[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月13日 14時50分43秒 ) | パスワード |
もっと奈良に近い賀名生の和田北口には今でも後醍醐天皇など南朝方の天皇を迎え入れた
堀孫太郎
さんの御屋敷、堀家住宅(重要文化財)が600年以上前の姿で残っています。
幕末の勤皇志士達によって門には「皇居」と書かれています。
日本最古の民家で現在の当主は24代目だそうです。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月13日 14時52分41秒 ) | パスワード |
五條の栗山家も旧家だけど
やっぱり堀家がスゴイかもね。
今でも「皇居」の額を掲げられるんだから。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月13日 15時03分31秒 ) | パスワード |
十津川村といえば上野地の谷瀬の吊り橋ですよね。
1度に20人以上は渡らないようにと村の老人達が観光客の安全を願って見守ってくれています。
昭和29年だったかに村人の寄付で吊られたそうです。
だから大事にしているんでしょうね。
でも大野?の吊り橋も行ってみてください。
こちらの方が小振りなのにリアルに怖いから。
十津川村は奈良の八木駅より奈良交通のバスで123km(4時間)、新宮には50km(2時間)です。
十津川村の中だけでバスで30分かな?
というのは十津川村は日本一広い村で 670km2 だったかな 東京都と同じぐらい?
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月14日 03時37分14秒 ) | パスワード |
奈良八木から132kmあたりの所
七色ずい道口からの景色は果無山と呼ばれていて
高い山々の山並みが見渡せます。
この果無山の意味を引っ張って着ました。
高田十郎著「随筆山村記」からだそうです。
果無山<はてなし>の名の起こり
十津川の西南紀州境に、果無山という山脈がある。
元は熊野通いの一街道で、上り下り七十二丁(八キロ)ずつの阪路が大いににぎわった。
ところがこの山中に「いっぽんだたら」という怪物がいた。
足は一本で眼が皿のようだった。
常には人を害することはないが、「ハテの廿日」(十二月二十日)だけは危険だということで、その日は人通りがなかった。
ハテに人通りがないからハテナシ山と名がついた。
ええっ?!
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月14日 04時34分17秒 ) | パスワード |
http://totsukawa.info/index.html
ここから「十津川村の橋の日のお祭りの太鼓」の画像が見られますでしょうか?
バカ!
やめて!
と思わず叫んじゃいましたよ。
ただでさえ揺れるのに
飛び上がったりしたら余計揺れるじゃないねえ。
恐ろしい。
この上野地〜谷瀬の吊り橋は昭和29年
村の人達がお金を出し合って
それも20万円とか30万円とかいう大金
サラリーマンの月給が1万円なかった時代ですから
年収の2年分〜3年分あたり?
を出し合って架けた吊り橋なんですって。
村の人の気持ちってスゴイ。
スゴイなんてもんじゃない。
ま、それだけ団結力が強固というか「未来」にかける気持ちというか「夢」があったってことでしょうね。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月14日 04時40分06秒 ) | パスワード |
↑
クリックでは行けなかったですね。
すみません。
十津川村の人達が「十津川郷士」と呼ばれるのは
幕末に村人達が京に行って御所の警護を許されたからなんですってね。
それも宿舎を十津川から材木を運んで作ったそうで。
もう、ウッソー!、です。
ま、確かに材料を京都に運んだと言っても
十津川村の北の端は奈良に近いですけど。
村人の「心」というのに涙してしまいます。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月14日 05時23分33秒 ) | パスワード |
平家落人の里とされる場所は132箇所あるそうです。
平家の落人にゆかりあるとされる姓
赤間、池田、青田、阿佐、安徳、大庭、織田、落、葛西、梶原、上総、門脇、上時国、神長、桐原、葛原、久保、小松、坂梨、渋谷、下時国、平(たいら、ひら)、橘、平山、種子島、秩父、寺田、土肥、伴、長尾、永野、長濱、野崎、八尾、八巻、服部、平野、平家、星、星野、宗、谷内、椎葉、高倉、旗手、廣實、一ノ宮
沖縄の平良も平から出たと思いますが
そうとも限らないですよねえ。
「たいら」というのは農耕民族の願いですから。
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