[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月14日 16時18分12秒 ) | パスワード |
全然分かりませんが
また引越で荷物が混乱状態で調べられないのですが
笹竜胆でしたら
平氏の北条系の岡野氏が使用していると載っていました。
ですから
源氏だけとは限らないんでしょうね。
長野で宗良親王のお名前が出るのでしたら
それも「伊那」なんて地名が出るのでしたら
バリバリの南朝方ではありませんか。
更に
長野でしたら笹竜胆を使用してても全く不思議じゃないんじゃありませんか?
「浪合記」は是非お読みになってください。
これを読んで感じるところがありましたら南朝方の血ゆえでしょうね。
笑
浪合記は検索できますから。
名字は原田さんなんですか?
では平家方の原田氏が南北朝時代に南朝方の宗良親王に従って転戦して
浪合村で負けて解散して
伊那に住み着いて明治まで落ち着いたのかも知れませんね。
長野県の教育委員会や伊那の市教育委員会から史料を頂けると良いですね。
歴史編纂課に問い合わせてはいかがでしょう?
また、御自分から遡って
明治の初めの御先祖さままでの除籍謄本を取得なさってはいかがでしょう?
取得理由は「先祖供養」とかで。笑
また御先祖に遡る途中で出て来る住所からハローページで原田姓の方にお手紙を書いてはいかがでしょう?
もうすぐお正月ですから
これを機会に一族の方とお会いになってはいかがでしょう?
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月14日 17時51分27秒 ) | パスワード |
<2>の書き直し。
長野県大河原について
http://homepage1.nifty.com/sira/namiai/namiai04.html
時に応永三十一年八月十五日、
信濃国大河原にて尹良親王御生害。
宮が御腹を召された場所なので、
世間では宮の原と呼んでいる。
討死の死骸を埋めて、塚を築いた。
これを、千人塚という。
石塔は、信濃国並合の聖光寺に有るという。
後醍醐天皇 > 宗良親王 > 尹良親王 > 良王君
この順番でお宅さまは南朝に仕えていたと思います。
もし昔から原田さんでしたら
ひょっとすると
頼朝に許された平家の重鎮・原田種直は三河にも住んでいましたから
南北朝の時代に源氏に許された原田家ということで笹竜胆紋を使用したかも。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月14日 17時56分26秒 ) | パスワード |
<3>の書き直し
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101111_53.html
旧姓原田さんのスレッドに笹竜胆紋使用の原田家は出ていないので
もしかすると
笹竜胆紋を使用したのは最近、明治以降、かもですね。
家紋は皆さん知らないだけで
1家に複数ありますし
事情で替えざるを得ないこともありましたし
御曽祖父さま、御祖父さまが転居なさった時に
信濃国出身ということで
紋を「笹竜胆」に替えたのかも知れませんね。
お墓が
川原の石
というのがひっかかります。
どのような謎々が込められているのかしら?
川原 → 河原 → 大河原 → 旧南朝遺臣
かしら?
でも、きっと、どこかに御先祖さまのことを御存知の親戚の方がいらっしゃるんじゃないかしら?
ハローページを手に入れてお手紙作戦で頑張ってください。
浪合から太平洋側に南下すると三河だそうで
東三河には一族はいらっしゃらないですか?
あの辺りにはなかなかの旧家の原田家というのがあるそうですよ。
[6] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月14日 22時13分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さっそくの情報ありがとうございます。ずっと心に燻っていた事の突破穴が開いた気がしました。私事ではありますが、毎晩晩酌をする為、今はまともな返事が出来ないのが残念です。(つまり酔っ払いです)浪合記は以前読んだ事はあります。ただ、その時はまだ源氏のつもりで読んでいたのです(笑)。改めて読み直したいと思いました。除籍謄本は直系は手元にあります。今はアルコール一杯の脳みそが色々妄想してますが、わかる限り真実のルーツを探りたいと思います。大鹿村は地図に見えない距離がある場所です。今年のお盆には他のご先祖様のお墓を見つけましたが、時間の関係で写真に収め日本酒を振舞う位しかできませんでした(泣)。墓地とされた所は固定資産税がかからないので逆に解らない時がありますね。静岡・・・三河国や遠野国は確証の無い中で地理上で最も引っかかる地域です。ひいおじいさんとおじいさんは大鹿村と同じ圏内の下伊那地方で移動していました。伊那市と大鹿村は地図上では隣ですが、伊那市は上伊那という圏内です。時間を作り、足を使わなければいけませんね。原田という姓で厄介に思っていた笹竜胆が以外とヒントをくれそうな気がしてきました。まだまだ、教えて欲しい事が沢山あります。これからも、宜しくお願いします。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月15日 08時17分23秒 ) | パスワード |
上記「浪合記」の9の
永享七年十二月二十九日、良王、津嶋天王の神主の家に渡御。七名字の者共が神楽を奏した。この吉例を末代まで行うようにとのことであった。
同八年正月元旦、雑煮を良王に差し上げる。魚無し。伊勢蛤をあつものとする。御飯は、半白米であった。汁物は、尾張大根の輪切り。なますは、小鰯の干したものに大根を削ったものを入れて差し上げる。この年以降、御流浪は無し。
日本の「雑煮」だか「おせち」だかの習慣の始まりが「コレ」と聞いたことがあります。
これからお正月を迎えるので
なんだか因縁を感じます。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月15日 08時44分30秒 ) | パスワード |
勝左エ門どの
>ただ、その時はまだ源氏のつもりで読んでいたのです(笑)。
いえいえ
それで良いのですよ。
日本の場合はそういう混乱?混同?は当たり前なのです。
○○の時代に源氏の某に従っていたから源氏を称していた、ってあります。
こういう混乱?混同?こそが「日本」なんです。
このサイトの書込参加者のアカコッコさんは尾張の大橋家ゆかりの方でいらっしゃいますから
平家の貞能公の御子孫ですから平氏(平家)ですが
その後
徳川家康公との御縁から、バリバリの源氏でもありますし
藤原家との関係から貴族でもありますし。
その家のアイデンティティになってる時代で、日本の場合は、混乱?混同?があります。
それは名家こそあるわけで、
名も無い奴婢の家の人なら「あそこの家は元は平家なのに源氏を称している」とバカにするでしょうけど
日本の歴史を生きた家なら、ある時は平家に、その後は源氏に、という事実もあります。
もしかしたら新田義貞に従って源氏方だったかも知れません。
義貞ゆかりの姫君を妻に貰い、子をなし、その子が新田に婿に行って源氏になり
、さらに後に原田家に婿に来てたら?
日本ってこんなものですよ。
源平藤橘その他
これをビシッと線で区別なんか出来ません。
昔、藤原氏の悪口を書いた本を読んで
母に「藤原氏は悪いやつらだ」と言いましたら
「そういうことを天に向かって唾を吐くということだ」と言われました。
「お祖母さまは京都の藤原家から嫁に来たのだから、お前も藤原氏の血を受けているんだよ」と。
現在の日本人だったら誰でも殆どの人が源平藤橘その他の血を受けていますよ。
ただ、名字で区別するあたりで、
血については、みんな混じっているんですよ。
わたくしも母方の源氏が好きでしたが
母と雖も「平家は軟弱で嫌い」と言いながら平家バリバリの父と結婚しましたし
父方のホンヤさん宅は徳川家康との関係から源氏だそうです。
うちは雲の下ですから平家で充分です。笑
こんなものです。
これが日本人なんです。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月15日 09時00分28秒 ) | パスワード |
それから名字ですが
いろいろ事情があって名字を変えなければならなかったという時代もあって
ひょっとすると江戸時代に他の名字だったかも知れません。
どこかで原田姓に戻したということもあります。
母方がそうですから。
江戸時代末に許されて本来の名字に戻しました。
家書にはいろいろな名字が書かれています。
紋もいろいろ替えていますし。
勝左エ門どのの御家でも
ひょっとすると
元は九州大蔵の原田家
平家と親戚になって
のち頼朝関係
南朝方で新田に従い
武田に仕え
そして徳川家に仕官し
もうバリバリの源氏方ではありませんか。
源氏の時代の方が長かったのでは?笑
どこかで「笹竜胆紋」を拝領して
今に至る
かも。
その経緯が残念ながら今には伝わらなかったのでしょう。
我が家のように家書に書き記されているのは本当にラッキーです。
でも、必ず御存知の方がいらっしゃいますよ。
「あ、系図?○Xんとこにあるよ」
と御存知の方もいるはず。
早く見つけ出さないと鬼籍に入ってしまいますよ。
酔った勢いで御先祖さまのことなど御紹介くださいよ。
浪合村では刎頚の友だったのですから。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月15日 09時11分34秒 ) | パスワード |
若い頃、さる大家のお坊ちゃま君に見初められまして、
玉の輿だったんですけどね
なんかブレーキがかかったんですよ。
そのブレーキというのが徳川家康です。
みんな南朝方ですが
彼の家は家康と利害関係がありまして、仲悪かった。笑
うちは母方父方共に家康の御蔭で良い日々を送ることが長かったので
先祖から呪縛が来たようですよ。
「何かが反対してた」
今は御先祖さまが「その男との結婚は許さん!」と言ってたのでしょうね。
笑
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月15日 15時25分05秒 ) | パスワード |
>このサイトの書込参加者のアカコッコさんは尾張津島の大橋家ゆかりの方でいらっしゃいますから
尾張の大橋家というのが津島神社の1番の家だったと思います。
良王君の奥さんは大橋家の娘だったように記憶しています。
蜂須賀小六の・・・
お家はお父さんの正妻さんが大橋の娘だったんじゃないかな?
忘れました。
何だったか忘れました。
でも関係があります。
[12] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月15日 19時13分49秒 ) | パスワード |
空の青うみのあを様
沢山の情報ありがとうございます。ただでさえ知識の無い脳みそなのでパンク寸前です(笑)
大河原(大鹿村)は歴史を探るには良い場所だと思います。宗良親王や香坂高宗に関係のある方や、清和天皇を初代として38代目の方、前村長さんは松浦水軍の子孫などなど少し調べるだけで情報がでてきます。めずらしい苗字の方が多い気がします。天保年間までしか、まだご先祖の事はわかっていないのですが、(江戸時代は夫婦別姓でしたっけ?)お嫁に来る前の苗字も過去帳に記されています。38代続いているお宅には宗門人別帳が残っているそうです。う〜ん、後は行動のみ!・・・ってわかってはいるのですが。15年程前に唯一と思われるお寺に行き「原田家は檀家でしたか?」と尋ねた事がありました。その時の答えはNOでしたが、戒名のコピーをお渡しした所、後日、「昔檀家でした」とお手紙を頂きました。残念ながら、現在その手紙が見つかりません(泣)
[13] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月15日 19時21分46秒 ) | パスワード |
でも、そのお寺が笹竜胆だった気がするんです。そして、この間とある忘年会で大鹿村出身の方と隣同士になり(そんな事滅多にありません)、その方の妹さんとご住職が同級生だったと聞きました。何か見えない力みたいなものを感じています。
とりあえず、帰宅する事にします。また、宜しくお願いします。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月16日 04時00分02秒 ) | パスワード |
そうなんですか。
天竜川を挟んで
東が香坂
西が小笠原
で戦っていたのですか。
上杉は足利尊氏の母の実家でしたっけ。
それで管領の上杉が香坂を襲っているんですねえ。
上杉なら当然北朝ですものね。
>何か見えない力みたいなものを感じています。
そうなんですよ。
今、思いますと、
初対面から何か特別な感覚がまとわりつく人がいて
何かの折に御先祖さま絡みだったのか
と後になって今頃分かります。
きっとDNAに組み込まれた先祖の記憶が反応していたんでしょう。
「おう!」「よう!」
なんて先祖の記憶達は挨拶していたんでしょうね。
男女でそれがあれば一目惚れとか運命の出会い(あ、宿命の方か)とかになって
結婚に至るんでしょうね。
>お嫁に来る前の苗字も過去帳に記されています。
うちは家書に「松浦家から嫁に来た」とか書いてあります。
妻がどこの家から嫁に来たかというのは(馬の骨じゃないという事で)意味があったんでしょうね。
>38代続いているお宅には宗門人別帳が残っているそうです。
これは江戸時代の非常に貴重な情報ですね。
耶蘇じゃない、という証拠に。
宗門人別帳に名前が載らないというのは大変な迷惑な存在だったということですものね。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月16日 04時41分41秒 ) | パスワード |
お寺の門が笹竜胆というのは
そのお寺さんは笹竜胆紋関係の有力者の菩提寺だったのかな?
竜胆紋は本来的には村上源氏なんですって。久我家とか中院家、六条、久世、岩倉、千草、梅渓、愛宕、東久世、植松。
宇多源氏では庭田、綾小路、五辻、大原、慈光寺家。
清和源氏では竹内家。
藤原氏では高倉・堀川家。
それが江戸期に清和源氏を称する家が皆さん竜胆紋を使用するようになったそうで
武田は花菱ですね。
江戸期の多用で 笹竜胆=源氏 というイメージがつきまとったそうで
清和源氏の代表紋というのは誤解なんだそうです。
江戸期の大名では
深志8万石の石川家(大久保長安事件で没収された) ← ひっかかりますね
この家は伊勢亀山・常陸下館両藩主の石川家と同族で
清和源氏義家流で河内石川郡出身。
○に笹竜胆、○に三つ篠、蛇の目紋と併用。
他に
清和源氏和賀氏の庶流の常陸国本堂氏が8ついしだたみ紋と併用 いしだたみの漢字は秋の下に瓦=四角の敷き石
備前岡山の池田家が蝶紋と併用
旗本では
松平、馬場。飯塚、上田、松野、野尻、佐脇、松井、本間、山崎、
笹瀬、有馬、久世、別所、本堂、宮川、石川、古橋、木曾、清野、
池田、渡辺、吉川、大橋、岡野、河野、小幡、坂部、千葉、中条、
樋口、一尾、赤松、石野、間瀬、岡本、村越、今小路、浅井、守山。
鎌倉市は戦後、市章を「笹竜胆」を
源氏の代表紋として
源家の幕府開創地たることを誇ろうとして
使用したんだそうです。
誤解を招くね。
鎌倉市は
元は鎌倉山に懸かる枕詞 「星月夜」から 月に星を配した紋章を使用してた
そうです。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月16日 05時00分48秒 ) | パスワード |
上記の公家の千草家が竜胆紋ということで
千草家は後醍醐天皇の側近の貴族でありながら武士ですものね。
千草の娘が嫁に来た?
原田家の娘が千草に嫁いだ?
我が家の母方は楠家との関係から菊水紋を使ってたこともあるそうです。
家紋から先祖を知ろうというのは難しいですね。
江戸時代に名字や家紋を公の場所に登録した分は記録に残りますが
紋も名字も1つだけじゃないですし
明治以降、あんなのはウチの本当の名字や家紋じゃない、
ということで使ったということもありますしね。
江戸時代に公に登録した背景というのはいろいろな事情がからみます。
身分が落ちていたら遠慮して使いたい名字や家紋は使いませんでしたしね。
母方は大坂の役で落人になって隠れ棲んだ時に名字を変え家紋を替えて
これを元に戻すのに物凄い努力や運動をしています。
名字だけは江戸期の終わり頃に戻せましたが。
いろいろな事情があったのですよ。
明治維新で名乗っちゃったもん勝ちというのもあったでしょうね。
それはその時の御先祖さまの思いというのも入ってますよね。
明治の御先祖さまの思いが最短で140年今に至るというのが今の日本人の名字ですね。
中国や半島は「姓」をエンエンと守り続けていて名字が極端に少ないですね。
でも
日本は「姓」が崩れまくって、地名を名字にしたりして、ゴマンと存在して
先祖をたどるのは今の使用名字からは難しいですね。
でも日本の場合は
源平時代はどっちだったかとか、南北朝時代はどっちだったか、とかで
かなり限定出来ますよね。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月16日 11時45分40秒 ) | パスワード |
織田信長という人は自身が家系詐称なんて言われていますが
家来にも大いに奨励して
天正2年(1574年)12月の行賞で
秀吉を筑前守
河尻与兵衛を肥後守に奏推し
(中臣氏の)塙はなわ九郎左衛門直政を原田備中守
簗田やなだ左衛門を別喜右近と姓名を改めさせた。
直政の山城大和守護就任は信長が室町幕府の継承を明らかにしたことを証するものとして重要
だそうです。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月16日 15時56分15秒 ) | パスワード |
書き直し:
この前にも信長が明智や丹羽に九州の名家の名前を与えているのは
九州平定の予定があったから。
日本にとっての名字って、こういう使い方もあるわけで
塙氏の中臣姓も既に立派なのに九州大蔵姓原田氏を与えたり
日本の名字というのは難しいです。
[20] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年12月16日 22時57分12秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
勝左エ門さん へ
笹竜胆紋にご執心のようなので、ひとつ話題を提供。
日本の家紋の源流は、ほとんどがバビロニア起源だが笹竜胆紋だけは例外。
笹竜胆紋はユーラシア大陸北部(ブタペストからハバロフスク辺りまで)が起源でモンゴル帝国の版図と重なる。
この事実に仮託して、「源氏はモンゴル(元)だ」との主張や「ジンギスカンは源義経だ」とのたまう荒唐無稽なヨタ話も横行する。
しかし一概に否定出来ず、神武帝統一以前の本邦北部地域(ユーラシア北方民族居住地域)に伝わった笹竜胆紋を臣籍降下した源氏一族が継承した可能性もある。
笹竜胆紋は、村上源氏、宇多源氏の代表家紋で、清和源氏では石川氏、竹内氏が用いる。
多くの学者は笹竜胆紋を清和源氏の紋では無いと笑い飛ばすが、源頼清は村上源氏の源憲定の養子となったのが事実であり頼清流は形式的には清和源氏でなく村上源氏なのである。
従って頼清流は上字紋を定紋とする家が多いが、替紋として笹竜胆紋を用いている家も散見する。
寺紋では久我家の出である道元に因み曹洞宗では竜胆車紋が多く、清和源氏木曽義仲の孫叡尊が中興の真言宗奈良西大寺では笹竜胆紋を用いる。
後世は、かっては源氏筆頭だった村上源氏にあやかり出自とは関係なく諸氏が乱用する。
笹竜胆紋は下半分は笹紋に似ており、三河・遠江に次いで信濃に多い笹紋使用家が笹竜胆に改変したことも考えられる。
原田氏は本来大蔵姓だが、後世は源平藤橘菅ほか様々な出自を称しているのが実情。
[21] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月16日 23時15分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
忘年会続きで、それが堪える年頃の今日この頃です。今年のお盆に見つける事ができたご先祖のお墓の中に、多分、お墓ではない物がありました。彫ってある文字が「爲長蚦乃塔」でした。年号は文化11年でした。爲長は人の名前?蚦は調べると「にしきへび」とか「うわばみ」とでました。先祖にすごい酒飲みがいて、その人を供養してるのでしょうか?(笑)
ご先祖からの相性、DNAの記憶・・・興味深い話ですね。今の妻は、会った瞬間に一緒にいる事がお互い決まりました。常識的には許されないかもしれませんが・・・別に不倫とかでは無いですけど(笑)
でも、私の家族と妻の亡き母の実家は良い理解者です。遠い場所から来た妻の亡き母の実家は偶然と近く、私の父を知っていた偶然もありました。
私の母は、太田道灌の家系です。母方なので詳しい事は避けますが、幼い頃からお墓参りする、正に由緒正しいお墓の王道みたいな物をイメージしていた私に大河原の今のお墓は子孫として申し訳ない気持ちになります。妻も歴史のある家柄でその気で調べればすぐに解るでしょう。妻の知識的には実家は藤原家・・・停まりでしたが(笑)
名字が変わる話も、母の実家が太田から異なる姓に変わっている事で理解できました。
空の青海のあを様のお陰で自分のルーツ探しに幅がでてきた気がします。
本当に感謝です!
[22] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月16日 23時59分17秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
ありがとうございます。いつも人に会うたびに苗字を記憶して、勝手に使わせて頂いてます。なにか、有名人か返事を頂いた気分です。さっきも妻と色々な苗字で楽しく検索させて頂いていました。(妻はもう寝ましたが・・・)
確かに大河原のお寺は曹洞宗でした。15年程前の記憶で、定かでは無いのですが{家の家紋に似てるな}と思った記憶があります。その後、数年前に何を思ったか父が永代供養を頼みに行き「なんで、うちと同じ紋だ」と住職に失礼な事を言ったと聞いて呆れた思いがありました。で、去年におばあさんの実家の結婚式(一人も知らない超アウェイ状態)に代理出席した際におばあさんの実家のルーツを長老に聞いた所、清水の次郎長一家の誰かが遊んでいった結果と聞き父の常識知らずのルーツも解った気がしました(笑)
自分の正しいルーツ探しに、又、お力を頂けたら嬉しく思います。
これからも宜しくお願いします。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月17日 11時43分58秒 ) | パスワード |
混乱したので4つほどレスを消しました。
>彫ってある文字が「爲長蚦乃塔」でした
これは
1)為長という人物がウワバミだったということを記念して建てた塔
直感では(2)「長蚦の塔と為す」と読むのではないでしょうか? と思ったからです。
墓と塔の違いをずっと考えて
やっぱり「塔」と書いてあるのですから「墓」というよりは「記念」なんでしょうね。
とんでもない酒飲みの男がいたよ、と。
[30] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月17日 19時34分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
色々、考えて頂き、ありがとうございます。確かに祖父、父、私、弟と大酒飲みです。きっと他のご先祖様も。
しかし・・・わざわざ、そんな塔を建てるなんて(笑)
空の青海のあを様の回答に感謝して、また今晩も。DNAですもんね(笑)
[31] | 原田さんからのコメント(2009年12月18日 04時14分54秒 ) | パスワード |
勝左エ門さんはじめまして。
参考にこのようなものがあります。
Googleの書籍検索で「さすらいの後に: 光と夢と愛」と検索してみてください。著者: 原田良子
そこの原田家に伝わる口伝などをまとめたもののようですが、その中で武田方の原田氏で東美濃の岩村城の戦いに加わった原田氏や、下伊那郡下条(下條)村の小松原城主原田氏とか、久保原村などの話が出てきます。
この小松原城やこの武田方の原田氏の存在は詳しくわかりませんが、勝左エ門さんと近そうなので、ひょっとしたら繋がりがあるかもしれません。
(もしかすると胤光や胤定という名前だったようですが、「胤:たね」ではなく大蔵姓原田氏にみられる「種:たね」なのかもしれません。)
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月18日 05時01分43秒 ) | パスワード |
勝左エ門どの
文化文政時代=1800年代初め=の御先祖さまのDNAは今に至るも健在でしたか。
笑
では記念塔を建てた意味がありましたね。
きゃはは
原田さんの
>(もしかすると胤光や胤定という名前だったようですが、
「胤:たね」ではなく ← 千葉氏みたいですものね
大蔵姓原田氏にみられる「種:たね」なのかもしれません。) ← 原田氏はコッチですね
でも、事情で、伊那の原田氏では「胤」を用いた、という可能性はありますね。
例えば、自分の家より家格の高い原田氏に遠慮して「種」を使わず「胤」を用いた、とかね。
それで、どちらの原田氏か特定できますから。
伊那の原田氏はやっぱり南朝方で伊那に定住したのでしょうかねえ。
こういう情報は長野県や伊那市の教育委員会の歴史編纂課で史料を持っているでしょうね。
戦国時代は武田氏に仕えていたのでしょうかねえ?
織田徳川連合軍と戦い
後に徳川氏に仕え、という家史でしょうか?
ロマンが広がりますね。
[33] | 原田さんからのコメント(2009年12月18日 05時47分02秒 ) | パスワード |
■甲斐の原氏
当国の名族にして、一蓮寺過去帳に「応安七年十二月六日、持阿(原氏)。長禄二年十二月二十八日、道阿(原 右衛門四郎)」等見ゆ。下って、原加賀守昌俊あり、一條庄 高畠の人なり。武田信虎、晴信に仕う。又、羽尾記に「原監物、原隼人」あり、一説にこの氏、清和源氏土岐光行の後なりと云う。家紋 桔梗。
又、原大隅守虎吉あり、中山広厳院 天文十二年八月八日寄進状に「原半右衛門虎吉(花押)」と。江戸幕臣に大隅守の裔あり。寛政系譜に「大隅守胤蔵(武田没落後、家康に仕う、法名 日敬)−胤従−胤虎−正胤、家紋 九曜、角切重押器、四菱」と。
■甲州美濃守流
江戸幕府に仕う。寛政系譜に「虎種(虎胤)の四男重国(重胤)−亀蔵重久(親胤)・家康、駿河大納言忠長に仕え 代官−勘右衛門重国(親冶)−勘右衛門親詮−三郎兵衛親貞−六左衛門親克」と。家紋 四菱、丸に横木瓜、十曜。
原氏は藤原氏、清和源氏、千葉氏など様々ですが、
書籍に「原大隅守は原田氏と縁ある人と口伝がある」ようなことが書いてあるので、
原大隅守の裔が「胤」を用いていることから、桓武平氏千葉氏流原氏で、原田氏は大隅守より「胤」を貰ったのかもしれません。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月18日 16時17分06秒 ) | パスワード |
NHKの歴史ヒストリア「新平家家族物語」を見ました。
タイミングも実に不思議な感じがしました。
[35] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月18日 18時55分51秒 ) | パスワード |
原田さん。初めまして。
でも、何か変な気分です。日本でみれば、多い苗字でも原田という苗字の自分が原田さんと他の人に言うのは初めてかな。同級生に一人いたけど名前で呼んでたし。
原田さんデビューかも(笑)
現下条村の小松原城は初めて聞きました。興味がありますね。久保原村も現下条村なのですか?
色々な知識が無いと、ルーツ探しには対応できませんね。情報ありがとうございました。
とりあえず、私は大河原村(現大鹿村)から調べるのが必要なようです。その時に点と点が線でつながる為に、ここでの皆様から情報で武装していけたらと思っています。
失礼ですが、原田さんはどこの原田さんですか?このサイトで何度か読ませて頂いている方ですか?新参者ですみません。もし、宜しかったらルーツ等教えて頂けませんか?
[36] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月18日 19時38分17秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
私の空想上の仮説です(笑)
私の母方のご先祖と思われる方のご兄弟は、刈矢原城城主の太田長門守資忠で武田信玄に落城させられ生け捕りになったとあります。
私のご先祖は武田氏には仕えていない。なぜなら、原田家が武田氏に仕えていたなら、母の先祖が許さないから父との結婚は無かった!
まだまだですね(笑)
それから、伊那の原田氏は何かしっくりこないんです。大鹿村の原田氏の方が嬉しいです。
それに、昨日の「なんとか県民ショー」ってTV番組(番組名忘れました・・・うわばみに変身中でしたので・・・)で伊那市が紹介されてましたけど、なんか伊那って虫ばっか食ってるイメージだったし(笑)
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月19日 01時52分21秒 ) | パスワード |
勝左エ門どの
>なんか伊那って虫ばっか食ってるイメージだったし(笑)
実は上で削除した4つのレスなんですが「爲長蚦乃塔」とは一体何だ?という事をウダウダ書いていたのです。
日本では「蚦」の字って珍しいですよね。
「うわばみ」で調べてた時に江戸時代の言葉のような感触を得て
(おお、これか?!)
と思いました。
文化文政時代に「爲長蚦乃塔」と御先祖さまがお書きなのは非常に当時としては大変イケテタ表現だったのかな?と。笑
でも虫へんで蚦という字は見たことが無かったです。
「蛆」は知ってましたが。
笑
「蛸」とかね。
「蚦」で検索して日本系の言葉でせいぜい出て来たのは「おろち」なんですが
「おろち」では「長おろち」という言葉や名前はアリエナイな、と。
だからヒトの名前じゃないだろうな、と。
だから「お墓」というよりは「記念碑」なんだろうな、と。
>なんか伊那って虫ばっか食ってるイメージだったし(笑)
いつだったか、会津若松を紹介した番組で、
会津の城が落城?開城?したのは人糞の臭いに耐えられなかったから
というシーンがあったらしくて謝罪を要求した?とか聞きました。
ヨソの事を拡大解釈して笑いを取るという番組作りは感心しませんが
ま、こういう所に日本的な「いじめ」の元があるんでしょう。
「蚦」を検索して出て来た中国サイトの紹介:
锦鳞蚦_百度百科 - [ Translate this page ]锦鳞蚦. 蚦(rán ),又做蚺,. 蟒蛇科Boidae. 蟒蛇科约有17属73种包括现存最大的蛇类,但多数种类没有那样大。 ... ・加锦鳞蚦的蚦的拼音. “锦鳞蚦”相关词条:: 什么是相关词条 我来完善. 百度百科中的词条内容仅供参考,如果您需要解决具体问题(尤其在 ...
baike.baidu.com/view/1106521.html - Cached - Similar
字典中蚦字的解释 - [ Translate this page ]《埤雅》蚦蛇,尾圓
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月19日 01時58分17秒 ) | パスワード |
>伊那の原田氏は何かしっくりこないんです。大鹿村の原田氏の方が嬉しいです。
人間は「動く」ので
実は大きく移動してて「大鹿村」に落ち着いた
という御先祖さまの事情から勝左エ門どのが大鹿村に「しっくり」来るのかも。
その「しっくり」来る感覚こそ勝左エ門どののアイデンティティなんでしょう。
やっぱり宗良親王がらみでしょうかねえ。
そうすると「南朝方」の御先祖さまからパワーが来ているんでしょうかねえ。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月19日 04時57分29秒 ) | パスワード |
高遠に桜を見に行った時、そこの子供達と遭遇したのですが、誰もみんながちゃんと挨拶するのにはビックリしました。
きっと教育委員会の方針なんでしょうね。
「今はヨソからたくさんお客さん達がお見えだから、ちゃんと御挨拶するように」
とか?
それでハタと来ましたよ。
勝左エ門どのが伊那にはあんまり・・・というお気持ち。
高遠って武田家がらみですものね。
生理的に伊那はドーでも良い、というのがDNAからのメッセージなんでしょうね。
教育委員会なら史料を持っていますから
中世からの情報がいろいろ入ってますよ。
お城のことなんかも。
ま、長野の県の図書館あたりなら、あるでしょうし
東京に行く機会が多ければ国会図書館のメンバーになって
捜しに行く
という手もありますね。
[40] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月19日 17時18分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
偶然にも、会津と高遠の地名がでていましたが、高遠藩主が会津藩主になった縁があったと思います。会津のお蕎麦で高遠蕎麦という名前の蕎麦があります。ちなみに、今日の昼は高遠で蕎麦を食べました(笑)。
高遠城も元は武田氏の攻められ・・・と言うより、長野県中部(中信)や南部(南信)は、ほとんど武田氏にやられちゃいましたよね。
そして、大鹿村は今も昔も行政的にも生活圏でも高遠ではなく、飯田の繋がりが強い気がします。だから余計に気持ちが無いのかもしれないですね。
伊那も、大鹿村も人の流入が多いので、余所者に優しいと聞いた事があります。ただ、伊那といっても現在の何回も合併が繰り返された伊那は、余所者を警戒する地域も一緒になってるかもしれません。大鹿村は江戸時代より前の話。伊那は明治から昭和中期位の話です。逆に現代は余所者というより、他人に興味がないのかもしれませんが。
会津のお城の話・・・私は放送を偶然観ました。そして、我が家は今朝、人糞ではありませんが犬糞でトイレが詰まり無血開城寸前でした。
空の青海のあを様のインスピレーションが予言書の様に感じました(笑)。
それから、私も40年程前の可愛い頃、ちゃんと挨拶してましたよ!
[41] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年12月20日 00時47分11秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
勝左エ門さん へ
>大鹿村は今も昔も行政的にも生活圏でも高遠ではなく、飯田の繋がりが強い気がします。
現代の行政区域にとらわれずに、各村の領主が誰だったかの方が重要です。
伊那郡は諸小領混在地域だが、大河原村ほか伊那郡に計6288石が千村平右衛門領となっている。
千村氏は木曽義仲の末裔で信濃は本貫地。
千村平右衛門は尾張藩の久々利衆で美濃に陣屋を持っており、大河原村はいわば尾張藩の飛地であり高遠や飯田との関係は薄い。
むしろ遠州秋葉権現に向かう秋葉道が高遠から領内を通り秋葉代参の人々で賑わっていたものと思われる。
南北朝時代は下野(小山・結城)、上野(新田)、信濃(高梨・村上)、遠江(井伊)を結ぶ南朝連携ルートとして利用されていた。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月20日 04時03分15秒 ) | パスワード |
>大鹿村は、飯田の繋がりが強い気がします。
「飯田」ですか。
これ、またビックリです。
実は、昔、働いてた時に
ある日本の女の子が入社して来まして
初対面に彼女の出身地を当てたことがあります。
それも最寄駅まで当てました。
これは、もう御先祖さまからのパワーとしか言えませんでした。
彼女は美しい女性でスタイルも良いし仕事もできるし
平安時代でしたら紫式部か清少納言かというような存在と思います。
美しいから天皇のお手がついたかも。
そういう女性でした。
父方が平家や南朝方というのはスグにピンと来て
(彼女にはそういう話はしなかったのですが、多分、興味無いだろうと思いましたから)
お母さまの名字を聞いたら「飯田」と答えました。
飯田・・・
って昔っからちょっと引っ掛かるのですが
勝左エ門どののお話から(ああ、そうか!)と納得しました。
>大鹿村は飯田の繋がりが強い気がします。
これはやっぱり経済圏がどうの、行政区分がどうの、というより
DNAの世界か、と。笑
やっぱり我々の血肉は先祖あっての存在なのか!と思いを新たにしましたよ。
7000傑さんお書きの
>南北朝時代は下野(小山・結城)、上野(新田)、信濃(高梨・村上)、遠江(井伊)を結ぶ南朝連携ルートとして利用されていた
昔々の歴史の話なんて全く今の自分には関係無いのに
地名を聞けば何か懐かしく
血沸き肉踊ります。
ホントに不思議です。
>南北朝時代は下野(小山・結城)、上野(新田)、信濃(高梨・村上)、遠江(井伊)を結ぶ南朝連携ルートとして利用されていた
なんか泣けるのです。
きっと刎頚の友を思い出すのでしょうね。
わたくしじゃなくて、先祖が。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月20日 04時28分40秒 ) | パスワード |
わたくしではなくて、先祖が泣いている、そういう涙を一杯流したら
>伊那郡は諸小領混在地域
なんだか先祖が
「そりゃそうさ。南北朝時代の武士がそれぞれ土地を守ってたから」
なんて言ってます。笑
尾張でも同じですから。
信長の時代に秀吉が木曽川だったかな?の豪族達を纏めるまで
乱立(笑)してました。
1番有名なのが蜂須賀でしょう。
俗説ではゴロツキみたいな紹介のされ方ですが。
上記に天竜川を挟んで 西が小笠原で東が香坂で 戦ってたのかと書きましたが
時代が下がって
太田家は小笠原に与みして武田と戦って敗れたのですか。
仲が悪くても共通の敵には協力し合って戦う
これは当たり前ですね。
三重県も小豪族が多く
やっぱり源平時代や南北朝時代を引き摺ってたということなんでしょうね。
織田信長にしても武田信玄にしても「纏めていく」というのは時代のスターだった
ということですね。
くやしいけれど。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月20日 07時36分36秒 ) | パスワード |
http://www.tokugawa.or.jp/institute/008.0203-chimura-mokuroku.htm
尾張藩の千村家関係の文書目録です。
大河原村とか太田とか飯田とか、上記に出て来る名称が出てます。
千村家は代々平右衛門を名乗ってた?
なんで「平右衛門」?
「源右衛門」でないのが良かった?
笑
[45] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月20日 12時52分40秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
ありがとうございます。大河原村の前島家文書目録、鹿塩村の大島家文書目録などに当時の千村家や南信州の関係がうかがい知る事ができる気がします。
以前読んだ・・・と言うより流し読みをした時は、自分のルーツのみを求め、他の皆様のような幅広く考え、感じる事ができませんでした。
普通の小説でさえ登場人物が5人もでてくれば、パンクする私の頭。
ルーツを求めるためには少し整理が必要なようです。
だだ、最近思う事ですが、わからない事がほとんどの今の状況も幸せなのかもしれません。ルーツがわからないからこそ知りたいという気持ちがあります。ひとつずつ真実を探していこうと思います。
ご先祖様がお嫁に頂いた家の苗字。内倉、森上、松川、前島、松下までがお見合いと思われます。お嫁に行かれた先は湯澤があります。早くに亡くなられる方が多く親戚は少ないと思います。苗字のわかっている方々との関係も、ひとつずつ調べて行こうと考えています。
これからも宜しくお願い致します。
[46] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月20日 14時03分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
空の青海のあを様のDNA話・・・好きです(笑)
でも、そういうの確かにあると思います。
千と千尋の神隠しって映画、なんか好きなんですが映画のイメージ?に「遠山の霜月祭」という祭りがあるそうです。ちょうど今の時期だったような・・・
場所は大鹿村の隣、上村と南信濃村あたりです。
ご先祖様がその祭りを見たんでしょうかね(笑)
映画は普通は観ません。時間が耐えられないので・・・
みやざき作品が好きな訳でもありませんが、なぜか千と千尋は観てしまうんです。祭りとの関係は最近知りました。
空の青海のあを様の影響でしょうか? 何か感じます(笑)
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月20日 16時34分38秒 ) | パスワード |
書き直し:
「遠山の霜月祭」
実際にありましたか。驚
神様がみんな集まる、と言えば「神無月期間中の出雲国」だけかと思いましたが
「霜月」祭なら
出雲に行った後に遠山で入浴潔斎したのかもですね。
「入浴潔斎」というのは神道には大切な行事のようですね。
天皇も神事の前になさるそうですし。
「千と千尋の神隠し」の映画は友人が送ってくれました。
彼女は御先祖さまが木曾義仲の侍大将の1人でした。
彼女の家は日蓮宗で
彼女が大病をした時に、その理由が知りたくて、彼女の両親が身延山に行き訊いたら、
この僧が言うには「○X△」という先祖が・・・。
わたくしはその前に井上靖の作品で○X△という侍大将の名前を見ていたので
(彼女の御先祖さまかな?まさか!)
と思っていました。
ところが バッチリ 一致してしまいました。
この本は日本の母に送ってしまい
母が友人にあげてしまったので手元には無いのですが
井上靖の失敗作と思っております。
書き切れていないです。
登場人物もストーリーも。
そのせいか検索しても見つからないです。
きっともう出版はされないと思います。
何か不思議な御縁を感じます。
[49] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月20日 22時33分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
空の青海のあを様は海外でしたか。
海外から、空の青海のあを様の妖怪アンテナは、霊感の無い私の唯一の不思議な体験に反応しますか?
若い頃、5年だったか6年だったか・・・長いお付き合いをした人がいました。
4年か5年経ったある日、実家に彼女といたのですが、夕方飼っていた犬の散歩に出た私は確かに聞いたのです。男の人の声で「別れるぞ!」と言う声を。振り返り辺りを見回しました。夕焼けの空も見ました。しっかり、確信に満ちた声は今でも覚えています。結婚は誰も疑わず、(私は養子になる流れでした)その声の話は当然彼女にもしました。しかし、それから色々あり別れました。
今回の投稿でふっと思った事。香坂氏と戦っていた相手の姓。そして、母方と共に戦っていたのに裏切った?人の姓。付き合っていた人の姓。
同じなのです。
浪合記。残念ながらあまり感じません。尹良親王に何も感じないと言った方がいいかもしれません。
しかし、数回行った大鹿村大河原、特にある地域は何か違った気分になるのです。同村鹿塩にはなんの思い入れもありません。この事は若干の予備知識がそうさせるのかもしれませんが。
秋葉街道・・・現在の国道152号線。途中に舗装されてない所もある恐ろしい国道(笑)。バイクで静岡まで行った事があります。ツーリングは何度かしましたが、懐かしい!という清々しい気持ちはあの時の道だけのものだったと思います。突然、ポツンとあるタバコの自動販売機。販売機にあるはずの無い銘柄のタバコ。買ってみると何年も前に賞味期限切れ(笑)。秋葉神社を過ぎ、天竜川がとても幅の広い・・・山国育ちの私が観た事の無い風景に変わり人が増え始めた時、さっきまでの空気と変わった事を覚えています。どっか違う世界に行ってたのでしょうか・・・
大鹿村を過ぎた所で蛇を踏みました。見事Vの字になった姿を覚えています。あれは蚶だったのでしょうか?(笑)
不思議だったけど懐かしい今だからこそ笑える話ですが。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月21日 02時36分48秒 ) | パスワード |
勝左エ門どの
はい
現在ハワイ在住です。
夫がいずれ寝たきりになる病気なので今年の8月ハワイに引越しました。← 脊柱管狭窄+椎間板ヘルニア+骨棘の3重苦です。
ま、寝たきり、というのは人間なら誰でも可能性はありますが。笑
わたくしもハッキリ「声」が聞こえた経験があります。
その声が聞こえなかったら死んでたかも知れません。
今迄に何度も死を免れてきました。
御先祖さまの御蔭かと思っております。
<48>の後にダラダラと「声」の体験話なんぞを書いていましたが
(この人って多重人格なの?)
と思われるでしょうから下のリセットを押しました。笑
やはり勝左エ門どのにもありましたか。
御先祖さまがイヤだったのかしら?それも父方母方の?
>数回行った大鹿村大河原、特にある地域は何か違った気分になるのです。
これって御先祖さまがらみかも。
ここで何があったのか分かると、その理由が分かるのかも知れませんね。
>大鹿村を過ぎた所で蛇を踏みました。見事Vの字になった姿を覚えています。
笑っちゃいますね。
「♪ 猫踏んじゃった」というのはありますが「♪ 蛇、踏んじゃった」というのはちょっと・・・無いですね。
>「爲長蚦乃塔」
これは「おろち」がらみだったのかもですね。
笑
実は御先祖さまが大蛇を殺してしまって
蛇がとりついて「酒、飲みてえ〜」と、その御先祖さまは大酒呑みになったとか?笑
これですと「長蚦乃塔となす」というのが殺してしまった大蛇の供養塔ということで納得できます。笑
勝左エ門どのも蛇踏んじゃって大酒呑みになったとか?
あはは
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月21日 02時47分50秒 ) | パスワード |
http://www.ooshika.com/history/oogawara.html
これはスゴイ!
松下・内倉の名も見えています。
モロ勝左エ門どのに関係があるではないですか。
なお、10数年前だったか
神戸の旧家で宗良親王の御歌集が蔵から出て来た
という新聞記事を読んだことがあります。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月21日 03時41分22秒 ) | パスワード |
内倉(内の倉)は大河原よりもっと奥に入った所のようですね。
香坂氏:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%9D%82%E6%B0%8F
出自
初代香坂宗清については、「県町村誌」や「信濃宝鑑」に記載されている長野県旧大岡村の曹洞宗天宗寺の由来に、「延喜年間(901年〜923年)滋野朝臣香坂宗清が草庵を結び」と記されており、滋野氏の末流であることは確かとされている。しかしこの延喜年間という記述は信じがたく(滋野氏の発祥時期に等しい)、1221年の承久の乱で滋野一党が執権(北条)方についた戦功により、没収された上皇方の北信濃の所領を与えられた新補地頭の一人とされる。
前述の天宗寺に伝わる社伝にも、文応年間(1260年〜1261年)に香坂宗清によって建立したと記されている。更に長野県上水内郡信州新町にある興禅寺の社伝には「文応元年(1260年)牧之島の地を給わり」とあり、この時期に香坂氏の根拠地となる牧之島を得て徐々に勢力を拡大していったことが伺われる。資料によって時代的に食い違いが見られるが、遅くとも鎌倉期には善光寺平南部の山間地(上水内郡・更級郡)に、勢力を扶植していたことは確かであると考えられている。
南信濃の伊那谷にも、現在の長野県大鹿村一帯を領した香坂氏がおり、南北朝時代に後醍醐帝の皇子宗良親王を奉じた香坂高宗を輩出している。高宗は香坂心覚の甥とも伝えられ、香坂心覚の挙兵時に敗北した香坂氏の一部が伊那谷に逃れたとの説もある。ただし、こちらは根津氏ではなく同じ滋野三家の望月氏の傍流を名乗っており、関係についてははっきりしていない。
応永7年(1400年)の大塔合戦では、大文字一揆衆の中に香坂宗継(九代)の名が見える。永享12年(1440年)結城合戦に参加した信濃武士の記録(結城御陣番帳)の十二番目に「香坂殿」(十代目と想定される)が単独で記載されており、そこから一定の勢力を保持していることが伺える(小豪族の場合は、単独記載されていないことから)。また文明年間(1469-87年)に、小笠原家の内紛から府中(現在の松本)を追われた小笠原長朝一行を香坂氏が牧城に保護した記録が、小笠原家の資料(小笠原家譜)に残されている。
その後しばらく記録には登場しない時期が続くが、香坂宗重の代に武田氏の臣従したと思われ、弘治2年(1556年)に武田信玄の命により埴科郡英多庄(現在の松代)内に移る(この時の朱印状には、香坂筑前守と記されている)。そこで香坂城(館)を構えたとされるが、弘治3年(1557年)第3次川中島の戦いで焼失した。なお、この館は春日弾正忠にちなんで「弾正館」と称したとされ、このことから春日虎綱が「香坂氏の娘」を娶ったのが弘治3年より前であったと考える向きもある。永禄3年(1560年)に海津城が完成した後は、所領が近い関係で在城番を務めたと思われ、その功績により信玄から川中島に三百貫の所領を与えられた記録が残されている(「高野文書」)。
しかし、第4次川中島の戦いの直前の永禄4年(1561年)5月、上杉との密通の嫌疑で香坂宗重が海津城で誅される。これにより香坂嫡流は途絶え、後に香坂氏の娘を娶った関係で春日虎綱が名跡を継承する事になる。(春日虎綱が一般には高坂弾正忠として知られる様になるのは、この事に起因している)
武田氏が滅亡した後、北信濃を支配した上杉景勝により香坂能登守が所領(かつての根拠地である牧之島に程近い場所)を安堵された記録があり、香坂本家が松代に移った後も一族が残されていたことが判る。また江戸期の米沢藩士の記録(「米府鹿子」)に香坂氏の名と共に「滋野」「本国信州」と記されていることから、庶流の一部が他の北信濃の国人衆らと同様に上杉家の家臣となって存続したことが判る。
幕末には中条豊前を主将とする米沢藩越後出兵の指揮官の中に、香坂与三郎、同勘解由らの名前が見える。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月21日 04時06分08秒 ) | パスワード |
勝左エ門どのの御家の「笹竜胆紋」は 謎 ですねえ。
江戸時代に正式な紋として登録していれば現代にその事実が伝わっていてアチコチに出ているはずでスグに辿り着けるはずなのに
出ていないということは正式な登録は笹竜胆紋ではなかったのでしょう。
家紋は1家に1つじゃないですから
いくつかの紋の中から笹竜胆紋を今に伝えているということで
ひょっとすると平家方だった原田氏に嫁いだ女性の実家の紋かも知れないですしね。
女紋だけどカッコいいということで笹竜胆紋が表紋になったかも知れないし。
分からないですね・・・
[54] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月21日 19時35分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ハワイですか(笑)。 まるで真逆の環境ですね。今は大寒波に襲われ、伊那は雪こそほとんど無いですが、とても寒いです。
そうですか。ご主人様がご病気なんですね。
勝左エ門は戒名から医者だったようです。ご先祖様が何かの力で空の青海のあを様の力になると信じています。
私の場合、やはり現地調査ですね。幸いにも歴史が昔のまま保存されている気がします。15年程前、大河原である人にご先祖を尋ねた時「おまえも宗教か!」と言われて以来、気持ちが萎縮していました。たまたま、同じ質問を10分程前にした人達が名古屋方面から来た新興宗教の方だったらしく過敏になっていたようです。
結局はその村の人は私にお墓の位置を教えてくれた感謝する人になりました。
日本は師走。 忙しくなりそうです(笑)
隣村の古文書に「医師勝蔵変玄趙の転々人生と土地を得たいという意思表明」
文化四年 夘 九月 駿州今澤村勝蔵変玄趙他・彦兵衛、猶左衛門とあります。彦兵衛は鹿塩村名主のようです。またまた、不思議な字に遭遇しました。「趙」なんてあまり日本では使わない気がするのですが・・・ そして、謎の医師勝蔵(笑)。 勝の字は、私の本名にも使われています。 年号的にも調べる必要がありそうです。 まずは私自身が師走をクリアーしてからですが(笑)
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月22日 02時14分05秒 ) | パスワード |
書き直し:
勝左エ門どの
>勝左エ門は戒名から医者だったようです。ご先祖様が何かの力で空の青海のあを様の力になると信じています。
感謝です。
ありがとうございます。
元気が出ます。
でも、当人の夫が自分で努力して治そうという人間じゃなくて
薬に努力させようという典型的なアホのアメリカ人なので
これを機会に御先祖さまの御縁でパワーを頂けると良いのですが。
にっこり
>今は大寒波に襲われ、伊那は雪こそほとんど無いですが、とても寒いです。
世界的に寒いようですね。
風が吹くとウインド・チル・ファクターで体感気温がドーンと下がるんですよね。
ハワイの前にはラスベガスで6年住みましたが
風が吹くと風に針があるみたいに寒さが突き刺さりました。
笑
ハワイは最低気温が18度あたりで、風が吹くと、ちょっと薄肌寒いですけど
風の先に針は無いので冷たいとか突き刺さるというのは無いです。
外に出た瞬間〜10分ぐらいは寒いですが歩いているうちに心地良い風になります。
笑
その前はロスにいましたが
ここは湿度のある寒さでした。
シンシンと冷える感じ。
その前はサンフランシスコにいましたが雨が多くて寒くて嫌な所でした。
笑
家の玄関の外に傘を置いて乾かしていたらスグに盗まれました。
>やはり現地調査ですね。
はい。
何度も歩いてみないといけませんね。
>「おまえも宗教か!」
宗教の勧誘は面倒ですよね。
ヒトから勧められたくないですから。
うちもロス時代に日本人のエホバのなんとかというのが来るようになって何年も厄介な思いをしました。
興味があるならコッチから行くのに。
ラスベガスでのエホバの人はアメリカ人?で年に2回来てすぐに引き取ってくれたので
「あ、また来たね〜 笑」
って感じで気楽でした。なかなか来ないと(なんで今年は来ないんだ?)と心配にもなりましたっけ。笑
こういう関係なら良いんですが。
>結局はその村の人は私にお墓の位置を教えてくれた感謝する人になりました。
また訪ねてください。
次回は菓子折りでも持参で。
笑
>日本は師走。 忙しくなりそうです(笑)
はい。
こちらもドンキに門松や鏡餅が売られていて気分はお正月です。
またお正月明けにでも楽しいほろ酔いかげんのお話を拝見させてください。
原田氏もいろいろですね。
伊豆の伊東氏出身の原田氏。伊東系なら平家方だったのかな?
美作の菅原系原田氏。こちらは南朝方だったのかな?でも紋は梅系でしょうね。
九州なら大蔵系で後漢霊帝の末裔ですね。ここが有名な原田氏。
でもやっぱり平家方+南朝方というのが共通項かな?
>医師勝蔵変玄趙
「変玄趙」の変幻は分かる気もしますが「趙」はどうして?ですね。
意味は「ゆっくり歩く」という意味なんですってね。
国の名前の「趙」は知ってますが ジャオ って英語では発音しますが
医師勝蔵変玄趙ってどういう意味なんでしょうね。
勝左エ門どのの御先祖さまは教養が高かったのでしょうね。
読めない漢字、意味の分からない漢字、が多くて謎々が解けないです。
笑
あ、英語で言う aka みたいに
「勝蔵、別名・・・・またの名を、玄趙」
という意味だったのかな?恥
>まずは私自身が師走をクリアーしてからですが(笑)
はい。
良いお年を!
[57] | 原田さんからのコメント(2009年12月23日 14時20分25秒 ) | パスワード |
原田です。私、鈴木さんとは違う原田です。
大鹿村に原田さんは何件あるのでしょうか?1件、または少ないようでしたら大鹿村へは新しく後から来た家やその土地で過ごした代が短いのかもしれません。昔の人は便利な電車バスを使わなくても、予想以上に遠くまで移動していますから、どこかから移動してきて数代そこにいたのかもしれませんね。
また確実に遡れるのは何代でしょうか。明治以前から不明でしょうか。
ちなみに長野では原田さんは諏訪などにも割と多くいらっしゃいます。その中ので、『角川日本氏姓歴史人物大辞典長野編』によると、一族の遠祖は筑前国(福岡県)原田城主で戦いに敗れ駿河国(静岡県)駿東郡原田郷に移り住んだといい、天文二〇年には甲斐国(山梨県)鰍沢で武田晴信に仕えたが、武田氏滅亡の文禄二年諏訪神社領の神之原に郷士として移り住んだ。などとあって甲斐との繋がりがあったようです。(富士川沿いに甲斐に入ったのかな)
また隣の愛知には原田氏が多く、信濃とも街道(江戸時代の名称は伊那・三州街道)で結ばれていることから、そちらから入ってきたと考えるのも一説かと。
前村長さんも元々は静岡県の藤枝市の土地に名前が関係しているということでそちらから長野に移ってきたようですし、街道や川に沿って人は結構移動しています。
当時の医者は「玄」をよく用いていますので、医者になって「玄」を用いた名前に変更したのでしょう。
[58] | 原田さんからのコメント(2009年12月23日 14時33分02秒 ) | パスワード |
訂正。
>前村長さんも元々は静岡県の藤枝市の土地に名前が関係しているということでそちらから長野に移ってきたようですし、街道や川に沿って人は結構移動しています。
前村長さんではなく、38代目の方のほうです。
[59] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月23日 18時52分28秒 ) | パスワード |
原田様
現在、大鹿村(大河原)には原田はいないと思います。住宅地図を購入し調べてみましたがいませんでした。住宅地図というより、まるで山の地図を買ったような物ですが(笑)。15年ほど前、お寺で聞いた時にも原田という苗字は無いとの事でした。
確実に遡れたのは天保6年の子供の戒名が最も古いです。お寺で確認できました。
その土地で過ごした代が短い・・・そのような事もあるのですね。
幸い、先祖が売った土地の過去帳から住んでいた場所は特定できそうです。
本当に昔の人は移動するんですねえ。生まれた時からたいした移動もしてない私には、そのあたりがピンとこないのです。
わかる所まで事実を調べて行こうと思います。
玄の字はそういう事なんですね。ありがとうございました。
[60] | 原田さんからのコメント(2009年12月23日 20時02分14秒 ) | パスワード |
勝左エ門さん
>隣村の古文書に「医師勝蔵変玄趙の転々人生と土地を得たいという意思表明」文化四年 夘 九月 駿州今澤村勝蔵変玄趙他・彦兵衛、猶左衛門とあります。彦兵衛は鹿塩村名主のようです。
当時の医師についてですが、山村の村の中では医師がおらず、外から呼んで来たのか、その村の出身の人ではない人がいました。集落では同じ名字がたくさん存在する例がほとんどですが、そうした事情だったため、集落にはない名字というようになります。当時、山村では医師の診療をするのに庄屋・名主の家が機能していました。
勝左エ門さんのご先祖様も、勝蔵さんはどこか別のところから、そういう理由で必要とされて、名主の家を診療所にするなどしていて、そこに落ち着いたのかも。
[61] | 原田さんからのコメント(2009年12月23日 21時28分35秒 ) | パスワード |
ちなみに、駿州今澤村は、
今沢郷(中世)→今沢村(近世)→今沢(近代)
「静岡県沼津市今沢」あたりの人でしょうかね。
[62] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月23日 22時31分41秒 ) | パスワード |
原田様
医師についての話は参考になりました。以前、江戸時代の医者で調べた時、当時は名乗った者勝ち・・・みたいな事が書かれていて、それを鵜呑みにしていました。
住宅地図から苗字を見る中で、原田が無い疑問は確かにありました。先祖が婚姻関係にあった苗字の家は皆、何件か存在しているのにと。
江戸時代に移動はそんなに無かったんではないかという無知な私の考えもありました。戸籍を取り、生命力の乏しい遺伝子の家系だからかなという様な考えもありました。
曾祖父、祖父とも教師として下伊那を転々とし(それは生まれた人達の戸籍によって判る事なのですが)その度に原田家の情報を紛失したと思われます。
曾父母の写真さえ無いのですから。
曾祖父の5男が22歳で東京医学専門学校付属淀橋病院という所で亡くなっています。その事も何かありそうです。調べてみようと思います。
江戸時代の医者の情報、感謝します!
隣で不思議に遠い場合があります。伊那市と大鹿村。長野県と静岡県。現代においては交通の便が悪いんですよね。駿州今沢村。今は仮説ですが・・・
ライフワークになりそうです。これからも、色々教えてください。
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月24日 15時18分28秒 ) | パスワード |
ちょっと面白い話があったので全文は下記へ:
http://monokatari.jp/isitaki/file001.php?itemid=3007
福岡藩士の名簿「分限帳ぶんげんちょう」に、須恵に住んだ内科医原田玄侃の名が出てきます。
本
一、三人扶持 原田玄侃
(文化十四年(一八一七)分限帳)
「本」は本道医で、内科医。三人扶持は藩から毎年支給する給与です(米一五俵ほど)。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月24日 15時36分06秒 ) | パスワード |
3人扶持で米が15俵ですか?
すっごく多いと思いました。
それでちょっと遊んでみました。
原田ゲンガク先生が年収いくらぐらいだったか。
60kg x 15俵 = 900kg
福岡産米 2070円 / 5kg
2070円 x 180 = 372600円
今のレートだと年収 37万2600円ですか?
どこか計算間違いしてますか?
当時の物価からするとどれほどの価値だったんでしょう?
3人扶持ってすっごく貧しかったというのはピンと来ますが
どういう生活だったんでしょう?
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月24日 15時45分58秒 ) | パスワード |
もうちょっと調べて来ました。
例:「20俵取りの従士など」などと表現されていた
と、いうことは15俵だとかなり生活は大変だったようですか?
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月24日 15時48分57秒 ) | パスワード |
そうしますと
今の勤務医のように召抱えられた医者というのは生活が厳しく
今の開業医のように町医者で更に自由診療の医者だったら(笑)いわゆる高所得?
へ〜
[67] | 勝左エ門さんからのコメント(2009年12月24日 18時54分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
先祖は高所得だったかも(笑)
高所得のDNAは遺伝しないんですね・・・
[68] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年12月25日 01時53分06秒 ) | パスワード |
「玄趙」という御名前からすると漢方医でしょうね。
1人扶持が5俵だそうですが
わたくしの知識では人が1年に食べる米が2俵=1石=だったんですが。
120kg。
15俵だと、7人半ぶん?
副菜は自家栽培でしたでしょうね。
昔は布でも自分で栽培して織りましたしね。
昔の医者の暮らしってどんなでしたでしょうね?
小説でもお書きになってはいかがでしょう?
>高所得のDNAは遺伝しないんですね・・・
我々の代で突然、親の世代よりビンボーになってしまいましたね。
これまで右肩上がりで来て
親の世代より豊かになると信じてたのにねえ。
高所得のDNAぐらい温存して欲しかったですよね。
あはは
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