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 投稿番号:101052 投稿日:2008年09月06日 23時39分53秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
京都散策:東山・池殿町あたり

コメントの種類 :史蹟  パスワード

友人が京都に行きました。
平頼盛の屋敷あたりということで東山の池殿町界隈を歩いてきたそうです。
その御報告。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時42分22秒 ) パスワード

その1

京都・東山の池殿町は、考えていたより古い町並みでした。

一瞬、中世を旅しているような錯覚に陥ります。



「何でこんな素晴らしい町並みが、どのパンフレットにも載っていないのか」と思うくらいです。



貼付の画像は舞妓さんが歩いていそうな町家の並びでした。
夏ですから軒下に簾がかかってました。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時44分38秒 ) パスワード

その2

画像はココ↓のようです。


京五条 頼朝宿舎付近

頼朝が上洛したのは、後白河法皇に征夷大将軍を暗に要求した時と、奈良・東大寺の落成供養の折と、大姫の天皇正室の話の時。

このため、京に滞在するための邸宅があったという。
場所は五条通沿いの北側の鴨川近くで、池殿の旧地(跡地)だった。

今は、五条の街に埋もれてしまっているが、この辺は古の姿が色濃く残っている。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時45分56秒 ) パスワード

その3


平頼盛(池殿)邸跡

平頼盛の通称、「池殿」の邸宅があった池殿町。


平教盛の邸宅は、惣門の脇にあったので門脇町。
平家三兄弟、清盛・頼盛・教盛の邸宅があった三盛町。
五条坂に沿って、この小さな町が並んでいる。


平頼盛は弥平兵衛宗清を名代として、青墓宿で頼朝を捕縛した人物である。
頼盛の母が池禅尼であったためか、頼朝とは当時も平家滅亡後も書の遣り取りがあったという。
頼朝は池禅尼の恩に報いるため、頼盛を厚遇している。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時47分03秒 ) パスワード

その4


小さな池殿町

頼朝は頼盛を鎌倉にも招き、手厚い持て成しをしている。
銭別には金作の刀1腰、砂金1嚢、馬10疋が与えられたという。
頼盛はその後東大寺で出家を遂げ、法名を重蓮と号した。
出家の翌年、56歳で没している。


池殿町は小さな案内板1枚に収まってしまう小さな町である。
しかし今の町は小さくても、これが屋敷となれば、その大きさが窺える。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時48分23秒 ) パスワード

その5


京都の平家の屋敷が建ち並んでいた3つの町。
暇に任せて計算したら、約3千坪に平教盛・清盛・頼盛・教盛の邸宅なんです。
1軒当たり、平均750坪の敷地です。

「贅沢すぎる〜!」と言っても、平家の世の中にあっては狭すぎるかなとも思いますね。

今の世では考えられない広さかもしれませんけど・・・。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時52分40秒 ) パスワード

わたくしからのレス:


平安貴族は敷地約300坪の屋敷に住んでいたと聞いたことがあります。
江戸時代の武士は馬を飼うのにやはり敷地約300坪の屋敷に住んでいたと聞いています。

300坪=一反ということで、それが基本なのかもですね。


その倍の敷地だったなら、平家の上層部は平安貴族の倍の屋敷に住んでた、ということになりますか。
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