[1] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月01日 16時41分07秒 ) | パスワード |
あ、ちなみにうちの家紋は「丸に違い柏」です
別スレッドでもいろいろ調べてもらいました(ありがとうございます!)
そこでは佐谷姓は出てきませんでしたが…
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 13時14分34秒 ) | パスワード |
全然分かりませんが
<さや>って読むのですか?
愛知県でしたら<佐屋>って書くのと関係があるのかしら?
南朝方エリアだし
その前は平家だろうし。
状況証拠からは 平家+南朝方 って感じですね。
1.
〒811-2115 福岡県糟屋郡須惠町佐谷
こちらの教育委員会から史料を得てはいかがでしょうか?
福岡なら、ここも状況証拠から元平家って感じ?
笑
7000傑さんから書き込みがあると良いですね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113b.htm
《石川氏》 → 《馬場大掾家》 → 横倉・佐谷
なんて出てますね。
全然分かりませんが
平家の清盛の先祖の平貞盛の弟の 繁盛 の子孫から 城・大掾・伊佐が分かれ
城氏から余五・奥山・白川・安田が出て
大掾氏から多気・馬場・岩城・吉田・行方・鹿島・東条・真壁・小栗・石毛・豊田
小高・島崎・麻生・玉造・石川
大戸・矢田・島田・河股・平戸・石崎・大野・大泉・小泉・前野・蛭町・田谷橋・大窪
白方・多良崎・勝倉・市毛・武田・堀口・道理山・藤佐久・横倉 ← ココ
青柳・袴塚・箕河・吉沼・河崎・枝河・海道・好間・好島が出たそうですよ。
残念ながらわたくしのアンチョコには「佐谷姓」は載ってなかったけど。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 13時26分40秒 ) | パスワード |
城さんは平家一門でよく知られていますね。
真壁さんはややこしいことになっていますね。
真壁幹重は北畠親房方で勤皇。南朝方。
なのに、その孫の政幹は足利義詮の命令で小高直幹を攻めた。北朝方。
政幹の孫の朝幹は足利持氏方になった。
朝幹の子孫の6代目の氏幹は鬼真壁と呼ばれた
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 13時36分31秒 ) | パスワード |
佐谷政尊
http://novel.hongxiu.com/a/2741/33318.shtml
坂本城出陣者に名前が出てますね。
间嶋新三郎栉桥左京别所肥前守栗山肥后守菅谷五郎佐谷五郎. ← ココ
伊藤民部神出左卫门栉田八郎神吉彦太郎薬师寺次郎鱼住太郎.
英保次郎白国若狭岸本弾正金沢源助上原备后守饱
コピペできなかった。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 13時56分16秒 ) | パスワード |
書き直し:
応仁の乱を読んだら出てくるのかしら?
特に 嘉吉の乱 について読んでみてください。
播磨(赤松)満佑について岡山県の教育委員会あたりから史料を取り寄せてはいかがでしょう。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 14時17分04秒 ) | パスワード |
福岡の佐谷という地名に関係あるのか無いのか分かりませんが
黒田家明治初年の分限帳に
佐谷磯五郎 320石 馬回組 住所は芦戸3番丁 初仕官 孝高
って書いてあるので播磨以来の家来?
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 14時19分08秒 ) | パスワード |
http://www.readj.com/mrz/heitian1.htm
http://www.readj.com/mrz/heitian2.htm
http://www.readj.com/mrz/heitian3.htm
参照なさってください。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 14時26分32秒 ) | パスワード |
とにかく 平将門以来の歴史から始めて 場所としては茨城・千葉あたりですね
それから伊勢伊賀の平家時代
鎌倉時代
南北朝時代
応仁の乱 場所としては播磨あたりでしょうか
それから戦国時代〜江戸時代 場所は播磨〜福岡あたり 小寺家とか黒田家とか
この辺りの時代の歴史
各県の教育委員会
主要人物の名前の出て来る歴史
もう県の教育委員会にお手紙書きまくって
県立図書館に行ってコピーしまくって
資料を集めて読みまくってください。
やってれば御先祖さまが出て来て助けてくれますよ。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 15時52分07秒 ) | パスワード |
7000傑さんの表を参考にしてまとめてみました。
桓武天皇
夫人の多治比真宗(たじひまむね)4子を産み
長男は葛原親王(かつはらしんのう)
その子・高見王
孫・高望王 平姓を賜って上総介に拝せられ、下向し坂東平氏となり常陸国に住みやがて関東に勢力を張り
その子の平国香は常陸の大掾になり
長男・平貞盛が従兄弟の平将門と戦ってこれを破り
子孫が伊勢伊賀に出て後に伊勢伊賀平氏=平家=となり
平貞盛の弟・平繁盛の子維幹の子は
・維茂の流れは → 城氏(および加地)で、城氏は平家に仕え
・維幹の流れは伊佐および常陸大掾氏となり
維幹の曾孫の清幹から吉田姓となり
孫の家幹が石川姓を称し
子の資幹が馬場大掾氏となり
資幹の孫が横倉・佐谷を称した。
かな?
あ〜、ややこしい。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月02日 16時10分40秒 ) | パスワード |
馬場大掾資幹あたりが平清盛世代なんでしょうか?
そうすると源平時代は頼朝方になっていたのかしら?
横倉・佐谷を称するのは資盛あたりの世代?
と、すると頼朝?鎌倉幕府?に仕えて播磨国に土地を貰って住んだのかもね。
とすると、播磨国の北朝方?
播磨国の南北朝史を調べたら佐谷という名前が出て来るのかな?
やっぱり教育委員会から資料をたくさんもらわなくっちゃね。
[12] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年07月03日 23時55分39秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
Masamichiさんへ
あまり先入観を持たないで地道に調査することをお勧めします。
佐谷姓の発祥地としては、
常陸国新治郡佐谷(さや)邑
飛騨国吉城郡佐谷(さだに)邑
播磨国加西郡佐谷(さたに)邑
筑前国糟屋郡佐谷(さたに)邑
貴殿の先祖が江戸期に居住していた場所を把握することが肝要です。
常陸居住ならば、ほぼ大掾氏族と見て間違いは無いでしょう。
他に佐夜(遠江)、讃揚(摂津)、佐野(紀伊)、佐屋もサヤと訓み、佐谷と互用。
紀伊の名族、佐谷氏は佐野が転訛したものと思われます。
[13] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月04日 20時04分15秒 ) | パスワード |
皆さんありがとうございます!
家に帰ったらパソコンから改めて書き込みさせていただきますね!
[14] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月05日 01時09分25秒 ) | パスワード |
>空の青海のあをさん
いろいろありがとうございます!
調べると結構いろいろ出てくるもんなんですね
自分の調べ方が甘かったのがわかりました…
>日本の苗字七千傑さん
ありがとうございます!
下に本家から教えてもらった情報を書いておきます
紀伊の名族に佐谷がいたとは知りませんでした
ちょっと調べてみます
本家に聞いた話によると
「もともとは関東に住んでいた」
「茨城県のある川(名前忘れました)の麓が発症」
「今は佐谷(さたに)だけど、昔は佐谷(さや)だったみたい」
なんです
なので、大掾氏族なのはあってると思うのですが…
その大掾氏族と佐谷尊政との繋がりがまったく分かりません(^^;
[15] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月05日 01時10分22秒 ) | パスワード |
あ、それと
今住んでるのは大阪です
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月05日 04時12分41秒 ) | パスワード |
お盆が近いのでおじさま・おばさまから御先祖さまのお話を聞けると良いですね。
源平時代はどっちだった?
南北朝時代はどっちだった?
江戸時代はどこにいた?
など。
>その大掾氏族と佐谷尊政との繋がりがまったく分かりません(^^;
いろいろな県の教育委員会からその地の歴史資料を取り寄せて
読んで
その中に出典や参考書が載ってるから
これを取り寄せて読めば
大掾氏族と佐谷尊政の関係がどこかに書かれていますよ。
また御自分から遡って戸籍謄本(除籍謄本)を取得して
明治の初めにどこに住んでいたかで
江戸時代の先祖の住んでたところがだいたい分かります。
福岡なら黒田藩に仕えてた上記佐谷氏関係である可能性があるでしょうし
姫路あたりなら赤松に仕えてた可能性があるかもですし
http://kosekitouhonntoriyose.com/newpage31.html
ここを参考になさっても良いですしね。
もし1970年代以前の戸籍謄本をどなたかが持っていらっしゃったら見せてもらってください。
最初に 士族・平民・華族とかね 記入があると思いますよ。
今、住んでる所はアテになりません。
明治以降日本人は移動しまくりましたから。
また家紋もアテになりません。
家紋は1つの家に複数あります。
今、使っているのは取捨選択されて残ったもので
いろいろな事情でソレを使っているだけかも知れません。
おじさま・おばさまから本家はどこかを訊き出して
その本家の倉にある家紋のついた袱紗なんか見せて貰えると良いですね。
結婚なんかの儀式の時に袱紗を用いるから、それに家紋がついてますよ。
家紋は有力な家ほど数が多いです。
家系書を見れば事情があって家紋を何に替えたなんて分かります。
お盆が近いですから Masamichiさんの御親戚が一同に会する機会があると良いですね。
1番良いのは御自分で懇親会を開催なさることで
「1席設けて先祖のことを語り合いましょう」と皆さんにお手紙を出してはいかがでしょう。
古い戸籍謄本や家紋のついた袱紗なんか持参して欲しいと書いて。
お盆というのは良い機会ですよ。
[17] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月05日 11時19分38秒 ) | パスワード |
>空の青海のあをさんさん
なるほど、ありがとうございます
本家の人との連絡は取ってますし、資料も揃えてもらえる予定です
(ちょっと本家の人の体調の関係で9月くらいになりそうですが…)
まずは戸籍謄本(除籍謄本)を手に入れるところから始めてみます
福岡か兵庫か茨城か…
また何か分かったら書き込みさせていただきます!
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月05日 12時29分38秒 ) | パスワード |
早く本家の方が御本復なさいますように。
何か分かったら、また書いてくださいね。
[19] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月05日 15時50分34秒 ) | パスワード |
当時使っていた家紋が解るといいなぁ
実は分家ですが跡取りなので、家紋変更も実際考えていいます(もちろん軽々しくは考えてません)
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 15時36分20秒 ) | パスワード |
>当時使っていた家紋が解るといいなぁ
本家に家系書があれば、載ってるかも。
>家紋変更も実際考えていいます
家紋の数々が分かったら
1枚の布に全部印刷して御一族に配っては?
喜ばれると思いますよ。
使用時代も書き込めたらもっと良し。
笑
こういうのは勢いですからね
若気でやっちゃった方がいいです。
笑
>(もちろん軽々しくは考えてません)
軽々しく考えたって良いのですよ。
徳川将軍家だって歴代将軍はそれぞれ微妙に違うデザインですしね。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 15時46分12秒 ) | パスワード |
それで一助にちょいと書いてみますね。
繁盛流小栗氏家紋
・小栗波
・栗
繁盛流白石氏家紋
棕櫚
繁盛流伏木氏家紋
三輪違い ← 知恵の輪みたい。ミツワ石鹸のマークみたいでもあるし。
繁盛流ってナンだ?と思ってましたが貞盛の弟の流れとは知らなかったな〜
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 15時52分51秒 ) | パスワード |
「柏紋」について:
武士で初めて用いたのは
桓武平氏の葛西氏。
「奥州葛西実記」は文治5年=1189年=に家紋化した、としている。
柏紋使用で平氏系の家:
豊前
九間
室
長田
飯塚
服部
横尾
久野
堀屋
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 15時56分50秒 ) | パスワード |
棕櫚紋については
もう1冊の本では「白戸氏家紋」になっています。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 16時12分02秒 ) | パスワード |
南朝方の大親分の北畠親房と南朝の忠臣赤松則村は同じ村上源氏から出ているのね。
村上天皇 → 具平親王 → 師房 → 略 → 北畠と赤松へ
北畠は伊勢で勢力をもっていたのが織田信長に負けて家を乗っ取られてしまう。
赤松は満祐の時に将軍を暗殺して滅びてしまう。嘉吉の乱
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 16時35分39秒 ) | パスワード |
赤松は満祐が自分の屋敷に招いた将軍義教を私怨で暗殺して所領を失い
一族は四散するも再興を果たし(後南朝の最後の天皇兄弟を殺してこれを手土産にした)
応仁の乱で満祐の弟の孫・政則(1455〜1498)を奉じて東軍に参加して大いに戦い
播磨・美作・備前を攻略して赤松の家を再興。
その後 内訌で 赤松家はガタガタに。
戦国時代には秀吉に下って阿波で1万石をもらったものの関が原では西軍に属して則房が敗死し、家は断絶に。
宇喜多秀家の父・直家がこの頃に活躍してグチャグチャ。
内訌の話はワケが分からない。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 16時57分08秒 ) | パスワード |
で、宇喜多直家の名が出てきて、真壁がここに出て来るのよね。
直家も一生も大変な激動の日々で父親を殺した主人に仕えて下手人を殺して主人を襲って岡山を手に入れた。
この直家というのが策謀家で・・・グッチャグチャ・・・・
あっちの大将(毛利)、こっちの大将(尼子)+そっちの大将(秀吉)、を戦わせるように仕向けて
3者がへたばるのを待つ作戦で
結局は 秀吉 vs 毛利 の戦いにして自分は病と称して様子見。
替りに弟の 忠家や、 長船紀伊守や、真壁治次、戸川秀安や、花房職之を出陣させて
尼子が毛利に負けて
毛利が宇喜多を(なんだ、アイツは)と疑って
それで自分の子供を信長に人質として差し出して
この人質は後に宇喜多秀家となるのでした。秀吉の養子になって、前田利家の娘を妻にしました。
ということは ココで真壁が出て来るのよね。
そうすると 佐谷は真壁とココで<確実に>出会ってるのかしら?
佐谷磯五郎さんの家は先祖が黒田家の孝高に仕えているから
この時代にはとっくに黒田家方。
戦国時代ですねえ。
黒田家と宇喜多家もチェックしなきゃね。
昔は、戦争で身を立て名を挙げようと、一族を頼って移動しましたから
佐谷家と真壁家がお互いに頼り頼られの関係があったと思います。
宇喜多家 つまり 岡山県教育委員会にも資料をお願いしなくてはね。
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 17時06分29秒 ) | パスワード |
http://www.sekigun.com/history/fanyi/zbsyz2.htm
画像に真壁家の紋が出てますね。
塚原ト伝とか真壁氏幹の悲劇とか、いろいろ書かれてますね。
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 17時19分41秒 ) | パスワード |
http://www.sekigun.com/history/ziliao/cc01.htm
真壁城
筑城年代 承安年间(1171〜75)
主要城主 真壁长幹
城郭样式 不明
历史 承安年间(1171〜75)常陆大掾平贞盛的后裔真壁长幹开始筑真壁城,之后的十九代四百三十年间,真壁氏历代为真壁城主,后来浅野长重(二万石)以及稻叶正胜(一万石)先后入封真壁城,真壁城现存空堀、土墨等遗构。
この中国語のサイトでは 真壁氏は貞盛の子孫になっていますね。
平安時代末期に建てられて430年真壁氏が代々主人で
その後
江戸時代は浅野長重が2万石で入府して
稻叶正胜 って誰?
空堀や土塁なんかが現存。
上記のサイトに常陸国の真壁氏は佐竹に従って転封して困窮したように書かれていますね。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月06日 17時25分06秒 ) | パスワード |
http://baike.baidu.com/view/904500.html#9
ココも面白かったですよ。
行方不明になった真壁さんとか誅殺された真壁さんとか。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月07日 08時41分06秒 ) | パスワード |
昔の新聞を読んでいたら「横倉」という集落の名前が出てました。
スゴイ偶然!
記事は多分朝日新聞の2007年あたりの8月22日の「地殻変動」というコラムで
郵政の民営化の話だと思います。
「秋田県藤里町。青森県をまたいで世界遺産のブナの森が広がる白神山地のふもとに横倉集落がある」
ふ〜ん・・・
横倉ねえ・・・
この村に「横倉さん」とおっしゃる家があったら面白いですね。
非常に身近な一族ですものね。
元々秋田の人なのか?
平家の秋田家の関係の横倉さんなのか?
こういう方向からもチェックしてみてはいかがでしょう。
[31] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月07日 10時30分06秒 ) | パスワード |
>空の青海のあをさん
うお!
いろいろありがとうございます!!!
真壁と佐谷の共通点とか調べていただいて感謝します!
自分が調べたところでは、戦国時代に佐谷は出てこなかったんですよ
それが黒田に仕えた佐谷磯五郎がいて、しかも真壁と出会っていたかもしれないなんて…
この佐谷と真壁が親族ならこの時期に確実に合っていたでしょうしね
どういう関係だったかは分かりませんが
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月07日 14時16分38秒 ) | パスワード |
佐谷と真壁が播磨備前あたりで出会ってた可能性は限りなく大きいですよ。
宇喜多直家
黒田孝高
この2人が牽制し合ったり敵になったり味方になったりしていたのでしょう。
佐谷と真壁は元は常陸の出身で同じ繁盛の子孫ですから
案外情報を交換し合ってたんじゃないかな?
かすみがうら市についてちょっと調べました。
中世には常陸大掾氏が常陸国府の大掾職を世襲。
職名を名字として勢力を拡大していき、戦国時代まで各分家が霞ヶ浦周辺を勢力下においている。
また、南北朝時代には北畠親房が南朝方立て直しのため数年にわたり霞ヶ浦周辺で激しい戦いを繰り広げた。
その攻防の背景には海夫の存在があったと考えられている。
戦国時代、霞ヶ浦周辺では、守護の佐竹氏、関東管領の上杉氏、古河公方の足利氏、そして後北条氏が覇権を争ったが、
北方の佐竹氏が勢力を南下させ、1591年に佐竹義宣によって他の地元領主が誘殺され、周辺域を掌握している。
やっぱり南北朝時代もチェックしなきゃね。
平家方だったら単純に南朝方だったと思いますが
源氏方だったら北朝方・南朝方の勝つ方に加担したでしょうね。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月07日 14時25分52秒 ) | パスワード |
もう1つかすみがうら市の歴史から:
かすみがうら市の起こりは鎌倉時代地頭だった下河辺政義が志筑城を築き領内を治めたのが始まりとされます。
200年に渡り下河辺氏(益戸氏)がかすみがうら市周辺を支配しましたが、
室町時代に入り南北朝争乱で敵対した大掾氏に敗れ急速に衰退していきます。
下河辺政義が北朝方だったのは間違いないでしょうね。
鎌倉幕府の地頭だから。
その後、室町時代に大掾氏に敗れた、ということは
大掾氏は南朝方だったのかな?
ここんところはかすみがうら市教育委員会から史料を貰えば載っているでしょう。
赤松も初めは南朝方ですから。
佐谷氏は南朝方として仕えていたのかなあ?
と思いますが。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月07日 15時00分02秒 ) | パスワード |
ちょっと斜めに常陸あたりの南北朝史を読んでみましたが
結局は 北畠親房に振り回されて 常陸国は後々まで遺恨を残すことになり
大迷惑した
ということだったようです。
当時佐竹は北朝方だった。
へえ〜
意外でした。
佐竹は源平時代は平家方だったのにね。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月07日 15時05分08秒 ) | パスワード |
源平時代も南北朝時代も味方になったり裏切ったり敵になったり
殺し殺されの時代ですから
一筋縄では語れないですね。
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月07日 16時05分11秒 ) | パスワード |
戦国時代の赤松氏・小寺家の歴史を斜めに読んで
更に
小寺家の家老だった黒田官兵衛孝高の関係をちらっと読み
グチャグチャです。
黒田家は元は近江の出身で宇多源氏(佐々木・京極系)で
祖父の時代に播磨に来て
黒田孝高は小寺の娘と結婚して小寺姓を名乗ったりもしてて
整理すると
佐谷は赤松に仕えてて
赤松が将軍を殺して幕府軍が攻めて来た時に坂本城から出陣したけど赤松は負けて
この辺りから黒田家とは知り合ってたのでしょうね。
で、佐谷磯五郎の先祖は黒田孝高に仕えていた、と。
この「五郎」というのは佐谷家代々の名乗りなのでしょうね。
磯五郎とか。
それは赤松に仕えてた上記の「坂本城から出陣した佐谷五郎」以来の名乗りなのかも。
応仁の乱の嘉吉の変を読めば手がかりが掴めそう
とはいえ
播磨国の赤松家関係になりますが。
[37] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月08日 03時20分54秒 ) | パスワード |
>空のあお海のあをさん
黒田家との関わりは自分でももうちょっと調べてみようと思ってます
本家の人に聞いた話では、関東から来たとは聞きましたが福岡(九州)から来たとは聞いたことないんですよね
えと、2年前の12月に兵庫県加西市に行った時に解ったことをコピペしておきます
【1322年 佐谷六郎左衛門政尊が、大部荘の公文職の奪取を企んだとして訴えられる】
(佐谷政尊は在田荘内の佐谷村を名字の地とする武士で、大部荘の地頭)
【1335年 佐谷大炊助が位田慶三郎に対し、石峯寺領での監妨を停止するよう命じる】
(石峯寺は淡河荘内の真言宗寺院で、そこには佐谷大炊助政高が石峯寺の祈祷に対して発給した巻数受取状も残されており、佐谷氏とのつながりの深さがうかがわれる)
(上で書いた大部荘の公文職の奪取にかかわった佐谷政尊とは同一人物かどうかは明証がないが、名前と時期の共通性から考えて彼らが加西市域の佐谷を名字の地とする同一人物ないしは同族である可能性が高い)
(以上のように考えれば、佐谷氏は淡河川〜美嚢川〜加古川〜万願寺川で結ばれる地域一帯を勢力圏にしていたことになる)
【1351年 佐谷六郎兵衛尉らが敦賀の足利直義のもとに馳せ参じる】
(足利直義は尊氏の手を逃れ、敦賀に逃亡するが、これらの武士は直義与党として敦賀に向かったのであろう。尊氏側についた赤松と敵対する動きを見せていた)
【1376年 幕府が在田上荘内国利・末真両名を佐谷大炊助跡として寺家に返付する】
【1390年 佐谷弾正忠則政らが守護の使者として、播磨国松原荘と福泊荘の境を定める】
(観応の乱の際には赤松氏に叛した佐谷氏もこのころには帰順し、以後守護の御使としてその名をみせるようになる)
加西市史にはこうありました
これによると1300年くらいには赤松には仕えてなかったみたいです
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 07時51分14秒 ) | パスワード |
>【1322年 佐谷六郎左衛門政尊が、大部荘の公文職の奪取を企んだとして訴えられる】
時代的には後醍醐天皇が即位した後で、南北朝の戦いの始まるずっと前ですね。
一応鎌倉幕府に御恩があった、ですね。
14世紀初め、佐谷一族は加西市にいた。
この人の子孫がどうなったのか分かると良いですね。
感覚としては後に赤松に加わったというのは可能性がありますね。
100年後の15世紀南北朝の終わり頃、1441年に赤松満祐が幕府軍に攻められて自害したのだから
この時代に「佐谷五郎」の名前がある。
充分に佐谷六郎左衛門政尊と佐谷五郎が一族というのは考えられますね。
場所も播州あたりということでスグ近くだし。
でも加西市の編纂された本、1冊が8500円あたりだったかしら?高いね。
これはもう1度県立図書館に行ってコピーですね。笑
整理してみます。どこが整理やら?笑
>関東から来たとは聞きましたが
そうすると常陸大掾家がらみで、
源平時代には元々の常陸や下総・上総・安房あたりにいたのかも知れないですね。
佐谷六郎左衛門政尊は加西にいた。
御先祖さまは坂東にいたということで
南北朝のあたりには常陸大掾家ということで足利軍と戦った?
ここで負けて戦国時代に
1.坂東にとどまった?
2.西国に移動した?
坂東に留まった常陸大掾一族は佐竹とともに東北に移動?
立身出世を求めて戦いに参加して西に移動した?しかし黒田に仕えた佐谷とは別流れ?こちらは九州に行ったから。
でも西国に行っても「帰参」ということもありますしね。
事情があって坂東に戻るって人間ですから有り得ます。
>兵庫県加西市
兵庫県の旧家から後醍醐天皇の子の宗良親王の直筆が発見されたという新聞記事を見たことがあります。
常陸に行った後醍醐天皇のお子さんは義良親王だったかな後村上天皇になった人。
当然北畠親房や北畠顕家と一緒に陸奥まで転戦。
顕家は尊氏を九州に追いやって・・・・(ここから尊氏が盛り返すのよね)・・・伊勢あたりで亡くなるのだったかな?
この時に南北朝どちら側か分からないけど佐谷氏が「いた」可能性があるわね。
人間は動くから、九州福岡 〜 秋田県横倉 まで 佐谷氏が活躍したってアリです。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 07時55分37秒 ) | パスワード |
大部荘【おおべのしょう】
播磨国賀東(かとう)郡の荘園。
現兵庫県小野市一帯。
奈良東大寺領。1147年垂水荘など三荘の東大寺領と交換して新たに東大寺に与えられたもので,所属をめぐる国衙(こくが)(国衙・国府)との相論(そうろん)を経て1162年寺領として確定。
1162年というのは源平時代の平家全盛のころですね。源義朝を殺した後。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 08時04分06秒 ) | パスワード |
加西市の歴史から引っ張って来ました。
1059 康平2 加茂郡、東・西に分郡される。(康平2年7月20日)←それで加西なのか
1161〜1163 応保年間 池大納言平頼盛在田荘を賜る。
おやおや、池殿のお名前が・・・・
この人は頼朝の命を救った池禅尼の息子ということで頼朝から特別扱いを受けましたから
この荘園にいつ佐谷村が出来たのか?これが分かると良いですね。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 08時22分43秒 ) | パスワード |
美嚢川
美嚢駅というのを昨日「木造駅舎」の番組で見ましたよ。
総社駅のもう1つ奥という感じで。
位田慶三郎
この名字って珍しいですよね。
本位田というのは宮本武蔵の幼友達の名字として読みましたが。
それこそ美作あたりの旧家って家。
宮本武蔵って美作国の出身で赤松に仕えてた(足軽で)ましたしね。
関が原で敗れて、武蔵も本位田の息子も落人になって、大変だったって内容。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 08時37分32秒 ) | パスワード |
>【1351年 佐谷六郎兵衛尉らが敦賀の足利直義のもとに馳せ参じる】
ということは 佐谷六郎兵衛尉らは 南朝方 だった?
足利直義
この足利直義という人は足利尊氏の同母弟なのに
兄に高師直という頼りにする家老がいたから喧嘩になって 南朝方に付いたり
結局は 兄に毒殺されたのだけど。
足利尊氏に息子がいて
この息子と尊氏の仲が悪くて
それでこの息子は直義の養子になって「足利直冬」って名前になって
この人も 北 → 南 → 北 → 南 ってコロコロ変わって最後は行方不明に。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 08時40分18秒 ) | パスワード |
>【1390年 佐谷弾正忠則政らが守護の使者として、播磨国松原荘と福泊荘の境を定める】
>(観応の乱の際には赤松氏に叛した佐谷氏もこのころには帰順し、以後守護の御使としてその名をみせるようになる)
帰参を許されたのですねえ。
この子孫が 佐谷五郎 だと思いますね。赤松の家臣だから。
観応の乱 および 赤松氏 について読むと良いですね。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 08時44分25秒 ) | パスワード |
そうすると、池大納言平頼盛の頃には加西に来ていたのかもですね。
最初は平家方。
坂東平氏の縁で平家の家臣になっていた?
その後鎌倉に仕え、南北朝時代には北だ南だと時代に翻弄され、赤松の家臣に収まって、戦国時代で黒田家に仕えたのが 佐谷磯五郎さん の御先祖かな?
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 13時21分04秒 ) | パスワード |
http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20094838,00.htm
ライブドアの社長さんが佐谷姓ですって。
似てますか?
笑
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 13時23分35秒 ) | パスワード |
http://company.nikkei.co.jp/news/news.aspx?scode=6826&NewsItemID=20100318NSS0198&type=2
コネクターの本多通信工業は17日、佐谷紳一郎副社長(52)が4月1日付で社長に昇格する人事を発表した。宮崎博巳社長(62)は代表権のない取締役となる。パナソニック電工出身の佐谷新社長のもと、4月から始まる中期経営計画を新たな経営体制で実行する。昨年から主力のコネクター事業強化のためパナソニック電工との資本業務提携など連携を強めていたが、その動きをさらに加速する。
佐谷 紳一郎氏(さたに・しんいちろう)81年(昭56)関西学院大経卒、松下電工(現パナソニック電工)入社。06年松下電工インフォメーションシステムズ(現パナソニック電工インフォメーションシステムズ)取締役。08年本多通信工業取締役。09年副社長。大阪府出身。
皆さん、頑張っていらっしゃるじゃないですか。
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 13時27分19秒 ) | パスワード |
もうお1人。
http://genereg.jp/html/staff/saya.html
この方は「さや」さん。
神戸の御出身だそうで。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 13時54分33秒 ) | パスワード |
思わぬところで<さたにさん>発見!
http://www.the-seniors.com/hinkaku_002.htm
● 佐谷 智(さたに さとし)氏 51才
DATA: 株式会社宝金堂 専務取締役
岡崎城下まち都心再生協議会 会長
佐谷氏が専務を勤められる宝石貴金属店の株式会社宝金堂(ほうきんどう)は、岡崎城にほど近い康生通り商店街にある。
店舗を訪れるとウインドーに記された「創業明治37年」の文字が眼に飛び込む。まずは、宝金堂の成立ちについてが話題となった。
佐谷氏:「1600年の関ケ原で佐谷家は徳川方に寝返ったんです」
せ、関ヶ原!では、宝金堂さんのルーツは実は戦国時代?
佐谷氏: 「いや、まだその時は武士。勝利した徳川とともに本家は
江戸に移り、新家のウチだけが岡崎に残ったわけです。
しかし、泰平の世が続くと武士も生活が苦しい。
そこで200年位前に武士をしながら”飾り職人” としても仕事
を始めたと。それが”宝金堂”の始まりです」
では、なぜ「創業明治37年」と?
佐谷氏: 「200年位前といっても日付が定かでないので、私の祖父の
誕生日を会社としての創業にしておくかということに(笑)。
戦前から貴金属を取扱い始め、カメラ・時計は戦後からです」
ということは
旧赤松家臣?
その時の赤松の主人は赤松広英で良いのかな?
赤松広英は最初は西軍で
後に東軍として戦ったのに、家康から切腹させられてしまった人。
http://www4.ocn.ne.jp/~knagai/new_page_4.htm
赤松広英は永禄五年播磨竜野城主・赤松政秀の二男として生れた。
その後、天正13年(1585)豊臣秀吉の命によって三万八千石の但馬・竹田城主となり、領内に善政を布いた。
不作の年は免税をしてやり、桑を植えて養蚕を奨励し、絹織物の技術をとり入れ、また領内各地に振学塾兵・武館を建てて武道を奨励した。
大森地区が不作で悩んだ時には、六年間も減税して領民を感激せたという。
そのいずれも儒教倫理により領民に接し、まことに優れた領主としての広英の人間像が、今でも但馬の地に残っているという。
広英は、関ヶ原役には石田三成に加勢して徳川勢の丹波・田辺城主の細川藤孝を攻め、徳川家康の怒りにふれており、その後因幡鹿野城主亀井武蔵守とともに、鳥取城の宮部兵部少輔を攻めて、鳥取市内を焼野ガ原とした。
此の事徳川家康の気に入らず、治国撫民を専一とすべき時にあたりて、此の乱暴を働くとは何事ぞと、お叱りを蒙ったので、亀井は「いや、あれは赤松のした事で御座る」と罪を赤松にかぶせてしまった。
その責任を一身に負って、徳川家康から切腹を命ぜられた広英は、慶長5年10月28日真教寺で39歳の若い一生を終えた。
広英の導師は、当山四世如蓮社真譽上人で、引導焼香され、戒名は「乗林院殿前左兵衛尉可翁松雲大居士」と記されている。
その遺骸は雁金山の麓に埋めたのであるが、其後風雨の夜など、赤松の怨霊が出て、誰彼となく往来の人を悩ましたという。
このことについて「古代真教寺記」には「左兵衛尉自殺シ玉ヘハ家臣トモ御遺骸ヲ湯所ノ山ノ麓ニ葬リ諸士皆但馬ニ皈ル此赤松殿怨念ニヤ城下ノ人ニツキ崇テ我コソハ赤松カ悪霊ナリト名乗出玉フ人恐ルルコト限ナシ備中殿時代又光政公時代出玉フ終ニハ神ニ祝ヒ祠ヲ立歳時ニ神具ナト備ヘシカハ憤恨モ薄クヤ成ニケン近世ニハ荒玉フコトナシ祠ヲモ治弟ニ造リ替ヘ今ハイミシク成ケレハ神慮モ悦ヒ玉フ覧ト覚ユ当時ハ赤松大明神ト額ヲカケ鳥居ヲ建ツ別当ハ山伏ノ持ニテ多門院ト云」と記されている。
だけどなんで岡崎?
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 14時11分27秒 ) | パスワード |
どうして岡崎に佐谷氏がいるの?
と考えてみました。
多分関が原の後、姫路城主に、(池田家の後に)、本多家が入ったから
この時に縁が出来たのかな?
その後、岡崎の本多家に仕えたのかな?
[50] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月08日 15時03分30秒 ) | パスワード |
そういやセシールの社長(もと?)も佐谷ですね
親族かどうか分かりませんが
帰ったらまた書き込みします!
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 16時04分55秒 ) | パスワード |
はい
楽しみにお待ちしています。
加西市に佐谷公民館があるんですねえ。
飛鳥時代の538年 仏教が伝わる
後藤山古墳(倉谷)・愛染古墳(佐谷)が築造される。
で、この愛染古墳は:以下コピペ http://kirinosato.fc2web.com/KASAI-rekisisanpo.htm
古墳時代後期(7世紀中期)の円墳で無袖式横穴式石室で組合わせ式家型石棺。須恵器が出土しています。石室内に石棺も納めて在りますが、此れは加西市佐谷町字上天寺のオーセントゴルフ場から移築され、開口部を南から北の公園内側に向きを180度変えて復元保存されています。
旧加西郡在田郷は播州赤穂範浅野家の”飛び地領”であった。
へえ〜
思わぬ名前が出て来ましたね。
1番下の野上城の書き込みで
「北方に在る笹倉城の在田氏・笹倉氏との関連が判れば、
在地土豪と赤松氏との関連が考えられ、城史は更に遡って・・・・・・!!?」
とありますが
やっぱり加西市史料は欲しいですね。笑
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 16時08分12秒 ) | パスワード |
愛染古墳
径約18mの古墳時代後期の円墳で、加西市佐谷町字上天寺から玉丘史跡公園内に移築復元されました。無袖式横穴式石室・組合せ式家型石棺があり、須恵器が出土しています。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月08日 16時20分30秒 ) | パスワード |
>北方に在る笹倉城の在田氏・笹倉氏との関連が判れば、在地土豪と赤松氏との関連が考えられ
つまり佐谷氏も土着の豪族だったのが赤松家と関係が出来て赤松の家臣になっていった・・・
かな?
そうすると、いつの時代に佐谷氏が土着したのか?
可能性として
鎌倉幕府時代?
または
その前の池殿平頼盛の時代?
または
もっと前?
とにかく地名の「佐谷」というのが常陸大掾家がらみなのか
もともと播州には「佐谷」という地名があったのか?
ここがハッキリしたらいいですね。
だいたい
地頭が送られて、その村の名前が地頭の名字からつけられる、ってありましたから。
状況証拠からは
常陸大掾家の佐谷氏が西に来て住み着いた
と思うのですけどね。
ココん所はその土地の歴史的史料で裏打ちされなきゃ意味がないですから
加西市の昔の藩制の時代
武士(その他の人々もですが)は出自を提出していますから
家紋も
分限禄に載ってると思うのですけどね。
これが手に入ると良いですね。
[54] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月08日 21時46分39秒 ) | パスワード |
>空の青海のあをさん
家紋について思ったことを少し
うちの家紋は「○に違い柏」なんです
で、都合良く解釈すると
坂東平氏が関西に来て、伊勢平氏となる
で、三重県の伊勢神宮の久志本氏も「○に違い柏」なんです
伊勢神宮にあやかって、家紋を「○に違い柏」にしたのかなと思ってます
ここからが気になってることです
浅野家でたしか「○に違い柏」を家紋にしていた人物がいたと思うんですよ
数年前にどっかで見ただけなので名前は忘れてしまいましたが…
山崎やったかな????
[55] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月08日 21時53分52秒 ) | パスワード |
ちなみに…
昔、霊媒師さんに見てもらったことあるんですが
その人が言うには
「先祖は藩主です」らしいんですよ
ま、霊媒師の言うことなんでねw(佐谷藩って言ってたけど、そんな藩存在しないですし)
[56] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月08日 21時56分00秒 ) | パスワード |
こんな人物がいました
佐谷隆斎 すけたに-りゅうさい
?−1669江戸時代前期の儒者。
筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田長政の家臣。林羅山(らざん)の門にまなび, のち藩の儒官となる。寛文9年6月死去。名は俊直。通称は五郎太夫。
藩を調べてたら出てきました
[57] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月08日 21時58分54秒 ) | パスワード |
こんなものが!
佐谷 木造十一面観音立像
平安時代の伝教大師(最澄)作と伝えられる観音像です。像高175cmで桧木の寄せ木で作られています。菩薩の顔と、頭頂部に如来面一つ、その周りに10の菩薩面が配されています。小振りの鼻と唇で、ふくよかな頬をしており、穏やかで清楚な印象の像です。
観音堂の地名はこの像から由来すると考えられ、伝教大師開基とされる建正寺の隆盛を示す、貴重な仏像です。
この観音像は櫃の中に、バラバラの状態で保管されていたものを、昭和29年に専門の仏師による修復を受け、現在に至っています。
安置される観音堂付近には、大日堂・薬師堂・経塚盗掘群・伝教大師堂など濃密な仏教史跡があります。
昭和29年 県文化財に指定(第1号)
近くに薬師寺ってことは、播磨ってことですし
佐谷と言う地名は平安時代にはすでにあったということになりますね
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月09日 04時19分05秒 ) | パスワード |
>佐谷と言う地名は平安時代にはすでにあったということになりますね
そうかも知れないし
そうではないかも知れないです。
平安時代に既にあったとすると
平家がらみだったかも知れないし
そうではなくそれ以前からだったかも知れないし。
数十年前に見ましたが「日本地名辞典」というのがありました。
こういうのに、その地名が、いつの時代からかというのが書かれているなら参考になりますね。
県立図書館なんかにいらっしゃったら、捜してみてください。
>佐谷隆斎 すけたに
福岡の糟谷郡の佐谷は「さたに」と読むそうですよ。
と、いうことは
この佐谷隆斎さんは どうして「すけたに」なんでしょう?
masamichiさんの「さたに」姓は福岡の佐谷さんと近いのかしら?
謎
>昔、霊媒師さんに見てもらったことあるんですが
>その人が言うには
>「先祖は藩主です」らしいんですよ
>ま、霊媒師の言うことなんでねw(佐谷藩って言ってたけど、そんな藩存在しないですし)
「藩主」というのは「豪族」という意味だったかも知れないですしね。
霊媒師というのはイメージで見るんでしょ。
だからイメージとして「その土地の有力者」という意味だったのかも知れないですしね。
「戦い」の場をイメージで見てたかも知れないし。
霊媒師も細かい所は分からないんじゃないですか?
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月09日 05時15分15秒 ) | パスワード |
建正寺(けんしょうじ) 福岡県糟屋郡須惠町上須惠
建正寺(けんしょうじ)
天台宗、佐谷山。通称、佐谷観音。延暦23年(804)最澄が一樹三体の大日如来を彫り、その末木の大日如来を佐谷に建てた宝楼閣という堂に安置し、同時に十一面観音を堂舎とともに建て安置開眼したと云われている。観音像は、十一の面に人びとの苦しみを救う力を秘めているといわれ、木造漆箔の像です。発見当時は、虫喰いのためにバラバラの状態で長持ちのなかに納められていたそうですが、修復して本尊として安置され、地元の人たちの尽力により県の有形文化財に指定されました。この十一面観音立像は秘仏で毎年4月に開帳される。
「佐谷山」というのがいつからのネーミングか分かると良いですね。
延暦時代から?
そうすると常陸の佐谷氏はこの天台宗がらみのネーミングかも知れないですね。
とにかく史料を読み込まないといけませんね。
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月09日 15時42分14秒 ) | パスワード |
佐谷(さや or さたに)
郵便番号では福岡の佐谷は「さや」になっていましたが
http://monokatari.jp/isitaki/file001.php?itemid=2941&catid=560
で 佐谷 は 「左谷 vs 右谷」 から 佐谷 になったって書いてあります。
以下コピペ:
むかし、若杉山のこちら側を左谷、むこう側を右う谷と呼んでいた。
左谷が今の佐谷、右谷が今の若杉(旧勢門せと村)である。
もう1つ驚いたのは:以下コピペ
粕屋町<<<大隈>>>の丸山古城の伝説で、丸山古城は高鳥居城の出城の一つである。高鳥居落城の折、丸山城も落ち、杉家の姫君がここで命を失ったとされ、ふもとに黒殿くろとの神社としてまつってある。かくれていた姫はカゼをひいていてセキをしたため見つかったことになっており、黒殿様はカゼを治すという信仰がある。ここのお祭りが毎年十二月二十九日で、少年だけがおこもりをして姫の霊をなぐさめている。年末に落城したらしい。
この「大隈」ですが
他のスレッドに名のある書き手の「隈さん」の御先祖さまは本姓「平」の平家で俗姓が「隈さん」です。
本当に日本の名前(地名とか名字)というのはややこしいです。
粕屋町が平家の息のかかった所というのは有り得るし。
元々は「右谷・左谷」の「さや」だった。
それが「佐谷」になったのは?
1。建正寺のせい?
2。常陸大掾佐谷氏のせい?
3。佐谷磯五郎の先祖のせい?
でも、この「人為的変化」というのが面白くなりましたね。
さたに・さや・すけたに
この微妙な差がアイデンティティということですから
何か決定的な理由があったのでしょうね。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月10日 05時55分34秒 ) | パスワード |
http://www.satani.org/sur/sur035.html
1番下のパラグラフ:
さて名字の由来については大田亮氏の『姓氏家系大事典』(角川書店)があり、
これでわたしの佐谷という名字をひいてみると紀伊の国那賀郡打田坂本村の大百姓で、
戦国時代の織田氏の紀伊侵入の際、織田七兵衛に従って雑賀党と戦って戦功があったそうな。
ゲロゲロ
これって郷土の裏切り者ってヤツかあ。
まあ、為政者が誰であろうが庶民としちゃ知ったことじゃないだろうけれど。
と、ありますが
>紀伊の国那賀郡打田坂本村の大百姓
那賀郡というのが笑えますね。
常陸の那賀みたいで。
ま、紀伊と常陸あたりは結ばれていたようですから。
紀伊の醤油は野田の醤油になっていきますから。
それより<坂本>って坂本冬美の出身地でしょうかねえ?
笑
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月10日 06時09分58秒 ) | パスワード |
ちょっと調べていたら金沢大学の方でこんなのがちょっと引っ掛かりましたよ。
<<常陸大丞次郎平経幹が、舎弟時幹と所領常州佐谷郷内給主分をめぐって争った一件>>
これ以上はわたくしのPCではパワー不足で見られないのですが。
Title: 鎌倉期の奉行人について (三)
Other Titles: Bugyônin(奉行人) in the Kamakura (鎌倉) Age (3)
Authors: 梅田, 康夫
Umeda, Yasuo
Date of Issue: 31-Mar-2010 ← 今年ですね
Publisher: 金沢大学人間社会研究域法学系
Journal: 金沢法学 = Kanazawa Law Review
ISSN: 0451-324X
Volume: 52
Number: 2
Start page: 1
End page: 23
URI: http://hdl.handle.net/2297/23724
Type: Departmental Bulletin Paper
Version: publisher
Appears in Collections: 52巻2号
Please use this identifier to cite or link to this item: http://hdl.handle.net/2297/23724
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月10日 06時17分45秒 ) | パスワード |
2010年3月31日 ... 常陸大丞次郎平経幹が、舎弟時幹と所領常州佐谷郷内給主分をめぐって争った一件である。その経緯等について . は省略するが、傍線部分からわかるよう ...
· dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/23724... dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/23724/1/AN00044830-52-2-1.pdf
「平家」関連の本 - Welcome to
219 平家物語から浄瑠璃へ 敦盛説話の変容 佐谷真木人/著 慶応義塾大学出版会 2002 10 4200. 220 山人の賦、今も 宮崎県椎葉村の暮らしと民俗 飯田辰彦/著 河出書房新 ...
www.asa-kikaku.com/hk03k.htm
地部/常陸國- Kojiruien
2010年4月21日... 郡也、南野庄ヲ新治ニ屬ス、古ノ筑波茨城二郡ノ地也、佐谷郡ヲ新治ニ屬ス、古ノ筑波也、北郡ヲ新治ニ屬ス、 古ノ茨城郡也、南郡河内滑川以南ノ地ヲ ...
· ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%9C%B0%E9%83%A... ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%9C%B0%E9%83%A8%2F%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9C%8B
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月10日 06時33分03秒 ) | パスワード |
故事類苑 地部・常陸国
これ面白かったですよ。
真壁ってソコから来てたのかって。
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%9C%B0%E9%83%A8%2F%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9C%8B
〔常陸風土記〕
白壁郡〈東筑波郡、南毛野河、西北並新治郡、〉
〔新編常陸國誌〈九郡名〉〕
眞壁郡 倭名抄云、眞壁、〈萬加倍〉又風土記、白壁郡ニ作ル、清寧紀天皇ノ御名ニヨリテ、白髮部ヲ諸國ニ置ク、思フニ此地亦其一ニ居ル、蓋古新治國内ニ屬ス、風土記行方郡條ニ、新治國小筑波之岳ト云フコトアリ、行方ノ方ヨリ筑波ヲ望ンニハ、本郡其ノ山背ニアレバ、宜ク本郡ヲ擧クベキニ、新治國ト稱セルハ其始新治ヲ割テ一郡トセシコト明ナリ、又續日本紀、延暦三年詔、先帝ノ諱ヲ避ケ、白髮部姓ヲ改メテ眞髮部トセリ、本郡白壁ヲ眞壁ト更メシモノ、蓋此時ニアリ、此國造ハ絶テ見ル所ナシ、今昔物語、康保、天延ノ頃、本國相撲ノ最手ニ、眞髮成村、及子爲成アリ、長元中、源頼信ノ平忠常ヲ伐タル時、河ヲ渉リテ先導シタル眞髮高文ハ、若クハ本郡郡司ノ族ニモヤアラン、風土記倭名抄ニ據ルニ、是郡東、筑波郡南、毛野河〈按蓋方位ノ大概ナリ、地河ニ至ラズ、〉西北、並新治郡ニテ、神代、眞壁、長貫、伴部、大苑、大林、伊讃等ノ七郷ヲ管ス、文祿ノ檢地ニ、新治西郡、伊佐ノ地ヲ加ヘ、元祿中、西河内郡ヲ併セテ、郡境益廣マレリ、其地東ハ足尾、加波ノ諸山ヲ以テ新治郡ヲ限リ、西ハ絹川ヲ以テ、下總結城郡ニ界シ、北ハ茨城郡、及下野芳賀郡ニ隣リ、南ハ筑波郡、及下總豐田郡ニ接シ、東南ハ筑波山下ニ至リ、二百十八村、十二萬五千三百四十餘石ヲ領ス、
清寧紀天皇って何?誰?
笑
そうすると「佐谷」というのも古代から?
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月10日 06時34分36秒 ) | パスワード |
これで検索したら「佐谷」がこれだけ引っ掛かりました。
地部/□附江戸 (79d)
地部/因幡國 (79d)
地部/常陸國 (79d)
地部/渡 (79d)
[66] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月10日 22時36分36秒 ) | パスワード |
佐谷って地域は全国に数ヵ所あるみたいですね
たしか鳥取と兵庫県の境には「佐谷峠」ってところもあるみたいですし
加西にある佐谷村は行ってきました
昔はその佐谷村にある山の頂上に佐谷城がありました(別名・別所城、河内城)
この佐谷城は別所氏が建てたみたいで、佐谷氏は関係ないのかもしれません
ですが、この時代に佐谷尊政は存在し、土地を納めていました
なのでなんらかの関係はあると思ってます
紀伊の坂本村の大百姓
とありますが、これは紀伊の名族の佐谷と関わりあるのかな?
織田に従って雑賀と戦い戦功がありますか…そうですか…
まぁ茨城から伊勢平氏になり、そこから派生して複数の佐谷がいると考えるのが自然かな?
うちの佐谷はどの佐谷なんやろうか…?
[67] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月11日 00時17分32秒 ) | パスワード |
もともとは関東で佐谷(さや)だったみたいですが、関西に来てから佐谷(さたに)に変わったみたいです
(本家の人の話)
それがほんとなら、関東のさやさんと関西のさたにさんは血族ってことですね
九州のすけたにさんはよく分かりません
(と言うか、最近すけたにさんの存在を知りました)
加西市図書館で佐谷尊政のことは調べたのですが、ルーツは分かりませんでした
たしかこの佐谷尊政を調べてる人が神戸大学にいたと思うので、その人の本を探してみます
[68] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月11日 00時22分54秒 ) | パスワード |
福岡の佐谷と平家の佐谷は関係ない?
http://monokatari.jp/isitaki/file001.php?itemid=3026&catid=591
ま、この佐谷と黒田藩の佐谷とは関係なさそうですけどね
地名だけは数多くありそうです
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月11日 03時56分21秒 ) | パスワード |
清寧天皇って日本史にありました。
恥
第22代天皇
在位 480年2月11日 - 484年2月27日
在位中の時代 古墳時代以前
在位中の皇居 磐余甕栗宮
別名 白髪皇子
白髪武広国押稚日本根子天皇
白髪大倭根子命
出生 444年?
崩御 484年2月27日
陵墓 河内坂門原陵
先代 雄略天皇
次代 顕宗天皇
父親 雄略天皇
母親 葛城韓媛
清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年(444年)? - 清寧天皇5年1月16日(484年2月27日))は、第22代の天皇(在位:清寧天皇元年1月15日(480年2月11日) - 同5年1月16日(484年2月27日))。名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月11日 04時24分06秒 ) | パスワード |
>昔はその佐谷村にある山の頂上に佐谷城がありました(別名・別所城、河内城)
別所といえば 別所長治 ですね。
最初は織田に従っていたけど秀吉に反発して妻の波多野側について播磨以西を反織田に変えた人物。
これで 毛利 vs 織田 の大戦さになりました。
秀吉の「三木の干し殺し」に遭って降伏して切腹したんじゃなかったかな?
この人はなかなか立派な辞世の句を詠んでいます。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」。
23歳ぐらいで亡くなったと記憶しています。
この時代でもう1人有名人というと
清水宗治ですね。
この人もなかなかの人物で 岡山の総社の人ですね。
清水城から高松城に移って「高松の渇え殺し」(だったかな?)に遭って切腹した
戦国時代の武士の鑑と言われた人物ですね。
秀吉は織田信長暗殺の件を知っても清水宗治の件が片付かないと動けなくて
この人がもう少し頑張れたら天下は明智に転んでたかも。
この清水宗治の辞世の句も有名です。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士<もののふ>の 名を高松の 苔に残して」
[71] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月11日 04時40分19秒 ) | パスワード |
>福岡の佐谷と平家の佐谷は関係ない?
http://monokatari.jp/isitaki/file001.php?itemid=3026&catid=591
>ま、この佐谷と黒田藩の佐谷とは関係なさそうですけどね
いえいえ
逆に「大あり」になったのかも。
上に「総社」のもう1つ向こうの駅の名なんて書いたりしましたが
なんだか御先祖さまがウロウロなさっていらっしゃるような。
笑
佐谷磯五郎さんの御先祖は黒田側ということで福岡について行ったんじゃないかな?
それで左谷が佐谷となったのかも。
黒田官兵衛さんは
息子の長政を織田に人質に出して(結局は秀吉が預かって命が助かった)
織田信長に叛旗を翻した荒木村重の説得に有岡城に行って幽閉されて(足が萎えてしまった)
織田信長は黒田官兵衛が裏切ったと思って松寿丸(長政)を殺せと秀吉に命じて
黒田父子は大変でした。
戦国時代に佐谷という人物が活躍してても少しもおかしくないです。
本当に地元の編纂した史料を読み込むことです。
人間は距離を動くし、人間の間もアッチにつきコッチにつきと動くし、
特に戦国時代は味方になったり敵になったり。
また江戸時代には各藩の殿様は土地の名家の子孫を探し出して召し抱えましたしね。
その縁で親戚が召し抱えられたり。
「谷」という字は確かに関東は「や」・「やつ」って読むそうですね。
扇ガ谷とかね。
うちの先祖がらみでも鎌倉幕府関係者の「谷殿」を「やつどの」と読みます。
日本の戦国時代という激動の日々に御先祖さまが頑張って名を残したのかなと思うとロマンですね。
[72] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月11日 19時39分02秒 ) | パスワード |
>いえいえ
逆に「大あり」になったのかも。
なるほど!!!
それだとかなり関係ありですよね!!!
逆の見方はしてなかったです
今まで一人で調べてたくらいだと、南北朝時代くらいしか分からなかったんですが、ここに書き込んで戦国時代あたりも分かってきてほんとにうれしいです!
(ま、それが先祖かどうかは分かりませんが)
たしか300石でしたっけ?
300石あれば名前が残ってる資料があってもおかしくないですよね
(逸話があればですが)
播州の清水とか別所とかはかなり有名ですよね
その人物と関わりがあったのかな?
黒田如水の配下なら会っててもおかしくないし
ちょっとそっち方面から調べよかな
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月12日 03時36分03秒 ) | パスワード |
>300石あれば名前が残ってる資料があってもおかしくないですよね
350石だったような?
あのレスは明治初年の黒田家分限帳からの転載ですから
もっと前の時代の分限帳が見られると良いですね。
加賀藩なんかネットで公開してますしね。
尾張藩は子孫に限ってたまに公開しています。
分限帳は地元の史談会なんかが纏めて本にしていますよ。
県立図書館とか地元の(古くからの)本屋さんに訊けば良いと思いますよ。
とにかくその地の教育委員会にコンタクトすれば分かりますよ。
>播州の清水とか別所とかはかなり有名ですよね
>その人物と関わりがあったのかな?
>黒田如水の配下なら会っててもおかしくないし
>ちょっとそっち方面から調べよかな
清水や別所の記録を読めば「佐谷」という名の人物が1人2人は出てますよ。
赤松の所で出てるんですから。
佐谷一族もバラバラになって、ある人は清水に、ある人は別所に、ある人は黒田に、組みしてたんですよ。
黒田組に入った人はたまたまココで磯五郎さんという子孫の名が出た。
名を残す、ってこういう事でもあるんですね。
関西には <さや> <さたに> 結構いるじゃないですか。
日本全国で 448軒しかないそうなのに。どこかで読みましたよ。
黒田家の江戸時代の最初の分限調べで
先祖は誰か、家紋は何か、そういうのを藩に提出していますから
こういうのが手に入ると良いですね。
とにかく戦国時代を読んでみてください。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月14日 05時18分30秒 ) | パスワード |
平家の落人伝説を検索していたら思わぬ書き込みに遭遇しました。
なんで「横倉」?
高知県〜愛媛県〜徳島県の山地一帯高知県の越知(おち=落ち?)町にある横倉山に安徳天皇陵参考地がある。
またその周辺に県境とは無関係に屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲したとの言い伝えがある。
横倉山の前を流れる川を仁淀川と名付けたほか、京都ゆかりの地名が多く存在する。
当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした。
歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常では説明が付かないものの、安徳天皇の墓であるという確証はない。
ただし周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく石に名前を書いて並べ置く風習があったがこれは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致するうえ香川県の屋島→徳島県の東祖谷→と逃れた平家一門が最後に住み着いた場所である可能性は高い。
愛媛県にある平家追討軍が引き返したという地にはひっそりと「平家終焉の地」の碑があるがそのすぐ南には仁淀川が流れ平家の隠れ里がある。
村おこしや明治以降の尊王思想でできた派手な周辺施設の多くは後の創作物と思われ本物の末裔は余りの不便さでほとんどは都会でひっそり暮らしている。
[75] | Masamichiさんからのコメント(2010年07月15日 12時02分57秒 ) | パスワード |
ほうほう
それは興味深い話ですね
「佐谷」と言う名前からすると、関わりあるかどうか分かりませんが、四国は近いですし(大阪在住)、尊政とかは播州なので、船ですぐそこですしね
>本物の末裔は余りの不便さでほとんどは都会でひっそり暮らしている。
これだけ読むと、なんとなくうちの先祖かなって気もしますけどね(^^;
どの時期に関東から関西へ移動してきたのかが分かればもっといろいろ分かってくるとは思います
本家の人の手術が無事終わってから話し聞きに行ってきます
なんか、現在も東京に親族がいるみたいなので、もしかすると結構最近関西に来たのかなとも思ってます
(最近と言っても明治とか大正ですが)
曾祖父の代には大阪にいましたんで
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年07月15日 14時00分20秒 ) | パスワード |
<横倉>というのが引っ掛かりますよね。
同じ流れで分かれたということで、横倉氏は佐谷氏に1番近い一族ですものね。
片や秋田
片や四国
こういう僻地に横倉という名が存在する
それも平家の落人がらみの横倉という地名。
屋島あたりで落人になった横倉さんがいたのかもですね。
ということは佐谷氏も一緒にいた可能性がありますしね。
>曾祖父の代には大阪にいましたんで
やっぱり明治の初めの御先祖さまの除籍謄本を入手なさいませんとね。
もし明治の初めに既に大阪にいらっしゃったなら播州あたりの佐谷氏と関わりがあった可能性が高いですね。
もしかすると播州で秀吉と知り合ってて、大坂方について、西軍の落人になった
ということも考えられますしね。
うちの先祖も大坂方で落人になって後に大坂城で仕事をしてたという経緯がありますから
案外わたくし達の先祖達は「知り合い」だったかもね。
うちの家系書に「佐谷家」から嫁が来たという記録はありませんが
うちから嫁に行ったかも知れないですしね。
とにかく客観的な記録が取り敢えず欲しいですね。除籍謄本。
[77] | 海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月14日 18時55分54秒 ) | パスワード |
新選組の横倉甚五郎は 藤原氏出身 と称しているそうです。
出身は八王子堀ノ内村出身で横倉良助の次男。
この人は坂本龍馬暗殺の罪で斬首になっているそうです。
(無実の罪で)
家紋は○に武田菱。
[78] | Masamichiさんからのコメント(2010年09月04日 13時37分40秒 ) | パスワード |
そういや新撰組にも横倉っていましたね
新撰組は好きなのでちょっとうれしいかも
でもこの人はちょっと遠そうです
[79] | sayaさんからのコメント(2011年04月23日 19時58分18秒 ) | パスワード |
私は佐谷(さや)と申します。
生まれは茨城県で、佐谷次郎左衛門尉実幹さんが建てた佐谷城から
車で20分ぐらいのところが実家です。
もしかしたらご親戚かもしれませんね。
うちの戸籍を見ると私のお祖父さんのお祖父さんは佐谷五兵衛さん
という人でした。佐谷五兵衛さんは丸木兼久という武家に一度養子に
行って、丸木家にそのあと嫡子が生まれたため、また佐谷姓を名乗った
らしいです。ですからうちは本家ではないと思います。
似たような名前の方が出ているのでどこかで関係あったのかも
しれないと思いました。
ぜんぜんわかりませんが、高校時代の日本史の歴史地図帳で佐谷氏
というのが奈良時代あたり近畿地方の豪族で書いてあったのを記憶
しています。
こちらで地名になっている佐谷のあたりの地形は美しい谷があると
ころで(主観ですが)、大掾氏がもといた近畿地方の地形に似てい
たのでなつかしさからこの土地に移り住んで、近畿の佐谷とおなじ
名前をこの地につけて名前として名乗ったたのかなどと空想してい
ました。
横倉氏も馬場大掾資幹の孫らしいですが、もと居た地名を名乗った
のかななどと思ったりもしました。
取り留めのない書き込み失礼しました。
今後ともよろしくお願いします。
[80] | masamichiさんからのコメント(2011年05月04日 09時28分00秒 ) | パスワード |
>sayaさん
コメントありがとうございます!
元々関東では谷を「や」関西では「たに」と読むので親戚の可能性高いですよね!
ま、かなり遠いですが^^;
sayaさんの言ってる奈良時代の豪族が佐谷政尊の先祖かもしれませんね
でもそれだと時代が合いませんね
桓武平氏は825年くらいに起こりましたけど、奈良時代はたしか700年代だったんじゃ・・・
そうなると近畿の豪族である佐谷は桓武平氏ではないことになる
分からん・・・
うちの先祖は関東から関西へ移ってきたので佐谷政尊とは関係ないんかな??
[81] | masamichiさんからのコメント(2011年05月04日 09時34分02秒 ) | パスワード |
>sayaさん
あ、sayaさんの家紋はどんなのですか?
うちの家は、丸に違い柏です
[82] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年05月04日 12時40分06秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
masamichiさん へ
>奈良時代の豪族が佐谷政尊の先祖かもしれませんね
古代の豪族が地名遷移や婿入り等で中古の名族に吸収されたのが歴史ですから、上古に遡れば全国の佐谷氏は同族の可能性が高いと思われる。
佐谷氏の本貫地がどこかといえば、佐夜中山で有名な遠江国小笠郡(旧城東郡・佐野郡)と推定される。
上古は佐谷(あるいは佐益、佐夜)と呼ばれ、後に佐野(さや)に定め、近世転訛して佐野(さの)となる。
常陸国新治郡佐谷邑も上古は佐野郷と呼ばれている。
遠江国造(物部印岐美の後裔)と同族の佐夜直に始まるのが佐谷氏。
物部大小木に始まる佐夜部直も恐らく播磨国加茂郡佐谷邑発祥の佐谷氏祖で、佐谷政尊は後裔と推測される。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113.htm
佐谷の残存地名として、駿河国城東郡南比木邑勝佐谷(かつさや)の地名が佐夜中山の近くに名残を留める。
安藤広重の「東海道五十三次日坂宿」小夜(さよ)の中山夜啼石の景が有名。
http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/26-c626.html
また西行法師「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」ほか多くの歌人・俳人にも詠まれている。
[83] | masamichiさんからのコメント(2011年05月05日 17時35分15秒 ) | パスワード |
>日本の苗字七千傑さん
なるほどなるほど!
遠江なんですか
常陸だと思ってましたが
ではやはり政尊も大掾からの系統なんですね
その政尊の系統はいつ関東から播州に移ったのでしょう???
うちの家系は昔に関東から移ってきたらしいのですが、それがいつか分かってないんです
政尊の時代だとかなり昔すぎますし…
家紋とかも分かればいいんですが…
[84] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年05月06日 12時07分23秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
masamichiさん へ
>うちの家系は昔に関東から移ってきたらしいのですが、それがいつか分かってないんです
それなりの移動理由があるはずです。例えば、
1.源平争乱時代に戦いで移動して土着した場合。
2.鎌倉時代の新補地頭で坂東から西国へ移動。
3.戦国時代の戦いで新領地へ移動。
4.江戸時代は領主の転封などを除き移動は微少。
以上の状況を勘案すれば、
ズバリ承久の乱(1221)以降です。
貞応2年(1223)新補地頭の得分を定める。
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、関東ほかの鎌倉幕府御家人が新補地頭として西国へ下向。
新補地頭とはいっても、成る可く上古から同族が居たところが本領安堵されたのが真相。
遠国の薩隅日などは下向はしたものの、前任地頭が居座り実効支配が出来たのは室町時代。
守護の島津氏でさえ、初代忠久、二代忠時は鎌倉居住、薩摩に下向したのは三代久経から。
常陸の佐谷氏が承久の乱以降、佐夜部直の後裔佐谷氏が居住する播磨へ移動したのでは?
[85] | masamichiさんからのコメント(2011年05月06日 15時51分12秒 ) | パスワード |
>日本の苗字七千傑さん
なるほど
そう考えると自然ですね
南北朝時代に出てくる政尊などの一門として関東からの佐谷が多く含まれてたのかもしれませんね
しかし自分の先祖の苗字が佐谷ではなく佐夜だったかもと考えるといろいろ広がるかも…
佐夜についてもう少し調べてみます
[86] | masamichiさんからのコメント(2011年05月07日 10時11分38秒 ) | パスワード |
岡崎に在住の佐谷(さたに)さんの話では、関ヶ原で佐谷家は徳川へ寝返り、その後に江戸へ移ったそうです
この佐谷とうちの佐谷は同じかどうか分かりませんが、何か関係はあるかなと
[87] | masamichiさんからのコメント(2011年06月02日 20時44分43秒 ) | パスワード |
お聞きしたいことが、、、
佐谷藩(もしくは佐夜藩、佐野藩、佐益藩)ってあったのでしょうか???
実は昔ある人に、ご先祖は藩主ですって言われたことがあるんです
佐谷藩は探したのですが無さそうですし…
[88] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年06月03日 10時42分25秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
masamichiさん へ
佐野藩は、ありますよ。
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/shimotsuke-sano.html
[89] | masamichiさんからのコメント(2011年06月14日 16時20分40秒 ) | パスワード |
佐野藩はありますね
地域も佐谷発祥の地と近いです
でも佐野は佐谷と関係無さそうな気がするなぁ
[91] | Masamichiさんからのコメント(2013年03月24日 19時48分49秒 ) | パスワード |
「新刊 黒田家譜」
第4巻
○霊相院三十三回忌
享保十三年二月廿ニ日
霊相院三十三回忌の法事を天真寺にて、今朝修行せしめ、太田伊左衛門、
代香を勤む。
宣政以下夫人方 親戚の人々みな代香あり。
宣政ハ杉山四郎太夫、宣政夫人ハ佐谷源兵衛、
こんなのがありました
黒田の家系で佐谷がいたってことなんですかね?
[106] | Masamichiさんからのコメント(2015年01月04日 15時25分55秒 ) | パスワード |
久しぶりにここを読み直すとやっぱり面白いですね。
詳しい人からのレスがかなり知識になります。
なかなか自分では行けない所や資料の違い、発想の違いなど勉強になります。
今の所進展は無いですが、何かありましたらまた書き込みさせていただきます。
[107] | 月さんからのコメント(2018年07月03日 18時57分38秒 ) | パスワード |
わたくし、自身の母方のご先祖さま“さや家”を調べている平成生まれの者です。
突然の書き込み失礼します。
幼少期に祖母から『母方の先祖が“さや”という苗字を持っている。これは刀の“鞘(さや)”からきていて、当時女性で苗字を持つことは珍しかったのよ』と話を聞きました。
幼かったので詳しくは覚えていないのですが…
最近になり実際に戸籍・除籍を調べた結果、
明治43年(1910)生まれのひいおばあちゃんの戸籍から群馬県が本籍で戸主の名に“さや”の苗字が出てきました。
漢字は“佐谷”で、ここに投稿されている苗字と同じでつい書き込みをさせて頂きました。
ここに書き込みをしている皆様がお調べなさって考察されているものと、私の祖母から聞いた話は全く繋がりがなさそうですが…なにかヒントになればと思い、投稿致しました。
[108] | Masamichiさんからのコメント(2018年09月20日 22時41分46秒 ) | パスワード |
>月さん
はじめまして
久しぶりに覗いたら書き込みがあってちょっと驚きました!
佐谷なんですが、関東では「さや」関西では「さたに」と読むらしいです
群馬県ならルーツひとつの茨城県とも近いので移動した可能性もありますね
茨城の佐谷は地名から取った可能性が高いので(佐谷村)違うかもしれません
ですが、桓武平氏の家系なので武士と考えれば鞘が元でもおかしくはなさそうですが
他には紀伊の有名氏族でも佐谷家はあったらしいです
伊勢神宮が違い柏紋でうちの家紋と同じなのでその線も可能性高いかなと最近は思ってます
平家が伊勢に行き伊勢平氏になったのでそのルーツかなとも
群馬県に佐谷さんは10人ほどしかいてないみたいです(ネット調べ)
実際にはもっと多いかもしれませんが、もし本当に10人ほどなら月さんの家族ばかりの可能性が高そうですね
また情報があれば書き込みいたします
[109] | Masamichiさんからのコメント(2018年09月21日 11時32分02秒 ) | パスワード |
読み返すと同じ事書いたりもしてますね
お恥ずかしい…
[111] | Masamichiさんからのコメント(2019年08月27日 16時42分42秒 ) | パスワード |
こんなブログを発見した
https://blogs.yahoo.co.jp/kiyomoto_d/63271488.html
秋田藩に所属してたのか
[112] | Masamichiさんからのコメント(2019年08月29日 21時39分16秒 ) | パスワード |
https://blogs.yahoo.co.jp/kiyomoto_d/65282943.html
常陸大掾の系譜の佐谷から秋田へ行った人とその場に残った人いるみたいです
https://blogs.yahoo.co.jp/kiyomoto_d/63312141.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kiyomoto_d/64522706.html
結構名前が出てきたりしてこのブログ面白い
[114] | Masamichiさんからのコメント(2021年04月17日 15時53分45秒 ) | パスワード |
お久しぶりです。
たまにここを読み直してます。
詳しくて読んでるのが楽しくなります。
また何かあれば書き込みさせていただきます。
[115] | Masamichiさんからのコメント(2021年04月17日 22時24分45秒 ) | パスワード |
笠松城
鎌倉時代に佐谷郷の地頭・佐谷実幹によって築かれました。最初は佐谷城と呼ばれ、南側に天ノ川、北東側に御館川が流れて南側で合流する天然の水堀を持つ要塞でした。実幹は、桓武平氏の一門・大掾資幹の孫に当たります。佐谷氏は2代で滅んでしまい、佐谷城も廃城になりました。
とありました
2代で滅んだと書いてますがこれは間違い?
それとも実幹の系統だけ滅んだって事なのかな?
2011年に書き込みしていただいたsaysさんの系統もこの滅んだ実幹さんの系統とは違うのかも(親族だとは思いますが)
[116] | もずくさんからのコメント(2022年02月27日 13時29分46秒 ) | パスワード |
2代で滅んだの情報ソースはおそらくここで
http://otakeya.in.coocan.jp/info02/imaizusitiku.htm#kasamatu
該当ページでは「重要遺跡報告書」
同一サイト内上位ページでは「重要遺跡調査報告書」
と、表記ブレはありますが
https://www.free-style.biz/book/?p=1121
これがそれっぽい気がします
本の性質上古書店よりは国会図書館または茨城県内の図書館を探すのが早そうです
https://myoji-yurai.net/myojiPrefectureDetail.htm?myojiKanji=%E4%BD%90%E8%B0%B7&prefecture=%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C
人口分布で見ると佐谷郷は地名を残すのみで佐谷姓はおらず
筑波山地を挟んだ雨引山麓・加波山麓にある程度固まっています
常陸に留まった佐谷氏はこの辺りに移り真壁氏と関わりがあったのかも
他にここに出てきた姓では、近くの加茂部地区には北畠姓が茨城県で最も多く存在します
https://myoji-yurai.net/myojiPrefectureDetail.htm?myojiKanji=%E5%8C%97%E7%95%A0&prefecture=%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C
Googleマップでそれぞれの地区を検索してみると、地理的には北畠氏〜佐谷氏〜真壁氏と並んでいますね(集落が成立した時代について考慮しない場合)
加茂部地区の中心的施設である鴨大神御子神主玉神社が佐竹氏ゆかりの神社となっており、そこに北畠姓が多いのが面白いです
[117] | Masamichiさんからのコメント(2022年04月01日 23時21分20秒 ) | パスワード |
>もずくさん
ありがとうございます!
真壁氏は有名なので同じ桓武平氏なら関わりあった可能性が高いですよね。
別のスレッドで桓武平氏の葛西氏などは同じ家紋を使っていたと見ました。
(そこに佐谷氏の名前はありませんでしたが)
そっち方面も調べてみます。
[118] | 通りすがりさんからのコメント(2022年06月09日 15時16分34秒 ) | パスワード |
通りすがりでたまたまここに辿り着いたのですが、何かの役に立てばと思い書き残させていただきます。
黒田藩は所領の16群に代官を配し郡奉行が代官を監視していました。
福岡藩初期(長政の頃)の那珂郡の郡奉行が佐谷久兵衛俊職(知行400石)です。
この人物は大御譜代なので播磨時代以来の家臣の様です。
[119] | Masamichiさんからのコメント(2022年07月09日 17時05分36秒 ) | パスワード |
>通りすがりさん
コメントありがとうございます!
俊職ってなんて読むのでしょう?
トシクニ?
福岡の佐谷は播磨からの繋がりで確実そうですね
関係ないですが、祖父も同じ俊の字を使った名前なので少し嬉しくなりました
[120] | Masamichiさんからのコメント(2022年07月09日 17時13分48秒 ) | パスワード |
400石言う事は身分は馬廻くらいになるのでしょうか?
実際の職業?役職?は分かりませんが、もし馬廻なら武士として戦に出ててもおかしくないですね
それと名前の「俊職」の職なんですが
黒田官兵衛の父親の名前が黒田 職隆なのでそこから取ったのかも
勝手に使っていい漢字なのかは分かりませんが
モトタカなので佐谷俊職の読みはトシモトなのかも
[121] | Masamichiさんからのコメント(2022年07月09日 21時08分56秒 ) | パスワード |
佐谷俊職を調べていてこんなのがありました
「 平井家文書目録」太宰府市公文書館
史料番号16 佐谷家家系
作成者 佐谷与五兵衛、佐谷要人
宛所 平井弥兵衛殿
内容 佐谷要人による佐谷家家系 不連続
どの時代の人か分かりませんが、違う番号には戦国時代の人の事も書かれているようです
太宰府は遠くてなかなか行けませんが、いつか行って読んでみたいと思います
[122] | 空の青海のあをさんからのコメント(2022年07月10日 04時23分12秒 ) | パスワード |
Masamichiさん
>「 平井家文書目録」太宰府市公文書館
>史料番号16 佐谷家家系
>作成者 佐谷与五兵衛、佐谷要人
>宛所 平井弥兵衛殿
>内容 佐谷要人による佐谷家家系 不連続
これだけ詳しい情報があるのですから
https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/dazaifushi-kobunshokan/
〒818-0110 福岡県太宰府市御笠5丁目3−1
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ネットでも問い合わせが出来ますから
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頑張ってね。
わざわざコロナ禍に出掛けることは無いですよ。
ダメ元 ですよ!
[123] | Masamichiさんからのコメント(2022年07月10日 09時42分51秒 ) | パスワード |
>空の青海のあをさん
なるほど!
これ系は実際に行って自分で見て調べないとと思ってました!
太宰府は行きたいと思ってて今月末に福岡行くかもと予定を立ててたので…
ネットでできるなら便利ですね!
早速やってみます!
ありがとうございます!
[124] | Masamicjiさんからのコメント(2022年12月28日 11時10分57秒 ) | パスワード |
一昨日旅行で太宰府に行ってきました。
もちろん太宰府の公文書館にも行き、資料を見せてもらいました。
平井さんと言う方が実物を持っておられ、公文書館の方が連絡をしてくださり中身のデータを見れる事に。
平井家は鎌倉時代から鋳物をされてる家らしく、その資料の中に佐谷家の簡単な家系が書かれてました。
実物は破損も酷く昔の文字なのでなにが書かれてるかわかりませんが、訳してあるものをコピーしてもらい、見ると佐谷の名前が数人ありました。
結果的に平井家と何らかの繋がりがあったかもという事だけが分かり、それ以外の情報は無かったです。
それでも太宰府に名前があるだけで嬉しかったです!
余談ですが、その平井家の文書には源頼朝や後奈良天皇、高橋紹運などからの書状もあり、鋳物関係で有名だったんじゃないかなと。
凄い名前の人達ですよね。
平井家現当主の方に「平井家と佐谷家の関係が分かったら教えて欲しい」と言われました。
なかなか資料がなく分かるか不明ですが、数百年を経て平井家の方とほんの少しでも関われた事を嬉しくおもいます。
[125] | 空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月28日 14時42分29秒 ) | パスワード |
Masamichiさん
良かったですね。
>平井家は鎌倉時代から鋳物をされてる家らしく
ここにヒントがあるように思います。
鋳物系の史料が手に入ると良いですね。
国会図書館に行く機会があったら 調べることが出来るかも ですね。
ただしご自分でちゃんと下調べをしないことには
ですね。
楽しみが増えましたね。
来年からMasamichiさんには良い運がやって来そうですね。
>余談ですが、その平井家の文書には源頼朝や後奈良天皇、高橋紹運などからの書状もあり、鋳物関係で有名だったんじゃないかなと。
ですね。
後奈良天皇は権威はあっても力は全く無かった日本の天皇の代表のような悲運のかたですね。
高橋紹運は立花宗茂の父上ですね。
調べるのが楽しみな日々になりましたね。
ご先祖さまのパワーが来ますように!
2023年が Masamichiさんの幸せな年になりますように!
[126] | Masamichiさんからのコメント(2022年12月30日 18時35分07秒 ) | パスワード |
>空の青梅のあをさん
ありがとうございます!
鋳物関係は全く頭になく驚きました
鋳物なのでお城関係の何かや茶釜とかも作ってたのかな?
佐谷家と関係のある事で思い浮かぶのは
佐谷神社を建てる時に鐘を平井家に頼んだのかな?と想像します
有名な鋳物製造の家なら探せば資料ありそうですよね
今回の旅行では佐谷神社(福岡)には寄れなかったので、次回行く機会があれば行って調べてみます
もちろんネットなどでも
空の青梅のあをさんも幸多い2023年になりますように!
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