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 投稿番号:101124 投稿日:2009年09月16日 23時54分27秒  パスワード
 お名前:林原英祐
比企筋「薩摩ロマン」
キーワード:比企一族 薩摩 福造
コメントの種類 :人物  パスワード

比企筋「薩摩ロマン」&追伸:女系から見た「薩摩ロマン」福造爺

 かって、60余歳で発起して『比企一族』に続く「越前比企物語」をネット書き込みの練習として、、薦められるままに開始しました。
 頭を打ちながら、、何とか、、打てるようになりました。

 「比企一族」は先般、比企筋「竹御所ロマン」として書き直しをしました。

 「越前比企物語」も少し恥ずかしくなってきましたので、、

 書き直したいと考えていましたが、、幸いにして、東京の青田様(福井藩の鈴木家に関わる方)が『福井市史』(資料)を提供して下さいましたのを機会に、比企筋『薩摩ロマン』と追伸:女系から見た「薩摩ロマン」福造爺として「物語風」に整理しました。

 論旨は、、、
 従来は比企家に伝わる「比企系図」らしきものに拘った内容でしたが、、
 今回は青田様の協力を得まして、「福井市史」の中に纏められてある福井松平藩の他家の記録との関わりで検証しながら、、論を整理しました。

 又、、
 @比企家に流れる『源氏三代への臣下(与党)の義』と
 A福井松平藩の幕末における立場(松平春嶽に見られる幕府側改革論)、
 B幕末薩摩藩に見られる外様島津久光と四賢侯島津斉彬(西郷隆盛)の間について西南の役を取り上げてみました。
 C比企福造が鈴木主税(妻ジュン)の一本道に嵌っていったお話にまとめました。
 、、を比企筋「薩摩ロマン」として、、又、追伸:女系から見た「薩摩ロマン」として整理しました。
 特に、、越前福井にお住まいの御親戚の方々に御参考になれば嬉しいです。
どしどし、書き込んでください!歓迎です!


[1]林原英祐さんからのコメント(2009年09月16日 23時59分57秒 ) パスワード

 第U部 比企筋 「薩摩ロマン」(江戸末期:幕末の話)

 江戸末期(幕末)の時代に、越前福井と薩摩藩が日ノ本の国の中心に躍り出た時がありました。  
 ほんの一瞬の出来事であったのですが、松平春嶽と島津斉彬を支えた鈴木主税(橋本左内)と西郷隆盛の存在を忘れてはならないと思っています。
 雪に閉ざされた越前松平藩と最南端の外様大名薩摩島津藩が、、、、

 (小生の薩摩思いの強さが、、、)
 薩摩ロマンの結びに、、比企福造(御影比企家の祖)が「西南の役」後に、大阪において「謎の突然病死」したことにたいして、『薩摩(西郷)ビイキ』の推理へ短絡したことをお許しください。

 (1)はしがき

 武蔵国(今の埼玉県)に比企郡という地名が確かに存在します。そのどの当たりに鎌倉時代の「比企尼」が住んでいたのか、定かではありませんが、

 比企尼の嫡男、比企藤内朝宗は北陸道の勧農使 をしていたし、甥(後の嫡子)比企能員は北陸大将軍の地位まで登りました。江戸時代に入って、越前松平藩(光通の代)から比企数馬義重が400石で大番組頭として仕えたのも記録に残っています。

 武蔵国と越前国は地理的にもそんなに離れていませんから、流れ着いたと考えれば納得致します。比企家にとって越前若狭方面は因縁のある地方であったわけです。

 話が逸れますが、二代鎌倉殿(頼家)の妾(側室)であり、一幡の母は『若狭局』(比企能員の娘)と呼ばれたくらいですから、、、越前国は第二の生国といえます。

 しかしながら、薩摩国と越前国を結ぶ、ロマンが今回のテーマなのです。
 多分、私の記憶が正しければ、比企尼の嫡女であった『丹後内侍』は京都時代(鎌倉に下向する前)に惟宗広信に嫁ぎ、島津忠久(薩摩島津の祖、元は越前守護職)と若狭忠季(若狭島津の祖)を産んでいます。比企能員(北陸大将軍)との三角関係を描けば、、越前福井と薩摩島津の距離は急激に近くなってくるのです。
 丹後内侍が結ぶ、「越前国」と「薩摩国」と云う因縁ロマンを追ってみたいのです。
 参考までに、薩摩島津家に残る説話の一節を・・・・・
『伝え称す、初め比企判官能員の妹丹後局、頼朝卿に幸せられて身はらむことあり。
 頼朝妻北条政子は嫉妬して、これを遂う。丹後局は害されることをおそれて、関東を出、上方に赴き、摂津住吉に至る。夜旅宿を里人に求むも、里人これを許さず。時に大雨はなはだしく、たちまち産気あり、よって社(住吉社)辺のまがきのかたわらの石上にうずくまる。時に狐火の闇を照らすに会って遂に忠久を生む』

 この説にもとづいて、島津家では稲荷神を信仰し雨を吉祥として「島津雨」と称した。又、忠久が惟宗姓を称したのは、後に丹後局が惟宗広言に嫁したからであると説明している。(中略)

 建仁三年(1203)に比企氏が北条氏によって滅ぼされた際(比企の乱)、忠久も縁座してすべての所領を失っており、忠久が比企の縁者であったことは間違いない。

 比企氏は、頼朝が伊豆に流されていた時に親身になって世話をした比企尼に連なる一族で、この比企尼の長女に丹後内侍という女性がいる。

 『吾妻鏡』から彼女が安達盛長の妻で、頼朝と非常に親しかったことが確認でき、頼朝の弟範頼の子孫吉見氏に伝わった『吉見系図』には、丹後内侍は盛長嫁す前に惟宗広言との間に忠久をもうけていたと記されている。

 この丹後内侍と『丹後局』は同一人物とみなしてよいであろう。(後略)と、、、
[2]林原英祐さんからのコメント(2009年09月17日 20時49分47秒 ) パスワード

(2)松平直堅 (権蔵)騒動(越前福井藩の歴史)
 
 初代『比企数馬義重』の記事(比企系図)の中で、
  嫡男 藤四郎 故有延宝5年12月25日於板取駅殺害葬同所 『浄入圓郭居士』
 二代『比企四郎兵衛榮翦』の記事の中で、
  冒頭に、養父義重嫡子藤四郎儀不行跡ニテ出奔仕父ノ命ヲ背ニ付板取駅ノ寺ニテ殺害  其后養子モ相願不申処、、、

福井の「比企筋」に『薩摩ロマン・・・」の章にあって、「松平直堅 (権蔵)騒動 」を書き出しに持って来ましたのは少し説明が要ると考えます。
 
 @には、越前福井松平藩の暗い歴史の一面をご理解頂くのに、役立つと考えたからでございます。
 越前福井松平藩は御三家から見ても兄筋、徳川家康の次男結城秀康を祖とする親藩家門の重鎮でありますが、
 何故か、400年の歴史は『逆境(主君に恵まれなかった!)の連続』でありました。

 Aには、記事の内容(上意討ち?)は本来暗いお話であるにもかかわらず、何か『胸を張った!』書き方になっているのに気付いたからでございます。系図の初代(比企数馬義重)の記事に態々書き込まれてあることが『もの申す!』様に思えてならなかったからです。襖の隙間から指す細い光のようなものを感じたのです。

  私はこの記事に接してから、ずうっと気になっていました。

 あの『お家』大事の時代に『嫡男(藤四郎)』が父『義重』に背き、出奔し、身内の者が後を追い、板取宿で掴まえて、『殺害』(多分、自害させたのであろうが…)同所の寺に葬った。戒名も『浄入圓郭居士』と慎ましく、名も無い、寂しい扱いになっています。

 この書き出しの『故有』の二字が、頭から離れないのです。
 そして、私なりに「この重い二字」について探索が開始された訳です。

 少し話がそれますが、、

 今年の大河ドラマ『天璋院篤姫』を見ていまして、あの『寺田屋騒動』で有馬新七以下の浪士が島津久光の命で「上意討ち」になる、、行り、壮絶な同士による殺戮を目にしまして、有馬新七達の晴々とした死様を見ながら・比企藤四郎の無念の『板取宿』を思い出したのです。

 「有馬新七」殿も今では薩摩の英雄です。
 あの、安政の大獄の首謀者である井伊大老を櫻田門外に於いて誅殺した水戸浪士に薩摩から加わった暴挙は当時理解されるはずもなかったのですが、明治維新の火付け役として後の世に高く評価されるようになった方であります。
 そのような方が「上意討ち」とか『不本意な切腹』とかで若い命を散らせた話は、時代が変化するときにはたくさんありました。

 歴史小説家が愛する方々、、「長州」の周布政之助、高杉晋作、吉田松陰、「土佐」の武市半平太、坂本竜馬、中岡慎太郎、、そして「薩摩」の西郷隆盛、有馬新七、大久保など数限りありません。末尾に付け加えて、越前福井藩の橋本左内(鈴木主税重榮)をあげておきます。

『福井藩の歴史』を勉強しますと…

 越前福井藩はご家門筆頭。秀忠の兄、家康の次男結城秀康に始まり、将軍家にとっても、御三家から見ても兄筋にあたる親藩家門の重鎮である。

 もともと北庄で、福井(最初福居)と名を改めるのは秀康の次男松平忠昌が越後高田から入ってからだが、当欄では便宜上、北庄時代から一括して福井藩として掲載する。

 御家門筆頭と祭り上げられたとはいえ、藩主に恵まれず、幕府から意図的に力を弱められた感もあるが、代々石高を減らされていく。

 福井藩史は、なかなか一筋縄では行かない。、、、云々と始まっています。

 有名な古典とも言うべき、菊地寛著の『忠直卿行状記』の主人公である「松平忠直」はこの初代「結城秀康」の長男であります。

 「忠直」の乱行によって、福井藩の最初の危機が到来します。「忠直の豊後への配流」「長男の光長は越後高田へ減転封」、、、

 そして、越後高田から『秀康』の次男で「忠直」の弟、「松平(越前)忠昌」が藩主となります。当初の68万石は既に52万石になっていました。(隆芳院殿)約20年間

 次の『光通』(大安院殿)の時代が約30年間続くのですが、、、
 「光通」は脇腹で兄「松平昌勝」がいたが、正嫡の故をもって福井藩を継ぐ。

 兄『昌勝』には越前松岡5万石、弟『昌親』には越前吉江2万5千石を分知し、福井藩は45万石となる。

 『光通』は従兄弟の松平(越前)光長と「徳川秀忠の娘」との間に出来た『国姫』を正室として迎えるが、婚姻以前に側室に生まれていた『松平直堅(通称:権蔵)』がいた。

 「光通」が「権蔵」を認知しないことで『福井藩』の「お家騒動」が起こる事になります。1673年(延宝元年7月)のことです。

 「光通」が幕府(秀忠の孫「国姫」)に気兼ねして『松平直堅は公子ではない』と届ける。 

 『直堅』を郊外の八幡村に置いていたところ、「直堅」は押し込めの危機を感じ、1673年(延宝元年7月)16歳で江戸に出奔する。

 「光通」は『堀十兵衛』に探させ、連れ戻そうとするが、説得に失敗し「堀十兵衛」も責任を感じて「今庄宿」で自殺してしまう。

 『直堅』は直良の江戸屋敷を頼り、後に直良のとりなしで一門と認められ糸魚川藩祖となることになりますが、真っ直中では藩を二つに割るほどの騒動であったようです。

 『国姫(秀忠の孫娘)』は2人の女子を産みますが、男子(世継)は産まれる事無く、母(秀忠の娘)と夫(光通)との間で板挟みになり、自殺してしまう。
 
 又、夫の光通もこれらの経緯を苦に後追い自殺をし、跡継ぎに『昌親』を遺言する。

 だが、『昌親』襲封については光通には兄の昌勝もあり、唯一の実子『直堅』もある中で、自殺した上での遺言ということで、藩内は動揺し、割れた状態が続くことになる。

 江戸に出奔した『直堅』を頼む家臣50名が、脱藩して江戸の直堅のもとに奔ったりした。と記録されている。、、、、

 1677年(延宝5年12月)比企数馬義重の嫡男『比企藤四郎』が父に背き出奔(脱藩)しようとした。のは丁度その時代背景のなかでの出来事です。

 今となっては、推理と想像の世界の話になりますが、『松平直堅』事件の犠牲者ではなかったかと想像してしまいます。

 又、史実にある『堀十兵衛』(光通の命で「直堅」の説得にあたり、失敗の責任を感じ今庄宿で自殺)の孫(堀庄左ヱ門)に二代比企榮翦の娘『レン』が嫁いでいます。(『越前比企系図』に記録による)   

 解りやすく、推測をいれて解説しますと、、、、

 『比企藤四郎(比企家嫡男)』は多分『松平直堅(権蔵)』が松平光通(時の藩主)の実子でもあり「正嫡」であると言う主張を持って、父(比企義重)に背いてまで肩入れしたと考えられます。(その考えが主流であったかも知れません??)

 多分、当初は『比企家』としても、『光通』の考えを推察するのに苦しんだが、『堀十兵衛』の死をもって、越前松平藩(光通)と行を共にする決心がついたと考えます。

 推測ですが、後に、二代比企榮翦の娘『レン』が『堀庄左ヱ門(堀十兵衛の孫)』に嫁いだと比企系図に記されてあると書きましたが、縁組をするのは昔は既に親戚筋であったと考えるのが妥当と思います。

 このような説得は普通『年寄衆(隠居)』の仕事だと考えるのが妥当ではないでしょうか?                          

 よって、比企家当主の初代比企数馬義重の判断は嫡子『藤四郎』を自害させて、お家再興を願い出る(養子縁組を以て)こととなったと想像します。
 
 結果として、史実にある『50余名』の脱藩者(出奔)のなかに『比企藤四郎』は入らなかったのですが、もし出奔に成功していたら、『糸魚川藩』の重臣になっていたかもしれません。

 そして、あの『松平春嶽』のあと越前松平藩の最後の藩主『松平茂昭(糸魚川)』と共に再度世に出て来たかもしれないと考えると歴史は皮肉でかつ面白いものですね。

 実際は、養子『山原傳左ヱ門』の次男を二代比企家の当主と仰ぎ比企家は再興される事になります。

 越前松平藩5代(再勤)三代「昌親」改め『松平吉品(よしのり)』(探源院殿)の時代(約24年間続きます)のことです。

 ただし、1686年(貞享3)世に『貞享の半知』といわれる25万石に半減されたのも『510名の家臣の非情リストラ』が実施されたのもこの時であります。

 そんな苦しい藩のお家事情のなかでの比企家再興は、何か、余程の功績か事情がないととても考えられない時代であったと思います。

 想像ですが、ひょっとしたら初代『比企数馬義重』の嫡男「比企藤四郎」は『堀十兵衛』同様に「一命を賭して…」お国(越前松平藩)の『人柱』になったのではと思いたいですね。

 余談になりますが、、、

 御影比企家の最後の当主『比企雅』の妻が福井士族『堀家』の出です。

 『繁』(しげ)と申しまして、私の実の『お婆さん(通称:比企繁婆ちゃん)』ですから、昭和52年尼崎市武庫之荘で最後に別れた『明治の淑女(宝樹院殿)』として、亡くなる前日まで朝『床の上』に正座して「髪を梳し」ていたのを覚えています。

 比企藤四郎と堀十兵衛のお二人の御冥福をお祈りして、『越前松平藩』を襲った「お家騒動(嫡子権蔵廃嫡、光通自殺)の話をひとまず終わりとします。

 このくだり、、が主題の『薩摩ロマン』とどのような関わりがありますかは、十分な説明になっていないと考えますが、心ならずも本意をまっとう出来ずに、急ぎて『命を落とした人々』の思いは100年〜500年位は生きているのでは、、と思うことがあります。
 『薩摩ロマン』は外様大名各藩の中に永くいき続けた無数の『人柱』のようなものであります。(私はよく「両親がサツマイモを主食に、、息子に仕送り、、」と言います)
 戦前、戦中、戦後の時代には、努力しても報われない人々が大半でありました。
 そんな不幸な時代(ほとんどがそんな時代なのですが・・・)には、祖父や、父親が志半ばで息絶えたことを、その子が背負って又、努力を積み重ねることが普通の家の取り組みであったわけです。昔はそのために人柱(死)まであったという話です。

 私はあの世から届いた『お便り』によって、過去に意味深な『死に方』をされた方々について、ひょっとしたら、何か「ご意見がお有りであったのでは??」と問いかけてみたいのです。
 
 それを『薩摩(外様)ロマン』と名付けたのです。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月18日 03時39分47秒 ) パスワード

林原英祐さま   

(明子でございます。ぺこり。またまたハンドル・ネームを変更しました)

>私はあの世から届いた『お便り』によって、
過去に意味深な『死に方』をされた方々について、
>ひょっとしたら、何か「ご意見がお有りであったのでは??」と問いかけてみたいのです。


この夏、我が家の父方の思わぬ幕末の話を知り
最近は、母方の南北朝末期の悲劇を知り

わたくしも同じように思っておりました。


日本史の中に、確実に自分の先祖が生きて苦しんでそして死んでいった、そして今、自分が存在している

ロマンでございますね。


PS
今はハワイに住んでおります。
[4]林原英祐さんからのコメント(2009年09月18日 04時10分57秒 ) パスワード

お久しぶりです。お元気にされていますか?
早速伴奏有難うございます。
ハワイですか?いいなあ!

>日本史の中に、確実に自分の先祖が生きて苦しんでそして死んでいった、そして今、自分が存在している

>ロマンでございますね。


続きを書きます!、、、

(3)鈴木重榮主税(橋本左内ロマン)比企ジュンの夫

 六代比企佐左ヱ門榮庸(テルツネ)の記事の中に、さりげなく・・・・
      
        次女 鈴木主税重榮 の室   ジュン   の一行が光っています。

 この一行から話が拡がります。
 
  鈴木主税重榮のことは、幕末の歴史を勉強されている方はご存知と思いますが、福井松平藩の
松平春嶽の片腕と言われた方で40歳そこそこで、幕末歴史の派手な舞台に登場することなく、無念の病死をしてしまいます。
 今ひとつ、鈴木主税重榮を有名にした話は、あの 橋本左内を世に送り出した功績によるものです。
 そのあたりを、作家の 岳 真也様が絶妙の表現で小説『麒麟 橋本左内』のなかにかかれていますので、引用させていただきます。

 『引用文』初版発行(2000年12月20日発刊)
『麒麟 橋本左内』著者 岳 真也(1947年生れ)より

小説引用文///
 
229頁〜  五     安政3(1856)年になった。 先の震災の被害が軽かった福井藩邸はすっかり修復がなり、平穏な年明けを迎えたが、一つだけ心配なことが起こった。参政の鈴木主税が、急に病に倒れたのである。

 藩公の信任があつく、そうでなくとも多忙なところに、昨年藩校の明道館が創設されることになり、主税はいくどとなく江戸と福井のあいだを往復していた。おそらく、その疲れがでたのであろう。それに盟友、藤田東湖の頓死に対する衝撃も大きかった。心労がかさなったものと見える。

 左内は江戸の藩邸で再会したとき、すでに主税の顔色が悪く、難儀そうだったのを思い出し、もっと早くに手を打てばよかったと思ったが、遅かった。主税の住居とひとつづきの長屋に寄宿して、左内はほとんど毎日のように彼と顔をあわせていた。それがかえって、的確な判断をにぶらせてしまったのかもしれない。いずれ容体を診なければならないが、もはや左内は藩医ではない。担当の医師には在府中の半井仲庵がつき、左内は仲庵の指示をあおぐかたちで日々の看護にあった。ただ食欲はまるでないと言い、放っておくと、何も口にしようとしない。起きるとひどい立ちくらみにおそわれる様子で、つねに誰かがつきそい、安静にして寝かせておかねばならなかった。そして何よりも、精神的な落ち込みが激しかった。実際、主税はせまりくる死の時を自ら感じていて、たびたび左内を枕頭によんでは、『わしはもう駄目じゃ。はや余命もつきようとしておる』とつぶやいた。

 『わしの志をつぎ、なしとげてくれる者は、おぬししかおらん。藩のため、天下のためにしっかり尽くしてくれ』左内の手を握り締め、執拗にそう言って。後事を託そうとする。その都度、左内は…
 『何をおっしゃるのです。鈴木様はまだ若い……これからなお、ひと働きもふた働きもしなければならない身ではござりませぬか』と励ましたが主税は黙って首を揺すり続けるばかりだった。2月にはいって主税の容体は悪化し、10日の夕刻、ついに息を引き取った。齢43歳、左内の父彦也の享年より更に若い。以前からその英名だけは聞いていたが、左内が主税と親しく口を聞くようになってから、まだ半年とたっていない。それだけに口惜しく、また一つ屋根の下にくらして実父のように慕いはじめた矢先のことで左内の落胆ぶりは尋常ではなかった。一人左内ばかりではない。藩主慶永(春嶽)にとっても、そして福井藩の今後にとっても鈴木主税の死はたいへんな痛手である。

 主税の手腕と善政ぶりは、領内の民人の間にも知れ渡っている。ことに国元で町奉行の職についていたころには、つねに公平にして温情あふれる裁きをなし、町民たちのあいだでの評判はすこぶる高かった。彼の訃報を伝え聞いて、誰しもが嘆き悲しみ、いずれみなで金子を寄せ合い、主税をまつった社(世直神社)を建てようと言い出す者まで出るほどだった。
 左内としても、このままではいられない。亡き主税のために、なにかしてやれることはないか、と彼は考えた。 
 鈴木主税の遺体は江戸品川の『天龍寺』に埋葬されたが、左内はまずそこに墓を建てるべく奔走した。ついで、その墓碑の題字を慶永に書いてもらうことを思い付いた。

 その頃、左内は足しげく水戸藩に出入りしており、震災で死んだ同藩の藤田東湖の墓標に前藩主の徳川斉昭が染筆するという話を小耳にはさんでいた。となれば、主税のいしぶみには福井藩主松平慶永みずからの御筆をたまわって、なんのふしぎもない。早速、左内は、側用人の中根雪江を通じて松平慶永(春嶽)にその旨のうかがいをたてることにした。
 『純淵こと鈴木主税は終始、忠亮にして、公事に勤労仕り、私営陰蔵などいっさいつかまつらず……』その人徳と功績をたたえるべく、ぜひとも藩公の御染筆を賜りたい。…………慶永(春嶽)おおいに心を動かし、左内の申し出をうけいれようとしたが……
 実現は家中の反対があり、かなりの時をへてからのこととなった。……………(中略)……………………
 安政6(1859)年10月7日の5つ刻(午前8時頃)左内はあらためて評定所に呼出され、北町奉行石谷あつ清によって裁決をもうしわたされた。『死罪』である。同日、刑場の露ときえるのである。
 鈴木主税より3年後のことである。

 橋本左内は幕末期の志士のうち、土佐の坂本龍馬とならび、もっとも異彩をはなった人物であった。
 
 かの維新の英傑『西郷隆盛』をして、『もしや橋本どんとの出会いがなかったら、その後のおいはありもさん』とまで言わしめたほどの男なのだ。
 にもかかわらず、なぜかその名のみが残され、実態は余り良く知られていない気がする。志なかばで夭折したとはいえ、決して平坦ではなく、むしろ波乱万丈とすら言える生涯を考えると、不思議でならない。

 橋本左内綱紀は越前福井藩の医家に生れ、緒方洪庵の適塾で蘭方を学びながら、政事をこころざし、藩主松平慶永(春嶽)の懐刀となって一橋慶喜の将軍擁立に奔走する。ために、政敵井伊直弼ににらまれ、20代のなかばの若さで刑場の露と消えるのだが、……

 同じ『安政の大獄』の犠牲となった吉田松陰や梅田雲浜などとちがい、彼は攘夷論者ではない。反対に開国を望み、龍馬と同様、海の向こうへの飛躍を夢見た。

  夢を翔け、夢に殉じた………そんな『騏麟児』の短い青春を…と
 著者 『岳 真也』さんは結んでおられる。

(ここまでが、岳氏の小説文の引用であります。引用をお許しください。)

 小生(林原英祐)はその陰にある『鈴木主税』の左内への思い!と「一度も姿を現さない妻『ジュン』」に大きなロマンを覚えるのであります。

 多分『日本の志士達の陰』に沢山の『支えた女性達』がいらっしゃった思います。

 先日 福井の『孝顕寺』のご住職が昭和38年の福井新聞の記事を送って下さいました。

 その中に 鈴木主税重榮の墓石がみつかった! 号『重榮』が書かれてある。『鈴木重榮』の墓 ……云々

 その『福井新聞(昭和38年5月11日(土))』の『見出し』では……

「鈴木主税の墓を発見!……今成住職:福井の孝顕寺墓地で…幕末の福井藩士で、松平春岳のブレ−ンとして、又、橋本左内に大きな影響を与えた鈴木主税 (1814〜1856) の墓がこの程福井市常磐木町の孝顕寺墓地で今成覚禅住職によって見つかった。同寺にはこれまでも鈴木主税の墓はあったが墓石も新しく大正か昭和になって作られたもの。この為ほかに本当の墓があるのではないかと思われていたが、確認できなかった。ところが『純淵斉繁林重榮居士』という戒名が彫られた『鈴木主税之墓』というのがあり、死亡月日が安政3年2月10日となっており、同寺に残っている過去帳とぴったり合致したため鈴木主税の墓とわかった。 『重榮』というのはあまり知られていないが主税の号らしい。

 主税は行政的手腕にすぐれ福井藩士に新鮮な気風を起こし、一方『春岳』の側近として幕末に活躍した。また悪税を廃止して『世直し明神』として祭られている。…云々』とある。

 その時の、現住職の手紙の中に、「最近まで御子孫の方がおられましたが、御亡くなりになられたそうです。『主税』の墓の隣には『重榮の女蝶子』と書かれた墓が並んでおります……と記されてありました。(2001年1月23日の便りより)

 隣に、ヒッソリと眠る 『女 蝶子』の墓とは「誰」のことか??
 『比企系図』にある6代比企佐左ヱ門榮庸の次女『ジュン』(鈴木主税重榮の室)は何処に眠るのか???

 多分、女系『比企』の血を引く『方』は嫁ぎ先で『後家』になって『長寿』をまっとうしていたと考えます。
 限り無く続く『比企』のロマンを追って………

              『岳 真也』さん、夢をありがとうございました。

 その後、2001年4月12日に福井市みのり2丁目の『世直神社』の世話人を勤めていらしゃる「山本典和」さんから「お便り」と資料を送って頂きました。

 『数年前になりますが…、鈴木主税先生の御子息の方が東京から尋ねて来られたと近所委の清水様から聞きましたが、清水さんが訳が分からず、何か証拠になるものはないか?と…尋ねられたら、後日、同封の資料を送ってこられたそうです。

その資料がバラバラであったものを、清水さんが小冊子にしたそうです。***』との前置きで……

」 別冊 『世直神祠と鈴木主税先生』(小冊子)
永井 環著 昭和6年5月14日発行

 その中で… 先生をこのように紹介されている。

 『先生(鈴木主税のこと)の名乗は重榮(ジュウエイ)、通称は主税(チカラ)、小字は小三郎、純淵(ジュンエン)亦は鑾城(ランジョウ)と號し、文化11年(1814)3月の生れである。福井藩士海福瀬左衛門の次男にして出てて、鈴木彦太夫長恒の養子となった。

 鈴木家は定座番外禄450石、先生長じて英資俊邁識量宏遠、『彦太夫』町奉行の要職に在りしが、天保8年(1837)10月病死した為、同年11月家督を相続し、天保13年8月29歳、選ばれて町奉行となった。当時藩の財政、、、(中略)……

 別に四項において、家族のことを、……
 『元来先生には、始め實子なかりしかば、福井藩士雨森藤四郎の弟傳之丞(重徳)を以て養嗣子とした。然るに間もなく實子を挙小三郎(重弘)と名をつけた。先生逝去の當時傳之丞は年18歳、小三郎は僅かに6歳の幼年であった。しかして、その後程なく傳之丞が病死し、小三郎が相続したのであるが、その小三郎重弘の嗣子『薫』氏から頂戴した資料とある。』………以上が福井在住の山本様からの『便り』の要点(引用)である。
 
 前にも触れましたが『越前比企家』と『鈴木家(家老格)』との関わりは永く続いている。少し要約(比企系図の記事を、、)しておきますと、

  @三代『榮搶』の正室は鈴木彦太夫重英の娘『リノ』である。又、後妻も重英の養女『リヨ』(生田家…鈴木家親戚筋)を迎えている。

  A四代『榮禎』も『生田六左ヱ門(鈴木家親戚)』から正室を迎えている。

  B五代『榮脩』も『鈴木亦吉の娘』ツルを正室として届けるも婚前病死で成就しなかった。
 
  C六代『榮庸』の時、始めて比企家の娘(ジュン)を鈴木彦太夫長恒の養嗣子である『『鈴木主税重榮(海福瀬左衛門の次男)に嫁がせている。    

 ……そのようにして、『鈴木家』と『比企家』は越前松平藩の中で、随分深い関係にあったと想像される。
後に出てくる、『キン』の里(横田作太夫の娘)の『横田家』も何等かの形で『鈴木家』の縁者であると考えられる。(『世直神祠』の神位の表に名がある)

 以上で『鈴木主税重榮』先生の紹介を終わります。安らかに御眠りください。
                                合掌

 追記、別記に…鈴木主税重榮先生を褒めて書かれた下りが見つかったので附記すると、

 *「水戸の藤田東湖が『今や真に豪傑と稱すべき者天下唯鈴木主税、西郷吉之助あるのみ』と言ひ」 

 *「肥後の長岡監物が『資質豪邁にして才略あるは東湖に如くはなく、学術正大にして徳義智識兼備はるは重榮に如くは無し、余最重榮に服す』と言ふ。」   

 林原英祐記:
 比較的、若くして(40歳未明)病魔によりこの世をさりました。夫、鈴木重榮主税は
 あの、安政の大獄で吉田松陰に並ぶ逸材と言われた橋本左内を発掘したことで有名です。
  又、松平春嶽の右腕と言われたことで江戸末期の四賢候(松平春嶽、島津斉彬、山内  豊信、伊達宗城)に囲まれて、幕末の逸材との交友は広かった。当然鈴木主税がこの世を去っても、未亡人(鈴木ジュン)宅に 純淵斉繁林重榮居士の仏前を訪れる人は絶えなかったと想像します。比企筋の未亡人(夫は若死に、、)は長寿を全うする流れから考えると西郷隆盛を中心とした薩摩藩の藩士達のお世話に奔走した光景が思い浮かびます。
 ここでは、鈴木重榮主税の若くしての壮絶な尊厳死と、未亡人ジュンを取り巻く薩摩藩の藩士達との交友を想像しています。
 参考までに、 鈴木主税重榮が文化11年(1814)3月の生れで、死亡日が安政3年(1856)2月10日卒とありますから、年齢は41歳だったと考えられます。その時点での妻(ジュン)の歳は34歳であったと考えられます(文政5:1822生まれ)
 鈴木ジュンの没年は定かでないのですが、、
 母親(キン)、明治3年(1870)81歳まで長寿であった。ことや
 妹(りゅう)、明治22年(1889)63歳卒など考え、『60歳』ぐらいまでは鈴木主税重榮の菩提を弔いながら生きたと勝手に想像しています。(西暦1882:明治15年没?)

  鈴木ジュン(鈴木主税の妻)が西暦1882:明治15年没?、であったとしたら、、、
 次章のテーマである『比企福造』( 鈴木ジュンの甥)との襷がけ(重なり)が36年間存在したことになります。
 私の私小説テーマとしましては、この36年間の鈴木ジュン(鈴木主税の妻)と比企福造との襷がけ(重なり)が正に『薩摩ロマン』のベースそのものなのです。

 私は叔母である「 鈴木ジュン」を通じて、『比企福造』はあの薩摩(主役)の西郷隆盛にも面識ある関係であったと想像しています。もちろん他にも、薩摩藩士のお歴々と同士のお付き合いをしてもらっていたと考えます。(鈴木主税の甥でありますから、、)

 このようにして、次章のテーマである、比企ジュンの甥:比企外五郎福造と薩摩藩士との関わりが生まれたと考えています。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月18日 14時32分27秒 ) パスワード

今年の夏は尾張藩の幕末の青松葉事件を父と話していまして

    この事件はなかなか真相が分からないのですが

渡辺家(渡辺守綱の子孫で、この守綱という人は比企に3000石の飛び地も貰っていました)の話や
それから鈴木家
横井家などなど  ←北条義時の子孫で尾張藩の御重臣

いろいろ林原さまにも回り回って御縁のある話題が多く出まして
    越前の松平家には尾張や三河からも人物が行っていたのを実感しました。

林原さまのお書きになる文章の中に
え?この人物って、アソコのあの人と関係があるの?という人物を拝見し

林原さまの御先祖さまだけでなく、
その閨閥、一族・同族、皆様の御霊が林原さまのかいなに抱かれて慰められている
と思います。


林原さまによって人物の名前が書かれることで、今の世の中に蘇るような感じがします。


林原さまとわたくしという全く接点の無かったような人間同士が実は先祖を介して深く結びついていた
ということに驚きます。

これが日本人という特殊性なのですね。

夫の甥が日本に留学中、日本人は8代も遡ればみ〜んな繋がる、と聞いてきて
それがまたまた今日、繋がってしまいました。


わたくし自身も「薩摩藩士」とあやうく(笑)御縁があるところでしたし。
[7]林原英祐さんからのコメント(2009年09月19日 14時55分47秒 ) パスワード

訪問者(青田様)からのメールによれば、、、

 服部さんの言われるように、、尾張、三河など(中部地方)、、や紀州(和歌山)や鹿児島、熊本(九州)、、等など、、特に鈴木家は日本NO1の『姓』ですから、、

以下、頂いた便りによれば、、次の通りであります。

 これは越前鈴木家(遠州池田家)の祖に係る、鈴木市右衛門の由緒です。越前鈴木家、遠州池田家の系図を参照にしました。
 先祖は一遍上人、足助一族、徳川家康などに関係しています。

1、池田左衛門太夫、重阿弥陀仏五月十五日
  本国紀州から移遠州池田村に住みし、見付郷大原に住みし、姓は穂積親王一遍上人が藤沢下向の節お供をし、穂積の姓を名乗っていた。

2、池田次郎太夫、次郎左衛門

3、池田喜太郎
 弥三郎 池田刑部右衛門吉則(鈴木刑部右衛門重純)元和七年辛巳十月十三日龍守院宝誉導珍居士
 お市 弥三郎妻 英光院心誉同法大姉 二十九日
 お市の父親 鈴木孫兵衛 この孫兵衛は三河国渥美郡の住人 足助次郎重成の末孫で二十七代の足助惣兵衛は甲州信玄に仕え、その後故あって鈴木孫兵衛と名乗り目付町人となり
 このお市権現公に湯殿乳房仕え落胤を宿し弘冶二年丙辰春 刑部右衛門嫁す男子出生 鈴木を名乗って勤仕すべしと仰せられ証拠として行守の太刀を下された。

4、鈴木市蔵、市右衛門重堅 弘治二丙辰八月七日巳申刻生まれ
 その日は丙辰の日也 幼名 孫四郎の公、十二歳 丸公様 嶽胞翁得林大居士 寛永十年発丙十月十七日 墓は越前孝顕寺
 権現様小納戸役、その後福井藩主秀康公に仕える。
 慶長十九年大阪陣に難波戦記、浪波軍記に見え候
 
 鈴木多宮直垣(市蔵の子)
 得翁善勝居士 正保二酉年八月十九日
 隆芳院殿に仕え福井藩主卒の時殉死、墓は越前孝顕寺、永平寺

 鈴木多宮(直垣の子)
 宮徳丸 大安院殿に仕え 病死

 鈴木宇左衛門(重次)
 始め加藤清正に仕え朝鮮陣勤、その後薩摩の島津兵庫頭義弘に仕え琉球渡海の節軍功有り

 角川 鹿児島県人名辞典に 島津家臣に遠州浜松出身の鈴木宇左衛門重信(重延)がいた。
 鈴木万衛門の子で兄入田刑部左衛門の子市右衛門は徳川家康に仕えた。重信は文禄の初め島津忠垣に仕え、大阪普請奉行を務めた。重信の子は喜右衛門重張といい、子孫は鈴木宇左衛門という。

 鈴木太郎左衛門始め中納言様に仕え、その後故郷に帰る。

 池田弥兵衛遠州に住し 浄量院厳阿弥大徳 寛永二十一年十一月二十八日卒

 女子 遠州に住し丹羽三右衛門 妻
 子供鈴木彦太郎二十一歳の時市右衛門相願い出隆芳院様へ召出でられ後に越前鈴木家の祖となる。
 鈴木彦太郎重信 陽光院湖渓玄居士 明暦四戌歳四月二十四日
 遠州に住みし丹羽三右衛門の子 鈴木彦太郎二十一歳の時市右衛門願い出て隆芳院様へ召し出で鈴木家も祖となる、、、とある。


 服部様のお便りに感謝致します。元気が出てきました。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月19日 15時59分51秒 ) パスワード

一遍上人、家康、忠昌公も出て、オールスターですね。


比企家と河野家は鎌倉時代以来の遠縁でもありましょうね。
福井には河野という地名もありますものね。
どの時代から福井と河野家の関係があるのかと思っていましたが
鎌倉時代からだったかも知れませんね。


丹羽さん、は元は尾張の出身の丹羽さんでしょうね。
遠州にもいましたか。
この人の子が越前鈴木家の祖になったとは。


日本人は本当に何重にも関わりますね。


江戸時代は名家の子孫を探し出してでも雇ったと聞いていましたが
それなりの背景がちゃんとあっての雇用だったのですね、と改めて思いました。
地元の人はそういう事を知っていますから
虚偽は通りませんものね。


もう本当に驚きました。

一遍上人との関係などもお時間のある時に御紹介願います。


一遍上人は南は確か大隅まで行ってらっしゃると思いましたが
やはり先祖なり一族なりが大隅に関係していたからでしょうね。

関係ないのですが、佐久に行ってるのも、一族が佐久に流されていますから。承久の変で。


そうそう「竹の御所」と呼ばれた女性が河野家関係(当然北条氏がらみで)でもいましたように記憶しております。
比企家からもいらっしゃいましたものね。

この女性で比企家と河野家が繋がるのかも。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月19日 16時05分36秒 ) パスワード

>関係ないのですが、佐久に行ってるのも、一族が佐久に流されていますから。承久の変で。

もっと限定しますと「伴野」「友野」とかいう地名だったかも。


甕に入った首が出て来た、と聞いたことがあるので
一遍上人の一族で流されて斬首された人の首かな?と思ったように記憶しております。



実は、昨日、書き込みをして一遍上人のことを思い出していたのです。
そうしましたら林原さまが一遍上人の御名をお書きでいらっしゃいましたので
背筋がゾクゾクしました。
[10]林原英祐さんからのコメント(2009年09月19日 22時22分17秒 ) パスワード

>実は、昨日、書き込みをして一遍上人のことを思い出していたのです

実は小生も、、[7]項には本文「比企福造」の続きを書こうとしたのですが、、、何か「青田様」のメールが私を呼ぶのに気が付きまして、、金縛りにあったように、、青田様のメールの打ち直し(原文がPDAの添付資料だったもので)引っ張る方法を知らず、、苦労して打ち直しました!)

> 先祖は一遍上人、足助一族、徳川家康などに関係しています。

 、、の行は飛ばそうと一度思ったのですが、、服部さんが三重や、愛知方面には詳しいと日ごろ思っていましたから、、元気を付けて書きました。(笑い)
 やっぱり、これは何かがあります!ね
 「一遍上人」の件は青田様に伝えておきます。
 御丁寧な、応答有難う御座います。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月20日 05時01分03秒 ) パスワード

>「一遍上人」の件は青田様に伝えておきます。

ありがとうございます。


わたくしが知りたく({永きに亘って)悩んでいますのは
一遍上人の関係者で「久慈」に流されて斬首された人の、その久慈とはどこか?
ということでございまして


常陸あかりか?岩手あたりか?
一体どこに流されたの?と。
岩手の山奥なの?と永く思っていましたが、常陸あたりか?と最近思うのです。


青田さまより御教示頂ければ幸いなのですが。
[12]林原英祐さんからのコメント(2009年09月20日 22時04分14秒 ) パスワード

本論を続けます。

 (4)院殿号:比企外五郎福造・・・西南の役の功労

   私の曾爺さん『比企福造』の謎々について、、、(贈られた写真が何かの声?)

 先日、比企の「モト」祖母さんの珍しい写真(明治初期)が出てきたと書きました。
 「モト」祖母さんは、小生の曽祖父「福造」の母であります。
 
 その時、比企知子さん(北海道在住、、で小生に比企の探索に火を付けた方)がついでにモト祖母さんの子供たち、、、「儀長爺さん」と「福造爺さん」の写真も同封して下さいました。

 弱冠20歳そこそこの和服(紋付)の似合った福造爺さん の写真が私に何かを語りかけている様で、、、

 私から数えて4代、私の母(比企禮)、その父(比企雅)、その父(比企福造)、、、
 私が、勝手に「御影比企一族の祖」として位置付けた方です。

 比企一族の中で、小生が比企に興味を持って、探索を開始した動機について書いた行がありますが、『祖父(比企雅)が姫路の地で無くなった時に、戒名に院殿号(福井の菩提寺から、、)が送られて来て、地元のお坊さんとの間で位牌に書き込むことでひと悶着ありました。、、、』

 その『院殿号』の元が、、、
 この『福造爺さん』であったのです。

 爺さんと言いましても、実際は明治18年に弱冠39歳で亡くなっているのですから少し変な言い回しになりますが、私から数えて4代も前の曾爺さんに当たる古い話ですから、『爺さん』としておきます。

 前置きはこの位にしまして、本題の『比企福造(ひきふくぞう)の謎々』に迫って参ります。


>何故?院殿号なのか?
 
 小生が始めてこの院殿号に出会ったのは、以前にも書きました、祖父比企雅が姫路市の大塩と言う塩田の町で亡くなった時(高校2年生ー17歳)でありました。それからずうっと『何故?何故?』が続いているのですから、約50年間(半世紀)の探索になる訳であります。
 親戚一同(私の母を含めて、、)皆が「合言葉」のように口にするのは、『福造爺さんは大変立派な方で、、、』と言う一言で語り伝えてきたようです。

 しかしながら、何が立派なのかが具体的に語られることがありません。

 だから、比企知子さんから送られてきた比企の系図らしきものに拝見した時、一番に調べたのはこの比企福造爺さんの行(くだり)でありました。
 鎌倉時代の「比企尼」や「比企能員」の話は福造爺さんへの興味のづっと後の話であったわけであります。

 話の筋を分かり易くするために、もう一度『比企系図』の比企福造の記事(小生の口語訳)を再掲します。

 読み易いように年表形式で列記します。(これは以前「比企一族(その2)越前比企物語」の[18]と[21]に書き込んだものと重複しています。)

             
● 弘化4年      (1847)  (福造1歳) 比企家7代当主『比企五郎左ヱ門榮信』の4男として生まれる。幼名朔輔 後に『福造』号を名乗る。
       *母は榮信の正室で津田弥太六の娘モト
       *モトは明治23年12月19日卒68歳 於清源寺 
       戒名『清壽院儀譽賢哲大姉』 

● 嘉永3年 6月4日 (1850) (福造4歳) 父、榮信(35歳)と死別している。(母モト婆さんは28歳で後家になった)その後、嫡男榮徴が幼かったため、本多多門左ヱ門二男を8代当主、『比企幸次郎榮貞(テルサダ)』を養子として迎えいれている。
       *榮貞は血統としては、比企5代当主比企佐左衛門榮脩(テルノブ)の4男(幼名三十郎)が本多家に養子として入り、本多門左ヱ門を継いでいるので、『5代榮脩』の実孫に位置する。

● 嘉永5年 正月7日 (1852) (福造6歳) 養子8代榮貞も又、25歳の若さで他界している。(時に、母モト30歳)実子『比企家9代当主 比企他五郎榮徴(後名佐門)』は重なる不幸の為弱冠12歳で家督相続することになる。

  嫡子(幼少)『榮徴』が家督相続を許された時点での、越前比企家の家族構成は、、、、
  
  実母 比企モト(当時30歳)
  当主 比企他五郎榮徴(後佐門)(当時12歳)     1841年生
  3男 比企三五郎儀長(後佐門養子)(当時10歳)  1843年生
 ◆4男 比企外五郎福造(後に別家扱い)(当時 6歳) 1847年生
  次男 虎五郎は加藤家に養子縁組(当時11歳)(加藤虎五郎信興号)

  ★祖母 先々代 榮庸の後妻 比企キン (当時62歳) 1789年生     
  ★義母 先代 榮貞の妻 比企リュウ (当時29歳)  1824年生
  ★叔母 鈴木ジュン(りゅうの姉)鈴木家(32歳)   1822年生
  *リュウは6代榮庸の娘で母はキン(横田作太夫の娘)−−−実の母娘関係
  *初婚は真田源五郎
5代榮脩3男:捨五郎が養子先の息子:リュウの従兄弟も…            
                                                   7代榮信(卒35歳)死去の時、後の9代榮徴幼少の為、8代榮貞の養子縁組の流れを受けて「御家」の犠牲になって協議離婚を強いられ8代榮貞の正室と成るも…        僅か2年間で榮貞と死別29歳の若さで後家となる。                        (母キンとの絆は強い) 




 比企外五郎福造 の成人後の年表

● 元治元年11月(1864) (福造18歳) 茂昭公、長州御征伐副将を仰せつかったに付、御供を命じられた。

● 慶応元年 2月 (1865) (福造19歳) 罷帰する(福井に帰った)
● 明治元年 9月 (1868) (福造22歳) 奥羽御征伐に付、会津地方へ罷越する。
● 明治2年 2月 (1869) (福造23歳) 罷帰する
● 明治3年    (1870) (福造24歳) 福井藩に於いて『3人扶持』で召し抱えられた。第2番遊撃隊に編入、藩兵を以て東京取締を仰せつかり、同月出発した。

● 明治4年11月2日 (1871) (福造25歳) 東京府取締組を仰せつかった。同月9日同組取締組小頭を仰せつかった。

● 明治5年5月14日 (1872) (福造26歳) 司法省邏卒小頭 兼逮部小頭を仰せつかった。

● 明治6年1月14日 (1873) (福造27歳) 1等巡査 兼逮部を仰せつかった。同年同月16日大分県出張を命じられた。3月6日御用済みにて帰京した。17日司法省邏卒小頭 兼逮部小頭を仰せつかった。5月18日一等巡査を仰せつかった。

● 明治7年1月10日 (1874) (福造28歳) 権少警部 1月22日 警視庁権少警部 2月22日 少警部 3月19日 一等功労金10円賜
  明治8年1月20日 (1875) (福造29歳) *権中警部に任じられる。12月8日 中警部に昇格する。

● 明治10年1月4日 (1877) (福造31歳) 権大警部に任じられる。1月15日 二等中警部 2月15日 九州地方に出張を命じられた。4月1日 陸軍中尉(征伐総督本営)兼二等中警部、、4月4日 別働第三旅団第三大隊第一中隊長(征伐総督本営)、5月16日 別働第三旅団歩兵第三大隊副官、8月1日 御用で帰京した。12月2日 権大警部(太政官)兼務を任じられた。

● 明治11年2月19日(1878) (福造32歳) 御用有り、鹿児島へ出張を命じられた。3月30日 二等警視補(太政官)を兼任、6月28日 今般、鹿児島の逆徒(注:西南の役)征伐の際、尽力その功少なからずに付…『叙勲五等』 金 500円を賜った。

● 明治12年1月19日(1879) (福造33歳) 御用済み(鹿児島警視出張所)にて帰京した。

● 明治13年1月17日(1880) (福造34歳) 一等警視補を兼任 2月12日 『従七位』(太政官)を叙す。3月、明治10年『九州騒乱(西南の役)』の際、出張軍務従軍の外、警察本務に服し勉励に候うに付『慰労手当金20円』を賜った。3月25日 後備軍躯員(太政官)を仰せつかった。

● 明治14年1月13日(1881) (福造35歳) 兼補八等出仕(陸軍省) 4月9日 陸軍憲兵大尉(太政官) 同日 東京憲

● 明治16年8月21日(1883) (福造37歳) 私儀、嫡子『雅(マサシ)』誕生
12月15日 補東京憲兵隊第一大隊中隊長(陸軍省)、12月17日 東京憲兵第一大隊第一中隊附(陸軍省)を仰せつかった。

● 明治18年 3月19日(1885) (福造39歳) 本職を免じられた。『補東京憲兵隊第三大隊中隊長(陸軍省)』、『東京憲兵第一大隊第一中隊付(陸軍省)』、4月7日 叙『勲四等旭日小綬章』(太政官)を賜った。(39歳での高位叙勲である)、6月29日 本職を免じられた。『東京憲兵隊第二大隊長心得(陸軍省)』、7月20日 大阪に於いて、39歳という若さで死去(病死)している。

 戒名『神隆院殿福譽造本大居士』 墓地 福井清源寺(比企家菩提寺)
 『嫡子:雅(マサシ)』が数え『3歳』の時のことである。


 
 若干39歳の若さでこの世を去った『福造』の生涯は謎に包まれている。
そして、死後、比企家の菩提寺、清源寺より末代の『院殿号』が授けられている。

 越前比企家で最初の『院殿号』であることは、記録上も明らかであり、その意味する処が不透明であります。

 確かにいえる事は、鎌倉時代の比企家の謂れとは全く関係の無い『院殿号』であることは間違いの無い話だと思います。

 多分、福造個人の生き方の中にその理由があったと考えるのが妥当な線だと私は想像しています。 

 「死者に口無し!」の言葉が残された人々に一層の謎かけを呼んでいます。

 この『福造』さんは偉大な人であったことだけが、『御影比企家』の家族達全員に『院殿号』の拝受と共に語り伝えられて来たわけでありますが、、、


 『福造』が大阪で死去した!!』
 
 との連絡を東京で『妻タマ』が受けて、船で大阪に出向き『福造』の遺骨を取りに行くくだり、「タマ」27歳、長女「ツネ」5歳、長男「雅(まさし)」3歳、付添:「儀長」伯父)は悲惨な光景であっただろうと考えます。

 その辺りの様子が祖父(雅)の手紙(昭和30年1月28日付)の中に克明に書き残しているので、後程引用文として書きます。

本日はここまでとします。(次回へ)
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月21日 02時20分05秒 ) パスワード

謎が謎を呼びますね。



「院殿号」は殿様級でございましょ?

500円下賜されて、お寺さんに寄進なさったのでしょうか?
今の500万よりは価値があったのでしょ?
戦後でも50万というのは大金でしたから500万でしたら家が数軒買えたのではないでしょうか?


確か戒名はそれなりの寄進をすることになるんですよね。
30年ぐらい前に聞いた時では  院殿号は  800万ぐらい払う  だったかしら?


それに「神隆院殿」とは、これまた立派な号ですよね。


それなりの御活躍だった、ということでしょう。

>鹿児島の逆徒(注:西南の役)征伐の際、尽力その功少なからずに付…『叙勲五等』 金 500円を賜った。

内容が分かると良いですね。



*モトは明治23年12月19日卒68歳 於清源寺 
*戒名『清壽院儀譽賢哲大姉』 

モトさまの戒名も、素晴らしいではありませんか。
驚きました。

[14]林原英祐さんからのコメント(2009年09月21日 16時33分10秒 ) パスワード

 その前に、もう一度ここまでを整理しますと
  
比企家に語り伝えられている「福造」爺のこと

*「西南の役」で大きな功績を認められて勲4等旭日章(弱冠39歳)を賜った。
*福井の清源寺(比企家菩提寺)で末代の『院殿号』を約されている。(大きな寄付か?) 
*その経歴にかかわらず、詳細が残っていない。(意識的に消している感がある)
*昭和30年1月28日付の比企雅(東灘区魚崎町)…比企福造の息子…から比企元様(東京都中野区)…比企本家(比企忠氏の長男)宛の手紙のなかで…………
*昭和25年に『比企本家』が福井清源寺(比企菩提寺)から墓地を東京青山墓地に移すに際して…『青山墓地に比企福造の分骨埋葬の痕跡があるとの情報を得た…云々』の手紙が残っている。(比企雅の『比企元様』への返信手紙の形で書かれたもの)



手紙文の写(引用)
 
(前文)、略す…

先日、お手紙頂き内容拝見いたし実に驚きました。
 なにしろ、今日ではその時の事情を知っている関係者は全部他界後ですから、更に判りませんが私の聞き伝えておる所では、……

★ 私の父、福造は東京に住うて居て私も東京で生れましたが、私の2歳の時に東京から大阪の鎮台(戦前の第4師団の事でしょう)へ単独転任となって翌明治18年7月20日に大阪で病死?した訳です。
 
★ その当時、私の母(たま)は私の姉(明治19年福井にて病死)と私とを連れて船で東京から大阪へ来て、大阪で福井から『儀長伯父』(彰サンの父)と加藤伯父(比企家から加藤家へ養子に行った)との2人の伯父と落合って父福造の遺骨を持って直接、福井へ落ち着いた。

★ 大阪で葬送した事は確実で、その時、神式にて葬儀を営んだものらしく、神前に誅言(その時のノリト)も大阪神宮教會所の斎主少教正大野阿曽美氏及び、大原美能理氏によりて書かれたものが私の手元に残って居ります。


★ 東京へ分骨したと言う事は何も聞いていませんでしたが、もしお申し越しの様に比企福造としての墓地が青山にあったとか遺骨と言う箱があったとか言うことから考えると元様のお考えの様に『西南戦争』の功労者とか何とか言う事で…

★ 或いは東京へ分骨して納骨して居たのかも知れません。

★ 又或いは青山墓地が軍とか警視庁の合同墓地であったかもしれぬ等と言う考へも無駄ではないと思います。

★ 戦前に私が遊就館へ行って西南戦争の只一枚しかない想像油画につき説明を求めた時も何等の記録もないので説明が出来ぬ。これは警視庁の管轄時代のもので大震災で総ての記録がなくなって居て判らぬと言われた位で、とても此の墓地の記録も残って居りますまい。

★ 尚又、我々の此の事については少しも考えも及ばなかった事で全然無智の事ですから仕方ありません。もし、昭和18年まで台帳に在りながら無縁となった事は返す返すも惜しい事で七坪半もあったと言う墓地を失った事は実に残念千万と存じます。勿論、一度無縁と処理せられた以上、例え遺族が残っていて異議申し立てをしてもそれは取り上げない事と存じますがどんな物で しょうか、いずれにしても、こう言う事実が判った事については父福造の霊も浮かばれた事と存じます。

★ 尤も福井の清源寺に遺骨を納めて以来引続き供養回向はして来ましたし、昨年は私の戦後の宿望がかなって墓石も新しくして『シゲ』(注、雅の妻)と共に父の70回忌を懇ろに営んで来ましたので何の遺憾もないのですが、仰せの通り25年に元様が青山へ墓地を移されたために此の問題が判った訳で、さもなかったら暗から暗に葬られた事でしょう。

 これ全て墓地を新設されたためのお引合わせとしか思えず誠に有り難いことと存じ厚くお礼申し上げます。 ………………後略……………  以上が「雅」お爺さんの『手紙文』の抜粋です。

 
 話は少し逸れますが、、、

 @私は、この青山「分骨』論が大変気になっていました。
 病気で死んだ爺さん(福造)が例え「お上」に仕えていたとしても、分骨までして青山墓地に葬られるなど考えられないと思っていました。


 もう一つの疑問は、、、、

 Aもし仮に『青山共同墓地(軍と警察)』に殉職者扱いで手厚く葬って頂いているとしたら、何故親族にそのことを知らさなかったのか、、、、
 親族の誰一人としてその事を知らされず、もちろん『お参り』することもなく、今日まで過ぎ去ったということは「公に出来ないお上の事情(公に出来る「死に方」ではなかった。)があったのではと考えてしまします。


 @福造爺さんの「遺骨」は本当に青山共同墓地(軍と警察)に殉職者として葬られていたのか?と言う疑問。

 Aもし、それが本当であれば、、何故今日まで、100年間以上もその事が遺族に明確に出来ない理由が何なのか?

 この二つの疑問が、比企の知子さんから頂戴した「福造爺」の凛々しい写真を見ていると頭から離れないのです。




 さて、少し変わりますが、小泉総理が安部総理に代わったので、靖国神社参拝問題が少し静かになりました。
 
 当時、我々の戦中世代は少しオドオドしながら、このことをこっそり勉強していました。

 最近はインターネットと言う、こっそり勉強には大変便利なものがありますから、ゴソゴソ触っていましたら、偶然の産物で「弥生神社」というものに」出会うことになりました。

 詳しくは、、、、

 弥生慰霊堂(やよい いれいどう)と言うものなのですが、、、
 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記事のままの説明を引用しますと、

 「引用文」

 弥生慰霊堂(やよい いれいどう)

 西南戦争で出征して戦死した警察職員は東京招魂社(現靖国神社)に祀られたが、これを機会として当時の警視総監は警察消防活動など(戦前は消防は警察の管轄だった)で殉じた職員の英霊を慰霊するために、1885年(明治18年)10月に招魂社を創建したのが「弥生神社」の始まりである。

 この名称は本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町に創建されたことによるもので、最初に祀られたのは1871年(明治4年)以降の殉職者94柱及び特別功労者2柱の96柱であった。1887年(明治20年)11月に芝公園に遷座した。

 その後、1890年(明治23年)4月に警視庁鍛冶橋庁舎構内に、1911年(明治44年)4月に青山墓地内に遷座した。1931年(昭和6年)10月には麹町区(現千代田区)隼町に移った。

 戦前は警視庁が管理してきたが、戦後の「神道指令」により、神社を警視庁が管理し続けることができなくなってしまったために、1946年(昭和21年)10月に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会を結成した。

 1947年(昭和22年)10月に現在地の千代田区代官町に遷座した。現在地への遷座とともに名称を「弥生廟」と改めた。その後、1983年(昭和58年)9月に名称を「弥生慰霊堂」に改称し、「弥生廟奉賛会」の名も「弥生奉賛会」に改めると同時に、従来の神式の慰霊祭からいわゆる“無宗教”形式の慰霊祭に変更し、現在にいたっている。

以上が「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記事」(原文のまま)なのですが、、、

 特にその中で下記の文章が眼に留まったのです。
 (記事7行目中段からの文章を再掲しますと、、、)

 1911年(明治44年)4月に青山墓地内に遷座した。1931年(昭和6年)10月には麹町区(現千代田区)隼町に移った。

 戦前は警視庁が管理してきたが、戦後の「神道指令」により、神社を警視庁が管理し続けることができなくなってしまったために、1946年(昭和21年)10月に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会を結成した。
 1947年(昭和22年)10月に現在地の千代田区代官町に遷座した。
                           、、、、、、、云々

 
 この内容は、「雅」爺さんが「元」伯父さんに書き残している。青山に軍と警視庁の共同墓地が存在していたことを証明しています。

 多分、墓地は「7坪半」とまで明確に「元」伯父が聞いたのですから、『西南の役』に関わる殉死者としての扱いで葬られていたのでありましょう。

 具体的には、死の前後にどのような事態が発生したかは分かりませんが、、
少なくとも、その青山の軍と警視庁の共同墓地に埋葬されたことが事実であれば、そのことで、逆に、お上(国家)に殉じた死を確信できることになります。

 又、そのことはここで言う『弥生慰霊堂(やよい いれいどう)』の関連の死ではなかったかと想像するのです。

  弥生慰霊堂と言えば 合祀者 特別功労者 川路利良大警視が中心的な重要人物です。

 福造爺はその成人後の年表に記した通り、警視庁関係、 陸軍中尉(征伐総督本営)、別働第三旅団第三大隊第一中隊長(征伐総督本営)、東京憲兵隊第一大隊中隊長(陸軍省)等を歴任しています。

 特に九州騒乱(西南の役)ではあの川路利良が率いる別働第三旅団の要職に付いており、何か『暗いもの?』を感じます。職務も何か『難しい?(特務機関)』のような者であったと想像しています。

 私の頭から離れない人物として、、、

 大久保利通と川路利良と中原尚雄の3名の名が浮かびます。

 この延長線の何処かに「福造爺」の存在を描いています。

 あの『西南の役』の勃発前夜の端書(前奏曲)を思い出してしまうのです。

 1876(明治9)年 12月末、大警視川路利良(一説に、大久保利通)は、警視庁警部ら20人を私学校探索とその勢力抑制の為に鹿児島に派遣しました。

 1877(明治10)年1月11日、中原尚雄警部らは、鹿児島に帰ってきました。

 1月下旬夜、政府派遣の三菱会社の赤竜丸は、鹿児島に入港し、密かに、陸軍省草牟田火薬庫から火薬・銃弾を運び出す。私学校生徒数人は、これを襲撃します。

 2月3日、私学校生徒らは、中原尚雄警部らを、西郷暗殺計画容疑で逮捕しました。

 2月5日、中原尚雄警部は、厳しい拷問の末に西郷暗殺計画の口述書をとられました。「シサツ」と発言したが、「視察」なのか「刺殺」なのか確認されませんでした。

 2月7日、西郷隆盛は、私学校の決起を押さえることが出来ず、県令大山綱良に率兵上京の決意を伝えました。ここに西南戦争が始まりました。

 この20数名(一説には60余名)の人たちは殆どが、その後解放されて明治政府の要職に付いたという話も漏れ承っています。

 大久保利通や川路利良が不振死を遂げるのもそのすぐ後だったと思います。

 このような歴史の大きな歯車が高速回転する真っ只中で、福造爺はどのように生き、どのように死んだのか、謎が深まるばかりです。

 小生(林原英祐)の想像ですが、比企福造が「大阪で病死」とありますが、前後の記録から考えて不自然に思えます。

 警視庁(憲兵隊)の上層部に配置され、西南戦争でも特務機関的な仕事に従事し、その功績が大きかったと記されていますが、本当に普通の病死であったかどうかは疑わしく思えます。

 『御国の為に…殉じた死が…』想像されてならない。

 その後の「若年叙勲」とか、「院殿号」とか、「青山の軍?、警視庁?墓地」とか、を考えると「ひょっとしたら…親戚の誰か…儀長伯父?妻比企たま?が内緒で聞かされた話があったのではないか??…その身内の人々も今は全て無き人たちばかりです。

 いずれにしても今となっては知る術もありません。  
 
 『死者に口無し!』の話の『謎』としておきます。        以上
 
 末尾になりますが、、、川路利良という日本の警察の創設者を参考までにご紹介しておきたいと思います。

 川路 利良(かわじ としなが)
 1834年6月17日(天保5年5月11日) - 1879年(明治12年)10月13日)は、
江戸時代後期の幕末から明治時代初期の警察官僚・陸軍軍人。
通称は正之進。雅号は黄泉。「としよし」と読むことも。
階級は大警視、陸軍少将(軍職を兼ねる)、位階勲等は正五位勲二等。欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。
[編集] 生涯
薩摩藩与力の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村(現在の鹿児島市皆与志町)に生まれる。1864年の禁門の変で戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。明治維新後は警視庁大警視(のちの警視総監)となり、警察制度の確立に努めた。1872年には渡欧して各国の警察制度を視察し、帰国後はフランスの警察制度を参考にした警視庁の創設に努めた。
警察と警察官の在り方を示した川路の語録は後に「警察手眼(けいさつしゅげん)」として編纂され、警察精神の基本論語として今も警察官に広く語り継がれる。
西郷隆盛らの下野後は内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。西南戦争が起こる直前にも、西郷や不平士族の動向を、帰省を口実に密偵を現地に送り込み内偵と西郷側の内部分裂を図るなど、川路の主たる実力は一般的な警察力と言うよりは、専ら乱破の類を使用した情報収集や攪乱・乖離作戦の戦術に長けていた。
1877年1月、政府が薩摩の武器火薬を大阪へ移動を開始したことに激昴した西郷の私学校生徒らが暴動を起こし、これを発端に西南戦争が勃発。2月には、薩摩軍は川路が送り込んでいた密偵全員を捉えて拷問に近い取り調べを加え、川路が西郷隆盛を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られた。そのため、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。
開戦後、川路は警視庁巡査(警視隊)で編成された別動第3旅団の旅団長(陸軍少将)として九州を転戦、激戦となった3月の田原坂戦では警視隊による抜刀隊が活躍して薩摩軍を退け、5月には大口攻略戦に参加した後、6月には宮之城で激戦の末、薩摩軍を退けて進軍するが、その後旅団長職を免じられ東京へ戻る。
終戦後の1878年1月、海外警察視察のために東京を発つ。しかし船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩したが宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまう。咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなかった。同年8月24日郵船「ヤンセー」号に搭乗し、10月8日帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日にこの世を去る。享年46。関西の政商である藤田組が汚職の捜査を恐れ毒殺したという噂も立った。
日本の近代警察制度の基礎を造った人物として評価されているが、「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として現在も郷土鹿児島では人気がない。1999年に当時の小野次郎本部長らの提唱で鹿児島県警察本部(鹿児島市)前に銅像が設置されるなど、ようやく地元でも再評価の段階に入りつつある。
現在の警視庁下谷警察署のあたりが川路邸であった。現在は同署の敷地内に邸宅跡の石碑が建っている。 また生誕の地には記念碑が、鹿児島県警本部前と川路が率いた別動第3旅団の激戦地である鹿児島県霧島市(旧横川町)内とには銅像が建っているほか、警視庁警察学校には彫塑家北村西望の作となる立像が建てられている。
その功績を称えられ、1885年(明治18年)に弥生神社(現弥生慰霊堂)に祀られた。
                                   以上




  多分、遺族に多大の報奨金とお見舞い(口止め)があって、そのお金がひっそりと「福井の清源寺」に奉納されたのでは、と勝手に想像しています。

 それが「院殿号」の謂れではないかと現実的な結論に到達しました。
  
  本当の事実関係は誰も知らない(死人に口無し!)話である訳です。

  歴史には、そのような不明なことが「半分」は常に存在すると思っています。

 福造爺さん!お叱りを受けるかも知れませんが、多分遠からず当たっているのではないでしょうか、、、

 又その内にどこかでお会いして、お聞きする機会もあるかも知れませんから、それまで大切に覚えておきます。
 勿論、そのようなお話の内容は誰にも聞こえる心配はございませんから、、、
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月22日 04時50分42秒 ) パスワード

林原さま


>末代の『院殿号』を約されている。(大きな寄付か?) 


「比企家菩提寺」「末代」でピンと来ることがございました。


やはり「比企家の菩提寺」ということで
比企家の方も代々和尚さんになっていらっしゃったのではないでしょうか?


2番目に「大きな寄付」どころの額じゃないでしょうね。

お寺を始めた時の関係者 and/or お寺を修復する時の費用を一切もったか
それぐらいの存在だったのでしょう。



院殿号を貰うのに20年ぐらい前の人で2000万払った話も耳にしましたから
末代まで院殿号でしたら
それこそ  お寺にとって殿様  こんな感じの存在でしょう。


実はわたくしの母方が明治の時にお寺の宝になっているものを寄進しているのですが
バブル後に行った時
お寺の柱だけで億かかったと聞きました。


ですから、末代までの院殿号というのは、そのお寺にとってはスゴイ存在だった、ということでございますよ。


その上、明治政府の役人の上の方は、トップの元勲でなくても、
もう使い切れないお手当てが出てましたから

福造おじじさまは、きっとその余剰金をお寺にも寄進なさっていらっしゃったのでしょう。


今でもお寺の運営に関わる信者の上層部は寄付がスゴイ額だと聞いています。
最近、ある御家の宗教活動について教えて貰いましたが、毎年スゴイ金額を使っていると知りました。


普通の信者層は御布施は心ばかりで許されますが(笑)
上層部というのは想像を絶する額を負担していらっしゃいます。


>墓地は「7坪半」とまで明確に「元」伯父が聞いた

うちの一族の織田信長に謀殺された人の墓もそんな感じでした。


   一遍上人のお祖父さまのお墓は壕つきでしたが。一遍上人が整備なさったのだと思います。
   これは鎌倉時代の豪族の墓の形なんだそうです。


やはり「立場」のある人の墓、ということですね。


福造おじじさまは、林原さまの想像を超える人生を生きていらっしゃったのでしょうね。
ひょとしますと日本史の秘密にも関わっていらっしゃったのかも。


一段と大きな存在だったのが垣間見えますね。
[16]林原英祐さんからのコメント(2009年09月22日 21時28分42秒 ) パスワード

(5)林原英祐のつぶやき
 小生のこの章のテーマは越前福井松平藩の比企筋に伝わる『薩摩ロマン』であったわけです。
 それも越前福井松平藩の比企家十余代で一番傑出した逸材とされます『六代比企佐左ヱ門榮庸(てるつね)』の次女(ジュン)が松平春嶽の右腕といわれた「鈴木主税重榮」に嫁入りしたことから、膨らんだ話であります。
 それも大胆な、一言で申しますと、「鈴木主税」の薩摩との交友は愛弟子である橋本左内(安政の大獄で刑死)と西郷隆盛との深い関係に偏ったものでありました。
 若くして、安政3年の鈴木主税の病没、安政6年の橋本左内の刑死を見た盟友、西郷隆盛は大きな衝撃を受けたと考えられます。
 その後も、松平春嶽を訪ね幕政改革の方途について、列藩の有志達(坂本竜馬:西郷隆盛他)は越前福井詣でを続けています。
 その都度、鈴木ジュン(鈴木主税の妻)を訪ね、 純淵斉繁林重榮居士の仏前に花をたむけたと想像されるのです。
 特に、私は鎌倉の比企筋『丹後内侍』が島津忠久を生んだ事から「薩摩島津藩」と「比企家」との関わりに拘っているのですが、江戸時代、越前福井松平藩に仕えた「比企家」の『薩摩藩』との関わりは「島津」と言うよりは『西郷隆盛』一人との関わりに絞られると思うのです。
 薩摩島津藩の外様大名400年の歴史が育んだ「薩摩武士の魂」が『西郷隆盛』一人の中に象徴的に表されていると思えてならないのです。
 1203年(建仁3年)9月鎌倉の小御所を血で染めた「比企の乱」は鎌倉幕府(北条筋)の『上意討ち』であったわけです。比企能員は前日に北条時政の館を訪れる段階で既に「族滅」を予期していたのではと思うことがあります。
 それから、674年後、、、1877年(明治10年)2月薩摩(鹿児島)に挙兵した西郷隆盛の「西南の役」は既に開戦未明に自刃覚悟の戦い、、「上意討ち」であったわけであります。そのことを『西郷』は知っていたと言われています。死に場所を探す戦いであったとよく言われています。
 この章の冒頭で越前福井松平藩の『松平直堅(権蔵)騒動』にふれ、『堀十兵衛』の今庄宿での切腹、「比企藤四郎」の板取宿での殺害について『上意討ち』死を論じました。

 これらの『上意討ち』を共通項にしてくくった場合に「比企福造」の『謎の死』が少し見えてくるような気が致します。
 私の想像ですが、、、
 比企福造は西南の役前後、頻繁に薩摩(鹿児島)、熊本、大分など九州の危ない場所に出張を重ねています。役務( 別働第三旅団歩兵第三大隊副官)がら当然といえば当然なのですが、西南の役の真っ只中に身を置いていたのは確かな話です。
普通に考えましたら、西南の役で功績があったと言う場合は、反乱軍(薩摩)と敵対した官軍に参加して、軍功をあげることをいいますが、私は、『福造』の軍務はもっと複雑な仕事であったと考えます。今で言う『スパイ活動』であったと考えられます。
 そして、これも想像ですが、過去の因縁からして、『西郷隆盛』寄りの諜報活動が頭から離れないのです。(何か血の流れのようなものを感じます)
 中原尚雄警部と20余名(一説に60余名)の私学校突入組みは私学校生徒により、捕らえられ厳しい拷問を受けたとされています。
 この20数名(一説には60余名)の人たちは殆どが、その後解放されて明治政府の要職(各所の県知事等を歴任)に付いたという話も漏れ承っています。
 この人々は大久保、川路の路線を踏襲し組織立った動きに準じた方々であったと思います。
 反面このような大きな騒動と言うものは、必ず、万一に備えて保険を掛けるものです。
 西郷隆盛側(寄り)の弁護士的な道筋のようなものを作っていたのでは無いかと思えるのです。(20余名の活動の裏付け捜査か?あるいは、失敗した時の暗殺部隊?)
 私は大久保、川路が二股を掛けていたと考えています。
 その後、誰から出た話か知りませんが、、、
 中原尚雄が拷問をうけ、取調べ調書のなかで薩摩入りの目的が、薩摩(西郷)の、、、
 『刺殺』か?『視察』か?などと言う子供騙しのような話が現代まで語り伝えられているなど、、、他にこれに類する話はたくさんあったと考えられます。
 そして、この20数名(一説には60余名)の人たちが解放され、論功行賞を受け要職に登用される(所謂、勝ち組)段階では、検事側の大勝利で弁護士側(比企福造側)敗訴の決着となったのでは、、、と思っています。
 その時の、ご政道の綾のようなもので、片側の論理の証拠隠滅が必要になったと解釈しています。(下の者はたまった物ではありません!)
 これは、正しく『上意討ち』(切腹か?)であります。
 そして、「お上」への報告は『病死』と届けるのが、江戸時代の武家の慣わしであったのです。(密かに、大阪鎮台の片隅で起こった出来事では、、、)
 確か、明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法発令に伴う大赦で赦され、西郷隆盛に正三位が追贈された。とあります。それは明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があったとされています。(天皇の名が使われるなど不可思議な話です!)
 「西南の役」12年(一回り)後の天皇の名のもとに出した180度転換の答えは『福造』爺にあの世で是非聞いてみたいと思っています。
 しかしながら、『福造』の「切腹?」明治18年(1885)から僅か四年後に事の真相が解明されて、大赦(無罪放免)などは早すぎる豹変劇だと思えてなりません。
 ちなみに、大久保利通さんがお亡くなりになったのは、明治11年(1878)に暗殺。
      川路利良さんは明治11年(1878)病死(一説に毒殺?)とのこと。

 多分、小生はその明治22年の西郷の大赦の頃から、『比企福造』他の 弥生慰霊堂への国に殉じた職員として、英霊の慰霊が取りざたされたのではないかと考えます。
 其の話は親族には関係の無い話として進められたのではないかと思います。

 越前福井の比企家に伝わる「福造」爺さんの『院殿号』の謎、、、福造爺さんは西南の役で目覚しい功があって、若くして亡くなられた(39歳)が、凄い人であったのだ!
と語り伝えられてきた「福造ロマン」の謎解きと致します。
 今となっては「死人に口無し!」の話ですが、比企儀長叔父と比企たま(福造の妻)が何か、大阪の鎮台で聞かされて、死ぬまで黙秘し続けたとしたら、歴史は完全に塗り替えられると言うことでして、現代の何でも「デスクロージャー」の時代には考えられない話です。

 比企筋「薩摩ロマン」が語りかけるのは、、、、

 親藩家門の重鎮の福井松平藩(悲運の親藩)と400年の外様大名薩摩島津藩に「共通の家風」があったとしたら、旨くいえませんが、菊池寛が名作「忠直卿行状記」の中で表現しようとした武士社会の無常観の様な物を想像します。たくさんの家臣が400年の間に『上意討ち』(切腹?)で殿を諌めてきたのだと思います。(けっして、赤穂浪士の仇討ちの様な派手な歌舞伎ではありませんでした)

 幕末の時代にほんの一瞬ですが、松平春嶽と島津斉彬という有名な賢候を頂いて、木漏れ日が射したひと時があったということです。

 その瞬間の方が異常なひと時であったと思った方が慰めになるかもしれません。
 そんなことで怯むような「軟な武士」ではない!とお爺ちゃんたちが言っています!

                                 合掌

 PS、、 あくまで、物語の上での話しなのですが、、西郷隆盛が鎌倉の比企能員であったとしたら、、、大久保利通は北条時政のようなものです。
 西南の役で「隆盛」(比企能員)が落命する瞬間に、、かって『共に』、、島津斉彬(頼朝)を担ぎ、利通(北条時政)と旗挙げした頃の、、直向な心が一瞬頭を過ぎったのではと思えるのです。二人はそれ程『仲良し』だと思っていたのです、、、少なくとも、、西郷隆盛(能員)という「男」は、、
でないと、、名越亭の薬師如来供養の為、、単身参向つかまつるとは、、
これが、、「福造」の674年間の疑問だったのです。

次回から、、その拘りについて、、
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月23日 03時25分59秒 ) パスワード

>西郷隆盛が鎌倉の比企能員であったとしたら、、、大久保利通は北条時政のようなものです。

面白くなってきました。にっこり



「西郷」って
諫早の西郷家と関係するのでしょうか?
(秀吉の意を汲んだ)竜造寺にやられた西郷家でございます。
[19]林原英祐さんからのコメント(2009年09月23日 14時44分33秒 ) パスワード

今回、追伸として、この「行」を書き込むことにしましたのは、関東の青田様に出会ったからです。青田様の御親切な協力により、新しい事実が分かりました。
 感激(少し大げさですが?)の余りの挙動です。ありがとうございました。

 
(5)薩摩:追伸、、、女系から見た『薩摩ロマン』(福造爺)

  雨垂れ石をも穿つ(あまだれいしをもうがつ)

 「想い」が強ければ、、強さが重なれば必ず実現する!
 世襲の時代にはこれが普通の考え方であった。
 そのまま通ることは少ないが、、、 
 毎日同じ空を仰ぎ、、子孫(家)のために、、、
 
  座敷の畳を裏返し、、刃毀れと油廻りを予期して、、
 家中に有るだけの『刀』を突き立てて、、「上意」の来訪を待つ。
 「志」は相手の刀で切り殺され絶えるまで、、立ち向かう。
 そうすれば、、、想いは真っ当される。
 封建の時代にも、下位の志が叶えられる方法があった!
 少なくとも、、今よりは自由に、、そして、確かに、、、

 比企福造朔輔を格とした『薩摩ロマン』にどうしてここまで拘るか?は、、
 4〜5世代前の「雨垂れの音」が聞こえてくるからです。
 少し時代を遡った説明が必要です。
 お付き合い頂けるでしょうか?

 幕末に向けて、越前松平藩の片隅に漂う物語は『五つの歴史の必然』から聞こえてきたものです。

 私の口癖である越前松平藩で際立った「比企家」の親戚は、「生田家」と「加藤家」と「横田家」と「鈴木家」などであります。その筆頭は勿論『鈴木家』なのですが、鈴木家が比企家に繋がる深い『縁』のようなものを感じます。そのあたりを解き明かしていきたいと思っています。

 刑事の捜査や考古学の発掘のようなもので、、、歴史の必然と大胆な仮説から出発して、裏づけ資料を探していきたいのですが、思うように進むでしょうか、、大半が状況証拠の域を超えられないで終わることになると思いますが、とにかく進めて参ります。
[20]林原英祐さんからのコメント(2009年09月23日 22時15分22秒 ) パスワード

[T] 歴史の必然、『生田家』(100石)の登場と新事実

 生田家が初めて、登場するのは「比企系図」の三代比企佐左衛門榮槍の記事の末尾に「後妻は生田十左衛門娘鈴木彦太夫養女リヨ」の一行で紹介されています。
 その一行前に妻(正室)は鈴木彦太夫重英娘リノと、、享保3年(1718)卒19歳と書かれてあります。

 四代「榮禎」が享保2年(1717)の生まれですから、腹は正室鈴木彦太夫重英娘リノの子に間違いないのですが、僅か一歳に満たぬ乳飲み子の養母(後妻)に生田十左衛門娘リヨを娶っている。(参考までに、後に登場する加藤所左衛門に嫁ぐ「ミヤ」は、この後妻生田リヨの子である)

 小生(英祐)の断定的仮説『生田家は鈴木家の深い親戚筋!にあたる。』は、後妻は生田十左衛門娘鈴木彦太夫養女リヨの一行の紹介にあります。
 わざわざ、先妻の里筋に養女に入れてからの後妻入りに嫁筋の深い責任感の様なものがひしひしと伝わってきました。
 この話は一旦、ここで小生の想像話として終っていたのですが、、、
 このたび、横浜の青木様の登場で、新しい事実が判明することになりました。
 事は青田様が鈴木家の先祖(母筋)の池田家を勉強されていました、小生の越前比企一族物語に訪問者として参加されましたことから、発展して参る『お話』であります。
 青田様の国立国会図書館での御勉強の収穫は、、、、
 @福井市史第四巻(近世資料編)A越前生田一族物語(生田徹男著)との出会いに始まります。
『福井市史』ではP.613に鈴木家の系図三代鈴木彦太夫重英の記事中に養子、久世市左衛門久休三男の一行を見つけられたのです。
 A時間的には少し後になるのですが、『越前生田一族物語』のP.92 に三代生田十左衛門勝吉の記事中に養子、実父久世市左衛門久休とあるのを発見されました。
 これは小生の推理によるものですが、勝吉(1650〜1713)、重英(1674?〜1747)から、勝吉が兄(次男)で、重英が弟(三男)であると思います。

 この二つの話を繋ぎ合わせると、鈴木家と生田家は全く異なった別の家系『久世家』から、兄弟の関係にある「重英」(三男)と「勝吉」(次男)を養子として迎えていたのです。
 この実の兄弟関係が「縁」となって、比企家で花開いた話になったのです。
 強い絆で結ばれた『親戚関係』は間違いなかったと言うことです。

 又、後妻生田リノが使命感をもって育てた四代比企文左ヱ門榮禎の正室に生田家四代生田六左ヱ門宣政の娘を迎えているのも次の世代の話であります。
 そして、その二人の間に生まれたのが『五代比企榮脩』になるのであります。
 これから話の中心人物となります『六代比企榮庸』の父親であります。

 生田家を抜きにして、越前比企家は語れないほどの深い親戚であります。
 私はこの生田十左衛門の娘リヨ(榮槍の後妻)をして、鎌倉の『比企尼』をイメージするほど、縁の下の働きを感じるのです。感謝に耐えません。

 遡れば、久世家の御兄弟(養子)が困った時の兄頼みで、お声を掛け合って奔走されたことを想像すると、今でも熱いものがこみ上げて参ります。

 少し触れておきますが、未解明の五代比企榮脩の後妻、筒井仁右ヱ門娘チヨ天保5年(1834)卒75歳(専求院)も。あの六代比企榮庸の母ですから、、きっときっと立派な生田リヨに負けない物語があると確信しています。
『筒井仁右ヱ門娘チヨ』の探索を諦めてはいません!!

 前に越前比企一族物語に書き込みました「菅沼平兵衛の室ナヲ」の母なのですから、、、

「越前真田信正七代当主養子真田俊五郎兵衛幸孝」の母でもあります。
@信正A幸寛B幸明C幸里D信光E幸度F幸孝G幸寛H幸衛I一夫J幸雄K安江

 この項で申し上げたいのは「生田家」が強い力で「比企家」と「鈴木家」を後押ししている、、『雨垂れの音』が聞こえてくる!と言いたいのです。
[21]林原英祐さんからのコメント(2009年09月25日 15時54分44秒 ) パスワード

[U]歴史の必然、「加藤家」(150石)の登場と新事実
 
 前述の「生田家」から、後妻生田リノが比企榮槍の元で生みました娘『ミヤ』が成人して、加藤所左衛門(先代加藤所左衛門重羽と三代鈴木彦太夫重英の娘との間に出来た嫡子)に嫁ぐことになるのは、、、
 少し後のことになります。
 ものの本によれば、、、、曽祖父・加藤宇之助重成は肥後守清正の父・弾正右衛門兵衛清忠の弟。重成の孫・内蔵助重政は加藤家改易後の寛永15年(1638)、三代・忠昌に召しだされるが、越前に赴く道中病死し、子の『重直』が替わって召しだされたとあります。
 
 その名を「加藤所左エ門重直」と記されてあります。
 
 多分この「比企榮搶」の娘『ミヤ』の婿「加藤所左エ門」は上記「加藤所左エ門重直」の曾孫になると考えます。

 『福井市史』資料編4巻の加藤家系図に寄れば、加藤所左衛門重直ー加藤与八郎信成ー加藤所左衛門重羽ー加藤所左衛門(諱不知)とあるので、曾孫にあたると考えます。

 越前福井の比企系図を見ても、越藩史略を拾読みしても、親戚筋の名前を辿っても、、やたらに『加藤家』の名前が目に付きます。
 一番、小生の頭から離れないのは、、、
越前比企物語の[30] 越藩史略から「拾い読み」のなかに述べました行、、

 *371頁…享保6年(1721)12月18日故松平伊予守(8代吉邦公)の葬儀(於運正寺)の警衛隊に『西之馬場口』担当として「比企佐左衛門」と「加藤所左衛門」の名があげられています。
 
 「比企系図」の読み返しによれば…8代松平吉邦公(昇安院殿)代、3代比企佐左衛門榮搶(200石)の『37』歳の出来事と推測します。

*445頁…享保15年(1730)3月22日10代宗矩公(徳正院殿)、始めての越前入り行列旅宿の定めの中に『御使番』として「比企佐左衛門」馬、「福田直右衛門」馬、「加藤所左衛門」馬、「加藤茂右衛門」馬の4名が上げられている。(参考までに、4月6日越前藩城に入るとある。)

 「比企系図」から解釈すると…上記の3代比企佐左衛門榮搶(200石)の『46』歳の出来事で、加藤所左衛門(義弟=榮搶の妹:ミヤが所左衛門に嫁いでいる)とのつき合いの深さが想像されます。
 「3代比企佐左衛門榮搶」は翌享保16年(1731)正月14日47歳で亡くなったことから、遡れば「1年前」の話であります。
 その光景に見られる、、互いに寄り添う様なホノカナ関係に深い深い『縁』を感じていたのでございます。

 この度、青田様(鈴木主税様の遠縁に当たる)のご協力で越前福井の鈴木家の系図(写)を頂戴しまして、『鈴木家』の三代(養子)鈴木彦大夫重英(前述の久世市左衛門久休の三男)の娘が加藤所左衛門重羽に嫁いでいた事が判明致しました。

 その事で、前記の3代比企佐左衛門榮搶の妹(ミヤ)の夫はこの鈴木家から嫁いだ 鈴木彦大夫重英の娘を母として生まれた『一世代後の話』であった事がわかりました。

 この項で申し上げたいのは「加藤家」が強い力で「比企家」と「鈴木家」を後押ししている、、『雨垂れの音』が聞こえてくる!と言いたいのです。
[22]林原英祐さんからのコメント(2009年09月28日 08時30分24秒 ) パスワード

V]歴史の必然、「横田家」(200石)の登場と新事実

 『横田家』は鈴木主税を奉る「世直神祠(神社)」の神位(表)に「横田作大夫様」の名を見つけたときに、、、ああ、あの「横田キン(6代比企榮庸の後妻)はやっぱり鈴木家の親戚筋だったんだ!」と思いました。
『横田キン』(1789〜1870)享年81歳…横田作太夫の娘
  『6代比企佐左ヱ門榮庸の後妻』…智照院光譽妙貞大姉

 福井松平藩の重臣『横田家』から『比企家』に後妻として嫁いだのですが、

@嫡男『榮信』を35歳の若さで失い、『跡目相続』で活躍することになります。嫡孫(榮信の子)「榮徴」が10歳の幼年であった為、、
 
A養子『8代比企幸次郎栄貞』(先代の孫:本田家)を迎えた。

B又、血を濃いくするために、、既に真田家に嫁いでいた『次女リュウ』を和順離婚させ「榮貞」と再婚させている。

C養子『8代比企幸次郎栄貞』の相続に成功しますが、『栄貞』も25歳で病死することになります。(若死にが二代続く!)
 
D先代『榮信』の嫡男9代「榮徴」が12才になっていたので、小姓として初出仕した。とあります。

 比企榮庸の次女リュウ(ジュンとリュウは横田キンが81歳まで手塩にかけて育てた愛娘達)の比企家の中での『世継ぎ』苦労話がありました。
 そのことで、後に出てきます『鈴木家』に嫁いだ『ジュン』(リュウのお姉さま)の隠れた「生き様」を推し量ることができると思います。

 比企リュウ(次女)が、真田源五郎(7代真田幸孝の嫡子8代幸寛のこと)に嫁いだのは、、姉「ジュン」が鈴木主税重榮の室となって1〜2年後のことであったと思います。
 
 7代養子『榮貞』の死亡時点での、、、
 『キン』(当時62歳)の取り巻き…
 ★3人の娘達 @嫡男『榮信』の後家『モト』(当時30歳)
        A8代榮貞の室(キンの次女)後家『リュウ』
                      (当時29歳)
        B鈴木主税重榮の妻(キンの嫡女)『ジュン』
                      (当時30歳)
 ★3人の孫達 @9代当主『榮徴』(当時12歳)
        A10代『儀長』(当時10歳)
        B別家『福造』(当時6歳)

この度、青田さんと知り合うことで、新事実が判明しました。
 6代比企榮庸の妻、、女傑横田キン(長寿81歳享年)が横田作太夫の娘であることは分かっていたのですが、青田さんのお便りに寄れば、4代鈴木長孝の娘が二人『横田作太夫』に嫁いでいる。先妻は次女「久台院」で1765年没、で後妻は3女「円明院」で1825年没とあります。
比企榮庸の後妻として嫁いだ横田キンはどちらの横田作太夫の妻でしょうかとの、、質問でした。小生も資料(系図のなか)に書き込まれていない質問であったので当惑したのを覚えています。
 小生は横田作太夫娘キンの記事の中に、卆年明治3年、、81歳を見つけました。逆算1789年生まれと言うことが判明致しました。そのことで「キン」の母は後妻3女「円明院」であることがはっきり致しました。
 私がこのことをわざわざここに記すのは、物事の必然性について『拘り』たいからであります。
 6代比企榮庸の妻、、女傑横田キン(長寿81歳享年)が傑出していればいるほど、その母が2人居てそれが姉妹で妹の方の子供であると言う、複雑な道筋を通って、、わざわざ登場したことに『意味』を見つけるのです。
 多分、このこと(横田作太夫の娘キンの母親が、4代鈴木長孝の3女で2女ではないということ)を知っているのは地球上で『青田さん』と小生の二人だけであろうと思うのです。それは大変なことです。
 そして、平成の御世に120年前のこの事実を小生たち(青田さんと)知らなければならなかった『必然』は何なのか、、、耳を澄まして聞こえてくる「雨垂れの音、、一滴」が聞こえた人達だけに、、「石をも穿つ」ことが許されるのです。
 私は横田キンの愛娘「ジュン」「リュウ」から目を離すことが出来ないのです。

 この項で申し上げたいのは「横田家」が強い力で「比企家」と「鈴木家」を後押ししている、、『雨垂れの音』が聞こえてくる!と言いたいのです。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月28日 13時24分47秒 ) パスワード

嫁に出ていたのを離縁させて別の人に娶わせるとか
姉が早死にして、妹が後添えに入るとかいうお話は日本ではよく聞きますが
本当にあるのですねえ。


でもハッキリ3女の方の子、というのが分かって
「久台院」さまと「円明院」さまとは御安堵なさっていらっしゃいますでしょうね。


福田さんというお宅は名古屋に結構ありますから
福井の福田さんも尾張・三河の関係者なのかしら?と楽しみになりました。


横田さんも名古屋に多いですしね。
(横井家は尾張藩の御重臣の家ですが)


本当に「家」を守るって、家書を調べていますと、大変な秘密があってのことなんですねえ。
[24]林原英祐さんからのコメント(2009年09月28日 20時13分21秒 ) パスワード

ありがとうございます。

私達が社会の片隅で、ひっそりと、、何気なく営んでいます普通の生活について、、今から200年ぐらい経った時代に、、誰かが、、『あっ!そうだったんだ!』と、、問題にして下さる方がいらしたら、、
 
 そのような「必然」はきっと何かが有るからだと思います。

 朝晩、少し涼しくなりました。
[25]林原英祐さんからのコメント(2009年09月28日 21時45分36秒 ) パスワード

[W]突然、襲う「比企家」と「鈴木家」の相続悲劇!

 6代比企榮庸の嫡女『ジュン』は嫁ぎ先「鈴木家」で弘化元年(1844)12月8日に嫡男(秀松)を産んでいます。

 長女は天保13年(1842)正月20日に生まれましたが、わずか6日間の短い灯を消しています。悲しみも覚めやらぬ内に次女(蝶)を翌年天保14年(1843)7月4日に授かっている。特に「主税」の慶びは過ぎたるものを感じさせられました。

 そのことを忘れられなかった「ジュン」が後に福井清源寺に有る「主税」のお墓の脇に『女蝶子の墓』として、寄り添うように葬っているのを見ると、その時の主税の思いが伝わってきます。

 そのことにも勝る、嫡男「秀松」の誕生は、当時余り明るい話題が少なかった「比企家」と「鈴木家」を明るくした。

 年が明けて弘化2年(1845)早々に、秀松を追っかけるようにして、
7代比企榮信の四男「外五郎朔輔(後の福造)が生まれたのである。

 こちらは、四男でもあり、そんなに話題にならない話でありました。

 確かに、わずか3ヶ月程の差で、追っかけるようにこの世に出た二人は何か強い縁に結ばれていたのではと思っています。

 秀松と福造をこのように並べて取り上げるのは私だけかも知れませんが、実は「もう一人、、」その後「福造」が気になって仕方が無い方がいました。

 そうです。『秀松』の母「ジュン」その人でありました。

 ジュンがお手柄を父に、、母に誇るように、、、手寄町の『比企邸』を訪れる回数が増えたのは母キン(当時56歳)、父榮庸(当時62歳)、福造の母モト(当時23歳)が福造を抱いて迎えていた。

 『秀松』と「福造」を重ね見て、、皆の顔が綻ぶのでありました。
 残念なことに、そのような幸せは永くは続かなかったのでございます。

 嘉永3年(1850)9月24日、6歳を数える「秀松」が突然病死することになります。それより3ヶ月前になりますが、、、比企家7代榮信(福造の父)が若干35歳(享年)で旅立っていたのです。この年は比企家にとって暗雲が立ち込めた年であったのです。

 家の主を急に失った家中は大騒動の真っ只中にありました。

 比企家では鈴木筋の横田家から嫁いでいた「キン」(ジュンとリュウの母)が奔走したようです。

 榮信の嫡男「榮徴」はわずか10歳と言う幼年につき、養子縁組が必要となりました。

 まず、既に名門越前真田家に嫁いでいた次女「リュウ」を和順離婚させ、リュウの婿養子として、先々代、5代榮脩の末子『三十郎』(本多門左衛門養子)の次男(リュウの従姉弟)を迎えている。

 これが、、8代幸次郎榮貞であります。(リュウの犠牲は大きい!)
 
 嘉永3年(1850)6月5日のことでありました。
 同年7月29日無事に家督200石無相違とされたとあります。
 ところが、わずか二年後1852年(嘉永5)正月7日に25歳を向かえた『榮貞』は病死してしまいます。

 嫡男榮徴がやっと12歳になったばかりでしたが、、9代当主を願い出たのでございます。「200石無役御留守番入被仰付と有ります。」

 『キン』の愛娘「リュウ」の志は一瞬しして『泡』として消えてしまったのでございます。もう1人の愛娘(お姉さん)『ジュン』はどんな気持ちでこの妹の不幸を見ていたのでしょうか?
 確かな話として、、この時も「ジュン」の頭の片隅を「福造」のことが過ぎったと思うのです。

 「福造」を鈴木家の養子に貰えないか???

 考える事より、、現実が早く進む、、
 誰かの「歌詞」の一節に、、「もう少し時が緩やかに過ぎたなら、、、」と言うのを耳にしたことがありますが、、、
正にそんな事が思い浮かぶ程テンポが速く過ぎていったのでございます。

 人の世に『血も涙』もありません。
 皮肉にも、リュウ(妹)が可哀想!と思っていた、、ジュン(鈴木の姉)の元にこうまでも「酷似」した不幸がと思われる、其のまま写したような悲劇が起るので御座います。誰がそんな事を想像できたでしょうか!
 驚きの一言でありました。

 1856年(安政3)、皆様がご存知の安政の大獄(安政5年9月〜)より2年前の話なのですが、、後に安政の大獄で尊い命を落とす「橋本左内」の生みの親とされる(この世に出した)、、越前福井藩家老(450石)「鈴木主税重榮」が43歳(享年)江戸で病死するのでした。

 『二年後、大獄で橋本左内が刑死するなど知らずに、、の旅立ちでした。』
 詳しくは、ジュン(比企榮庸の嫡女、、リュウの姉、、キンの愛娘)の夫鈴木主税その人でありました。

 「ジュン」の悲劇は1850年(嘉永3)9月の秀松の病死(6歳)が長女の早世(1842)に続く悲しみであったのですが、、主人「主税」に死なれた事で,周囲の心配は一度に鈴木家の世継ぎ(養子問題)に発展したのです。

 少し周囲の状況を整理いたしますと『秀松』の急死で嫡男を失った落胆から、周囲の進めもあって、夫「主税」の判断で、雨森家(親戚筋)の養弟鈴木重徳との養子縁組をしておりました。1851年(秀松急死の翌年)その後、体調の優れない毎日が続いていたのですが、、結果として次男「小太郎」を懐妊していたのを、後で知らしめられることになったのです。

 1851年(嘉永4)12月21日鈴木小太郎重弘が誕生しました。
 夫「主税」は『義』の塊のような人ですから、@重徳(養子)A嫡男重弘の順位を何よりも優先する考えを家訓として、生きたので御座います。

 母親「キン」から見て、「ジュン」の性格が少し暗くなったと心配になりだした頃、、、江戸から主税の急病死を伝える早飛脚が届いたのです。「ジュン」にとって、谷底に突き落とされた様な衝撃が走りました。

 「神も仏も存在しない!」と思わず天を仰ぎました。

 主人(主税)の残した遺言らしき家訓によれば実子の重弘に相続することもかなわず、重弘も今はまだ幼少5歳、見るからに痛々しく感じられる状態でありました。

 「ジュン」が里の母「キン」に相談して決めたことは、唯一残された『主税」が目に入れても痛くないほど可愛がっていた「愛娘:蝶子」を「養子重徳」の許嫁として、『重徳』の相続を願い出たのでありました。

 お上から相続についての許しは下りたのですが。『天の声』は許さなかったので有ります。

 1857年(安政4)4月8日重徳(享年19歳)同年6月15日「蝶子」(享年15歳)と立て続けに病死することになりました。

 残された小太郎重弘がやっと6歳になった夏は例年に無く耐えられないほど暑かったのですが、記録には残ってはいません。

 結果として、鈴木主税と比企ジュンの実子である鈴木小太郎重弘が鈴木家の家督を継ことになりました。
 そして又、私の拘る、、、本文。冒頭に「はしがき」した『秀松』と『福造』の重ね絵、、、楽しかった手寄町の『比企家』での笑い声が蘇ることもなかったのです。(福造:12歳の出来事でした)
 
 ここでは僅か1850年(嘉永3)7代比企榮信の病死に始まる比企家の『相続悲劇』と1856年(安政3)7代鈴木主税の病死に始まる鈴木家の『相続悲劇』が気味が悪い程酷似しています。

 前段の比企家の不幸は前にも述べた『次女リュウ』を中心に展開されたものであり、後段の鈴木家の不幸は6年後『長女ジュン』を中心に進められたものである。そしてこの姉妹は6代比企榮庸(最高峰)とその妻横田キンの間に出来た愛娘たちである。

 少なくとも、後段の『ジュン(姉)』が指揮した鈴木家の悲劇は6年前の『リュウ(妹)』のシナリオに『拘り』があったことが失敗の原因のように思えてならない。呪縛からの解放が出来なかったことが、、すなわち、私の云う「鈴木福造」ストーリーが芽生えなかったが敗因であったのではと思ってしまいます。

 この項で申し上げたいのは、強い力で「比企家」と「鈴木家」が相互に後押しし合っている、、『雨垂れの音』が聞こえてくる!と言いたいのです。 
[26]林原英祐さんからのコメント(2009年10月02日 05時40分26秒 ) パスワード

 [X]歴史の必然、「鈴木家」(450石)と「比企家」(200石)との接着剤

 これだけ沢山の『家』と「人々」が鈴木家と比企家の接着に執着したのか、、
 300年間(約3世紀)続いた江戸幕府が崩壊前夜、越前福井の片隅で密かに『風』が吹いたのか?

 鈴木家の盛り上がりは3代養子「鈴木彦太夫重英」(〜1747)に始まる、、、嫡男「重平」(〜1733)の嫡子4代伝之丞「長孝」(1736〜1794)で花開きます。

 同じように、比企家の最高峰7代「榮庸」の出現は、3代「榮槍」(〜1731)、4代「榮禎」(〜1785)、5代「榮脩」(〜1816)の基礎固めがあっての、、、「榮庸」であります。
 6代比企榮庸(越前福井比企家の最高峰)の登場と後妻横田キン(横田作太夫娘)の尽力により鈴木主税重栄の室に嫡女(ジュン)が嫁ぐことになりました。

 1840年(天保11)頃、明治維新約30年間程前の話であります。

 再度、申しますが、、、
 「榮庸」の大傑作作品は愛娘(まなむすめ)「ジュン」を鈴木家4代当主養子鈴木主税重榮に嫁がせたことにあったと考えます。「榮庸」が英明であったのは、過去100年に残された『雨垂れの音』を謙虚に聞く耳を持っていたと云うことです。

 迫り来る「維新の息吹」を感じる中で、、越前福井藩に登場する傑出した「君主」松平春嶽(これまで主君に恵まれなかった福井藩)と『鈴木主税』に大きな期待を持っていたと推察されます。

 「栄庸」と「主税」の繋がりは「江戸詰め」を中心にして始まったもので、多分『松平春嶽』との関係も「田安家」時代からの積木であったと想像されます。
 私は「鈴木主税重榮」のことを、、、『お盆』を過ぎた『秋茄子』に喩えて考えています。

 盛夏に紫花を咲き誇らせ、一面に実(茄子)をつけるが、お盆の頃になると、開花がピタリと止まり、、実も結ばなくなります。

 お盆の内に、枝を切り詰めて、、追い肥を入れておくと、、9月後半から、、再び一斉に開花し結実するのです。

 昔から、「秋茄子は嫁に食わせるな!」、、それほど「美味」であるとの例えであります。
 しかし、収穫時期は非常に短い(時には一度切り、、)のです。
 一瞬の清涼剤のような、「秋茄子」が際立って美味で印象が強いのは短命なことが原因しているのかもしれません。

 「榮庸」が丹精に仕立てた「秋茄子」(主税)は『ジュン』(妻)を通じて見事に、、、「藤田東湖(水戸)」「橋本左内(安政の大獄)」「西郷隆盛(西南の役)」「松平春嶽(病死?)」、、として越前福井藩に一瞬の『木洩れ日』を射させたのは事実です。

 私は「鈴木主税」(ジュン)と「西郷隆盛」とに関係の延長線上に松平春嶽と島津斉彬の『志(こころざし)』らしきものに拘っているのですが、
 その中心的な闘いを投影する形で『比企福造』の生き様を見つけようとしているのです。

 人々の口に上る『福造』爺(ジイ)は西南の役の功績大なるをもって「院殿号」(福井清源寺)を貰ったといわれるのですが、、、

 西南の役の戦功と聞けば普通その瞬間に政府軍(官軍)として、西郷軍を打ち負かせた功績と短絡してしまいます。まして「福造」はあの有名な川路利良の指揮する別働第三旅団第三大隊第一中隊長(征伐総督本営)に配属されていたのですから、、バリバリの特務機関精鋭であったと考えられます。

 私は健康であった「福造」爺が39歳の若さで突然病死(大阪鎮台で)した「死因」に不信感を持っていますから、そのように考えてしまうのかしれませんが、、、

 全く「逆」の考えで、、西郷隆盛に『謀反』の痕跡は無かったと言う主張を展開していたのではないかと思っています。

 当時の主流(中原尚雄警部らを中心とした西郷陰謀説の裏付け)派とは真っ向から対立するものであったと考えられます。

 当時の主流派の揉み消しの犠牲になったと考えています。

 私がこれを武士道(一本道)、、『上意討ち』(揉み消し)として感じるのは、、「西郷」の、、「比企」の、、歴史の中にに流れる、、与党改革論(一本道)から抜け出せない悲しさを持っているからです。
[27]林原英祐さんからのコメント(2009年10月05日 03時46分00秒 ) パスワード

[Y]結び、『一本道』、、『6代比企榮庸』の「志」は何だったのか?

私は松平春嶽が明治維新の前夜に越前福井藩で慎みを持って一瞬の『木漏れ日』を味わったと書いたことがありましたが、明治維新の主役であった「薩長土肥」を中心とする「反幕思想(錦の御旗)」に裏付けられたエネルギーとは少し異なった『改革路線』は確かに存在しました。

私はその流れに埋没していった福井藩に興味を持っています。

 かって幕末『四賢候』の時代に薩摩の島津斉彬(西郷隆盛)が志した幕府内部から苦労しながら「与党改革論」の流れを着実に築きあげていました。

 歴史の悪戯が、、井伊大老の「安政の大獄」や島津斉彬の急死でもって流れが変わってしまいます。

 突如として起った『安政の大獄』の事変が副作用として反動勢力「長州主役」の流れを作ってしまうのです。

 流れは一気に「倒幕津波」となって、急展開します。

 私は西郷隆盛の中に有る「自己矛盾」は正に「島津斉彬」と「島津久光」との間を揺れ動くことにあったと思う事があります。

 もちろん、「隆盛の拘り」は島津斉彬の信条(隆盛の若き血を躍らせた)から脱皮することは出来なかったの一言で説明がつくと考えます。

 そこが、大久保利通と西郷隆盛の武士道の違いであると断じて間違いないと信じます。

 又、薩長土肥の側の論理によれば、倒幕思想がエネルギーの中心に据えられるのですが、、、残された親幕府側の「改革派」にとっては『武士道』手続論として藩内での説得工作が大前提でありました。

 その時代に生きた方々の『生の声』が聞ければ(永遠に聞けない)、多分『上意討ち』覚悟の説得、、3〜4代かけて積木を積みながら『物言い』をしなければ、300年間(3世紀)の江戸時代は永かったと考えます。

 幕末『4賢候』の存在意義はその時代には大変なものであったと思います。
マニフェストの『政権交代』スローガンはマスメディアの発達のお陰です。

 西郷隆盛が傑出した人物だと云われるのは島津斉彬に教えられた『話せば判る!!』と云う「一言」を信じた所にあります。

 『西南の役』はそのような『戦(いくさ)』であったと思います。

『上意討ち』(物言い!)の武士道そのものであったと考えます。
「西郷隆盛」の『呟き』を聞けば、多分「西南の役」は武士の勝戦であった程度のことなのでしょう。

 私自身の中にある『与党改革論』によれば、、、

 @ 内からの改革は『上意討ち』覚悟でなければならない。
 A 側用人による改革は『上意討ち』の覚悟が無いので失敗する。
   『辞表』(辞める!)や『切腹』(自分で殺する!)でもダメ。
 *「上意討ち」と切腹の違いは相手の刃で「切り殺される!」ことにある。
 B 外からの改革は謀反であって、反動の謀反を覚悟しなければならない。

 さて、本題に話を戻しますが、3〜4代にわたり血の流れの中に熟成してきた「生田家」と「鈴木家」と「比企家」等の福井藩の「家老格」(参謀)に花咲いた考えは「与党(幕府)改革論」であって、薩長土肥の倒幕思想ではありません。

 倒幕思想は『武士道』に反する考えであって、彼等に許容されるものではなかったと考えます。

 又、攘夷思想(倒幕論は攘夷論と結びついていた)ではなく、開国論を主張する与党改革論者は意外とたくさん存在したと言われているのも特筆されることだと思います。

 よく言われることに、坂本龍馬や橋本左内や勝海舟は熱烈な開国論者であったとされています。

 私は『比企福造』で結実された西郷隆盛復権運動(静かな上意討ち)は大久保利通や川路利良の指揮する明治中枢機関の真っ只中で、、、
 西郷隆盛に対座(西南の役)せざるをえなかったとき、、、、、

 どうしても、、、
 松平春嶽(鈴木主税)や島津斉彬(西郷隆盛)の「志」について、避けて通れなかったのでは?と考えてしまいます。

 再度申しますが、、
 西郷隆盛が傑出した人材であったとされるのは、、島津斉彬の臣下であって、島津久光の臣下にはなり得なかった、、一点にあります。

 そこに西郷の「大久保」と異なった「武士道」を見ることが出来ます。

 同じように、比企福造の墓石に残る「院殿号」の輝きは、、
 松平春嶽(鈴木主税)と島津斉彬(西郷隆盛)の「志」に忠実に反応したことで鈴木主税の後継者ポストが比企朔輔福造に用意されたポストであったと思えてならないのです。

 鈴木家の、比企家の先々代からの願いであったのではないかと思うようになりました。(神のみぞ知る話です。)、、
 それが私に聴こえる「雨垂れの音」なのです。
 
 鈴木家と比企家の謎はその中心人物比企榮庸の嫡女ジュン(鈴木主税の室)の墓石、戒名、卒年月日が見つからないことです。何故か、、、、

 私は今でも、明治18年39歳の若さでこの世を後にするまで、影に日向に『福造』を支え、応援していたのは、、ジュン(未亡人)であったと信じています。ジュンは福造の何かを知っていたのでは?と思うのです。

 人はそのような拘りから、簡単に逃がれられない動物だと申し上げたいのであります。

 その意味で『一本道』なのです。
 「一本道」は女系が拘る生き方で、、雨垂れのようなものです。

 「雨垂れが石をも穿つ!」と言う諺は存在しますが、、「雨垂れの音」が聞こえなければ、、石を穿つ!ことはありません。

 微かに聞こえる程度では、、『上意討ち』に立ち向かうエネルギーには繋がりません。

 しかし、『福造』が凄かったのは「鈴木主税」の後継者のポストを得ること無しに、、1人で『一本道』を歩み通したことです。

 福造の「一本道」に拍手とお祈りを捧げたいと思います。 
                            合掌(完)




















 
[28]林原英祐さんからのコメント(2010年05月18日 08時45分40秒 ) パスワード

 2009年3月20日、お彼岸の中日、平成10年に先立った弟(享年54)のお参りに義妹の住む高槻市の自宅を訪れた時のはなしである。

 今年は弟を一番可愛がっていた(末っ子)母が亡くなった年でもあり、なんとなしに声をかけあいお参りした。

 其の席で義妹が突然、兄さん!以前に、お義母さんから貰った「掛軸」があるんだけれど、私よく分からないし、義兄さん、お義母さんの郷(比企)のこと勉強しているから、役に立つのなら持って帰ってください。差し上げますからと云われて、立派な箱書きのされた、軸を一本奈良の家に持ち帰りました。

 帰って広げて見ると、どこかで見たような「軸」で、かすかな記憶が残っていたのですが、それがどこの家であったかまでは思い出せなかったのです。

 それから一週間程経ってから、いつもの「比企の知子さん(北海道帯広)」から手紙を頂戴しまして、お母さんが亡くなって寂しくなりましたね!お母さん阪神大震災に遭って、お写真など皆無くなったと生前お話されていたので、何か私(知子)の方に残っているものが無いか探していたら、神戸の魚崎(御影)の「比企雅」お爺ちゃんを親戚一同で囲んだ写真が一枚出て来たの、確か裏面に昭和36年撮影とメモってあるんだけれど、、、と添え書きをいれて、素人撮りの写真がとどきました。(小生も孫の一人として、写っています。満8歳の出来事です)

 其の写真が今日の主役(中心)なのです。
 写真は確かに「雅」御祖父ちゃんが居た魚崎の家の座敷、、バックが「床の間」のあった所です。
 小生は瞬間にその「床の間」と「義妹の掛軸」が頭を過りました。僅か一週間前の記憶でしたから頭の隅に宿り続けていたのでしょう。しかし残念ながら、孫たちを入れて総勢二十四名の大所帯が横に拡がった状態でバックは完全に埋め尽くされていましたから、僅か5センチ四方程度の白黒写真から、『軸』を認識することは困難でした。

 ところが、人間の思い込みは大変な物でして、気になりだしたら、逃れられません。
 最近のデジカメに古い写真の複写モードと言うのが有りまして、いつの間にか「複写写真」が出来上がっていたのです。
 取り直した複写写真をパソコンの編集で拡大印刷しますと、人物像はボケ始めるのですが、平面画像(文字など)は比較的鮮明に浮かび上がったのです。向かって右端(上部)の叔母さまの頭の間に、バックの掛軸のほんの一部(二文字)が識別できたのです。
 その二文字とは『比企』(原文では軸の左肩、比企氏一鑑の「比企」部分)であったと言うことです。

 神業、「針の穴に糸を通す」ほどという表現がありますが、まさに「針の穴」のお話です。
 小生は単なる偶然の話として、片付けられないものを感じております。


 話は続きます。
 以前にご紹介しました「横浜の青田様」(福井藩の家老、鈴木主税重榮のご親戚)にこの掛軸の話をすると(写真を送った)、お友達の同好会(古文書解読)の佐川さんにお願いして、七言絶句を訳してくださいました。

 内容をここにご披露させていただきます。


掛軸本文)

百錬千磨勇有餘知将卑譲
保其初聖賢以事英雄業只
是成功而不居
 読華盛頓傳録以贈
比企氏一鑒 如意八十翁鐵臣

訓読)
ひゃくれんせんまして ゆうあまりあり ちしょうは ひくくして そのはじめにやすんずるをゆずる せいけんをもつことは えいゆうのわざなり これ こうなりて おらず
 とうかせいとん でんろくを もっておくる  
 ひきうじ いっかん   にょい はちじゅうおう てつおみ

訳文)
本当の勇ましさと言うのは、数多い心身の練磨によって初めてえられるものだ。知恵のある大将はへりくだって、まず他を安んじるものだ。知徳、学才を高めることは英雄と言われる人の勤めである。しかしこれで功を成したという事ではない。いやこれらの精進を納めたうえで本当の功を成してもらいたいものだ。

注釈)
「只是」は「ただこれ」と読んでも良いが、漢詩の訓読では只をよまない。「只是」で「しかし」と訳す。
「而」は「て」と読んだ。
「読華盛頓」は人の名前か?
「鑒」は「鑑」の異体字。「一鑑」は「かがみの一つ」あるいは単に「かがみ」か。
広辞苑(岩波)並びに漢字源(学研)を参考にした。   
 西暦二〇一〇年一月十日佐川正司
 
作者「谷鐵臣氏」の紹介)
ひこねはんの外こうを引き受けた(彦根の先覚より)彦根市教育委員会

学問の道へ)
てっしんはぶんせい5年(一八二二年)に、京町三丁目でしぶや家の長男として生まれました。名をりゅうたろうといいました。父親がごてんいをつとめていたので、おさないころから学問がすきでした。17さいのときから、ひこねへ帰ってくる27さいまで、十年い上をえど、東北、えちご、ながさきとうつりながら、じゅ学やらん学(オランダからつたわった医学)を、はば広く学んできました。そして、父が病気になったので、父親の後をついで医者になり、しが県でははじめてというしゅとうのぎほうを広めました。

ばくまつのあんうんの中で)
まんえん元年(一八六〇年)ひこねはんしゅでたいろうであった井伊直弼(いい直弼(なおすけ))がみとろうしにうたれてから、ひこねの様子はいっぺんしました。それと同時にりゅうたろうの運命も大きくかわっていくことになりました。りゅうたろう三十八さいの時です。なにしろとくがわしてんのうひっとうのお家の一大事です。十四代はんしゅただのりはきんしんさせられ、ろく高は十万ごくをけずられ、その上京都しゅごをとかれるという、様々な仕打ちを受けました。当時、とくがわばくふはかく大名をおさえる力が弱まっている上に、外国(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア)のために国をひらかねばならなくなりました。そんなとき、しょうぐんをささえるもっとも近い所にいてかつやくしていた直弼(なおすけ)が、思いもかけぬさいごをとげたのです。そのばくふからいろいろな仕打ちを受けたひこねはんがどんな動きをするのか、ばくふをたおそうと力を強めていたさつま・ちょうしゅう・とさなどのぶしたちは、様子を探るためにつぎつぎとひこねに近づきました。りゅうたろうが、こうした世の中の動きの中で、はんしゅから(とくにかろうおかもとはんすけの強い意見で)みとめられたのです。わかいときから学問の道をもとめてきたそのはくしきが、ひこねはんのききをすくうのにひつようになってきたのです。時代の流れは急速に新しいせいじのたいせいをもとめていました。そこで、もはやとくがわばくふが日本国中をおさめるという形がくずれかけていることを、ひこねはんもみとめていくことに、意見がまとめられていきました。りゅうたろうほか三名がひこねはんのまどぐちがかり(たしょむきごようがかり)として、いとうひろぶみや井上かおる、たにかんじょうらと面会し、はんの考えを知らせるとともに、同じ考えできょう力しあうことをやくそくしました。大切な話し合いがたびたび持たれた所が、しぶや家の一室でした。そのため医者の仕事がおろそかになってきたので、そのほとんどを弟のしゅうへいにまかせました。

ひこねから京都へ)
めいじの時代になって、自ら名前をかえました。始めは谷退一としましたが、のちてっしんにしました。めいじせいふのやくしょくについてかつやくする間にも、ひこねはんのゆくすえを心配し、せいふのじゅうような人物ともこうしょうを重ねたようです。めいじ8年(一八七五年)53さいの時には、家を弟にまかせて京都に出ました。医者の仕事もふっかつするかたわら、漢しや書道など、ひぼんなさいのうを大きく花ひらかせにょいさんじんのごうももちました。めいじ31年(一八九八年)にはひこねの知人友人たちがらくらくえんにまねいてきじゅのいわいを行いましたが、七年後、84さいでなくなりました。ちょっけいのしそんはなく、京都西かもにふうふのはかがのこるだけです

以上


 さて、話は続きます。
 比企家では数少ない『お宝』として、祖父が大切にしてきた「掛軸」だと言うことですが、内容を知るにつれ、作者の彦根藩士谷鐵臣先生(維新志士)が何故、比企雅にこの様な内容の軸を下さったのかを考えるとロマンが拡がります。

 谷鐵臣氏は1822〜1905(享年84歳)の方ですが鈴木主税が1814〜1856(鐵臣より8歳年上)、比企福蔵が1847〜1885(鐵臣より25歳年下)を考えると本来なら『福造』が貰うべき年齢差と考えられます。しかし谷鐵臣80歳の作を考えますと1902年の出来事であり、福造死後17年後であります。比企雅が1883〜    ですから、19歳(1902)のことであります。

 そのあたりを冷静にデッサンしますと、谷鐵臣さんと比企福造が何らかの親交があったことで、遺児(雅)の行く末を按じながら、激励文を贈ったと考えるのが妥当と考えます。

 鈴木主税と比企福蔵とを繋ぐ襷の役割はこの『谷鐵臣氏』であったのではと考えてしまいます。

 そして、この三人の共有化された維新の哲学こそ、幕臣(与党)から出発した、維新(革新)への貢献であり、学問(智得)に留まることの無い実践(体得)、、命を賭して、、が人生哲学であったと想像するのです。

 それでも、比企禮の95歳の死をもって、姿を現した、一振りの掛軸(谷鐵臣)が中心になって繰り広げる物語が「針の穴」のような偶然の積み重ねによって出来上がる『ロマン』は、谷鐵臣があの安政の大獄の首謀者井伊大老の家臣であったことが、ことさら、話を盛り上げていると考えます。

 小生は島津斉彬(西郷隆盛)や松平春嶽や坂本龍馬、勝海舟に憧れを持っています。
 攘夷一辺倒の過激思想の持ち主ではなく、開国論者であった、幕臣(与党)の志士への敬意と上意討ち覚悟の上訴に限りない組織人の憧れをかんじるのです。

 難しい話は別にして、5センチ四方の白黒写真を拡大複写して、『比企』の文字を見つけたエネルギーはどこから来たのだろうか?不思議でならない。

 小生の言う、「歴史は敗者も作る!」と言う意味はここからきています。
 決して、勝者には作れないのです。幕末、維新の歴史も「薩長土肥」が作る部分は半分です。

 残りの歴史はこれから作られなければなりません。
 そのように思うのです。
 「平家物語を熱く語る」ことに繋がると信じます。
[29]林原英祐さんからのコメント(2011年11月24日 20時29分05秒 ) パスワード




 「青田さん」が本年10月其日、お亡くなりになった。との知らせを受けました。

 突然のことで、驚きにたえません。
 小生の一存で、実名を記し、貴殿の心温まるご教示に感謝と敬意を表します。たくさん教えて頂きました。本当にありがとうございました。
 心からご冥福をお祈り致します。
 淋しくなりますが、再会を信じ、後しばらく勉強を続けます。
きっと、又、、、、どこかで「お会い」出来ると信じます。
 もともと、何故か?偶然「出会った」関係なのですのですから、、「合掌」

                            林原
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2011年11月25日 07時01分22秒 ) パスワード

「訪問者さん」=「青田さん」の御冥福をお祈り致します。


またいつか別の形でお会いしますよね。
入り口でお迎えに来ていらっしゃるかも知れませんし。
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