[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時33分06秒 ) | パスワード |
富田 周一郎さま
全然分りませんが
富田姓で伊勢出身は「平氏」だと載っていましたから
御家の伝承に合いますね。
伊賀と甲賀は山を境に分断されているけど
ムカシは同じ国だった
と聞いたことがございます。
三重県と滋賀県の教育委員会の歴史編纂課から史料を頂いて
「富田」という地名や人物を捜してはいかがでしょうか?
その時には家紋がヒントになりましょうしね。
「貞」の字は平貞盛を連想させますしね。
伊勢平氏=平家=バリバリのイメージですね。
(続)
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時33分46秒 ) | パスワード |
富田:伊勢平氏
伊勢平氏の1つで
伊勢国朝明郡富田庄よりおこる。
この地は「東鑑」に富田庄
「神鳳抄」に富田御厨とある。
「名勝志」に富田進士平家資(家助)これに居る。元暦元年7月、平氏の一族乱を作す。
家資亦興る。
大内惟義の攻むる所となり、逃れ走る。
文治3年、幕府此の地を以って工藤祐経に賜い、
富田庄6ヶ村を与ふ」
とある。
続
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時34分23秒 ) | パスワード |
略系を示せば、
「家資ーー中宮進士教光(慶光)−−富田進士盛基(基度)」
とある。
家資は「東鑑」巻3、
元暦元年8月2日条に、
「平家の余党と合戦し、逆徒敗北す。
討亡者90余人、其の内、張本4人、
富田進士家助、前兵衛尉家清入道、平田太郎家継入道也」
とある。
続
(な〜んだ、うちの御先祖さまのお仲間じゃん! 号泣)
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時34分56秒 ) | パスワード |
また、基度については、右同書の元久元年4月条に、
朝明郡富田の館を襲ったことが出ている。
以上
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時39分35秒 ) | パスワード |
ということは
富田さまは
本姓平氏・俗姓富田
ということになりますね。
是非「東鑑」をお読みになってくださいね。
また三重県の教育委員会より歴史資料を頂ければ、御先祖さまについて、もっと詳しく分りますよ。
人物が特定出来て、ラッキーでいらっしゃいます。
是非とも御子孫に永く伝えていくようになさってくださいね。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時47分15秒 ) | パスワード |
「東鑑」より:
7月5日 辛卯
大内の冠者惟義の飛脚参着す。申して云く、去る七日伊賀の国に於いて、平家の一族等の為襲わるるの間、相恃む所の家人、多く以て誅戮せらると。茲に因って諸人馳参し、鎌倉中騒動すと。
7月8日 甲午 晴 [玉葉]
伝聞、伊賀・伊勢の国人等謀叛しをはんぬ。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行すと。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻、家継法師(平家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りをはんぬ。また伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛しをはんぬと。この事に因って院中物騒す。喩えを取るに物無し。
7月18日 甲辰
伊賀の国合戦の間の事、その沙汰を経らる。平家隠逃の郎従等を討ち亡ぼすべきの由、大内の冠者並びに加藤五景員入道父子、及び瀧口の三郎経俊等に仰せらると。雑色友行・宗重両人、彼の御書等を帯し進発すと。
7月20日 丙午
この間鶴岡若宮の傍らに於いて、社壇を新造せられ、今日熱田大明神を勧請し奉らる所なり。仍って武衛参り給う。武蔵の守義信・駿河の守廣綱已下の門客等、殊に行粧を刷い供奉に列す。結城の七郎朝光御劔を持つ。河匂の三郎實政御調度を懸く。この實政は、去年の冬上洛の時、渡船の論に依って、一條の次郎忠頼と合戦するの間、御気色を蒙ると雖も、武勇の誉れ上古の聞こえに恥じず。幾旬月を経ず免許有り。剰えこの役に従い、昵近し奉る。観る者不思議の念を成すと。御遷宮の事終わるの後、貢税料所として、相模国内の一村を奉寄せらる。筑後権の守俊兼宝前に召され、御寄附状を書くと。
[玉葉]
伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退散す。宗たる者を伐ち取りをはんぬと。
7月21日 丁未 [玉葉]
伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首せられをはんぬ。その外両三人大将軍たる者伐たれをはんぬと。忠清法師・家資等山に籠もりをはんぬと。また官軍の内、大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれをはんぬ。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。
8月2日 戊午 雨降る
大内の冠者の飛脚重ねて参着す、申して云く、去る十九日酉の刻、平家の余党等と合戦し、逆徒敗北す。討亡者九十余人、その内張本四人、富田進士家助・前の兵衛の尉家能・家清入道・平田の太郎家継入道等なり。前の出羽の守信兼が子息等並びに忠清法師等は、山中に逃亡しをはんぬ。また佐々木源三秀能、五郎義清を相具し合戦するの処、秀能平家の為討ち取られをはんぬ。惟義すでに会稽の恥を雪ぐ。抽賞に預かるべきかと。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時53分57秒 ) | パスワード |
4月21日 甲寅 晴
武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る月二十三日出京す。爰に伊勢平氏等鈴鹿の関所を塞ぐ。険阻を索めるの際、縦え合戦を遂げずと雖も、人馬これを通り難きに依って、美濃の国を廻り、同二十七日伊勢の国に入る。計議を凝らし、今月十日より同十二日に至り合戦す。先ず進士三郎基度が朝明郡富田の館を襲い、挑戦刻を移す。
基度並びに舎弟松本の三郎盛光・同四郎・同九郎等を誅す。次いで安濃郡に於いて岡の八郎貞重及び子息・伴類を攻め撃つ。次いで多気郡に到り、庄田の三郎佐房・同子息師房等と相戦う。彼の輩遂に以て敗北す。また河田刑部大夫を生虜る。凡そ狼唳両国を靡かすと雖も、蜂起三日を軼ず。件の残党猶伊賀の国に在り。重ねてこれを追討すべしと。
5月6日 戊辰 晴
朝雅が飛脚重ねて到来す。去る月二十九日伊勢の国に到る。平氏雅楽の助三郎盛時並びに子姪等、城郭を当国六箇山に構う。数日相支えると雖も、朝雅武勇を励ますの間、彼等防戦に利を失い敗北す。凡そ張本若菜の五郎城郭を構える処所、所謂、伊勢の国日永・若松・南村・高角・関・北野等なり。遂に関・北野に於いてその命を亡ぼすと。
度々の合戦次第・軍士の忠否等、分明にこれを註し申す。山内首藤刑部の丞経俊・同瀧口の六郎等、始めは平氏の猛威に怖れ逐電せしむと雖も、後は朝雅に行き逢い、相共に征伐を励むの由、同じくこれを載すと。
5月8日 庚午
国司等の訴えに就いて、沙汰を経らるるの事有り。所謂、山海の狩漁国衙の所役に従うべき事。塩谷の所当三分の一を以て地頭分と為し、抑留の儀を止むべき事。節料の焼米国司の得分たるべき事。以上三箇條、且つは国宣に随い、且つは先例に任せ、沙汰を致すべきの旨、地頭等に仰せ付けらる。左衛門の尉義村・左京の進仲業奉行たりと。また伊勢の国員辧郡司進士行綱、夜討ちの疑い有るに依って囚人と為すと雖も、彼の夜討ちは、伊勢平氏若菜の五郎等が所行たるの由、従類白状出来するの間、行綱が過無きの旨その沙汰有り。今日厚免を蒙る。剰え本所を安堵すべきの趣、遠州下知を加え給うと。
5月10日 壬申
伊勢平氏等追討の賞の事、その沙汰有り。廣元朝臣・問注所入道等これを奉行す。朝雅伊勢の国守護職を補任す。また彼の輩の私領水田を給う。件の両国守護は経俊が本職なり。而るに平氏が片時の権威を恐れ逃亡するの間、改補せらるる所なり。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月19日 23時57分31秒 ) | パスワード |
実は子供の時に住んでた御近所さんに「富田さん」というおばさんがいて
時々思い出すのです。
昔々からの御縁だったのですねえ。
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月20日 11時19分06秒 ) | パスワード |
http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/kasukabe.htm
この系図がなかなか興味深かったですよ。
「富田進士平家資」でも検索できます。
この子孫に織田三郎がいる?
織田家の家紋は蝶と木瓜ですものね。
一致しますね。
季衡の子孫ということで
そうしますと平田家継と同じ流れになりますね。
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月20日 11時21分44秒 ) | パスワード |
2つ目の家系図の末孫に 傳左衛門 さんがいますね。
笑
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月20日 11時31分46秒 ) | パスワード |
平 盛久の項で
富田の人で
嘉応2年「殿下乗合」で平資盛が鈴鹿郡久我へ配流となったときに父盛国の命で資盛に侍従したという
と出てますね。
御家の伝承の「関」との関係とはコレかもですね。
平資盛の子孫は「関」氏を名乗ってますから。
そして織田信長は資盛の子孫を名乗ってますしね。
織田信長は福井だったかの神主さんの出身だと思いましたが
なるほど
伊勢平氏(平家)も越前に関係ありますから
織田信長が平氏を名乗った秘密もこれで解明できるのかもですね。
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月20日 11時35分56秒 ) | パスワード |
>私のご先祖は、約400年位前から甲賀郡水口町伴中山に住んで帰農しています。
そうしますと大坂の役では西軍だったのでしょうか?
それで帰農なさったのかしら?
といっても庄屋とか名主とかのクラスだったのでしょ?
水口でしたら大坂方のどなたか、奉行の1人、に関係者がいたような?
そうしますと戦国時代は秀吉に仕えてたのかもですね。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月20日 11時42分42秒 ) | パスワード |
富田知信という戦国時代の人物。
この人がキイ・パーソンかもですね。
富田知信
安土桃山時代の武将。
通称:平右衛門 (つまり平氏出身という意味でしょうね)
知信のほか 信広・長家・一白・水西など。
初め信長に仕え、本能寺の変の後、秀吉に仕えた。
最終的には伊勢安濃津城主で6万石。
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月20日 12時19分12秒 ) | パスワード |
富田知信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E7%99%BD
近江の出身、となっていますね。
やはり五奉行の1人ですね。
[15] | 大シマさんからのコメント(2008年10月20日 21時49分53秒 ) | パスワード |
URL=http://www.ann.hi-ho.ne.jp |
私の下記HPの調査結果によれば富田知信は尾張出身だと思うのですが、
いかがでしょうか。
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/tomita.htm
[16] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2008年10月22日 00時01分01秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
寛政譜などは富田知信を宇多源氏佐々木氏族富田氏とするが、仮冒の疑いが濃厚である。(祖父江家・富田家系図によれば平氏)
伊勢富田氏は伊勢国朝明郡富田庄発祥、桓武平氏季衡流で富田基度を祖とするが、後裔は織田氏系(?)が嗣ぎ富田久勝………久元−知信(伊勢安濃津城主)。
富田基度の娘が斎部親真(越前剣神社神官の系か?)に嫁ぎ、子が織田三郎親真を名乗り織田信長は後裔と称している。(通説では清盛−重盛−資盛−親真とされているが、斎部広成…………頼親−親光−親澄−親真−親真が正系か?)
真相は同名の親真が二代続き、平姓富田氏との姻戚関係により斎部姓織田氏が平姓に改姓したのではないかと思われる。
後裔の織田久勝は伊勢富田氏を名乗り、さらに後裔は祖父江氏も名乗る。
越前剣神社の神紋が木瓜であるように後裔と称する尾張織田家も木瓜紋を使用している。
ここまでくると伊勢富田氏が木瓜紋を使用していることにうなずけるのではないでしょうか?
[17] | 富田 周一郎さんからのコメント(2008年11月21日 23時49分04秒 ) | パスワード |
教えていただいた皆さん ありがとうございました。
富田 です。
少しずつご先祖さんが判ってきた気がします。
平氏らしいです。
朝明郡富田庄(四日市市東富田町)には、富田姓(とみだ)の人
今も住んでおられるのかなあ?
知ってる人おられたら教えて下さい。
[18] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月22日 12時17分54秒 ) | パスワード |
>朝明郡富田庄(四日市市東富田町)には、富田姓(とみだ)の人
>今も住んでおられるのかなあ?
1)三重県に行って、電話帳をゲットしてみてはいかがでしょう?
2)四日市市東冨田町あたりに行って、本家捜しをしてみてはいかがでしょう。
連休でしょ?
絶好の機会ではありませんか。
三重県まで散歩にいってらっしゃいよ。笑
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