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 投稿番号:101037 投稿日:2008年05月17日 23時53分36秒  パスワード
 お名前:市川善右衛門
三河市川氏のルーツを教えてください
キーワード:市川氏
コメントの種類 :質問  パスワード

私の祖父の故郷は愛知県の岡崎市奥山田町という片田舎です。過去帳から江戸時代中期くらいまでの先祖は判明しています。奥山田町や周辺の地域にも市川氏を名乗る家が多くあります。この市川氏は一体どこからやってきたのか、そのルーツについて興味があります。南北朝期の新田義興の家臣市川五郎忠光の長男太郎光重が世良田政義に属して信州浪合にて戦死し、光重の子孫が現在の愛知県のどこかに流れたと聞き及びました。三河武士の家々には浪合合戦に参加した先祖の末裔とする家が多く、我が家の先祖も市川太郎光重の子孫ではないかと考えています。ご存知の方がみえましたらご教示ください。また岡崎市北部の市川家の方で自家の先祖のルーツを知っている方がみえましたら教えてください。よろしくお願いいたします。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月18日 10時36分42秒 ) パスワード

市川善右衛門どの

全く分りませんが
アカコッコさんからレスがつくと良いですね。


まず
・岡崎市奥山田町
・南北朝期の新田義興の家臣市川五郎忠光の長男太郎光重
・三河武士の家々には浪合合戦に参加した先祖の末裔とする家が多く

こういう情報からしますと
近くに松平郷もありますし


状況証拠からしますとひょっとすると酒井家や松平家と御親戚かもですね。


有名な市川昆監督は三河松平流だそうですよ。
深溝家の流れなのかしら?

とりあえずアップしますね。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月18日 10時55分48秒 ) パスワード

>新田義興の家臣市川五郎忠光の長男太郎光重が世良田政義に属して

「世良田」
この地名と姓がすごいインパクトがあると思うのです。


徳川家康の先祖と称する(詐称だなんて反徳川方は言いますが)御先祖さまは
清和源氏
八幡太郎義家の孫・新田義重
その末っ子が義季


この義季が上野国(群馬県)新田郡世良田郷得川(徳川)という所に住んでいた。


得川の場所の御近所に「市川」という地名が見つかったらなかなか面白いですよね。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月18日 11時02分55秒 ) パスワード

次に「市川氏」について


大きく4つに分けられるそうです。
・清和源氏(須田氏より)
・三河深溝松平家
・甲斐国佐々木義清より
・甲斐西八代郡市川出身


分布は
関東・甲信越・東海地方


市川房江女史も三河松平流だそうですよ。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月18日 12時01分28秒 ) パスワード

取り敢えず三河国の歴史資料を読みまくることですね。
それから群馬県太田市の歴史も。


江戸時代の記録が読めると良いですね。
武士の分限禄や庄屋の記録など手に入ると良いですね。
岡崎市立図書館に何か古い歴史の記録が読めると良いですね。


市川昆氏や房江女史の偉人伝のような記録も読めると良いですね。
[5]アカコッコさんからのコメント(2008年05月18日 14時21分21秒 ) パスワード

ご無沙汰しております。
 まず私も最初にまったく解りませんので。

 ザット調べました。姓氏事典では「市河に通じる」『曾我物語』に甲斐の住人市川党の別当大夫とあるが、これは西八代郡市川に発祥した桓武平氏城氏流。信濃高井郡の市川城々主も甲斐城氏と同族。

 察するに武田家滅亡以後徳川家に属したのではないかと?

 そこで『家康の族葉』をめくると、「市川氏於竹の方(良雲院)」という名前が、

 幕府祚胤伝には、次のように記してある。

良雲院(於竹)、振姫君母堂 ○振姫ノ母ハ秋山氏デアル。
市川十郎左衛門尉昌永 甲州ニ住ス、武田氏ニ仕フ ノ女。西福寺記・由縁随筆
市川氏ノ女、御外戚伝・柳営婦女伝・東曜婦女伝・玉輿記・柳営女録
市川大隅昌永ノ女、一本市川氏譜
武田氏、名ハ竹、父ノ名未詳、御系図大全
信玄息女、大樹寺記
於竹、兄平右衛門召出サレ 備前守昌忠ト改ム、一本市川氏譜

 按ズルニ、諸記異説之レ有リト雖モ、唯、西福寺記ヲ以テ当ニ正ト為スベキカ、方今麾下市川氏数家ノ譜、之ヲ載セズ、然ラバ則チ天正・慶長ノ前後、父子兄弟御尋ネ之レ在ルト雖モ、武田族滅以後之レ無キニ依テ、其氏族ノ輩召出サレ、麾下ニ属セラルルカ、又按ズルニ、兄弟ノ中、召出サルル以後、蒲生氏ニ属セラルルカ、又今三家方越前家・浅野氏等ニ於テ、其氏流有ルカ、寡聞ニシテ未ダ其詳ヲ得ズ。

天正十年以後、奥勤ノ中、枕席ニ侍ス、
寛永九年、御遺金、金百枚ヲ賜ル。
同十四年丁丑三月十二日卒ス、浅草西福寺ニ葬ル。
良雲院天誉壽清大姉

 こんなところです。寛政譜の市川氏を調査すれば、詳しいことが判明するかも。
 だけど前文のように例によって、例のごとく、わかり難いがその市川氏の流れかと思えますが。
[6]市川善右衛門さんからのコメント(2008年05月18日 22時05分01秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
アカコッコ様

早速のご返事ありがとうございました。

 三河の市川氏で知りえていることは、岡崎市に新田義貞の末裔という古い市川氏があり近くの犬頭神社には義貞の首塚というものがあります。大久保彦左衛門の三河物語にも大久保党とともに家康方で戦った市川半兵衛があります。
 蒲郡市形原には平安末期に形原を開発した領主で甲斐源氏義光流で義光の孫の方原師光があり、この師光の子に市川別当太夫高光があります。形原には市川氏が多くみうけられます。形原はご教示いただいた深溝松平氏の発祥地である深溝の隣接地ですので何らかの関係があるのかもしれません。
 
 やはり関係する地域の郷土資料や歴史文献を読みあさることが大切ですね。
いろいろご教示いただき本当にありがとうございました。
 お教えいただいた線でも調べてみたいと思います。
 



[7]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2008年05月18日 23時14分57秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

武田氏族は甲斐国巨摩郡市河(市川)庄を本拠としている。
山梨郡、八代郡にも市川邑があり、地名遷移したものと見られる。
市川氏の多くがこれらを発祥地とするが、中でも有名なのが武田義光の子覚義の裔である。
市川教光は新田義貞に属し、子の忠光は新田義興に属した。
その後、甲斐に居た弟の正光の系は武田に属し、武田滅亡後徳川に属した事は市川昌忠、市川源五郎、市川内膳などの記載が本領安堵状、所領宛行状等に見られ、明白である。
略系は下記URLを参照のこと。
日本の苗字七千傑「姓氏類別大観」(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )清和源氏義光流
光重以降の系は残念ながら不明である。

[8]市川善右衛門さんからのコメント(2008年05月19日 06時02分57秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様

 ご返事ありがとうございます。

 やはり光重以降は不明ですか。
 義光流市川氏のうち甲斐の一族はよく知られているんですよね。また上州の流れも詳細を調査されている方があるようですが、南北朝期に現在の愛知県へ流れた太郎光重の子孫については、とたんに情報がなくなるのが大変残念です。
 日本の苗字七千傑「姓氏類別大観」すばらしいですね。本当に感心いたしました。

[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月19日 09時02分45秒 ) パスワード

アカコッコさん

さすがですね!
感服致しました。


>西八代郡市川に発祥した桓武平氏城氏流

城氏ですと平家との関係もあるんでしょうね。
それで南朝方というのは揺ぎ無い(笑)



>そこで『家康の族葉』をめくると、「市川氏於竹の方(良雲院)」という名前が、

これはもうスゴイ!情報でさすがアカコッコさんですね。
やっぱり家康公が絡みますね。

市川家というのは元は松平家(徳川家)や酒井家がらみで
結局かなり前の時代から引っ張り合いがあったんでしょうね。



>於竹、兄平右衛門召出サレ 備前守昌忠ト改ム、一本市川氏譜


兄・平右衛門ですか
これからしますと「平氏」ですね。

それに
「備前守」
ここが面白いですね。

平氏・平家・南朝方
そんな背景が浮かびますね。




市川善右衛門どの

どうやら古くからの豪族らしいですね。
古代の姓氏に既に出ているのかも。

古代から各地の史料を読みまくることになりましたね。大変だ!



今年のお盆をメドに早くお年寄り達と連絡がつくと良いですね。
家紋で同族になる市川さんのホンヤさんがみつかると良いですね。
[10]アカコッコさんからのコメント(2008年05月19日 14時03分45秒 ) パスワード

 >平氏・平家・南朝方
 >そんな背景が浮かびますね。



 新田義興が矢口渡で策略にあい従者とともに戦死し、その近く武蔵新田に新田義興を祀った新田神社が古色蒼然とした佇まいです。
 私の良く出かける場所です。

 近くに十騎神社があります。
 伝えによると、主君である新田義興を祀った新田神社へ願をかける際は、まずここで従者たちに詣でないと願いを聞き入れてもらえないと言う。

 新田義興の十人の従者、世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、(土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎)を祀ってある。

 従者として市河五郎のお名前があります。
 トップに新田義興の家臣市川五郎忠光の名前が記述してありますので同一人物か、私の知識・研究が足りないのでよく解らない、市川善右衛門様のお解かりの事がありましたらご披露下さい。宜しくお願いいたします。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月19日 20時48分16秒 ) パスワード

アカコッコさん

>従者として市河五郎のお名前があります

新田家の
 重臣だった
 侍大将だった
そういうことでしょうね。


やはり古くからの関係がった
ということですね。


>新田義興が矢口渡で策略にあい従者とともに戦死

このお話は小説になってますね。
読んだことがあります。
引越の際に処分したのかどうか(謎)
ひょっとしますと、その時の記憶があったのか
それとも城氏系で平家のオカルトがかかったのか?

何か引っ掛かりますが99.999%霞がかかってます。


千葉の市川の古代史も参考になるかもですね。
[12]市川善右衛門さんからのコメント(2008年05月19日 21時07分57秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
アカコッコ様

 ご返事ありがとうございます。本当に感謝しています。
 いろいろご意見をお聞きして大変参考になります。

 以前から漠然と考えていたのですが祖父の故郷、愛知県岡崎市周辺の同姓の方の情報を如何に集めるか・・・荒っぽい方法かもしれませんが、地域の市川家に直接お聞きする方法で、情報を集約し整理する方法もいいのかもと思っているのですが、「見知らぬ者から立ち入ったことを聞かれた・・・」とか変に思われるのではと中々できずにいます。その地域には知り合いもいませんし、突破口が見出せないのが現状です。

 なにかいい方法などございましたらご教示いただければ幸いです。 
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月20日 00時26分55秒 ) パスワード

市川善右衛門どの


あらら
岡崎にはお住まいではなかったのですか。
では
「先祖の話をご存知の方はいらっしゃいますか?または詳しい方はいらっしゃいますか?」と
電話帳で住所を探して市川姓の方々にお送りになれば良いですよ。
当然返信用封筒を同封なさって。


取り敢えず御自分から遡って明治の初めの御先祖さまの除籍謄本をお取りになって
(取得方法は岡崎市役所にでもお尋ねなさっては?
理由として先祖供養のためとか)


御先祖さまが明治の初めにお住まいだったエリアの市川さんには特にお返事を期待しましょう。
一族の可能性が高いですから。


除籍謄本をコピーなさって
そして御自分の家紋もお書きになって(写真があると良いですね)
同封なさってください。


もちろん御自分の御存知のこともお書きになってくださいね。


岡崎周辺の電話帳が手に入ると良いですね。
ムカシは東京駅あたりに全国の電話帳がありましたが。八重洲口だったかな?


愛知県の特に西三河と東三河の市川さんに連絡がとれると良いですね。
名古屋あたりに出てらっしゃるかもですね。


お盆の時にでもお年寄りからいろいろ情報をお訊きになったら良いのですよ。
 うちの先祖はどういう家だったか?とか(源平どっち?とか、南北朝どっち?とかね)
 系図は誰が持っているか?とか
系図も1つだけとは限りませんからね
結婚式の時にコピーしたとかでありますから。


でも皆さんなかなか素直には教えてくれないですよ。
だけど必ず一族の中には御先祖さまに詳しいかたがいらっしゃるものです。
今、市川善右衛門どのにその役目が回って来ているんですよ。

こういう機会にやっておかないと、この先本当に伝承されなくなり途絶えます。
頑張ってね。


ライフワークとして30年ぐらいの期間でボチボチやってみてはいかがでしょう?
[14]市川善右衛門さんからのコメント(2008年05月20日 06時33分16秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様

 ご教示ありがとうございます。

 私は岡崎市住でなく隣の豊田市におりますが、祖父の代というよりも曽祖父の代で奥山田町を離れ(祖父の幼い時分だったので記憶に薄かったと思われます)た関係で私の叔父叔母も奥山田のことはほとんど知らないのが現状です。 
 ずいぶん前に奥山田に住む同姓の旧家(建物から、そう判断しました)のうち1件に対しまして「先祖調査をしている」ことを手紙でお送りし、返事が無かったことで、先祖調べを止めてしまった経緯があります。
 
 暇潰しのギャンブラー様の電話帳による手紙の調査をきちんとした形で実行しようかと考えています。お金と時間はかかるでしょうが、やらねば、これ以上進んでいかないと思われますのでトライしてみます。

 今回のご返事で少し希望がもてたような気がしています。ありがとうございました。
 
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月20日 07時32分24秒 ) パスワード

豊田にお住まいでしたか。

でも、豊田でも日進でも、結構奥山田町には御近所ですね。
やっぱり父祖伝来の地は離れ難かったのでしょう。
やっぱり松平郷に古くから関ってきたのでしょう。


御先祖さまは、奥山田町にいらっしゃったのでしょうね。
それが就職か何かで「出た」ということなんでしょう。
矢張り元は奥山田に永く住んでいらっしゃったのでしょう。



>ずいぶん前に奥山田に住む同姓の旧家(建物から、そう判断しました)のうち1件に対しまして「先祖調査をしている」
>ことを手紙でお送りし、返事が無かったことで、先祖調べを止めてしまった経緯があります。
 
なかなかねえ、「家」のことは「難しい」ですよ。
     いろいろな意味ですけど。
気持ちはあっても返事を書くのが面倒だったということもありますし
なんで教えてやらなきゃいけないんだという反発もありますでしょうし
魂胆は何だ?と疑われることもありますしね。系図を見せろと言われるんじゃないかとか
利用されるのではないかという不安に疑心暗鬼にもなるでしょうし。


そりゃ守るモノがあったら失うのを恐れますしね。
旧家はそりゃあ大変ですから。


でも、今、市川善右衛門どのに御先祖さまからコンタクトが来ているんですよ。
ちゃんとこの先、市川家のことを伝えていけ、って。


ですから高齢になって教えたくて教えたくてたまらない一族の長老もいらっしゃるんですよ。
この人が見つかると良いですね。


一生懸命努力していらっしゃいますとね
御先祖さまからパワーを頂けますよ。


土地の歴史家をどなたかが御紹介くださったり。郷土の史家、という方を。
(教育委員会に史料を請求なさいますと、紹介してくれたりしますよ)


もう矢のようにバンバン情報が飛び込んで来るようになります。
本を読んでたりテレビを見てたりしますとね。
こういうのは御先祖さまが助けてくれているって事だと思っています。

ですからとりあえず、あらゆる本を集める、資料を請求する
そういうことをなさって
一生懸命読んでいれば御先祖さまがヒントをくださいますよ。


わたくしもいろいろ不思議な経験をしましたから。

九死に一生を得るという経験も何度もしましたしね。
五体満足で病気もせずにいられるのは御先祖さまのパワーの御蔭だと感謝しています。

ムカシ先祖探しをする前に、
いろいろな人から「アンタには神様や仏様がついてる」なんて言われました。
当時は(何のハナシだ、不愉快な! 怒)という感じでしたが
今は「先祖って敬愛すると子孫を見守ってくださるんだ」というのが分ります。
どういう形かはいろいろと思いますけどね。

ですから「オーラの泉」なんかは自分の経験上なかなか好きな番組でしたよ。
今は「夢物語と思ってください」という表現になって残念に思ってます。



わたくしの経験上、皆さん、とても親切にしてくださいましたよ。
あ、1軒だけ、そうじゃなかったお寺さんもありましたっけ。
「皇太孫殿下がなんたらかんたら」というお寺さんでしたが。
でもそこの下の関係者はとっても親切でしたよ。

こうやって「格式が・・・」というのが絡むとややこしいことになりました。


ヒトの善意とかね
生きる上でとっても大切なことをたくさん勉強しました。

「家の重さ」「家名」「子孫に繋ぐ」そういうことを考えさせられましたよ。



>ずいぶん前に奥山田に住む同姓の旧家(建物から、そう判断しました)のうち1件に対しまして
>「先祖調査をしている」ことを手紙でお送りし、返事が無かったことで、先祖調べを止めてしまった経緯があります。

どなたか、この御家に御紹介くださる方が見つかると良いですね。
突然訪ねては向こうも構えるでしょうしね。


ですからやはり明治の初めの除籍謄本と家紋から
一族らしきヒトを見つける
それが大事でしょうね。


御先祖さまや一族に係わる「知らなきゃ良かった悲しい事実」というのにもぶち当たるかもですよ。
御自分が生を受けて今生に存在しているのを感謝なさってくださいね。
[16]市川善右衛門さんからのコメント(2008年05月20日 22時51分33秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様

 
 明治初めまでの除籍謄本と家紋から一族の可能性の方を見つけることが重要とのこと、もっともだと思います。

 手間隙かかることですが、まず奥山田を中心に先祖調べを再開していきたいと思います。いい反応があると良いのですが・・・

 いろいろご意見いただき本当にありがとうございます。

 
[17]アカコッコさんからのコメント(2008年05月24日 07時06分02秒 ) パスワード


[10]の補足です。

 十寄(騎)神社の由緒 案内板より(以前写真を撮ってあったがヤット探出した)

 祭神 源朝臣新田左兵衛佐義興公の支族および近習の将兵、
 世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、 進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、(土肥、南瀬口、市河)

付記、典拠には矢口渡の自刃戦死者として大島兵庫頭義世、松田與一、宍道孫七、堀   口義満もある。
創記 天平十三年(一三五八年)
祭事 春季大祭四月十日 例大祭十月十日

祭神事跡 正平七年二月十五日(一三五二年)足利尊氏追討のため宗長親王を奉じ挙兵した新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)金井原(小金井市)小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた、世にこの戦を武蔵野合戦と云う。

 正平十三年(一三五八年)四月丗日足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ北武蔵の安定化のため義興公の謀殺を図った。
足利幕府執事の畠山国清は、武蔵野合戦に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ義興公に救援挙兵を求めさせた。義興公はこの謀略にかかり竹沢、江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく正平十三年十月十日その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向うため多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃或は渡岸し、江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した(矢口渡、津の戦)
 その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き社祠をお輿し一社の神とし合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を賞賛した。

縁由の古跡
 
 新田神社(大田区矢口)新田左中将義貞公の二男新田義興公を祀る。

 愛宕神社(埼玉県入間市)祭神は天照皇大神ほか二神と新田義興公、元は新田大明神と称していた。足利基氏が義興公および祭神将兵らの首実見を行った地と伝えられ社殿前に義興公首塚がある。また古老によると付近高台に十騎士の首塚もあったと伝えられているも宅地化により現存していない。
 
 女塚神社(大田区西蒲田)義興公の寵姫少将の局を祀る。

 三体地蔵(大田区下丸子)土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川五郎を祀る。

 多摩川兵庫島(世田谷区玉川町三の一)由良兵庫助の憤死体が漂着した処に由って名付けられた。

 光明寺(大田区鵜の木)江戸遠江守および一族の墓碑あり。
 頓兵衛地蔵(大田区下丸子)謀殺に加担した船頭頓兵衛が義興公、十騎士らの冥福を祈り建立したもので、風化しているので「とろけ地蔵」とも云われている。

 昭和四十八年十月吉日
    宮 司      大村 博 撰文
   大島兵庫頭義世末裔 大島康夫 奉納
 
                    以上です。

 それと検索のキーワードを変えて、市河 家系などで検索すると、ヒットするのがあります。
 中には同じ市川姓の人も見受けられます、根気をだして、あせらずに調査を進めたほうが宜しいかと思います。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月24日 08時09分25秒 ) パスワード

アカコッコさん

さすがでございますねえ。
にっこり


>祭神 源朝臣新田左兵衛佐義興公の支族および近習の将兵、
>世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、 進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、(土肥、南瀬口、市河)

やはりかなり近い関係ですね。


義興公関係の資料に市川家について詳しく出て来そうですね。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年07月06日 09時01分08秒 ) パスワード

2007年8月26日の朝日新聞(日曜日)14版 社会 P36
「報国レジームの記憶」に


市川房枝女史御自身は愛知県明地村(今の一宮市)の農家に生まれたと書かれていました。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年07月06日 09時09分20秒 ) パスワード

蛇の足:笑

愛知県明地村(尾西市、今の一宮市)はひょっとすると、あの辺りは北朝方じゃなかったかなあ。
特に妙興寺は尾張の北朝方の本拠地だったから。


蛇の足のそのまたアンヨ:笑

尾張の南朝方の本拠地は津島の津島神社ね。



人間は移動しますからね。
兄弟は他人の始まりで、南と北と分かれて戦った、というのはどの時代のどの国でもありましたからね。
[21]アカコッコさんからのコメント(2008年07月07日 10時44分11秒 ) パスワード

遅々と進んでいませんね。雨で散歩もままならず。

以前のスレ『名古屋城下デジタル復元地図』で市川家探しの散歩をしました。

@市川余所吉 →六郎左衛門
A市川藤右衛門→音次郎
B市川新十郎 →新兵衛
C市川分左衛門→分左衛門
D市川加左衛門→庄吉
E市川鉄五郎 →ナシ
以上六軒の市川家が存在しておりました。

左側が弘化年間、右側が明治年間で一軒だけが明治には記載なしで跡地には他人名義になっておりました。
[22]井桁に一さんからのコメント(2008年07月08日 04時36分35秒 ) パスワード

市川善右衛門様

東京在住の市川です。
私の先祖も犬山城の南部あたりの村の出身だとのことです。
以前3件のお寺と繋がりを持っておりましたが、私の代で辞退させていただきました。その寺の幾つかの墓石には《井桁の一》の家紋がありました。
これからもこのページを見させていただき、いろいろ先祖のことを知りたいと思っています。
[23]アカコッコさんからのコメント(2008年07月10日 05時25分23秒 ) パスワード
URL=http://www.aa.alpha-net.ne.jp/akokoco

[10]市川家の家紋を調べてみました。

幕臣の市川家は松皮菱で武田の流れか。
尾張藩の市川家:丸に抱茗荷・丸に三引両。
加賀藩(家臣の大半は尾張・三河から召し連れて)
市川家:丸に橘・三つ茶の実・丸に三つ引き・丸に一文字。

引き両は新田の流れか、抱茗荷・一文字は大橋家の流れか。

以上ですが当家も丸に抱茗荷・丸に一文字で、何か親近感を感じます。

《井桁の一》の市川さん、はじめまして、大橋家の身贔屓な者としてどうもソッチを方に引っ張られてしまいますが、戯言(ザレゴト)として、聞き流してください。

大橋家でも井桁紋・一文字を使う、実際に「井桁の内に蔦」を使用しており、一文字の合体も十分に考えられますが。

棚橋家では「藤ノ丸内ニ一文字」を使用しており、
 棚橋久利の娘は市川六郎左衛門の妻になっておりますが、
[21]に登場の六郎左衛門と同一人物かわかりません。

[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年07月10日 09時37分54秒 ) パスワード

アカコッコさん

>以上ですが当家も丸に抱茗荷・丸に一文字で、何か親近感を感じます。

わたくしも御両家の深い深いエニシは感じます。
どの辺りからでしょうね。

南北朝のあたり?
徳川家康のお祖母さまのあたり?
この辺りは確かでしょうね。

これを検証出来ると楽しうございますね。にっこり
[25]アカコッコさんからのコメント(2008年08月01日 07時16分08秒 ) パスワード

>南北朝のあたり?
>徳川家康のお祖母さまのあたり?
>この辺りは確かでしょうね。

たぶん南北朝のあたりからの付き合いが続いていたのでしょうが、武家の系譜がハッキリしてくるのは江戸時代になってからでしょうね大名しかり、旗本しかり。

 またまた状況証拠ばかり、個々の家の系譜は武家しか発表されていないので、これもいたしかないのでしょうか。

 棚橋姓についてはあちこちに書き込んでおりますが、千葉県館山のお寺に江戸川口家中、 棚橋茂左衛門の墓石があり、美濃時代よりの付き合いであろうと思われます。

 また尾張藩士の赤林信家次右衛門の娘が市川文左衛門の妻になっており、赤林家の家紋は丸の内二引両を使用しております。

上記赤林家は織田信雄分限帳に甚右衛門、彌七郎、掃部と三家も記載があります。 
 
 市川家は新田義興の時代に登場してきますので、その時代から同じ行動をし、仲間として家紋を少し変化させ、類似性・共通性を保ち集団意識を高めていたのではないでしょうか(かってに推察しているだけ)。

 お盆も近づいてまいりますので、頑張って!!。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年08月01日 09時29分17秒 ) パスワード

先週のNHKののど自慢の会場が群馬県沼田市でした。


出場者の女性お2人が母にそっくりでした。
我が家は群馬に親戚があるとは聞いていませんし
でも本当にソックリなんです。

これまで母にそっくりという人は母の従妹と同じ名字の女性でしたから納得でした。


群馬の女性がどうして?

この謎に答えてくれるとしましたら
やはり南朝方そして沼田という名前かしら?
と思います。

まるで新田義興一党の亡霊がニヤッと笑ったように思います。

[27]市川 俊明さんからのコメント(2010年02月18日 17時03分03秒 ) パスワード

私の祖父は群馬県出身です。
家紋は鬼蔦ですが何方か関係の御有りの方がありましたら、情報をお待ちいたしております。
[28]呉服問屋さんからのコメント(2010年02月19日 23時25分14秒 ) パスワード

市川家の方々へ

はじめまして、呉服問屋といいます。

会社の同僚といってもあまり話したことはありませんが
静岡の大井川鉄道がある辺りが出身の市川氏がいます。

彼は今、東京に住んでいますが
生まれも育ちもその辺りだそうです。
彼のご両親、祖父母は今でもその辺りに住んでいるそうです。

彼が言うには家は農家と畳屋だそうです。
時々、彼は家はしがない農家だからねと言ってます。

どうしてもお知りになりたければここに書き込みをして下さい。
彼に聞いてみます。ただ、家紋やその他の情報があれば
出来るだけ教えて下さい。

(余談ですが、もし同僚の市川氏が平氏とか
新田氏重臣の子孫だったらあまりの事に笑ってしまいます。
私の勤め先は大きくないのに橘、藤原、平氏、公家系の人が
私が知る範囲だけで私を含めて6人も居ます。
中小なのにどんだけいるんだか・・・。

これに同僚の市川氏がそうなら7人・・・。
しかも同部署に3人になってしまいます(笑)。)
[29]箱柳永田さんからのコメント(2010年02月22日 17時29分02秒 ) パスワード

市川様
 <奥山田のしだれ桜>を紹介します。
 >http://ohanamig.jp/detail/S23M000410/
 >http://okazaki-kanko.jp/schedule/okuyamada.htm
  付近の道路には案内看板が出ます(今年は多分3月21日から)
 奥山田のしだれ桜保存会 市川宅TEL 0564-45-(あとは上のHPで)。
  
 去年訪れた時の経験から(変わっていたらご免なさい)
  少し離れた桜の見える所に、仮設の売店と休憩用の席が並びます、
 茶屋に詰めていた方が(当番の終わった方と次の番、と思われる)
  数人で世間話をしていました。
  
 多分、会長の市川さんや地元の方が交替で詰めていると思われます。
 休憩をしながら、地元の情報が得られる好機と思います。
  
  駐車場は少ないですが、10時迄なら大丈夫と思います。
    岡崎市細川町の北斗台を東に抜けると奥山田町になります。
     是非 お花見にお出かけください。 
[31]詳しい人さんからのコメント(2010年04月03日 22時12分30秒 ) パスワード

落ち延びた市川五郎満久の子孫は、上州を経て、江戸時代に信濃にて水田を開墾しました。

--- 以下引用 --- 

矢口渡で討ち死にした市川五郎満久は新田義興に従って所々に転戦して軍功をたてたが、延文3年、江戸矢口渡の戦に足利氏の軍の誘討にあい、25歳で討ち死にしている。
満久の子真重はこの時わずか3歳、世は足利氏の治世となる。南朝の遺臣にとっては由緒深い市川荘にも安穏に住むことができず、ついに家臣従僕をひきいて上州南牧の地にのがれ入り、それから150年、この山谷の間に過ごすことになったのである。

地域経済と民俗文化 (民俗経済学研究III) (単行本)
日本民俗経済学会 (著)

--- 引用ここまで ---


市川五郎満久の息子は真重。
当主が討たれ、朝敵となり果て、群馬県の山あいの村へ家臣と共に落ち延びたのです。
その子孫は上州南牧の市川五郎兵衛です。
今の群馬県南牧村に羽沢城という城を構えていました。
市川五郎兵衛は江戸時代に今の長野県佐久市に五郎兵衛新田を開拓しました。
記念館もあり、古文書も多く収められています。
五郎兵衛米は良質で美味な米として有名です。
市川五郎兵衛の子孫は今も長野県佐久市に居住しておられます。

遅レスですが、
甲斐市川氏は平氏ではありません。
清和源氏です。
[32]詳しい人さんからのコメント(2010年04月03日 23時12分26秒 ) パスワード

また、市河五郎満久の子孫に関する記述は、農業土木学会誌にも記述があります。

以下引用

市川五郎兵衛真親翁は, 元亀2 年6 月9 日(1 5 7 1) 上
州南牧羽沢に生れた( 現在の群馬県甘楽郡南牧村羽沢) 。
翁の祖先は新羅三郎義光であり, 3 代下った奈古八郎義
行は, 山梨郡府中に住み, 源頼朝が源家再興の旗挙げを
するや, これに従い軍功を立て, 甲斐国八代郡市川荘を
賜わり移り住んで市川姓を名乗ったと伝えられる。義行
から7 代目市川五郎満久ほ, 南朝に与して, 足利氏に敗
れて討死し, その子真重は, 足利氏の治世となるや, 市
川荘は安住の地でなくなり, 家臣従僕を率いて上州南牧
にのがれ, 以来1 5 0 年をこの山谷の地に雌伏した。
[33]市川@武州荒木さんからのコメント(2010年10月12日 16時43分33秒 ) パスワード

岡崎市中島町に新羅三郎源義光の三男・武田冠者義清の十二代の末裔、甲斐八代郡の市川庄から移住してきた市川豊後守重光の屋敷がかつて存在したとのことです。岡崎周辺の市川氏は、この市川豊後守重光の子孫だと思われます。


[34]市川@武州荒木さんからのコメント(2010年10月14日 09時05分48秒 ) パスワード

一応、甲斐の市川氏について、知り得ていることを書いておきます。

甲斐の市川氏は、山梨県市川三郷町の表門神社の神主家が惣本家で、桓武平氏城氏流ではなく、実際の出自は甲斐の古族であると考えられます。
平安後期、源義光の三男・源義清が長男の清光とともに甲斐の市川庄に流罪された時、源義清親子を市川氏が世話をした様で、源義清が「市川刑部三郎」と称し、「市川別当太郎」の祖となったと記録する系図も存在します。吾妻鏡に出てくる市川別当行房は、表門神社の所伝では源義清の子供で、甲斐源氏一族の八代氏の系図によれば、源義清−方原師光―市川高光―市川行房(弟に貞光・行平・行氏)と伝承されております。

新田義興の家臣の一人である市川五郎の出自については、覚義流の甲斐市川氏・武州市川氏、信州安田氏流市川氏、奈古氏流市川氏の系譜所伝があります。市川五郎の子孫の動向は群馬県の郷土史料の「新田家臣祖裔記」に、市川太郎光重・市川藤次郎・市川藤三の三人の息子がいたことが記録されており、甲斐の覚義流市川氏の記録には、甲斐には市川六郎資国という子供もいたという記録も残されているようです。

以前、別のサイトで、三河の市川氏は市川太郎光重の系統ではないかという推測を発言しましたが、三河の史料によりますと、源義清から十二代の子孫で甲斐の市川上野村から移住してきた(代数から推測しますと室町時代に?)市川豊後守重光(源義光九世の市川七郎重光という系図も存在する様です)が現在の岡崎市中島町に屋敷を構えて住んだというので、私のかつての推測は誤りで、岡崎市近辺の市川氏の先祖は、この市川豊後守重光であると推測されると訂正しておきます。

その他、こちらのスレッドで投稿されている静岡の市川氏も、どうやら甲斐からの移住組の様です。群馬県の市川氏も、南牧の市川氏をはじめとして市川五郎の次男藤次郎・三男藤三の子孫であるが高いと思います。 

取り急ぎですが、ご参考まで。
[35]市川真理さんからのコメント(2011年05月31日 19時42分26秒 ) パスワード

私の姓は市川で、曾祖父の代(明治)までは群馬県太田市福沢町に居を構えていたといいます。亡くなった祖父の話では、大昔からの由緒ある家名だといい、祖父の知る限り、江戸時代から地元の有力者であったそうです。祖父は幼年時、呑龍さんの寺男をしていました。

家紋は新田氏とよく似た一引両です。新田大中黒は縦が全体の2分の1くらい太いのと、4分の一くらいの細い紋が入り乱れていますが、当家のは後者の方です。父は新田一族と過去のどこかで縁戚関係にあったからであろうといいます。私の知る限り、市川姓で一引両は当家だけです。
昭和初期に東京に移り住んだあとも、当地に墓地が残っていますが、何十年か前に区画整理をした折、江戸時代末期の市川姓の墓石がたくさん出てきました。入道、別当など僧職もあるので、そういった地位についていたのかもしれません。祖父の話では、屋敷内にたいへん古い薬師如来像があったといいます。

私ももっとよく調べてみたいとおもいます。
[36]市川@武州荒木さんからのコメント(2011年06月17日 19時39分50秒 ) パスワード

市川真理さん、はじめまして。

群馬の市川氏ですが、新田家臣祖裔記という古文書によりますと「市川五郎は義興に属して、矢口の渡にて莫大の働して討死す、其の節嫡男十三歳太郎光重、後に世良田政義の御手に属し、信州並合の宿にて討死す、次男とともに三男廣澤に居住、鎌倉を憚り黒川に蟄居す、持氏新田余類蟄居を尋ねられ、各鎌倉に出仕をなす、永享の後深谷の合戦に鎌倉方利を失ふ時、同国砥沢に蟄居す、其の末葉今に有り、又此の末甲州武田にもあり、永享の末二男藤次郎の末は、持氏の息、春王丸、安王丸、結城に籠城の時持氏の志に謝せんとて是に組し、落城の後、武州秩父半澤郡の民家に下り、後北條安房守氏重の幕下に属すと、三男藤三舊里の廣澤に居を定めて民家に勤をなす、近き頃金山桐生両家に市川右衛門、同主馬之介とて与力の士ある也」とあります。また、同書の羽川氏の項には「羽川越中守市川祖也、御末本國に蟄居す、其の末葉越州に有りとも聞く也」ともあり、市川五郎に関する系図資料では、出自を甲斐源氏一族の市川氏に位置付ける資料のみ伝わりますが、新田家臣祖裔記の記述によるとによると、市川五郎は新田一族の羽川氏の血も受け継いでいる模様で、群馬県の市川氏で新田の丸に一引き両を家紋にしている家は、やはり、この市川五郎の系譜に属する一族であると思われます。私の市川家は、現在の埼玉県行田市荒木の出身で、家伝では大変大雑把ですが「侍の出である」と伝承しております。以前、父の田舎のお墓を調べたところ、西暦1680年代までのものが見つかりました。当家の家紋は丸に三つ割木瓜ですが、先日亡くなった父の話によりますと、私の曽祖父・祖父の二代に渡り、呑龍講の講元を勤めたとのことです。これらのことから、地域的に見て、当家も市川五郎の系統の市川一族と推測しています。


以上、乱文ですが、なにかしらご参考になれば幸いです。



[38]市川真理さんからのコメント(2011年10月02日 10時48分48秒 ) パスワード

市川@武州荒木さん

情報お寄せいただきありがとうございます。

行田市は埼玉県ですが、利根川を越えると太田市が間近ですね。

新田家臣祖裔記はいちばん読んでみたかった資料でした。羽川氏についても調べてみようと思います。

お礼が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。ありがとうございました。
[39]市川@武州荒木さんからのコメント(2011年10月17日 21時02分27秒 ) パスワード

市川真理さん

新田家臣祖裔記は、たしか群馬県立図書館で閲覧出来ると思います。

一応、記録に見える太田市周辺の上野国の市川氏について記しますと、新田老談記に、金山城主の由良国繁御家人に市川主馬之助、由良国繁の弟の顕長が養子に入った足利長尾家の分限帳家臣に市川右門兵衛(市川右衛門)、その父に友之助(主馬之助も足利長尾家の分限帳に名前がある)。

その外、上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録に市川五郎作、箕輪城の支城の倉賀野城の倉賀野十六騎に市川太左衛門が見えます。

これらの上野国の市川氏も、皆な新田義興の郎党であった市川五郎の子孫と見るのが妥当で、市川真理さんのお家を含む太田市や足利市周辺の市川氏、当家を含む行田市周辺の市川氏はこの流れであると推測しております。


以上、市川真理さんのご先祖の調査・研究にお役に立つならば幸いです。





[40]市川@武州荒木さんからのコメント(2011年10月20日 16時49分18秒 ) パスワード

あと書き忘れておりましたが、市川姓一族をはじめとする家系史学の研究者であった故長谷川順音(ペンネーム市川香舟)氏から戴いた手紙によりますと、太田市近郊の東村の某寺(寺名不詳)の過去帳に「市川五郎光久 延文三年十一月 」云々と記載がある由です。推察するに、長谷川順音氏の云う太田市近郊の東村とは、太田市の先の桐生の奥の黒川谷の東村で、黒川谷は、新田家臣祖裔記によりますと、市川五郎の子供の市川藤次郎・藤三兄弟が、足利幕府方の新田の残党狩りを避けて蟄居した場所ですので、太田市近郊の東村の寺院の過去帳に市川五郎の名があることは、この近辺の市川姓の一族も、黒川谷に市川藤次郎・藤三兄弟が蟄居した時にもうけた子供の子孫であることを表しているものであると愚考します。


取り急ぎですが追記しておきます。






[41]アカココッコさんからのコメント(2011年10月20日 18時19分21秒 ) パスワード

>『新田老談記』に、金山城主の由良国繁御家人に市川主馬之助・・・・
>太田金山城に拠って戦国の世を過ごした新田一族や新田遺臣の末裔の物語。
 新田老談記の48〜51には縁の武将達・家来衆の名前が収録されております。

下記HPアドレス
http://homepage1.nifty.com/sira/roudanki/index.html

[42]市川@武州荒木さんからのコメント(2012年05月20日 09時51分32秒 ) パスワード

一応、甲斐市川党の初期の系図を書いておきます。

〇覚義流

源義光(新羅三郎)―覚義(寺阿闍梨、刑部禅師・花林房・後金光院初代院主)―頼圓(市川太郎別当文殊院律師民部卿、後刑部三郎義清の猶子となって十郎とも称すか。弟に新十郎覚光・頼儀)―頼尊(市川別当大夫、実は曽根禅師厳尊の子息。甲斐の頼圓の跡を相続。武州明覚の市川家の系図にみえる小十郎倶義は頼圓の実子か)―頼秀(市川別当太郎、弟の小三郎頼行は、奈古三郎行信の養子)―頼清(市川別当大夫)―忠資(市川大夫太郎)―忠国(市川五郎、新田義興に臣従、明覚の市川市正教光の猶子と見られる、教光晩年に教光に実子正光が生まれたため、遠慮して上州に分家したと見られる、忠光・光久等は後の改名の諱と見られる)―資国(市川六郎、資国は甲斐に於ける忠国の実子で甲斐の遺跡を相続し、新田家臣祖裔記に見える市川太郎光重・藤次郎・藤三の三人は、上州に分家後にもうけた子供であろう)



〇方原氏流

師光(方原次郎、源義光の三男刑部三郎義清の次男)―高光(市川別当大夫、初名行光、弟に方原三郎成光)―行房(市川別当太郎、弟に別当次郎貞光、三郎行平、別当六郎行氏。弟貞光は行房の猶子となり定房とも称す、村松氏祖)―行重(市川別当五郎、義兄に杉本太郎義宗の実子で行房の養子になった市川別当四郎義胤)
[43]上州ノ市川さんからのコメント(2012年09月08日 00時39分21秒 ) パスワード

市川善右衛門様
市川氏のルーツについてのスレッドを立てていただきありがとうございます。実に興味深く読ませていただきました。

市川@武州荒木様
甲斐市川党の初期の系図、シンプルにまとめていただき参考になります。

私の実家は上州桐生ですが、戸籍を遡ると曾祖父は武州忍(現在行田市)の市川半三の三男だったというところまで分かりました。

現在、私はアメリカに在住しております。里帰りは年に一度くらいしかできず、なかなか調査が進みませんが、次回に帰国した際には行田市を訪れてみたいです。

曾祖父は明治2年の生まれですので、江戸末期に存命した市川半三について何か分かればと思っています。
[44]市川@武州荒木さんからのコメント(2012年09月11日 23時00分20秒 ) パスワード

上州ノ市川様、はじめまして。

行田市周辺の市川氏につきましては、江戸時代の忍藩の藩士に市川氏があり、称藤原朝臣姓の伊勢の市川嘉兵衛の子孫の様で、忍藩の藩士の市川氏に関しては、忍城跡にある行田市の郷土博物館に史料が残っております。

私の方の市川氏は、武州荒木の市川家ですが、先祖は「侍の出」との家系伝承はあるものの、忍藩の藩士とかではなく、いわゆる郷士で、遠い親戚と伝わる字八王子の市川家の先祖の中には、市川五右衛門とか源兵衛などの名前が残っておりますので、私の市川家の先祖は新田義興の家臣の市川五郎の系統であると推測しております。

あと、戦国時代の忍城主成田氏の分限帳には「市川三左衛門・市川左平太」が見え、市川左平太については不明ながら、熊谷市の史料によりますと、市川三左衛門については、妻沼の弥藤五村の出身で、子孫が近世まで熊谷市内に住んでいた様です。

既に戸籍謄本をお調べとのことですので、御一族の菩提寺のお墓や過去帳を記録し、また行田市郷土博物館に問い合わせて、同博物館に残されている忍藩の史料に当たってみられるとよろしいかと存じます。


取り急ぎですが、ご参考まで。




[45]上州ノ市川さんからのコメント(2012年09月13日 11時34分28秒 ) パスワード

市川@武州荒木様、

早速のご助言ありがとうございました。

行田市を訪れることができるのは多分来年の夏ごろになってしまうと思いますが、
私の曾祖父は三男であり、行田から群馬に移り住んだため本家の菩提寺もまだ分かりません。まずは市役所と郷土博物館へ足を運んでみようと思います。
[46]市川何某さんからのコメント(2012年10月12日 01時38分58秒 ) パスワード

愛知県江南市高屋町中屋鋪46 永正寺 にみえる市川の苗字の墓が多くあります
檀家が随分多勢いらっしゃいます
因みに家紋は菱一でした
[47]市川@武州荒木さんからのコメント(2012年10月12日 11時48分34秒 ) パスワード

上州ノ市川さん

埼玉苗字事典という書籍には、埼玉県内の市川姓に関する資料が多く収録されています。

埼玉県内で一番古い市川家は比企郡の市川氏で、系譜所伝では、新羅三郎源義光の嫡男の阿闍梨覚義とその子とされる市川小十郎倶義を祖としています。比企郡の市川家では、初代覚義を市川十郎文殊院別当・市川別当文殊院阿闍梨民部卿・民部卿と呼称していますが、市川別当文殊院阿闍梨民部卿・民部卿は、他の甲斐源氏一族に伝承される系図によると、覚義の子頼圓が市川太郎別当文殊院律師民部卿と称している所伝が見えますので、比企郡の市川家の民部卿覚義は、実は頼圓であり、覚義―頼圓―倶義が恐らく真系で、十郎の呼称は、頼圓が源義清の猶子となった際に、通称を太郎から十郎に改名した事情を伝えているものと思います。ちなみに甲斐市川氏も、表門神社の現在の所伝では、家祖とする市川別当内膳行房(清房)を源義清の子供に位置付けている様ですが、他の甲斐源氏一族の系図では、先日こちらに投稿させて頂いた通り、源義清―方原二郎師光―市川別当大夫高光―市川別当太郎行房としており、市川別当行房の系譜はこちらが真系であると思われます。この様に、甲斐市川氏も比企郡の市川氏も、初代を何らかの事情で隠しているのは興味深い現象です。

埼玉県の市川氏では、上記の比企郡の市川氏が、安土桃山時代の松山城士に名が見えます。


行田市周辺の市川家では、比企郡の市川家の他には、熊谷市内に熊谷二郎直真を始祖とする市川家もある様です。あと、秩父郡・半沢郡の市川家は新田義興の従者市川五郎の次男市川藤次郎の子孫とのことです。

当家は、西暦1600年代中頃まで分かってますが、それ以前は不明であるものの、荒木のとなりの須加に、上州金山城主横瀬・由良氏の家臣が帰農していること、須加で、戦国時代に横瀬氏が合戦していること、須加の熊野神社の江戸時代の記録に当家一族の荒木村市川氏の名が見えること、桐生広沢に土着した市川五郎の三男市川藤三の子孫が金山城主横瀬氏に仕えていること、その子孫の家の一つである栃木県足利市の市川氏の江戸末期から明治時代にかけての当主市川安左衛門氏の写真の面影が、荒木の市川一族の顔の特徴に近い印象があること、などから、武州荒木の市川家は、市川藤三の系統であろうと考えております。


以上、雑駁ながら、行田市周辺の市川氏についての追加情報です。とりあえずご参考まで。




[48]市川@武州荒木さんからのコメント(2012年10月12日 12時23分15秒 ) パスワード

市川何某さん

ネット上の岡崎市の関係資料によりますと、新羅三郎源義光の三男刑部三郎源義清の十三代(先日の投稿の十二代は間違い)の子孫・市川豊後守重光(故長谷川順音氏の著述によると愛知県の山間部の“ある村”の市川家に新羅三郎源義光九世・市川七郎重光を始祖とする市川系図もあるとのことです。この市川七郎重光は岡崎の市川豊後守重光と同一人物とみられます。代数は岡崎の方の源義清十三代という所伝の方が正確だと思います)が、甲斐の八代郡市川上野村から来住したとされていますので、菱系の家紋を使用していることからも、市川何某さんの言われた愛知県江南市の市川家も、甲斐源氏系統の市川豊後守重光の流れであると思います。





[49]アカコッコさんからのコメント(2013年01月11日 07時52分48秒 ) パスワード
URL=http://akokoco@adsl8.alpha-net.ne.jp akokoco.alpha-net.ne.jp

御無沙汰してぽります
本日用があり世田谷区の○○寺を訪れました。墓石を眺めながら探索しておりましたら、茗荷紋が彫られたものがありました。良く見ると市川家のものでした。#23にあった尾張藩系の市川家のものでしょうか。様子から見れば、明治以後に建立されたみたいで、寺名はあえて伏字にしておきました。いずれ詳しくお聞きしてみようと思います。
用とは以前私が調査していた味岡家の方にお聞きしたのを思い出し、急遽訪問した訳ですが、目的の墓石はみつからず、墓石を多数の中からみつけるのは、容易ではない改めて暖かい日にも再度訪れてみたいとおもいます。同寺は浄土宗で、味岡家は世田谷城主であった北条氏の家臣であったことをおもいだしました。以前聞きスグに調査すればよかったのに、今では、閉店になってしまい、連絡がとれないからです。
[52]上州ノ市川さんからのコメント(2013年07月28日 18時59分38秒 ) パスワード

市川@武州荒木様

ご無沙汰しております。

埼玉県内の市川姓の資料についての情報ありがとうございました。

現在帰郷中で近日中に行田市を訪れてみようと思っています。
実家の者に先祖にかかわる資料について聞いてみた所、古い巻物が一本でてきました。私の祖父が若い頃、たぶん行田市にある本家に書生として行っていた時に譲り受けたものだということらしいです。その巻物には「国幣中社鹽竃神社」とあります。その巻物が当市川家とどんな関係があるのかまったく分りません。ただ塩竃神社の由緒を読むと、多賀城市市川という土地と深い係わりがあるようです。
[54]市川@武州荒木さんからのコメント(2013年08月09日 08時13分44秒 ) パスワード

上州ノ市川さん

御返信が遅くなり、申し訳ございません。

神社の巻物、興味深いですね。神社関係につきましては、私も疎いので、私も解りません。

多賀の奥州惣社宮の神主さんも確か市川姓だたった記憶があります。

一応、気に留めておく必要はあると思います。


御先祖様の家系調査は、年々史料が減っていくものですので、ある程度は急がないとならないですが、上州ノ市川さんは海外在住と記憶しておりますので、決して焦らず、一歩一歩着実にルーツ調べを進めていって下さい。
[56]市川@武州荒木さんからのコメント(2013年08月10日 17時48分33秒 ) パスワード

上州ノ市川様

塩竃神社で検索致しましたところ、群馬県桐生市内にも、塩竃神社がありました。上州ノ市川さんのご実家に伝わる巻物は、桐生市内の塩竃神社から授与されたものでしょうか?

桐生市内の広沢には、室町初期に、新田義興公の家臣・市川五郎の三男の市川藤三が土着しているので、些か気にはなりました。
[57]上州ノ市川さんからのコメント(2013年08月19日 00時22分14秒 ) パスワード

市川@武州荒木様

残念ながら塩竈神社の巻物がどのような経路で当家にあるのかはっきり分る者はまわりにはいませんでした。結局市川姓と塩竃神社の関係についてはよく分かりませんでしたが、先日行田市の市役所で先祖の戸籍を入手することができました。 その戸籍から私の祖父の祖父であるところの市川半三は市川仁三郎の養子だということが分りました。

埼玉苗字辞典によると嘉永七年の忍藩分限帳に市川仁三郎、明治4年のものには半三も奥平松平家の家臣として載っていました。
しかし戸籍には三重県森忠村の山上という家から半三が市川仁三郎のところに養子に来たということになっているので、血縁を遡るとすればここで市川の筋から離れることになるようです。

今回、これだけ分っただけでも大収穫でした。
この先どこまで先祖を遡れるのかまったく分りませんが、山上家と市川家となにか繋がりがあったのかなどと興味が湧いてきます。 

江戸時代の領地替えで三代目の城主として奥平松平が伊勢の方から忍城に来るわけですが、成田家の頃、あるいはそれ以前からの土着の家の一つとして市川氏は埼玉の地に昔から住んでいたのが埼玉苗字辞典を見ると分ります。

行田を訪れた時、ちょっと足を伸ばして埼玉古墳群も見学してきました。古代からの人々の営みが感じられるようで感動しました。

これからまた時間をかけて、調査の方向を決めていこうと思います。
[58]市川@武州荒木さんからのコメント(2013年08月20日 20時22分32秒 ) パスワード

上州ノ市川様

大収穫でしたね。やはり奥平の家臣の市川家でしたか。たしか、忍城跡の行田市郷土博物館には、奥平家臣の市川家の系譜を記した忍藩の記録が所蔵されています。それには、伊勢国壹志郡の八対野城の城主市川嘉兵衛の末裔とあったと記憶しております。更に申し上げますと、三重県立図書館だったと記憶しておりますが、そこに市川嘉兵衛の系図が所蔵されている筈です。忍藩の記録には、市川嘉兵衛は藤原朝臣姓を称したとありました。伊勢の村松には、甲斐の武田冠者義清の次男の方原二郎師光の長男である市川別当大夫高光の次男の市川別当二郎定光(兄の市川別当太郎行房の養子となり定房とも名乗った)とその子孫が数代にわたり住んだので、それと関係もありそうですね。上州の市川さんの記録としては、行田市郷土博物館所蔵の忍藩藩士の市川家の記録と、三重県立図書館所蔵の市川嘉兵衛の系図を調査すれば、上州ノ市川さんの御家の市川家のルーツは判明します。上州ノ市川さんの血系の山上家の調査は、先ずは、ご自身の市川家の調査が終わってからの課題とされれば宜しいかと存じます。
[59]市川@武州荒木さんからのコメント(2013年08月21日 11時46分18秒 ) パスワード

58に、“市川嘉兵衛”と書きましたが、ネット上の記録によりますと“市川喜兵衛”が正しい様です。大変、失礼いたしました。
[60]上州ノ市川さんからのコメント(2013年08月22日 19時57分31秒 ) パスワード

市川@武州荒木様

いろいろとご助言ありがとうございます。

実は母方の先祖をたどっても伊勢の方に繋がっているようです。
近い将来、是非三重県を訪れ図書館で市川喜兵衛の系図を調べてみようとおもいます。 また引き続き帰郷の際には行田市の郷土博物館へも足を運んでみることにします。
[68]稲岡 宣男さんからのコメント(2014年09月22日 15時25分14秒 ) パスワード

わたくしの先祖は福井県敦賀市の越前徳川家の菩提寺の浄土宗寺院の僧侶でしたが、江戸末期に武田騎馬隊の長篠の戦場であった三河新城の浄土宗の徳川家康の長女亀姫の菩提寺よりやってきたとあります、僧侶になるまでは市川いちぞくであったと過去帳より判明しております。
[69]市川@武州荒木さんからのコメント(2014年11月27日 16時20分06秒 ) パスワード

稲岡宣男様 はじめまして。

三河市川氏ということであれば、新羅三郎源義光の四男源義清から十三代の子孫・市川豊後守重光が、甲斐国(山梨県)から、現在の愛知県岡崎市内に移住してますし、室町末期には、甲州の市川大介が織田信長の弓の師範になっているので、何れの子孫である可能性はあると思います。
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