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 投稿番号:101112 投稿日:2009年07月04日 19時54分19秒  パスワード
 お名前:武藤
武藤氏

コメントの種類 :質問  パスワード

武藤氏の事を調べていますが、なかなか進みません.もし、よかったら、情報ください.
武藤資頼は、武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぎますがどこの出でしょううか?また、初め平知盛の部将で、姉が平知盛の妻で平家方として兄の堅物頼方と一ノ谷の戦で戦いそしてにやぶれ、知人の梶原景時を頼って投降し、梶原氏の娘を妻にもらい、平家の残党が多い、中原氏と鎮西奉行として九州へ下向し、頼朝の嫡男頼家の元服の式典において指導したようですが.世渡り上手では理解できかねています.

[1]帰蝶さんからのコメント(2009年07月07日 00時04分21秒 ) パスワード

資頼が武藤大蔵丞頼平の猶子と記された史料を見たことがありませんが…

頼平の子頼賢・資頼は平家に属して都落ちとあり、武藤監物頼賢は討死し、武藤小次郎資頼は一ノ谷で投降しています。

武藤氏は、武藤頼氏が源頼義の前九年・後三年の役に重用され、その子頼家は源義親に従い、義親が配流されたとき同時に誅殺された。頼家の子頼兼は娘を平知盛室とし、頼兼の子頼平は藤原景頼の猶子となって、平知盛の代官として武蔵国府に赴き在庁したそうです。

監物の職掌については
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/daikenmotu.html
[2]武藤さんからのコメント(2009年07月08日 00時35分03秒 ) パスワード

ありがとうございます。
武藤頼氏は、源義家のころ横浜市戸部にいたと聞いたのに、藤原頼平が武蔵国に赴任してきたので武藤になったときいたので、武藤頼氏の存在がわからず悶々としてました。
なぜ、武藤資頼は、平家側で一の谷で投降してのに、鎮西奉行として九州へ下向できたのは先祖のおかげでしょうか?それとも、武藤資頼は、平家時代に九州に携わっていた関係で抜擢されたのでしょうか?


[3]武藤さんからのコメント(2009年07月08日 17時45分40秒 ) パスワード

前日、つづきですが、平知盛の三男、平知宗を武藤資頼は家臣の対馬の宗氏に養育させ最後に養子にしたのは、鎌倉幕府の鎮西奉行なのにできたのは、なぜでしょうか?
[4]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年07月09日 00時20分54秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

平知宗の祖父は惟宗信房で鹿ケ谷謀議参加者で反平家ということです。
平頼盛も源頼朝に厚遇されましたが、母が頼朝に恩がある池禅尼、鹿ケ谷謀議参加者の俊寛とは親戚です。
平家壇ノ浦滅亡時、老臣斎藤兵庫は知宗(2才)の存在をひた隠し、その後知宗を武藤資頼の猶子にして武藤判官と称したが、資頼の力だけではなく頼朝の意向が働いているわけです。
平家閨閥図を見ると、平家周辺に反平家の人物が多いことに驚きます。
中でも鹿ケ谷謀議の黒幕とされる後白河法皇は、平家政権、源氏政権を操つり日本一の天狗と言われる所以です。
 
平家閨閥図(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm#002
[5]武藤さんからのコメント(2009年07月10日 01時06分03秒 ) パスワード

ありがとうございます。感謝してます。ここ数日で深く考えさせられます。私も頼朝はすべてを把握してたと考えていますが、なに上に、平知盛の血を残すことを許可したのか? 平頼盛か後白河法皇または、八条院・子内親王の要請でしょうか?

また、母方の祖父が惟宗信房 ですと武藤大蔵丞頼平の父と言う事ですか?
[6]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年07月10日 22時09分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

>平頼盛か後白河法皇または、八条院・子内親王の要請でしょうか?
 
同族の惟宗広言の依頼に拠るものでしょう。
頼朝が丹後局に生ませた忠久(島津氏祖)を政子の嫉妬から正式認知出来ず、広言に頼んで猶子として、同時に丹後局を広言に嫁させた。
以後、忠久は惟宗姓を名乗り、平知宗は惟宗姓を嗣ぐということで存続が許されたのでしょう。
頼朝は明法家である惟宗広言が鎌倉幕府法律制定に必須、丹後局と忠久の処遇でも世話になっているしね。
学者の多くは島津氏頼朝落胤説を拒否しているが、こう解釈する方が理に適う。
 
惟宗氏(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03003.htm )
 
>また、母方の祖父が惟宗信房 ですと武藤大蔵丞頼平の父と言う事ですか?
違います。知宗の異母兄知章の祖父が武藤頼兼です。
 
[7]帰蝶さんからのコメント(2009年07月11日 15時35分15秒 ) パスワード

>なぜ、武藤資頼は、平家側で一の谷で投降してのに、鎮西奉行として

「平家物語」には頼賢が平知盛・知章の主従三騎で逃れる場面があり、
武藤氏が知盛父子の傍近くに仕えていたことがわかります。
壇ノ浦の戦いの後伊賀国で反乱を起こし誅殺された平知忠は知章の同母弟。

東国では、武蔵国の父頼平が畠山氏らと共に頼朝を国府に迎えその旗下に参じていましたが、
この頃上京していた兄弟は知章との個人的関係からその後も平家に同行していたわけです。
資頼は一ノ谷で旧知の梶原氏に投降し、赦免されるまで三浦氏に預けられていたので、
故実の指導をした一件のように、頼朝に対して彼らの口添えもあったかと思います。

分脈系図には頼平は武者所となり武藤と号したと書かれています。以下譜文が続きますが、
本姓を藤原としていたことは頼平の署名で知られるところです。
[8]武藤さんからのコメント(2009年07月13日 17時55分08秒 ) パスワード

ありがとうございます。目から鱗が落ちるようです。
平知宗は生き延びて対馬の惟宗姓を嗣ぐと言うことは、惟宗広言のおかげなのですね。そして、武藤頼平が畠山氏らと共に頼朝の旗下に入ったことは知りませんでした。石橋山の合戦で真田の与一義忠並びに武藤三郎、及び家来の豊三家安たちが戦死した。との記述を見たことがあるのでここでつながった気がします。
[9]武藤さんからのコメント(2009年07月13日 20時19分13秒 ) パスワード

申し訳ございません。話がとびますが、940年に平貞盛と藤原秀郷らに打たれた、平将門の掛川十九首塚に武藤五郎貞世の名前が見えますが、これは、武藤頼氏につながりますか?
[10]武藤さんからのコメント(2009年07月14日 16時11分02秒 ) パスワード

いろいろ教えていただきありがとうございます。現在、私武藤は、東京に在住しており九州に住んだ事がありませんが、父の墓参りで出身の九州の八女市祈祷院のいったところこの地域に武藤の姓ばかり多く、何も先祖のことを知らないので、東京から何とか平氏のその後と八女市や久留米市しの事を調べていますがなかなか集まらないので断念してましたが、このページを見つけて元気がでました。何なり、武藤の事でしたらお教えください。 書き込み感謝します。また、URLや深い知識に感服しております。
[11]海遊庵主さんからのコメント(2009年10月06日 01時47分09秒 ) パスワード

始めてご訪問指せていただきます。
今は讃岐の国屋嶋近隣に住まいする・伊予の国・河野氏の末裔を継ぐ者の一人です。
是非、古之誼にて、『武藤家』に関する由縁を訪ねる想いが夢路に過り、是非、皆様方のお仲間に加えて頂き度く、管理人の御仁にお願い申します(取り敢えずご挨拶まで)
[12]海遊庵主さんからのコメント(2009年10月07日 05時42分13秒 ) パスワード

台風十八号が久しぶりに日本列島を狙っております。(防災のご準備クレグレモ)
文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の蒙古襲来に際に、活躍した時代が、武藤一族と伊予の河野氏と友軍となられた最初かも?
武藤氏は元は平家方の武将・・方や伊予の河野氏は源氏方。源家流と親密な古族(瀬戸内水軍)でした。
源平合戦(讃岐屋島壇ノ浦・志度〜下関赤間の壇ノ浦)は、正しく敵味方の間柄であったとことは否め無いのですが、故あって源氏方三浦義澄に、武藤頼平の子・資頼(すけより)は、源頼朝にその才を認められて関東御家人にとなったのですね!
阿波の田口水軍(田内氏とも)と熊野水軍を加えて、瀬戸内河野水軍の動静が勝敗を決した要因の一つだったと歴史には記されております。
其の時代の河野氏の頭首は、河野通清と通信親子でしたが、重なる平家・源氏の争いの渦中に、翻弄された歴史之史実は、真に勝者の論理〜敗者の禍・哀れいなる世の時勢の移ろいの定めにて、諸行無常の声(響き)あらん哉。南無
そこで、次世代に接いで世の政情が、内紛から概ね鎌倉幕府の施政が続き、源家から北条氏へ〜得宗家に政権が流れると、次第に外憂の禍も避けられず、文永・弘安の役の大陸からの蒙古進攻の戦が現実のものと為ったもですね!
源氏方河野氏と平家方武藤氏が相携える間柄に為ったのは、取りも直さず、通信の実弟・通経(源義経の烏帽子子なり・甲曽五郎〜其の子通親は武藤家に婿養子縁組・後・越後守に任じられて居ります)の存在が、承久之乱以後、河野家の家運を細々ながら接いで御仁と通有の存在が睦も要因と推測して居ります。(家傳之系図並びに龍穏寺豫章記等にて明記あり)・・また、其の孫なる人物は、甲賀守として文中年間(1372〜1375年)に、京都(京兆家・惣領家)細川氏・皇居近くの東洞院に館あり代々細川屋敷に仕えると、細川頼春・頼元・頼之ともに、管領家筋としてその名を中国・四国他・・各処の足利政権の中枢を勤める家流で、南北朝乱世の砌・・多少の浮き沈みはあれども、戦国時代まで、四国・中国のは其の勢力を保っているのですね。
その歴史を辿る旅路には、河野通経(通信の弟)の行く末に、明かにご縁がある『武藤家』の存在を軸にして、後世の細川氏と武藤氏と河野氏の夫々の関係を是非・・追ってみたいと願って居ります。 美奈様のご協力を待っております 恐惶謹言
[13]尾張武藤 先祖は岐阜さんからのコメント(2009年11月06日 15時36分38秒 ) パスワード

こんにちは
奇遇ですね。 僕も先祖の事について調べてますが どこにも情報がなく挫折シテ、あるサイトで色々情報もらえて、まあ元気出てきた床です。  
 
東京の武藤さん 岐阜には 土岐源氏支流の武藤氏が、おおくいますが
他に武蔵へ下向した藤原のちの武藤ですね。
武蔵の武藤七党の多くも岐阜へ下向したそうですよ。

僕は、どちらの子孫なのか・・ここがわからない!
なにぶん ヒイヒイおじいさんの頃に武藤家と長い親交(先祖代々墓だったらしい。)のお寺に預けた家計図ガ、寺の火災で燃えてしまたので見ることができず。。 激怒したヒイヒイお爺さんは、お寺と絶交し先祖代々のお墓も別のお寺へ移築したそうです。

ホント各、源氏や藤原氏の支流に武藤姓おおいのに、きろくが、ないですよね(^^;)
[14]海遊庵主さんからのコメント(2009年11月23日 22時54分34秒 ) パスワード

尾張武藤・先祖は岐阜さま、しばらく伊予の国での歴史の遊行で無沙汰しておりました。
岐阜の土岐氏にも武藤氏が多く居られると、・・武蔵国武藤氏一族も岐阜に流れた・・との義。
是非、根気よくご先祖さまを訪ねる旅路を、こつこつと・・進めましょう!
私共も、岐阜の稲葉氏・斉藤氏の姻戚関係が深く、また、鎌倉時代の先祖の伊予の河野通信の弟・通経(甲曾五郎)の子通親が、武藤家に縁付いて居ります
・・但し、その後の数代が空白であり、その後は、細川氏(京兆家・東洞院)に仕えていることは解かっておりますが、武藤氏の家流には、山内氏・大友氏にも支流の家名が見られますので、また、源流は、出羽三山の地方の守護
も任じられていたことも書き残されておりますので、承久之乱・〜・九州の筑前・筑後等の地方の守護職も付いておられる故にて、必ず見つかるものかと考えますのでお互いに気長に探そうではありませんか。
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