[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月01日 03時02分49秒 ) | パスワード |
将来この記事が消えるでしょうから、かいつまんで残しておきます:
源頼朝はニセものだった!? 浮上したナゾを追う
11月29日18時23分配信 産経新聞
武士として覇業を成し遂げた頼朝の「顔」というと、誰もが思い浮かべる肖像画がある。教科書でもおなじみの国宝「絹本著色伝源頼朝像」だ。黒い束帯を身にまとう、りりしい姿は武士の頂点に立った男の顔にふさわしい。
この頼朝像は同じ構図で顔の向きが違う平重盛像、藤原光能像とともに「神護寺三像」と呼ばれている肖像画シリーズの一つ。絵自体に作者や像主を示す証拠はないが、三像が3氏であるとする通説は寺伝に残る記述の数々を根拠に生まれ、語り継がれてきた。
「神護寺略記」などによれば、三像以外にも後白河法皇像と平業房像の肖像画があった。法皇は文治4(1188)年、同寺に仙洞院を寄進している。4年後に法皇が死去すると同院には法皇像を中心に、4人の肖像画がかけられた。法皇像は室町時代に写されたものが残っているが、原本は何らかの原因で散逸したと考えられている。
一定の年代以上の日本人は、通説に基づいた教科書で、これが頼朝の顔であると教えられてきた。しかし最近の教科書は、「伝頼朝像」と書かれていたり、単なる鎌倉時代の肖像画として紹介されているケースもある。日本人の脳裏にすり込まれた、りりしい頼朝の周囲に何が起きたのか。
平成7年、当時東京国立文化財研究所に在籍していた米倉迪夫氏(現・上智大学教授)が唱えた仮説が社会に大きな反響を呼んだ。あの「源頼朝像」が別人であるとする仮説で、教科書の記述を揺るがしたきっかけの一つとなっている。
制作年代や作者について、通説を疑問視する声は昔からあった。米倉説は目や耳の描き方から三像が14世紀中ごろの絵と推定したうえで、像主を覆すところまで踏み込む。「重盛像」が足利尊氏で「頼朝像」は尊氏の弟・直義、「光能像」は室町幕府2代将軍・義詮であると主張する。
物的証拠として挙がったのが京都御所に残る足利直義の願文だ。願文には「征夷将軍(尊氏)ならびに予(直義)の影像を図き、もってこれを安置す。良縁をこの道場に結び、信心を末葉に知らしめんが為なり」と書かれていた。米倉説は、文中の「影像」こそ三像であるとしている。
しかし直義願文で納めたとする肖像画は2幅。現存するもう1幅「伝光能像」の説明はつかない。
米倉氏は、「納入事由にはおのずと直義の画像納入事情とは微妙に相違する背景があろう」(『肖像画を読む』角川書店)と説明。これに対し、文化庁主任文化財調査官を務めた宮島新一氏は『肖像画の視線』(吉川弘文館)の中で、「根拠薄弱と言わざるを得ない」と指摘、米倉説の問題点と通説の正当性を書き連ねている。
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