キーワード:平田 近江 佐々木 一族 コメントの種類 :人物
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平田因幡守の子孫です
先祖の事を調べています
平田因幡守は近江の佐々木一族出身です
細川に仕えてました。
始まりは、田辺城の篭城から始まりです
その後に細川ガラシャの小姓と結婚してます
その関係で細川秋興が
大坂の陣に参加した時は、平田因幡守の息子と
米田監物と一緒に護衛しています。
その時は他に細川秋興の護衛はだれかいたんですかね?
米田監物も明智光秀と親戚関係になるので!
大坂の陣後に細川秋興を島原まで逃がした説があります!
実際に平田因幡守と米田監物は九州に行きました 平田因幡守の息子は大坂の陣で戦死しました。
団右衛門の夜討ちの時です。
平田因幡守は参戦してないので資料に載ってませんでした。
平田因幡守と結婚した
細川ガラシャの小姓は
平田因幡守が死んだから
お寺に出家したと書かれいるけど、細川秋夫の護衛を平田因幡守の息子がしたのが原因かもしれません!?
その後、米田監物は細川に仕え家老になりました
その時に後藤又左衛の次男を連れてきたかも?
平田因幡守は黒田はんの秋月の近くで開墾して庄屋をしました。
米田監物から細川に仕えないかとの誘いがありましたが、一度仕えた主君以外には仕えないと言い 断りました。
息子が大坂の陣での報酬で田を開墾しました。
他にも平田因幡守の事が知りたいです
近江の佐々木一族の事ですが!
江戸時代から黒田、細川、薩摩のトップは佐々木一族がなっているのは、
なぜでしょうか?
黒田は殿様の黒田如水
細川は米田監物
他に薩摩の平田で河川の 工事で切腹した人
他にも家老はほとんどが
近江の佐々木一族なんです!
近江の佐々木一族は
足利に仕えるていた人物が多いです
しかし、足利が滅んだ後は他の地で士官しました!自分の土地、安住の地が欲しかったかもしれません。
だから、九州で再起をはかったかもしれないですね!
今までも、異常なまでも自分の土地に執着があります。
もう、一つ不思議な類似点があるのが、
薩摩に仕えた平田宗保
{むねのり}です
平田宗保は1637年ぐらいに薩摩に仕えてます。
最初は足軽でしたが、 水野さんに居合を習い、薩摩の最初の居合の師範になりました。
その当日、居合をする事や習う事はナイナーだったと思います。
しかし、同じ出身の伊賀の服部半蔵門が影響してたかも、忍者なら抜刀術は必要性があるから!当日、居合は特別な刀術だったと思います
自分は居合道をしているから、わかります
平田宗保の名前は孫六で
俗称が監物
平田因幡守の孫の名前が孫作です。
米田これすえの位が監物 だから、類似点があります!
三人とも同じぐらいに生きています
平田宗保は佐々木一族で足軽の時から出世するのがわかっていた様に感じます!
後の代で家老まで出世しているのは不思議です
最後になりましたが、
平田因幡守の家紋は
違い山形です
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