[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月05日 14時21分26秒 ) | パスワード |
立山さん
初めまして。
全く分かりませんが
空想しました。
>この山の名を、なぜ平家の落人は名乗るようになったのかがいま解きたいギモンです。
簡単ですよ。
富山というか越中ということで
平家に有名な武将がいるではありませんか。
越中次郎兵衛尉盛嗣とか。こんな名前でしたっけ?只今引越寸前で本が手元にありません。
思わず泣きそうになりましたよ。
彼の身近な人々がそちらにもやっぱり逃れていたのかと。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月05日 14時26分44秒 ) | パスワード |
>ちなみに、家紋は「丸に梅鉢」。江戸初期に生まれたらしい梅鉢紋は天満宮の紋と同じなので、平家とは関係ないのかもしれません。
家紋のことは分かりませんが
また
家紋からは分かりませんが
1.南朝方がらみじゃないでしょうか?岡山あたりの元平家のお仲間と同じ紋?
2.富山とか石川県の前田家がらみ?前田家は元は尾張ですから、何かそういう関係か?
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月05日 14時47分06秒 ) | パスワード |
>偶然にも母方の家紋も「丸に梅鉢」。
服部姓で丸に梅鉢?
初めてでした。ビックリ
服部姓なら、フツー「矢」じゃないの?と思いました。
>母の旧姓は、「服部」で伊勢市古市というところに、服部家の先祖の墓があります。
伊勢の古市=平家の武門を背負って立っていた(笑)本姓藤原=俗姓伊藤=のまたの名(俗名)でもありますよ。
今は?今も?お伊勢さん帰りの歓楽街だとかですが。
伊勢の古市なんてモロに平家の盟友というか刎頚の友の地ですよ。
藤原忠清の父上が古市を名乗ってました。
でも忠清やその弟も俗姓は「伊藤」姓ですけどね。「伊藤五」とか「伊藤六」なんて書かれていますね。
>母の家には平家に関する言い伝えはありませんが、
平家だった、というのは隠したい事情があったのだと思いますよ。
それか
言わなくても、みんな分かってる、ということだったのかも。
>服部姓は平家とのつながりがある<ようなので>、
<ようなので>は要りません。きっぱり!笑
服部と言ったら平家でしょ。
ただし
徳川時代にいろいろな「引っ張り合い」で源氏とも名乗っていますけど。
尾張南西部限定かも。笑
きっと南北朝時代に懐良親王 でしたっけ?九州にいらっしゃった親王は。
にくっついて九州まで下ったのですよ。
その前は案外小松家と一緒に鹿児島まで逃れたのかも。
だって服部家は(というより父の平家貞は)6代に亘る小松家の家老ですから
当然一緒に鹿児島まで落人になっててもおかしくありません。
もしかすると家貞が九州で活躍した時に残った家かも知れませんしね。
梅鉢紋、というのが分からないです。
ひょっとしますと江戸時代に「服部姓+矢紋」の両方の使用は主人に遠慮して姓を残して家紋を替えたのかも。
それか明治以降に替えたかも知れないですしね。
家紋についても鹿児島の本家の方にお尋ねになるのが良いと思います。
[4] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年08月05日 22時06分17秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
立山姓は九州に集中しており、熊本、鹿児島、福岡、宮崎の順に多い。
恐らく、肥後国玉名郡立山邑あるいは筑後国山門郡立山邑発祥と思われる。
九州以外では、伊予国喜多郡立山邑発祥の香宗我部家臣立山太郎左衛門が見える。
九州各地には平野部・島嶼部を含めて平家落人部落が点在しているが、鎌倉から遠隔地の理由から平家残党が逃げ込んだのである。
本州・四国にも平家部落が多く点在するが、主として山間僻地に限られる。
家紋はあまりあてにはならないが、菅原道真が太宰府に流されたことから九州地域も天神信仰から梅鉢紋を用いる家が多い。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月06日 00時36分44秒 ) | パスワード |
>越中次郎兵衛尉盛嗣とか。
盛俊とかね。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月06日 00時40分31秒 ) | パスワード |
九州で服部姓というと
諫早の西郷家の侍大将だった服部さん。
他のスレで書いたと思いますが
三河でも西郷さんと服部さんが御縁を築いています。
やっぱり平家がらみか、南朝方がらみか、そういう御縁を感じます。
お父さまとお母さまは結ばれるべくして結ばれた御夫婦と思いました。
[7] | 丸に梅鉢さんからのコメント(2009年08月07日 00時26分43秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様へ
はじめまして。
大変詳細にお教えいただきありがとうございます。
立山姓は越中次郎兵衛尉盛嗣(不勉強でどういった人物かわかりませんが)由来、ロマンが広がります。
わが立山姓のルーツ垂水市には岩下という姓の人もいるようです。
「岩下姓」は典型的な平家落人ですが(硫黄島の海岸の岩由来の姓ですよね)
この岩下姓の家紋も「丸に梅鉢」です。
謎ギモンはさらに広がって、平家落人と梅鉢紋の関係に興味津々です。
父方の立山姓(父の本籍は鹿児島市)
母方の服部姓(母の本籍は伊勢市)ともに「丸に梅鉢」は本当に不思議です。
このサイトにたどり着く前に、母の服部姓のルーツを自分なりに探していました。
そしてルーツは大阪の豊中市の服部天神社だと思っていたのです。
渡来系の秦氏が機織集団(服織部)で、現在の豊中市付近に渡来神・スクナヒコナを祭り、後にそこに菅原道真が立ち寄ったのをゆかりとして、服部天神社ができたそうです。(だから服部家は梅鉢なのだと納得していました。)
服部と平家についてもっと勉強します。
[8] | 丸に梅鉢さんからのコメント(2009年08月07日 00時41分32秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
立山姓の分布、お教えいただきありがとうございます。
おっしゃる通り、愛媛県喜多郡内子町に明治のはじめまで「立山村」があり、
ルーツはここだろうと推測していました。
伊予と日向は海を越えれば、とても近く、
伊予→日向→大隅→桜島のルートで私の先祖は移動してきたのだと想像していました。でも現在内子町には立山姓の家は一軒もないことを知り、この自説に自信がありませんでした。
私のルーツは、立山太郎左衛門とゆかりもあり、また平家落人の血も引いているのだと考えたりすると、平家について、また旧・立山村について、調べてみようと思います。
ありがとうございます。
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月07日 01時39分57秒 ) | パスワード |
>立山姓は越中次郎兵衛尉盛嗣(不勉強でどういった人物かわかりませんが)由来、ロマンが広がります
はいロマンが広がります。
その上に平家の人々はそれぞれ最期が美しいですから物語になるのです。
ウイキペディアより:
盛国:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%9B%BD
盛嗣:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%97%A3
盛俊:
http://www3.zero.ad.jp/katokumi/moritoshi.htm
盛綱:高橋姓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E7%B6%B1_ (%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%B0%89)
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月07日 01時52分43秒 ) | パスワード |
なぜ「梅鉢紋」なのでしょうね?
家紋は1家に1つじゃないですから、どこかで梅鉢紋を使うようになったのでしょうね。
明治以降は1家に1つになっていくでしょうし、
今は1つになってますよね。それだけ経済的にもゆとりがないですしね。使う時も限られてるし。
ひどい家では家紋が何か知らないとかね。
冠婚葬祭で撮った写真のレンタルの着物の紋を自分チの紋だと思ってる人もいるでしょうし。
岩下家が何故梅鉢紋をお使いなのか、それが分かったら参考になりそうですね。
江戸時代にお上に登録した時に「遠慮」して名字を変えたり家紋を替えたりしたのだと思いますが。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月07日 02時51分53秒 ) | パスワード |
>渡来系の秦氏が機織集団(服織部)で、
>現在の豊中市付近に渡来神・スクナヒコナを祭り、
>後にそこに菅原道真が立ち寄ったのをゆかりとして、服部天神社ができたそうです。
>(だから服部家は梅鉢なのだと納得していました。)
なるほどね。
伊賀上野市に「服部」という所があって「服部神社」があります。
伊賀の平家の服部家は、ここにいた機織の服部さんの名字を使ったと思うのです。
この服部家の流れですと「矢」紋かなと。
三重県で梅鉢紋の服部さんでしたら、分家で紋を替えた?何かそれなりの理由があった?
人間は全く関係の無い土地には逃げ込まないと思うのです。
他スレの隈さんの御先祖さまの隈氏自体が平家で、お祖母さまの御先祖の服部家が山陽道に落ち着いたのも、平家に関わりのあった場所だからと思うのです。
立山氏の場合は、家貞が九州に討伐に行った時の縁で一族が九州にいて、
そこに逃げたのじゃないか?
と思うのです。
エンもユカリも無い落人が来たら殺して金品を奪ったと思うのです。
落人狩りとか落ち武者狩りとかで。
垂水市の歴史資料を頂けると良いですね。
平家との関係が読めたら、そこに逃げてきた、とハッキリします。
垂水市教育委員会に問い合わせたら良いですよ。
鹿児島県の教育委員会にも問い合わせて平家との関係の資料が手に入ると良いですね。
[12] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年08月07日 23時12分01秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
丸に梅鉢さんへ
>伊予→日向→大隅→桜島のルートで私の先祖は移動してきたのだと想像していました。
香宗我部家臣の立山氏とすれば、清和源氏義光流武田氏族で、香宗我部氏とは同族です。
実を言えば、大中臣姓立山秋家の家系を武田氏族中原秋通が継承しました。
香宗我部氏は土佐国香美郡を本拠としましたので、立山氏も土佐に居住したものと考えられます。
現実に現在、伊予には十数軒、土佐にも数軒しか存在しません。
香宗我部氏は元和元年(1615)滅亡ですから、立山氏の大きな移動もその後と思われます。
移動ルートは浦戸(土佐)→細島(日向)→志布志(大隅)→鹿屋→垂水→桜島でしょう。
長曽我部氏の四国統一で河野氏と帰属を係争した喜多郡は、立山氏と関係のあるところですから、この辺から調査されると何か発見があるでしょう。
[13] | 上瀧ミツゴロウさんからのコメント(2009年10月18日 14時42分56秒 ) | パスワード |
貴方のご質問を今日始めて拝見してアレッと思いました。
私が10月6日に《嬉野、久間の落ち武者…》とこのページに掲載した武雄市真手野に常陸から来たであろうと思われる名前の中に【立山】姓があるのです。
武雄の領主、後藤氏は《窮鳥懐に入る》として、平家の落ち武者を受け入れたとの言い伝えがあるそうで、実際久間に落ちてき、その後この地方の豪族となった久間氏と辻氏の記述がこのページに記載され、私にも大変役にたちました。
武雄では、武雄領主が真手野に落ちてきた落ち武者に雨乞いの踊りをさせたのが真手野浮流の始まりだとされています。
私の先祖も『嬉野の吉田に落ち武者のようにたどり着き』と口伝が残っていて、いまある名前から先祖のことが推測できないか?とNTTの電話帳で調べてみたのです。
調べると伊勢(三重)が重要な場所で、更に常陸(茨城)も出てきました。
私の推測では、【立山氏】は、常陸から志田義広軍に従軍し、伊勢で志田軍が敗れると一部は伊勢に残り、一部は平家と合流し壇ノ浦で敗れた時には、バラバになり、武雄へ行ったグループと鹿児島へ行った人々に分かれたのでしょう。
茨城県に【立山】姓が少ないのは、一族の中心が戦争に行き、大半が戻って来なかったから繁栄しにくかったと思われます。詳しい数字は前の書き込みでご覧下さい。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月18日 16時26分34秒 ) | パスワード |
全然関係無いのかも知れませんが
あれ?
と思ったので書いてしまいます。
>武雄の領主、後藤氏は《窮鳥懐に入る》として、平家の落ち武者を受け入れたとの言い伝えがあるそうで
後藤 + 平家落ち武者 → 受け入れ?
後藤さんって元々平家にいたんじゃなかったかしら?
その後藤さんの関係者?
確か平重衡の乳母子で
主人をおいて逃げてしまって恥かいた〜
っていう人物がいませんでした?
全然関係の無い後藤さんで
わたくしの勘違いだったら御免なさい。
[15] | 上瀧ミツゴロウさんからのコメント(2009年10月27日 17時52分02秒 ) | パスワード |
残念ながら、言われている後藤氏とは関係なさそうです。
武雄の領主、後藤氏は確か、源氏側だったと思います。
鎌倉時代は肥前、武雄の地頭として、領地を安堵されています。
私は後藤氏の末裔ではなく、嬉野の吉田へ落ち武者のように落ちてきて、その後、武雄の北方の上瀧(わたき)に住み、その地名に因んで《上瀧》と改姓したとされる末裔です。
落ちて来たと云われる吉田で、今残っている名前から何か手掛かりが掴めないかと、調べているところです。
投稿ありがとうございました。
[17] | たてやまさんからのコメント(2010年04月03日 15時50分42秒 ) | パスワード |
はじめまして私も「立山(たてやま)」と言います。
何となく自分の姓の由来はなんだろうなぁ・・・?
って思って検索したらこのサイトにきてました。
私の本籍は垂水市中俣です。
ちなみに家紋は「丸に違い矢」です。
歴史はまったく知らないのですが、平家の落人って事で正解なんでしょうか?
[18] | 源氏さんからのコメント(2010年05月11日 07時06分20秒 ) | パスワード |
丸に梅鉢さんへ
はじめまして。
日本の苗字七千傑様のゆう香宗我部一族の立山氏ならば初代・秋通より三代の成通の二男・員通氏から立山性を名乗ります。ただ、家紋は武田菱になります。その後、直系は一時、福井と苗字を変え現在は香宗我部性に戻しているみたいです。
[19] | 布袋竹さんからのコメント(2010年05月19日 22時01分27秒 ) | パスワード |
スレッド提起の「丸に梅鉢」さん
「17」スレの立山さん
鹿児島大隅半島垂水付近の「立山」氏ならば、薩摩硫黄島に安徳天皇潜在説に沿えば、その時離れた平家の一員の可能性が大です。
硫黄島に伝わる古文書と、大隅に残された記述とが一致するものも多く、[垂水市史]、永井彦熊著「落日後の平家」にも詳しく載っております。
私も、何度か大隅のこれらの場所を訪ねて、その感を深めております。
簡略な流れは、安徳帝、垂水に
http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html
[20] | じゅんこさんからのコメント(2014年01月12日 17時05分54秒 ) | パスワード |
私の祖父は九州の福岡北部出身ですが、生前平家の流れがあると何度も話してくれました。やはり家紋が丸に梅鉢です。しかし姓は藤原です。
[21] | 荼吉さんからのコメント(2022年02月07日 03時09分33秒 ) | パスワード |
私も立山です。父も祖父も鹿児島県出身です。また、祖父が子供の頃は、昔から垂水で籠で魚を取るという少し変わった漁業で、生計を立てていたと行っていました。祖父の父、私からみれば、曽祖父は、垂水に墓があります。家紋は確か、丸に梅鉢だったと思います。
[22] | みかんさんからのコメント(2022年05月21日 23時51分11秒 ) | パスワード |
丸に梅鉢の家紋が多いようですが、私の家は丸に三つ引きの家紋です。丸に三つ引き家紋の立山さんはいますか?
[23] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月22日 01時18分43秒 ) | パスワード |
みかんさん。
印象を書きますが。
家紋は一家に一種類でないこともありますし。
三つ引き両の南朝の方もおられると思っています。
[24] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月22日 01時22分08秒 ) | パスワード |
忘れてる気がして上を見ましたが正に でした。
盛の字が出てくるのですね。
津津です。
[25] | みかんさんからのコメント(2022年05月28日 17時55分19秒 ) | パスワード |
相良四郎さん、助言ありがとうございます。
[26] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月30日 01時15分03秒 ) | パスワード |
レス2つ書いて安心してしまったのですが
実は私の中では両者セットです。
(本当は微妙に違いますが)
それで皆さんの話をあわせて見てゾクっとしています。
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