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 投稿番号:101079 投稿日:2009年01月05日 00時55分32秒  パスワード
 お名前:まるこ
桓武平氏?原田三河守?と母方のことが知りたい

コメントの種類 :質問  パスワード

母から『うちは桓武平氏から続いている家だから』と聞かされて育ちました。色々調べて、母方の家紋が、亀甲に梅鉢・五七の桐であることや、原田三河守に縁があるらしいことまで分かりました。
母方は、岡山県久米郡美咲町原田の池上です。私は見た事がないのですが、家系図に原田三河守と言う人物がいて、誕生寺に石碑があると母から聞きました。
原田三河守家老に池上姓を見付けたのですが、家老職の池上家の先祖になりえるのでしょうか?
その家系が母には自慢らしいのですが、私には良く解らないので、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか?

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年01月06日 12時22分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

池上氏は桓武平氏良文流より繋がっています。
下記、URLをご参照下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm
 
次に千葉氏をクリックして下さい。
次に忠高(原田家初代)をクリックすれば菅家美作党に到達します。
原田忠長の後裔に池上氏が存在します。
これ以上の詳細は図書館や現地で調査することをお勧めします。
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年01月06日 12時26分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

↑ 菅家美作党は美作菅家党の誤植です。
訂正します。
[3]まるこさんからのコメント(2009年01月06日 17時09分47秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ありがとうございます

早速調べてみます
[4]ときおさんからのコメント(2009年01月07日 07時11分09秒 ) パスワード

まるこさんへ
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100612.html 「大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏」の[53] に少し触れていますよ。
墓碑も誕生寺の本殿の左側の奥で法然上人の産湯の井戸に近いところで左の山側に
存在していたと思いますよ。


[5]まるこさんからのコメント(2009年01月19日 21時12分07秒 ) パスワード

ときお様

ありがとうございます

誕生寺で、母から『これがウチ(池上)の先祖』だと言われては、いたのですが、余りハッキリと覚えてませんでした
池上の墓参りに出た折に、また立ち寄ってみます
[6]中 村さんからのコメント(2009年02月07日 21時26分44秒 ) パスワード

まるこ様

 初めまして、原田に縁のあるものとして、池上氏は重大関心ごとです。

以下、池上氏・原田氏についてご参考になれば幸いです。

手元の原田の文章系図(コピー)は家紋は亀甲に梅鉢、、、桓武天皇ノ五代後、

正五位上の官職上総助平ノ忠常ノ五男は初メテ原田次郎忠高ト号ス、、、、に始まる系

図は二十代で終りますが、この文章系図を判読・読み下しされたかたが、津山藩

の森忠政の時(元禄年間)、美作国の地誌を書くため古事を書き上げて、提出さ

れた作陽誌ヲ参考にとされ書かれた文に、

■忠佐ノ子父の遺命に依り出家願誉ト称シ誕生寺に住持(住職)ス

三河守(貞佐)ノ家の司(家老)池上内蔵助の子池上右エ門の妻は貞佐の娘、、

■さらにご参考までに「姓氏家系辞典」大田 亮著(角川書店)に興方十三代の

孫忠行に三男あり、長は忠文(後、池上氏)、次は忠武、季は忠昭と称す。忠文

頗る高雅、文学を練磨す。よりてその城を譲らんとせしが、忠文之を弟忠武に譲

り、、、(略)としています。尚、角川、平凡社、冨山房、の地名辞典にも原田

は掲載されています。作陽新報社の「美作古城史」巻ニには原田氏が470年居城

した稲荷山城とその歴史が14〜5ページ掲載されています。

●家紋は系図にも書かれていますが、当然池上氏と同じ亀甲に梅鉢です。

●誕生寺にはお説の通り原田氏最後の城主忠佐(古城史は貞佐)の墓がある

「岡山県の地名」平凡社 一族の忠魂碑、貞佐の像もあるそうです。

誕生寺、近くの諏訪神社(元、原田神社)共に原田とは縁の有る寺社です。

                  以  上



[7]まるこさんからのコメント(2009年02月11日 01時26分42秒 ) パスワード

中村さま

お返事が遅くなり申し訳ありません

先日、母が来た折に、色々と池上の話をしました。

諏訪神社についてお尋ねしたいのですが、美咲町原田の池上の家のすぐ近くに、神社があります。私は名前を知らないのですが、竪穴式住居?がある神社です

池上とは縁があるそうですが、諏訪神社は、そちらでしょうか?
[8]まるこさんからのコメント(2009年02月11日 01時35分25秒 ) パスワード

中村さま

申し訳ありません
弥生式住居でした
色々検索しましたところ、そこが諏訪神社で良いようです

ありがとうございます

池上とは縁が深いと、母から聞いております
[9]中 村さんからのコメント(2009年02月11日 20時16分25秒 ) パスワード

まるこ様

早速のご返事、楽しく拝読しました。

●諏訪神社お調べになった由。原田の祖先が当地に入るや氏神として崇拝。
 由緒ある神社です。神社には社宝として

  一、原田三河守貞佐初陣鎧                 一式
  一、池上内蔵助忠義佩刃(はいとう・腰につけた刀)     一式

神社への田地寄進の其状等は    平朝臣 貞佐 花押
 今も社職は池上・原田の子孫の方?確かめてください ! ????、、、

●蛇足ですが、法然上人(漆間ウルマ)姓。現在の住職も漆間姓。遠く昔を訪ねれば親戚です。又天正十三年三月十五日法然上人の宮殿(御厨子)を建立した一族十六人の中に、池上内蔵助の名があります。

 話せば長くなりますので今日はこれでつぎの機会に、、、

                  以    上

[10]まるこさんからのコメント(2009年02月11日 20時33分57秒 ) パスワード

中村さま

諏訪神社については、今の私は、母から以下の事のみしか聞いておりません

祖母の父親が、諏訪神社の神主であったこと
父親の姓は『磯山』であること
(祖母自身は、何か事情があったのか、池上の籍に入っております)

母いわく、磯山は親戚筋との事ですが、私には確認出来ておりません


現在、私自身が岡山市内在住で既婚、幼い子供達がおりまして、自由に動けないのですが、また母に諏訪神社の事を尋ねてみようと思っております

申し訳ありません
[11]中 村さんからのコメント(2009年02月13日 21時51分18秒 ) パスワード

まるこ様

 磯山氏!、、、間違いありません。磯山系図にょれば、平・邦甲斐国磯山城

に住して磯山氏を称し 五世の孫興方「注)〜1141没」原田氏に属し、兄三河

の守貞佐を扶けて家老職となる。中略、、現在にい至るまで諏訪神社の社職を

相続し、一族中社家として現存して居る者がいる。後略 「美作古城史」より

 池上氏・磯山氏ご両家の歴史を知られた上での繫がりが思われます。

今日は先日お話した誕生寺の忠魂碑が建立せられた時の事を「美作古城史」よ

り記します。昭和九年四月誕生寺境内に南朝作州七忠臣並忠死者二十総忠魂碑

が建立され、これに関係ある諸氏の募金にょって完成をみたのであるが、当時

原田佐秀関係のものとしてこれに参画したものは左記の如くたすうに上がり

その同族の繁延の状が窺われるのである。以上の内参画された池上・磯山氏は

一、新城 池上楽春・同良治・一二・種次 一、原田 磯山治弥 一、惣分 

池上槌五郎 一、小原 池上弘志・一円宗寺 池上光男 一、・元 磯山序作

一、津山 磯山峰一 一、小原 池上みね子 一、山之城 池上唯一 以上

 この忠魂碑は一族が「太平記」巻第八の菅家一族合戦の記事によるもので

す。原田・池上・磯山の祖先は菅原道真(家紋)の子孫でもあるのです。

  また次にでも、お母様とは同年代?お子様をお大事に!






 






[12]まるこさんからのコメント(2009年02月16日 00時43分46秒 ) パスワード

中村さま

詳しい情報を、いつもありがとうございます
やはり、磯山家も縁がある家だったのですね

母方の池上の家系図には、祖母までの名前は記載されていたと母から聞いていましたが、祖母も99才…現在は認知症で入院中ですので、母からしか伺えないのです。母は、昭和6年生まれで、私は現在三十路半ばです
[13]ときおさんからのコメント(2009年02月16日 18時15分47秒 ) パスワード

まるこ様へ
 竪穴(たてあな)住居は縄文でも弥生でも使う言葉ですよ。弥生の竪穴式住居で正解です。諏訪神社のは復元の住居址ですね。
場所は小高い山の中(丘)ですね。吉備隆起準平原の東の方に当たりますからね。吉備高原都市の辺りは標高が高いですが、諏訪神社辺りの標高は平地からの比高もさほど高くは無いですけどね。

中村様へ
 ご無沙汰です。 磯山氏はそうだったのですか。美作古城史で該当する箇所は見過ごしていました。私のかつての上司(故人)の方=磯山氏が、「家には織田信長からもらった脇差しがある・・・」と聞いていました。詳しくは解りませんが、甲斐国磯山城と言うことで尾張方面との関係が有ったことが伺えました。
少し離しがずれますが、漆間時国の子孫(〇岡氏)が近所に居ますよ。
[14]まるこさんからのコメント(2009年02月16日 19時10分14秒 ) パスワード

中村さま
ときお様

母は、誕生寺の件…漆間の事も知っていた様子です
本日、母から聞きました

『うち(池上)の親戚筋は、磯山・稲岡・渋谷・関、それから、津山の鞍掛が婆ちゃんの従兄弟に当たる』と。

それから、母の話ですので真価は解りませんが、祖母の母(私の曾祖母)が母に語った話では、『うちの家に、男子が生まれたら、磯山に養子に出していたらしい。うちが、池上の本家らしいから』とのことでした
池上の本家と言われましても、私には判別出来ませんので、昔話と思いながら聞きました
[15]まるこさんからのコメント(2009年02月16日 19時14分38秒 ) パスワード

ときお様

諏訪神社には、幼い頃に池上の家に遊びに行った際に、何度か遊びに行きました

そうですね、あまり標高は高くありませんね
家の裏山や、神社で父がクワガタを捕まえて、弟と遊んでいましたよ
[16]中 村さんからのコメント(2009年02月16日 23時32分09秒 ) パスワード

まるこ様

 ご参考になって何よりです。
昨年、原田系図の解読・判読文を基に、原田33代の監修で、「はらだのこと」私家版 の冊子を従兄達に送ったところ喜んでくれました。
私家版ですので他人様に差し上げるものではありませんが、池上氏は原田氏とといってもよい位のお家ですので、ご希望ならば、学校・会社・役所・等差し支えないところに、気付けで、まるこ様宛てに差し上げます。
 冊子のはしがきにも書きましたが、身内のものが”はらだのこと”に関心を持ち調べたいときに、多少なりともその下敷きに、否、叩き台なればと作成したものです。系図に記述の違いも散見します。現在のように図書館・電子辞書・インターネット等で、”本日只今”と突合せ出来ない故に仕方のない事と思われます。お母様とやはり同年代の1940年生です。女性と違い、いつサヨナラ・サヨナラしても良い年ですので、「究極の暇つぶし」と心得、自分の頭では考えず、全て自分の都合で書物やWebを拾い読みして作文したものですが、再度検証出来るように史料の出典は示し、コピーも添付しました。
 何しろ性急な性分のせいか、エイ、ヤーでワープロで作成したものですから、手直しなければなりません。今日、明日お送り出来ませんがご希望であれば必ずお送りします。

 長々と書いてゴメンナサイ。今日から確定申告!今年から電子申告しようと
ホームページを見てその手続きの煩雑さにウンザリしてます。
                        
[17]中 村さんからのコメント(2009年02月17日 00時18分47秒 ) パスワード

ときお様

 私もご無沙汰です。早速ですが「美作古城史」で該当の箇所がお見過ごしの由ご覧になった古城史は作陽新報社発行の「美作古城史」ですか?
実は作陽新報社版のは見ておりません。私のは「美作古城史」第二輯 昭和31年4月10日発行の非売品です。ガリ版刷りで編者・発行者は 寺坂五夫 となっています。著者は同じかと思います。

>「脇差」の件は存じません。

>まるこ様にご返事された諏訪神社の「竪穴式住居」ですがなぜあるのか、が
 サツパリわかりません。 諏訪神社につて私の調べたところでは、原田の祖先が
 甲斐国磯山城に居住の時に信仰した。四代平興方(?〜1141)が当地にはい るや信濃諏訪神社の分霊を奉祀して當社を氏神とし諏訪八幡宮として崇拝。
 明治42年に原田神社外4神社を合祀して諏訪神社と改称。位です。

>漆間氏は、法然上人が漆間姓ですのでキット御子孫ですね



 
[18]まるこさんからのコメント(2009年02月21日 18時36分19秒 ) パスワード

中村さま

ありがとうございます。是非『はらだのこと』拝見したいと思います。

ただ、どちらに連絡すれば良いのか、現在、迷っております。

このサイトにアクセスしているのが、主人の携帯電話からですし、迂闊に住所も書き込めませんので…
[19]中 村さんからのコメント(2009年02月26日 21時25分41秒 ) パスワード

まるこ様

 受け渡しの件

提案ですが、お近くの宅配便の営業所宛に「まるこ様」とすれば差し支えない

かと存じます。その時は宅配便の会社にこちらでも安全と、確実にお届けでき

るかを確認します。Web使って個人的な連絡でゴメンナサイ! ご提案まで

 本来の話に戻します。手前味噌になりますが、初代以前はともかく、以後に

原田の歴史に登場する人物は、まさに日本を作った人々が登場します。

それも面白いのですが、二代忠次の母は大江匡房の娘、七代忠門の母は藤原朝

朝(伊達家の始祖),八代忠・の母は笹木(佐々木)高綱の娘、十一代忠勝の

母は足利冬氏(足利尊氏の孫)の娘、十五代忠行の母は山名主計氏冬の娘等。

このように「母は誰々の娘」と書かれる系図は少ないそうです。ではまた


 







              

   



[20]まるこさんからのコメント(2009年03月05日 23時22分28秒 ) パスワード

中村さま

コメントありがとうございます
お返事したかったのですが、なかなかこちらを見る事も出来ないまま、本日、母が亡くなっているのを発見したような次第でございます

申し訳ありませんが、受け渡しの件、今暫くお待ち頂けますでしょうか?

宜しくお願いします
[21]シュウさんさんからのコメント(2009年03月09日 03時12分58秒 ) パスワード

教えてください

岡山神社庁の諏訪神社のページに

城主原田三河守貞佐の祖先が、甲斐国磯山城に居住の時に信仰した。信濃の諏訪明神の分霊を奉祀して諏訪八幡宮と称して崇敬した。と書いてあります。

ここで質問になります。

・原田三河守貞佐の祖先というのは誰ですか。
・なぜ甲斐国磯山城に居住していたのですか。
・甲斐国磯山城とはどこにあったのすか。
よろしくおねがいします。
[22]中 村さんからのコメント(2009年03月12日 21時38分46秒 ) パスワード

まるこ様

 悲しいお知らせを今、知りました。皆さまもあまりに突然のこととて、

さどかし、お力落としのこととお察し申し上げます。ご悲嘆のあまりおからだ

を損なわれないことを願います。お母様のご冥福をお祈り致します。


 受け渡しの件 私のほうは急ぎません、今すぐにでもお送りできるように書
きましたが準備中ですので、、、、寒さの折ご自愛下さい。
                       



  
[23]中 村さんからのコメント(2009年03月12日 22時45分55秒 ) パスワード

シュウ様

・早速ですが原田三河守貞佐先祖の件はスレッド[1]日本の苗字七千傑様の
URLをご参照になるのが宜しいかと思います。平忠常の子初代忠高?〜1059
(後代略)十八代貞佐?〜1586となります。「忠高の兄の子孫は千葉氏」です。

・単なる推測ですが、原田の祖先が宣旨(天皇の命)を受けて、甲斐の磯山城
を拠点に仕事をしたのではないでしょうか?

・私も知りたいのです。
[24]三河の原田さんからのコメント(2009年03月20日 04時48分23秒 ) パスワード

はじめまして。

私も祖父が先祖をとても大切にしていることから
先祖を明らかにしたいという思いがあって書き込みさせていただきます。
前スレッドの64さんとは、ひょっとしたら先祖が同じではないかと思います。
私の先祖は原田三十郎といい、代官の孫と記してあります。
しかし、肝心の代官の名がわかりません。屋号は中屋です。3つ分けた内の1つにはいるんでしょうか?
祖父の出生地は、三河の設楽です。円覚稲荷の近辺です。
祖父の祖父の時代には、宝物庫やらなんやら沢山あったそうですけど、
先祖の浪費や大火事で全部失ったそうです。

そんなわけで、先祖のことに興味を持ちいろいろ探しているところにこの掲示板をみつけました。

まず知りたいことは代官であった先祖の名前です。
その次に系譜です。
おそらく、スレッドを眺めていると原田種直が先祖ではないかなと推察できますが、確証が欲しいです。

どなたか、ご存知の方はいらっしゃいますでしょうか。
ここで得た情報は、改めて末代まで伝えようと考えています。
[25]三河の原田さんからのコメント(2009年03月20日 04時57分01秒 ) パスワード

付け加えます。
家紋は丸に三つ引です
[26]シュウさんからのコメント(2009年03月24日 02時26分53秒 ) パスワード

中村様

諏訪神社は原田興方(?〜1141)が(1124年)にこの地に入って信仰したということなら、磯山城に居たというのは平安時代とも考えられませんか。

平忠常→1原田忠高→2(長男)忠次→3(次男)忠沖→4(三男)興方

中村様の

>磯山系図にょれば、平・邦甲斐国磯山城に住して磯山氏を称し 五世の
>孫興方「注)〜1141没」原田氏に属し、兄三河の守貞佐を扶けて家老職
>となる。

を見ると、甲斐の平・邦(文字化けでしょうか。教えてください)が磯山氏を称し、(原田)興方に属して、(後に)原田貞佐(〜1586)の家老になったと読めますので、諏訪神社は原田氏の先祖ではなく、甲斐にいた磯山氏の信仰していたものを原田興方に属したときに原田氏も信仰したものということは考えられませんか。

磯山氏と原田興方の接点が知りたいです。甲斐磯山城ということになりそうでしょうか。
[27]シュウさんからのコメント(2009年03月24日 02時32分20秒 ) パスワード

間違えました

平忠常→1原田忠高→2(忠高長男)忠次
                →3(忠次次男)忠沖
                →4(忠次三男)興方

[28]まるこさんからのコメント(2009年04月05日 16時30分31秒 ) パスワード

中村さま

久しぶりに、こちらを覗かせて頂いております

母の49日法要が、来週に執り行われます

『はらだのこと』の件ですが、郵便局止めにしていただければ…と思っております

49日法要がすみ次第に、コメントをさせていただきたいのです
その折に、近くの郵便局を書き込みます




母の戒名、『梅』が咲き誇る時期…と言うことで、梅が使われました

梅花に縁があるのでしょうかね…と主人と話しました
[29]兵庫の池上さんからのコメント(2009年08月11日 00時38分42秒 ) パスワード

まるこさんはじめまして。 私は、池上槌五郎の曾孫の池上です。 
遠い親戚になるんですかね、誕生寺の池上静五郎は槌五郎の兄で、
うちの墓には、静五郎さんが作った、池上家の歴史が彫られた石碑がありますよ!
そこには、平忠常から池上になるまでの話があるのですが、ボロボロになってちゃんと読めないのが、残念ですけどね。 

[30]まるこさんからのコメント(2009年08月14日 18時21分02秒 ) パスワード

兵庫の池上さま

コメントありがとうございます

誕生寺の池上家が親戚に当たるか否か、母が居なくなった今は、私には尋ねる術がありませんが、きっと遠い親戚になると思います

池上家について、もっと知りたいので、落ち着き次第、色々調べてみたいと思っております
[31]池上さんからのコメント(2010年11月12日 00時42分48秒 ) パスワード

池上さんおじゃまします
久米郡の池上は、三つ別々とお聞きしてますが新城とは係わりはないのですか? 一応新城系であり家はどこから来てその地で根をはって田畑耕したのか?分かりません。
[32]磯山さんからのコメント(2011年01月20日 17時33分15秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時37分53秒
[33]磯山さんからのコメント(2011年01月24日 07時43分52秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時38分26秒
[34]中村さんからのコメント(2011年01月24日 11時08分08秒 ) パスワード

磯山様

初めまして。

「美作古城史」昭和31年4月10日発行(非売品)の磯山系図によれば、三河守

貞佐を助けて家老職となる。其子頼元の時、原田稲荷山城落城の後、子孫が現

在に至るまで諏訪神社の社職を相続。このようなことが記されています。

ご存じの原田直政は大蔵系の原田氏のことかと存じます。

十八代原田貞佐落城・十九代行佐・二十代忠佐父の遺命ニ依リ出家願誉ト称シ

誕生寺ニ住持ス  (原田系図・作陽誌ヲ参照) ご参考になれば幸いです。

[35]磯山さんからのコメント(2011年01月24日 15時37分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時39分04秒
[36]中村さんからのコメント(2011年01月25日 19時22分07秒 ) パスワード

磯山様

 原田の家紋は「亀甲に梅鉢」です。(もとは千葉氏の九曜紋のようです)
管家との姻戚関係、戦場での敵、味方の識別のために変えたものと思えます。
自家の紋が源氏系とのことですが、自然の成り行きがあったものと思います。
美作は毛利、尼子の侵略を等を受けています。先には太平記(巻五)で一族三百余騎が,一千余騎の敵と戦い皆討たれています。このとき戦死した原田佐秀の子孫が尾張に移り、後に前田利家が出ています。このように諸々の実情によって、他家に仕えた一族はあるようです。源氏系といえば原田は平家ですが初代忠高は源義家に加わって前九年合戦で戦死。源平合戦では千葉氏と源氏に加勢しています。七代忠門の母は藤原朝宗の娘(頼朝の従兄で伊達氏の始祖)八代頼興の母は佐々木高綱の娘。十一代忠勝の母は足利冬氏の娘(冬氏の父は尊氏の実子直冬。このことは「大日本本地名辞書」冨山房p253にあり)

 作陽誌改竄の件 改竄云々については知る術がありません。編集されたいきさつは、元禄年間1684年に津山藩の森忠政(森蘭丸の弟)の時。作州美作国の地誌を書くため、各村々庄屋へ古事を書き上げて、提出するように要請し編纂された。Web有元氏参照

 これ等の信憑せいについて「系図研究の基礎知識」近藤出版社に、一般に過去に書かれた系図、歴史学の上では「二次資料」とされる。「一次資料」というのはいわゆる古文書であり、歴史学では「良質の資料」ということが要求される。系図に「偽系図」があるように、古文書にも偽系図が追う往々にあるからである。古文書に次ぐ資料は,確実な公的機関において編集された歴史書である。
 数年前に原田の「文章系図」を読めるように解読、半読された時に、作陽誌と突き合わせをされています。作為されたものはなかったようです。
現在では、東西の歴史家や、地元の研究家の方々が検証されていますので信頼できるものと思っています。

[37]磯山さんからのコメント(2011年01月26日 15時48分59秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時39分42秒
[38]磯山さんからのコメント(2011年01月29日 15時51分22秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時40分07秒
[39]磯山さんからのコメント(2011年01月29日 16時09分40秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時40分39秒
[40]原田さんからのコメント(2011年02月11日 08時12分51秒 ) パスワード

磯山様

縁はありませんが

>原田三河守貞佐の縁戚に磯山氏があり、その磯山氏は諏訪神社の社職を務める名跡です。平頼邦が甲斐国磯山城に住し磯山氏を称す等の文章が岡山神社庁ホームページや美作古城史に出てきます。

久米郡美咲町原田918 にある諏訪神社には、城主原田三河守貞佐の祖先が、甲斐国磯山城に居住の時に信仰した。信濃の諏訪明神の分霊を奉祀して諏訪八幡宮と称して崇敬した。とありました。

つまり平頼邦が甲斐の磯山城にいて磯山氏となり、原田三河守貞佐の先祖も甲斐国磯山城にいた。甲斐の諏訪信仰は当然のものとして、疑問は平頼邦は何者か、なぜ磯山氏と原田氏は甲斐にいたのか。

名字ではなく平姓としていて美作以前の話のようですので、平安時代でしょうか。甲斐国にいた、常陸(茨城県)に磯山姓が多いということから連想して、甲斐の武田氏自体が

発祥を義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)を本貫として武田姓を名乗ったとする説が提唱され定説となる。1130年に義清の嫡男清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、甲斐国へ配流されたという。

ということで、平安、鎌倉時代ごろに平頼邦なる常陸国磯山氏も武田氏と同じように甲斐に移って常陸にちなむ磯山姓を使ったのだろうか。

常陸原田氏は『新編常陸国誌』に「原田・真髪部氏なり」とあるようで、常陸国真壁郡は古代物部一族の後裔があり、真壁郡は平安時代には桓武平氏常陸大掾一族真壁氏が栄えた。原田氏は物部一族真髪部氏(神道系)だが、そこで栄えて千葉氏とも関係がある常陸平氏大掾一族に合流?

一方磯山氏は平性ということから、常陸国だとすると平氏常陸大掾氏族の可能性もある。仮説にあった塙氏も桓武平氏常陸大掾氏族と云われるという情報もあるようで、尾張群書系図部集の塙氏は平氏にして先祖塙二郎盛幹(幹=朝-月+夸)より、代々常陸の国塙村の城に住すとある。「幹」の字は常陸国大掾・多気氏が維幹-為幹-繁幹-致幹と「幹」を使うので平姓大掾氏族のようにも思えます。

塙氏が織田信長時代の九州の名族・原田姓を下賜されたことを加えていくと、原田三河守貞佐と複雑になってきます。
[42]原田さんからのコメント(2011年02月11日 09時39分14秒 ) パスワード

間違えましたので削除しました

千葉一族であるという原田忠高であれば源義家に従い奥州征伐は千葉一族であれば参加も自然か。甲斐・諏訪神社関係の磯山氏とどうやって絡んでくるのだろうか。平安から鎌倉にかけての動きがなかなか合致しません。甲斐には磯山氏がいたというだけで、原田三河守先祖がいたという伝承は正しいのだろうか。
[43]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年02月11日 15時04分45秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

原田さん へ
 
>甲斐には磯山氏がいたというだけで、原田三河守先祖がいたという伝承は正しいのだろうか。
 
大蔵姓原田氏は大宰府退官者系の武士だが、千葉氏も源平争乱以降は平姓を避けて大蔵姓原田を名乗ったのでしょう。
原田三河守の先祖は九州にいたが、後世は美作に移り菅原姓に改姓。
こんな事情もあって原田氏は、後世に大蔵姓、平姓、菅原姓の三系が並存する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116b1.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02101a.htm#003
 
千葉氏と甲斐武田氏の関係に疑問を抱かれているようだが、阿波伊沢氏は千葉常景と武田義清の娘の子伊沢信景に始まり、信景には武田清光の娘が妻となり閨閥は密接。
甲斐武田氏の祖は常陸発祥だから常陸とも関係が深く、同族の佐竹氏は転封するまでは常陸に勢力を持っていた。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116b4.htm
 
※鎌倉時代の九州守護職は、鎌倉幕府の下り衆(主に源氏)で占められる。
千葉・武田・原田は初期から親戚関係。
肥前には千葉氏の支流も存在。
 
※磯山氏については判らないが、諏訪神社の神官が西遷御家人を頼り中には薩摩まで下向している者も居るから自然の流れでしょう。 
[44]磯山さんからのコメント(2011年02月13日 15時35分37秒 ) パスワード

先日、父が他界しましたので墓地へ葬ってきたのですが、江戸時代の当家の墓には平正勝なる人物の墓がありました。また、その後の代にて磯山主計守なる墓が。先祖は本気で桓武平氏の子孫と考えていたようです。大正期に他家よりの養子の方の墓がありその方のみ礒山で苗字を刻印されていました。昭和の始めまでは当家の通字は正を使っており、これは貞正に拠ったのでしょう。誕生寺にも法事で寄ったのですが、誕生寺はそもそも鎌倉期の美作国主熊谷次郎直実が法然上人を師事し開山したそうです。戒律寺の為願譽さんには子供がいなかったそうですので、現在の原田氏は行佐の兄の原田監物の御子孫なのでしょう。菅家七流との繋がりは赤松氏という事の様です。作陽誌の編纂件ですが森氏は津山城建造の為領民に重税を課したそうですから、領民の言い分を聴くと言う領国支配政策の一環だったのでしょう。有元氏は当初の森氏入国反対の立場から支持派に転換し庄屋頭の地位を森氏美作藩除封まで得ます。お公家さんチックな生き残り策ですね。
[45]磯山さんからのコメント(2011年02月18日 12時37分31秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時42分27秒
[46]かなさんからのコメント(2011年02月18日 13時23分35秒 ) パスワード

>大ろく氏

>大ろく氏って?


大掾氏のこと?

だいじょう氏と読みます。
[47]磯山さんからのコメント(2011年02月18日 15時30分03秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時43分17秒
[48]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年02月18日 18時59分16秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

磯山さん へ
 
現在、磯山姓が茨城県に多いという理由だけで常陸発祥と決めつけてはいけません。
磯山氏の発祥候補地としては、下総国香取郡磯山(現:千葉県佐原市磯山)が有力ですが、三重県鈴鹿市磯山も少数ながら挙げられます。
佐原市であれば、桓武平氏良文流三浦氏族佐原氏の勢力圏です。
桓武平氏良文流千葉氏も三浦氏と同祖関係です。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

苗字の分布は発祥地に必ずしも多くなく、隣接地域や遠隔地の方が多い傾向があり茨城県南部に多いことは不思議でもありません。
磯山氏は備前・美作の名族となっておりますが、鎌倉時代初頭は平家没官領に坂東武士が西遷御家人(いわゆる下り衆)として西日本に新領地を多く得ましたから磯山氏も同例と考えられます。
 
平家と平氏をごっちゃにしないでくださいね。
鎌倉幕府の最大勢力は三浦氏であり、坂東平氏の筆頭勢力です。
 
次のURLを参照すれば、納得するでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm
[49]磯山さんからのコメント(2011年02月20日 13時32分39秒 ) パスワード

日本の苗字七千流様へ

なるほどねえ、それで三浦氏出身の秀家母のおふく様は湯治の陣所として原田監物の原田故宮を選んだのですね。貞佐の原田氏再興に直家が手を貸すのも納得です。
久米郡はどうか知りませんが、勝田郡では森氏や有元氏の評判は非常に悪いのですよ。何処かのホームページに有元満佐は観光資源にならない為、奈義町などの町史に記述が少ないと書いてあったのですが実情は上記理由なのです。磯山氏も森氏にかなり優遇されていた様なので申し上げ難いのですが。歴史は勝ったものが書くが本道なので眉唾と考えているのです。
[50]磯山さんからのコメント(2011年02月20日 13時55分29秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時44分39秒
[51]磯山さんからのコメント(2011年02月21日 10時40分50秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時45分37秒
[52]磯山さんからのコメント(2011年02月22日 11時39分15秒 ) パスワード

原田氏系図を正とした場合の推論
原田貞佐は3000石(原田郷のみ)前後の領地しか保有していなかった割には大層いろんな事をしているので、結構なインテリだったと考えられる。(原田神社を諏訪八幡宮と称す等)弟貞正の段階で磯山氏を称したかは不明だが、忠佐の代で本家が改易滅亡となった為頼元の時、熊谷次郎直実あたりから伝承の故事を引いて磯山氏を名乗ったのではないだろか?その後、頼春が森忠政の美作国主となった際、巧く取り入り社殿建立を取り付け一族繁栄の礎とした。
[53]磯山さんからのコメント(2011年02月22日 13時03分27秒 ) パスワード

私の仮説
森氏入領の際既に原田氏は滅亡しているので、塙直政の縁者が森氏に仕官し原田郷に入植し常陸か下総発祥の磯山氏を名乗った。(織田氏に拠って塙氏は処払いの様な扱いを受けているので、塙氏、原田氏の名は使えなかった)
[54]原田さんからのコメント(2011年02月23日 14時17分47秒 ) パスワード

梶原氏や和田氏が出てきたところで少し想像を膨らませると

元々美作は平安時代平氏知行国。

原田興方
 忠次三男嘉承二年任左衛門尉
 保安四年二月藤原仲時殺高科師春
 仲時被収繋座連及興方遂配作州
 保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄

 保安五年=1124年

美作国主は梶原景時から和田義盛ということで、いずれも鎌倉の政治闘争で敗れて滅んでいます。和田義盛の乱が建暦3年(1213年)

和田の乱は原田興方が美作を領してから100年後。

平家政権から源氏の世になり、梶原景時や和田義盛が国主となって、原田氏も関係を深めたものと想像しますが、両者が没落するときに、梶原景時の子孫が甲斐に逃げたとか、特に和田義盛の一族が甲斐で打たれとか、乱に加担した甲斐の古郡氏がいるなど相模鎌倉−甲斐が乱の舞台ですので、この時代に美作原田一族は従わなかったのだろうか。

征夷大将軍坂上田村麻呂が東国遠征の折、諏訪大社の神威を頼ったといいます。「原田氏の先祖が甲斐にいたときに信仰した」とは、そうした甲斐の戦いで神威に頼ったものだったとか。

単なる想像を膨らませただけですが、美作原田氏と梶原景時、特に和田義盛とは何か関係が伝わるものはないのでしょうか。少々気になりました。
[55]原田さんからのコメント(2011年02月23日 14時30分17秒 ) パスワード

すみません。読んでいたら掲示板に次のことが書いてありました

甲斐国磯山城に居住の時に信仰した。四代平興方(?〜1141)が当地にはい 
るや信濃諏訪神社の分霊を奉祀して當社を氏神とし諏訪八幡宮として崇拝。

諏訪神社は興方でしたか。古いのですね。

[56]磯山さんからのコメント(2011年02月24日 11時25分20秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時46分31秒
[57]磯山さんからのコメント(2011年02月24日 16時38分05秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時47分06秒
[58]磯山さんからのコメント(2011年02月24日 16時51分20秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時47分39秒
[59]磯山さんからのコメント(2011年02月25日 12時44分24秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時48分31秒
[60]磯山さんからのコメント(2011年02月25日 17時14分59秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時49分16秒
[61]原田さんからのコメント(2011年02月26日 01時31分07秒 ) パスワード

磯山様

諏訪神社については貞佐とか興方とかの整理がつきました。
ありがとうございます。
[62]磯山さんからのコメント(2011年02月28日 12時30分59秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年03月04日 11時49分46秒
[63]磯山さんからのコメント(2011年03月04日 12時41分39秒 ) パスワード

「諏訪神社」(久米郡史(大正期編纂)の要約)について

祭神

譽田別命、泉津事解之男命、速玉之男神、表津少童命、底津少童命

天宇受貴命、太玉神

由緒

原田神社記によれば清和天皇の貞観年中、細路長者なる者が伊・冊命を祀り

後、速玉之男神、泉津事解之男命を合祀す。

興方が本社を氏神として尊敬し、貞佐が天文年中に武運繁盛を祈誓し諏訪神社

を祀り合わせて武家氏神たる男山八幡宮を配し諏訪八幡宮と称えた。

森家入国の後大いに崇敬し寛文12年社殿建立し享保19年にも修造して居る

舞鶴提灯1対を寄進す。

明治6年に原田神社と改め村社となり明治42年當社に合祀した。

作陽誌によれば「若一王子権現社」と号されていた。   以上

[64]磯山さんからのコメント(2011年03月04日 13時19分28秒 ) パスワード

磯山氏系図(美作古城史、原文ママ)について

「平頼邦 甲斐国磯山城に住して磯山氏を称し、五世の孫興方原田氏に復し播

磨守忠長の二子 弥右ェ門貞正 旧姓磯山氏に復し兄 三河守貞佐を扶けて家

老職となる。其の子 八郎兵エ頼宗、其の子 頼元の時稲荷山城落城、頼元村

に退去し正保2年に没す。其の居跡を頼元屋敷と称す。

其の子 源次郎頼春 修験となりて原田大タワに住し後、諏訪神社の前移り社

職となる。・・・」

注1.原田氏滅亡の元禄元年(1592年)以前の文書で磯山氏の見られるも
のは今のところない。
注2.原田氏滅亡後には誕生寺の原田氏先祖供養に関する文書に「磯山氏、礒山氏」が見られる。江戸初期だったと思う。誤解のない様述べるが、礒山氏を本姓原田氏としている家紋の本があるが誤りである。礒山氏は他家よりの養子の場合使った表記である。(美作の場合)
[65]磯山」さんからのコメント(2011年03月06日 13時08分45秒 ) パスワード

念願の「作陽誌」を昨日拝見したのであるが歴史書ではないと思われる。美作国の地理や人口、神社仏閣等を纏めた物としての評価は非常に高いのであるが基本的に「農村版の国勢調査」的意味合いが強く、美作国の一部豪族の系図を摺り合わせ・検証なしに併記したという気がします。
商工面の記述が基本的になされていなく非常に残念です。
[66]磯山」さんからのコメント(2011年03月06日 13時46分31秒 ) パスワード

菅家七流とは何か(私の私論)

吉井川流域における物流利権組合である。その為武士団として結束は弱い反面利権による繋がりであるから根強い。最大の目玉商品は玉鋼(砂鉄、鉱石をタタラ製鉄(製錬)によって得られる刀等の原料)と思われる。
基本的に室町以降、赤松氏ー浦上氏ー宇喜多氏とはその利権構造から敵対しないと思う。吉井川最下流の福岡、長船は刀生産のメッカである。
宇喜多直家が本城を岡山に移した事により、その物流利権は旭川流域にシフトしたと思う。その為弓削衆、管納氏の繁栄から原田氏は改易の憂き目となったのであろう。中央町の地名として「金堀」「金打」を挙げて置く。柵原町は鉱山の街として有名だが、鉱石は硫化鉄でその鉱脈発見は江戸末期である。
森氏の本城を院荘ではなく津山(鶴山)としたのは全然正しいと思う。

以上の様な視点で研究された歴史書がないのは残念です。
[67]磯山さんからのコメント(2011年03月07日 20時25分39秒 ) パスワード

原田氏各代の墓所について

美作古城史、久米郡史に記述があったもののみ対象として(便宜上興方を初代とします。)

 6代頼興(永仁4年(1296年)没) 顕密寺

宝輪山顕密寺(真言宗、岡山県美作市尾谷、明見山近く)「文永年間に赤松家

の乱に功有」

 9代忠平(応永8年(1401年)没) 神宝山慈恩寺

・厳山慈恩寺(天台宗、岡山県津山市林田)

10代政平(応永33年(1426年)没) 青龍山慈福寺

慈福寺(不明、京都市上京区寺町今出川上)この寺は檀家なし、一般公開なし

原田佐秀らが討ち死にした猪熊近く、父原田式部少輔持近に依り京都か

11代政頼(宝徳2年(1450年)没) 長法寺

長法寺(天台宗、岡山県津山市井口)アジサイ寺として有名

12代忠行(文明18年(1486年)没) 嵯峨念佛寺

念佛寺(天台宗、京都市右京区山ノ内)京に没すとある。

15代小次郎貞佐(天正14年(1586年)没 誕生寺

誕生寺(浄土宗、岡山県久米郡久米南町里方)

16代三郎左ェ門行佐は稲荷山城と誕生寺に、17代弥右衛門忠佐(弥は正し

くは弓ヘンに雨の様な変換されない漢字、美作古城史では弾右衛門と記述有)

は西幸。15、16、17代は安政6年に縁故者(礒山氏、磯山氏、原田氏)

により誕生寺に合葬供養された。

誕生寺以外は未確認であるが可能性の高いものを挙げてみた。

[68]磯山さんからのコメント(2011年03月08日 18時53分13秒 ) パスワード

文永年間の赤松家の乱とは

有名な嘉吉の乱ではなく、一族本流ではない赤松茂則、赤松則村(円心)親子

の宗家相続に関するお家騒動だと思われる。後に「四職」となる赤松氏が自家

の歴史にこの様な事実を書くはずがない。

原田氏は赤松氏との関係から足利尊氏と繋がっていくのだろう。
[69]磯山さんからのコメント(2011年03月08日 19時51分07秒 ) パスワード

原田氏の菅原姓について

原田氏の場合自家の系図においては平姓を使っており、菅原姓は永禄12年

(1569年)に貞佐が誕生寺の御影堂寄進の時に使ったのが最初で最後では

ないかと思う。貞佐のその他の業績として弘治2年(1557年)の誕生寺の

寺領寄進、弘治3年(1557年)の諏訪八幡宮の田地寄進の文書(いずれも

平姓使用)及び永禄4年(1561年)の宇喜多直家が貞佐を以って才幸神社

へ神來地の寄進がある。西幸神社について久米郡史に面白い記述がある。祭神

の欄に菅原道真卿がその他11人の神と共にある。作陽誌では王子権現社と号

されている。その後、行佐が天正12年(1584年)に誕生寺の御厨子を造

立の文書では原田姓のみとなっている。思うに独立豪族(客将か従属であって

も)の気概を持って平姓を使い、宇喜多氏への正式な仕官を以って菅原姓とな

ったのではないだろうか?誕生寺にしても突然なので原田氏の変容が感じられ

る。
[70]中村さんからのコメント(2011年03月11日 00時21分20秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様

横レスで失礼します。

>千葉氏も源平騒乱以降は平姓を避けて大蔵姓原田を名乗ったのでしょう。

@ 大蔵姓の原田氏と平姓の原田氏とは全く出自が違います。
A 千葉氏は平忠常の子常将の子孫、平姓原田氏は常将の異母弟忠高です。
  「日本の苗字七千傑」千葉氏系図参照

>源平争乱後は平姓を避けて、、、、とのお言葉ですが、あたかも平清盛に加勢したかに思われます、千葉氏も原田氏も頼朝に加勢しています。大蔵系の原田氏は平清盛方です。源氏に加勢したいきさつは平忠常の乱の、戦後処理に有ります。本来なら一族も罪に問われるべきを子の常将等は許され、この寛大な恩顧に後々報いています。余談になりますが、平忠常を説得の為に源頼信に同行した法師(男の子)は原田氏初代忠高です。忠高は忠常が藤原道長の子で内大臣の藤原教道と主従関係があり、都に出仕していた時に出来た子供です。源頼信に同行した法師のことは「石母田正著作集」に有ります。尚、忠高(妻は大江匡房の娘)は「前九年合戦」では源(八幡太郎)義家に加わって戦死しています。




[71]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年03月11日 22時37分27秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm


>千葉氏も源平騒乱以降は平姓を避けて大蔵姓原田を名乗ったのでしょう。

わざわざ千葉忠高の子孫が北部九州の名族の原田を名乗ったのには理由があるのですよ。

1.原田種直が平家方なのに、後に頼朝が赦免して厚遇したこと。
2.鎌倉時代の九州守護職は、鎌倉幕府の下り衆(主に源氏と藤姓)で占められる。
3.また平安末期は招婿婚から嫁入婚への過渡期であり、あくまで推測だが忠高が九州在地時に招婿婚で原田を名乗った可能性が高い。(良文流・良茂流・良兼流の尊卑分脈系譜が錯綜しているのは、後世、男系系譜に再編したのが原因)
 
諸般の情勢から名族の原田(大蔵姓)を名乗ったまで。子孫は美作に移り忠門が養子に入り菅原姓に改姓。
まあ、言ってみれば実態は下野の藤姓足利と源姓足利の関係に近いのかも知れない。
 
もともと良文流は源氏方(千葉氏ほか)が多く、後に渋谷・畠山・江戸・河越も源氏方に寝返っているからね。
その功績で渋谷氏一族は、相模から薩摩に下向している。
[72]中村さんからのコメント(2011年03月13日 23時16分43秒 ) パスワード

>わざわざ千葉忠高の子孫が北部名族の原田を名乗ったには理由があるのですよ

@ 原田忠高(?〜1059)の人、 原田種直(生没年不詳)は平治 1159〜   治承 1181年ごろ活躍した?ので忠高とは時代がのでは?原田種直と同時  代に生きたのは五代 原田忠光(?〜1178)です。

A 原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠  高が曾孫が興方が美作に流され、翌年ゆるされて狐山に築城。以来元和七  年に死去した忠佐まで、十七代四七〇年間美作に勢威を振るった。「岡山  の地名」平凡社

  また「姓氏家系大辞典」大田 亮著では、上総介平忠常の五男、肥前国高  来郡原田に住し、原田次郎忠高と号す。いずれも(作陽誌)

B お言葉のように当時は男性が女性のもとに通う妻問い婚が通例で、生まれ  た子供は女性のもとで育てられ、所領を含む財産を引き継いだと考えられ  ます。

  *当時平氏といっても区別がつかないので原田と号し、あだ名で識別した  のだと思います。例えば伊勢平氏、千葉氏、坂東平氏等々。
  大蔵系の原田氏との関わりはないのでは?と考えます。

  






[73]磯山さんからのコメント(2011年03月14日 07時39分17秒 ) パスワード

日本の名字七千傑様へ

スレ71で原田氏は忠門が養子に入って菅原姓に改姓と述べられていますが、

その様な文書があるのでしょうか?そもそも有元氏系図は東作誌に掲載されて

おり、その編纂の経緯は松平氏の正式な地誌ではないと聞いているのですが。

東作誌の有元氏系図に有元満佐の後、5番目に「原田日向守忠門 稲荷山城

主」と明記されてはいるのですが、作陽誌に「平忠廉 光興 子」とも明記さ

れているのです。久米郡史において忠門=忠廉か?と述べられたのは読みが共

に「ただかど」であるという理由なのです。不勉強ですが貞佐以外で菅原姓を

使った人がいるならば教えて頂きたい。
[74]磯山さんからのコメント(2011年03月14日 08時41分19秒 ) パスワード

原田佐秀について

原田佐秀の子孫が前田利家であることについて、東作誌の有元氏系図にはその

様な傍流は掲載されていない。可能性として、佐弘、佐光、佐吉3兄弟ー佐顕

ー佐久ー佐国と某(美濃へ)の某ぐらいか?久米郡史では佐秀は原田忠廉の孫

あるいは傍流の人か?となっている。仮に菅原姓原田氏が存在するとして、そ

の後裔らしき人物は天正7年(1579年)後藤氏の三星城落城の際に籠城方

として出ている「原田與五惣」位かと思う。この人物平姓原田氏の縁者で浦上

方に残った人だと思うのだが。詳細教えてください。
[75]磯山さんからのコメント(2011年03月16日 10時30分01秒 ) パスワード

 貞佐の家族について(神社・仏閣への寄進文書のみ)

 原田三河守平(菅原)朝臣貞佐(通称:小次郎)

             尚佐(嫡子)

             蔵人佐(弥右ェ門貞正?)

             次郎左衛門(監物忠光)

           原田三郎左ェ門(行佐)

             与七郎(?)

             孫八郎(?)

             左助(?)

             杢之助(?)

             弥助(?)

三郎左衛門行佐と与七郎の間に原田與五惣がいたと思うのです。  

          
[76]磯山さんからのコメント(2011年03月16日 14時40分55秒 ) パスワード

立石定夫著「戦国宇喜田一族」叶V人物往来社(昭和63年発行)によると

慶長5年時(宇喜多家のお家騒動直前か)の宇喜田家分限帳が掲載されており、その中で将格にあるのは次の通り

 戸川肥後守25、600石、新免伊賀守3、600石、新免勝蔵1、302石、岡豊前守23、333石、長船吉兵衛24、084石、明石掃部守33、110石、浮田左京亮24、079石、花房志摩守14、860石、浮田主馬守4、360石、浮田官兵衛門4、360石、穴甘太郎兵衛1、200石、楢村監物3、000石、明石久兵衛2、000石、浮田河内守4、500石の以上14名で美作菅家と見られる姓名の組頭上位者は浮田河内守傘下の芦田作内800石が最高で福本氏、福光氏、鷹取氏、江見氏などは150石以下の30石取りが殆どです。いかに秀家が財政に窮していたかがわかります。
 この中に組頭として有元氏の名はないので宇喜田家に仕官していたとしても下級であったと判ります。ちなみに、有元氏と共に森氏の美作入領に反対し切腹した難波氏の組頭最上位者は浮田河内守傘下の難波平治の902石です。
 明石全登の33、110石がいかに高級なことか!中村次郎兵衛や長船紀伊守の政治手腕を評価していたと言ってもこの程度です。
 原田氏の改易理由が経済上の理由以外に中村次郎兵衛の企みと考えたくなります。
[77]磯山さんからのコメント(2011年03月19日 15時38分09秒 ) パスワード

貞佐の落ち延び先について(推論)

尼子氏の第一次美作侵攻(天文元年(1532)〜天文6年(1538))

 大永5年(1525)の毛利氏の離脱、享禄3年(1530)の塩冶興久の

謀反に因って大内氏と和睦せざるを得なかった尼子経久は美作への侵攻を決め

おそらくは伯州より美州へ侵攻した。天文2年(1533)細尾城主広戸新三

郎を自刃させ、大別当城主有元佐房を降伏させた。(菅家党の植月氏などもこ

れに従ったと思われる。)一方、備中より侵攻した尼子軍は(備中は蝶城新見

氏、備中松山城の庄氏共に結んでいた)ハ和氏を従わせ、中央町打穴辺りの初

戦で原田忠長を破り降伏させ二上山両山寺に陣所を置いたと思われる。ところ

が、天文6年(1538)毛利氏が嫡男隆元を質に出し大内氏と組んだ為本国

へ撤退した。(天文6年大内氏より石見銀山を奪回したのは尼子晴久なので或

いは経久が病を得たのかもしれない。)

忠長の稲荷山城落城とその後

 元々、皿川を通じて吉井川の対岸で神楽尾山城主山名氏兼と対立していた忠

長は天文7年に神楽尾山城を陥とすのに成功させるも、逆に稲荷山城を山名氏

兼に陥され西幸にて自刃した。空白地となった原田氏領をハ和久幸は簒奪し竹

内久盛と名乗ったのであろう。(中央町境の高土城、中央町錦織の立満城共に

竹内氏傘下の杉山氏が城主)この様にして貞佐は浦上氏領へ落ち延びたと思わ

れる。天文元年に天神山城へ入った浦上宗景は防衛的見地から柵原町飯岡の・

山城へ星賀藤内光重を入れることになった。  参考文献:美作古城史
[78]磯山さんからのコメント(2011年03月22日 12時30分12秒 ) パスワード

スレ77の訂正

ハ和久幸はハ和為能、竹内久盛は竹内為能に訂正します。

その他の豪族の動き

三浦貞勝:勝山高田城主 弟貞広が尼子方にあって、永禄8年(1565)の

三村家親による貞勝の高田城落城後に高田城復帰があるので天文13年までは

表向きには尼子氏と同盟か、従属関係にあったと思われる。

後藤勝基:三星城主 この時期の動きは不明だが、後に新免宗貞の竹山城を尼

子氏と共に攻略しているので友好関係にあったか?

草刈モト継:矢バス山城主 尼子氏の侵攻に呼応して天文元年に築城、天文2

年に移城。草刈氏の自史では尼子氏と戦ったことになっているが怪しい。弘治

年間に毛利方につくまで尼子方に在ったとする方が自然か?

尼子経久の戦略

岩屋城を攻めなかったことから浦上方と対立する気がなかったと考えます。晴

久が因幡平定し天文7年播磨へ侵攻、赤松晴政に大勝。翌年龍野城攻略、三木

城の別所氏降伏から美作国の豪族を山名氏、赤松氏から自陣営へ入れる意図だ

ったと思う。結果的に原田氏が落城した事は浦上宗景を刺激し誤算だったと思

うのだが。

[79]磯山さんからのコメント(2011年03月22日 13時07分58秒 ) パスワード

貞佐の亀甲梅鉢紋と菅原姓の使用について

貞佐の稲荷山城への復帰は文書から考えて天文年間の終わりで客分の城将だっ

たと思う。天文22年の竹内氏の尼子方から浦上方への転向は原田氏領を浦上

方に奪われた事に因る。尼子氏は竹内氏を支援出来なかったのではないか?

貞佐の名は明らかに三浦貞勝の「貞」と有元氏の「佐」に拠ると思うのだが、

「佐貞」ではない。これは浦上家中(宇喜多家中)で敵方にある美作菅家党を

統する意図を期待されてのことだと思う。永禄2年に島村豊後守盛実と中山備

中守信正を謀殺し浦上家中で最大の実力者となった宇喜田直家に自らの出自を

述べ西幸神社への神來地の寄進(永禄12年)を以て、稲荷山城主となり原田

氏の再興と考える訳です。(以降菅原姓使用)
[80]磯山さんからのコメント(2011年03月24日 11時09分09秒 ) パスワード

前スレ79の訂正
西幸神社への神來地の寄進(永禄12年は永禄4年に訂正)
スレ77の竹内氏の原田氏領の簒奪とした理由
1.貞佐が宇喜多直家に自らの出自を述べた時、稲荷山城の落城は尼子氏(竹内氏)の仕業と述べた点。
2.竹内氏の文書において宇喜多直家が天正8年(1580年)の当時毛利方にあった竹内氏の高城攻めの降伏勧告に対する回答が「領地安堵以外に原田庄を要求」した点。
3.原田二郎佐衛門(監物)忠光の原田故宮が当初砦であり、その立地は久米南町北庄里方である。つまり竹内氏方の杉山為旦の高土城(中央町境)の備えである点。
4.竹内氏は元々南朝方(山名氏方)である点。
[81]磯山さんからのコメント(2011年03月24日 12時21分47秒 ) パスワード

平姓原田氏が山名氏と対立関係にあったとした理由
1.8代忠勝が貞治6年(1367)に山名右京大夫(時氏?)と備中に戦い戦死した点。
2.12代忠行の母、つまり11代政頼の妻は山名主計頭氏冬であるが、その時期は山名氏が備前福岡を嘉吉の乱後の1441〜1467の27年間(山名方の金川城の松田氏が奪った1483〜1485の3年間もある)の短い期間である点。
3.美作勝山城の三浦貞連が文亀年間(1501〜1504)に山名右京亮(美作守護か?)を殺し笹向山城(久世町)を奪ったことを是認したらしい点
4.赤松氏(浦上氏)と良好な関係である点。(14代忠長は大永元年(1521)に赤松政村(晴政)を新城山城に預かっている。)
[82]磯山さんからのコメント(2011年03月24日 15時05分34秒 ) パスワード

中村次郎兵衛の企みとは(仮説)
 時は天正16年(1588)の宇喜多秀家と関白秀吉の養女豪姫の結婚に遡る。聚楽第行幸の際秀吉の命を受けた前田玄以は諸家の記録や故事を調べ上げていた。
 加賀前田家より豪姫の付き人として宇喜多家中の大阪表に居た中村次郎兵衛は前田氏の系図を知ることとなる。
 天正18年(1590)小田原征伐を終え、正四位下侍従となった前田利家に前田利益(慶次)は水風呂を馳走し出奔する。理由は利家が作った自家の祖先が太平記に出てくる原田佐秀である系図を承認出来なかった事である。利益は義父利久より美作菅家の後流である事は聞かされていたが教養人・気骨の人なのでそのような捏造は認められなかったのである。京にて利益が一条関白兼冬、西園寺右大臣公朝への出入りや三条大納言公光から「源氏物語」「伊勢物語」を習ったのはこの為である。
 一方、同年から慶長2年まで岡山城の城郭建設の普請奉行として岡山にいた中村次郎兵衛は平姓原田氏が菅原姓を使用していたこと、原田佐秀が平姓原田氏の縁者であること等を知り、平姓原田氏をお取り潰しにすることを考えたのである。
 そしてその機会は文禄元年(1592)の文禄の役にて忠佐配下の家臣が軍規を乱したことで訪れる。主君秀家と関白秀吉にいち早く謀った次郎兵衛は原田氏の改易に成功するのである。
 しかし、この件は宇喜多家の譜代門閥衆の不興と動揺を齎し後の宇喜多家お家騒動へと発展した。
参考文献:「豊臣秀吉軍団100人の武将」叶V人物往来社 2009年発行
[83]磯山さんからのコメント(2011年03月28日 14時05分40秒 ) パスワード

磯山氏系図の一考察
 甲斐国磯山城なる地名は存在しないのであるが、桓武平氏の祖:葛原親王が子女を臣籍降下させ平姓を賜った後の承和2年(835)に甲斐国巨麻郡の牧
馬相野空閑地五百町を領したことに因る。平高望の父とされる高見王は詳細不明で実在を疑われている人物であるが病弱であった等の記述もあることから巨麻郡に温泉療養に来ていたと言う推測も成り立つ。忠常討伐の源頼信が甲斐守に任ぜられる前まで桓武平氏が領していたと考えるのが普通であろう。磯とは海の磯ではなくヘリと云う意味から櫛形山の麓現在、秋山となっている城山が磯山城と推測するのであるが如何なものか?良文同様に平直方(忠常の追討使)も平高望の後流であるから曾孫の熊谷次郎直実の伝承と考えても良いと思う。
 以上は諏訪神社の社職家に伝わる伝承であるが、別の話として美作勝山藩(明和元年(1764)立藩)に仕えた磯山氏については
 天保9年(1838)の人別帳:御用人格 磯山勘右衛門120石
 安政6年(1859)の誕生寺の貞佐以下3代の供養文書:礒山近江之輔
 明治3年(1870)美作勝山藩士録高:御給人 磯山健三郎100石
と武家として存続した平姓磯山氏がある。
[84]磯山さんからのコメント(2011年03月30日 14時37分16秒 ) パスワード

大蔵姓と菅原姓についての一考察
 八色の姓においての朝臣は元々皇別の氏に賜る姓で、その意味では平姓は真人から朝臣に下った姓である。一方、大蔵姓は忌寸から宿禰を経て朝臣へ上った姓、菅原姓も元々野見宿禰から土師を経て菅原と宿禰から朝臣へ上った姓と云う点にもっと留意すべきである。この意味合いから云って4代忠廉(1198〜1222の当主)以前に平姓原田氏が大蔵姓や菅原姓を名乗る必然性が感じられない。次に有元満佐の官職であるが玄バの頭と言う治部省に属する外国使節の接待饗応を掌る役所の長官であるから武家ではなく官吏である。菅家七流なる武士団は太平記(1370頃)から出た過ぎた表現と考える訳です。
 大蔵姓原田氏と平姓原田氏が関係あったとするならば、むしろ平姓原田氏から原田の氏名を賜ったと考えるべきと思う。
[85]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年03月31日 18時24分56秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>その意味では平姓は真人から朝臣に下った姓である。
 
明らかな誤りでコメントしておきます。
八色の姓は天武朝の制度で、当時、平真人などは存在しなかった。
以降の動乱で多くの姓氏が消滅してがらっと入れ替わった。
従って比較しても、あまり意味はない。
平安時代に入り、藤原氏が覇権を得て朝臣は皇神蕃の別が消滅して筆頭の姓となった。平朝臣賜姓は平安時代に入ってからのこと。
また大蔵姓は朝臣と言えど公卿補任に一人も現れないが、平姓、菅原姓は大量に存在する。
平安以降は姓は形式的なもので意味はなくなった。
むしろ公卿より受領(国守)の方が実質的価値を持ってくる。
大蔵(原田)春実は、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職になったのだから原田氏は九州の名族であり実力者なのである。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a1.htm#006
 
>大蔵姓原田氏と平姓原田氏が関係あったとするならば、むしろ平姓原田氏から原田の氏名を賜ったと考えるべきと思う。
 
大きな誤解なのでコメントしておきます。
忠高は平姓原田の祖とされているだけで、例え正しいとしても原田忠高は11世紀(1000年代)の人物です。
 
一方、大蔵姓原田氏が原田苗字に固定したのは原田種直からですが、初出は大蔵春実で天慶四年(941)伊予の藤原純友が反乱を起したいわゆる天慶の乱にあった源経基・小野好古らとともに乱の平定。
乱の平定後、春実は戦功により征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職となる。
九州に下向した春実は、太宰府に近い筑前御笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部九州の守備にあたった。
のちに山麓の原田に居館をつくり、地名をもって原田氏を名乗り土着した。
後裔の種輔は筑前国那珂郡岩門庄を本拠としたので岩門を名乗ったが孫の種直の代に旧称原田に戻った。
 
結論は、大蔵姓原田が平姓原田より早いことです。
原田種直は、れっきとした大蔵姓なのですが寛永系図は平姓に収め、寛政譜の種直後裔の原田氏も平姓が12家と最も多く、大蔵姓(2家)、藤原姓(1家)を上回っています。
いつのまにか種直後裔の幕臣原田氏も平姓を公称するようになったのは、何も原田氏だけでなく後世の武家社会のごく普通の傾向です。
平基親の「官職秘抄」に「外記史に四姓(源平藤橘)の人を任ぜず」とあり、後に源平交代史観も定着して大蔵姓を避けるようになったのでしょう。
 
同様の例として橘姓も、多くの異姓が橘姓に改姓しています。
一例として下記を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#030
 
また美作菅家党系図も諸本により異なり、「太平記」や「作陽誌」も100%信頼するものでも無いがいずれも参考とすべき点は多いものと考えます。
[86]磯山さんからのコメント(2011年04月02日 10時12分49秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様へ
私が上記考察で言っているのは平真人などが存在したと言っているのではなく家柄とか家格のことで結局のところ皇家の縁者が高いと考えているのです。これを否定したら家柄なんて吹っ飛ぶとおもうのですが、見解の相違でしょうか?藤原氏と皇家の関係ですが、天皇からすればすぐ下に藤原氏というのは蘇我氏の例から考えて1段置きたい存在であったと思うのです。逆に藤原氏からすれば天皇の縁者は自分と同格としたい存在で平安期には実際摂関家として天皇に次ぐ家柄となるわけです。藤原氏にとっては菅原氏などが自家と同格になるのは我慢のならない出来事だと思うのですが。天皇にしても上皇政治で再び藤原氏との間に1段置くのです。次に平姓原田氏と大蔵姓原田氏が関係あったとしたのは日本の七千傑様がスレ71等で述べたことで私は是認していませんよ。その意味で「関係があったとすれば」と前置きしているのです。
[87]磯山さんからのコメント(2011年04月02日 10時36分22秒 ) パスワード

「太平記」の猪熊合戦の描かれ方について
文章通りに要約すれば「将格たる有元3兄弟が先頭を切って敵方に突っ込んで討ち死にし、司令官を失った部隊(原田彦次郎(佐秀)ら)は各個撃破された。」という事なんです。源義経などヒロイックに描かれる軍記物は華やかで楽しいが軍事的には正しくない。このことを私は過ぎた表現と言っているのです。大東亜戦争でも若い仕官がヒロイックに突っ込んで部隊全滅となる例は数多とあり、こう言う意味で有元3兄弟を評価出来ないと言ってるのですよ。勿論将たるもの前線にあって部隊を指揮するのは当然なのですが、先頭切って討ち死にはねぇ。やはり官吏だなと。
[88]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年04月02日 14時22分24秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>見解の相違でしょうか?
 
見解が大きく異なっています。
朝廷での官職・官位・公卿数や氏長者などが家格・家柄を表しています。
従って家格や家柄は固定的なものでなく流動的なものです。
一度、「公卿補任」を閲覧されると解るでしょう。
 
8・9世紀頃は、藤原氏に限らず多くの他姓公卿・参議がいたが、10世紀半ば頃より藤原氏一門が圧倒的に増加した。
藤原氏以外では賜姓皇族たる源氏が生き残り、院政期の康和3年(1101)には逆転しているが、次第に源氏公卿は減少していった。
藤原氏・源氏以外の例外としては菅原道真が昌泰2年(899)右大臣に昇進した事例、保元・平治あたりから平氏公卿が正三位に進出、仁安年間に源氏公卿を抜き、寿永2年(1183)平家西奔時に最大の12に達している事例。
足利氏や徳川氏が家格的権威を保ったのは源氏長者となったからです。
明治維新時に平氏(血系的には藤原氏)と菅原氏が5家で同数なのは微妙。
 
まあ、「勝てば官軍」と言ってみれば身も蓋もありませんが、菅原氏も没落後多くは都落ちし美作にも下向して他姓も巻き込んで菅家党を構成したわけでしょう。
美作菅家党も後裔が没落して系譜類も錯綜しており、伝説かも知れないが美濃に移動した原田氏後裔の加賀百万石前田氏あたりしか世間には知られていない。(もっとも最近では菅首相が美作菅家党後裔と言われているが)
源平藤橘以外に菅原氏が第5にランクされるのは、平安時代以降菅原道真が右大臣まで昇進したからです。 
[89]磯山さんからのコメント(2011年04月04日 07時54分19秒 ) パスワード

日本の名字七千傑様へ
八草の姓が他の制度と異なっているのはご存じの通り世襲制という点であり、平安期にはいって自然消滅していった制度であることは私も認めているのです。しかしながら公卿数で家柄を決定するのは藤原氏が平安中期以降摂関家として天皇に次ぐ地位を確立してからの事であり、姓は少なくとも110年は続いた制度であり廃止された訳ではないのです。世襲と言うのは差別に繋がる重い意味を持っていて人は人に優越を感じることによってしか幸福を感じられないという本質に係わることなので、私が考察した様な風習というか実態はないが心の底流として在った事柄だと考えているのです。歴史は心同様断続するものではないからです。菅原道真が左遷されたのは差別だったと。また、大蔵姓について朝臣であっても公卿補任がなかった事に言及されていますが、これは後に実力者であっても管領職になれなかった大内氏同様渡来人が出自ではないかという差別だと考えているのです。
[90]磯山さんからのコメント(2011年04月04日 08時49分41秒 ) パスワード

菅家党に関する解釈ですが私はその様な武士団は存在しないと思っています。普通の婚姻関係で各氏ばらばら、広戸氏や植月氏は有元氏と運命共同体なのでその様な関係と言っても良いのですが、今一度太平記を引用しますと猪熊合戦を前に各氏は義兄弟の契りを交わしているのです。東作誌(1812〜1825成立)美作太平記(皆木保実著)美作菅家氏分録(1844〜1846成立、皆木保実主幹)で見られる菅家七流は有元満佐の子で猪熊合戦で討ち死にした各氏は孫やひ孫でその様な契りをしなくても菅家七流と言う武士団があれば十分だと思うのです。それをあえてやったと言う事であればその様な武士団はなかったと。没落した各氏が視れる書物は太平記のみなので憧れを持って各氏が菅家党なるものを名乗ったと解釈しています。ちなみに東作誌以降の資料ですが有元氏が庄屋頭から庄屋へ転落し本当に没落した後の資料なので名誉回復を企図したものであることは確かです。菅直人氏は菅納氏の後流で元は宇喜多氏傘下の弓削衆つまり、本性漆間氏の出自で後の菅家党と婚姻に因る後流です。
 招婿婚について言及されていますが京という守られた場所での話で、地方豪族の反乱が頻発する平安末期から鎌倉初期の治安が悪い時期に地方でこの衆俗が可能であったか疑問です。実際、横領使の漆間時国(法然上人の父)は1141年に明石源内武者貞明に襲われ逃亡には成功するが重傷で落命しています。
[91]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年04月04日 14時15分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>姓は少なくとも110年は続いた制度であり廃止された訳ではないのです。
 
姓(カバネ)は明治初頭まで続くが、平安時代以降には残滓に過ぎなくなった。
平安時代に入ると皇族が幾何級数的に増加したため、臣籍降下が加速して光孝天皇が重態になった時は皇位継承者が無く、既に臣籍降下した源定省を皇籍復活させて後の宇多天皇になった。
皇族が急速に衰微したので、宇多天皇は慌てて菅原道真を登用したのでしょう。
このような家系継承の危機は天皇家だけでなく、藤原摂関家も藤原道長が源師房を尊子の婿として、頼通が誕生しなければ源氏関白誕生の可能性さえあった。
世の中は教科書とは違い、例えば鎌倉幕府が成立して島津忠久が薩摩・大隅の守護に任命されても下向せずに鎌倉在府(いわゆる遥任)、孫の久経の代に至り始めて下向。
共に薩摩入部した坂東御家人も前任者が抵抗して支配体制を確立出来たのは室町時代に入ってから。
 
官職にしても原田氏初代忠高が肥前守は理解できても、美作在国なのに後裔が下野守、河内守を称するのは明らかに僭称。
僭称でなければ揚名介で、名ばかりの官位で乱発されたが俸給なし。
見返りに本官にいくばくかの金銭を上納したのでしょう。
律令制崩壊後はこの様なのが現実だから、地方は代理人が支配し真相は良くわからない。
美作菅家党も何が正統か良くわからないが、例え仮冒としても残存した資料の中にしか証拠は存在しない。
あまり類推すれば虚構にしかならない。
姓(カバネ)や官職以前に実情を考えましょう。
 
>これは後に実力者であっても管領職になれなかった大内氏同様渡来人が出自ではないかという差別だと考えているのです。
 
これも大きな誤りなので指摘しておきます。
大内義興は従三位、大内義隆は従二位まで昇進、他にも多くの帰化族も公卿になっており閨閥は存在しますが差別などは存在しません。

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kika_kugyo.htm
 
>招婿婚について言及されていますが京という守られた場所での話
 
これも大きな誤りなので指摘しておきます。
漆間時国の高祖父源年は美作に配流されて、漆間元国の女婿となり子の盛行は源姓から漆間姓に改姓。
武家の嫁入婚は公家よりやや早く始まり、公家の家号定着化は五摂家の成立した鎌倉初期からです。
歴史にある日突然や万世連綿などという事は少なく徐々に混在しながら進むもので、氏から苗字に移行する時期も東西日本で差があり、どちらかと言うと西日本の方が苗字化の時期は遅い。
また招請婚が消滅したわけでもなく、建前は別として後世も嫁入婚と招請婚が混在しているのが現実です。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01053.htm#001
[92]磯山さんからのコメント(2011年04月04日 15時17分14秒 ) パスワード

僭称まさに私も同感です。大内氏の件は論点がずれていませんか?官位については「平安以降公卿より受領の方が意味を持ってくる」=現実の運営者ってことでしょ?室町期では管領職なんじゃないですか?招婿婚の件は漆間時国の出自の話ではなくて治安の話です。消滅とかじゃなくてこの時期に出来たかって話ですよ。類推の件は私も反省すべき点は認めますが、あまりに菅家党が跋扈しているのでね。平姓原田氏を持ち上げるつもりはないし、むしろ地方豪族と思っています。美作史は納得の行く本がないし備前史にほんの一行の存在で解らないことが多く類推しかないんですよ。原田氏については三浦氏との関係の方が重要(戦国期)だと思うがその資料がまったくない。
[93]岡本さんからのコメント(2011年04月05日 17時32分34秒 ) パスワード

面白いこというてはりまんなあ!夜這いでしゃろ。冷静なって考えてみなはれ!結構、距離ありまっせ。ワシやったらよう通わん!
[95]メンテさんからのコメント(2011年04月16日 00時33分28秒 ) パスワード

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