[1] | ときおさんからのコメント(2010年08月04日 23時38分16秒 ) | パスワード |
[清盛が登場した大河ドラマ] 「源義経」(1966年)、「草燃える」(1978年)、「義経」(2005年)
http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/55763.html?from=tp_ao01
NHKでは土曜時代劇「咲くやこの花」、「名探偵赤冨士鷹」などを執筆。連続テレビ小説「ちりとてちん」等を手掛けた藤本有紀さんのオリジナル作品。
平 清盛 (1118年-1181年) 本当の親を知らないまま、武士の新興勢力・平氏のもとで育てられた少年は、養父・忠盛とともに海賊退治を行い、一人前の武士に鍛えられる。
・・・この辺りは納得で、楽しみですね。しかし、演出の柴田岳志チーフ・ディレクターは「躍動感あふれる平安時代版の『ゴッドファーザー』に仕立てたい」・・・。とあるのですが、ちょっと比喩がまずいですね。ご本人は良い意味で使用しているのでしょうけどね。
地デジのTVで見たいものです。まだアナログで見ています。
ガバペンチからプレガバリン服用に換わったときおより。
[2] | 海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月05日 05時39分01秒 ) | パスワード |
このスレを開けた時、実は、テレパシーが届いていたのではないかと驚きました。
平安時代藤原氏が全盛を極めた時
兄弟間でも争って娘の入内を画策して足の引っ張り合いをしていた。
平家の時代には一族一門仲良く助け合っていた。
こんなことを考えていたのです。
そしたらときおさんのスレ。
2012年清盛はゴッドファーザー風に描かれるのですか。
イタリアのシチリアは同族仲良くの世界ですから
なるほどね。
ヒトコトで清盛を表現すると「ゴッドファーザー」ですか。
家族の者がバカにされるとしっかり復讐する
そういう部分もイタリアのシチリア式家族愛に似てるかも。
義兄が静脈の詰まりの神経障害でガバペンチンを服用してましたよ。
1ヶ月3000ドルの薬でした。義兄の自己負担は8ドルでしたが。
笑
オットは今
オクシコンチン 80mg 1日 2錠(扱っている薬局が2箇所しかなくて困っています)
オクシコードン 30mg 1日 4錠(3錠のところ看護婦が間違えて記入したかも 笑)
アティバン 2mg 1日 4錠です。
[3] | おがぴーさんからのコメント(2011年03月28日 22時36分50秒 ) | パスワード |
勝手にはいってごめんなさい…
私は大河ドラマ『義経』を見たことがありません
なので来年の大河ドラマが楽しみです
大河ドラマで、平 清盛 の善行の場面があるのか、
気になります(きっとでるはず!!?)
[5] | ときおさんからのコメント(2011年10月09日 01時52分16秒 ) | パスワード |
シリーズ平清盛A「よみがえる平氏の大将船〜大河ドラマ瀬戸内ロケ」をやっていました。
呉ロケと言っていました。
呉市には違い無いですが。呉より東の方角で大山祇神社のある大三島との中程に有りますね。場所は広島県呉市安浦町大字三津口の「柏島」です。
船は、呉港南の倉橋島で「現役最後の船大工」中田芳樹さんと兄弟三人が作る「木造の平氏の大将船」。いわゆる本物ですね。
ロケ地の柏島の入江には平安時代の村がセットとして組み立てられていました。
「大河ドラマ史上最大ロケ」とも謳っていました。近年来見たことのない迫力の有る映像と成るのでしょうね。
NHKは本気で力を入れていますね。お金も!!。
配役が少し分かりました。
平忠盛・・中井貴一
白河天皇との駆け引きや仲の良さをどのように表現するのか等が楽しみです。
また、見識者の清盛も見せてほしいですね。勝者(源氏)の視点では無く新し い清盛像を見せてほしいですね。
平清盛・・松山ケンイチ
『男たちの大和/YAMATO』で年少兵の神尾克己役をした人でした。小雪と結 婚した人でした。
子ども清盛・・前田旺志郎
兄とは漫才コンビ「まえだまえだ」 で史上最年少で、
「M-1グランプリ2007」の準決勝に進出した。
平家貞・・中村梅雀。
平忠盛の側近、忠盛を闇討ちにする計画に対して殿上の小庭に武装して控えて 未然に防いだ(「平家物語」の「殿上闇討」)という逸話の持ち主。良い味の 有る演技が見物ですね。
釣りバカ日誌で、はまちゃん(西田敏行)の上司役でもおなじみですね。
この人の父親は中村梅之助さんですね。「伝七捕物帳」でもおなじみでした。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2011年10月09日 09時21分27秒 ) | パスワード |
ときおさん
紹介をありがとうございました。
「まえだまえだ」の兄の方(航基くん)は「てっぱん」に出てましたね。
すごい才能の兄弟ですね。
弟の方も楽しみです。
中村梅雀が家貞ですか。
イメージにぴったりです。
松山ケンイチ
『男たちの大和/YAMATO』は見ましたが
年少兵の神尾克己役は記憶に残ってないです。
>平忠盛・・中井貴一
この人って「義経」では頼朝役だった人かしら?
う〜ん。。。。
でも楽しみです。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2011年10月11日 16時06分09秒 ) | パスワード |
松山ケンイチって子
本日の「スタパ」でちらっと見ましたが
多分、貧乏時代の設定の衣装を着てたんだと思います。
なんか薄汚い感じで
あ、昔の日本語では、バンカラって言うのかな?
原作は吉川英治なんでしょうかね?
だったら、あんな感じだったのかな?
です。
わたくし的には清盛は新興カネモチの御曹司・・・あ、これは源氏系の表現か・・・
父上の代には既に財を成して清盛は「公達」ってイメージなんですが。
それに母上は噂では天皇さまのお子を懐妊してたって話だし。
なのにムサ苦しい姿の清盛だったからガッカリでした。
笑
[8] | ときおさんからのコメント(2011年12月31日 23時17分46秒 ) | パスワード |
たいがドラマ「平清盛」
1月8日よりスタートに成りますね。
何かたまらんです!。なつかしさの感覚におそわれます。
細部に亘り時代考証が入っています。勿論演出は有るようです。
でも、「平清盛」の公式サイトの映像や動画を視聴するにつけ半端じゃない!!。
<http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/ >大河ドラマ「平清盛」
<http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/movie/ >大河ドラマ平清盛 「動画ライブラリー」
第一回目は「二人の父」ですね。最初から、白河法皇の子どもの設定です。
実母は「舞子」と成っていました。祇園女御の猶子の設定でしょうね。この点が
今一判明しません。動画からは・・・。
兼康の実母も祇園女御の猶子だったのではと想像しているのですけどね・・・?。
清盛役の松山ケンイチが持っている「象牙色の宋剣(そうけん)」の設定が
たまらなくうれしいですし、両刃の剣を持たせるなんて凄いです。
小烏丸や烏丸の劔は切先両峰作の直刀の気がしますね。
紅白は同時進行それともビデオですか?。
紅白に出た、ガガのピアノに" JUDAS " と書かれて居ました。な〜ぜ?。
と思って検索したら、youtubeでヒットしました。
H264-【歌詞理解用 日本語 字幕】
" JUDAS " LADY GAGA - "THE GOSPEL OF JUDAS"
http://www.youtube.com/watch?v=t85viNuwoSM
ユダがいたからこそ、イエスは救世主になり、キリスト教という宗教が生
まれたともいえるわけです。この考え方に、ガガは、"I cling to:しがみつ
いている"のでしょうね。
エジプトで「ユダの福音書」が見つかり、イエスの受難は、ユダの裏切り
ではなく、イエスの指示によると書かれていました。っと有ります。これ
は、ユダが英雄と成っています。本物だと、カトリックもプロテスタント
も困りものですね。
有るTVでは、当時にはキリストと同じ様な人物が多く居たこと採りあげ
て居ました。ヘブライ人のイエスキリストだけに集約しただけの話だと。
とんでも系でもなさそうですね。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月01日 02時10分50秒 ) | パスワード |
へえ〜
ガガが出ましたか。
ガガは震災の募金活動などしていますからね。
ユダの話は聞いたことがあります。
カトリックの陰謀でユダは裏切り者になったけど「実は」という話。
イエス・キリストは「てんかん」だったと聞いたことがあるので
当時の言葉では「てんかん」かも知れないけど
そういうような奇妙な言動や行動があったのかも、ですね。
「奇跡」の他に、普通の人間には想像もつかないようなコトがあったのかも。
神の子なのか、私生児の変人なのか、
ここが分かれ道。
キリスト教はキリストが神の子であると信じることから始まるわけで。
そしてキリストの奇跡も信じる。
あの日本語訳も早くて追いつけなかったのですが
やっぱり人間の時代には限りがある?
そうするとマヤの暦もあながち「面倒だから書かなかっただけではなかった」?
あの発見されたユダ書というのは結構長い福音書だったんですねえ。
ほんの少し発見されただけかと思っていました。
[10] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年01月01日 15時32分42秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>第一回目は「二人の父」ですね。最初から、白河法皇の子どもの設定です。
実母は「舞子」と成っていました。祇園女御の猶子の設定でしょうね。
祇園女御とは俗称であり、一条法眼記によれば「白河院御寵人。東御方」が正式の呼称。
平家物語巻一に、「忠盛が仙洞に最愛の女房をもてかよ」の記述があり仙院女房と推定される人物が清盛の生母であろう。
近江胡宮神社に伝えられている仏舎利相承系図によれば、祇園女御の妹の女房が懐妊して忠盛に子を下賜されたとの記述がある。
姉妹とも白河法皇が寵愛したので、信憑性はともかく落胤説が定着したのだろう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01215.htm#002
八坂神社は新羅牛頭山の素戔鳥尊を祭る神社だが、神仏習合の影響を受け天慶五年祇園社に改称している。
祇園守紋は中央でクルスを形成、祇園木瓜紋が五弁なのはモーゼ五書を暗示。
新羅の旧名は秦韓で、秦国滅亡の民の移住地とされる。
日本の稲荷神社は35000社と秦氏の氏神がトップ。
祇園はシオンという研究者もおり、ユダヤ十二支族のうち消えた2支族の到達地は日本・朝鮮とする見方もある。
最近のDNA研究により、人類はアフリカ発祥後中東経由でユーラシア大陸全域に移動したことが裏付けられた。
アジア方面には絶えず東方移動(陸海のシルクロードにより)が継続されたので日ユ同祖論も、あながちヨタ話とも言えない。
[11] | ときおさんからのコメント(2012年01月04日 01時05分00秒 ) | パスワード |
あを様、明けましておめでとうございます。今年もよろしく。です。
七千傑様貴重な考察ありがとうございます。
>仙院女房と推定される人物・・・・。
幾つか前の大河ドラマで、その設定でやっていましたね。
>東御方・・・
東御方(ひがしのおんかた)、白河殿と呼ばれて居たようですね。どこかのスレッドで書いたかもしれませんが、女白河殿とも私どもでは伝承されて来た様です。
清盛公の皇胤説は平家物語だけではなくて、明治に成って発見された仏舎利相承系図によるものでしたね。
>近江胡宮神社に伝えられている仏舎利相承系図・・・
NHKの元旦8:00よりの放送でやっていました。「平家納経見返絵のモチーフ」いついてです。多くは語って居ませんでしたが、「清盛は自らの身上を光源氏に重ね合わせたのではないだろうか。」と言う内容でした。確か、梶谷 亮治氏(奈良国立博物館)だったと思います。
同氏の平家納経雑感の内「祇園女御と清盛の信仰」の中で
白河院は没するときにその舎利を祇園女御に相伝し、祇園女御はそれを平清盛に渡したという記述が重要である。祇園女御は白河院晩年の寵人であったが、『平家物語』が言う清盛の生母ではない。事実はその妹が生母であり、白河院の皇胤をやどしたまま平忠盛(一〇九六〜一一五三)に嫁し清盛を生んだが(一一一八年)、清盛三歳の時にわかに没した。祇園女御はこの清盛を猶子として養育した。祖父・正盛、父・忠盛が白河院と同時に祇園女御にも近しい関係であったことは事実である。
で、やっぱり祇園女御の妹の生母説が有力のようですね。
>八坂神社は新羅牛頭山の素戔鳥尊を祭る神社だ・・・新羅の旧名は秦韓で、・・・
私どもの地域、天平十一(739年)の頃には、住民の大半は旧三韓の伽耶移民の子孫となって居ます。(正倉院文書)
ですので、八坂神社との縁は天平より数百年も昔の時代から繋がっていますね。
[12] | ときおさんからのコメント(2012年01月04日 14時01分07秒 ) | パスワード |
近年、「平家納経」見返絵のうち、物語絵を想わせる世俗の女性像
のいくつかに源氏絵との関わりが指摘されている。っと記述されて
居ます。は、
http://www.narahaku.go.jp/archives/kiyo/05/kiyo-05-01.html
「増記 隆介 奈良国立博物館所蔵普賢十羅刹女像について」の
「はじめに」の中で、
「舎利の相伝と猶子として養育した。」の考察は、
http://www.narahaku.go.jp/archives/kiyo/02/kiyo-02-04-01.html
「平家納経雑感・・・平家納経の問題・・ 祇園女御と清盛の信仰」に
出ています。
「光源氏に重ね合わせた」のではと言うのは、
http://www.narahaku.go.jp/archives/kiyo/02/kiyo-02-04-02.html
「平家納経雑感・・四 平家納経見返絵のモチーフ」に出ています。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月05日 08時35分41秒 ) | パスワード |
ときおさん
すごいの、見つけてきましたね。
ありがとうございます。
明石一族と、その入内の話に合わせて清盛が娘を入内させたのでは?
という話も面白かったです。
だけど読むの大変でした。
大汗
竜神信仰というのは考えたこともなかった。
[14] | ときおさんからのコメント(2012年01月06日 01時18分43秒 ) | パスワード |
元日8:00からのNHKTVの放送を途中から録画していました。
忘れていましたが、思い出し見直しました。
清盛自身を光る源氏に重ね合わせて居る。
清盛の経歴からも天皇の落胤説を採って居る。
光源氏と同じ境遇である。
桐壺と天皇の間に生まれたけど、天皇の臣下に有るのもと言う点
にも共通性がある。
光源氏が太政大臣に成ったことと、清盛も太政大臣成った訳で、
いろいろと共通点が有る。
光る源氏を気取ったと言う、そういう意識が無かったとは言えない
と思う。
と言っていたのは、高橋昌明氏(神戸大学名誉教授)でした。
梶谷氏は現在は「東大寺ミュージアム館長」と成っていました。
同氏は、
平家納経の挿絵を明石の上と娘の再会の場面と見る。
清盛と光源氏の接点は須磨明石の帖にある。
龍神によって救われた光源氏と重ね合わせた絵が盛り込め
られた平家納経。
清盛は自らの龍神信仰を光源氏を通して表現したとも考えられる。
などと表現していました。
強力なご落胤説ですね。
[15] | ときおさんからのコメント(2012年01月06日 01時22分24秒 ) | パスワード |
少し、とんでも系の側面からの清盛公について。
神武天皇の一族はユダヤ系ではガド族となり、秦一族はユダ族で、賀茂氏の一族はレビ族(祭祀の一族)になりますね。
太秦の秦氏の一部は山背の鴨川流域に拠点を置き「鴨」を名乗り「賀茂氏」となります。
秦氏は、新羅経由で来日した、西域(弓月国)から来た渡来人であり、出雲系の技術ブレーンだったらしい。
百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏、天武天皇系)との対立が存在していたようです。百済系の藤原氏が編集した日本書記には秦氏の記述が少なく、蘇我氏のことはボロクソに書いています。その当時の事実は、蘇我入鹿は聖徳太子と同一人物で大王の位についていたようです。
ですので、新羅系列は原始キリスト教。聖徳太子を作り上げた連中は東方教会系列の景教(真言密教の真髄ですね。)
白河天皇は藤原氏から距離を置こうとしていた。と言うことからも、秦氏系列の祭祀を重んじていたことが分かります。
takahiro様のおっしゃる清盛公の実母が賀茂氏絡みで有ることの真実みがわいてきます。
また兼康公の母が女白河殿と言う言われも、秦氏系列絡みもうなずけます。
また、清盛公を重んじることも藤原氏から距離を置く決定打に成ったことも分かりますね。この計略が功を奏し過ぎて以後が、藤原氏ではなく源平武士団が中心となって行ったことからも理解できますね。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月06日 08時32分49秒 ) | パスワード |
ときおさん
>神武天皇の一族はユダヤ系ではガド族となり、秦一族はユダ族で、賀茂氏の一族はレビ族(祭祀の一族)になりますね。
こういうようなコトを小林先生がおっしゃってましたね。
源氏がなんとかで平家はかんとかだ。
源氏がガドだったのかな?
忘れました。
恥
秦氏って新羅経由なんですか。
へえ〜
秦氏が古代の力を持った氏族で桓武天皇の出資者だったというのは昔読んだことがありますが
賀茂氏は秦氏から出ているんですか。で、出雲系?
聖徳太子と景教の関係も聞いたことがあります。
こうして
takahiroさまが上賀茂神社の神主さんからお聞きになった
清盛の母は賀茂の娘
という話が(なるほど)と納得出来ますね。
>また兼康公の母が女白河殿と言う言われも、秦氏系列絡みもうなずけます。
はい、
納得しますね。
清盛公と兼康公の母君達が実は姉妹だったかも知れないですしね。
>>>賀茂女御 うれしき(父:賀茂重助)
>>>賀茂女御 いわいを(父:賀茂重助)
姉妹だったら平家と瀬尾(妹尾)家の深い関係が余計納得できますね。
空想はしていたけど(まさかねと反発はしてたけど)なるほど、と納得してしまいます。
母つながり、
その後の子供達の母つながり、
そういうので平家一門はしっかり関係が出来ていた
そのそもそもが・・・実は・・・ですか。
takahiroさまと賀茂神社との関係も(ああ、なるほど、そういうコトなのか)と納得してしまいます。
だって、賀茂家にすれば清盛の生母は実は、というお話は全く関係無い人には紹介もしないですよ。
賀茂家は京都1番の名家ですし。
話しても良い人、と思われなければ。
なるほどねえ〜
なるほどねえ〜
以前、厳島神社の神職さんにいろいろちょっとしたコトを教えて頂きましたが
やっぱり(分かる)んでしょうね。
うちの夫なんか「昔、蟹だった」なんて言いますから
信用されたんでしょうね、。
わたくし自身が夫の前世は蟹だったという話が無かったら平家には興味を持たなかったと思います。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月08日 04時49分07秒 ) | パスワード |
ときおさん
竜神=平家の守り神
源氏物語=清盛が愛した自分の出自にも関わる物語で
光源氏のように身は臣下でも最高権力者に昇り詰めれば良い
と手本にした
そういう解釈で「平清盛」を見ていけば良いのですか。
すっごく新しい清盛像ですね。
清盛が教養豊かな人で工芸などにも造詣が深かったというのは改めて
ああ、そういう人だったのか、と驚きです。
なんとなく「公達・平家の出身ですから」公家社会と付き合うだけの教養はあったの<だろう>とは思ってましたが
実はもっと深い人で当代トップクラスの優雅な人物だったんでしょうね。
家貞役が中村梅雀というのはピッタリでした。
ワタクシ的には家貞は「豪の者」とううイメージでしたけど
梅雀だったら(肖像画から抜擢したの?)と肖像画が見たいです。
忠盛さまの昇殿にくっついて行った時の絵から梅雀は連想しなかったな〜
家盛役が大東駿介には驚いたけど
もっと洗練された線の細い人だったんじゃないかなと思ってたけど
NHKの配役の方が当たっているんでしょうね。
楽しみです。
[18] | ときおさんからのコメント(2012年01月23日 03時26分57秒 ) | パスワード |
やっぱNottorareta、Hennna、Kokueihousouのお話です。
『王家』を連呼したドラマ!。どうもおかしい。新ネタ?。
いや、どうもおかしい!!。
http://blog.livedoor.jp/ninzya5/archives/51666500.html# では歴史の専
門家が疑義申し立てをしていました。
左巻の学者が言っている学術用語をセリフにしてしまって居ます。
ミスリードを起こしをねらって居るとしか思えない。
原文をそのまま引用です。「日本を引き下げることにかけては並々なら
ぬ熱意を持って挑んでくる連中の意のままになっている。」
まさしくその通りです。「朝家」と言う表現は有った様です。当時の
日記「玉葉」にですね。真説「平家物語」の作者山本啓氏も触れてい
ます。でも、「朝家」のニュアンスからはどうも、取り巻きの貴族のこ
とを指し示している様だと言っていました。今で言う皇室のことでは
無い様でした。
「朝家」は有っても「王家」の使用例は存在していないのが事実の様で
す。
http://quasimoto.exblog.jp/17250661/ のA Happy New NHK !では・・・
・・の総本山と揶揄していました。
この続きに有る、A Happy New North Korea! と「バラク・オバマ火星へ
の旅」もでは??本当??。で、とんでも系にしても目を引きつけられ
ました。息抜きにはもってこいのお話でした。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月23日 04時05分50秒 ) | パスワード |
ときおさん
http://blog.livedoor.jp/ninzya5/archives/51666906.html
も読んで来ました。
「王家」という表現には(えっ?)でした。
黒岩重吾は古代の天皇家を「大王家」と表現していました。
「天皇」の前の世界ですから、妥当かな、と。
「天皇」の言葉の後は「天皇家」が座りが良いのですが
「王家」はやっぱり違和感があります。
皇室自身はどう呼んでいるのか
そこが知りたいです。
[20] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年01月23日 10時40分52秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
天皇呼称の起源は唐の高宗皇帝(在位649-683)が称したが、後にも先にも中国ではこの一例だけである。
日本書紀によると大化元年(645)高麗使に詔して明神御宇日本天皇の称号を用いたのが初見。
大宝元年(701)完成の大宝律令に天皇諡の規定が設けられ、42代文武天皇が適用初代である。
文武天皇を除く神武天皇から44代元正天皇までの諡号は、淡海御船が勅を奉じて一斉撰進したと伝えられる。
大化改新より前は天皇でなく大君(大王)と呼ばれていたので古代の天皇家を大王家と呼ぶのは間違っていないが、平安時代以降は天皇家と呼ぶことが定着しており常識である。
[21] | さちこさんからのコメント(2012年01月23日 13時04分32秒 ) | パスワード |
少しおじゃまします。
清盛 最初は暗い、きたな〜い。
と言う感じで違和感ありました。
思ってた平家のイメージと違いすぎと言うか。
忠盛の頃あんなに貧乏くさくないんじゃないの??? とか。。
でも慣れてきて面白くなってきました。
中井貴一さんはやはり義経の時のやはり私も頼朝のイメージが強く、
こちらも違和感ありましが慣れてきました。
でも、「ミキプルーンを食べずんば平家にあらず。」
なんて言いそう(笑)
杏さんの北条政子。
最初見た時ぶっとびました。
妖怪人間かと思った。。。
伊東四朗さんの白河院なかなかよかった!
王家というのは何かひっかかてましたが、
やっぱりですか。。
平熱と併せてこれからも楽しみに毎週見ていきたいです。
[22] | 環境大学新聞さんからのコメント(2012年01月26日 12時04分54秒 ) | パスワード |
昭和16年正月頃より日本全土(満州、朝鮮、台湾、ヲ含ム)にラジオ放送を通て
古式道理の朗々たる葛野守様も歌詠で、日本書紀・古事記など一式、
源氏・平氏.家物語一式、四書五経一式、勅撰和歌集一式、小倉百人一首など一式、
が一挙生放送され大日本帝国陸軍・海軍の全部隊(艦艇・海外顧問施設ヲ含ム)で、
大元帥閣下から桃園親王家の四書五経手習始ノ礼に自主的に勉強会を準備し、
太子様の朗読や連歌(皇太子ヲ含ム)を聴く事で勉強(会)始をする部隊が
大変多かったのを御存知ですか。
[23] | ななこさんからのコメント(2012年01月31日 19時30分53秒 ) | パスワード |
清盛が白河院の御前で舞を舞ったとき
下に控える平家、源氏の面々が全員、汚らしい普段着のまま
髪はほつれたままだったので思わず「うそーっ!!!」
と叫んでしまいました。
あんなシチュエーション有り?
朝廷や公家たちから虐げられていた武士が、だんだん力をつけて
勢力を増すにしたがい、だんだん高級な衣装に変化してくる、
その過程を際立たせたいのはわかりますけど
それにしてもあんな不潔なのはないわ〜。
京の都もどうしてあんなに汚いの?
下層の生活感ぷんぷん
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年03月01日 16時31分13秒 ) | パスワード |
読売の記事より:
平清盛〜大河ドラマの向こう〜
日下 力/早稲田大学文学学術院教授
(一)「最吉」の生まれ
清盛の誕生日は一月十八日であった。そのことを伝える鎌倉期の貴族の日記『玉蘂(ぎょくずい)』は、「正月誕生の人は皆最吉なり」として、醍醐天皇、三条院、鳥羽院に続けて清盛の名をあげる。
NHKの大河ドラマ「平清盛」の誕生場面は、どうも一月という雰囲気ではなかったような気がする。母は、これも貴族の日記の『中右記(ちゅうゆうき)』に、夕方、忠盛の妻がにわかに死んだが、彼女は「仙院の辺」、つまり白河院の近辺に仕えていた、とある女性と考えられる。とすれば、清盛が満二歳だった時のことになる。ドラマでは、生まれおちてすぐに母は殺されていた。
一般に読まれている『平家物語』は、清盛の実父を白河院、生母を祇園女御(にょうご)としているが、古いテキストにさかのぼってみると、女御に仕えていた女房が生母で、生まれてきた清盛を女御が可愛がっていたとある。それが事実に近かろうし、ドラマもその説をとったと見える。実父が白河院かどうかは知るよしもないが、落胤説は今に根強い。が、権力者一般の持つ自己顕示欲の強さを思えば、自ら詐称した可能性も否定できまい。晩年、ある僧から、おそらくは追従で、比叡山の中興の祖と言われる慈恵僧正の再誕と言われて喜んでいたと伝わるのも、そうしたことを連想させる。
(二)背は低かったか
彼のあだ名は「高平太(たかへいだ)」だったという。高い足駄(あしだ)を履いた平家の太郎(長男)の意である。そのあだ名から、低い背丈ゆえに背伸びして威張って歩く姿が思い浮かぶ。それを『平家物語』は、十四、五歳ころのこととし、当時、出仕のあてもない身で、資産家であった藤原家成の邸宅に出入りしていたとする。しかし実際は、数え年一二歳の時、天皇の勅許(ちょっきょ)を得て与えられる五位の位を賜り、兵衛府の次官である左兵衛佐(すけ)に初任官しているから、武士として実に早い出世であった。ドラマは、この任官を院御所の警備役たる北面の武士にすりかえたらしい。
家成もドラマに顔を出しているが、平氏一門との交流は、母が清盛の義母つまり忠盛の正妻池禅尼(藤原宗子)の父と兄弟だったことに始まったのであろう。その息子の成親(なりちか)は、清盛一族と姻戚関係を深めるものの、やがて平氏排斥の最初の事件、鹿(しし)の谷事件を起こし、清盛によって暗殺されてしまう。
(三)祇園女御の荘園
「女御」は、天皇の妃に与えられる公の称号。彼女の場合は、それが与えられる身分でもなかったのに、世人がそう呼ぶほど、白河院の寵愛を得ていたという。白河院の子と言われる崇徳帝を身ごもる待賢門院を養育したのは、彼女であった。その崇徳帝の皇子の乳母(めのと)を、池禅尼が務めることになる。ドラマでも描かれていたと思うが、正盛・忠盛父子は女御に仕えていた。その因縁があって、乳母に抜擢されたものと思われる。
忠盛は女御が持っていた荘園を管理し、その管理権は、池禅尼との間に生まれた、ドラマで今活躍している家盛の弟の頼盛が引き継ぎ、更にその子の光盛からその娘たちへと代々継承されたことが明らかになっている。清盛の家系には、女御の恩恵が及ばなかったのかもしれない。とすれば、幼い時に可愛がられていたとしても、成長してからの二人の関係は果たしてどうであったのか。ちなみに、清盛と頼盛とは犬猿の仲となる。
(四)気配りの人
保元の乱・平治の乱における清盛の功績は大きく、乱後に飛躍的な昇進を遂げるのであるが、その当初、後白河院と二条天皇父子の間には政治の覇権を争う険悪な雰囲気があった。清盛は、「あなたこなた」して、どちらにもいい顔をしていたと『愚管抄』は伝える。
そうした性格は、配下の者への気配りを怠らなかったという『十訓抄』の逸話とも合致する。彼は、場に合わぬざれ言に対しても鷹揚に笑ってやり、失敗もことさら咎め立てせず、冬の寒い夜、年少の侍を衣の裾に寝かせて好きなだけ眠らせ、末々の者でもその身内の前では一人前に扱って面目を立てさせたので、多くの人が心を寄せたとある。
しかし晩年には、クーデターを起こして公卿三十九人の首をすげ替え、後白河院を幽閉、自らの一存で都を京から福原(神戸市)へ移し、奈良の東大寺・興福寺を焼き討ちさせた。その蛮行と彼の性格はどう結びつくのか、ドラマの見せどころとなるのであろう。
日下 力(くさか・つとむ)/早稲田大学文学学術院教授
【略歴】
1945年生まれ。早稲田大学文学部出身。岩手大学教育学部助手、専任講師、助教授を経て、’79年に早稲田大学文学部助教授、’84年より現職。
【主著】
『平治物語の成立と展開』(吸古書院)、『平家物語の誕生』(岩波書店)、『岩波セミナーブックス 平治物語』(同)、『平家物語転読』(笠間書院)、『いくさ物語の世界―中世軍記文学を読む』(岩波新書)、『平家物語大事典』(共編著・東京書籍)など。新刊書に『中世尼僧 愛の果てに―『とはずがたり』の世界』(角川選書)。
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