[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時42分22秒 ) | パスワード |
その1
京都・東山の池殿町は、考えていたより古い町並みでした。
一瞬、中世を旅しているような錯覚に陥ります。
「何でこんな素晴らしい町並みが、どのパンフレットにも載っていないのか」と思うくらいです。
*
貼付の画像は舞妓さんが歩いていそうな町家の並びでした。
夏ですから軒下に簾がかかってました。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時44分38秒 ) | パスワード |
その2
画像はココ↓のようです。
京五条 頼朝宿舎付近
頼朝が上洛したのは、後白河法皇に征夷大将軍を暗に要求した時と、奈良・東大寺の落成供養の折と、大姫の天皇正室の話の時。
このため、京に滞在するための邸宅があったという。
場所は五条通沿いの北側の鴨川近くで、池殿の旧地(跡地)だった。
今は、五条の街に埋もれてしまっているが、この辺は古の姿が色濃く残っている。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時45分56秒 ) | パスワード |
その3
平頼盛(池殿)邸跡
平頼盛の通称、「池殿」の邸宅があった池殿町。
平教盛の邸宅は、惣門の脇にあったので門脇町。
平家三兄弟、清盛・頼盛・教盛の邸宅があった三盛町。
五条坂に沿って、この小さな町が並んでいる。
平頼盛は弥平兵衛宗清を名代として、青墓宿で頼朝を捕縛した人物である。
頼盛の母が池禅尼であったためか、頼朝とは当時も平家滅亡後も書の遣り取りがあったという。
頼朝は池禅尼の恩に報いるため、頼盛を厚遇している。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時47分03秒 ) | パスワード |
その4
小さな池殿町
頼朝は頼盛を鎌倉にも招き、手厚い持て成しをしている。
銭別には金作の刀1腰、砂金1嚢、馬10疋が与えられたという。
頼盛はその後東大寺で出家を遂げ、法名を重蓮と号した。
出家の翌年、56歳で没している。
池殿町は小さな案内板1枚に収まってしまう小さな町である。
しかし今の町は小さくても、これが屋敷となれば、その大きさが窺える。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時48分23秒 ) | パスワード |
その5
京都の平家の屋敷が建ち並んでいた3つの町。
暇に任せて計算したら、約3千坪に平教盛・清盛・頼盛・教盛の邸宅なんです。
1軒当たり、平均750坪の敷地です。
「贅沢すぎる〜!」と言っても、平家の世の中にあっては狭すぎるかなとも思いますね。
今の世では考えられない広さかもしれませんけど・・・。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年09月06日 23時52分40秒 ) | パスワード |
わたくしからのレス:
平安貴族は敷地約300坪の屋敷に住んでいたと聞いたことがあります。
江戸時代の武士は馬を飼うのにやはり敷地約300坪の屋敷に住んでいたと聞いています。
300坪=一反ということで、それが基本なのかもですね。
その倍の敷地だったなら、平家の上層部は平安貴族の倍の屋敷に住んでた、ということになりますか。
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