[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年04月13日 15時03分16秒 ) | パスワード |
平氏支流の飯塚氏が使用だそうです。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年04月13日 15時08分37秒 ) | パスワード |
この飯塚氏は
本姓桓武平氏
武蔵畠山氏の族で男衾(おぶすま)重宗の裔・重世を祖とする
だと思います。
詳しい人から教えて頂けると良いですね。
[3] | 桓武平氏さんからのコメント(2010年04月14日 17時15分04秒 ) | パスワード |
桓武平氏 良将流 後平氏 違い柏紋 です。
19433 後平 約230 桓武平氏大葦原氏より分かれる。現在、山
形県や北海道に多い。
http://www.myj7000.jp-biz.net/9999/9900f.htm
将平【大葦原氏】【大豊原氏】【後平氏】【黒田氏】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01114.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm
諸家系図纂に「鎮守府将軍平良将−将平(後平、黒田等の祖)
」と。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/kuroda.html
良将流 相馬 九州相馬 下総相馬 奥州相馬 御厨 御厩
高原 大葦原 大豊原 後平 黒田 矢木 戸張 大悲山 信
太 信田 田土部 岡田 泉 飯土江 狩倉 大内 神田 蓬
田 野島 谷中 並河 椎津 盛屋
http://www.digistats.net/z/index.php?%B4%BC%C9%F0%CA%BF%BB%E1
[4] | 箱柳永田さんからのコメント(2010年04月16日 18時17分19秒 ) | パスワード |
良兼流長田で使っている家があります。
長田の多くは三柏ですが、長田の中での区別で
○に違い柏を使う家ができた、と思います。
[5] | Masamichiさんからのコメント(2010年06月29日 14時53分24秒 ) | パスワード |
こんなにレス頂いてるとは
ありがとうございます
返事遅くなってすみません・・・
参考にしていろいろ調べてみます!
[9] | 謎を探求している旅人さんからのコメント(2015年01月18日 18時33分27秒 ) | パスワード |
はじめまして。代々「丸付き違柏」を伝承している平家落人の末裔のものです。
最近、国内の社会問題や犯罪や経済問題や世界各国の争いや差別のニュースや新聞記事ばかりを目にするようになってきて、この現代の世界の日常に嫌気がさしてきたので、毎日の仕事の後の暇な時間を使って、「古すぎて嘘か本当か訳が分からない我が家の伝承と家系」の謎を調べるのを趣味にしています。
ウィキペディアやグーグルでいろいろ調べながら、我が家の家紋と平家方の落人(草野一族)の歴史の謎を探求していたところ、偶然、こちらのサイトを見つけました。皆さんが本当に平家や歴史がお好きで純粋に「丸と違柏」を探しておられるものと安全を信じまして、初対面で無礼ながら、お手紙を差し上げる次第です。
我が家に古くから代々伝わっている伝承ですが、要約すると次の通りです。
>
【 我が家の伝承(おそらく、代重ねが多すぎて、情報に欠落があるかも) 】
「 遠い昔、平家に仕える歌人に草野一平という者がいた。草野一族は、九州で興った。
平家と共に栄えたが、平家が源氏に攻め滅ぼされ、平家が壇ノ浦で滅亡した後、平家狩りを恐れて、一族は川をたどっていくつもの山々を越えて、人里から隔絶された山奥に逃げ延びた。
彼らの苗字である「草野」にちなんで、歩いて辿ってきたその川を草野川と名付け、その落人村を草野村と名付けた。
黒船が来て武士の時代が終わり、もはや平家狩りに会うこともなかろうと、一族の一派は草野村を出て山を下り、現在の岐阜県の我が家(本屋)を構えた。」
というものです。
不思議な事に、どんなに検索で調べても「草野」と「平家」と「落人」の関係が見つかりませんでした。
それで、代々の我が家の家紋である「丸に違柏」と「平家」と「落人」で検索したところ、こちらのサイトに出会いました。
ちなみに、この草野川と草野村が何県なのか伝承になく困っているのですが、岐阜県と滋賀県の県境にある「琵琶湖の東岸の長浜市」から東に向かって山道を行くと、姉川や草野川があります。
その「草野川」の最上流には草野村という限界集落があるので行ってみたところ、村の家々の表札や蔵の家紋に1つも丸違柏がなかったので、がっかりして検索エンジンで気長に探求することにしました。
すると、そのそばを枝分かれして流れる「姉川」の最上流の沢には、「甲津原」(こうづはら)という寂れた地域があって、平家落人や南朝落人の伝説が伝わっているという滋賀大学の教授の論文(昭和48年発表)を見つけました。
その甲津原には「東草野村」という村があるとの事で、論文によれば、昭和48年の当時、すでに甲津原は住民が200人位の限界集落になっている、との事です。
その「東草野村」にウチと同じ「丸と違柏」の紋章を伝承している「草野家」が存在しているかは、まだ行っていないので分かりません。
聞くところによると、琵琶湖周辺地域(近畿地方)では、草野村の草野一族の平家落人伝説を知っている人が多いとのことです。
>
ただ、本来は藤原氏の系統であると思われる「丸と違柏」の紋章と「草野一族」がどういう接点を何時頃に持ったのか、そして「草野一族」の起源と「草野一平」なる人物の事が、どうしても分からないので不思議です。
平将平の落人ネーム「大葦原四朗」が風景的に草野原(雑草のっぱら)に似ている筋の関連も探ったのですが、よく分かりません。
増税アベノミクス時代の現代社会では「どうでもいい」ことだと思うのですが、探求した謎の起源に辿り着くまで、パズルで暇をつぶす感じで、現地を旅して回っておいおい家系図でも書きながら調べてみようかと思う今日この頃です。
何かご存じの物事や情報や謎解きのヒントなどご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。
今後も、こちらのサイトをまめに閲覧させて頂きまして、何か謎を解くための「我々の起源に辿り着けるご指南」など頂けましたら幸いに存じます。
長文失礼
[10] | Masamichiさんからのコメント(2015年01月24日 08時53分13秒 ) | パスワード |
初めまして!
書き込みありがとうございます!
丸に違い柏の情報、興味深く読ませていただきました。
草野家は九州からなんですね。
九州という事は、平家が九州に行き、力を蓄えてる時に出来た家なのかもしれないですね。
うちの性も福岡で存在してましたがそれは戦国末期の黒田家の時代なのであまり関わりはないかな?
また何か分かりましたら書き込みお願いします!
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