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 投稿番号:101197 投稿日:2010年09月20日 13時20分03秒  パスワード
 お名前:さなえ
伊賀餅と伊賀忍者の関係 2

コメントの種類 :質問  パスワード

スレッド「伊賀餅と伊賀忍者の関係」が、いっぱいになりましたので・・・移行しました。よろしく、です。

[1]さなえさんからのコメント(2010年09月20日 13時34分19秒 ) パスワード

今更ながら・・・スレッド「三河平氏」長田氏、伊賀の長田庄・・・読ませていただきました。こちらも、今の私には、全部理解するには・・・至ってませんが、碧南市大浜と言えば、お隣です・・・三河の服部氏に関係あるでしょうね。なんとなく、繋がってきました。ありがとうございます。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月20日 14時57分20秒 ) パスワード

前スレッド:

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101194_97.html
[3]ときおさんからのコメント(2010年09月20日 15時31分57秒 ) パスワード

さなえ様へ

8年も前の本が買えるようです。
下記のアドレスで分かります。

http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/List?cnt=3&spKeyword=%8B%53%82%CC%91%BE%95%BD%8B%4C&mode=speed&button=btnSpeed

もみじ様へ
早速お調べになったのですね。ネットにでていたのですね。有り難う御座います。前レスのたとえ話は、よその国のことを言ったまでのことです(領土のこと)ので・・・・。 
[5]さんからのコメント(2010年09月21日 13時47分42秒 ) パスワード

さなえさん、もみじさん、どうも初めまして。

時々こちらのサイトにお邪魔させて頂いて、自分の先祖調べの事とか、
服部家の事とか、オカルト話とか(爆)語らせてもらっています。


もみじさん

お話を伺って、少々気になることがありまして・・・
私も質問させてもらって良いでしょうか?

もみじさんのお母様の実家は防府市牟礼の「佐田家」だそうですが、
やはり江戸時代は長州(毛利)藩に仕えるお家だったのでしょうか?

私も自分自身の先祖について調べていますが、うちの先祖が関わったかも知れない?人物に「佐田彦四郎」という忍者がいて、
もしかしたらもみじさんのご先祖様に関係があるのかな?と思ったので。
「佐田彦四郎」は、毛利家に従った杉原盛重という武将の配下で手柄を挙げた人物なのです。

ちなみにもみじさんも書いておられたように、
杉原家は平家の末裔で、遡れば服部家とも繋がりのある家です。
鎌倉時代より備後(広島県東部)に居た一族ですが、
室町時代には足利将軍家に仕える者も現れたため、一部は京都に移り住み、
さらにその中から尾張に移る人物がありました。
それが豊臣秀吉の正妻・おねねの方の実家へと繋がっています。

戦国期になって、備後の一族は毛利家に従い、尾張の一族は秀吉の親族になりました。
一時は敵味方に分かれて戦ったことになります(備中高松城の合戦)。

私的には、この辺りの詳しい事情を知りたいと思っています。
自分の先祖に関わってくる話なので・・・


さなえさん

服部家の由来については私も調べているのですが、
伊賀の戦乱で系図や由来書が焼けてしまってるだけに、
なかなかはっきりとは分からないですよね。

私としては、日本古来の民族(鴨氏等)に、秦氏の血が混じった人々ではないかと思っています。
伊賀の山の中で鉱物を探し求めた、霊感の強い集団。そんな気がします(笑)。


先日他のスレッドにも書いたのですが、私も「これって前世のトラウマ??」
と思うような夢を見たことがありますよ。
もうずいぶん昔、小さい頃の話ですが、当時は2、3回、形を変えて立て続けに見ました。

知らない大人が、いつの間にか首と胴体を切り離されて転がってるという、
ちょっと不気味な夢です。(^^;
あと、戦場みたいに人間の死体がたくさんゴロゴロ道端に転がってて、逃げ回る夢とか。

自分が大人になってすっかり忘れていましたが、
数年前にこのサイトに来られていた霊感の強い方に、
「あなたの後ろに、鎖鎌が首に巻きついて苦しんでる武士が見える」と言われました。
「ご先祖様が何かお家事情のような事を叫んでいる」とも。

・・・で、夢との繋がりも気になっていろいろ調べていたら、
歴史資料の中に「もしかしてこれ、私の後ろに《見えた》武士かな?」と思う人がいたんです。
うちの母方の先祖の一族かもしれなくて、同僚に忍びがたくさんいて。
結局、お家騒動に巻き込まれて、かつての同僚に殺されてしまった。

でもその背後には、仕えた主君のお家事情だけじゃなく、
当時の毛利家と織田・豊臣家のせめぎ合いも絡んだ複雑な事情があったのではないかと。

なんて、わたしの思い込みかもしれないけど。(^^ゞ
でもこのサイトに来るようになってから、結構不思議なご縁が続いて、
いろいろな事が分かってきました。

自分のトラウマ的な夢の理由とか、先祖の由来をじっくり調べてみると、
面白いことが分かってくるかも知れませんよ。(^^)


あをさん

上のお二人に書いたように、少しづつ、先祖ではないかと思われる人々の事が
分かってきました。
本当に、平熱パワーのお陰ですよ。(^^)

うちの先祖自体は直接平家や伊賀には繋がらないけど、
私がこのサイトに強く惹かれた理由は、先祖(または前世?)が仕えた主君や、環境にあったのかも知れません。
主君と思しき杉原盛重は、《西国の服部半蔵》みたいな人物だと思います。
先祖は平家の家人で、忍びをたくさん従え、大名に仕えて活躍した人です。

でも主君亡き後は、その息子たちが揉めて、家臣団も大変だったみたいです。
歴史資料でその辺りの顛末を読んで、少々切ない気分になりました・・・
当時はそれぞれにちゃんとした言い分があったと思うのです。
おそらくは誰も悪くない、憎むことはできない、それだけに悲しいなぁと。

全部をここで語ると長くなるので、それはまた別の機会に。
[30]さんからのコメント(2010年09月24日 15時33分45秒 ) パスワード

もし よろしかったら 彦四郎という人の系を 教えていただけないでしょうか? うちの佐田は 左三つ巴紋です。

私も、佐田彦四郎の出自は分からないのです。家紋も不明です。
なにぶん、杉原盛重の家臣は出自不明の人物も多く、実力重視で採用されることが多かったそうです。

もみじさんのお家は「阿蘇神社」が氏神様であったことや、良いお家柄の様子から、
やはりもみじさんのお家(佐田家)と佐田彦四郎は別系統のようですね。
[42]もみじさんからのコメント(2010年09月26日 09時53分36秒 ) パスワード

書いたことに関する言葉をひけば 平家物語を熱く語るが 出ます。
子供に聞くと 重くなれば 検索エンジンにかかるんやろう ということでした。

彦四郎に関しては 通じているだろうと思い、消しました。
あちらさまでは 首をぶんぶん振って 否定されるかも・・・
歴史を 正確に知れば 忍者のことも 出るだろうと 思いますが

しかし 素性をあらわさないのが 彼らの掟みたいなものなので、
はっきり とは 言えないでしょうね。

全体に 周りにいた人たちから浮かび上がってくるものを とらえないと・・・
[43]さんからのコメント(2010年09月27日 15時20分02秒 ) パスワード

すみません、休日の間は家族にパソコンを占領されてしまうので、
私が読めなかったコメントもあったようですが、、、

私も暇な時にネット検索しては、《浮かび上がってくるもの》を探しています。
結構それで見つかるものもあります。不思議なものです。

「佐田」といえば確かに、猿田彦を思い出しますね。
猿田彦といえば伊勢・伊賀で祀られる神ですから、忍びらしい名前と言えば、言えるかも?

またいろいろ探してみます。ありがとうございました。m(_ _)m
[44]もみじさんからのコメント(2010年09月27日 18時31分10秒 ) パスワード

隅さんへ も 見てください。
さなえさんへ
伊賀餅など どこへやら に なってしまい すみません。

隅さんへ で 服部姓が 書いてあります。当然 もう ご存知なのでしょうけど・・・
[45]さなえさんからのコメント(2010年12月08日 14時30分33秒 ) パスワード

ときお様へ

前に教えて頂いた本、「鬼の太平記・まんじゅう伝来史」やっと手にすることができました。

私の直感ですが、かなり先祖に関係がござるよ。
まだ読み始めですが、たのしみです。

このような本は、教えて頂かないとわからないので、ほんとうにありがたいです。ときお様ありがとうございます(ぺこり)。

みなさんへ、私最近とても身体が軽いんです・・・、インスピレーションも感度いいです。ありがとうございます。
[46]さくらさんからのコメント(2011年02月24日 01時10分30秒 ) パスワード

ときお様
パート1の方で大庭郡のことを書いておられました。

大庭郡について 球磨郡の採物舞と 佐田神社で 11に大庭郡がでます。
関係があるのでしょうか?

教えてください。
[47]さなえさんからのコメント(2011年04月18日 10時29分57秒 ) パスワード

饅頭といえばお茶ですが・・・

三重県のお茶(伊賀茶)って、最近知ったんですがおいしいです。やはり全国的には、静岡や宇治が有名ですからね。愛知県西尾市のお茶(抹茶・玉露)もがんばってますが・・・伊賀と三河の饅頭のつながりに関係ありそうです。
[48]さくらさんからのコメント(2011年04月25日 02時25分06秒 ) パスワード

私の田舎は 販売力に弱いので なのか して 福岡八女茶に入っているそうです。
[49]さなえさんからのコメント(2012年08月30日 20時40分31秒 ) パスワード

おひさしぶりです。こんばんは、さなえです。

ここに書き込みを始めたことが、つながりになり、はっとりきょうと様とお話するご縁もいただき・・・あらためて、自分の過去の書き込みをみますと・・・「何を知ったかぶって、書き込んだのかしら? どこから拾ってきたの?・・・」と、お恥ずかしいばかりです。

そして、あらためて・・・

ギャンブラー様・あお様・ときお様・hattori様・隈様・もみじ様・さくら様・孝康様・・・それから、明子様・日本の苗字?様(ごめんね)・服部 誠様・名も無き忍者様・はっとりきょうと様・・・えっと、えっと皆様いろいろとありがとうございます。これからも、よろしくお願いしますね。
[50]もみじさんからのコメント(2012年09月17日 21時45分26秒 ) パスワード

おひさしぶりです
なにからおはなししたら良いのか?三河に行ったりして過ごしたこの夏でした。とは行っても日帰りの駆け足でしたが・・・途中伊勢湾を見て海からやってきた人たちの歴史などをしのんだりしてみました。車から見た景色ですが、道もゴミひとつ落ちてなくて快適なたびでした。

熊本のふるさとでは 日本一高いバンジージャンプが出来たそうです。
でも友達の便りでは一万円出して飛んでも 地元には一円も入らないのだそうで、アンケートもとるだけ 反映はされない ということでした。

資本主義の理念では 会社の利益は地域の福祉の為に ではなかったか?と思いますが、せめて 集まる人たちが汚物を垂れ流さないように 川を汚さないように ゴミをちらかさないように と祈るばかりです。

昔は紙などは炊きつけに、食べ物の残り物など、残したらばちが当たるといって皆食べて、それでも出来る残飯は畑の肥料にしたりして極力まわりを汚さないように気をつけてきて
今も ゴミ出しも最初は下手だったけど、あとから持ってくる人の為に奥からきちんと積んだり、洗い物の洗剤なども水のことを考えて使ったりして川をきれいに保っているのだから・・・

[51]さなえさんからのコメント(2012年09月23日 20時05分53秒 ) パスワード

もみじさん、お久しぶり(です)ね。

三河に来て下すってたんですね。うれしいです。

最近先祖の見たであろう景色を、想像できるようになったのですが・・・昔は・・・

海岸の埋立地、大きな堤防、防波堤もなくて・・・工場地帯、新興住宅街、新田もなくて・・・河川と海の境もあいまいで・・・遠くに目印となる・・・きれいな円錐の山(そこは信仰の山でもある)。川は幾重にも入り組んで・・・時には離れまた繋がって・・・ところどころに池をつくり・・・あたりは、葦・矢竹(笹)・蒲などの群生もあり・・・そこには、いろいろな鳥たち(矢羽の原料にもなる)・・・そして豊富な海、川の幸がある・・・土も(度重なる河川の氾濫はあるものの)肥沃でいろいろ育つ・・・そして砂鉄や砂金も取れたのかも知れない・・・

景色はどこまでも穏やかで・・・鳥のさえずりはそこはかとなく・・・いつまでも平和に感ずるのに・・・地形からか・・・はたまたその豊な土地欲しさか・・・大きな戦乱も体験してしまった・・・

景色は・・・どこまでも穏やかなのに・・・

そんな、感じがします。

そして、「祇園精舎の・・・」とはよく言ったものと、やっと意味がわかる年になりました。


少し高台(だいたいそういうところに昔の聖地・神社・仏閣があると気づきました)から見る三河湾は格別なものがあります。風の具合が良いと、本当にお伊勢さんのあたりの半島がよく見えますよ(^^)。

いつか、ご案内できたらいいですね。
[52]もみじさんからのコメント(2012年09月23日 20時55分09秒 ) パスワード

お元気そうで良かったです。
伊勢神宮には何年か前にご参拝しました。ああいうところに行くと空気が変わるのがわかるのですね。

人人人で人に押されての参拝でしたが、それでも 木立の中に入ると時空を越えて倭姫が住んでおられただろう時の様子がしのばれました。

時代が下がって家康の頃などになると本当大変だったろうなと思います。

バスで隣の席に座った人が「家康」「秀吉」「信長」などはこちらで生まれたといっていました。

秀吉が神宮の地・度会あたりで生まれたのは本で見たことがあったのですが、「度会の地を中村という」そうですね。

話が変わりますが、ずっと前に「風神の門」というドラマがあって、才蔵や佐助だったと思うけど家康暗殺を計画してお城の中で飛んだり走ったり・・・あのドラマで伊賀餅を食べる場面があったかなあ などと つぎから次へと頭の中で空想していますが伊賀餅はその後召し上がっておられますか?
[53]さなえさんからのコメント(2012年09月24日 10時02分49秒 ) パスワード

伊賀餅(こちらでは、いがまんじゅう)食べてませんねえぇ。なぜか、お雛様の時期に供えますし、その時期だけ、売り出してますよ。お彼岸には、おはぎです。いつも作ってたけど・・・今年は忙しくさせていただいて・・・なかなか・・・。でも、あんこが食べたくなって、小豆だけ買ってあります。市販のおはぎは甘すぎですね。昔はおはぎを、ご飯のように、お味噌汁、たくあんなどと食べました。いつもは食べられないご馳走だったので、ひとりで何個でもたべました。家のは甘さひかえめです。わたしは、もち米と、普通のお米と半分まぜて炊いたご飯に、お塩を少しまぜてつくります。そしてあんこのと、黄な粉のと・・・黄な粉のは、あんこは入れず、黄な粉の甘みでいただきます。

まだ、いろいろ調べたいことが、調べてないんですが・・・昔の三河湾の地形や地名を調べたくなってインターネットで検索しましたら。碧南市図書館関係のHPだったと思いますが「愛知県、碧南市に関するレファレンス」(?)で、いがまんじゅうの歴史だか発祥を聞いている方がみえました。わたしと同じようなこと思う人いるんだなとおもいましたが・・・碧南市の回答は「わかりません。」だったとおもいます(笑)。

お伊勢さん・・・わたしもなかなかいけませんが・・・少し時期をずらすか、早朝参拝がお勧めです。前回私の行ったときは、江原さんが「荒魂宮がパワースポット」とか言ったから、そちらが人ごみで・・・全然パワースポットじゃなかったわ!。そんなもんですね、世の中を見せられたわ。私も行ったけど・・・。

ところで、ご先祖様を調べさせていただくようになってから、不思議なこともおこりましたが・・・今は、すごく体調よく、仕事も順調に運ぶし、人間関係も変わってきて、いい方向なんです。ご先祖さまが、守護してくださってるのかしら?。私は見えないけど、ありがたいです。

もみじさんは、どうですか?。
[54]もみじさんからのコメント(2012年09月25日 04時09分07秒 ) パスワード

>昔はおはぎを、ご飯のように、お味噌汁、たくあんなどと食べました。

ここなんですねえ。
少しものが違うけど、石川県などはお正月のお雑煮に、あんこのおもちをいれるそうで、私の同郷出身の友が「あんこもち!!」っと言ってました。

私もあまいものをご飯のときに食べられませんねえ。
食習慣だったように思いますが・・・寮に入ってからきなこご飯を食べたりする人を見て仰天したことを思い出しました。

と 思っていたら 親戚のおば(田中という家の出で、あちらは相良氏の姻戚などにある)は 食事の前に 和菓子を食べていました。ということを思い出しました。相良氏は遠江から来ています。伊東(伊藤)の族。

お腹を満たすためだったのかしら?砂糖が貴重品でそういうものを食べていますという心意気だったのか?

私の故郷の昔は
貧しかったけど渡世に困らず。砂糖をしらず塩で味付けをしていた。と書いてあります。おかしでも塩の味付けは、これはこれで美味しいのですが・・・川で泳ぐにもきゅうりに塩をつけて持っていったり、ご飯を炊くのに梅を入れてたくといい とか・・・山の中なので昔は「みくじら」などというのがあって、それを焼いてお弁当のご飯の上にのせて持っていっていました。

高血圧になりやすいですね。

ご先祖様
時々親や周りにいた人が夢に出たりします。
なつかしいですね。もっと出て!!と思いますが・・・
人やまわりが変わったように思うのは、自分がかわったから と何かで読んだことがあります。ご先祖様を思うことからそうなったのなら良いことですね。

ただ 私の周りに一人いるのですが、自分の家の墓参りをして、人の家のはかまいりをして。そこの人が お茶一杯飲ませてくれなかったと怒って 私に書いてきたことがありましたが、恩返しを求めるならしなさんな!!という気分でした。お茶も出さないほうもどうか?と思うけど・・忙しかったみたいで・・・人間関係のすれ違いは小さな行き違いから起るのでしょうね。

長文失礼しました。

[55]さなえさんからのコメント(2012年09月25日 09時08分49秒 ) パスワード

最近塩麹が人気ですね・・・自分でつくってみると、確かに自然のアミノ酸のうまみがわかります。なので、昔の日本の人は、お米の麹で作った甘酒の元(甘麹)のようなもので、甘みをとっていたのかな?と思います。江戸時代の飲み屋さんのお酒は、みりんを水で薄めたようなものだったと聞きます。江戸前寿司の発祥のもととなった昔の御酢が、お隣半田市のミツカン酢にあるのですが・・・、当時の寿司は、砂糖をつかわず、お酢とお塩のみの味付けだったそうですよ。こちらも、お家で子供と復元調理していただきましたが、娘はこっちのほうが美味しいといいました。そのお酢は、いまのものみたいな、ツンとしたすっぱさはなく、マイルドです。和三盆は貴重品なので・・・何でも甘さひかえめで、上品なお菓子だったのでは・・・?

戦後からか?、大量白砂糖が使われすぎですね。主人の家族は、ほとんど糖尿です。

今年、なすが大量に実家でできたので、丸のまま塩で揉んで食べることを、初めてしたのですが・・・ナスの甘みって結構あるのですね。知りませんでした。

私が変わったから、まわりが変わったんでも・・・良い方に変わるなら、何でもいいですよ。

自分がしたくてやったことを、周りが評価してくれないと怒るのは・・・本心ではしたくないけど、評価されたくて(いい人と言われたくて)やっているから・・・と思います。評価とは、あとから付いてくるし、ゆくゆくの人徳に、図らずもなっていることが、望ましいと思います。
[56]さなえさんからのコメント(2012年09月25日 09時59分05秒 ) パスワード

あんこを美味しくたくコツ

1、豆は新しいもの(ひね・古いものだといくら炊いても硬くなるの)
2、小豆は洗うだけで、多めの水からタク(お湯からの方がいいと書いてあるものもあり)
3、はじめにでる、透き通った感じの茶色っぽいアク汁をすてて、また水から火にかける
4、次にでる、少し濁った、あずきいろで白い泡の浮くアク汁もすてて、
5、こんどは、しっかりかぶるぐらいの水からたいて、あくをすくいながら、やわらかくなるまで・・・(途中水少ないようならたす)
6、やわらかくなったら、砂糖(または、きびとう、蜂蜜好み)を市販の半分ぐらいの気持ちでいれ、煮る
7、お塩は、気持ちきかせると、甘み強くかんじる
8、だいたいのところで冷ますと、甘みもなじむし、意外と硬くなるので冷まして味、硬さみてから、味をととのえ煮詰めると、失敗しないです

あくをしっかりすて、砂糖もひかえると、少し白っぽいあんこになりますが、味はいいです。黒糖をまぜれば、色こくなり、味もこくでます。


そういえば・・・蜂蜜も結構古代からある、基調な甘みですねぇ。

[57]さなえさんからのコメント(2012年09月25日 12時41分20秒 ) パスワード

あんこの炊き方の補足

*、火加減は、水からは強火で、グラグラしてきたら中火の、コトコト・フツフツといった感じに
*、味をつけて、水分をとばす段階になったら、木べらでよくかきまわすこと
*、あまったあんこは冷凍すれば日持ちするし、お汁粉に作りかえてもいいですね

[58]もみじさんからのコメント(2012年09月25日 20時32分32秒 ) パスワード

こんばんわあ。
あんこの作り方有難うございます。売ってあるのは甘すぎるし、なかなか自分でつくるとなると おっくうでしたが、今度つくってみようとおもっています。

塩麹
一番最初指の先につけてなめたら美味しかったので、いきなりお料理にがっと混ぜたらしょっぱいしょっぱい!!何でも「瀬踏みをせよ」ですね。

>いい人と言われたくて)やっている
コメントを書いてさなえさんからお返事いただけて、もう一度彼女の心をゆっくり考えると
彼女は昔で言う本家の子 なので、子供の頃親が分家の人たちにしていた心配りをしたのだろう と 思います。几帳面な性格で。
してもらったほうはよそから来た嫁で、夫は若くしてなくなり、親戚づきあいもせばまって 忙しく働いており、 どころではない!!だったようです。
ちょっとしたすれちがいですね。加えて 私は ドライすぎる性格で、相手の気持ちを汲んで ということが 下手で、・・・

もうあれから随分日もたっているので、彼女の心も静まっていることでしょう。
今はダイエットに挑戦しているそうです。栄養指導を受けるのだそうですが。これも又几帳面な性格が災いして 逆に一キロ太った おもうようにいかないと騒がないかとドキドキしています。







[59]さなえさんからのコメント(2012年09月25日 21時50分11秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2012年09月26日 18時47分45秒
[60]さなえさんからのコメント(2013年02月25日 11時22分41秒 ) パスワード

もみじさん、皆さん、こんにちは。

 (いつものように)私ごとですが・・・、娘が無事高校に合格しましたので、お祝いにあんこの入ったお餅(大福?あんころ餅?)を作りました。

あんこをまた炊いたわけなんですが・・・、いつも目分量で、味見して味を決めていましたから、だいたい計ってみましたので、参考に・・・

小豆1袋(200グラム〜300グラムのものあり)
砂糖 150グラムぐらい(たぶん200グラム〜250グラムぐらい入れても好みで大丈夫)
塩 小さじ1/2杯(塩を効かせたくても小さじ1杯までがいいかな?)

以上です。


 それから、最近(私)読んだ本が、とてもよかったので、ご紹介します。
ひとつは「もう殺さない ブッダとテロリスト」サティシュ・クマール著

  物語としてとてもうまくまとめられていて読みやすく、かつ仏教(ブッダ)の教えがわかりやすい。そして自分に置き換え考えさせられました。
日本人のほとんどは、死ぬとき仏教にお世話になるのに・・・、どうして、親も学校も、お寺さんも、こんないい話(仏教の話)教えてくれないのか(また、知らないのか)不思議におもいました。全然、宗教臭くも、説教臭くもない、人間の普遍的物語と思います。やっぱり、ブッダさんはすごいんですな。


もうひとつは「裸でも生きる」山口絵里子著(著者の実話)

  こちらは、かなりぶっ飛びでありますが、幾度ものピンチを前向きにしてしまう、パワー溢れる内容です。
彼女は、本の内容からも宗教家ではありませんが・・・、なぜか、修行僧のようでもあり、人間の本質のようなもの考えさせられました。そして、宗教にタブー的な、世界経済のこともわかるのが、すごいです。感動しました。
[61]もみじさんからのコメント(2013年03月03日 00時08分22秒 ) パスワード

こんばんは
まずは お子様の合格 おめでとうございます。

親はやれやれ 子供は 夢いっぱいの明日に向かって 心弾ませているときですね。

大阪は教育事情が変わって 私の子育ての頃とは 親の意識も違うようですが、さりとて 時間もかかる遠い学校に通わせるのも 大変そうで、やはり 今までどおりの 学校へ行かせているようです。

住んでいる人たちも変わるわけでなく 
学年が進んで 上の学校へ行くようになって はたと 学力の違いに気づいてももはや遅し で

いく子は いくんや とはいっても 
長い年月 頭に詰め込む知識の量が違うと その時になって 一度に詰め込んでも 子供が苦労しますものね。

頭でっかちの子には なってほしくないけど 
人間としての幅広い人になってほしいけど
とりあえずは 合格することですものね。 
[62]もみじさんからのコメント(2013年05月05日 02時29分52秒 ) パスワード

さなえさん
こんばんわ
今年も故郷の上級生の家から初摘みの新茶が届きました。おいしいです。その際
初神の溝口さんとこで製茶をしてもらっていると聞き込みました。

溝口
たどれば 新発田藩主溝口氏
母が松平氏で相良氏の姫が正室の人あり その人は 岡山藩主池田氏の子供
池田氏とは昭和天皇皇女厚子様が降嫁されたところ 厚子様は伊勢神宮祭主
昭和天皇皇后は島津氏の血統
相良氏の女子が島津義弘をうむ

宇治園の名前の由来で検索
店主である溝口の家は、昔から日本茶の栽培・製茶で生活を営む熊本県球磨郡相良村にあり、その地にて400年続く代々の日本茶栽培・製茶農家「第一協同溝口」として、店主溝口義揮の従兄弟輝明氏が今もより良いお茶作りに励んでおります。
 余談に成りますが、四百年続く家には熊本城築城時の廃材が使用されているとされ、相良村より引き続きそのまま住み続けて貰いたいとお願いを頂いております。

上級生はまじめにお茶をつくっており、味は他と違うと思っております。上級生は土が違うといい、朝霧が良いのだという話もあり、私はもしかしたら製茶のしかただろうか?と思います。

お茶はお茶碗に煎れて翌朝になっても 緑色をしています。他所のお茶ではまっちゃっちゃの色に変色するのです。

伊賀茶がおいしい まんじゅう
なんだかもやもやするのですが 
こちら 大阪富田の地には 隠元がきていて お茶に関係しているのですね。足利幕府の管領の細川候も滞在していて
細川候は熊本城に関係していて
隠元は徳川家綱にも関与していて
隠元は林氏 中国福建省のひと
以前りんまんでこけちゃった記憶がよみがえってきましたが、これも林氏だったような。

お互いにあまり関係なさそうなことですが、もやもやと蘇ってきます。






[63]さなえさんからのコメント(2013年05月06日 22時53分15秒 ) パスワード

もみじさん、こんばんわ。

わたしも、最近、龍香園(西尾市)さんというお茶屋さんと親しくなり・・・やっぱりお茶も、大切なものだな・・・なんて思っていたので、奇遇ですね。

西尾茶に関しては、ウィキペディアしてみてくださいね。

そして龍香園さんは、無農薬でお茶作りにチャレンジされている方です。味付けのアミノ酸も使用していないと思います(わたし最近のお茶のあじのもとのようなうまみは・・・苦手です)。無農薬無添加だからと思いますが、やはり・・・水筒に入れて、もっていっても風味よく、スッキリした後味でうれしいです。

西尾(三河)茶から・・・、四日市のかぶせ茶、伊勢茶、伊賀茶・・・、京都や大阪から・・・九州へと繋がりが遡れますね。

最近また知ったことで、(織田信長が服部の敵ぐらいに思っていたけれど・・・)織田方の服部もいたみたいで・・・、やっぱりいろいろ事情があることだから、一概に敵味方と言えないなと、歴史や政治的な奥深さ感じました。反省・・・
[64]もみじさんからのコメント(2013年05月07日 04時20分42秒 ) パスワード

おはようございます。年いったらへんな時間に目覚めるようになって(苦笑)
音はしないから大丈夫か と 思って書いています。

お茶にアミノ酸を入れる って びっくりです。
西尾さんもふるさとのお茶も まじめにつくっているので、ほんまもん と 胸張ってきっぱりいえますね。

何か入れてる って 言おうものなら 電話で長々と きっぱりと 
うちはそぎゃんこたあせんとですもん と いいきり 
大々的にしないから商売にはならんばってん 私のように 買ってくださる人がある限りは つくろうと思うとっとです。身体のためにもなるもんで
と いいます。

お茶と一緒に 椎茸の話になり しいたけの話から 
風評被害の影響で椎茸が売れんようになって
と いい、種類として大きいしいたけ 小さい椎茸があり、
茶碗蒸しなどに入れる上品な小ぶりのものが喜ばれる
ということをいい、

だけど 自分とこのは 肉が厚くて うまみがぎゅっとあって よかとですばってん と いうのを
去年帰省したときに いっぱい持たせてくれたことを思い出しながら 実際いろいろ料理につかって故郷の味を堪能したのを思い出しながら聞いていました。

同級生が送ってくれる生のしいたけも びっくりするくらい大きくて 焼いて食べると美味しい味を知っているし 笠が開ききらないのでも大きいのです。

ふるさとにいた頃 我が家でも椎茸をつくって 食べたり、お茶を摘んで自家用に釜でいって 手もみで作ったりしたのを 飲んでいて、その味とおんなじ と思うので、自分でも 飲むと味の違いはわかると思っております。

同時に お茶をつくっているとき 釜でいるとき 少量だから うちわでかえすのに 腕のあついこと あついこと その 熱さまで 思い出しました。

 
[65]もみじさんからのコメント(2013年05月07日 05時18分00秒 ) パスワード

龍香園さんは 抹茶で ブランドの確立を図っておられるのですね。

そして 
ネットを見ていて びっくり!!

NPO法人 楽農園 というのに 尾崎氏というのをみつけ
尾崎 って ネットでいつかみたけど 華族様になっている苗字 と思い出し 日本の苗字7000傑の尾崎を検索したら 平頼盛の子孫にいるのですね。
球磨にも平頼盛所領のところがあり 

そして、
西尾は これも 又 びっくり!!
橘氏子孫にあるではないですか!!

うちは 系図はないけど 橘紋を使い 橘薩摩氏が下向してきている記録があるし、母方の佐田と言う苗字から出る話に(こちらも系図はなし、ただ ひい祖母か祖母が毛利様から院号をいただいたとおばから聞いている。)佐田文書に橘薩摩氏が肥後の守護職であったことが書かれている。橘薩摩氏は相良氏と仲がよかった。父方の嫁は 相良氏が使った苗字と同じ。
平頼盛の所領があったというあたり、相良氏本系が下向してきたというあたりに父が養子に入った家があったけど、そこらにいる親戚のおじは生前 「わしらは高岡の殿さん」と言うとったったいな。山ばわけてわけてあぎゃんなったっばってん といっており、そこの嫁の実家は「田中」。去年墓参りに立ち寄り、尋ねたら 田中だと息子が言っていました。
田中 林は 相良氏のはるか昔の嫁方。

意外なところで 一気に 他もつながりが見えてきました。
ただ 尾崎の系のあたりに 
平川景家がおり うちの方には
うちの高岡から婿養子に入った平川があり、桐紋
つい 先日 尾方の女子と電話で話す機会があり、(川向 溝口製茶の家と同じ集落)、この尾方も桐紋。

別にある尾方。うちの家の集落の尾方は橘紋。
と 平川景家とは 多分紋所が違うのではないか? と 思うところがあり、
又 平川のおばから ばあちゃんの実家の尾方は「平氏」と聞いており、
坂本 平川 高岡のおじたちと父とが話しているとき、「四浦平家城」と言う言葉を聞いており、平川の亡きあととりも その言葉を言っていたけど

尾方の女子は うちの尾方が 平氏とは 聞いていない と言いました。

良峯から降りる平川か もやもやは 続いていますが。
別口でしらべたとき、良峯の平川と平川景家は繋がるように思いましたので、いつかはわかると思います。

 


[66]もみじさんからのコメント(2013年05月07日 06時03分30秒 ) パスワード

ながながと 私事を書き綴ってごめんなさい。
58のことで いつか 書きたいと思っていたので もう少しお付き合いください。

平川に婿養子に入った高岡の男子。
今 高岡の女子が私の同級生にいて、その父と 平川のおじがきょうだい。それが 平川のおじの墓参りに行き、嫁がお茶をだしてくれなかったと ぷんぷん 怒って私に 言いつけてきた 

と言う話。
嫁は若いとき あととりの夫を亡くし、以来 何十年もひとりで 男の子二人を育ててきました。遺族年金7万円あるかないか で 暮らすので、恐ろしかったと思います。でも 畑に植えている花を持って すぐそばの 山の入り口にあるそこの家の墓地に墓参りに行くのを 向こうで暮らしていた頃私も見ていました。

一方 高岡の女子は 嫁いだ家の 土地を買い広げ その支払いが70歳まであるとかで、今は実家も皆 都会に出ており、平川でほっとしたかったのだろうと思います。夫は長野から来ており、墓も新しく球磨郡の高岡が頼んでいるお寺にしてその墓地代もかかるので ・・・ 希望があるようなないような・・・ お互いに めいっていたようです。

今は どちらも 電話で 明るく話しています。

もうひとつ
生活保護の話
同級生の一人に IQの低かった人がいて しかし 昔は田舎では 普通学級でついていくしかなく(昔はそういう人のための学校へ行くにはとても遠く、入れることが出来なかったのです。そして、先生方も熱心で 同じ学校に来ていました)、そのおかげで 卒業まで出来ましたが、逆に 災いして、やはり 仕事は 内職しかなく、収入は 当然 10万円になんか とてもならない。おまけに 100万人に一人とかの すい臓の病気で、手術は成功したけど、今でも薬が必要なのに、薬代が出せない。こちらも恐ろしい綱渡りの人生を送っています。

私に椎茸やサトイモなど送ってくれる 五木にいる 他の同級生が 人吉に出るついでに寄って、食事に連れ出したり、持ち合わせを置いてくっとたいな と電話で話していましたが、

生活保護を受けたらどうか? とその人が進めたけど 受けたくない と言うのだそうです。平川の嫁もそういいます。さりとて60にもなれば、仕事もなく・・・

新聞で 生活保護のことが書いてありました。結構いただけるんだなと思いますが、子育て世代では それくらいの金額でも足りないだろうと思います。そして それ以下の生活費でくらしている彼女たちのことを思うと 自分も年金生活で苦しく、離れていては 手も差し伸べられない自分に歯がゆさを覚えます。

そして、息子が中学の進路相談で いきなり お宅は公立には行けないようになっております。 と言われたときの驚き。
学年上位を取っていたので当然公立に進むと思っておりましたので、備えも少ししかしておらず高校・大学と私立。下の子も大学は私立では 本当に苦しかったです。
塗炭をなめるような といいますが、それくらい。

でも 同じようにうちもくるしかったよ とは いえません。希望があるのと絶望しかない人生では比べられたら腹が立つと思うのです。

頑張って 頑張ってと 心で応援するより・・・
さなえさんも お子様のこれから 経済的には心配はないでしょうけど、日本経済がどこでどうなるやら ・・・お子様の大海原に旅立つような人生の航路が順調であってほしいと かげながら 応援しています。

そして TPP。
競争に打ち勝ちたいあまり、まじめ を 忘れ むちゃくちゃな食べ物を作らないように 農家の人には頑張ってほしいですね。
こちらへも 頑張って 頑張ってと 心の応援 そういう まじめな仕事をしているところ 一品でも二品でも買って応援したいと思っています。


[67]さなえさんからのコメント(2013年05月07日 12時23分19秒 ) パスワード

もみじさんへ

皆さんがんばっておられるのですね・・・、わたしも、がんばります!!
経済的には、今苦しいのだと思いますが・・・工夫して、食べ物確保していて・・・、かえって健康かもしれません。お出かけもあまりしませんが、お金を使わず楽しめることも発見できます。負け惜しみではなくて、私にあってると思います。とほほ

さっき、庭に生えてる蕗(ふき)のあく抜きをしました。あくが強いので、あく抜きは必要ですが、風味よく、煮ても煮崩れしません。三つ葉も自生していて、何度も使ってます。でも、うちは農家でないし、山も畑もないんですよ。すごいでしょ。

今年は、タケノコを、山のある人からたくさん頂けて・・・助かりました。レシピも増えるし、ありがたいです。

ところで・・・、そちらの地域の学校は、公立に行けないのですか?? 私の地域では、ほぼ公立です。それは、ありがたいことなんですね。ただ、希望の学校や学科に入れるかが、レベルの問題であるのです。もちろん私立も同じですが。はああ・・・、もみじさん、頑張りましたね、偉いです。
[68]さなえさんからのコメント(2013年05月07日 12時40分52秒 ) パスワード

西尾茶について、補足しておきます。

愛知県西尾市および近郊の、安城市、吉良町(現・西尾市)で主につくられている、お抹茶用の碾茶(てんちゃ)のこと。収穫の数週間前から日よけの覆いをして、甘みとカフェインの増した柔らかい茶葉を、人の手で摘み取っています。それを、現在でも石臼(自動化されていますが)でひいて粉にしています。最近では、抹茶のお菓子など、加工食品用がほとんどのシェアをしめているようです。わたしの子供のころは、京都の宇治茶は、西尾産だと言われていましたが、いまは、ブランド名を名乗るのが難しいので、西尾ブランドで、知名度を上げたいようです。
[69]もみじさんからのコメント(2013年05月08日 21時18分13秒 ) パスワード

みなさん ほんとに やりくりを工夫して出来る範囲で生活を楽しんでいらっしゃるのですね。
我が家も家の横は70センチほどの隙間ですが、後ろに今年は「ゆきのした」が群生しています。そして、家の前と横に鉢植えとプランターのハーブを植え込んだら、成長してくれて料理に役立っています。
うれしくて、いただきます というのにも力がこもります。

学校のこと
公立に行けない地域ではなくて、家が公務員というだけで、ゆとりがあると周りが思うのですね。キャリアならともかく、結婚した頃私が20万近くの収入があるとき、主人は9万円あるかないか だったんですよ。こちらへ引越しをしてきて、私が仕事をやめので、どうやって生活をしていくのか ?と途方にくれるような状態だったのに。
公立に行くには 同じくらいの成績なら 人数の枠というのがあって、収入が少ないと思われるところの子供が内申点の操作によっていけます。

妹の頃には 少し変わって 内申点の比率が低くなり、先生が
この方がいいやろ 成績が良くて頑張ってる生徒が絶対や と いっておられました。妹は二年間生徒会会長を勤め、塾も使わず頑張って高校は公立に行きました。



[70]もみじさんからのコメント(2013年05月09日 23時41分02秒 ) パスワード

溝口氏
父が養子に入った白石
本家は川下の川辺村。祖父は相良氏本系が下向した郡部に住んでいた。白石・高岡・山口などのからまりがあるところで、

ここにあった溝口の家が 祖母によくしてくれていた と 姉が不思議がっていた。父の家があった集落にも溝口があり、役場に勤めていて、近くにいる関係から同じ苗字の家は仲良くしてくれるのだろうと思っていたけど

姓系辞典に
肥後の白石は士族で、清和源氏義光流。菊池に仕え菊池が相良に負けた後 相良氏に仕えた。とある。菊池の侍帳には 高岡・坂本・平川・白石・ほか尾方・高田牧宰などの言葉がある。

清和源氏新羅三郎義光流 大桑氏より溝口氏のサイトを見ると
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mizoguti.html
丹羽氏 尾張 織田信長 徳川家康 などの 言葉が出る。

丹羽氏は良峯朝臣に関与し(子孫が丹羽氏・二本松氏)(平川に関与と置き換える)
織田信長につきながら あとでは 徳川家康についている。

又 子孫の男子が(阿闍梨。実相院静誉僧正門弟)
実相寺の開祖聖一国師が茶種を持ち込んだとされており、実相院と実相寺は同一なのでしょかしら?
聖一国師は栄西とともに国師と呼ばれた人で、栄西にあこがれて溝口は宇治園とした。

藤堂高吉
丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。
服部氏と高虎は関与している。

ふるさとでは
平川は良峯朝臣に関与しているが、又 平景家がおり、頼盛子孫。
早苗さんとこの西尾 尾崎は平頼盛に関与

熊本県球磨郡球磨臼間之庄に頼盛所領
良峯氏は人吉庄・木上などに関与
しかし、実際は深田に墓があり、山田葉木に霊社があったと伝える。かなり広くあったようだ。ふるさとや五木あたりも良峯所領だった。

橘薩摩氏も近くにおり
故郷の父方のからまりに似ている。

まだまだ もやもやしているが、
良峯安世朝臣は大納言(今なら総理大臣くらい)林と他12人くらいで わが国の文化を国風文化にしており、
つまり 結構力があった人で、
京都善峯寺には資盛(清盛の孫)の恋人がいて、資盛もきたりしており、

善峯寺に関与して 鷲尾 があり
鷲尾は中原(佐田・関に関与)

鷲尾も相良氏と姻戚関係を持つ。

上の話は 溝口そのものではないが
尾張のほうのからまりにかぶさってくるように思います。








[71]さなえさんからのコメント(2013年05月14日 16時42分28秒 ) パスワード

突然だが・・・伊賀味噌のお話・・・(てんてんてん)

貧乏・・・の流れで・・・
我が家では、味噌作りをはじめて二年目です。去年は、三河の田舎味噌(大豆をつぶさない豆味噌)、伊賀味噌、白味噌を手作りしたの。どれもおいしくできてしまった・・・。たくあんも作ってみた。たくあんも、ほぼ生糠と粗塩だけで漬ける原始的なもの・・・。これも、上手くできてしまった・・・(^^)。

伊賀味噌は、伊賀に行ったとき、伊賀越え味噌を知り、インターネット販売でキットを取り寄せたのですが・・・、原始的な味噌は、大豆を蒸して団子にしたものを、軒につるして麹菌をつけたものを塩水でのばして再度発酵させたようなもの?と聞いたことあるので・・・、そうかな?と思って頂きました。ちょっと、今まで私の知ってるお味噌とちがうけど。おもしろい、懐かしい味です。
[72]さなえさんからのコメント(2013年05月14日 17時22分17秒 ) パスワード

もみじさんへ

私の父親も、(地方)公務員でした。当時は、一般企業が、景気をどんどん上げる時代。父は、時代遅れのお給料で・・・こっそり、バイトしてました!!。親戚の田植え手伝ったり、自ら食べるための野菜を作ったり・・・。今の、わたしのパワーは、父譲りと思います! 

もみじさんが、私のカキコミから・・・なぜかご実家の方の、ご先祖様のひらめき?を、感じるのは、おもしろいですね。不思議なものです。でも、繋がっているのですね・・・。

何度も、書きますが、私は、歴史・地理に全然詳しくなくて・・・。ただ、先祖のこと気になって、思ったこと、知ったこと、気づいたこと、書いてるだけなんですが・・・。

もみじさんのカキコミから・・・わたしも、インスピレーションいただいてます。熊本県のウィキペディアから、相良氏は遠江国からきた豪族と知りました。また、溝口氏は、(インターネット「武家家伝 溝口氏」で)小笠原氏のわかれとありました。小笠原氏はわからないところ多い氏族みたいですが・・・。私の家の近くの、寺部城跡の元の城主は小笠原定政(1514)と伝えられています。なので、のちの小笠原貞頼(1579)が、小笠原諸島の発見者だと、英雄みたいに言われています。小笠原氏は南朝方なのも、私は好きです(縁を感じて)。

熊本県と言えば・・・、中央構造線の始まりの地、天孫降臨始まりの地、でありまして・・・、歴史の中央にたつ人物たちは、何か感じているのかも知れないとこのごろ思います。日本の要中央構造線上の、天皇家や天孫降臨の話の多いこと・・・、また、戦の舞台になったり・・・。空海(弘法大師)も・・・。わたし、徳川家康は、強い霊感の人と最近わかちゃったわ!(いい加減な感だけどね)。

弊立神宮には、なぜか行ってみたいです。よろしく〜。
[73]さなえさんからのコメント(2013年05月14日 17時39分28秒 ) パスワード

補足・・・

「幡豆寺部城」と検索しないとでませんでした。同じ検索で「小笠原家の概要」というのが出ました。難しいけど、何となくわかると思います。
[74]もみじさんからのコメント(2013年05月15日 22時31分51秒 ) パスワード

「武家家伝 溝口氏」で)小笠原氏のわかれ

それで 合点がいきました。群書類従で 前に 小笠原の尻尾に「白石」がついていたのです。
白石は 
肥後の白石は士族。清和源氏新羅三郎義光流。
菊池に仕え 菊池が相良に負けた後 相良に仕える
と 太田亮氏辞典にあり

うちの白石の本家が川辺側筋にあり、人吉英国寺の流れの明治時代 村役場が置かれたところのお寺にお願いしているとのこと。
英国寺は相良家中。

相良氏本家が下向したあたりに 父が養子に入った白石があり、近くにいた溝口がよくしてくれていた と 聞いています。ここは 後 五木に住み洪水で一家全滅。
戦後父が山に行くために求めた家があったところにも 溝口があり、役場に勤めていた。
そして 川向の 溝口お茶

全体に 川辺川で まとまっていくとすれば 
薩摩の川辺の地が 平家の本拠地

川辺は 
竹田川辺のことばがあり
竹田は大伴武田の神があり

どんどん はるかむかしに 遡っていく。

わたしのほうのどこの家も系図など持たないと思うけど、
むかしからの つながりを記憶していて 近くにいたと思う。
動くときも 子供または年寄りなどが 固まって動いていた。

近い世代でも
たとえば 私が 大阪に就職したときも 
親戚の子が つぎつぎと 出てきていた。
その頃は 私は 現代っ子になっていて
少し 親戚づきあいも するけど 
これほど 古い頃のつながりを 意識していなかったので、あまり 親戚の子と遊び歩きませんでした。この頃 親のこと 墓地のこと などのことがあり、親戚の子と話したりして、いろいろ 情報が入ってきます。

天孫ににぎ 山幸ゆかりの 神宮のお鏡を預かる家が 高岡(父の生家)の親戚にあり、

お鏡を預かっていると 山の下の古老にいったら、
「えっ じゃろう」と 
その世代は 何となく 山の上の家は ただんもんじゃなか
を 感じていたようだ。

家の下の 岩本の おじさんが 
私の子供の頃
あんたのおとっさんの出は 只んもんじゃなかったっじゃで と言っていたが、戦前は そういう意識が強かったようだ。

徳川家康
肖像画をみると ギョロ目 いかつい顔 迫力ある 雰囲気が伝わってきますが、
別のスレッドで 家康は アイヌの血を引いている と 書いてあり
テレビで
アイヌの町長をしている人が 写っていたけど
やはり 
迫力あるお顔でした。

うちの 方の 集落で 一人 そういうお顔の人がおられますが
大体 同級生たちは 身体は 細身 こめかみとこめかみの間がせまく女性は卵型の顔 もう 年言ってきたから くずれてきているけど・・・

弊立神宮
熊本県でも存在を知っている人は少なくなっているそうですね。
私も 行った事はありませんが、確か 天御中主をまつってあったと思います。
白石神楽がある。

機動力がないのが残念ですが、さなえさんのパワーはすごいなあ と 思います。
[75]さなえさんからのコメント(2013年05月16日 15時27分45秒 ) パスワード

もみじさん、また、いろいろと出ましたね(^^)。

わたしは、「何もない」です。ただ・・・「無駄なパワー」は、確かに溢れている気がいたします。

徳川家康がアイヌ人説は、初耳です。きっと三河の田舎者ですよ〜。わからないけど・・・

平家落人伝説のある土地について・・・

なかなか風光明媚?な、山村が多いように思いますが・・・
意外と、生活に必要最低限のものは、山や畑から調達できたりして・・・

そこから思うことは、
只単に、命からがら逃げてきた、というよりも・・・

一時は、理想の国造りのため尽力した、高い精神性を持った人の集団だったのだけど、ま、結果戦争になり負けて・・・というより、負ける前ぐらいから、政治や富や権力では、国は変えられない、新たな戦になるだけだって、わかってしまって。うんざりしてしまって。理想郷(桃源郷)を求めて、仙人ようなの暮らしを求めて、たどり着いた地とも思えるなあ。と・・・

暮らし(経済・技術・産業)の発展 と 精神性(原始的とも思える高い精神性・神性)の向上 は 同時にはできないのかしらね・・・。

偉そうなこと書いてますが、私も仙人のような暮らしに憧れているので〜。

弊立神宮・・・、あまり有名でないの??? なかなか遠いけど・・・でも・・・かえって良かったかもですそのほうが、安らかです。また、わかんないこと言いましたね私ったら・・・。では
[76]もみじさんからのコメント(2013年05月17日 01時35分43秒 ) パスワード

『阿多羅しい古事記』 という ページがあって、荒木田嫡流の人が書いているのだけど、そこに 

徳川田安慶頼の写真が出ていて
先祖が熊襲と書いているのね。アイヌがもと九州にいたとは ネットでよんだことで、熊襲とアイヌ・新羅がつながるということも 何かの本でよんだことです。

私の故郷も熊襲がいたともいい、卑弥呼女王は熊襲国女王だと これは大田亮氏だったか 書いていて、私の場合 家康の先祖がアイヌというのは単なる親近感からきていることですが、

松本 村山 宮田など 伊勢神宮社家と 書いてあったページが以前あって
これが今は見えないのか 私が呼び出せないのか ページ名が書けませんが 
同じ苗字の家が 集落にあります。

天足彦国押人命の子孫のひとつに 小野朝臣がいるが、集落は小野といいます。

阿多羅しい古事記に書かれる 倭国王の名前とされる「アマノタラシヒコ」
たらし の 言葉を持つ人は ウィキの見出しでは

孝昭天皇の第 1皇子で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命(よそたらしひめ『日本書紀』本文

世襲足媛(よそたらしひめ)は、欠史八代、孝昭天皇の皇后。孝安天皇(第 6代天皇)と天足彦国押人命の生母。

『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。

なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。

阿多羅しい古事記では
渡来後に最初に生まれた孫を国王の後継者とする宣託がなされたことが、記紀では天照大神とニニギノミコトの話になっている。

この初代国王を産んだ女性に建ててやった家屋が、伊勢神宮の社殿である。
そして 伊勢神宮で祀られているのは 斉王とその王子たちだとしている。

尾張連祖瀛津世襲 の 瀛に 私は 注目するのだけど
又 倭國豊秋狭太媛 など

高岡でわかっている系のひとつに 秦王室のひとがあり、瀛は秦王室の姓。
狭太は 佐多にも 通じており、佐多は 島津の姓。島津は秦始皇帝子孫としている。

たまたま 古代出雲臣子孫という人から 別のスレッドに書き込みを頂いたことがあり、祖先はインドで、3000年以上前に来ている縄文人としておられます。

そして、神武天皇はいなかった という 観点から お話しておられました。私は高天原族はいた  と いう 立場から 書いています。

高天原族は 他にも すでに 住んでいた人たちと 通婚して 時代を降りてきたのでしょう。

中央構造線が弊立神宮を とおっているのと同様に 伊勢神宮にも とおっているそうですね。

弊立神宮のことは 私の知る限りでは という書き方をするべきでしたね。私の知る限りでは 知っている人も少なくなってしまったと。

私の故郷など 歴史のこと など 父親世代以降は あまり 意識していません。父世代の頃のまわりは まだ いろいろ 知っていることがあったのですが・・・たまたま 私の家のつながりや 集落に住んでいる家の名・その固まりの形などから 歴史がほどけてくるので、私が興味を持っているだけです。

清和源氏佐竹氏族の白石 の太田亮氏辞典 には
日向宇佐美入道(確か嫁方?)のことばがあり、宇佐美は 伊東。工藤の族。相良氏と同族になるわけで、

うちの白石から 永国寺(相良家中)が出て、
白石であった父母に関与して 出て来る人の嫁が 実家が田中。

伊東は
河津氏は藤原南家の工藤氏の庶流で、伊東祐隆(工藤祐隆)の孫の祐親が河津荘を領したことに始まる。
という関係で、

うちの祖父が頼んでいたお寺は 川津氏。
明治の頃からというが、
これらの関係をたどれば 相良とからまってくる。

時代を遡るほどに、近くにいる人たちとの関係が はっきり みえてきます。

 


[77]さなえさんからのコメント(2013年05月17日 20時30分49秒 ) パスワード

少し前までは、アイヌ民族と琉球民族は(同じくお顔が濃いイことから?)同祖ではないか・・・といわれていたと思うのですが・・・。今は、DNAからみて、違う祖先であることがわかってます。地図で見るとおり、アイヌは北方から、琉球はポリネシアなどから・・・。本土はと言えば、あの時代この時代、あっちからもこっちからも・・・って感じで、これほどいろいろなDNAが残っている国も珍しいそうです(他国では、どちらか皆殺しにされるから)。故に、日本人は、単一民族であるというのは、あきらかに、誤りでしょう・・・。

そのことからは、日本という国は、よそから来た人を(文化や技術、思想や神もろとも)受け入れ、吸収していったのでは・・・と考えられます。(神話にいろいろな神が出てくるのもそのせいかと、うなずけます。)

だから、徳川の先祖が熊襲である・・・というなら、話は別です。あってもおかしくありませんね。

理由はわかりませんが・・・、私、熊襲=薩摩隼人?の謎に、とても惹かれて、気になってます。渦巻きのような模様の意味は・・・? どんな精神性とパワーを持っていたのかしら? など(だれか)教えて欲しいです。

それから、以前(私)どこかのスレッドで書きましたが、
前田豊さんという方が、「消された古代東ヤマト」という本を出されていまして・・・

それには、現在の愛知県豊橋市が、豊葦原の瑞穂の国で、もっといえば、ヤマトの国であったのでは・・・との仮説を、いろいろなことから証明しようとしている本なのです。そこには、天皇家との不思議な関係や、徐福(秦氏)との関係・・・、服部郷や服部神社のこと(少し)、も出ていたと思います。

豊橋市のすぐ近くの豊川市には、豊川稲荷がありますが、中央構造線上にあるらしいのは、有名な話です。

そして、中央構造線上に秋葉街道を上っていくと・・・、分杭峠を過ぎ、諏訪大社につきます。諏訪大社(四社)は、大好きな神社のひとつです。そして、神話のお話も不思議です(タケミカズチ・タカミナカタのことや 東征の話など)。

秋葉街道沿いには、いろいろ古い神事や神話や、歴史が言い伝えられているようで、(今一言ではいえませんが・・・)簡単に言うと「花まつり」「鬼祭り」「湯立て」「田楽」「浄瑠璃」でしょうか・・・?

弊立神宮には、鬼というか・・・、五色人のなにかがあるんですよね・・・?。

鬼(おに)のキーワードで・・・、昔の人はいったいなにを・・・感じ、知っていたのでしょうかね?
[78]さなえさんからのコメント(2013年05月17日 20時42分25秒 ) パスワード

豊橋市のお話・・・

現在の豊橋市は、JRでの通過点よろしく、とりわけな何かもありませんが・・・、特に古〜い忘れられたような神社や祠、壊されてしまった古墳や、縄文時代の土器や石器、銅鐸など多いようです。

役行者の祠も多いようです(最近知りました)。

豊川は昔は、氾濫もあったようで・・・

今は知る人もないような話ですが・・・。
[79]もみじさんからのコメント(2013年05月17日 23時17分04秒 ) パスワード

吉田東伍だったか
昔は琉球 台湾あたりに しらぎがあった。今いう新羅の位置ではない
と書いていました。

球磨の彩物舞と出雲の佐田神社というスレッドで 82(763−564)
ネットからひろった話で
種子島あたりに古代中国系と、インドシナ系の二つの系統の埋葬習俗が合流した集団墓がある
と書きました。
山神 おおひるめ 豊玉彦 豊玉姫などの言葉が出ている。
文中に出る私とは ネットの作者のこと

他のネットの見出しに
(2)ポリネシア人の移動 - So-net
www011.upp.so-net.ne.jp/bornfreegemini/Expansion.html‎
従来、ポリネシア人は陸づたい(インドシナ経由)でスンダランドに入ったと考えられていましたが、最近のDNA研究の成果では、インドシナ経由でなく、当時中国と陸続きだった台湾に移住し(台湾少数民族のルーツ)、その後フィリピン(その当時はフィリピンは一 ...

というのがありました。

ざっとなのだけど、昔昔 後に 新羅になる人たちと思える人たち
が、このあたりにもいた と 考えても よさそうに 思いますが。

>日本という国は、よそから来た人を(文化や技術、思想や神もろとも)受け入れ、吸収していったのでは・
まさに 八百万の神々 ですね。

弊立神宮の五色人
五色人の言葉は 「竹内文書」にも みられ、昔の人は すでに 人類の肌の色・髪の色が同じではないことを 知っていたということですね。










 


 
[80]さなえさんからのコメント(2013年05月18日 12時56分30秒 ) パスワード

昔の人の、航海技術とか、今よりずっと優れていた気がするなあ・・・

そういう研究と実験(冒険)をされている方もありますし・・・

実際、船はたくさんの荷物も人も、歩くより速く移動させられますからね・・・

徳川家康は、参勤交代をさせ街道の整備もしましたが、大名たちに財産を使わせて弱くするためとの説も本当だと思いますが・・・。もう一つは、海のルートを牛耳ることで、物資や人の流れも独占できるし、戦の時の海からのルートを遮断できるからだったりして・・・って思いました。そのためにも、表面的には鎖国が必要だったと・・・。だって、自分のときは、海から逃げたんでしょう?海賊との繋がりもあったはずよね。小笠原水軍ってのもあったらしいし、三河自体の土地柄は・・・、海と人とのつながりが外せませんからね。

もう一つ気になってるのは、三河周辺の銅鐸の出土と、出雲との繋がりです。銅鐸は何のために、どのように使ったかいまだ謎ですし、出雲の神様(権力者)が今の天皇家の祖先に負けて、諏訪湖まで逃げたってことなの・・・???

わからないことなのに、気になってしまいます。
[81]さなえさんからのコメント(2013年05月18日 14時25分40秒 ) パスワード

謎と憶測だらけで、わけわかん無い話になってしまいましたが・・・

もみじさんの方(熊本方面)から・・・何か導かれるかしら?と思いまして、ついついいろいろごちゃ混ぜに書いてしまいました。何か、ピンときたら嬉しいです。そうでなかったら、スルーしてくださいね。
[82]もみじさんからのコメント(2013年05月19日 04時13分14秒 ) パスワード

参勤交代で大名を疲弊させ
外様として遠くから江戸へ行くには、お金もかかる、襲撃される恐れもあると大変だったろうと思います。

しかし、そうしてムリにでも旅することで、道筋は潤ったろうことで、見る目を変えれば少し違うことにもなろうかと思います。

ふんぞりかえって 宿代もふみたおしすことを 何度も何度も続けて 民の恨みを買えば いつかは ひっくりかえされるでしょうから・・・

大奥のことも 何かで読んだことですが、 女の仕事場をつくり 年金のように勤めを終えれば一生暮らすことが出来た と 書いてありましたが、

そういう一面もあったのでは なかろうか?と思います。

昔は 天照の墓が 八代にあったということでしたが、今は 言う人はいない ということらしいです。

イザナギの三貴子
月読尊 スサノオ 天照大神 住吉三神 他
筑紫日向小戸橘阿波岐原「江田の地」で 生まれたという。

熊本県下益城郡あたり「江田船山古墳」がある。木原氏の名があり、守富(富合)あたりは 平江 木原 の 苗字が多いという。

[83]もみじさんからのコメント(2013年05月19日 04時27分01秒 ) パスワード

守富が8世紀頃 肥後の国府があったところ

熊本は 神武天皇を祀る神社が70箇所くらいあるそうです。

神武天皇が 「天村雲命」だといわれるのが、
球磨の彩物舞と出雲の佐田神社というスレッドで 82(763−564)志都見さんとおっしゃる方のコメントがありました。

削除されていますが・・・
メールで対応します と 書かれていましたので、もしかしたら 出雲のことを詳しく教えていただけるかもしれません。

天孫族がくる前の古い 出雲族だそうで、出雲大社もおうちのご先祖様が自分で建てられたそうです。

出雲大社も式年遷宮ですね。

[84]もみじさんからのコメント(2013年05月19日 04時45分59秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/cupidstella/entry-11520031532.html
♪島根県、益田市、佐毘売山神社でご縁結び…!
  大田市(石見銀山)にある
佐毘売山神社は、こちらの益田市にある
佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)の分社

女神(姫)「狭姫」は、雁の背に乗って
新羅から、比礼振山に降り立ち、東へと向かい
三瓶山、この地で、狭姫が、農耕を伝えたとされます。
その後、銀の取れる石見に歴史にも関わってくるようです。
そのため比礼振山から、三瓶山にも分霊して祀られ
石見(大森)銀山の守り神ともなり現在に至るようです。

http://ameblo.jp/cupidstella/entry-11525796295.html
♪島根県、松江市、神魂神社(かもすじんじゃ)でご縁結び…!
  現存する大社造の中で、日本最古とされていて
歴史は、出雲大社よりも約400年も古いとされ
更に、出雲大社が創建の際、神魂神社の倍率を元に
設計されたとも社伝に記載があります。

http://ameblo.jp/cupidstella/entry-11511808660.html
♪島根県、太田市、佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)でご縁結び…!  
佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)が鎮座する麓の山は
古名:佐毘売山(さひめやま)と呼ばれていましたが
神亀3年(726年)に朝廷の命令で、三瓶山に改名させられたとされ
古代の出雲や物部氏にも関係の深い山とされているそうです。

出雲 物部 神魂尊 狭姫 石見(大森)銀山などの言葉が見られます。
高岡は 物部でもあり
佐田は母方の系で 神魂尊
出雲にもつながっていくようにも思え、前から 出雲は気になっているところです。
志都見さんは サイノカミ信仰 さひめ など言っておられました。
天照大神以前?
ご先祖はインド人としておられ、系図もあるそうです。
私ももっと詳しく教えていただきたいと思っているのですが、何しろパソコンが怪しく思え、人のパソコンを汚したらいけないと思ってメールはご遠慮しています。

兵法家の家に伝わるという「異説物部系図」
ひのはやひのかみ という人の子孫になっていて
ひのはやひのかみ という人は 確か 服部きょう様のスレッドに出るひとですね。

ひのはやひのかみ は玄松子の祭神記で
http://www.genbu.net/saijin/hihayahi.htm
いずもにも 祀られていますね。

浜松にも この神を祀る神社があるのですね。 
[85]もみじさんからのコメント(2013年05月19日 17時52分20秒 ) パスワード

石見銀山といえば 神谷氏がでますが、前に他のスレッドで出た苗字です。
神屋が本。

ネットを見ていたら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A7%E9%87%8E%E6%B0%8F
三河牧野氏(みかわまきのし)は三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏の一族のことである。この族の中から越後長岡藩主をはじめとする5つの近世大名・牧野氏の流れが輩出した。

先祖の田口成良・教良父子は平安時代末期に平清盛に仕えた
子孫が承久の乱(1221年)で鎌倉幕府北条執権政権に加勢して功を認められ地頭になったとする
平朝臣古白、(愛知県史: 中世 1-3)という記述が見え、平氏を自称

子孫 岡崎城主の松平清康による進攻を受け、
永禄4年(1561年)には徳川氏(当時は松平氏)に転属、養嗣子の成定(右馬允)も永禄9年5月には岡崎で家康に謁見を受け徳川氏に服属した[10]。こうして、家康との関係を強めたこの系統より、徳川譜代大名家の牧野氏が生ずることになった。

三河の牧野氏はその系譜書・家伝によれば蘇我田口朝臣蝙蝠(そがの たぐちのあそん かわほり)が祖という四国阿波国の豪族・紀姓田口氏の後裔という。 .... 現・豊橋市下地町)における合戦で壊滅し、信成の居城吉田城も落城して滅亡、嫡子田蔵某は★家臣神谷氏★の縁で尾張国知多郡大野(現・常滑市大野町)に亡命した。
http://www.urabe-roots.net/urabekeizu.htm

この系図は、占部貞保の次男末保の子孫、朝倉市の占部様と三男貞俊の子孫、宗像市上八の占部様、宗像市深田の占部様他のご厚意により写させていただいた系図に、筆者がわかる範囲の系図を書き加えたものである。筆者とはネットの筆者。

占部家系図総覧−占部家系傳 - HOME−占部家系傳
縁者の系図 河津氏のところに神屋の苗字あり

http://24senzo.net/blog-entry-38.html
明治初年『福岡藩士分限帳』より〜
神屋13行目右端




[86]さなえさんからのコメント(2013年05月19日 19時05分11秒 ) パスワード

もみじさん、[82]そうでした!・・・どんな物事、出来事にも・・・いい面悪い面、裏と表、陰陽・・・あるのでしたね。結果、今の私たちがあることでした。

やはり、出雲族といわれる人々や、当時は権力?のあったであろう物部氏など・・・何かきっと、起こったのでしょうね。だから気になるのかしらね。成仏したいから・・・?

それにしても、ここで ひのはやひの命さま、出てくるとは・・・(てんてんてん)。
[87]さなえさんからのコメント(2013年05月19日 19時27分21秒 ) パスワード

今日は仕事が無かったので・・・思い立って

豊橋市に行ってきました!

瓜郷遺跡(復元)、豊橋美術博物館(見に行ってないけど隣接する公園に吉田城)、二川宿本陣資料館(本陣・旅籠清明屋)に行って参りました。

どれも、想像以上に素晴らしくて嬉しくなりました。特に、美術博物館の出土品・副葬品などきれいな状態で展示されていて、昔の人の技術や知恵に感服しました。それから、本陣の中の、大名が使用される、湯殿や雪隠(トイレ)は必見ですよ!

あと、美術博物館前では、東海道を散策し、カナディアンコーヒーハウス(喫茶店)に立ち寄り、それから路面電車に乗ってみましたよ。

そして・・・帰ってきたら[85]に、吉田城出ていて、びっくりでした!!!

[88]さなえさんからのコメント(2013年05月19日 22時13分46秒 ) パスワード

ずいぶんと{伊賀餅と伊賀忍者の関係}から、かけ離れてしまった内容になってしまったと思いますが・・・それも良しとしましょうね。

ところで、私が(また)今読んでる本に、
サティシュ・クマール著の「君あり、故に我あり」と言う本があるのですが・・・これもまた、すごい本です。おすすめです。原本の英文訳が難しいのか、日本語訳が難しいのか、途中、難しい表現もありますが・・・全体的には、とてもいい本ですよ。宗教・こころ・経済・貧困とは・国造り・織物・手仕事など、一言では言えない内容が、うまくからまって、「そうだよね〜」って同意してしまう、私には「もってこい」の本でした。ホン当によいホンだよ〜
[89]もみじさんからのコメント(2013年05月20日 01時15分48秒 ) パスワード

瓜郷遺跡(うりごういせき)
低湿地遺跡
住居跡は,弥生時代に多く見られる竪穴式ではなくて・・・

竪穴式住居とはどんなものかしら?と思って検索したら

ぐるっと館山巡り☆里見氏ゆかりの地 慈恩院!
という画像があって、3つ目の

寺の後ろにはなぜか竪穴式住居があったぉという画像をクリックし、みていくと床のしたは柱で部屋がなく
高床式のこと?と思いました。

ページが出ている表題のところだけを見ると

加曾利南貝塚東部に復元された竪穴式住居群です。 一般の人々は、平安時代の半ばまで竪穴式住居に住みました。

という文字がありました。

平安時代とは
平清盛 神殿つくり などをイメージしていたので、ギャップにとまどいましたが、

現代だって 高層立てのマンションが建ち並ぶ都会と、50年位前には その前世代が建てた江戸時代とあまり変わらぬ建物が建っていた田舎とがあるのですものね。

そして、竪穴式には千木がたっているのです。

素人がいろいろいうのはなんですが、前に見た本に

千木は北方系で風対策、宮崎などの南方系は屋根の両端に耳がついていると書いてありましたが・・・

出雲も出雲大社には千木がついていて、伊勢は丹後からきておられるのですよね。つまり出雲なども大国主の頃は 北方系?


[90]もみじさんからのコメント(2013年05月20日 01時34分58秒 ) パスワード

サティシュ・クマール著の「君あり、故に我あり」
この頃本当に本を読まなくなったなあ と つくづく 思います。
頭が受け付けなくなったのか? 勉強でも何でも若い頃 それだけをしていればよい時期に一生懸命しておけばよかったなあ と ・・・でも 小さい地域で生まれた子供たち同志 授業が終われば川で思い切り遊んだりして コロコロ育った記憶が 今頃 同級会などしても 話が弾むことにつながっているのでもあるのですね。

読んでいないのですが、君あり、故に我あり 
我思う 故に我あり
デカルトですね。

自分にわかりそうに考えると
拍手。左手だけでは音は出ず 右手もなければ ならない。
自分だけでは何も出来ない。出来ることもあるけど、広がりがない。
そうして 広がりが出来 大きな仕事につながっていく。
人の輪。

多分 いつものごとく私の勝手な心の向きから 本の内容からはかけ離れているだろうと思うけど、いきとしいけるもの この人の輪の連鎖からは のがれられない。

まわりとの調和を持って みなの幸せを願って 暴力などでなく 人を押さえつけるのでなく それぞれの人が毎日の生活を穏やかに過ごせば 

それは すばらしい世の中になるのではなかろうか?と思います。

それがそうはいかないのですね。欲にかられたら話し合いなど出来ない人が いるのだから、事件というものが起きるのですね。土地争いだって一センチで死人が出る と言うくらいですから・・・
[91]もみじさんからのコメント(2013年05月20日 02時14分01秒 ) パスワード

http://plus.harenet.ne.jp/~kasuri/album/a.html
作州絣を育てる会記録
げた屋の下駄 伊賀 西田はきもの店
陶芸帯留め作家 伊賀 杉浦佳子

この方たちは どういう 関係で 作州絣にかかわっておられるのでしょうね。単なる 仕事上で 教えておられるのか?ご先祖様が 津山とかんけいあるのか?絣つながりがあるのか?
津山藩士に服部氏がいる・・・。

前に 山口の佐田彦四郎という忍者の話から 岡山の服部さん などが でていましたが、また 杉原氏から 伊勢の方につながっていましたが・・・、

忍者が活躍したのは 秀吉などの頃ですよね。秀吉も伊勢神宮の度会(中村の地)のあたりでうまれているのでしょう?
父か祖父世代は岡山にいた。

家康も信長も同じくそのあたりで生まれた。のではなかったでしょうか?
[92]さなえさんからのコメント(2013年05月20日 12時05分34秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年05月27日 05時40分43秒
[93]さなえさんからのコメント(2013年05月20日 12時19分01秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年05月27日 05時40分01秒
[94]もみじさんからのコメント(2013年05月20日 20時09分41秒 ) パスワード

おふくろさんよ おふくろさんよ
空を見上げりゃ空にあり
ですね。ご先祖様がおられたから 今 自分に繋がっているのだし、
遠いご先祖様が 何の何某と知れなくても・・・

お墓にいけないときでも 自分の心で 念じていれば いいのではないかと 私は そうしています。

守ってくださいではなくて こんなに大きくなりました 安心してね
とか 私も負けずに頑張って生きていくからね 
とか 念じています。

前に書いたことがあったか とは思うのですが、
両親が逝って しばらくして 2人が どこか 大きな家の池のそばにこしかけて、そのとき 私の心が 何だか しみじみと うれしかったので、ああ 成仏しているのだなあ と 思ったのでした。

結構 夢であえます。
4歳くらいで逝った 弟は 顔も忘れてしまって 夢の中でも 顔はわからないのですが、しっかり 大丈夫だよ みたいに 

もし 生きていれば この年になれば 支えになってくれたろう と 思うように 心の励みになってくれます。

さなえさんも お子様が無事入学なさったのですもの
ご先祖様もきっと うれしく 見守ってくださっておられると思います。

合掌
[95]もみじさんからのコメント(2013年05月20日 20時42分15秒 ) パスワード

熊本県球磨郡水上村湯山に
千人塚古墳があります。古墳時代前期。円墳。ネットでは是くらいしかわかりませんが、郡誌には 確か 
銅版の墓誌があり、ただ 砥石でこすったため 何が書いてあるかわからない とありました。

古墳時代前期
ネットでみると 年代に随分幅があるように思えます。
私にこういう基礎知識がないからでもありますが・・・

卑弥呼の頃 くくちひこ(?)との戦いで 1000人くらい亡くなったということなので、なぜか 
上の古墳のことが前から 気にはなっているのです。

湯山には 他に 蛇が卵を抱いている 珍しい 
神社に参拝するとき 口や手をすすぐところに 水が出るもの

が あるそうです。

水上村は 天孫ににぎがおりたったという 元の高千穂・「霧島神宮」を 久米城主市房が 勧請して建てた 「市房神宮」があります。

その 市房神宮のお鏡を 父の生家の親戚が持っているのです。
平成3年にご開帳をされました。50年に一度か? 人が一生のうちに二度拝めたらその人は非常な幸運の持ち主と言われています。

あまり 知られてはいません。
父の生家のおじは その 自分の家から 
「ここからは 市房がみゆっと」と 教えてくれました。
[96]さなえさんからのコメント(2013年05月20日 22時21分42秒 ) パスワード

もみじさん[94]ありがとうございます。

そうですよね、孫(子孫)たちの成長、間近で見れて喜んでいらっしゃる気がいたします。私も、いろいろな意味でより良く、生きなければいけない気持ちでいます。
[98]管理者 aさんからのコメント(2013年05月21日 04時46分17秒 ) パスワード

続きは http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101313.html  へ。
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