある。
摂州池田氏は、もと紀姓。物部伊居太足尼(五十言宿禰)の後胤にして、中絶ののち「紀朝臣長谷雄」の孫、紀維實が之を嗣ぐに依りて紀姓を称す。
高岡氏は 池田氏と同祖。
46四条隆衡女子・四条(鷲尾)貞子
||→→→→よしこ(両院並立のもとになる天皇を生む)
西園寺実氏
※西園寺実氏は福島大神宮宮司・笹井氏が実氏の子孫としている。
※鷲尾は本姓・中原。中原は佐田。
佐田 笹井 高岡 山口とぐるっと つながる。
[51] | さくらさんからのコメント(2011年05月01日 19時14分06秒 ) | パスワード |
中原 高岡 笹井 佐田 山口 は あとから 来た グループの中にもみえるが さらに 古代に分け入っていく。
あとから来た 坂上一族の中に見える名は 以上のような 源平の頃の人の中に見える。
[52] | さくらさんからのコメント(2011年05月04日 01時43分24秒 ) | パスワード |
白石 尾方 田中 高田 林も 古くに遡る。
これらは姓系事典では 又 八色の姓の頃には 下になっている場合もあるが、古くはわが国に勢力を持っていた。
大陸とつながって 分布しており
古代 夏 殷 周など
又 その先は 神農氏(赤帝・炎帝) 黄帝にも つながっていく。
日本人は ほとんど 子供の頃 お尻に青い痣がある「蒙古斑点」を 持っているので 大体 ご同族様(モンゴリアン)といえるが、早くきていたか 後からきたか の 違い。
五摂家 源氏 平氏というが 藤原も 源氏 平氏も 最初は 身分が低かった。
仏教戦争を潜り抜けたとき 曽我 物部などは 藤原と姻戚関係にあったところは 残った。
昔の皇族は 藤原の中で いき続けている という。
[53] | さくらさんからのコメント(2011年05月11日 00時01分57秒 ) | パスワード |
源氏にも平氏にも通ずる人たち
45 46 47 48 高階氏と筑前 高氏と筑前
高岡 山口になおして考えると 平氏地盤になるものが はるか 昔 筑前にあったことが伺える。それが もとで 平知盛 家長伝説に なっており、五箇荘とつながり(うちの親戚は五箇荘にないが 地域は昔は五木とひとつだった。阿蘇氏支配の頃 二つにわけられた)
宮本武蔵におぼろながら それからの武蔵を書いた小山先生の時代は知っていたのだろう ことに つながり、
流通の現代は どこで つながったのか 知らないが(昔の因縁など関係なく単純に近くの大手と結んだのだろうけど)私の故郷のお茶が八女茶に入っている 形が出てくる。))
新免武蔵に出る 「黒田官兵衛」は 筑前にきた。
宗像三神は はるか 昔の スサノオとアマテラスの天の安河原の誓約でうまれた姫たち。平氏は宗像の神にいついた。
山口は 大蔵のとき 源氏色が濃い。
武蔵大蔵の地は 源氏の本拠地で、
京都松尾神社あたりは木曾義仲の父・義賢の館があった。「大蔵の館」
姓系事典で 山口条に高階氏がある。・・・うちの高岡 山口の濃いつながりで考える。
高階氏
宗像神社
奈良県桜井市外山
祭神
宗像三神
創健者 高市皇子(天武天皇長男)
天武天皇妃・胸形徳善女子・尼子
これにより 筑前海人族宗像氏と天武天皇・高市皇子とのつながりが確認できる。
高市皇子の子孫は 長屋王が変により自害のあと 生き残った親族が臣籍降下して高階真人姓を名のる。
遠祖 宗像三神と筑前
宗像氏
・高市皇子は胸形尼子娘を母とする。母の父は胸形君徳善
・皇子の子孫は「高階真人」を名のった。
高階氏
天武天皇─高市親王(天武天皇第一皇子)─長屋王─桑田王─磯部王─石見王─高階峰緒─茂範─師尚(実在原業平二男。母文徳天皇第五皇女恬子内親王)─良臣(宮内卿)─成忠
(母藤原博文女。正室紀淑光女。外孫の藤原定子が一条天皇に入内し同年九月に真人から朝臣姓に改賜姓、同年十月出家号道観。弟敏忠)
─助順(母正室紀淑光女。弟信順、弟明順、弟道順、弟道順[子に女子〔藤原定季母〕]、弟積善、弟浄昭[子に女子]、妹◇、
★妹貴子[高内侍。藤原道隆正室。伊周、定子<一条天皇皇后。脩子内親王、敦康親王、〔女美〕子内親王の母>、隆家の母])─信平。
★貴子が紀淑光女の子であるなら、紀長谷雄の血を引いていることになる。
紀長谷雄は 伴に関与する。
隣の集落に 松永・柳原などあり 伴に関与する。
高階成章(高階業遠三男)─章行(弟章親[子に敦遠─敦行─業行─忠業]、弟為家[母は藤原宣孝と香子〔紫式部〕の女賢子])─章尋─澄雲(比叡山の僧、法印、上座章尋。山法師)
─★栄子(丹後局、浄土寺二位。後白河法皇の側近の相模守平業房の室となり藤原教成〔藤原実教猶子〕ら数名を成した後に後白河法皇との間に覲子内親王を成す)。
★関東武士団の武蔵 七党のひとつ児玉党が自ら藤原伊周の子孫を名乗る。
★藤原道隆と貴子の子孫(菊池氏)
★藤原道隆四男子孫は池禅尼宗子(母藤原有信女。平忠盛継室。)
その子が 平頼盛
宗子系図
藤原隆家(藤原道隆四男。母高階成忠女貴子)─良頼(弟経輔[母源兼資女。勘解由長官 、中宮大夫、大宰権帥]、弟良員、弟季定、弟基定)─良基(忠俊)─隆宗(弟宗季)─ 宗兼(弟良兼、妹隆子)─★「池禅尼宗子」(母藤原有信女。平忠盛継室。
西園寺実氏の父・西園寺 公経
源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻とし、
★西園寺公経は「平頼盛」の曾孫
[54] | さくらさんからのコメント(2011年05月11日 01時14分08秒 ) | パスワード |
源平の頃 菊池(山口)に関与する人たちを書いたけど 菊池侍帳に書かれる 高岡 坂本 平河 白石 又 尾方 高田牧宰の名もみられるのがうちの固まり。血統がここにあるかはわからないが・・・
これと ほぼ 同じ グループが球磨にみられる。
こちらは 山本 佐田(中原) 平川 高階(高岡・山口)
球磨の方で
八条女院領がある。
平安最末期に院と平家により成立した荘園が、球磨荘や詫麻荘。国司・在地勢力との連携で設定された半不輸の荘園で、球磨荘は一郡全体が院・平家・国衙の共同所領、鎌倉幕府成立後は、王家領(八条院領)、関東御領、公領に片寄せされた。
源平争乱の頃 球磨あたりは平頼盛の領地だった。
西園寺と頼盛 幕府との関わり
球磨には 八条女院領もあり
11世紀 平河氏入部
建久の図田帳※宇都宮の建久園田帳という言葉も球磨郡誌でみた。
本所 蓮華王院
領所 八条女院
預かり所 対馬前司中原清業
下司 人吉次郎
政所 須恵小太郎
地頭 会志九良
藤原茂綱
久米三郎
尼西妙
良峯朝臣子孫・平河氏
八条院について
将軍系図にのる山本義経(源義経)・・・源頼朝弟とは違うらしい。
松浦水軍を育て、枇杷殿とも呼ばれる。
八条院に候う と 書かれる。
京都上賀茂神社の神職家は常陸大掾氏の一族、伊勢神宮内の荒木田一族、外宮の度会一族など、伝統の格式を誇る大社に山本氏族の神職がみられる。
山本は いろいろ 祖先伝承があるようだが、はるか昔は 佐田・山本は近くにいた。
・・・うちの 佐田 山本のからまり。
[55] | さくらさんからのコメント(2011年05月12日 02時57分59秒 ) | パスワード |
源氏と平氏はもとは同じ
以下のことが決めてではないけど・・・
平氏には、桓武平氏、仁明平氏、光孝平氏、文徳平氏の4流があり、桓武平氏の他、仁明平氏から公卿を輩出している(*本姓平となっている堀河有政の系統が不明)。
また、桓武天皇以外の三者からは、「源」も賜与されている。
この源平両姓の区別に関しては、確定的な説はないが、一・二世は源姓、三世は平姓という明確な基準があったとする説(一部、例外がある)もある。
と。
[56] | いちごさんからのコメント(2011年05月26日 21時59分18秒 ) | パスワード |
ひょんな 話だけど
病院で おんとし85歳だという おばあさんが 自分の祖父は 「住吉大社」に いたんだ と 話しておられた。いた というのは 社家だった ということだろうか と 思って聞いていたら
「津守」さんは 男爵で というので 帰って ネットでみてみたら そうだった。おばあさんの祖父の 「松谷家」は ネットには 出ていなかったけど・・・
津守で 目を引いたのは
住吉神社の神主は、津守氏である。津守氏は、天火明命五世の孫・建筒草命を祖とし、摂津住吉神社の神主として歴代奉仕した。系譜的には、尾張の熱田神宮の尾張氏と同族の関係になる。
又 出雲「佐田神社」について 書かれた本では
佐田神社の神在祭りのとき 住吉の神が 海上警護にあたった と書いてあった。
祭神は、第一本宮・底筒男命、第二本宮・中筒男命(住吉大神)、第三本宮・表筒男命、第四本宮・息長足姫命 (神功皇后)である。底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称して住吉大神と称し、伊弉諾尊があはぎ原にみそぎ祓いされたとき、海の中より生まれた神様と伝えられている。
私は
佐田(出雲 佐田神社)
高岡(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)
山口(うちの山口は清和源氏・木原だが これは 大蔵につながるものがありその 同じグループに 蒲池があり、蒲池は 阿蘇神社の人と結婚しており
神功皇后に仕えていた という はなしがある。 広く 山口から 天手力男神が出て、住吉の神につながるものがある)の からまりと とらえている。
私の氏神は 阿蘇神社だと 母が言っていた。
又 尾張熱田神宮は 先ごろ 遠祖を 振魂尊にかえられたが、これは 海神の系。又倭氏の系。
大倭氏の祖である椎根津彦(宇豆毘古)は、神武天皇東征の際、吉備国高島宮を出発した後、速吸門(はやすいのと)で出会った海人である。
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもあり、「振」は石上神宮の布留御魂神の「布留」であり、物部首の祖・春日臣市河が和珥氏系であることから、和珥氏との関係も窺えるだろう。
人様は 厳しく Aの子孫でなければ 筋が違う と わけるだろうけど
私の中では これも 佐田 高岡 山口の関係である。
[57] | いちごさんからのコメント(2011年05月26日 22時17分21秒 ) | パスワード |
漢王室子孫の人が 斎明天皇と結婚して 大蔵 坂上 倉内の三氏が出来た。
という。
この頃より さらに 前の歴史が あるわけなので その はるか 昔のことを わたしなりに 探ってみた。
というのも 母から 私の氏神は 阿蘇神社と聞いており、
わたしは 子供の頃 父のひざに 抱かれていたとき 「箕子朝鮮」という言葉を 聞いている。これが 祖先伝承なのか は わからないのだが・・・箕子は 殷の子孫。
和徳という言葉も 祖先伝承とは 限らないのだが 昔のことを知る 手がかりにはなる。つけてくれた 住職の 名が 「川津」で、川津姫は 磯城の女子になる。磯城は 佐田が名のる 中原から 出る。
又 笹井は 雀か ? と 書いてある。これも しかとは わからないのだが あるところまでは わかった。
こちらからも 神武天皇の皇子・神八井耳命にゆきつく。
雀氏は 万多親王が新選姓氏録に 中国上姓四姓のひとつ と書いており
殷(商)の 微子啓の 子孫が 宋に封じられた。
高岡は 高姓。
白石は 古い事典に 漢王室霊帝の外戚・王氏とあった。
白石が 磐井を名のっている。
わが国に 住み着くようになった人たちの始まりを どの 時代にきりとるのか で ちがってくるのだろうけど 昔の ことを 書いたものでは
鬼国 黒歯国 裸国 ・・・・へっと 思うような 国の名で 書いてある。
いろいろな 人たちが いたのだろうと 思う。
穴に住んでいた人もいただろうし、絹をまとっていた人もいただろうし・・・
[58] | いちごさんからのコメント(2011年05月26日 23時00分10秒 ) | パスワード |
困民国がある。
姓は勾。
殷王・王亥の子孫で摇民又嬴民になった。
嬴<えい>【姓】 帝舜の臣伯益が賜った姓。趙・秦の姓。
又 王亥には 「丈夫国」の 伝説もある。
維鳥の北に住んでいるという人々。黄色の衣冠をつけ、剣を帯びているという。
郭璞(276-324)によれば殷の王の太戊が王孟に、西王母のところから薬を持ってくるように命じた。王孟は食料が尽きてこの地で倒れ、死ぬまで木の実と木の根だけを食べて生きていた。そして、妻を娶らなかったのにもかかわらず子供ができ、その子供が体内から出てくると王孟は死んだ。そして、その子供の子孫が丈夫国の人々であるという。
この 体から 子供が出来る話は荊蕃の地にある荊楚にもある。
有易 河伯の伝説もあり、有易の子孫が摇民又嬴民になった。
[59] | いちごさんからのコメント(2011年05月26日 23時16分42秒 ) | パスワード |
苹び
南船北馬としょうされるように 南方の交通手段は船のほうが便がよい。農作物は稲が主になる。稲策の起源は通説より遡り7000年前には確立していたという。
熊や犀を祭る部族。
荊楚は本来豊かな地である。普通に暮らしていれば食いはぐれることがない。文化の程度も決して低くなく、「青銅器」は逸品を作ることができ、「養蚕」はこの地方のお家芸のようなものである。また、祭祀の必需品、「玉石」を多く産出する山を持っている。江南はほとんど自給自足で足りる地なのである。
[60] | いちごさんからのコメント(2011年05月26日 23時34分22秒 ) | パスワード |
楚世家
黄帝のひ孫・顓頊せんぎょく・・・姓は 似じ
顓頊せんぎょくの玄孫を 「重黎ちょうれい」という。帝嚳ていこくの家臣として功績がある。火正となり祝融となる。共工氏の反乱鎮圧に失敗。祝融は 南方の蕃神、また火神の名でもある。
祝融の称により、黄帝と抗争した炎帝とその子孫の蚩尤しゆうとの関係が暗示される。
重黎の弟の呉回がかわって火正となり、同様に祝融と呼ばれた。
呉回の息子の名を 陸終りくしゅうという。
なにが どう おきたかわからないが、陸終は その身が 六つにさけて 六人の子孫があとを ついだ。
その 末子を 季連といい 姓は 苹び姓である。
この 季連が 楚の 直接の祖だという。
周の文王の時代に 「季連」の末裔とされる鬻熊いくゆうが 周の宮廷に仕えた。その子・熊麗 その子・熊繹ゆうえき
又 宣太后(?〜前265) 羋氏。秦の恵文王(駟)の妃。楚の貴族の女子。恵文王の宮に入り、昭襄王(稷)・・陽君(悝)・高陵君(顕)を産んだ。楚の人の容貌は変わっていた という。
又 向寿は宣太后の一族であり、幼いころから昭襄王と仲よく成長した間柄であった と
向 苹 楚 秦 秦は苹姓 嬴姓 と 熊と 黄帝 と つながることが わかる。
[61] | いちごさんからのコメント(2011年05月27日 00時14分18秒 ) | パスワード |
太公望呂尚は「姜子牙」と名乗ってさすらっていた頃、楚地に足を踏み入れたことがあり、わずかだがその国情を知っている。国情とはいうが、楚には国など存在していない。長という黄河に匹敵する雄大な川の流域に複数の巫祝王を頭領とした部族集団が割拠している。
南人は戦闘が無類に強く、その中核をなすのは苗族、蜀族であった。蜀族は住む地が西方にちかいこともあり、克殷のさいに周に一応服属していたが、荊楚の苗族は別である。三苗とも呼ばれたりするかの部族は誰にもまつろわぬ。
中国の人は 一世を ウバイドで有苗・三苗とし
二世を 伏儀・女媧とする。
盤古は 伏儀・女媧と同じとされる。
苗族は蚩尤(しゆう)を祖先とし、女媧を祀る。
蚩尤(しゆう)のお顔は 天狗のようで、平将門のお顔も 同じ顔で
苗族は 揚羽蝶を シンボルにしている。
苗族と 西日本の丸い餅
そもそも礼が異なる。かれらを支配するのは土着宗教的な呪術体系なのである。周公旦の唯一の武器といえる中夏の礼楽などが通用するような土地とは思われない。
[62] | いちごさんからのコメント(2011年05月27日 00時21分17秒 ) | パスワード |
食人食
前に 殷のことを テレビで出していた。殷ばかりが 首狩りみたいにしていたが、古代は どこもここも食人だった。時代がさかのぼるほど 小さなわっかになるのだから そうなる。
夔き
困民国は き であるとする。
きの地
食人食
頭部に角がありその顔は猿面、手はだらりとたらして見る者を睨んでいる。脚は一本しかない。聖なるものは一足でないといけない。
女媧 伏義 兎など古代の聖人は 石や器に刻まれるときその姿は人面にして蛇体、また竜身、魚体であることが多い。一足たることは大地と水の化身たることを示していると思われる。
き以外の荊楚の部族は犬 虎 鳥などを祭ることが多いが、所詮は 禽獣に違いない。それに比べてきの一族は祖たるきを祭るのだ。
楚も奥地に行けば 饕餮とうてつ 竜などを祭ることが少なくない。
御竜氏や豢竜氏けんりゅうしなど竜を飼う部族もいれば、竜形の出土品はあまたある。
[63] | いちごさんからのコメント(2011年05月27日 00時56分42秒 ) | パスワード |
周
周の起源説話
有邰ゆうたい氏にむすめがあり、その名を姜原といった。姜原は帝嚳高辛氏の后だった。帝嚳は夏王朝の頃 存在したとされる五帝のひとり。
姜原は野原で巨人の足跡を踏んで 懐妊。生まれた子は 弃きである。
時の王は 帝舜であった。舜はきに農民たちの束ね「后稷」となり 百穀を蒔けと命じた。きは 農耕神でもある。后稷となり、姫姓を名のった。周の祖である。
周は后稷こうしょくの末裔
中国の人がいう 一世は 有苗
次に 伏儀・女媧
女媧の方は 神農氏(赤帝・炎帝)系
太虞儀桓雄┳多儀發桓雄━
┗大・伏犠━┓
[風姓の祖,伏犠氏,雨師]┃
・ ┃
女咼#━━┫ ・
[女希氏] ┃
┗女 登┻━炎 帝
[姜 姓][神農氏,雲師]
女登の姉・少 典━━軒 轅━┳┳青 陽━━喬#極━━━高 辛━┳摯 ・
黄 帝 ┃┃(玄囂 帝告# ┃ ・
[有熊国]┃┃ 少昊 ┃5(四) ・
┃┃[金天氏] ┗放勲 ・
累#祖━┛┃ 帝堯[陶唐国、伊祁姓の祖] ・
┃ ┗昌 意━━高 陽━━━窮 蝉━━敬 康 ━━句 望━━橋 牛━━━瞽叟#━━舜━━━商均
[有虞国]
[高揚国、瀛$姓の祖]
>━高 陽━━━ 称 ━━巻 章━┳重 黎
[苹$姓の祖] [祝融の祖]
重 黎弟・呉回━━陸 終━━━季 連
(第六子)[楚国]
檀君王倹神話では桓雄と虎の間の子にはじまる。
この頃 韓流ドラマをみたが 楽浪は檀君を祭っている。
[64] | いちごさんからのコメント(2011年05月27日 01時27分58秒 ) | パスワード |
黄帝は 姫姓 嬴(えい)姓 一般に中華民族の祖
★昔、少典氏が有蟜氏の娘を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。
黄帝は姫水のほとりで育ち、炎帝は姜水のほとりで育った。
両者が成長すると、それぞれの徳がちがっていた。
そのため、黄帝は姫を姓とし、炎帝は姜を姓とした。
この両者は徳の相違のため、軍隊を率いてたがいに討ちあった。
(春秋時代・左丘明『国語』より)
姓系事典 う条 下村
後漢光武帝子孫とし、少昊金天氏の子孫とする。
少昊金天氏の子孫は 金姓の人が多い。新羅もそうである。
少昊金天氏は
五帝少昊氏(しょうこうし) 黄帝の長子。
少昊氏の即位の席に鳳鳥が飛来する瑞兆があり、官名に鳥の名を付すが、
倭国も天孫族は作金者(鉄鋼技術者)として鷹・白鳥・烏など鳥とは関係が深い。
また、少昊氏の姓は嬴姓とされ、春秋時代の秦など九ヶ国の先祖とされる
漢王室の祖・劉邦の母は 劉温。祖先は尭とされる。
★劉氏
堯の子孫である祁姓の劉氏。
歴史的には漢(前漢、後漢、蜀、劉宋、前趙、後漢 (五代))の国姓である。
祁姓劉氏
からは、夏孔甲の世に一人の竜を御する名手が現れている。
劉累という。一頭の竜が病死するということがあったあとは、劉累は家族を伴って魯陽(今の河南の魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。
なお姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。
正史とされる史書の中では漢書と新唐書が劉邦の出自に言及している。
曰:「豐,故梁徙也。」頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠
祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,・祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火・,自然之應,得天統矣。(以上、『漢書』高帝紀第一より)
劉氏出自祁姓。・・・き姓
帝堯 陶唐氏 子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蒍。蒍生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上、『唐書』表第十一より)
★劉累(りゅうるい、紀元前1734年 - 紀元前1692年)
夏王朝の重臣。 帝堯の子孫。 劉邦の123代前の先祖。
[65] | いちごさんからのコメント(2011年05月27日 01時33分58秒 ) | パスワード |
少昊金天氏は 、『史記』五帝本紀では臣籍に下って諸侯になった。
『十八史略』
また「朱帝、白帝、西皇、窮桑氏」とも称す。
少昊氏の都城については、後の周代の 魯の国の都城・曲阜が「少昊之墟」と呼ばれていることから恐らくは 同じところにあったものと 思われる。
孔子のいた魯の祖先は周公旦。
アジア史
西夏(楼欄)
拓跋氏 タングート種族。
中国周代 斉(周) 羌 太公望呂尚 → 呂国の 末という。
田 斉
田→周代 陳の まん公(舜の子孫といい 嬀 ぎ)
舜の子孫の男子と周武の女子が結婚して 田(陳)斉。
天の羽衣伝説
西夏の田章(陳章)の 話。
この話は 丹後に ある。
★ 田は 陳である。
【正史西夏伝】遼史/二國外記/西夏
< 原文 と 訳文 > < 訳者注 > 西夏, 本 魏 拓跋氏 後,其地則也。
西夏は、本来北魏の拓跋氏の子孫で、そこはとりもなおさず赫連勃勃の(建てた夏)国があった場所。
西夏の皇帝が北魏拓跋氏の子孫かどうかは、賛否両論がある。
氏
この氏は 結婚した相手が 男系だったので、赫連と 改姓したという。
※ 赫連勃勃{夏世祖武烈帝}(夏)
[66] | いちごさんからのコメント(2011年05月27日 01時47分39秒 ) | パスワード |
神農氏(赤帝・炎帝)系と 黄帝は 異父兄弟といい、母方に あって つながっている ものが、徐・苹・瀛・有。
殷(商)の伝説は
満州族の清王朝、ツングース(東胡)系フルハ族、夫余国、鮮卑族、高句麗などの神話と一致する。
商(殷)は、元遊牧民族であったので、しばしば遷都が行われた。
また、末子相続が基本であった。
殷王朝末期には、華北の平原の最北端(北京)は殷の重要な都市に成長していた。ここは、モンゴル高原、大興安嶺、朝鮮半島、日本列島に通ずる一大貿易センターとなる。
周武の 弟から でるのは 韓もある。
王は韓侯に追、貊を賜い伯とした。
契丹秘史
韓 分かれて 高麗 に なる。
[68] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時07分28秒 ) | パスワード |
「皇室と壱岐氏」より
「加茂の稲荷は秦族である。松尾さんもそうだが月読社の松室は、もともと別の存在、すなわち壱岐氏。・・・松室さんの先祖は壱岐族(占部)です。さらに遡ると、天児屋根命といわれ、五摂家のもとである、藤原氏の先祖でもありますが、松室さんは藤原氏といわず、「壱岐氏」といっています。・・・
「月読の神」は古事記ではイザナギの命の左の目から天照大神、左の目からは月読の神がお生まれになったとされ、「おしみのすくね命」が安閉臣事代に神がかりして、そのご神託を受けて壱岐から移住して御祭りした神様です。
三重県上野市に敢国(あえくに)神社というのがあって三重伊賀一の宮となっていますが、この神社は阿閉族という豪族の社(祭神 大彦命ー阿閉氏の祖神)です。
さらにもう一つ清閑寺陵にある、二条天皇の皇后である育子様がお生みになった六条天皇ですが、この天皇にはお子様はおられませんが、皆様の血筋の中からお生まれになった唯一の天皇です。
六条天皇は第79代です。その次は第80代、高倉天皇(皇后は平清盛の娘、徳子様)でこの方の御父は後白河天皇ですから、二条天皇(六条天皇の御父)とは兄弟です。この高倉天皇と六条天皇の御陵は清水の奥の清閑寺領内に並んでありますので皆様も是非ご参拝されることをおすすめいたします。
なお、歴史を見てきますと、後白河天皇の時代は源平の争いの大変な時でありましたし第81代安徳天皇の時には壇ノ浦の戦いがありました。・・・
最初は、「おしみのすくね」が壱岐からやって来て、月読さんをお祀りしたことです。賀茂神社のお父さまの松尾大社、松尾さんと壱岐氏の関係で馬場さんから聞いている事柄のうちで「松室さんは松尾さんとは全然関係がない、松尾さんは秦族だが月読さんとは元々別の社であった」・・・
霊元天皇は後水尾天皇の御子です。霊元天皇には松室7流の中に女房になっておられる方があります。松室重敦の娘ー伊勢の局ーで、この方が有栖川職仁(よりひと)親王をお生みになり、この親王が有栖川宮の第5代となられましたが、その先代、正仁(ただひと)親王にお子様がなかったので、この職仁(よりひと)親王から松室の血が続くのであります。 ということは現在の天皇家にまで続いていることになるのです。
*東山天皇の孫から仁孝天皇ー孝明天皇ー明治天皇−昭和天皇ー平成(今上)天皇と松室壱岐氏=卜部の血が皇室に入り現在の皇室と関わる。
[69] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時09分12秒 ) | パスワード |
大分県の姫島村(ウイキより)
「古事記」の「国産み」においてはイザナギとイザナミが最初に8つの島(大八洲)を産んだ後、続けて6島を産んだとされる。この6島のうち4番目に産んだのが女島(天一根)、すなわち現在の姫島とされる。
古代、姫島産の黒曜石は特徴的な灰白色をしているため、他所の黒曜石と容易に識別可能である。姫島産黒曜石で作られた石器は中国、四国の縄文時代遺跡から発見されており、この時代に広く交易が行われていたことを示している。
[70] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時10分31秒 ) | パスワード |
福岡の姫島
月読神社(壱岐)|姫島 -天の一根 天津日子根命の子鍛冶の神- より
このネットは「皇室と壱岐氏」を書いた人と同じネットでした。
この作者は糸島の姫島と考えている。
現在壱岐島は長崎県になっている。
壱岐嶋は古事記では伊伎、日本書紀では壱岐、国造本紀では伊吉などと表記され、魏志倭人伝では一大国と紹介されている。これは他の文献から見て一支国の誤写と思われる。
2008年3月12日 ... 姫島 天の一根 天津日子根命の子鍛冶の神 今まで、断片的な壱岐の歴史のかかわり を記してきました、この歴史的な点を結ぶ必要がありますので順を追って記してみます。 そこで、糸島の沖に浮かぶ「姫島」がポイントになります。
[71] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時18分57秒 ) | パスワード |
天一根命はまた、天目一命(あめのまひとつ)とも伝い、山代國造となす、すなわち山代の直の祖として天津日子根命の子として古事記に載せる。(大田亮・姓氏家系事典より)、
出雲風土記にも、國譲りの交渉のために高天原から出雲に天降る天ノホヒ命の御伴に天降った、
『壱岐らが遠つ神、天津日子命』
と記されています。(注・両神とも天照大神の御子神)
このことからも、壱岐から姫島(伊都国)の古代からの深いつながりが証明されます。天目一命は日本鍛冶の祖とも言われています。(廣文庫)鉄器の製造に深く関わっていたのです。鏡や斧、剣を作る神で、
『筑紫・伊勢の両国の忌部(いんべ)の祖』
とされている。(古語拾遺)
『壱岐などの遠祖「天津彦根命」は河内(大阪)や大和の田中、大和の高市など12家の祖』
となっています。
[72] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時21分04秒 ) | パスワード |
月読神社の入り口
このページでは次のように紹介していた。
天照大神の弟神月読尊を祀る。
京都松尾大社に祀られる名神大社
月読神社の本家だという。京都の
神社の宮司は壱岐氏の子孫が承継して
明治に到っている。
これが朝食
左の白いのはなんと豆腐だ。頑張ったが食べきれ
なかった。東京の豆腐と違って、かなり堅めで歯ご
たえがある。朝採りの生野菜もうまかった。
↓
その朝食の写真を見て驚き!!五木の豆腐とそっくりで、大きくて硬そうで、五木に嫁いだ同級生が山菜満載の小包を送ってくれた中に豆腐もあったけど、そっくりでした。
[73] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時29分46秒 ) | パスワード |
上の頑張って食べたけど食べ切れなかった。は 美味しくなかったと誤解がありそうなのでつけたすと とにかく 大きいんです。
同級生が送ってくれた小包も 今 ダムの資金が流れなくなって 仕事がなくなり 本人は 夫を亡くして 一人住まいなので 大変だろう、送ってくれるのは逆じゃないか? と 思います。お茶でも 私の集落の人が送ってくれるのは 上品な小袋に入れて 値段も 京都のお土産用の上物と同じくらいなのですが、五木に嫁入った同級生のものは 袋も500g入りで 美味しいのにお値段はとても安いのです。
自分が食べられたらあとは 付け足しの収入というわけで、もっと 商売っ気をだしたら・・・と思うくらいです。
ともあれ 五木の平家豆腐となにやらつながりそうな感じです。
[74] | いちごさんからのコメント(2011年10月04日 21時46分44秒 ) | パスワード |
『壱岐などの遠祖「天津彦根命」は河内(大阪)や大和の田中、大和の高市など12家の祖』
田中の苗字は「石清水八幡宮」の社家に見られる。石清水八幡宮は男山。29代別当慶清が『田中』を家号とし、32代祐清が善法寺(菊大路)を称し、二流に分かれた 。
つながるかどうかはわからないけど、石清水八幡宮は「紀氏」なので、武内宿禰にもかかわってくると思える。
姓系辞典に田中は「天津日子根命」の子孫。武内宿禰子孫・曽我倉山田石川麻呂。彼は田中。
曽我氏に二流あり。田中の曽我。林の蘇我。
↑
3 13 参照
源氏 平氏とくっきりはっきりわけるより、源氏でも平氏に味方した人もいるようです。
南北朝期熱田大宮司は南朝総帥をつとめ、男山に戦いようとして行方知れずになったと。大宮司家は源頼朝を出した家。
南朝といえば平氏に通ずるようだけど、この場合は・・・
[75] | 姫野末裔さんからのコメント(2012年01月08日 04時10分57秒 ) | パスワード |
はじめまして、検索から来ました。
「姫野」について家に伝わる話ですと・・・
家祖「藤原家良」が、建久年間に越中に下向し、国衙領姫野保の保司となったのが始まりだそうですので、先にあるような平氏とは関係ないようです。
その後、南北朝期に南朝方として戦い破れ(興国3年に姫野一族が越中奈古乃浦に信濃宮宗良親王を迎え、これを支えたという記述が富山県史にあり)、一族の主力は九州に落ちたようです。
地図を見て頂ければわかるのですが、姫野保は海に近く、姫野一族主力は水軍を有していたため九州に移動できたと思うのです。
大在の姫野家には2流有り、南北朝期に佐賀関〜大在に土着した姫野家と、南北朝合一後に「山下」と氏を変えて越中に潜み、戦国末に佐々成政に従って九州に移動し、佐々氏改易後の慶長13年に大在に土着した姫野家があります。従って大在の姫野家には家紋が2通りあります。
私の家は後者ですが、大在に土着した初代である「姫野常陸守 藤原具定」の墓が大在の政所にあります。その具定の祖父が「山下左馬亮 藤原頼成」とあり、その系図の注釈に長尾為景(上杉謙信の父)云々とあり、頼成自身の字を「般若乃三郎(富山県に「盤若野」という地名有り)」とありますので、越中にいたことは間違いないと思います。
先に書かれている筑後甘木氏家臣の姫野家も南北朝期に九州に落ちた一族の分かれだと思っています。筑後から肥後北部は九州南朝方最後の拠点でもありましたから。
大分にしても、大友も南北朝合一後は北朝側と南朝側で交互に当主を出していたそうですから、その辺に大分で南朝方であった姫野家が生き延びられた理由があると思っています。
今更な長文失礼いたしました。
[76] | いちごさんからのコメント(2012年01月10日 23時47分27秒 ) | パスワード |
有難うございます。文中に「山下」という言葉があり、前からもやもやしていたものがわかってきたように思います。
熊本の私の故郷に「山下」という先生がおられました。
およそ先生をしておられた家は昔は武士だったりで、私の故郷の場合は藩主「相良氏」の子孫の家が多いのですが、中に 固まりが違う家があり、山下先生のところも どぎゃんつながりじゃろうかな?(田舎の言葉です) と思う家のひとつでした。
ウィキにつぎの紹介があります。
近衛 基通(このえ もとみち、永暦元年(1160年) - 天福元年5月29日(1233年7月8日) )は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。摂政・関白近衛基実の子。従一 位・摂政・関白・内大臣。普賢寺殿、近衛殿を号す。
近衛基通は平氏政権下、関白におされ 後、十津川あたりにいて、「普賢寺殿」と号した。
藤原家良のご先祖様の基実のは正室は 「平清盛」の娘・盛子。
六条摂政基実の次男―藤原忠良 その次男―藤原家良とつながるようです。
摂政・関白近衛基実―摂政・関白近衛基通―近衛家実
基実から枝分かれした関係ですね。
[77] | いちごさんからのコメント(2012年01月10日 23時49分30秒 ) | パスワード |
十津川あたりで球磨郡に関与している「橘薩摩氏」「相良氏」が行動をともにしており、何かおおきな流れの中で、源平の争乱のあおりを受けていたようです。
球磨あたりは「後白河法皇」の「蓮華王院領」があったところで、「大友氏・中原」「毛利氏・大江・中原」が預かり所「相良氏」が地頭。
結局 幕府に政権が移った。
球磨あたりは上球磨は「護良親王」、下球磨は「北朝」に味方していますので、その後の歴史でも動きは違っているようです。
二条 九条 近衛などは出世すると呼び名が変わったもので、山口・佐田などから浮かび上がってきます。
[78] | いちごさんからのコメント(2012年01月10日 23時51分47秒 ) | パスワード |
※南北朝合一後に「山下」と氏を変えて越中に潜み、戦国末に佐々成政に従って九州に移動し・・・
佐々は佐々木に通じており、「佐々木先生」もおられました。なんでもかんでもつながるとは思いませんが、私の家のつながりの糸口にはなろうかと思います。
佐々木は高岡から浮かび上がる。
情報有難うございました。
[79] | いちごさんからのコメント(2012年01月13日 23時48分49秒 ) | パスワード |
南朝に関与することから
「藤原頼成」は「村上天皇」の皇子・具平親王の 子供についておりますね。
同じくきょうだいに師房がいて、師房の系は「公家村上源氏」。中院家―久我家―北畠氏―佐田氏
佐田氏系図で検索をすると、「北畠一族の系譜」というページがあります。
画面を下へスクロールさせると北畠親房子孫・「佐田」があります。佐田はいっぱいいるのでここだけではないけど、南朝に関与する姫野との接点のひとつ。
[80] | いちごさんからのコメント(2012年01月13日 23時53分59秒 ) | パスワード |
もう少し詳しくわからないか?とおもい
公卿類別譜で検索
藤原顕広(改名俊成)[ 永久2(1114)年 〜 元久元(1204)年11月30日 ]
俊忠三男(為藤原顕頼卿子、後又復本流)。母伊与守藤原敦家女。法名・釋阿。
>「姫野常陸守 藤原具定」
道長の子長家の一流を御子左流という。
ただし、長家の孫俊忠は、「二条」とも号したので、家名を二条とする場合がある。
また、忠成以下の流れを大炊御門流と呼ぶ。
※古い方の「大田亮氏姓系辞典」では佐田は「二条」としてあった。
※私は大別して道兼・・・佐田。道長・・・堀河。道隆・・・山口としています。
具定の母・藤原俊成の娘
実父は尾張守左近少将藤原盛頼、母は八条院三条(俊成の娘)。俊成は実の祖父。
建久元年(1190)頃、源通具(通親の子)と結婚し、一女と「具定」を産む。
[81] | いちごさんからのコメント(2012年01月13日 23時55分57秒 ) | パスワード |
平家物語・義経伝説の史跡を巡るでは
そのB「歴史を読み解く」『鹿ケ谷事件と源頼朝』
宗像大社文書に旧恩に感謝して盛頼(隆頼)に平家没官領肥前国晴気領を
与えるという内容の源頼朝の書状があります。盛頼(隆頼)は、鹿ケ谷事件で
備前に流され清盛によって殺害された藤原成親の弟に当たります。
[82] | いちごさんからのコメント(2012年01月17日 23時56分38秒 ) | パスワード |
棒踊り
上杉には「棒踊り」があります。
その起こりは慶長年間とのことですが、私の故郷にも棒踊りがあります。
棒踊りということで、以前 考察したことがあります。はるか古代への旅に出たのですが、
石川県の「白比古神社」に祀られる祭神「佐田彦大神」・「天照大神」祭礼・棒踊り、獅子舞
[83] | いちごさんからのコメント(2012年01月18日 00時01分41秒 ) | パスワード |
・・・天照大神の子孫の天孫ににぎを先導した佐田彦の子孫は藤原朝臣。佐田彦の子孫・太田氏が伊勢神宮の土地を提供した。
・・・佐田は卜部・中臣・藤原・大中臣。藤原氏は津速魂巣日神の子孫・荒木田氏。川辺から神魂神子孫・渡会氏。
・・・荒木田氏子孫の人が書いているページ「阿多羅しい古事記」で、祖先は周としている。又斉王田としている。
※・・伊勢神宮には
「アマテラスの稲は 斉の国から もたらされたという 伝説がある」
[84] | いちごさんからのコメント(2012年01月18日 00時05分50秒 ) | パスワード |
西遊記の玄奘三蔵は唐国の皇帝の弟で、「陳」姓としてある。
孫悟空はお弟子であるが、同じ陳からわかれでた.
●周武王時,舜的嫡裔媯滿娶了武王之女太姬,稱胡公。胡公之後,傳到十世孫媯完,因故奔齊,
●陳姓還有三個系來源,分別是春秋時楚國的劉矯後裔,隋初白永貴的後裔,還有突厥族候莫陳氏之後裔。
孫氏は「田完」の子孫といわれ、「田完」が もと 陳氏だった人。田氏は陳国王の子・陳完を始祖として始まる。 陳国が乱れると陳完は斉に逃れ、「陳」と音の近い「田」に姓を変えた
西元前672年媯滿的第12代孫陳完,因避難逃到齊國,改姓田。
後來他的10世孫田和建立了田氏齊國。
●戰國末年,齊被秦滅。齊王的長子升次子桓先後改姓王氏,
●三子田軫逃至穎川(今河南禹州、許昌一帶),恢復陳姓。從此陳氏一門在中原瓜瓞連綿,生生不息,發展成為名門望族。資料來源: 網路消息
[85] | いちごさんからのコメント(2012年01月18日 00時27分15秒 ) | パスワード |
周の呉と三国時代の孫権の呉の関係
古公亶父 →太伯・・・呉を建国。後、田完子孫・孫権が三国の呉を建てる。
古公亶父 →虞仲・・・・・・太白の呉を継ぐ。
※太伯・虞仲は父が季暦に王位を次がせたがっているのを知り、国を出た。この話は百済の建国神話に似ているという。
黄帝→帝こく→后稷→古公亶父→王季暦→文王→周武→→→→→女子(太姫)
女子・太姫
文王の頃は「殷」の属国 ‖・・・・・陳→田完・・・田和(田斉を建てる)
‖
黄帝のひ孫・端玉(せんぎょく)高陽氏の後裔・舜の後裔(満)
(舜の姓・羸姓)(舜の姓・姚よう・虎神)(舜の氏・有虞氏)
「王」姓の出所は多岐にわたるが、主には「子」、「姫」、「嬀」を由来とする。
「子」姓に由来する「王」姓は、商王朝の王子・比干が祖先であるとされる。
「姫」姓に由来する「王」姓は、周文王の第15子・畢公高、周平王の孫・姫赤ならびに周霊王の太子・姫晋が祖先とされている。
「嬀」姓に由来する「王」姓は、舜の子孫・嬀満が祖先とされる。
これら「子」、「姫」、「嬀」の3つの姓に由来する「王」姓が、現在の「王」姓を持つ人々の主流を構成している。
※田和の長子は王氏。三氏は陳氏。田完子孫が孫武。孫武の子孫の「孫堅」の子・孫権が三国の「呉」を建てる。
●楚の王族・屈原(姓は羋姓)。徐もまた「羋」姓で、楚の王族・徐氏は「秦」の后になった。
田斉の方士「徐福」が「秦」の「始皇帝」により、日本に来て富士山の辺りに住み「徐福資料」を残した。実に 紀元前のこと。これが「宮下文書」になる。始皇帝の子孫が「島津氏」で、その祖先・夫胥は「箕子朝鮮」にしたがっていた。
[86] | いちごさんからのコメント(2012年01月18日 00時44分15秒 ) | パスワード |
・・・「名族大内氏の興亡」という本では、上杉の戒名に「高岳」の文字が入っている。
・・・清華家の高丘家は藤原北家閑院流西園寺の族。後 養子養子でつがれ南家。江戸時代頃、廃れてしまった閑院家を起こさん と 橋本から高丘に養子に入った。
・・・丹後 男山城主 高岡(高岡系図で検索・肥後の守貞望)は 一色の陣代。
・・・私の故郷は上相良氏(南朝に味方)・下相良氏(北朝に味方)の子孫に関与する人や良峯朝臣の所領だったところの混在でもあり、南北朝の頃はっきりどちらともいえないが、一色も兄弟別れている。
・・・父の腹違いの弟は坂本。
・・・坂本系図は 足利将軍家 15代 義昭の子 一色を名乗る。 その子 義房 がおり その子 義部を 坂本としています。
・・・一色には 足利泰氏の子の 公深を祖とする 三河の吉良荘一色(愛知県幡豆郡一色町)から起こったため、一色姓を名乗った。)という 系もあります。
・・・坂本には10崇神天皇の子孫の系もある。
・・・坂本大名神社は近江日枝社の末社。
●「倭」は「太伯の末」ともいう。呉は「周」の枝分かれで太伯の末。孫氏の呉もある。孫子は周武の娘と、舜の子孫の満との間の子孫。(「陳」(田)完の子孫。)・楚は九黎で苗につながり、越につながる。このところが、周の母方の有●氏につながるところとして濃く出る。有苗。
陳からでる「少昊莫天氏」は「魏」の人。
●莫陳氏は藤原鎌足の弟も名乗った。弟は アマテラスともいった。
[87] | いちごさんからのコメント(2012年01月19日 22時05分27秒 ) | パスワード |
[86]・・・父の腹違いの弟は坂本。
は異父兄弟です。すみません。
[88] | いちごさんからのコメント(2012年01月21日 01時32分17秒 ) | パスワード |
75佐々成政に従って...
佐々氏は親戚に「篠井」がいます。篠井は笹井に通ず。笹井は佐々木に通ず。
笹井は福島大神宮宮司家に祖先は「西園寺実氏」としています。
四条(鷲尾・・中原)貞子との間に両院並立のもとになる天皇をうむ「よしこ」をもうける。西園寺は「閑院」の族。
80通親
源通親は土御門通親(久我通親)
畑氏の謎 というページを出した人が 北畠 との関係を書いています。
土御門通親の孫.雅家が南北朝期、南朝の柱石とうたわれた北畠氏の祖になります。「北畠氏はまた畑ともいう」と『姓氏家系大辞典』にあります。又、吉田経房の系統は、土御門通親の祖父長信の兄、長家から出ています。
土御門本姓「安部氏」
安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の後裔。土御門家は安倍晴明を祖とし、室町時代頃より土御門を号した。
庶流の堂上家に半家の倉橋家がある。また、泰家の子有郷は、西洞院を号した。
大彦命 安部氏 沙沙貴山神社に関与し、佐々木氏に関与。
京都に「平野神社」があり、関与する平家嫡流の西洞院。
※吉田経房はウィキ伊豆の卜部に
伊豆の卜部が平野社系 吉田社系に別れた とある。
[89] | むいちごさんからのコメント(2012年01月22日 00時49分13秒 ) | パスワード |
>75具定の祖父が「山下左馬亮 藤原頼成」とあり、その系図の注釈に長尾為景(上杉謙信の父)云々
ウィキより
香川氏(かがわし、かがわうじ)は、日本の氏族。本姓は平氏。家系は桓武平氏のひとつ で鎌倉権五郎景政を祖とする武家である。
香川氏の一族であった香川正矩は、主家の命もあり『陰徳記』を記した。その次男の香川景継は、1673年(延宝元年)京に出て「宣阿」と名乗り、『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』として出版した。
鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)。景正ともいう。景将ということもある 。 平良文の五代の孫。 吾妻鏡養和二年二月八日条によれば、景政の三代の孫が長江太郎 義景である。 景政はまた、大庭氏、梶原氏、長尾氏、股野氏などの先祖でもある。
●巴九曜
●桓武平氏良茂流 『見聞諸家紋』に「右京大夫勝元被官 香河五郎次郎和景」の紋として収録されている。香川氏と並んで「越後長尾 」と記され、香川氏と長尾氏が同じ紋であったことが知られる。
山口県の牟礼にある佐田のお寺様の住職 香川氏 。
これらの関係にも佐田・長尾の接点があるようです。
[90] | いちごさんからのコメント(2012年02月07日 22時45分33秒 ) | パスワード |
佐田→藤原→アイシーン・ギョロ→董氏との関係をしらべていて下のページをみつけました。他の日付のなかにもいろいろ古代に出る言葉に関係したことが書いてありおもしろいです。
倭女王卑弥呼 発見なる!:塞種とサカ族5 語族と人種
2011年6月5日
※2、帝舜虞氏(虞氏)の時代、龍を育てて飼いならした人がいて、舜は、この人を董[トウ]と名づけ、董氏を下賜した。龍を飼いならすから、豢(カン):養う意味で、豢龍氏ともいう。(春秋左氏伝・昭公29年の記事)
時代は、夏王朝・前2070年以前のことです。
※1劉累(りゅうるい)−豢龍氏という龍を飼い慣らすことができる一族から龍の飼い方を学び、夏朝の第14代帝の孔甲の命により、龍を養おうとしたが失敗し、逃亡した。また、劉累が、死んだ龍の肉を献上したところ、孔甲が美味であると喜び、さらに龍の肉を求めたがそれを献上することができず、逃亡したという説もある。孔甲から御龍氏という姓を賜っている。
劉累の123代目の子孫が劉邦。
[91] | いちごさんからのコメント(2012年03月28日 05時51分09秒 ) | パスワード |
3誉田別命・比口羊大神・神功皇后
19菊理媛神(白山比め神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊より
埼玉苗字辞典 白山(はくさん)より
白山信仰は我が国最古なり。
檀君神話 白頭山 白山山脈
しらやま
白山比・神社に本地を十一面観音とする白山妙理大権現(菊理媛命)を祀る。
白山信仰は天台密教に吸収されて、毘沙門信仰に結び付き、航海安全の神となり、北斗・北極星信仰が入り妙見信仰へと発展して行った」
[92] | いちごさんからのコメント(2012年03月28日 06時22分37秒 ) | パスワード |
白井 シライ
白は辰韓十二国の内にあった斯盧国で斯羅とも云う、後の新羅国である。二字の制により白井と称す。
石(いそ)は磯部の意味。新羅人の海洋民を白石と称す。
武蔵七党
猪俣党白石氏
[93] | いちごさんからのコメント(2012年03月28日 21時50分28秒 ) | パスワード |
高岡⇔白石(姻戚関係・養子)
白石⇔山口⇔高岡(姻戚関係)
山口⇔平江⇔白石⇔高岡(姻戚関係)
父(高岡・白石へ養子)と先妻・平江女子はいとこ
その女子と山口男子と結婚二人もいとこ
戸籍が私からはとれない分があるが、昔からの関係により。
平江は庄屋をしていたというが、跡取りは死亡。姉夫婦は都会に出ている。
熊本県下益城郡にあり、8世紀ごろは肥後の国府があったところ。
雁回山があり、別名 木原山。山麓の木原城が為朝城と言われる。
又伊勢新九郎もこのあたりにきたとか。
江田船山古墳があるが、宮崎あたりのアマテラス・スサノオ・月読命・住吉の神などが生まれたところを「江田の地」といい、筑紫日向小戸橘阿波岐原というそうだ。
木原⇔山口⇔大蔵
父の手帳に木原・伊津野が書き付けてあり、平江の戸籍からもこの苗字は出てくる。
[94] | いちごさんからのコメント(2012年03月28日 21時55分43秒 ) | パスワード |
埼玉苗字辞典より
平 ヒラ
百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。
平たいら
・平姓北条時房―大佛武蔵守朝直―武蔵守宣時―民部少輔宗泰なり。
・将門末孫・右兵衛平朝臣常重と記す」と見ゆ。吾妻鑑卷十七に下総介常重(千葉氏)
・平姓川越氏
・平信能は一条二位中納言能保卿三代之孫一条宰相中将也。能行者鎮守府将軍上総介良兼四代の末孫・左衛門尉致経五男秩父六郎将恒十代之孫江石見前司也」
・「村山党須黒左衛門尉平頼高の子行直」
・并大施主平氏女」
・同郡薄村の平氏 秩父志に「薄村。平氏は此村の内、竹平と云所に住り。本姓猪俣にて能登範直の胤なりと云う
・平姓村山党山口氏
・伊勢平氏の関氏・長崎氏の両氏なり
・平一揆族等伊勢国へ、北畠殿に属す」と見ゆ。
・児玉党
・上ノ平の金毘羅社は平一族の氏神
などの言葉散見する。
[95] | いちごさんからのコメント(2012年03月28日 22時03分40秒 ) | パスワード |
薄氏(すすきうじ)
七党系図
丹武平の次男長房は、埼玉県秩父郡小鹿野町両神(りょうかみ)大字薄(すすき)に居館を構え、薄四郎と称した。
丹党 - Wikipedia より
丹党(たんとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および 児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄 ... 真年は丹党の氏神「高野明神」をまつる丹生都 比売神社の社家(天野祝家)を世襲した大丹生直の後裔とする説、をそれぞれあげて ...
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 神奴氏/大丹生氏/丹党【1】
【神奴氏/大丹生氏/丹党】 紀国造家より分出した神奴君は丹生都比売及び高野 大明神の祝家となる。 大丹生直丹生麿の後裔相見峰信は武蔵七党の丹党祖となる。 子の峰時は秩父郡石田牧別当となり子孫はこれを継承する。 丹党出自の大名家は 大田原、 ...
樹童氏の答えから
服部連との関連
秩父神社が関東の「妙見信仰」の中心であり、平姓秩父氏と同族と称する房総の「千葉一族」も強い妙見信仰を持って中世に活動していました。前掲した知々夫国造の系譜は分かりにくいものですが、要は少彦名神の後で伊豆国造や服部連の同族であり、畿内では服部連の一族が能勢妙見の信仰を担ったものとみられます。
[96] | いちごさんからのコメント(2012年03月28日 23時33分02秒 ) | パスワード |
公卿類別譜に橘氏があり
子孫・薄氏(すすきうじ)を名のる人がいる。
うちの高岡 白石 坂本 尾方 は 家紋・橘紋で、上相良氏に関与するようだ。橘薩摩氏と相良氏は仲がよく、球磨へも下向した。
十津川あたりで、井手(橘)と相良氏が行動を共にしていて、十津川あたりには「11面観音」がある。
橘紋については天竜寺だったか、案内の人が、橘紋は「藤原」の紋だと説明していた。
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