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 投稿番号:101128 投稿日:2009年10月02日 10時08分39秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
三重県 関町の関宿

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

日本の旅 歴史の町並み 関町 関宿(三重県) を見ました、

平資盛さまが流された所ですから、どんな所かな?と興味深く見ました。

人口7500人と言ってたような。
東海道では箱根と共に急峻な鈴鹿峠は越えるのが大変な所だったとか。
幕末は人の往来が多くて栄えたようです。

町並みが景観維持に指定されて
電柱を埋めて
観光客が10万人も来るようになったとか。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月02日 10時10分27秒 ) パスワード

紹介された人の中に  ○X平造さんとおっしゃる方がいらっしゃって
(おお、平家か!)
と嬉しかったです。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月02日 10時35分13秒 ) パスワード

和菓子屋さんで御所にも納めていたというお店が出てましたが
服部さんとおっしゃって

「服部陸奥大ジョウ」  漢字が無い!  とだったと思いますが書かれていました。
家紋は車の中に切り竹?2本が横になってました。両端が「く」の字に切られています。


    ホンヤさんの家紋の1つです。


多分この家紋は、車に縦の並び矢紋の前の家紋の形じゃないか、と思います。


ま、家系的には同じなんでしょう。


資盛さまが流されて、一緒に関についてきた守り役の家だったのか?
大ジョウとはどなたから貰ったのか?
いつの時代のことなのか?
野次馬としては知りたいことがたくさんありました。恥


お店の奥のお屋敷は凄かったですよ〜
今の御主人で13代目だとか。
そうすると戦国時代あたりから?
信長に負けた後でしょうか?


有松だか鳴海だかの商家の服部家を彷彿とさせる立派な屋敷でした。
ここの家の家紋もやっぱり車に横2本の「く」の字に切られた矢でした。


3軒とも長い間、絶大な力を保持していたのだろうな、と思いました。
馬の骨には想像もつきません。
[3]箱柳永田さんからのコメント(2009年10月02日 17時44分43秒 ) パスワード

 コメント<2>空の青海のあを さんの
   補足説明になる写真を見つけましたので紹介します。
http://homepage2.nifty.com/hat-nif/tokaido/23rdday/23kameyama04.htm
  関宿の解説があり、 深川屋さん(服部さん)の写真があります。
   詳細はすぐ下の<調査資料>からリンクされてます。
 
 >http://homepage2.nifty.com/hat-nif/tokaido/index3.html
  元HP はこちら 雨の休日に是非どうぞ。
   旅人(筆者)の方も多分服部さんです。
 東海道とか中山道、昔の宿場の近くを通行する時に、必ず読んで行きます。
  今日の昼飯は、どちらが良いの、、と迷って困りますが、
 名物を知らずに素通りして、後悔するよりは健康的な日々を送れます。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月03日 06時43分09秒 ) パスワード

箱柳永田さん


ありがとうございました。ぺこり


>屋号を深川屋と称し
>代々菓子司で寛永年間初代服部保重によって考案された餅菓子「関の戸」は、関宿の代表的銘菓として名高い。
>京都御所より陸奥大橡の名を賜っている。


>>寛永年間初代服部保重

すごい人の名前が出て来ましたね。


それで、あの立派なお屋敷の理由が分かりました。
お伊勢さんで財を成した?
幕末に財を成した?
と思ってましたが、昔っから、そういうタイケだったんだあ〜

元々1000年を超え、風雪にも耐え、みんなが頑張って続けて来た「家」なんだあ〜
と馬の骨は納得でした。



>>京都御所より陸奥大橡の名を賜っている。

この「家」が実力で頂いた、ということで
その重みがズシンと来ました。

では「京都御所御用達」と堂々と名乗れるわけだ。


21世紀になっても、老舗を守っているって、
フツーは力尽き・諦め、その日を生きるのに精一杯になるのに
ああ、この家は次世紀も続いていくんだなあ、と涙が出てしまいました。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月03日 07時12分13秒 ) パスワード

フッと思ったのですが

商家ってヒトが出入りし易いから
いろいろな秘密の役割もあるんでしょうね。


>寛永年間初代服部保重

この名前で(隠密も動き易かっただろうな)なんて思いましたよ。


有松だか鳴海の商家もやっぱりそういう役目もあったかもですね。
[6]さなぐさんからのコメント(2013年03月19日 22時39分35秒 ) パスワード

はじめて投稿させていただきます。

ネットでこの名前がヒットするとは思いませんでした。

服部保重ですが、私の祖先の兄なんです。
祖先は元々伊賀国阿山の城主をしており、四代目保遠の子に保重と保之がいました。
なお一番上に女子がいましたが松倉重政の室に入りました。

その後天正伊賀の乱で織田方と戦ったものの保遠・保重父子が斃れ、生まれて間もない保之は九人の所従に連れられ母の実家であり懇意にしていた三河国宝飯に落ち延びました。

やがて伊賀一帯が安定すると元の領地に戻り、藤堂氏が支配する際には無足人(苗字帯刀有り郷士格だが待遇は中級武士)となり九人の所従を周りに住まわせ、庄屋を営みながら今に至っています。

なので私は旅行で深川屋に行った時、家紋が同じだったのでご主人に訊いてみると、保重が生き延びてその子孫が関宿で有名な和菓子屋を営んでいるといいとても驚きました。

またこの話をご主人にするとたいそう喜んでいただき、とても感慨深いものがありました。

長文失礼しました。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2013年03月20日 04時22分35秒 ) パスワード

さなぐさん


貴重なお話をありがとうございます。


>三河国宝飯

思わぬ地名が出て来ました。


日本人って今は他人でも、昔々は血で繋がっていたんでしょうね。
特に平家時代・南朝方時代・反信長時代・徳川時代に行ったり戻ったり、そして婚姻で。

宝飯郡が出て来るとは思わなかったです。
にっこり

豊川とか西浦とか、あっちの方ですよね。
本田平八郎なんかと御縁があるのかな?と連想が行きました。

ロマンですね。

[8]さなぐさんからのコメント(2013年03月24日 11時06分36秒 ) パスワード

御返事ありがとうございます。

今も実家は伊賀市の阿山にあります。
この話も実家の蔵に保存してある家系図がきっかけでした。

元々三河国の国人や豪族と繋がっていたらしく、実家には松平氏や水野氏の書状があるのでおそらく本多氏とも交流はあったのでしょう。

そのせいか江戸初期には保之の次子が奥平氏が支配する美濃加納藩に軍学師範として仕官した記録が残されていました。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2013年03月24日 16時56分09秒 ) パスワード

さなぐさん


貴重なお話をありがとうございます。


伊賀と三河がどのぐらいからのお付き合いだったのか
そういうのが分かると面白いですね。
わたくし的には  南朝方以降  じゃないかと想像していますが
ひょっとすると古代秦氏あたりからかも知れないですね。


また何かありましたらお知らせください。
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