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 投稿番号:101200 投稿日:2010年09月27日 16時10分05秒  パスワード
 お名前:もみじ
隅さんへ
キーワード:諏訪
コメントの種類 :その他  パスワード

隅さんへ 
当然 最初にしておられるとは 思いますが・・・
諏訪神社 甲賀三郎 事代主 武みなかた神 で 検索してみてください。
事代主・武みなかた神は国津神系統で兄弟神。国譲りをした神で、お年を召した方には受け入れがたいことかもしれないと思い(戦前の教育を受けた方には神武以外の系は考えられないことのようですが・・) 又 事代主の神裔が代々皇后を出してきたのだ。それが 中原で わかるのだ。しかし中原も地下人ではないか おかしいではないか? 公卿ならば 近衛が よいのだ・・・という方も おられるので・・・実はこういう人の血がはいって今のわれわれがいるのだ。祖先をたどればたどるほど その人たちが顔をだすのだ。といううことをわかってもらおうと いろいろ 書いたのですが、それを わかってもらおうとすれば ますますわからなくなる ・・・ということに なりました。

毛利元就とその一族を探求する「安芸・毛利一族HomePage」で、彦四郎 小鼠は確かに 佐田と 書いてありますね。
消してしまいましたが、別所三吉兵衛・小鼠 と いうことから 
別所→新田→佐田の線でしたが、

伊賀にある一宮敢国神社略記.
御祭神. 大彦命 少彦名命 金山比・命. 御神徳. 大彦命は第八代孝元天皇の第一皇子

8代天皇までは 欠史といわれる。
この頃までは 物の証拠がない も さることながら、孝元天皇は実家である雀部朝臣と穂積氏のクーデターで たてられた。

雀部朝臣などと いう言葉は まだ この頃はないけど・・・この系は神武天皇の第2皇子・神八井耳命から 出る。後 武内宿ねの系をとおる。

後世 日本書紀が完成したとき2神社16家の系図・古文書が国に引き上げられた。その中に 雀部朝臣の家の系図が入る。

神八井耳命の系が金刺で多氏と同族・事代主の長男から出るのが 中原で二つは血は同じものが流れている。

肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳【さ】の部 で検索

嵯峨三郎右衛門  【丹後以来】 (南東45-7) 
 中院中納言通勝
 佐方諏訪人  【丹後以来】  (南東47-5)
  其先諏訪部氏、明徳年中改佐方氏、三刀谷の家族なり、吉右衛門暫くハ毛  利壱岐守に奉公云々
 
その 8個目に 彦四郎 
その 少し 後に 甚五右衛門
などが おり、どちらも 名前のみ です。

私は 諏訪部氏に 注目しました。源満快流 諏訪氏 神人
諏訪に関与し、ひいては 甲賀に・・・甲賀と伊賀は実は同じ地域のようですが・・・

三刀屋(谷)のとき 上月城の話などが 出るようです。
行った事がないのですが、ヤマタノオロチ伝説など 古くから人が活躍していたようです。

毛利氏は 母方つながりで 大内 大友とつながる。毛利広元=中原広元=大江広元
中原氏。このとき うちうちで 佐田をいっていたかもしれない。

佐田はいっぱいいます。
大きな筋で 諏訪と同じ血が流れている と とらえ、佐方彦四郎が名のったかもしれない。

なにせ 佐田彦四郎の系もわからず、佐方彦四郎の方も 何も 書いてなく二つを結びつけるものは 何もないけど、宇都宮の佐田が 近くにいたとき、

忍者は 氏素性を知られてはならない 変名で就職しただろう 同じ血が流れている 佐田を 名乗ったことが 考えられる。

嵯峨氏は 前に書きましたが、西園寺家一族の正規町三条・嵯峨で二尊院で出ます。愛新覚羅家の室に入る浩。その 祖父の中山氏。中山氏と松浦氏の女子が明治天皇のご生母。高田(安部氏)の血も入る。

中院は 村上源氏。
別所も村上源氏を いう 筋がある。別所三吉兵衛・小鼠

村上水軍の姫が建てた寺の資金も 毛利氏から 出た。

何か 近いものを感じます。

私は 佐方のことは 知りませんでしたが、彦四郎と聞いたとき なんだか ぱっと 細川幽斎のことが出たのです。

浅学なので 時代のこと などが わかりませんが・・・

うちの永田のじい様がまじないをする。から
永田 長田 他田 おさだ は 通じており、
事代主から出る。瑞歯八重事代主の尊号は 神功皇后が奉られたという伝承があり、賀茂の事代主ともいわれる。

伝説はなにかしら その 祖先の系を語っているものです。

高岡系図で引くと 服部が 出る。この系が 服部半蔵の系かどうか わからないけど、また その先が どういうつながりか わからないけど

貴嶺宮 滝原宮からでる 国常立尊(高魂神尊) 山陰 
川島皇子→高丘王
近い関係 伊賀皇子
近い関係の子孫・淡海三船 など あり 三船は 神武以下の 4文字諡号を奉られた。

彼らは歴史の変転により 姿形をかえて 生き延びてきた。

枝分かれした 先の先のところまで 同族というかどうか ですが、伊賀皇子からは 高田が出る。

藤原をとおっています。
高松合戦のあたりの 詳しい話は わかりませんが、佐方→諏訪部氏→源満快流→諏訪氏→諏訪神社→金刺


細川氏も 現在 近衛。
上のお方は 信頼できる 人を 他家に入れ 情報を得ていたと推察される。

無理やり の つくり 話ですが・・・
でも 本などをお書きの方には 彦四郎たちのところだけ 空白なのは あやしいのでは・・・


私がほんの小さい頃 祖父の家に連れられていったとき、うれしさに 座敷に駆け上がろうとしたら、父がこっぴどく 怒られ、小川につれていかれ 手足をあらわれました。

桂三枝師匠は お母様から 陛下の前で食事をしても 恥ずかしくないようにと 食事のしつけを 厳しくされたようです。

古代 山幸神話でも
竜宮にいる 海神が 山幸が神の子であることを 認める話に その 挙作をみた というはなしが あります。

氏をいうでもない 素性をいうでもない でも その 人をみたら わかるものが 普段のしつけから できあがる の では ないか ? と おもうのです。

服部 伊賀 伊勢 三河 の 動きも 消してしまいましたが、
なにせ 検索すると この 平家物語を 熱く 語る が 出るので・・・













[1]もみじさんからのコメント(2010年09月27日 21時48分59秒 ) パスワード

伊予橘氏のながれ → 伊予橘氏が 橘薩摩氏になる。
服部家長(伊予橘氏の流れともされる)。源平争乱においては平氏の側につき、壇ノ浦の戦いにおいて戦死したと言われる(『源平盛衰記』)。

ただし異説があり、生き延びて伊賀国に戻り、姓を「千賀地(ちがち)」に改めたとされる。
この異説に基づき、服部家長はいわゆる伊賀忍者の祖であると言われている。

後に、この千賀地家から「百地(ももち)」「藤林」の2家が分かれ、伊賀の上忍三家を形成した。室町時代になって、千賀地家の半蔵保長が元の服部姓に復して、伊賀の地を出る事になる。当時は室町幕府の衰退期であり、保長は見切りをつけて三河に赴き松平清康に仕える事となる。

後にイガの地に[伊賀上野城]を築城する藤堂高虎

藤堂高虎は、服部半歳の一族である保田采女という人物に藤堂という姓を与え、後には、家老職にまで重用した。
采女の本姓は保田で伊賀の郷士であった。 また徳川家臣服部半蔵正成の甥でもあった。


服部半蔵【はっとり・はんぞう】

朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 天文11 (1542)
没年: 慶長1.11.4 (1596.12.23)
安土桃山時代の武士。伊賀国服部郷出身の服部半三保長の子。通称の半蔵は半三とも書き,石見守を名乗ったこともある。名は正成。父の保長は伊賀から三河に来て松平清康,広忠,家康3代に仕え,半蔵は三河の生まれ。父の跡を継いで家康に仕え,伊賀者を支配した。永禄12(1569)年の遠江懸(掛)川城攻め,元亀1(1570)年の姉川の戦,同3年の三方ケ原の戦などで戦功をあげたが,いかにも伊賀者の頭領らしい働きぶりを示したのが天正10(1582)年の本能寺の変のときであった。このとき主君家康は和泉の堺で遊覧していたが,わずかな手勢のなかに半蔵も含まれており,半蔵の手引きによって伊賀の間道を通り,無事,三河に送り届けている。
[2]もみじさんからのコメント(2010年09月27日 22時22分42秒 ) パスワード

伊予橘氏 
本姓 越智氏庶流
家祖 橘実遠
彼らが祭神とする 大山祇神 はイザナギ・いざなみの子供。
越智氏の奉祀する大山積神は、「二十一社記」に賀茂社と同じく天神に属するとあり、伊豆の三島大社に賀茂氏系の言代主神と合祀されることから、賀茂氏との親類関係が窺える。

余談だが、愛媛県西条市にある伊曽乃神社社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。

因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、吉備氏系の倭建命や、讃岐氏の祖の神櫛別命、空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命の異母兄弟にあたる。

また、倭建命と大吉備建比売(おおきびたけひめ)の子、十城別王(とおきわけのみこ)が、伊予別(いよわけ)君の祖となり、伊予を本拠地としていたことから、吉備氏との関係も窺える。御村別・伊予別の両氏は、後に「和気氏」を名乗った。和気が 「佐田」から 出る。

摂津高槻の 鴨神社は 全国の三島社の大本で、大山祇神が関与する。
又 賀茂神社にも 関与しており、賀茂神社のお父様が 「松尾大社」。

徳川家康の母の筋を たどれば 賀茂氏に行き着く。muchakun
[3]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 04時00分18秒 ) パスワード

伝説は何かしら真実を伝えている。
甲賀三郎2を検索すると
広く 金刺 春日 観音 阿拝郡 生島足島神社 建御名方命などがでる。

同じ伝説は同じ系統の人たちというとらえかたで 見ると、
歴史家たちは大国主命と奴奈河妃命の神婚が、弥生文化を代表する出雲族の越後征服とみなしている。 
  
[4]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 04時59分58秒 ) パスワード

(1)京都方楽家系図(中原) 参照
■神武天皇→神八井耳命→〔阿蘇国造〕速瓶玉命→火国造→→武恵賀前命→仲津臣→[多氏]                               
■→武恵賀前命→[仲国造(建借馬命)]

■→〔阿蘇国造〕速瓶玉命 → 健淳美命……[(阿蘇氏へ)]

■神武天皇──神八井耳命──信濃国造――健磐龍命―健稲背命──健甕富命──諸日子命─┬健莒止理命──伊努古君──世襲彦君─┴金弓[(金刺氏へ)] 
■事代主命 (大国主の子)→鴨王命 → 大日諸命(春日県主・武研貴彦友背命)→ 大間宿禰(春日県主)→ 春日日子(春日県主)→ 豊秋狭太彦→五十坂彦(十市県主)考昭時春日改称十市→大目彦(十市彦)→ 倭・彦(十市県主)中原連祖
※ 事代主と 31の建御名方主命は兄弟。

■十市県主について、八一五年に編まれた『新撰姓氏録』は、        十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を 記載する。

■神八井耳命を祖とする氏族は多いが、中でも「多臣氏」が有名で、神八井耳命の末の武恵賀前命の孫、仲津臣のとき、多の神を祭る主として多氏となった。つまり、「多臣氏の元は仲津臣」であり、「常陸の那珂臣氏はその分かれ」であった。
■元は仲臣と呼ばれた有力な氏族として、奈良の春日山麓の大春日氏がいる。春日山へ出る以前は山の辺の道の天理市に和爾赤坂比古神社・和邇下神社を祭る和邇氏の一族である。和邇氏は皇統譜に連綿と妃を出した。
■神武天皇皇后は大物主・大国主または 子供とされる事代主の女子
■二代目天皇の皇后は 事代主の女子。
         一書師木県主の女子・川派姫。
         一書春日県主大日諸の女子・縫機姫。
          師木県主の祖・河保毘売。
■安寧天皇(磯城津彦玉手看尊・師木津日子玉手見命(『古事記』)の皇后は        事代主神の孫にして鴨王の子たる「淳名底仲媛(淳名襲媛)」
■春日は十市(中原)
■十市氏系図(豊前宇都宮流佐田氏が中原を名乗っていたことは知られてい        る。)より 
■中原が祖とする磯城津彦はスサノオー大物主(大国主)―事代主の子―鴨王 の子―大日諸命で 大日諸命は磯城でもある。

※ 広く考えると 諏訪神社 伊賀 伊勢 服部で 三河 が 底流にある。
※ 中原におりてくる 中に 豊秋狭田彦がいる。イザナギ・いざなみ 又は  イザナギの子として 筑紫日向橘小戸阿波岐原で生まれたアマテラスはス  サノオとの誓約によって 生まれた子を連れ、おじである 高魂産巣日神  のところへ行った。
※ アマテラスの皇太子・天忍穂耳尊の皇后が高魂産巣日神の女子・豊秋津師  比売。
  単純にくっつけるのは 危険だけど、広く大きく考えると 狭田彦とかか  れる人は 天皇家が祖神としている高魂産巣日神の女子と同族。
※ 女性の筋で 昔 同族にいた人たちから 神武天皇皇后以下 皇后を出し  た。それは ずっと 続いたという。
※ 元伊勢の丹後籠神社では 事代主と天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は同じ  人とする。       
※ 神武天皇に至る皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の系と皇后を出す天照国照彦天  火明櫛玉饒速日尊は共に同じ父母から 出る。
※ これを 男系にみて 祖先とするか 女系とみて 祖先とするかで 高姓  金姓が 出てくる。
※ はやい話で 諏訪 伊賀をくっつけると 佐田も関与してくる。       
[5]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 05時27分37秒 ) パスワード

甲賀三郎2で 出る 生島足島は生国魂神社で八十島祭りに関与する。宮中でおこなわれた祭り。

皇居では大国主・大物主(ニギハヤヒ)がなくなられたとされる 日に 鎮魂祭りが 行われる と 原田常治氏は 書く。

神武天皇即位の年は 春秋時代だと 複数の書に書いてある。それより前に生島足島の神は いたといい、それらは 出雲族の越後征服に関与しているようだ。

越後には 天御中主尊が いた という。
イザナギ・いざなみも含めてその遠祖の人。

熊野の伝説の1つに 呉の遺民が祖先の夏の桀王をまつった。熊野の午王の宝印には75羽のカラスの絵が描かれる。諏訪の75頭の猪(鹿)の頭を奉げるという話とあわせ、この75羽に意味がなければならない。云々・・・これをみて起こった三戸光圀が「大日本史」の編纂を決意された。その編纂には佐々木助三郎が関与した。(鹿島昇氏 ニギハヤヒ渡来の謎 昔氏の書参照)

荒木田家嫡流の人がネットに出している 阿多羅しい古事記で、出雲荒神谷で出た銅剣と同じものを持っていた と している。

すなおに 見れば 出雲族は 荒木田家と同じ流れ。
三戸光圀は 家系を精査され 荒木田(最上)を 長官として 伊勢神宮に入れた。

出雲佐田神社の祭神は 猿田彦(佐田彦)
この 神社は 神在祭りを する。
つまり 出雲大社とながれは 同じ。


[6]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 12時02分01秒 ) パスワード

高槻重要文化財の切妻造り妻イリの家の笹井家は 丹波亀岡に通じているといい、亀岡には 元出雲神社があった。
丹波志に「雀部鍛冶、子孫 福知山町紺●町下紺屋町鍛冶半兵衛なり。前田村に由緒あり」とあり、高槻の笹井について道端の板書きに丹後からきて、紺屋町の鍛冶やだったとあった。
笹井は 雀部。その先を訪ねたら 孝元天皇の実家。

後 大国主だけ 現在の出雲大社に移された。
この 話には 大田種子が関与する。

大田種子は 三島溝杭耳命の系としている。
大田種子は 秀真伝えを 奉られた。

秀真伝えに書かれる 春日と和邇の関係は 九鬼文書が書くのと 一致しているとし、あながち 無下には出来ないとしている。

もともとあった元出雲に関与する 笹井。

摂州多田院御家人 高岡系図. 摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔にして紀姓を称したるも、 同五世に至りて、源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたるによりて高岡氏もまた源姓を称す。 世々摂州川邉郡多田郷の御家人なり

宇多源氏佐々木氏流の高岡系図(【出雲・但馬 高岡系譜】)

天野屋傳兵衛(服部家家系図)
天野屋傳兵衛(服部家家系図) 先祖 「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟) ... 初代 服部連休(通称、甚吉)、改め天野屋三郎右衛門と名乗り町人となる。 天野屋は服部家の屋号である。( 菩提寺が同じ片原町、妙国寺である。


【丹後 高岡氏系図】

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【始祖】高岡肥後守貞望  【本拠地】丹後國與謝郡板並庄男山

【世系】高岡氏は源姓なり。丹後國與謝郡板並庄を賜り彼地に下向し、同庄男山に館城を築く。

【歴史】男山城主高岡出羽守貞正は、細川幽斎と合戦す。沼田勘兵衛の裏切りに因りて落城せるといふ。

【異説】一説に物部麁鹿火大連の嫡子磐弓連の裔、高岳首に出づといふ。
※ 物部氏はニギハヤヒが 天下りて後生まれた子の子孫として、先代旧事本  紀の天孫本紀にかかれる氏族。
※ 先代旧事本紀伯家白河本は 花山天皇の子孫とする王氏(公卿辞典より)  が持っていた。
※ 同じく 花山天皇子孫が 藤原北家の中山氏。ここが 明治天皇のご生母  の実家。
いろいろな 話は 中山忠光 中山忠能 嵯峨浩が后になる愛新覚羅氏などなど

紀 武内宿禰 池田 佐々木 etc







 
[7]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 12時37分44秒 ) パスワード

服部氏
服部氏、服部党. 服部友定は一揆時の長島城代。 伊勢河内服部党。 ... 伊勢河内の服部氏は南朝の遺臣で、伊賀平内左衛門の後裔服部伊賀守宗純を祖する。 ... (現住)、 岡山藩士 服部家. 清右衛門. 某権大夫(旗本) 源介で検索

服部氏は服部連が伊賀国阿拝郡を領したもので、後に平筑後守家貞の三男伊賀平内左衛門家長がその統領となり、伊賀服部氏の祖となった。伊予橘氏(橘薩摩氏)の流れという服部家長の系譜纂要
 平内左衛門   平内兵衛   彌平兵衛
○服部家長━━━家清━━━宗清━━━宗俊━━━清正
                    │
                   桑名三郎女 
伊勢河内服部党 寛政重修譜1171巻葛原親王後 他  
○吉野十一党七苗字
伊賀平内左衛門 平内兵衛         服部伊賀守 左京亮 伊賀守  左京亮  権大夫
○服部保長━┳保清・・・・(九代)保宗━━宗純━━宗家━━宗信━━宗政━━政家┓
         ┗左近大夫・・・・(七代)馬大夫篠立明行寺中興                ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃      弥右衛門尉(荷之江庄屋祖)
┃*左京亮  ┏正友・・・・・・弥兵衛      ○服部伊賀守宗純九代平左衛門━一忠
┗┳友定━┻源兵衛(岡山藩士)    *友定以下推定
  ┃右京進  権大夫                     
  ┗政光━━政季(徳川旗本)           

服部半蔵家 寛政重修譜1168巻服部家長後
○保長━┳保俊(分家旗本)┏正幸
      ┣保正(分家旗本)┣正辰(桑名藩小服部)
      ┗正成━┳正就━┻正治
            ┗正重━━正吉(桑名藩大服部)・・・・正義
寛政譜ほか

※多治比氏・・・中原の血が入っている。
 50桓武天皇妃として「多治比真宗」を輩出し、桓武平氏の祖である「葛原 親王」が生まれた。
 この流れが板東平氏元祖「高望王」へと繋がる。
 
[8]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 15時03分21秒 ) パスワード

 天野屋傳兵衛(服部家家系図) 
先 祖 
「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟)

家紋は木瓜を使う?(服部嘉十郎先生、広瀬喜太郎著) とあったが、木瓜は一般的な家紋であるので何を使ったのか不明。

服部党の多くは、「重ね矢」など変化させた家紋が多く使われている。

天野屋の家紋は、「角にかたばみ」である。服部家の屋号が「天野屋」である。菩提寺が高岡市片原町、妙国寺(日蓮宗)にあるなどから、先祖が同じ可能性がある。

「服部伊賀守紀宗純」 
服部の先祖は伊賀の国阿拝郡(服部郷)の出である。
保長の子孫に宗純がついている。
岡山藩士 服部
              ┌清右衛門(実栗木助左衛門子) 
┏━某━━権大夫(旗本)    │ ┝━━━┳源介↓(今源兵衛)
┻○服部左京━━源兵衛━━┿女      ┗清右衛門
                   └源兵衛源介──与三右衛門
池田家家臣譜
○服部左京━━源兵衛━━清右衛門━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣源兵衛━━図書━━図書━━与三右衛門━━和俊━━与三右衛門━━和保━┓
┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┗頼母━━和佐━━和順━━将雄
┗清右衛門━━半助━━治兵衛━━半介━━半介━━清三━━半━━鉄吉


武内宿禰に注目すれば
 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) - 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、 淡海臣、長谷部臣の祖
 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) - 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
 蘇我石川宿禰 - 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田 臣の祖
 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) - 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
 紀角宿禰(きのつぬのすくね) - 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
 怒能伊呂比売(ののいろひめ)
 葛城襲津彦 - 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
 若子宿禰(わくごのすくね) - 江野財臣、利波臣、射水臣の祖

武内宿禰の後裔とする
孝元天皇をたてた 天皇の実家・雀部朝臣の系は日本書紀が作られたとき国にひきあげられた という。

明治天皇は 南朝正統論を唱えられた。南北朝両院並立のもとになった人たちのことは 平清盛の子孫に書いている。
武内宿禰を代々世襲してきた 家は 現在も武内宿禰を称しているといい、南朝の子孫をいう熊沢天皇があらわれ、敗戦色濃くなった とき、昭和天皇に退位をせまり、当時として 5000円のお金が支払われた と いう。

平戸藩主松浦家の家老であった熊沢家に 熊沢の名がある。少しはなしが広がりすぎているが、神武系とニギハヤヒ系(事代主に代表される。)のドッキングから 

後 西園寺として 出る 笹井(松前神楽で検索。福島神宮の社家)と鷲尾として出る佐田。この 二つの流れはひとつになって 中心でからまりからまり歴史をおりてくる。


敗戦の色濃い頃 皇太子を 五木あたり 宇都宮あたりに かくそうという 動きがあった。





[9]もみじさんからのコメント(2010年09月28日 15時39分39秒 ) パスワード

摂州多田院御家人 高岡系図
【摂州多田院御家人 高岡氏系図】 【世系】摂州高岡氏は池田氏と同祖なり。

この系図をみれば 天野屋とつながっているように見える。

池田蔵人大夫奉貞の系は 池田輝政や 楠正行の腹違いの男子が養子に入ったりしており、橘薩摩氏とかすった 走り方をしている。(摂津池田氏系図)

紀長谷男に関しては 松永が関与しているような ことを 調べている人がいた。柳原 松永 は 近世 上のほうの人で 出てくる。

岡山の 池田藩士に 服部がおり 上の系図まで 名がある。検索してみてください。
私の家は 集落にある家の名と我が家のつながりから 歴史はきれいにでてくるけど 何のなにがし が どこと つながるか は 隅さんとこのように はわかりません。

山口の方と備後から来た 服部 出所は 三次 三吉 さんと つながれば いいですね。

向島というところは 母方の先祖の別れがあったといいます。私は 戦後の苦しさで 母も一二度行ったようには行っていましたけど 聞いただけです。
お寺様から 3家にわかれたあとの 家の人の名は 教えていただきましたが、恐る恐る書いています。本家の 人からも 年賀状はいただいています。

うちと 同じ紋の 熊本のおうちも 戦後 苦しくて苦しくて それでも 親は捨てられず 文書 などの 類を 持っていたと いうことでした。

あの 爆撃で 一時 書は 行方不明になったが 昭和60年だったか 、 みつかったということで、その文書に 父が つかう 紋から でる 氏のことが わかり、父のつながりから 郡誌をみれば いろいろ 書いてあるのです。本家にはいってくれた 先代は 戦時中大学をでており、それくらいの力はまわりには あったようです。

祖母なきあと 勝手に籍を入れた という家のつながりに、福岡糸島の白石があります。それだけですが、

維新のスポンサーは 福岡の豪商・白石正一郎。維新は彼の財力がなければならなかったといいます。志士たちなども ここに 行っていた と。
後 まわりが つぎつぎと 政界入りを果たす中 一人、赤間神宮に入った と。

ここは 安徳天皇をまつる ところ。
清和源氏の白石が 藤原に入ると 高倉になる。
高倉天皇 その 安産祈願が 摂津鴨神社で 行われた。

こちらの 近辺は 関が原で 豊臣秀頼 や 片桐旦元が 関与しており、後 厳しいものが あったようです。
毛利家すら 大大名だったのが 封を 減らされたのですから。

正一郎に関して書いてある辞書に
江戸時代の平賀源内の本名が 白石であることが 書いてありました。

平賀→鎌倉時代 比企氏に入る 平賀。


[10]もみじさんからのコメント(2010年09月29日 00時14分10秒 ) パスワード

毛利元就は「佐田神社」を 崇敬した。
毛利広元=中原広元=大江広元

毛利元就の男子
 「毛利元秋」は毛利元就の五男。母親は側室の「三吉氏」
 富田氏を名乗ったともされる。

「末次 元康(1560年) -1601」は、
  安芸国の戦国大名毛利氏の当主・毛利元就の八男。母は側室の「三吉  
  氏。」
  正室は「杉原盛重の娘」。
  
  月山富田城主になった。

 本城氏のルーツは 
  加地城 (佐々木加地氏本城) ... 佐々木三郎盛綱により築城され以来室町  時代初めに至るまで、越後守護代、伊予(愛媛)備前(岡山)守護職佐々木加  治氏の本城として隆盛を誇りました。

  藤戸神社の社号は、その備前の地名(倉敷市藤戸町)から取られたらし   い。
  A)領地を姓とする分流 新発田しばた氏 竹俣氏等 五十氏を超える
  順徳天皇の弟冷泉宮・仁親王妃加治實秀の子女である。

  9代の新発田藩主・溝口氏は正室は肥後人吉藩主・相良長寛の娘・慶姫   (・姫)。

  ※ 佐々木氏であることが
    「富田氏」は宇多源氏佐々木氏庶流

    『寛政重修諸家譜』によれば、佐々木源三秀義の五男隠岐守義清の五    代の裔にあたる義泰のとき、出雲国富田荘に居住し、その地名をとっ    て苗字にしたという。

    【歴史】高岡氏は出雲源氏にて、遠祖は佐々木源三秀義の五男佐々木        五郎左衛門義清に出づ。

     • 野木系図
     野木氏は宇多源氏出雲佐々木流。 佐々木四郎高綱の二男、二郎左衞     門尉光綱が、 叔父佐々木五郎義清の女を娶り、義清の養子と為り、     出雲國意宇郡野木(乃木) ...

     • 毛利氏 系図
     野木系図 ... 勝典(1879-1904) 保典(1881-1904) 直典(1889-1889)      元智( - ) 女子(1886-1886) 早世 大正4年(1915)再興實毛利元敏二     男 早世 昭和9年(1934)爵位返上復姓毛利氏 ... 毛利家系図 ...

     
    B)相良 頼完(さがら よりさだ)は、肥後人吉藩の第9代(後)藩       主。寛延2年(1749年)、大納言で羽林家公家の鷲尾隆熙の子と       して生まれた。

私の 目に映るのは A B の ようです。
大きく佐々木 富田 が 高岡 として、

服部氏は服部連が伊賀国阿拝郡を領したもので
後に平筑後守家貞の三男伊賀平内左衛門家長がその統領となり、伊賀服部氏の祖となった

伊予橘氏(橘薩摩氏)の流れという服部家長の系譜纂要
伊勢河内服部党 寛政重修譜1171巻葛原親王後 他  
○吉野十一党七苗字
伊賀平内左衛門 平内兵衛       
○服部保長
保長の子孫に宗純がついている。服部保長━┳保清・・(九代)保宗━━宗純
「服部伊賀守紀宗純」
子孫  友定━┻源兵衛(岡山藩士)
天野屋傳兵衛(服部家家系図)
天野屋傳兵衛(服部家家系図) 先祖 「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟) ... 初代 服部連休(通称、甚吉)、改め天野屋三郎右衛門と名乗り町人となる。 天野屋は服部家の屋号である。( 菩提寺が同じ片原町、妙国寺である。

池田とからまる高岡は

摂州多田院御家人 高岡系図.
【摂州多田院御家人 高岡氏系図】 【世系】摂州高岡氏は池田氏と同祖なり。

摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔にして紀姓を称したるも、 同五世に至りて、源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたるによりて高岡氏もまた源姓を称す。 世々摂州川邉郡多田郷の御家人なり

【摂津 池田氏系図】

【世系】摂州池田氏は、もと物部伊居太足尼(五十言宿禰)の後胤にして、中絶ののち紀朝臣長谷雄の孫、紀維實が之を嗣ぐに依りて紀姓を称す。維實の玄孫、池田蔵人大夫奉貞は、継男子無くして源姓馬場下野守仲政 の四男奉政を養して氏を継がしむ。またその末流、藤原姓尾藤玄蕃允信平の男を婿に入れて氏を継ぎたるによりて藤原姓を称す。あるいは遡りて馬場仲政は、源頼光の支流にして 清和天皇の苗裔より出づるに依りて後裔源姓を称す。


【丹後 高岡氏系図】

【始祖】高岡肥後守貞望  【本拠地】丹後國與謝郡板並庄男山
【異説】一説に物部麁鹿火大連の嫡子磐弓連の裔、高岳首に出づといふ。

どこと どう つながっているか は 兎も角 、 岡山に来る 服部があります。

三吉と本城が 親戚。本城は 佐々木。佐々木は 高岡。池田。
ゆるやかな 姻戚関係により ?




  
[11]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 08時37分01秒 ) パスワード

佐田彦四郎も別所三次兵衛も出てこないけど
「北畠系図一覧」でネット検索すると  佐田が あります。

大田亮氏辞典を写した ノートを見直したら
菅原實言について 中国地方に来た佐田氏がおり
そのあとに東鑑巻25佐田太郎 
安西軍策に 佐田彦四郎 舎弟 神五郎 その弟・小ねずみ別所三次兵衛 
安西軍策では 雅楽丸という兄弟が書かれているはずですが・・・

佐田は い〜っぱいいるので、ここだけでは ないのだけど、中院が出てくるのです。北畠からは・・・

村上天皇子孫は 中院家。
[12]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 18時06分13秒 ) パスワード

菅原實言がどの時代の人かはわからないけど、おおまかに考えて奈良時代から鎌倉時代あたりまで と 思えば、この 彦四郎の佐田はこのころ 「中原」を名のっているはずで、すでに 中国地方にいた。
佐田と名のるには 宇都宮 北畠あたりに くっついたか ・・・だろうけど?毛利には熱田神宮からでた人が養子に入っている。熱田神宮こそ 源頼朝を出したところ。後 南朝総帥を出す。










[13]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 19時06分54秒 ) パスワード

毛利氏遠祖は天穂日命で大国主・事代主と仲良くなったと伝えられる。
毛利元就は「佐田神社」を 崇敬した。穂日の子孫が 「出雲神社」の宮司になり、出雲風土記を書き、「神魂神社」は 穂日が建てたとか・・・「佐田神社」が いざなみ を 祀る神社の 大本で、神魂神社は イザナミをまつっていて、神紋は 二重丸亀甲。中原は 事代主の子孫。猿田彦は神魂命を母系に持つ。女性のつながり で 歴史をおりてくる。

別所は清和源氏新田氏流
または 別所は赤松氏族 村上天皇の末
別所長治友之が 三木の城で 自害した人。

三吉は比叡尾山あたりから出て 藤原兼範より 10余世。ここによる。
備後三次も からむ ようだ。

この兼範の子範世は「千秋宇治江五郎」と号し、千秋氏の一族である野田氏の女子を妻としている。(鳥取県史)母の筋も 考えないと・・・の例。

千秋氏
千秋氏は藤原南家季範の子孫・熱田大宮司家の一流
熱田神宮の大宮司家は、当初尾張氏で火明命の後裔と伝え、大和国     葛城郡高尾張邑に起こったという。尾張国造として尾張の古豪とな     り、熱田大宮司職を世襲した。のちに員職のとき、外孫南家藤原季     範に大宮司職が譲られて藤原姓となった。

季範の娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。それ以後、大宮司家     は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。

平安か鎌倉時代 熱田神宮に藤原南家から男子が婿養子。
大宮司家の武内氏の女子との間の女子が源頼朝を生む。
武内氏は為に藤原氏に職を譲り、この藤原氏の系が 千秋氏で現在     も神宮に いるという。武内氏は 神宮を出て 「八剣神社」を      創建した。「八剣神社」は 大国主をまつり、「布津の御霊」を祀     る石上神宮では 上壇に坐す。大和多氏が祀る神社にも この       「八剣神社」は祭られている。
熱田大宮司家は 南朝の総帥として 動く。
維新がなったとき、明治天皇は どの神社より真っ先に 石上神宮     に報告にあがられた という。

本などをみれば 一幡丸や周りの人などの 横にも 中原と()で      書いてあった。
平清盛の子孫 参照。西園寺 四条など 源家とつながる。

一方 毛利氏は遠祖・天穂日命で、この命は大国主と仲がよくなった。
天穂日命の子孫が 毛利氏で 能美氏 土師氏をとおり、菅原氏になり、

千秋氏の系と別に 桓武天皇の孫・平城天皇の皇子の阿保親王の子孫が鎌倉時代 熱田神宮に入り、再び出て 毛利に養子に入ったのが 大江匡房。子孫広元が 中原広元・大江広元・毛利広元。

毛利広元(中原広元) 大友能直(中原能直)が 人吉の後白河法皇の所領・蓮華王院領の預かり所。相良氏はその地頭。

大きく藤原にからみ 後白河法皇の近くにいて 鎌倉幕府に関与して 南朝をとおって くるのが 中原ととらえると 北畠一族に 濃く関与する。

人吉地方は 相良氏のお国替えが800年近く一度もなかった藩として 全国でも珍しく 
鎌倉時代の 人の からまりが その後もつづいていたらしく 
親世代でようやく もう 源氏でも平家でもない と 言っていた。  

為に そのあたりの 家の名(俗名の簡単な名)や つながりから 
古い時代の頃のこと が でてくる。
[14]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 19時18分24秒 ) パスワード

相良 長寛(さがら ながひろ)は、肥後人吉藩の第11代藩主。

宝暦元年(1751年)12月6日、備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれる。明和6年(1769年)3月5日、第10代藩主・相良福将が死去したため、末期養子として家督を継いだ。

相良氏と 池田。相良氏と新発田(佐々木)。相良氏と鷲尾氏。

池田と高岡同じ祖。鷲尾と佐田。佐田と中原。大きなつながりだが 上の方のつながりに つれて 動いてきたことは 推察される。

 
[15]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 19時54分02秒 ) パスワード

前に 毛野氏について しらべたことがあり
@ 毛野の畿内系統と密接に関連しつつ東国に居住したものがあり、下野の宇都宮一族や 常陸の八田(小田)一族がある。

Aこれら一族は 常陸国真壁郡八田村におこり、藤原北家道兼流とも称し、本姓中原ともいったが、二荒山神社を奉斎し、河内郡の宇都宮神社社務職を世襲している。

B同じく 真壁郡伊佐庄におこって 陸奥の国伊達郡信夫郡で大いに発展した伊達一族は、藤原北家山陰流と称し室町期には源姓も称したが、実際には 車持公の流れではないかと推される。

★ 車持与志古は 天智天皇との間の子をおなかにやどし、 藤原鎌足に嫁して藤原不比等を生んだ。


菊池氏は 後 相良氏の妻の実家の 高橋が名を継ぎ または 菊池の血筋が高橋を名乗り 相良藩家老になる。菊池系図には この 車持与志古 や 不比等の妻に関して 「海士」だとしている。

★ 車持公は 新選姓氏録の左京皇別の項に、 豊城入彦命の八世の孫、射狭君の後で、雄略天皇の代に乗輿を供進したため車持公(きみ)の姓を賜った。
又 摂津国皇別にもみえる。

[16]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 20時07分42秒 ) パスワード

杉原氏というのは 平貞盛の子孫。この 貞盛の 子孫には 北条氏がある。@ 尾張の国にすんでいた 杉原家次は 秀吉の叔母を妻とした。家次には 七曲と 朝日という 妹がいた。

朝日は 杉原定利の妻となり、後の秀吉の正室・北の政所・おねの方を生んだ。七曲は 浅野長勝の妻となったが、妹の朝日のうんだ おねを 養女として 秀吉に娶わせた。

杉原氏と 畑氏とは 関係があり それは 後鳥羽上皇の頃まで 遡る。(八田氏)

八田氏とは 15にでる 宇都宮と 同族。この 畑氏は 北畠氏も関与する。「神皇正統記」を書いた 北畠親房。後村上天皇は 堀川などが 関与する 道長子孫。
  

家康がついだ 世良田は 足利尊氏とは 枝分かれの 山名の筋。
こちらは のち 西陣として あり 南朝を支持する 北畠氏に迎えられた。南朝の天皇の子孫がつづいていて、 近代 「熊沢天皇」という人が 敗戦のとき 昭和天皇に退位をせまり、国から 当時 5000円の大金を受け取ったという。

明治天皇も 南朝正統論を唱えられた。昔 北朝には 足利義満の子供が すりかわったという。
[17]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 20時13分31秒 ) パスワード

杉原系図では 家次の祖を 平光平(平貞盛より 10代目 この 光平の 7代前の貞衡の弟 正衡の系が 平清盛につながる。
  
清盛 弟 教盛 の娘は 土御門通親 と 結婚。
豊前宇都宮氏初代 信房の 母 は 久我右大臣 源 雅利(村上源氏)の 娘 で 土御門通親の叔母

つまり 杉原系図に関与する 豊臣秀吉(木下)は 宇都宮(佐田)と 土御門で 接点がある。
又 佐田は 村上とも いえる。
[18]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 20時33分45秒 ) パスワード

八太氏系図
30 敏達天皇の第3皇子の春日皇子とされ、小野妹子 、篁 、武蔵7党 小野氏歴代を経て、15代知家。
「八田氏」の名が 初めて現れるのが 「保元物語」「吾妻鏡」
22代 畑時能は 「太平記」に現れる。
敏達天皇の宮の名を 語田宮という。おさだの宮。おさだ は 事代主に通じていた。

春日は 藤原が関係する言葉。4参照。
春日王の神社 奈良市二名平野町 杵築神社・・・富雄の地。
    
ここに 長脛彦が 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の子 宇麻志麻知命を君としていた。
「先代旧事本紀」では 宇麻志麻知命の 妹 が 神武天皇の皇后に立つ。

丹後 籠神社では 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を 事代主としているので「先代旧事本紀」と 符合する。
    
東流日外三郡誌は 長脛彦の子供が 逃げ 兄 安日彦も 逃げ 津軽に落ち延びたと伝える。
その子孫という安東氏(秋田氏)のもつ「東流日外三郡誌」は 荒覇吐神を載せる。

安東氏は 系図を 藤原鎌足に祖を 持つが 鎌足の母・大伴氏。
春日王は  大字春日に 舎城を構えるために 祖神を鎮祭された。
祭神 主神 スサノオ命
   相殿 天忍穂耳命  市杵島姫命(スサノオとアマテラスの誓約で生ま      れた姫神で 宗像三神の一人) 
市杵島姫は 厳島神社の祭神
    
丹後籠神社では 市杵島姫を 弁財天=荒覇吐神としている。
対神を くとなの神。この神は 佐田彦か?といわれる。

くとなの神が 籠神社 出雲大神宮の 一番大事に 秘されている神だ
という。
[19]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 21時02分19秒 ) パスワード

八太氏は 「吾妻鏡」にも でてくるが、「ある遺書」(能勢氏が書く)には「吾妻鏡」にある不思議な話として、源平の頃 原田水軍は 大蔵の地を本拠とする 源氏に 味方するよう迫られ 困った家臣の 高氏などは 韓半島に身を寄せるが 出産がせまった 人に トラがおそいかかり、 それを 源氏の兵がトラを射殺し、 その 賞に 韓の国主が さらに 三国を 与えたという。韓とのつながりは 源平の頃にも あったようだ。

布津にはじまる蒙古名は 鎌倉時代まで 続いた。
こちらは 九州の 天孫系の神社の宮司におり、元に代表される族。清に代表される族と 同族。

又 那須の余市がおり、屋島の合戦で 相良氏と共に義経の軍にいて、扇を射落とした人といい、 武田系図につき、本姓・浅利氏。八代の人だが、唐の年号をつかっていた という。国史辞典では 山本(源)義経の年齢が20年程違うということだが、年の計算に ずれが あったかもしれない。

ある遺書は 安徳天皇が その後も少し生きていて、墓もあり、宮内庁は本当だろうと見舞金を出した と。
[20]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 21時24分43秒 ) パスワード

「寛政重修譜家譜」では 明確でない 稲葉氏の出自と 八太氏の出自とが それぞれの 延長線上で 交わり、その接点にあらわれる姓が 「藤原氏流畑氏」
丹波篠山という土地と そこにある 佐佐婆神社「畑宮」は 藤原氏流畑氏と関係の深い土地と神社。
古来から 皇室の崇敬あつい 神社。

後鳥羽天皇第六皇子  仁和寺宮道助法親王 院家理智院大僧正隆澄 畑三河守経房が 再建。仁和寺は 宇多天皇が 建てられた寺で 門跡寺院として もっとも 格の高い寺。      

B源平の頃 後鳥羽天皇内親王 八条院が 没して 丹波多紀荘の領家が 八条院から 高倉皇子 順徳天皇へと移る。
姓系辞典の山本義経条に 「八条院に候」とあり 候とは 仕えたという 意味か? 順徳の 母 高倉。

山本義経には 枇杷殿などの ことばもみられる。この 山本義経が 松浦水軍を 育てた。

多紀荘の 荘官は 三河守 資経の 孫 経世。
経世の兄 経継は 大和の 水分神社の 神主 藤原刀禰の娘を 娶り、その子が 伊勢北畠氏の 養子となり 畑氏を 称している。

この 畑氏が 藤原氏吉田流 畑氏であると 考えられる。

C 大和国高市郡波多郷の名の由来は 土佐国 高市郡 (高知)幡多から きているものと 考えられている。
土佐国に 高知坐神社があり 高知は 高市のことであり 高市坐には 「事代主」が 祀られている。

大和国高市郡にある 波多神社も 「事代主」を 祀る。

「大同類聚」に弁恭天皇后 衣通姫命が 大和国波多神社に伝わる薬を 病気のときに 用いたとある。 衣通姫命は 藤原之琴節郎女ともいい、この姫の住んだところを 藤原と称するようになったという。

幡は 波多であり 畑でもある。藤原氏発祥の地は この 畑にあった。
[21]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 21時55分32秒 ) パスワード

このあと 16杉原系図との関係をみれば わかるのだが、土佐あたり 四国には 伊予橘氏(橘薩摩氏)がいた。
話がどうどうめぐりになるので ・・・

抱き茗荷紋は 杏葉紋と混同されやすいそうで、(高丘紋)が 杏葉紋だとのこと。馬具の一種である。先が開いているのが茗荷紋とのこと。

天台宗の摩多羅神の神紋として用いられた。
天台宗で 関与するのが 二尊院。ここは 西園寺家関係の墓所がある。
漢王室子孫・三津首・最澄が大和大三輪神社を勧請して 近江・日吉神社を建てられた。
大三輪神社の祭神が 大物主・大国主。

摩多羅神は秦氏の総鎮守の大酒神社(おおさけじんじゃ)(今は太秦の広隆寺)の祭りの神である。秦氏の所縁が深いせいか、藤原氏系統にこの紋が多い。
広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる。

広隆寺の聖徳太子の像に 歴代天皇の即位に着用した束帯を贈られる。平成天皇の時も きせかけられた。
[22]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 22時36分06秒 ) パスワード

4参照
仲津臣
大田亮氏姓系辞典より
★ 仲津臣
豊前国に 仲津郡あり。郡内に中臣郷あり。関係あらん。
又 後世 下毛郡に中津の大邑あり。
@ 仲津臣  中臣条をみよ。
A 豊前の仲津氏  
B 下毛郡の豪族にこの氏みゆ。
応永の頃 仲津江太郎あり。大江姓を称したか?と。
★ 中臣氏発祥の地
豊前国中臣郷仲津郷付近
神武紀 
中臣祖種子と 豊前国 兎狭津姫と結婚したことを伝え、
中臣系図がその子を宇佐津臣としている。
この 兎狭津姫におりてくる系は 高魂産巣日神にある。

神武天皇は 東還のとき 宇佐によられている。
景行紀 12年条
天皇熊襲 親征の際 柏峡の大野にて、直入中臣神を遥拝されている。
このことも 中臣が 古く 豊国に 栄えたことを 語っている。

大田亮氏姓系辞典
★ 中臣
児屋根命の子を 天押雲命 その子を 天種子命という。
うさつ媛と結婚し、宇佐津臣を産む。その 六世孫 大鹿島は
垂仁紀に中臣遠祖 大鹿島と みゆる。当時は 連姓を 称していなかった。
        ↓
伊勢の「大鹿首」氏の系譜と氏人
津速魂命  三世の孫、天児屋根命の後なりと見え、
その系譜が中臣連一族に出たことが記され、これではきわめて漠然としていますが、詳細な中臣連の系譜には、崇神・垂仁朝に活動した大鹿島命の子に@大楯命、A相鹿津臣命、B臣狭山命の三名をあげて、
@が常陸の中臣鹿島連の祖、Aが伊勢の大鹿首・川俣連の祖、Bが中臣連の祖と記されます。


菊間国造は上古の房総に繁衍した上海上国造の一族で、
武蔵国造などと同族で出雲国造と同じ天孫族・天津彦根命の流れですから、
中臣氏族とは男系では関係が見られませんが、女系を通じる所縁もないとはいえません。

[23]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 22時41分15秒 ) パスワード

西園寺実氏は常磐井でもある。佐田と微妙にかさなって出るのだが・・・
★常石 ときは
和名抄常陸国那珂郡に起こる。後世 常葉 常磐に つくる。
  
常葉 ときは
@ 中臣姓  佐田前司為清の子・清佐・・これは伊勢神宮社家?
A 大和の常磐
十市郡常盤里より起こる。
中臣氏の族。天児屋根命18代黒田大連の孫
B 紀姓 常葉 常磐 石清水祠官族・兼清の子。兼清 号 常磐・・・
C 北家 長良流
長良の子 八条国経8世孫 為忠 子孫 為兼は 大鏡作者
D 桓武平氏 北条氏族 北条義時・・・
ほか いろいろ
これらは 佐田。

★常盤井
西園寺 橘 渋江 等の条を見よ。                     
[24]もみじさんからのコメント(2010年09月30日 22時52分38秒 ) パスワード

中原をおいかけると六角がでるが、 
佐々木信綱の三男泰綱が近江守護職と京都六角の家を継ぎ、四男氏信が湖北と京極の家を継いだのです。
※ 宇多天皇皇子の敦美親王の系は 藤原道長と結んだほうは貴族になって行き、京極と結んだほうは 武士化していった。近江源氏=佐々木源氏=宇多源氏。
※ 西園寺実氏のまわりと子孫をみると(代々皇后を出し続ける)

常盤井宮
亀山天皇の末
近世 常磐井宮  霊元天皇皇子・桂宮条

C 信濃の常磐井  平治物語 弘戸次郎
D 藤原姓
伊勢高田専修寺法主 明治にいたり 華族。家号 を 常盤井
有栖川宮織仁親王―常盤井堯煕(正2位近衛忠煕の第7子。嘉永6年6がつ15日織仁親王の実子となるー堯献)

切妻造り 妻イリの屋根を持つ 笹井家住宅。
切妻造りは青州(山西省)に 関与する。

[25]もみじさんからのコメント(2010年10月03日 01時05分44秒 ) パスワード

23常葉
B 紀姓 常葉 常磐 石清水祠官族・兼清の子。兼清 号 常磐・・・
社家 志水氏 
岡山あたりに 縁のある清水氏(ウィキからとりました)

清水氏(志水氏)(しみずし、しみずうじ)は日本の氏族。主なものとして次の流れがある。

備中国国人で、後に長州藩士となった難波氏族又は平姓の一族は、備中清水氏
伊豆国国人で、後北条氏の家臣となった藤姓清水氏の一族は、伊豆清水氏
出羽国国人で、清和源氏斯波氏流最上氏の一族は、出羽清水氏
美濃国国人で、清和源氏多田氏流山県氏の一族は、美濃清水氏

難波氏は難波の吉次で検索。2に 謡曲についてあり三条吉次と吉六の兄弟の一行に加わった牛若のはなしがある。
三条は公卿の末か?だが、義朝から牛若が拝領した刀を知っていた とあり、多田の館に仕えていた人かもしれない。

難波の吉次は 橘(きつ)と 呼ばれることもある   という。
橘は 藤原 紀 とも。

武家家伝 清水氏で 最初に三つ巴紋が三つあるページをみると
備中の清水氏が 「高松城」に 関与する人で、子孫に三吉が ついている。
清水氏で有名なのは戦国大名毛利氏に属し、備中高松城で豊臣秀吉を迎え撃った清水宗治だ。宗治の出自は、古代豪族田使首の後裔、平清盛に仕えた難波三郎経遠の裔とする説がなされている。

源平の頃は 漢王室子孫が絡まってきているので さらに 歴史をさかのぼらなければならないが・・・

桓武平氏も清和源氏も中味は 佐田(中原)がからんでいた。
常磐で笹井 佐田がからみ
公卿の中にある名とからんでいた。
先に書いたことを 推考しながら 近しい関係を 引き出してみると すこしずつ 出てくるみたい。

 
[26]もみじさんからのコメント(2010年10月05日 14時40分19秒 ) パスワード

田使首の先祖は
摂津国 葛城直で系は
天神立命之後也) ... 高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命−剣根命−夜麻都俾命−久多美命(葛城直祖)

『神武紀』 椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。
また陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。大田田禰子が秀真伝えを奉られた。

     +−玉依彦命−−−剣根命
 陶津耳命−活玉依比売
        |−−−太田田根子
 大物主神−○・○

出雲臣女子沙麻奈姫 (健甕尻命) 5.健甕尻命* 伊勢幡主女 賀貝呂姫 (豊御気主) ... 従って、源は一つであった伝承が一つは事代主−三島溝杭(こっちは神武皇后を出す)と伝わり、他は大物主−陶津耳、と伝わったものであろう。

後世 賀茂家は吉備氏族と称する鴨朝臣の一族の系統である。
[27]もみじさんからのコメント(2010年10月05日 14時55分27秒 ) パスワード

青海神社
越後平野をみはるかす加茂山に鎮座まします青海神社は古くから「加茂のお明神さま」と広く親しまれております。 青海郷を開拓した 青海首一族は、郷内氏子の護り神として神亀3年(726)に祖神椎根津彦命と大国魂命をまつる青海神社を加茂山の山麓に創建しました。
大国魂命 青海首共に 椎根津彦命を 祖神とする。

 
倭宿禰とは神武東征時、水先案内となった珍彦こと椎根津彦のことです。 ... さて『籠神社に伝わる系図』から見て、椎根津彦は本当に国神なのでしょうか。 天火明命は天神です。 ... 『海部氏勘注系図』では武位起(タケイタツ)の子が宇豆彦すなわち椎根津彦。
[28]もみじさんからのコメント(2010年10月05日 15時21分13秒 ) パスワード

多氏は太安万侶がいるが
★大和・多坐弥志理都比古神社
神名式
多神社 多坐弥志理都比古神社 二座
四皇子社
皇子神命神社
姫皇子神社
小社神命神社
尾就神命神社  大社皇子神

天平2年大和国大税帳
多神宮 注進状
大宮 二座  
珍子賢津日霊神尊  皇像瓊玉に坐す。
天祖 聖津日霊神尊 神物円鏡に座す。
若宮 四坐
彦皇子神社
皇孫 日火霊神尊
姫皇子神社
天媛日火霊神尊
樹森神社
瓊玉戈神尊
日月神社
火瓊神尊
若宮二社
子部神社  皇弟 天火子日命  神像統玉に座す。
子部神社  皇弟 天火子根命  同上
己上は 意富郷にあり、多朝臣 禰宜たり。肥直 祝部たり。
外宮 
日原神社
天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
己上神社   川辺郷にあり。肥直 禰宜たり。
若宮一座
天孫 国照火明命 神像竹箸に座す。
摂社一座                               (官社に非ず)八剱神社
出雲速蛇建雄命  神像横刀に座主す。
己上神社 は 川辺郷にあり、 川辺連 祝部たり。

日原神社あたりは 大和笠縫村あたりらしく 倭姫世紀で ここにも とまられた。八剣神社の祭神は 大国主だとのこと。

皇孫とは 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊が高御産巣霊神尊の孫でもあるので、天孫ともいい、皇孫ともいう。
皇弟・天火子日命とあるので、天津彦根命のことらしく、アマテラスは珍子賢津日霊神尊  皇像瓊玉に坐す。
天祖 聖津日霊神尊 神物円鏡に座す。どちらかのように思える。
珍子のとき、上の 珍彦に近しい人のように 思える。系統が同じという意味。ににぎの子孫の神武天皇は 山ノ神の女子・海の神の女子と結婚した人たちの子孫。阿多羅しい古事記 を ネットに出している人は 伊勢神宮の祭神は倭王 としている。
自分たちが持っていた剣は出雲から出たものと 同じだとしている。伊勢神宮も熊野大社も 出雲が元。



[29]もみじさんからのコメント(2010年10月05日 22時47分51秒 ) パスワード

道の駅毛利WEBNO・302でありましたが
毛利宗家には、世鬼衆と呼ばれる忍び集団がいて、吉川家には杉原盛重の下に、有名な佐田彦四郎、徳久などの忍びがいたようなのです。
世鬼衆は元々高橋家の忍びだったのが、主家滅亡後、毛利家の忍びになります。
徳久は元々、大内家の忍びだったらしいですが、これも毛利家の忍びになります。徳岡久兵衛は大内氏と遠祖が同じだといい、その術は百済のものだと・・・大内氏も毛利氏も百済系図をもっている。毛利氏遠祖は天津穂日命で天孫・ににぎの父の弟。大国主と仲良くなったという。毛利氏は天孫族の子孫。彦四郎もそうだろうか・・佐田とは広い意味のサダもいう。
幕末の奇兵隊に最後の世木何某という人物が戦死していて、世鬼衆の家が幕末まで残っていたことがわかりました。
そこで期待し、吉川藩などの家臣団表を見、徳久や佐田という名を探したのですが、結果はありませんでした。杉原盛重病死の後、御家争いで没落した後、吉川家の忍び集団はどうなったのでしょうか?
また小早川家には忍びはいたのでしょうか?
[30]もみじさんからのコメント(2010年10月05日 22時48分35秒 ) パスワード

NO356
毛利元就が若かりし頃、多治比殿と呼ばれた頃・・・多治比とは桓武平氏のもとになる多治比真宗を出す。十市王などのことばがあった。十市とは中原。

忍者の実像 の 検索もおもしろかったです。
フレーム2では【口羽通良】 くちばみちよし
志道広良(この系から桂小五郎(大江孝允)(木戸孝允)がでる)の弟。安芸の忍び衆、世鬼政清(子孫らしい世鬼茂十郎がいる)を説得し、毛利軍に加える。以後、世鬼衆を使い、毛利軍の情報収集を統括した。

吉川家の彦四郎と世鬼は関係があるのでしょうか・・・
[31]もみじさんからのコメント(2010年10月09日 23時12分45秒 ) パスワード

検索すると 彦四郎について 誤解をまねくような書きかたがされているページがありますね。ただ 盗ったというだけでは 驚きますが、


あるとき、一人の男が「今晩、わしの刀を盗んでみよ」と言いました

彦四郎は承諾し、夜になりました

その男は、刀を自分の体の下にひいて寝ていました

すると彦四郎は水を一滴寝ている男にたらした

男は「ん?なんだ?」と一瞬起き上がったが、またすぐに寝てしまった

この一瞬の間に彦四郎は刀を奪い取ることが出来たのです

とあり、又 その屋敷に数匹の犬を放し飼いにしておいたのに、なんなく侵入した とも・・・・

毛利元就と間者と孫氏の兵法で検索
元就が間者一族を抱えていたことは知られている。
その代表的な一族が世鬼一族である。 世鬼一族は、もともとは駿河の今川氏の末裔今川正信とされている。高橋家に仕えていたが ... 現在の美土里町の瀬木集落. その昔 元就に間者として仕えた一族世鬼氏ゆかりの地と考えられる

高橋家は 古い家としては 弥彦神社の社家がある。遠祖・天香語山命。この命はニギハヤヒが天にいた頃 高御産巣日神の女子と結婚して出来た命で、天下りて後の名を 「高倉下」といい、神武天皇東還の際、布津の御霊を奉げられた人。尾張氏遠祖。尾張氏は熱田神宮。

熱田神宮社家の人たちは 多くが名を変えられ その 実体はわからない と大田亮氏は書く。

熱田神宮では 10年ほど前、祖先を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊から振魂命に変えられた。

倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもあり、「振」は石上神宮の布留御魂神の「布留」であり、物部首の祖・春日臣市河が和珥氏系であることから、和珥氏との関係も窺えるだろう。春日や和邇も中原から出てきた。4参照

天火明命は倭氏の遠祖、振魂命の子、天前玉命と同一人物とする系図があり、そうなると、高倉下命と倭氏の宇豆毘古は従兄弟同士ということになる。

私が思うに 上の関係は 女の筋のつながりでは・・・と 思うのです。佐田・中原の血は歴史の中で陰に隠れているが 実は その血が連綿と うけつがれてきた。





[32]もみじさんからのコメント(2010年10月10日 12時17分49秒 ) パスワード

猿田彦は鼻が高く、上は天から下は地まで照らす神として登場する。天孫降臨の情報をいち早く知る立場にあり、後 エラブ貝に指を挟まれ溺れ死んだというが、これは 海神族・又 サダ突厥という族の 唐王室に真珠を売りに行っていた という 話に通ずる。

猿田彦は インドの青面金剛であるともいう。

<天孫降臨の情報をいち早く知る立場にあり・・・
4に書いた豊秋狭田彦は神武よりあとの世代の人なので、猿田彦はもっと前の人だが、豊秋狭田彦は高御産巣日神の女子と同じ 豊を関している。猿田彦も同じ族の人とは考えられないだろうか?猿田彦も金の羽羽矢の伝説を持つ。これは北方騎馬民族だという。高御産巣日神も高天原の人で主宰神だった。女子系で彼の子孫とするニギハヤヒ・皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊子孫は羽羽矢を見せ合って天神の子の確認をした。

消してしまったけど、神武天皇はわが国を「秋津州」といい、奈良時代 わが国に来た渤海の使節・うすぼつ は 自分とこの王の先祖・扶余と、日本の天皇家の祖先は昔 親戚だったのだから、親戚の付き合いを復活しよう といい、日本のほうも そうだといって 国交が復活した。というが うすぼつはわが国を「秋津」と 言ったという。

渤海の遺民・高歓が関与するのが北魏・北斉で 神武・孝昭・孝明などの王名がある。勿論 これらは神武天皇より、はるか 後世のことだが、滝原宮から出る 話しに 天智天皇子孫・淡海三船がおり、神武以下の天皇の諡号を漢風にした。

これも 消してしまったけど、葉木ということばには、国常立尊・豊国主尊などの別称がある。系統が同じと捉えてよいだろう。又 丹後の方の貴峯宮 御影山から 国常立尊は高御魂巣日神と同じ神のように受け取れる話がある。高御魂巣日神の女子・大国主の后・三穂津比売・国常立神女子・出雲皇女。


神社名:いずもだいじんぐう(いずもじんじゃ)元出雲
祭  神:大国主命、三穂津姫命
所在地:京都府亀岡市千歳町出雲無番地
       (丹波国桑田郡・式内名神大社)この出雲大神宮は大国主とその后神、三穂津姫命を祀る延喜の制の名神大社ではあるが、
本来は本殿の背後に円錐形に美しくそびえる“御影山”そのものが出雲大神として
太古より崇められていた神体山であると伝えられている。
この御影山は「国常立尊」の身体そのもので、この神は出雲毘女(いずもひめ)によって祀られ、
毘女が薨じた後はこの神体山に葬られ、「三穂津毘女」と諡(おくりな)されたという。
そして後にはこの毘女が出雲大神と呼ばれるようになった由も伝えられている。

高槻の重要文化財の「笹井家住宅」は 丹波亀岡に通じているといい、ここに上の元出雲がある。大国主だけが、元明天皇の頃 出雲に移されたのだという。

荒木田家嫡流の人は 青州を発って 韓半島をとおり、日本に来たといっている。青州山西省に 「切妻造り」の 家が 立ち並んでいるという。 
[33]もみじさんからのコメント(2010年10月11日 21時49分02秒 ) パスワード

ちょこちょこひろってきました。
島根県西伯郡
★伯耆町(ほうきちょう:西伯郡岸本町と日野郡溝口町との合併)
旧・岸本町の城郭
岸本砦(きしもととりで)/形式・・平城/西伯郡伯耆町岸本/天正8(1580)年、播磨三木城(三木市)の別所氏が羽柴秀吉に敗れ、滅亡したとき、この地に別所長治の一子・竹松丸を奉じ別所忠治・野脇新三郎たちが逃れてきたという。

故地は忘れてはいない のでは ・・・場所が違うけど 溝口など 10新発田氏ででました。

★もし杉原興勝が木梨杉原氏の一族だとしたら (系図には載っていないらしい)
杉原理興は備後南西部から備中南東部まで、かなりの広範囲に影響力をもっていたことになる。そして、筆頭家老が興勝で盛重は下位なのである。
備後 備中まで といえば 岡山に来ている服部氏と姻戚関係をもったかも知れない。探せば別所の遺児もほかに出てくるかもしれない。
[34]もみじさんからのコメント(2010年10月11日 22時37分41秒 ) パスワード

日野という言葉から連想されることとしては 日野氏は藤原北家・親鸞を出した。
高槻にあるお寺で、住職日野氏 先代か先先代か?分厚い本を書いている人がいて、その中で 赤松といとこ と書いている。このあたりの はるか 古代からの歴史を書いている。

近くの呉服屋さんの奥さんがいうことに、二条様から お嫁に代々きていた ということで、そのお寺様では 今でも 子供が出来ないときは 二条から 養子を迎えるのだそうである。

庭に 冷泉云々・・・の石塔が建っている。二条としては阿波公方だった大内氏の系図に 「二条祖」とあった。又大田亮氏の古いほうの辞典には佐田に二条とあった。佐田は 紀 でもある。

このあいだ ネットでみたのに 今探しても どれでみたのか? 安西軍策を簡単に書いたものに 小鼠が くっついていた人に 「菊池」がかいてありました。又 彦四郎は 「入江」という人に 「わしの刀を奪ってみよ」と挑まれたのだそうです。入江といえば 近い世代で 聞いたような・・・
[35]もみじさんからのコメント(2010年10月12日 00時22分54秒 ) パスワード

34の阿波公方だった大内氏と二条は訂正です。大内氏系図大内弘正が冷泉祖でそのあと・・・とあって子孫・隆豊です。
何が書きたいか というと、
日野といとこの「赤松」は 村上源氏。中院が思い出される。佐田はサダという族。契丹 サダ突厥 女真族 蒙古 金姓 清 アイシーン・ギョロ  として 近い世代で出る。もとは 西方の 雑種で 伯(貊)董氏 季。たどりたどれば 人類の母といわれる 神農氏(赤帝・炎帝)子孫・女媧にものぼるらしいが、そんなことは 長い長い話なので、黒須氏の本・覇王不比等や近衛文麿 などでは金姓と紀姓の関係は 大陸何千年の歴史のかなたに遡る としている。

九州の天孫系の神社に関与する宮司に 尾方・緒方がある。尾方もアジア辞典にのる。女真族 蒙古 金 元。スサノオ 大国主系で 三輪神社に 関して子孫系譜がある。
菊池は子孫・豊田で 大内氏も一子相伝で 豊田。大内氏は 山口氏。
多々良矢田氏という系図がありました。

        ┌重弘・・・
大内弘家┼矢田盛賢─盛師┬貞致─弘茂─重盛─満弘┬幸盛┬家弘─盛通┐
        └弘郡          └弘恒                └満世└盛弘      │
┌────────────────────────────────┘
└重護─高護─盛澄┬保通─義宣┬隆通┬元直┬元行─就定┬就政─就真・・・
                 └興明      └隆盛│    └定勝      └政真
                           └女子(二宮就

多多良を他他粒氏と書くとき、契丹8旗族になります。
サダも契丹。尾方大賀は契丹の貴族。尾方佐田山口の3点セットのときスサノオ大国主事代主になる。山口をたどれば宗像三神 大国主事代主宗像氏大蔵氏高階氏菊池氏となる。大蔵からわかれて岩門木原山口で、阿蘇文書下益城郡誌に木原は源姓とあり、萩藩資料に都濃郡に清和源氏の子孫という木原のことが書いてある。武蔵大蔵の地が源氏の本拠地だった。

 
[36]もみじさんからのコメント(2010年10月12日 00時33分04秒 ) パスワード


漢王室は劉姓だが、それは 母が劉温で、父は太皇としかかかれない。
劉姓の話に 夏の始祖・劉がいるが、この氏は結婚した相手が男系だったからカクレンボツボツと姓を変えた と。時代が下がって 西夏にかさなるところが夏があったところ。 
姓系辞典 う条 下村に 
漢士 光武帝子孫 少昊金天氏子孫 とある。もし 本当なら 少昊金天氏の子孫は 「金」姓を名のる人が多い。新羅もそうである。宮中の儀式のときの言葉が新羅のものだということは 言語学者がいっている。荒木田家嫡流の人は崇神天皇は一書 漢の鉄官の子 一書 漢の高祖の子孫としている。
又 劉邦の父は 「蓋太上皇父」とも ・・・蓋は解。高姓。
微妙に高姓と金姓がすりかわっているのだが・・・

解から神武天皇の幼名・狭野が出た。
アイシーンから 姻戚関係の中山氏が出て、嵯峨が出て、西園寺が出て、西園寺実氏を祖とする 笹井が出る。笹井も冷泉万里小路の言葉がでる。
私が知っている家で、今現在 上のようなところに つながってはいない。
子孫が普通の庶民になる例は 相良藩主のところだって何百年前にわかれた子供の子孫など 一般の人になってしまっている。一子相伝で 財産を伝えてきている と いうことなので。又 はるか 昔のつながりは そこら一帯で からまりながら 時代をおりてきたのでは・・・父の出自の家は相良藩主の子孫が使った名の家と通婚している。
[37]もみじさんからのコメント(2010年10月12日 12時21分26秒 ) パスワード

8の岡山藩士・服部清右衛門のこと 池田家家臣(池田と多田院御家人高岡)
http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/hattori.htm

岡山藩士 服部家
                  
池田家文書
熊本県泉村の栗木の永田姓の人のコメントがありましたが、上のページを検索すると「実は栗木氏の子供」というところがあります。どこの出身の栗木かわかりませんが 昔は地名を持ち歩き・・・ということもあったようで、あちらの栗木とこちらの栗木はたどりたどればつながるかも知れません。

泉村は五家荘が有名です。
http://www.yado.co.jp/kankou/kumamoto/kumanan/gokanosyo/gokanosyo.htm でけんさくするといろいろな話が出ますが、敗戦の色濃くなったとき ここか宇都宮の山の中にそのときの皇太子を隠そうという動きがあった。

何故 上ーっの人らが こんなところを知っていたのか?又 こんなところより都会でないと・・・ということもいわれたようだが、山の方が食べ物には不自由しないのです。戦しかしない人たちが畑など耕すわけはなし・・・城だって昔は山城だったんですよね。

13の千秋氏。古代豪族氏族系譜・千秋氏の系図には近世 高丘氏と姻戚関係がある。17世紀頃 山口氏へ養子。ネット検索では養子に二回入っている。
高丘とかくとき、漢王室子孫と30敏達天皇孫娘と結婚してでる坂上氏一族になる。又 18の八太氏も参照。13の千秋氏にからむ話とあわせ考えるとその頃の動きにそって三吉氏も動いていると考えると、岡山あたりで服部になるつながりがあったかもしれない。

脈絡がないけど、筑前風土記 宗像シンポジュウムに 安部貞任 宗任の子孫と松浦氏のことが書いてあり、後世 明治天皇のご生母の血につながることがいろいろな本に書いてある。
松浦氏の女子と先に書いている中山氏の男子との間の女子がご生母。  
[38]もみじさんからのコメント(2010年10月13日 23時50分36秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/sabroemon/e/a2e7d22a8072fe725d2c5792f08b6f52
光延姓の研究 〔19〕
上のようなのもありました。
備後三上氏
B恵蘇郡「 向泉村 三吉氏。慶長中、三上源太兵衛元尚 を祖とす。その子 庄兵衛元清 より、外戚の三吉を称す 」
 三吉氏 について

 三好郡三好に起こった『三吉氏』は、藤原鎌足の後裔兼範が備後三好に下向し、その子兼宗が三吉大夫と称したのに始まる。(三吉氏系図)

 しかし、上記の藤姓三吉氏が三好に入ったのは康永2年(1343)以降であり、それより以前に源姓の三吉氏があった。
 そのことは、藤姓三吉氏が三吉氏を名乗る以前の『 鼓氏 』の鼓氏系図に書かれている。
 
 それによると
 『 佐々木七郎秀綱、源頼朝の時、藤原泰衡退治に功をたて、建久3年(1191)備後地頭職に補し比恵尾山に築き、後に氏を三吉と改む。その子秀方承久の変院中に参り、6月14日戦死す。時にその子三吉安太郎高元僅かに2歳母の懐に抱かれ、三好を退き伊予国能島に走り、成長の後備前児島に蟄居す 』とあり。
     
 おそらく、児島には同族佐々木氏が多くおり、その縁を頼ったものでしょう。

そして、この佐々木姓三吉氏は、三上氏を同族と伝えております。
三男 『 三郎盛綱 』 が、佐々木系図によると『 本名(もとのな) 秀綱 』 とある。
[39]もみじさんからのコメント(2010年10月14日 00時10分11秒 ) パスワード

高岡 池田 天野 の 線を 今 探しているところですが、
大田亮氏辞典
紀の国の高岡は 源正行の末といい、云々 焼失・・・家に絹の赤旗があり・・・内仏の間 というのがあり お寺の内仏の間に似たり、 天野宗主の家に似たり 。と。
ずっと前にみたので 又 こんどのようなつながりの可能性がでるとも思わなかったので、 源正行というところをたしかめなければならないと思っているのですが・・・
私が育った家は
今は立て替えているし 誰も住んでいないので 見る影もないけど、前の家はたぶん 上の 内仏の間というのに似ていると記憶しています。畳半間ほどの棚が三つ並んでいて 、座敷の奥の間には 床の間 違い棚 欄間 やりかけなどがあった。
高岡の系図をいろいろ検索すると 源氏 紀氏 物部氏 池田同祖などあり、上の源氏であるとき、橘正行=楠木正行とするのに通じていくように思う。ここが苦しいのだけど・・・
今NHKで坂本龍馬をやっていますが、岩崎弥太郎は武田の子孫なのですね。一時衰退したけど、なっていったのですね。
[40]もみじさんからのコメント(2010年10月14日 00時32分42秒 ) パスワード


★【出雲・但馬 高岡系譜】【始祖】高岡八郎左衛門尉源宗泰  【本貫】出雲國神門郡鹽冶郷高岡邑

【世系】高岡氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、八郎宗泰が出雲國神門郡鹽冶郷高岡邑を領してより高岡氏を名乗る。

丹後高岡氏は、物部氏の支流高岳首後裔で、アラカビをとおり、高岡親王をとおり、高岡貞望(さだもち)を始祖とする一族。貞望の後裔高岡四郎貞躬が足利尊氏に従って勲功があり、丹後国与謝郡板並庄を賜い、丹後に下向した。

★【始祖】高岡八郎左衛門少尉源宗泰  【本貫】出雲國神門郡塩冶郷高岡邑

【世系】高岡氏は源姓なり。津和野藩士なり。

【歴史】高岡氏は出雲源氏にて、遠祖は佐々木源三秀義の五男佐々木五郎左衛門義清に出づ。


★【摂州多田院御家人 高岡氏系図】
【世系】摂州高岡氏は池田氏と同祖なり。摂州池田氏はもと物部伊居太足尼 (五十言宿禰)の後胤にして、中絶ののち紀姓の人が之を嗣ぐに依りて紀姓を称す。その後裔池田蔵人大夫奉貞は、継男子無くして源姓馬場下野守仲政の四男奉政を養して氏を継がしむ。依りて後裔源姓を称す。摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔にして紀姓を称したるも、同五世に至りて、源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたるによりて高岡氏もまた源姓を称す。世々摂州川邉郡多田郷の御家人なり。

戦国大名である池田氏・田中氏・山中氏も橘流です。
★ 池田教正
池田氏はもともとは紀氏流であるが、池田奉政の孫で教依は楠正行の遺児教正を引き取り育てた。その子佐正が池田氏を称し、摂津に住した。ここから分かれたのが、後に美濃に移った近世大名家となった池田氏である。
(岡山藩・鳥取藩、恒利以前は摂津池田氏の系譜も参照)
★ここで 楠正行が出る。
[41]もみじさんからのコメント(2010年10月14日 01時01分22秒 ) パスワード

大胆な仮説をたてれば、「天野屋」で 検索すると、服部が出る。この子孫は池田家臣になった。ただこの天野系は服部半蔵とは別系統とするが、7参照
ここでは 宗純がついてますね。そして 南朝で戦っている。
こうなると先に書いた紀の国の高岡の源正行もつながってくるのかしら。

高岡氏(出雲)
出雲高岡氏は、宇多源氏佐々木義清流で、高岡宗泰を始祖とする一族。本貫は出雲国神門郡塩冶郷高岡邑。のち山名時氏に仕えて、1393年(明徳4年)出雲の本貫を離れ、但馬、『備後三次郡』に移住した。1581年(天正9年)因幡丸山城落城の後、宮部継潤に属したが朝鮮征伐の後致仕して小出秀家の麾下に属した。和泉陶器(かわらけ)藩士の高岡氏(佐々木氏)はこの一族で、陶器藩が無嗣断絶した後、但馬に戻った。
別所三吉と小ねずみと佐田も一応はずして考えてみたがよいかも知れませんね。ただ、佐田は紀ででました。城井が本流。
高岡は忍者というより伊賀衆をまかされた ようですが・・・
[42]もみじさんからのコメント(2010年10月14日 01時28分52秒 ) パスワード

8参照
池田家家臣譜
○服部左京━━源兵衛━━清右衛門━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣源兵衛━━図書━━図書━━与三右衛門━━和俊━━与三右衛門━━和保━┓
┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┗頼母━━和佐━━和順━━将雄
┗清右衛門━━半助━━治兵衛━━半介━━半介━━清三━━半━━鉄吉
ここらの名が隅さんのおうちのご先祖様にあれがいいですね。
http://gos.but.jp/hattoriu.htm は牛窓の服部家です。
源兵衛――+――平五郎  ――+――新右衛門信明
明和8  |  寛政11   |  天保13
室    |  室      |
     |         +――助太郎
     +――平兵衛信高  |  文化12
     |  分家     |
     |         +――平五郎信之――+==新一郎
     +――五郎作       文久1    |  武田氏
        明和3       室服部氏   |  明治21
                         |  室
                         |
                         +==義兵衛信義――寿美
                         |  荘田氏    信恭妻
                         |  嘉永7
                         |  室
                         |
                         +==常吉
                         |  森氏
                         |  嘉永3
                         |
                         +――平五郎信恭――+==鹿太信慶 ――+――和一郎
                            昭和9    |  浦上氏    |  平成1
                            室服部氏   |  昭和21   |  室河相氏
                                   |  室信恭長女  |
                                   |  室児島氏   +==六衛
                                   |  室高畑氏      藤原氏
                                   |            昭和57
                                   |            室鹿太次女
                                   |            室服部氏
                                   |
                                   +==節二信庸 ――海門
                                      辻氏     平成4
                                      昭和16   室
                                      室信恭次女
                                      室江木氏

分家 若葉屋東服部

平兵衛信高――平兵衛信訓==平九郎信實==彌三郎信惇――+――潤二  ――+――完二
天保13   明治15   近藤氏    近藤氏    |  昭和32  |  室田辺氏
室      室岡氏    明治31   昭和10 |  室白神氏  |
       室武田氏   室信訓六女  室則武氏   |        |
                            +==一雄    +――令子
                               高岡氏   |  国富興一妻
                               室信惇娘  |
                                     +==克己
                                        大澤氏
                                        昭和51
                                        室家女

系のコピーが乱れたみたいなので 自分で検索してみてください。
[43]もみじさんからのコメント(2010年10月15日 22時27分07秒 ) パスワード

紀の国の高岡 大田亮氏辞典
紀の国の豪族にして、続風土記、那賀郡真国荘条に
「荘司天文の旧記に、高岡右近の家は真国の荘司たることをのせたり、又400〜500年前の文書に真国志賀下司公文職、貴志次郎入道というあり、又蔵人あり。
しかして、同荘宮村丹生高野明神社条に
「神主・地士 高岡右近 蓑垣内に住す。高岡の家に正絹に桜の紋を朱にしてつけたる長さ一丈五尺ばかり。朱の横引き3所にある旗と、長さ五尺同紋にて八幡大菩薩と書きたる吹貫きあり。この家は荘中にて旧家なれど、先年大火にあいて、文書等を焼失したれば、今にては事の始末定かならず。
荘中と訴訟のことありて、延亭中裁許の状に
高岡右近の家は天正の旧記に真国の荘司とあり、よりて荘中座配の頭と定むと。
焼け残りの文書に嘉吉3年、正平16年、天文7年、正志3年等あり。
その文書に真国南殿というあり。高岡の家なるべし。
「高岡の先祖は源正行とて、大塔宮に仕えたる家なりという。又蓑垣内は皆高岡の家の譜代なりといい伝う。右近の家に影向の間というあり。天野祖主の家の如し。仏寺の内仏の間というに似たり。」
又勝谷村
城山。伝え言う。織田信孝高野責めの時、砦の後たり。

八田氏族
常陸国茨城郡高野村高○郷より起これり。(大光語録)
尊卑文脈
八田四郎知家ー知重(小田)ー泰重(号高岡八郎左衛門尉)ー家重ー重義(五郎左衛門尉・弟に九郎重知)ー知義(太郎)、弟重広(三郎)

高岡 泰重(たかおか やすしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代の常陸国の武士。常陸高岡氏の始祖。小田知重の五男。(八田知家の孫)。小田泰朝の弟。高岡六郎と称す。官位は左衛門尉。

新編国志にも同じような記載がある。

15参照 中原のことと思っていたけど、高岡で八田氏がいるということは、父・高岡 母・佐田 他に山口のからまりが山口県にもある と 本に書いてあった。でも 上のことを 見たら昔から からまっていたように 思える。

※まくにのしょう【真国庄】和歌山県:海草郡/美里町-日本歴史地名大系
貴志川の支流真国川沿いの地と、その周辺山間部の現美里町北野・初生谷・花野原・蓑津呂・真国宮・蓑垣内・井堰付近を荘域とした。南は神野庄である。神野庄と同時期、康治元年(一一四二)に立券されている。
※こうやみょうじん【高野明神】-国史大辞典
丹生明神とともに祀られる高野山の護法神。狩場明神ともいう。いまも九度山慈尊院や高野山麓の天野(和歌山県伊都郡かつらぎ町)にある丹生都比売神社をはじめ、高野山上などに祀られており、地主神・護法神。
※丹生姫神社の祝が「天野」。
※大塔宮=護良(もりなが)親王の宮号
[44]もみじさんからのコメント(2010年10月15日 23時27分13秒 ) パスワード

関氏長門守の侍帳に
服部半兵衛
服部伝右衛門がありました。

どうして高岡と服部がからまっているのか ・・・?
大酒神社 広隆寺
広隆寺の聖徳太子の像には歴代天皇即位の時の袍がきせかけられる。黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)は天皇しか身につけることが許されないもの。
荒木田家の祖先は殷・周の宝物を持っていた。

中国伝説大辞典に 
殷の王亥と有易のはなしがある。有易の子孫が遥民・瀛民になった。秦になるのだが・・・
殷の姓は子とされるが、ここでは姓は「勾こう・く」とされる。

王亥(他の名前になってもいるが)は 西王母のところへ行く途中、食料が尽き「丈夫国」になった。「困民国」ともいう。

男子国でもあると。
その国では死ぬとき透き通るようになって 背中(脇腹)から二人の子供が出るのだ と。

丈夫国では 黄色の服・冠をかむり 腰には剣を帯びている と。

伝説がなにかしら 真実を伝えているのなら、
有姓に行き着くものがあるように感じる。


[45]もみじさんからのコメント(2010年10月16日 00時00分56秒 ) パスワード

先代旧事本紀
平安時代は第一級の歴史書とされ、中世まではニギハヤヒを祖先とする家が多かったが、江戸時代に本居宣長が偽書と断定し、この本の価値が下がった。
昭和63年頃だったか、国もさすがにこの本の重大性に気づかれ 国の重要文化財になった。

花山天皇の子孫・王氏が 伯家白河本先代旧事本紀を持っていた。
同じく 藤原北家中山氏も花山天皇子孫。明治天皇ご生母を出す家。

紫式部は「源氏物語」の中で、これで王氏から三代入内・・・と書いている と。姫たちは 美しかった と。

荒木田家の祖先が持っていた アマテラスのご遺骨。後から神武のご遺骨にかわったそうだが、甕棺だったそうな。これは 新の頃につかわれたそうだが、王モウは田斉の最後の王・王建の子孫。

漢王室の劉邦は匈奴に「王昭君」を差し出したが その人は 絶世の美女だったと。 

[46]もみじさんからのコメント(2010年10月16日 01時19分40秒 ) パスワード

高御魂巣日神、神魂尊、津速魂巣日神等、諸尊の御血統は、豊受大神宮禰宜補任次第、尊卑分脈、荒木田系図等に
天御中主尊ー天八下尊ー天三下尊ー天合尊ー天八百日尊ー天八十萬魂尊ー高魂尊・神魂尊・津速魂尊
とあり、こは 

前述旧事本紀の独化天神の名称と符合し、

又 書記一書なるイザナギ・いざなみ二尊の御血統と一致する点多し。

古き伝説と思わる。
と大田亮氏は書く。

服部連は古くは 
天御中主尊11世孫・天御桙命の末。
B服連は
天御桙命の末。姓氏録河内神別に収め、服連・熯(かんとよむ)之速日命の後なり。
36摂津の服部連
姓氏録摂津神別に熯之速日命が12世の孫・麻羅の後。

弁恭 仁徳 
服部弥蘇連が因幡国造阿良佐加比賣をめとりて生める子・宇那比賣とあり、この人は執政大臣の女子 と。

服部と因幡地方のつながりと 服部の権勢が伺える。

熯之速日命は天照大神の子とされるが、記紀の正文になしとし、
イザナギ・いざなみの神裔に火之夜芸速男神がおり 
この人のひ孫に大田亮氏はつけている。

その子が 武甕槌神。
武甕槌神の大おじが経津主神。
火之夜芸速男神の孫が豊受毘賣。

なんだか 古代の小さなつながりになおして考えるほうがわかりやすい。
豊受毘賣は伊勢神宮外宮に祭られる神。

服部氏が秦人系のとき、上の宇那比賣たちには酒で足を洗っていたという話がある。秦氏には餅を的にして射たという話も・・・。

機織だけでなく、農耕をしていた話も・・・
 
[47]もみじさんからのコメント(2010年10月17日 00時34分21秒 ) パスワード

こんなのもありました。忍びと正行と通じているもの
http://to4roh.nobody.jp/who0501.htm
忍法は楠木正成に始まり、その遺臣菊水党を通じて伊賀へと伝えられた。

又こんなのも
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-higo-takaoka-ishi.html
柏原氏は桓武平氏良文流 その枝分かれの渋谷氏は島津に仕えた。高岡徳左衛門養子細川家に仕えた。子孫に宇野氏から養子。宇野氏は村上天皇子孫。
村上天皇子孫は 北畠に関与する。北畠から佐田。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/tagenshin.html
ここにでる系図から新免弾正左衛門を検索

http://www.geocities.jp/themusasi1/ref/t05.html
NEXTで追うと、徳大寺家は西園寺。
文中に出る秋月は山口から出る。黒田は小寺で鷲尾から出る。
これらも高岡 山口 佐田にまとまる。
秋月は家康の6男・忠輝をだす。
文中 池田(山崎)も出て、三木城あたりがちょっと書いてある。
私が考えるに 隅さんとこのおうちは服部姓。でも他のことがわからないので雲をつかむような感じですが、まわりは上の俗名のからまりのようです。
うちの佐田は永田という家から養子。これは佐田の意識に平氏があったようで、それにつながる。永田のつながりに石丸があり、伊達家の方で石丸は片倉の養子?前に 毛野氏から伊達が出ていた。昔の小さな固まりになる。

うちの佐田に無理に関を入れてきたという家の繋がりに 白石。これからは維新のスポンサー白石正一郎が出た。勿論 うちの白石がここに つながっているわけではないだろうが、どちらも同じ福岡の人。本名白石の平賀源内も忍者だったとか・・・

白石は姓系辞典では わからないのだが 漢王室外戚・王氏と書いた辞書が前にあった。若狭のほうで彦火火出見尊 をまつるところに 「白石大明神」があるらしい。

前 別所三吉で新田氏のほかに赤松の末とあった。
http://www.geocities.jp/themusasi1/ref/t201.html
 (13)武藏の母は別所林治といひし人の女
 田住氏系図に依拠するこの説は、顕彰会本の「新説」である。
 ここにいう別所林治〔べっしょ・しげはる〕は、別所静治の二男で、兄が定道である。佐用別所氏は播州三木城の別所氏の支族http://www.geocities.jp/themusasi1/ref/t201.html
平田氏は、播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流というが、ちなみに衣笠氏そのものは、別所氏の支流である。初代祐盛、応仁の乱に赤松政則につかえて軍功が多く、但馬勢合戦のみぎり衣を下賜されたのを笠印にして戦ったところから、政則の命で姓を衣笠と改氏したという話がある。

衣笠氏は元来備前の和気郡本庄村衣笠(現・岡山県和気町)の出という。播州揖保郡松山(現・姫路市林田町)に拠り、祐盛の子・範弘の代から明石郡端谷〔はせたに〕城(櫨谷または栃之木谷とも、現・神戸市西区)の城主となる。三木合戦では範景が討死、端谷の衣笠氏はこれで滅んだが、範景の弟・衣笠久右衛門(因幡守景延)は、のちに黒田二十四騎の一人として筑前黒田家中で三千石知行。寛永八年(1631)歿、享年七十九歳、兄と違って半世紀も長生きした。また、範景子の政次の系統は、美作に移って諸村に衣笠氏として残り、また従兄弟の氏綱の系統は播州姫路に存続した。

楠を名のる人と武蔵
http://www.geocities.jp/themusasi1/ref/t202.html
この大日本武徳会の発起人に名を連ね、団体発足後は役員(常議員)として深く関与した者の一人に、楠正位(1844〜1918)がいる。彼は三河の碧海郡高岡村の生れ、尾張藩士であった。

別所の浪人は多く黒田家に仕へた。

[48]もみじさんからのコメント(2010年10月17日 00時50分00秒 ) パスワード

47ここにでる系図とは「宇野氏」を引いてでる系図

筑前新免氏系譜を読む
[49]もみじさんからのコメント(2010年10月18日 06時00分34秒 ) パスワード

http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-15.html
越智氏考
ニギハヤヒ 越智氏 楠正成・楠正行がつながっている。

大阪高槻の鴨神社ともつながりが・・・ここは 欠史8代といわれる頃にふれ、葛城に関与していることを神社紹介で載せている。

蠅伊呂杼につき4参照
京都方楽家系図
中原氏系図
  安寧天皇―懿徳天皇―孝昭天皇・・・血沼氏・多遅麻氏
      |
      ――磯城津彦命―多祁太努美命・・・猪使氏・新田部氏・須知氏・那婆理氏・    |        三野氏
              |
              ――和智津彦命――蝿伊呂泥
                    (意富夜麻登玖邇阿禮比メ・記)
                     |
                     ―蝿伊呂抒
                     |
                     ――蝿伊呂居(中原)――――                               |
                               |
   ――――――――――――――――――――――――――――
   |
   |
   ――系不詳・・・十市勝良―春宗・・中原有象→十市流中原氏へ
               |
               ―良忠・・中原以忠→甕氏・樋口氏へ



2−1)彦狭島命
@父:7孝霊天皇 母:蠅伊呂杼
A第3皇子、兄弟:稚武吉備津彦 大吉備津彦など
別名:伊予皇子
B越智氏祖(新撰姓氏録、記紀)。

さらに 勘注系図では 
建登米命ー建田勢命 ー建諸隅命    ー日本得魂命
    |     |        |
    −宇那比姫命ー大倭久邇阿禮姫命 天豊姫命
     (卑弥呼)          (台与・竹野姫)
と載せ、卑弥呼もこの系にあることをいう。46宇那比め参照
太田亮氏は 物部に 関して 服連を書いていた。もう一度確かめないといけないけど・・・
※海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社(元伊勢)の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。

又 天王寺方では
天王寺方楽家系図
秦始皇帝―故亥皇帝―孝武皇帝―功満君―弓月君―真徳君―布止古
                      |
                      |−浦東君―秦※酒公――|
                                  |
   ――――――――――――――――――――――――――――――――
  |
  |
  ――・・・川勝(川辺)聖徳太子のスポンサー・・・・太秦嶋麿・・薗
                                 |                                  林
                               | 東儀
                               | 岡
                               女子
                               ||――葛野麿
|| |(中はヒ)
                       藤原鳥養―――小黒麿 |
                                  |
                                女子
                                 ||
                               桓武天皇
と酒公の祖先は秦始皇帝にする。(系が乱れているので検索してください)

43高岡右近の先祖・源正行
この人が 橘につながるようだ と 見当をつけている。

猿田彦は警視庁・全国の警察の守護神とされている。
警察のマークが桜紋。
桜の紋(桜の代紋)です。
正式名称は「朝日影(あさひかげ)」と言い、
「東天に昇るかげりのない朝日の清らかな光」を表しています。 
元々は陸軍のシンボルマーでしたが、昭和23年(1948年)に
警察の正章として採用されました。




[50]もみじさんからのコメント(2010年10月19日 23時04分38秒 ) パスワード

少し話があずれるけど、源とかくとき、必ずしも源氏とはかぎらない。
「ある遺書 北摂能勢に残るもうひとつの平家物語」能勢初枝は 安徳天皇が一年くらい生き延びていたと書くが、P168尊卑分脈・藤原成親の系図で四男公佐の注に「子孫有閑院内」とあり、さらにその子實直の横には「子孫相続有閑院流」とある。この人は閑院流をついだということになる。
保立道久著「平安王朝」(岩波文庫)に、閑院流藤原氏というのは、崇徳天皇誕生とともに、臣籍に降下された源有仁の家系で、この人たちは源という姓で呼ばれていた。たとえば、二条院の母は、御白河の最初の妻で、閑院流藤原氏であったので、源嬉子と呼ばれていたとある。又系図の※印の女子も横に源と記されている。この源は武家の源氏とは別の系譜である。

公卿辞典の高丘家は「廃れてしまった閑院家を起こさんと橋本家から養子が入った」とここからはじまる。 閑院流西園寺の族。



[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年10月20日 22時04分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

>閑院流藤原氏というのは、崇徳天皇誕生とともに、臣籍に降下された源有仁の家系
 
明らかな誤り。
源有仁は輔仁親王の子であり、白河上皇が猶子として後三条源氏が成立。
後三条源氏の後裔は、藤原南家為憲流の天野遠景が源氏改姓で系嗣。
田代氏も同様。血系的には藤原氏だが閑院流ではない。
閑院流(公季流)藤原氏は師輔十男公季に始まる。
藤原成親は末茂流、鹿ケ谷謀議参加者の一人で備前に流罪されて殺害。
子の成経は薩摩硫黄島流罪となるが、翌年許され参議まで昇進。
同じく子の公佐は、公季流滋野井実国の養子となる。
  
崇徳天皇は後三条天皇の後裔で、確かに閑院家の血が濃いが話がアベコベだ。

姓氏類別大観藤原氏公季流(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02010.htm )を参照のこと
 
各々の著者は、自説の都合の為に事実をゴッチャにしている。
そんなことを言い始めたら、公家平氏の末裔だって藤原氏が絶家再興をしている。
現代の藤原氏筆頭近衛家だって、源氏になってしまう。
大江姓毛利氏も藤原氏になる。
重箱の隅を突き、出自を仮冒だ、偽系、真説だと騒ぐ学者が多いが。
家系というモノは、ほとんどが養子、猶子、絶家再興、官職就任改姓で継続されるものなのである。
[52]もみじさんからのコメント(2010年10月22日 23時28分51秒 ) パスワード

ありがとうございます。これらの話の中に父の家のつながり母の家からぐるぐるつながる家があり、歴史の流れの中で源平争乱 南北朝の 動きに対応したような形が地域にあり、一度もお国替えがなかったので、昔の意識を持ったまま歴史をおりてきたのだろう。うちは母方は三代前にすでに末子11代前くらいにも嫡流ではないので末の又末ですが・・・。父方も三代前に三男。

前に調べたとき 熱田神宮の系図に関連してでる高丘家が北家閑家流であり、その始祖も書いてあり、養子で継がれ現在南家になっていることは神宮から教えていただいたので・・・

太田亮氏辞典
物部は最初ニギハヤヒの後裔・物部連これを総括せしも、後、春日臣の市河 石上神宮に奉仕して一部の物部を率いる。物部首これなり。

摂津皇別  物部首と同祖。米餅搗大使主命の末。 
姓氏録
河内神別  天足彦国押入彦命7世孫米餅搗大使主命の末。
         (春日氏族)
和泉    布留宿禰と同祖。天足彦国押入彦命の末。
『新撰姓氏録』大和皇別、布留宿禰の項には、物部首の「 男正五位上日向が、天武天皇のときに社地の名によって布留宿禰姓に改めたとある。

4参照
十市 と 春日と 中原は つながっている。
49参照
越智氏と中原もつながっている。
(広い意味で考えている。サダと=結婚した という形で)

考昭天皇(観松彦香殖稲尊・御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)。

皇后は『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。
『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。
なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。

天足彦国押人命(天押帯日子命)
記紀によれば、孝昭天皇の皇子で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命『日本書紀』本文、『古事記』では余曽多本毘売命、日置姫)。
同母弟に日本足彦国押人尊(孝安天皇)がおり、『日本書紀』本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述される。
天足彦國押人命の事績は伝わらないが、『古事記』には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・小野臣・柿本臣・春日臣・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖、『日本書紀』に和珥臣の祖とし、『新撰姓氏録』にも同様の系譜記載がある。なお、子に和邇日子押人命(稚押彦命)がおり(『和邇系図』)、名からして和邇氏族の宗祖的存在と言える。

「兄天押帯足日子者。<・・小野臣・・之祖也>」(『古事記』孝昭天皇段)
「天足彦国押命。此和珥臣等始祖也」(『日本書紀』孝昭
「大徳小野臣妹子。家于近江国滋賀郡小野村。因以為氏」
(『新撰姓氏録』左京皇別下、小野朝臣条。『日本古代氏族辞典』p.135)
   『古事記』では余曽多本毘売命、日置姫)。

父の方の集落に小野というところがあり 観音様を 祀る。
観音様は 又 佐田から 出る 鹿島神宮 にもある。

小野の集落には 宮田 村山 松本などの家があり、これは伊勢神宮の社家の名にあるのを以前ネットで見た

45参照
鹿島神宮は「布津の御霊」や武甕槌神に関与する。

孝昭天皇は第5代天皇で 欠史8代といわれるなかにいる。
越智氏からは高槻鴨神社もつながっていて、ここは 欠史8代といわれる頃葛城に関与していることを神社のホームページで載せている。

[53]もみじさんからのコメント(2010年10月23日 00時42分02秒 ) パスワード

北家閑家流は閑院流です。

うちの集落の小野ではないが、「小野一族」は自分たちは「アメノタリシヒコ」という人の子孫だと言っていた。
※山科の小野の地は藤原が栄えたところ。
※藤原鎌足が藤原姓を賜ったとき それまでいた 藤原氏は 他の姓に変えた。
※サルタビコ子孫・椿氏は藤原朝臣。他の姓に変えたのではなければ、ここが藤原氏なのか?または姻戚関係なのか? 県犬養橘三千代の賜姓にともないそれまでいた橘氏は椿氏に名を変えた。

ともあれ 孝昭天皇皇后について、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛と書く。猿田彦からは ずいぶん時代が下がった頃の人だが、豊も倭も秋も狭太も歴史のあけぼのの頃につながる言葉である。

荒木田家嫡流の人は 自分たちが持っていた宝物は倭国の宝だといっている。

九鬼文書について書かれた本に
藤原氏である「九鬼氏」の「九鬼文書」は スサノオを正系にとる。
なかとみ を 「黒人根国」の 祖と する。
九鬼文書にある「中臣氏」について記す。
大中臣氏と鹿島中臣氏は異系とするが、両方とも、月夜見尊からの分かれとする。
月夜見尊の御子として、天児根命、経津主命、武御雷命の3人をあげ、
大中臣氏は、天児根命の後裔。
常陸大中臣氏は、武御雷命の後裔とする。
春日氏は、大中臣氏から分かれる。
天児根命の裔天種子の御子に天豊春日命がおり、この人物が春日の始祖とする。
なお、伝承上は、この春日の子孫が九鬼氏とするが、伝来の系図では、大中臣から、藤原を経て、九鬼となっている。
しかし、春日氏については、その始祖が経津主命と思える記述もある。
46参照
春日 服部がからんでくる。

面白いことに、この中臣氏と原・春日氏の関係は、「秀真伝」等にも類似の記述があり、無下に出来ないと考える。

九鬼氏も南朝方として三種の神器を守った。そのときの戦いが神のようでそれも一人ではない9神の働きだと後醍醐天皇から九鬼(上のノがない字。しかし日本にはこの治がないので鬼の字をあてたのだと・・・くかみという)

春日 藤原で中原とつながる。秀真伝えは大国主子孫の大田種子が奉られた。
スサノオ 大国主(大物主) 事代主は族として考えるとき同族らしい。はるか昔のことは 大きく広く考えないとわからないので 九鬼文書はサダが関与する人たちが広く活躍していたことを 伝えているようだ。
[54]もみじさんからのコメント(2010年10月23日 01時36分26秒 ) パスワード

歴史をはるか遡るとき どうしても ユダヤと結びつける考えがあるようだが、私は この島に先祖の人たちが来たのは神武天皇即位を伝える複数の書があることから、もっと昔のことで、最初の一滴に近い人たちとキリストや仏陀やユダヤとの関係は枝分かれした先の子孫に出るのだろうと思う。

神武は高姓のようだ。
檀君世紀 36世 檀君売勒条
甲寅38年 陝野候 ・幋命を遣わし、往きて海上を討たしむ。十二月三島悉く平らぐ。
帝 兵を遣わし、須臾の兵と燕をうたしむ。燕人急を斉に告ぐ。斉人大挙して孤竹に入り、わが伏兵に遭い、戦いて利あらず。和をこいて去る。
馬韓世家 
甲辰 子・弓忽立つ。甲寅 陝野候に命じ、戦船500艘を率い、往きて海島をうち、倭人の叛を定めしむ。弓忽薨ず。子・東祀立つ。東祀薨ず。
★複数の書が 神武天皇の名・狭野という人について 書いている。
★『宋史』卷四百九十一 列傳第二百五十 日本傳
?瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮即位元年甲寅、當周僖王時也。甲寅 前六〇七年。

サダ(金もっと前は有姓のようだ)から考えると
陸路をたどってきた人たちと別に海の道をとおってきた人たちもいたらしい。サラセン商人・フェニキア人とか書いてあったけど・・・

北極星はフェニキアの星といわれるのだそうで、海と猿田彦の伝説とサダ突厥の真珠をうっていた話と 通ずるように 思える。

船にのっている人たちは家を建てる技術や生活に必要な技術ももっていたのだそうだ。又航海の羅針盤やあらゆる気象に通じており、すぐれた知識を持っていたようで、

ひとつひとつをつなげることは出来ないけど、忍者に通ずるものがあるように思える。個々の技術は後世「役小角」が教えたそうだけど、昔は貴族の家では九九を教えていたそうで、

近世 織物に関して地方の女性が 生活の為に機織を習いたいと思い、教えを乞うと九九が出来るなら教えてあげるといわれたのだそうな。

アマテラスもしくは殿中にいた女性が機織をしていたことは史に書いてある。
★アマテラスを冠するのは4人
@アマテラス大神

Aスサノオもアマテラスを冠している。
広島県甲奴町の「須佐神社」は、「神天照真良武雄神」をまつり、スサノオのこと。
スサノオの名は 勝速日健速須佐之緒之命
出雲王朝皇統譜では 天開国開天津日高建速須佐之緒命
日高は皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊や山幸やその子で神武の父・ウガヤフキアエズにもついている。
九鬼文書がスサノオを正系にとることに通ずるようだ。

B藤原鎌足の弟は 「太洛稽氏」で、アマテラスを名乗った。

C天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は
丹後籠神社では 「事代主」が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としている。
この人は 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄とされる。
事代主=大物主=大国主=甕玉命=天照御魂=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

   先代旧事本紀 伯家本 天神本紀では
     天照地照天火明梳玉饒速日尊。




[55]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年10月23日 17時40分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

もみじさん へ
 
胡散臭い書籍から仕入れたヨタ話が多いようですよ。
 
>春日氏は、大中臣氏から分かれる。
 
明らかな誤り。
常陸鹿島大宮司家の中臣鹿島大宗の子、中臣時風および中臣秀行は春日社司家となったが大中臣氏が春日氏に改姓したわけでもない。
また大中臣恒滝が春日神主家となったが、改姓などはしていない。
 
春日氏の裔が物部氏に改姓したのは、石上神宮祠官に就任する為が理由。
この様な事例は、後世まで掃いて捨てるほどある。
 
饒速日尊を天火明命と同一人物としているのは先代旧事本紀のみであり、新撰姓氏録が尾張氏を天孫として、物部氏を天神としているので別人物だろう。
天村雲命の母は饒速日尊の娘穂屋姫で、ここに目を付けて先代旧事本紀が改竄したことがうかがえる。
饒速日尊を天忍穂耳命の子とする説もあるが、現時点で裏付けが取れない。
丹後籠神社祝家の系図をもてはやしているが、天火明命から倭宿禰命までは他文献でも確認が取れるが、海部直都比までの間何代か省略されている。
原系図は田雄まで後は後世の加筆で、本当はかなり疑わしいのである。
 
先代旧事本紀や九鬼文書は偽書の疑いもあり、全てを否定するものではないが他の文献で裏付けをとることが必要。
[56]もみじさんからのコメント(2010年10月24日 22時32分24秒 ) パスワード

ありがとうございます。はるか昔のことなどどれが本当でどれがそうではないか わかりませんね。自分の家のことや地域の歴史から浮かび上がることからとらえるしか・・・
新選姓氏録を奉った万多親王さえ 系が乱れて先祖の順序が後先だろうが 多少系が乱れていようが大きくとらえてこれをつくった みたいなことを その表文にかいているようで、考証と書かれた本で見ました。
そこには皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊が西下まえり と 九州より東から来たように書いてありました。又 雀氏が中国上姓四姓のひとつ と。

その姓氏録さえほろびている ということなので、まして それより はるか昔のことが 昨日のことのように  あちこちの家の伝承で一致するなど そちらのほうが不思議ですね。だって 自分の家と親戚の家と 少し遠い親戚の家の人などが集まると、今の世代のことなのに 「あれはどこの家から来た嫁だったかな」とかその子供などの年令になると、いくつだったかな? という程度にしかわからないのに、養子養子でつがれた家のその養子の出自のことなど ・・・・・大体昔は血がつながっている同族から養子をもらったのだろう 位に 認識しています。皇子が生まれたり、主君の子供が他の土地に行くときには 家来の家の子や 子を残して親が付いていっただろう。あちらこちらに離れてもたどれば 同祖として あがっていくのだろう。と思っています。離れた先のそれを書いた当の家の記録はそれを信じるしか・・・

今現在 きれいに血がつながって歴史をおりて来た家など あるのか?と思います。
ただ 歴史のはじまりに 尾方 サダ 山口 高姓 王姓がからんでいるだろうとは思っています。その中で き姓に サダがからんでいるだろう。

父方が 集落にある皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊にゆかりする神社のお鏡を預かる家と姻戚関係にあったので、宮司・尾方氏から祭神を教えてもらいました。

歴史を降りてきた頃 漢王室子孫がからんできているが 大陸の王室も 中を分解すれば うちのつながりの固まりになると思っています。その先の王室の中のグループも又どれかの族が台頭してなっているようだ。

私は書いてきた中の話は ○○ あるいは ○○ と とらえています。きちんと裏づけがとれたことがわかると ありがたいです。

隅さんとこのご親戚などに 今まで書いた家の名などがあればそちらからもしかしたら つながりが あるかもしれませんね。

うちの佐田の本家に養子に入ってくれた人は 二代とも広島にいた人です。今は関東に移住していますが。うちと同紋で佐田文書を持っておられた家も広島なので もしかしたら と思いましたが・・・







[57]もみじさんからのコメント(2010年10月25日 00時45分01秒 ) パスワード

<杉原盛重の臣・小鼠が菊池にくっついていた (安西軍策)

別冊歴史読本2002年版2005年版を借りてきて読んでると、二代将軍秀忠・弟・忠吉の生母・於愛(西郷の局)は戸塚忠春の女子。しかし 忠春が戦死したので 妻・西郷正勝女子は服部平蔵正信の男子・平大夫と再婚。

平大夫は丹波の武士で 猿楽師(能役者)だったという。

於愛は成人していとこの西郷義勝に嫁いだが、運悪く義勝も戦死した。

服部家は血はつながらないが、将軍家の母方になる。平大夫は蓑笠之助という名で書かれている。

平大夫は家康にいちはやく信長の変を知らせたと 蓑家家譜に書いてあると。
この功で一族は老中になった と。

ウィキでは 西郷氏は藤原隆家子孫と称している。としている。西郷氏は菊池氏の一族と。隆家流は女系を伝って皇室・摂家にその血を残し、子孫は水無瀬流として後世、水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の五堂上家を出して明治維新に至る。なお、南北朝時代に懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を自称し、祖先にあたる藤原政則を隆家の子息としていた。

直接つながるわけでもないが 枝分かれした先は 徳川家ともつながる。

隆家は道隆の男子で 母は高階貴子。姓系辞典で山口条で高階氏をみたが、菊池の子孫は一子相伝で豊田氏。大内氏が一子相伝で豊田。大内氏は山口。

大筋で宗像三神 大国主(大物主) 胸肩氏 大蔵氏 山口氏 をたどる。
どこかでは からまるはずだけど・・・
[58]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 01時33分07秒 ) パスワード

宗像シンポジュウム
安部宗任 貞任の子孫が松浦氏の血筋に入るが、この女子は西郷氏の血にも入る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山口県佐波郡牟礼の地はその昔ヤマトタケルが九州へ船出したところ。この頃すでにルートが出来ていたようで景行天皇などは実に60回ほども九州へ遠征している。牟礼の地には11垂仁天皇の皇子が住んでいた。この飛び地が大阪にあり、茨木の阿威川の近くに「牟礼神社」がある。「鹿島神宮」と同じく紀元2600年祭をした。このあたりは縄文時代の遺跡がある。その川向に天照御魂社があり、その摂社だった「疣水神社(磯良さま)」がある。神功皇后が九州へ行かれるとき立ち寄られている。

天照御魂は丹後籠神社では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の別名としている。磯良さまはウガヤフキアエズ。

さらに近くに溝杭神社があって 神武天皇皇后にたつひとゆかりの神社。
歴史の曙の頃かつやくされた人たちを祭る神社がかたまっている。

「牟礼神社」の祭神は大中津彦命で「牟礼別祖」でもある垂仁天皇の皇子。牟礼別祖は稲木別祖と同祖で稲木神社は「田中神社」ともいう。たんぼの中にあったから田中といったといい、農耕に関与するようだが、「お天道さん」ともいう。ヤマトタケルのおじにあたる。

天津彦根命は倭の田中の祖と古書にあるという。
天目一箇命はその名の片目(目一箇)の神で示されるように、わが国の採鉄・鍛冶部族の祖神であり、筑紫忌部、伊勢忌部の祖と史料に見えます。
天御影命は近江の三上祝の奉斎する祖神であり、宮地直一等監修『神道大辞典』には、ともに天津彦根命の御子と伝える。

鉄の弥加宜神社:2で検索
弥加宜社祭神天御影命 丹後 道主王之祭給所也.
開創は丹波道主命で、祭神は、その母の息長水依比賈の先祖である天御影命。

本来は天皇家本流以外の皇族の系図は書かれないものだが、日子坐王は例外的に書かれている。
つまり天皇家に準じる扱いを受けている。

彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命( ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父。
日子坐王の三人目の妻・息長水依比賈

[59]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 02時51分15秒 ) パスワード

              11代 垂仁天皇
    |        |        |
12代 景行天皇   やまとひめ      大中津日子命         |                       |
やまとたける                  牟礼別祖
   |
14代 仲哀天皇=神功皇后

大中津日子命は山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖である。

古代豪族を語る時避けて通れない天皇がいる。26継体天皇である。
現在の日本史学界では実在が間違いないとされる最古の天皇(大王)である,とされている。
これ以降の天皇系譜は一部不確かな点はあるが、
ほぼ間違いなく一系の血筋を保って現天皇家まで繋がっているとされている。

滋賀県高島市安曇川町には彦主人王の墓と伝える「田中王塚古墳」(円墳・径58m、俗称ウシ塚)が所在し、陵墓参考地として宮内庁が管理しているが、

継体大王と越の国・福井県 (県外の継体大王ゆかりの地)
継体大王の父親・彦主人王と振媛が住んでいたといわれるのが、近江国高島郡三尾です。 三尾は滋賀県北西部に位置する高島市南部の旧高島町および安曇川(あどがわ)町にあたる と考えられ、現在も三重生(みよお)神社や三尾神社、水尾(みお)神社・・・


秀真伝え(松本善之助氏が書を追いかけて調べている。)
イザナギはわが国を
「日本は浦安の国、細戈の千足国、磯輪上秀真国」とよみ、神武は秋州とよんだ。
大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の三尾神社に奉納され、その 写本が天保年間に小笠原通当によって書写され、以来小笠原家に伝えられてきたものを、 松本善之助氏が公開した。 全文が秀真文字で書かれた五七調の叙事詩     

特徴
1)国常立尊を 天皇家祖としている。
2)スサノオと櫛稲田姫の子・大己貴神(大国主・大物主)の子孫の 茅渟の県にいた「大田田根子」が秀真伝えを捧げられた。景行天皇の時である。
3)その頃、景行天皇と 妃の吉備津日子の女子との間に ヤマトタケルが出来る。
4)太田田根子は (大物主)大国主命の後裔で、神武天皇時代の「(大物主」櫛甕玉命」から 数代後が 大田田根子。
「櫛甕玉命」78世孫・徳川安永年間の人 和邇佑容聡(わにやすよし)が、家宝として伝来してきた。
5)天保年間 京都御所近くに鎮座していた左京二条坐神社「通称 天道宮」の神主・小笠原通当が近江国高島郡産所村三尾村でみつけた。
6)通当没後 長弘が 郷里 愛媛県宇和島に伝えた。
7)高島郡三尾神社
・・・・田中神社(牛頭天皇・田植神)  宮司は 伊藤範勝
・・・・滋賀県高島郡安曇川町
・・・・田中神社に移され、安田社という。(祭神 継体天皇の父・彦主人王・母 振姫)こま犬・中央はお鏡
・・・・・旧産所村の三尾神社があったあたりで、継体天皇は三つ子で、皆男の子で立派に成長したという。
8)滋賀三尾村の松本家
  三尾明神縁起
  和邇佑容聡(わにやすよし)=三輪氏=滋賀県南市村伊保佑之進で、南北朝あたりから「伊保姓」になる。
9)小笠原長弘は通当の 甥 で、京都に出た後、安徳天皇をおまつりしている下関・阿弥陀町の「赤間神宮」宮司。小笠原の末苗は「白石」
これが「秀真伝え」を秘蔵していた人についての聞き書きを、大久保芳治というひとから聞いて書いている。明治23年のこと。
10) 大和「大神神社」や出雲「佐田神社」の古いお札もある。
[60]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 03時17分42秒 ) パスワード

太田亮氏姓系辞典
11代垂仁天皇→池速別命(・伊許婆夜和気命・母皇后日葉酢媛の妹・筋瓊入媛・阿邪美能伊理ひ売命ひは田と比。)→→→阿保公族・沙本穴太部の別祖・アホ・サホ・アナホ条をみよ
息速別命の兄弟は 12代景行天皇(熊襲征伐・ヤマトタケルの父) 倭姫命(伊勢初代斎宮)他

皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊ゆかりの神社のお鏡を預かる家の本姓は姓系辞典に「阿保」で 青森にこの苗字は多いという。又 阿保は 阿部に通ずると・・・。
阿部と安曇は 同祖 といい 阿部と 磐井は 同祖という。
安部高田の言葉がある。安曇は熱田神宮が10年くらい前に祖先を「振魂命」
に変えられたが、

安曇氏の移住
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島一帯から離れて全国に移住した。
この移住の原因として、磐井の乱や、白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。
   対馬、伯耆、美濃、三河、阿波、淡路島、播磨、摂津、河内、近江、他

「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。
宇都志日金柝命で別れて大和国造の方が 振魂命。

白石が磐井を名のっており、九州の磐井は「君姓」。

仁徳天皇の系は武烈天皇に至って子がなく、応神天皇5世孫といわれる継体天皇で継がれた。
近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)率いる大和軍と戦い磐井は敗れるが、磐井は新羅に通じていた という。

このあたり父方と母方(毛野)が話に出るところ。
[61]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 03時52分27秒 ) パスワード

比企一族の概観
 比企氏の姓は、武蔵国比企郡に由来する。
その比企郡に勢力を拡大して、館を構えたのが、武蔵秩父党の次郎大夫重隆と、その娘婿である帯刀先生源義賢である。
(義賢は 木曽義仲の父。義賢の館を「大蔵の館」といい、京都嵐山松尾大社あたりにあった。大蔵は 山口から出た。松尾大社は賀茂神社のお父様で、大山咋神が祭神。スサノオ系。
この義仲の養い親が「中原・本姓 金刺こちらは佐田が関与する」

比企氏は 義賢の兄で、敵対関係にあった源義朝と結び付く様になったと考えられる。
これが、比企氏と清和源氏の結び付きの始まりであろう。

源義朝に頼朝が生まれると、助宗の妻・比企尼は、
その乳母役に抜擢される。

比企尼には3人の娘が居た。
長女の丹後局は惟宗氏に嫁いで島津忠久を生んだ後、
安達盛長に嫁いで、
その間に生まれた娘は頼朝弟・範頼に嫁いでいる
(吉見氏の祖・範円の母ともいう)。

忠久の母は島津系図では比企能員の妹・丹後局とされる。

比企氏の次女は重隆の子・河越重頼に嫁ぎ、その間に生まれた娘は同じく頼朝弟・「義経」に嫁いでいる。

三女は、伊東祐清に嫁いだ後に、平賀義信に嫁いで朝雅を生んでいる。

しかし、跡継ぎとなる男子に恵まれなかった為に、甥の能員を養子として迎えている。

「比企能員」は、平家討伐、奥州合戦等で功を立て、鎌倉御家人としての地位を確立していく。特に、源頼朝に嫡子・頼家が生まれると、義姉や能員の妻は頼家の乳母となり、頼家が成長すると、能員の娘・若狭局はその室となってその後嗣たるべき一幡丸を設け、能員の地位は磐石なものとなった。



「阿保朝臣系図」に拠って、比企氏の系図の概略を説明すると、次のとおり(詳細は『古代氏族系譜集成』上巻を参照のこと)。
 
武蔵の比企氏の起源は、延暦期に阿保朝臣人上が武蔵に国司として赴任したことに起る。
人上はもと阿保君といい、次に建部朝臣姓を賜り、延暦三年には阿保朝臣姓を賜り、同九年七月には大学頭に任じている。
★建部とは 倭タケルに 関与する 名。

阿保朝臣人上の先祖は、『新撰姓氏録』右京皇別に見える阿保朝臣氏であり、『続日本紀』延暦三年十一月条の建部朝臣人上の言上にも記載される。

垂仁天皇の皇子という息速別命が「伊賀国阿保村」に住んで、その子孫が允恭朝に阿保君姓、次いで雄略朝に阿保君意保賀斯が健部君を名乗ったものである。

掃部允遠宗の長子に比企藤内朝宗があげられ、その娘は北条義時の室となるが、『平家物語』『源平盛衰記』には「比企藤内朝宗、同藤四郎能員」の順であげる。


遠宗が妻とした比企尼は、藤原公員の妹であって、公員の子の能員を養子に迎えたと伝えるが、公員はやはり秀郷流藤原季清(西行法師の祖父)の曾孫ともいわれる。

比企尼の長女丹後局が京官人の惟宗広言の妻となって、島津忠久の母となったのも、比企尼が京に縁ある出自であったことを示唆するものか。比企尼は京で、頼朝の乳母を務めたとされるから、これも京近辺の出身であったことを示唆するか。

能員の家族は、北条氏により族滅されたが、その子・弥四郎時員の子の員茂(員成ともいう)がわずかに生き延びて、子孫を後に伝えるといい、これが関東管領上杉家家臣、幕臣の比企氏、さらには現代までつながることになる。
[62]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 04時22分48秒 ) パスワード

武蔵国造と鉄
今井信雄著『鎌倉武士物語』の比企一族の項に於ける、
その出自に関しては興味深いことが書かれている。
比企氏が勃興した比企郡は鉄が多く産出する場所であり、
比企氏は製鉄業を扱う氏族ではなかったかというのである。
製鉄業と言えば思い浮かぶのが、鍛冶神たる天目一箇命の一族である。

天目一箇命は日本全国各地に国造を残したことで知られる。
この内、武蔵国では武蔵国造を輩出した。

比企氏の系譜で、もう一つ問題となるのが、比企能員の出自である。
能員は、『愚管抄』に「阿波国」の出自とされている。

ここで言う「アワ」とは、西国の「安房」ではなく、房総半島の「安房」を指す方が妥当であろう。

元々、安房国は、比企氏の主筋に当たる源義朝の父・為義が、同国の丸御厨を有していた所であり、義朝自身も一時過ごしていた可能性が高いのである。
又、頼朝が石橋山の敗戦の後に逃れた場所としても知られる。

この安房国勢力を持っていたのが、安西氏である。
安西氏は、元来は現地の古族の出であるが、後に千葉・三浦一族から養子を迎え、
これ等の氏族とも関係が深かった。

つまり、千葉-三浦-安西と言う枢軸ラインが形成されていたのである。
そして、源義朝は千葉・三浦一族と密接な関係を持ち、他方、比企氏の母胎である武蔵国造一族も千葉氏と姻戚関係を結んでいた。
そうすると、能員は安西氏に繋がる一族なのかもしれない。
    ↓
桓武平氏千葉氏は 中原(佐田・鷲尾)から出る。

鉄剣
炒鋼法による鉄器の分布は北陸・東山・北関東にしかしないという。「越国」は後に「渤海使」が往来した大陸への窓口である。「奴奈川神社」を祭る高志国は姫川の翡翠産地であり、
ここから翡翠の大珠が武蔵国へも運ばれているから、
東京湾の武蔵国と日本海の越国を結ぶルートは「縄文時代」から確実に存在したことになる。
炒鋼法による特殊な鉄剣、稲荷山古墳の鉄剣はこのルートにのって武蔵国へ運ばれたことになる。

[63]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 04時27分51秒 ) パスワード

おぼろおぼろに伊賀国やヤマトタケルがつながるが、ヤマトタケルも忍者とされる。

[64]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 05時20分58秒 ) パスワード


母がなくなったとき、お寺様が「和徳」とつけてくださった。これは倭 養徳などに通ずる。桓武天皇生母の高野新笠も同族とする。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/5_J.html
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇 氏とは親戚関係にある。

<奉祀する神社>

大倭(大和)神社(奈良県天理市新泉町)
祭神 大和大国魂神、八千戈神、御歳神
祖神 宇豆毘古(珍彦命、椎根津彦)

椎根津彦神社(大分県北海部郡佐賀関町)
祭神 椎根津彦、武位起神、稲飯神 他

早吸日女神社(大分県北海部郡佐賀関町)
祭神 八十枉津日神、大直日神、三筒男神、大地海原諸神

多氏がまつる神社でアマテラスらしい人は「珍子」と書かれる。
椎根津彦は青海首がまつる賀茂お明神 で 出た。

宋の末から元の初めごろの歴史家、金仁山(1232〜1303)は
『通鑑(つがん)前編』のなかで次のように記す。

「日本いう。呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んで、その支庶(ししょ:傍流)、海に入って倭となる。」

周の王族の姓は姫氏であった。そのため、周から出た呉も姫姓であった。
『日本書紀』の平安時代の講義筆記ノートである『日本書紀私記』に
「日本の国が、姫氏国と呼ばれるのはなぜなのか」という質問が載っている。

古代の氏族辞典『新撰姓氏録』によれば、上毛野氏と同祖とする貴族集団は三十六氏ほどあ
り大きく三つのグループに分けられる。
http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/2359d9c73999a21dc0453d3c0b2469a7
第二グループ
田辺史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣らの祖。
思須美(しすみ)、和徳(わとく)の両人、大鷦鷯(おおさざき=仁徳)天皇御宇の年、百済国より化来す。しかして言うに、おのれらの祖これ貴国将軍上毛野公竹合(たかはせ)なりと言えり。天皇矜燐して彼の族に混ず。

毛野氏は天武朝「八色の姓」制度で「東国6腹朝臣」と言われる特別な扱いを一族揃って 受けた。理由は判然としないが毛野一族の内、上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐 味氏・車持氏が破格とも思われる「朝臣」の姓が与えられたのである。15参照
毛野氏考(上毛野氏・下毛野氏 附:宇都宮氏)
渡来人系であるはずの田辺史氏 が何故上毛野氏の姓が与えられたかは謎
上毛野朝臣
[65]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 06時01分21秒 ) パスワード

http://kamnavi.jp/en/oumi/sami.htm
佐味神社 崇神天皇皇子・豊城入彦命をまつる。志賀忌寸の祖にあたるといい、佐味朝臣がまつったという。伊香郡 や 柏原 藤の宮 などの言葉が出る。

志賀で思い出すのは福岡県志賀島の後漢・光武帝の金印だが、志賀島の神主は坂本で海神族と書かれる。坂本は足利将軍家の末苗。

1981年(昭和56年)、中華人民共和国江蘇省揚州市外の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こう りょうおうじ)」の金印が出土した。それは永平元年(58年)に光武帝の第9子で廣陵王 だった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っている。

荒木田家嫡流の人は一書に崇神天皇を漢の鉄官の子孫とし、一書に漢の高祖の末とする。どちらにしても漢が関与している。この頃アマテラスが宮中から出た。政権交代を意味しているのか・・・がらりと趣がかわるのだが、高姓でつながる大陸の王室の意識があったのか・・・古代の天皇家に私の父方が濃く関与しているのに対し、漢が出てきても佐田から濃く出る毛野がある。

姓系辞典に烏 下村条に
漢士 光武帝子孫 少昊金天氏の末とある。

光武帝は漢王室。漢王室は劉姓。しかし、これは母が劉温だったというもので、父は「太公」としか書かれない。豊公 蓋太上皇父。蓋は解。伯益の6代孫・高陵 解の君になる。

豊は国常立命などの別名にある。豊は周 秦 漢に 関与する。

解は穢で 狭野候遠祖・そしもりがいた。

少昊金天氏の子孫は金姓を名のった。新羅王家も少昊金天氏の子孫とする。
神武天皇兄は新羅の祖になり、もう一人は燕の祖になったという。

[66]もみじさんからのコメント(2010年10月30日 22時20分34秒 ) パスワード

母に和徳とつけてくださったお寺様は川津氏。第四代天皇の母は一書・磯城県主葉江の女・「川津姫」。事代主神の孫・鴨王の女子・皇后淳名底仲媛命。4参照
川津と師木(磯城)(中原)(佐田)はつながっている。
天皇の弟・師木津日子命の子供が49参照
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母の方のお寺様は「香川氏」。香川県牟礼の地は源平屋島の合戦の屋島に隣接した地。平氏の本拠地の1つ。鹿児島の坊津は平氏の本拠地で近衛は秀吉や家康ににらまれるとここへ隠れた。建部の地もこのあたりらしい。
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大阪茨木総持寺は藤原山陰に関与するお寺で、西国信仰に関与するお寺で真言宗高野山派。山陰は道長の母方の祖父で伊達氏や大友氏と同じ魚名流。総持寺は1月の修正会(1〜3日)に 法印を 額に押す「牛王加持」を 受けられる。この 牛王の印に ヤタノカラスが描かれている。牛王の印は牛の肝臓でインドに由来している。

この近くに鴨神社があり、これがホームページで葛城に関与することをのせている神社。高倉天皇安産の祈願所。

西国信仰は花山天皇が中興の祖。
花山天皇の皇子清仁親王の子延信王が源姓を賜って臣下に降り、神祗伯に任ぜられ、子孫は神祗伯を世襲して白川を称した。家は臣下であるが、伯に任ぜられると王を称する。先代旧事本紀伯家白河本。

総持寺は豊臣秀頼の再建。明智光秀との山崎の合戦には近くの富田というところに秀吉は陣をしいた。豊臣氏は平氏。このあたりは昔から平氏との関係が深い地域と思われる。
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明治天皇御生母・中山局が安産祈願をした宝塚の中山寺は西国信仰の本山で、聖徳太子が大中媛の夢のお告げで建てた寺だという。忍熊皇子の墓もあるというのだが・・・中山寺の本尊は11面観音。本尊は十一面観世音菩薩であり、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる。
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阿保親王
平城 天皇の第一皇子で、母は葛井道依の娘・葛井宿禰藤子(のち蕃良朝臣藤繼)。桓武 天皇の孫に当たる。妃は桓武天皇の皇女伊都 内親王。子に在原行平、絶世の美男子といわれた在原業平ほか。
阿保親王の子孫が鎌倉時代熱田神宮の養子に入り再び出て毛利に養子に入った。
葛井は王氏の子孫。王氏ではとても美しかったといわれる王昭君を思い出す。
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊は諡号を天邇伎(左は山)志国邇伎志天津日高日子番能邇邇芸(昔の字)命。番がついている。
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白鳥塚古墳 (宝塚市)
白鳥塚古墳(はくちょうづかこふん)は、兵庫県宝塚市の中山寺境内にある古墳。中山寺境内にある事から、「中山寺古墳」と呼ばれる事もある。
白鳥塚古墳
大中姫の子、忍熊皇子もこの地に葬られ、異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、忍熊皇子の霊が「厄除神になる」といって 白鳥になりとびたったという。 
忍熊皇子と家形石棺の年代に大きなずれがあることから、大中姫と忍熊皇子の霊を聖徳太子が中山寺にまつった伝承から 大中姫の墓と伝えられ、実態は この地方の 豪族の古墳と考えられている。 と いうが 伝説にはなにかしら 事実を 含んでいるとも考えられる。
いずれにしろ ヤマトタケル 系の 白鳥伝説と共に平重盛の 白鳥の槍 伝説に 通ずるものが あろう。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-sekiryoo.html#anchor1319955 白鳥山
平清盛の孫、平清経らが平家の残党とともに豊後竹田に入り、緒方三良実国の養子となった。小松内大臣平重盛所有の白鳥之鎗を、 三男の平清経が受継ぎこの地に持参したところから白鳥山の名がついたようである。

ただ うちは ここにはつながりがない。落人伝説もないのである。「佐田文書」をお持ちのおうちと同じ紋だということと、父方は橘紋で、佐田文書に「橘薩摩氏が肥後の守護職だったことが書いてあること」。「橘薩摩氏」は相良氏と仲がよく肥後へもいっしょに行ったと太田亮氏は書いている。父方は相良本家が使用した「山井」という家と通婚している。ということである。

★藤原や平氏になる 佐田。平氏は 苗族のシンボル・揚羽蝶と同じ家紋をつかい、平将門のお顔は 天狗のようで、苗族が祖先とする蚩尤と同じ。猿田彦を思い出す。天狗は鞍馬の天狗を思い出す。天狗は天津狐と鳥の間の子とする。毘沙門天の眷属。苗族の文化がわが国の文化と通ずるものがあるのだと・・・

二人の皇子は仲哀天皇の妃・大中姫との間にできた皇子で、近江の豪族、犬上君の祖・倉見別と難波の吉師の祖・五十狭芽(いさち)宿禰を味方にした。 この戦いで五十狭芽(いさち)宿禰は戦死したが、難波吉師は推古朝で活躍し、摂津の大豪族となっている。
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http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-9.html 息長氏
稲背入彦命の系譜 - 古樹紀之房間
稲瀬毘古命は本来王族ではなく、垂仁皇女との婚姻(垂仁女婿となること) により皇子として皇室系譜に取り込まれ ... この一族とみられる大江王(彦人大兄)が 生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に・・・
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ochi.htm 越智氏・河野氏・村上氏
愛媛県西条市にある「伊曽乃神社」社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、「吉備氏系の倭建命」や、「讃岐氏の祖の神櫛別命」、「空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命」の異母兄弟にあたる。

[67]もみじさんからのコメント(2010年10月31日 23時19分03秒 ) パスワード

熊野の伝説
熊野本宮の祭神であるケツミコノカミをスサノオノミコトとするのが、いわば定説である。だが、この神を中国最古の王朝である夏の最後の王・桀であるとする見解がある。つまり、夏、殷、周という古代国家が滅亡したさい、中国南部東シナ海よりの呉の遺民たちのなかで、熊野に亡命した集団がいた。彼らは熊野に落ち着くと、その祖先の夏の桀王をまつった。それが熊野本宮の起源だという。(藤井尚治「国史異論・奇説新学説考」)

この伝承は江戸幕府の儒官・林羅山 鵞峰の編した近世最大の史書「本朝通鑑」に採用されている。
そして それを見て憤った水戸(光圀)黄門が「大日本史」の編纂を決意した。水戸光圀は家系を精査し、荒木田(最上)を長官として神宮に入れた。

夏の初代皇帝。匈奴
劉衛辰の子・・・・・・・・結婚した相手が男系だったので赫連氏と改姓。

赫連勃勃{夏世祖武烈帝}(夏) 
     ||・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西夏・陳(田)
北魏の拓跋氏の子孫

北魏・北斉
北魏・渤海の人・高歓 (神武帝)・・・渤海の人・うすぼつが奈良時代日本に                  来て日本の天皇家と自分とこの王の先                  祖・扶余は親戚だったのだから親戚の                  付き合いをしよう といって 日本の                  ほうもそうだといって 国交が復活し                  た。
                  神武天皇はわが国を「秋津州」と呼                   び、うすぼつは「秋津」と呼んだ。
北斉三代皇帝・孝昭帝

周武の女子
   ||・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田斉(陳)
舜の子孫の男子(有虞氏)

彼らは胡族で同祖で上がっていく。
[68]もみじさんからのコメント(2010年10月31日 23時25分28秒 ) パスワード

ソシモリ→陝野候・幋命→穢王
・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族の姓。
通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。秦は高姓。
六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて解邑の君となる。
すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。
檀君世紀 36世 檀君売勒条
甲寅38年 陝野候 ・幋命を遣わし、往きて海上を討たしむ。
12月三島悉く平らぐ。
日本の天皇家は 皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の四代目の子孫・神武天皇より
皇統譜がはじまる。陝野候は 神武天皇の幼名。
後世 桜井の地に 広陵の高僕がいる。
||親戚関係
(うすぼつの国の王の先祖)扶余・・・ 扶余王の印文に「穢王の印」穢は解
箕子朝鮮の 立国の根幹は 
明靈りょう れい たま(東大神族)・・・後にこれを 「扶余」とも呼んだ。
東大神族は 『シウカラ』で 殷 舜 堯も 同じ。
殷は 上のふたつ。舜は 田斉に関与し、
堯は漢・劉に関与する。
扶余→高句麗から 渤海が出て、ウスボツがおり、北魏 北斉があり「神武」「孝明」「孝昭」などの王名が あった。

[69]もみじさんからのコメント(2010年10月31日 23時41分45秒 ) パスワード

穢国は 北扶余の 前身

「魏志」が 引用する 「魏略」 の逸文に其「扶余王」の印文に穢王の印という
とある。そのあと国に故城ありて 穢城となづく。けだし もと 穢貊の地なるべし。而して 扶余 その中に 王 たり。自ら 中国の 亡命人といい、仰似ることあり。
「山海経」では
穢国が 「盖がい かい かさ ふた」国と なっている。
「盖国は 鉅きょ ご燕の 南に ある。」 と 述べているが、この  鉅燕は 智淮氏燕で、箕子朝鮮のことである。
高句麗・ 扶余→ 解 貊
高麗 これを 「扶余城洲」となし、先祖が 扶余の 渤海王国(靺鞨)、
大遼帝国(契丹)、大金帝国(女真) 皆 これに 扶余城を おいた。

最後の扶余城は 吉林省地点に決まった。

扶余民族は ツングース系といわれるが、それは 人民のことで 王族は 伯族と穢族であり、共に ツングースではなかった。
解 穢は 王 君の 意味。
  
北魏の 平洲 北平郡が 朝鮮縣であること
及び 「大明大統志」に
朝鮮城 。 在府境内。 相傳。 箕子受封之地。
と あり、然れば 蘇秦に(周武によって) 「箕子を 朝鮮に封ず」 とある朝鮮は 今の朝鮮にあらずして、「大明大統志」にみゆる朝鮮に非るや、
研究を要します。・・・と鹿島氏は書く。
   ↓
北魏は (荒木田家嫡流が書く青州にある)山西省に関与し、そこに 切妻造りの家がある。(笹井も切妻造り)
又 殷の祭祀を受け継いだ 「微子啓」は 周武によって「宋」にふうじられ、子孫「雀」あり。周も殷の法を受け継いだという。


盤古子孫は 漢民族・苗族・田・向 etc。
中国の人は 一世を ウバイドで有苗・三苗とし 二世を 伏儀・女媧とする。盤古は 伏儀・女媧と同じとされる。苗は三苗。たどればはるか昔は小さなわっかになる。


大陸の王室は 胡族であり、韓半島も 東胡と書かれていた。
殷も周も他もそうであり、辰伝殷も秦も徐珂殷も東族で、周の武王は辰伝殷(智淮氏殷)を呼ぶに東胡をもってし、漢の武王に至り、初めて朝鮮の名称おこれり。

後世 秦始皇帝の子孫が大挙流入してくるが、民族対立の歴史に鑑みどちらも東胡でなければ とうてい このようなことは ありえない のだ と。
[70]もみじさんからのコメント(2010年10月31日 23時55分48秒 ) パスワード

藤井尚治
熊野牛王という熊野三山で頒布しているお札がある。これには 75羽の烏が図案風に並べて記されているが、問題は何故75羽かということだ。

これは 信州一ノ宮の諏訪神社の御頭祭に供えられる「猪」の頭の数が75であることとあいまって、何か意味が無ければならない。特に日本の名数表にこの数字が出てこないことからしても、きわめて特殊な意味があるはずである。

夏から殷・周にいたり、その霊王の時代までの王の代数が75だという。つまり75羽の鳥は75代の王にちなんだものだ というわけだ。

牛王の印 ヤタカラス 大阪総持寺の牛王の印 藤原山陰 

代数は少しずつ違うが、上記 宮下文書 武内文書などには ウガヤフキアエズ王朝の存在が書かれる。
[71]もみじさんからのコメント(2010年10月31日 23時59分16秒 ) パスワード

辰韓=秦=新羅 中国の文献では辰韓の斯(し)盧国から新羅に変わった。「三国遺事」に 本姓・解又は穢也。

新羅王家は 金・昔・朴で 昔氏が 殷・周の宝物を持っていた。
昔氏は かささぎ で、イー族に関与し、牧羊神 竜頭船 大理国 大和城 に 関与し、南昌国で 阿育王と蒙女との間の子に関与し、東アジアの王国は皆 この人の子孫とする。

日本は 親百済とするが 中国では 新羅を日本と近くする。
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