[1] | 海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月26日 05時16分00秒 ) | パスワード |
全然お役には立てない情報ですが
わたくしの持っている本によれば
小田原姓は桓武平氏。 薩摩・豊後に多い。
と出ています。
[2] | 織田さんからのコメント(2010年08月26日 21時37分59秒 ) | パスワード |
海の青空のあをさん
早速の情報ありがとうございました。
苗字に関する書籍なのでしょうか。
図書館で今度はその方面から調べ
てみます。
[3] | 海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月27日 04時14分32秒 ) | パスワード |
織田さん
関連地での県や市などの教育委員会から史料を取り寄せてお読みになることをお薦めします。
どこから来たか、
など載っていますから
そこからまた出身地の教育委員会から史料を取り寄せて遡っていく
という調べ方が良いと思います。
また大分の議員さんに小田原きよしさんという政治家の方がいらっしゃいますよ。
それで「豊後」という上記の書き込みに驚きました。
http://odawarakiyoshi.com/
この方にお手紙を書いてはいかがでしょうか?
[4] | 海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月27日 12時09分44秒 ) | パスワード |
NHKのヒストリアという番組だったかで西郷隆盛の回に
小田原瑞・(おだわらずいか)という薩摩の医者が紹介されていましたね。
・という漢字 加の下に可 こんな漢字を見たことがありません。
ここに反映されるかどうかも分かりません。
これで小田原姓が大分と鹿児島に存在する証拠になりましたか?
笑
[5] | 織田さんからのコメント(2010年08月27日 23時50分51秒 ) | パスワード |
海の青空のあをさん
ご助言ありがとうございます。
大分県教育委員会に電話すると、県立図書館調査担当部所を紹介いただきました。
早速問い合わせてみると、
大分県歴史辞典に記載されている大友一族の資料に小田原(こだわら)姓が 出てきます。大分県歴史辞典はインターネットで公開されていますので、詳 しくはこれをご覧になってみてください。
とのことでした。(「大分の歴史と自然」でyahoo検索)
このサイトで、小田原で検索すると大友一族ほか数件の関連資料がヒットし、
それらの中に、小田原姓の人物が数名でてきました。図書館の方の仰ったとおり、これらの人物は、大友一族であるように見受けられましたが、残念ながら平氏とのつながりは確認できませんでした。また調査員さんによると大友氏の祖は藤原氏ではないかとのことでした。
今後は、鹿児島の小田原瑞かを当たってみようと思っています。具体名なので捜しやすいと思われますし、NHKで紹介されるほどの方なら系図が残っているかもしれません。
その書籍が桓武平氏というからには、何かしらの裏づけ資料がどこかにあるはずですよね。(小田原隆盛とはつながらないかもしれませんが)
[6] | 帰蝶さんからのコメント(2010年08月28日 00時06分50秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2010年10月08日 22時09分15秒
[7] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年08月28日 11時39分23秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
織田さん へ
小田原姓の発祥地としては、
陸前国宮城郡小田原邑、相模国足柄下郡小田原、甲斐国山梨郡小田原邑、
信濃国更級郡小田原邑、近江国栗太郡小田原邑、播磨国神西郡小田原邑、
備前国和気郡新田庄小田原、豊後国国東郡小田原邑など。
すこぶる多く単純に平氏に結びつけられませんが、平将門が小田原次郎を名乗ったので、後裔に平姓小田原氏が存在する可能性はあります。
薩摩小田原氏は、島津忠国の時代に信濃諏訪大明神の神主家中島家二男中島宮内少輔が諏訪明神勧請の為に薩摩へ下り小田原姓を名乗った後裔。
日置郡伊集院郷諏訪大明神は、忠国の社殿造営、神領寄進による。
従って薩摩小田原氏の多くは諏訪姓中島家の後裔である。
安徳帝潜幸伝説に小田原隆盛が出てくるが、他に裏付け資料はあまり見かけない。
安徳帝生存伝説が各地に散見されるが、仮に壇ノ浦入水が替え玉としても重大な欠陥がある。
それは三種の神器が無いことである。
南朝の正統性にしても三種の神器(宝剣は壇ノ浦で失われ以後は宝剣代を利用)を保持していたからであり、後小松天皇の南北合一により三種の神器も北朝に移譲された。
[8] | 織田さんからのコメント(2010年08月31日 20時48分08秒 ) | パスワード |
帰蝶さん
日本の苗字七千傑さん
豊後、薩摩の小田原氏につきまして詳細な情報をありがとうございました。平家一門ではないようですが、それぞれの小田原氏も由緒正しい家柄であると窺い知ることができました。
平家の落人や安徳天皇潜幸の伝説や伝承は土佐、わけても高吾北の村々のいたる所に残っているばかりでなく、中国・九州の各地にも多いけれども、これを明確にする史実的物証な何もないと言われているようですね。しかし同じく、日本正史に言う壇ノ浦に平家一族郎党は全滅、滅亡した、ということを確証する資料も無いのではと思います。
高吾北地域に残る古文書「八幡荘伝承記」や「片岡物語」には、片岡経繁、小田原隆盛及び東徳実のことは触れられていますが、安徳帝潜幸のことは残念ながら触れられていないのです。
しかし、上記古文書や越知町の「織田家文書」、「小田原系譜」などの系譜も、いつの時代、誰によって書かれたかは明らかではないことや、内容に疑義があるにしろ、知盛や経繁、隆盛らの存在はそれらの資料の中で共通しているのも確かなようです。
平将門が小田原次郎を名乗ったことには勇気付けられました。
ともあれ、町史に言うように、高知県越知町の歴史の歩みの中で、歴史のロマンと永遠の謎の解明に生きていく次第であります。(以上、一部越知町史より引用させていただきました)
[9] | 小田原 治さんからのコメント(2011年01月02日 23時20分13秒 ) | パスワード |
小田原 治と申します。父は尾道市向島町出身の次男坊です。父の兄が30年ほど前に系図を作った際、平家落ち武者の小田景正(かげまさ)が祖先で、百姓となり、小田原姓を名乗ったと聞いています。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapha. |