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 投稿番号:101029 投稿日:2008年03月13日 11時40分34秒  パスワード
 お名前:瀬尾
瀬尾家
キーワード:平家 平兼門 瀬尾 妹尾
コメントの種類 :人物  パスワード

瀬尾(せのお)の本家の末裔です。父は岡山を実家とし、私は大阪に在住しております。瀬尾兼門の末裔であるのかとネットや文書などで察しておりますが、私はまだ勉強不足と一家離縁のため家系の事についてよく知り得ません。もしもご親戚の方がいらっしゃればお話したく思っています。よろしくお願いいたします。

[1]時尾さんからのコメント(2008年04月06日 05時21分55秒 ) パスワード


ギャンブラー様
ここだけ漢字の「時尾」にしています。
体調不良につき自宅療養での休暇をもらって自宅にいる「時尾」です。
瀬尾様がこの掲示板に来られたのは何らかの平家がらみのパワーに
導かれたのかなとも思いコメントしました。

瀬尾様へ。
貴方の呼びかけでは、現代のお身内捜しに聞こえますね。貴方のお
家の事情のことまで分かる人がこの掲示板に訪れる可能性はきわめ
低いのではないでしょうか。
系次関係のお話では、江戸時代の人は記入しないとか、江戸期まで
とか、大正期までとか、昭和の初めまでとかの約束ごとを念頭に置
いて記述したりお話をされていますね、個人情報の観点から。
このようなことですので、そのお家の方のみが知り得る情報を基に
ご先祖を遡るしかないのはないでしょうか。江戸期から戦国期にお
およそ何処に居られたかが分かれば、他の瀬尾・妹尾一族とのつな
がりが分かってくるのではと思われます。

ちなみに、他のサイトからの引用ですが・・・今は消えていて見る
ことは出来ないですけども・・・。
「瀬尾」さん表記の方の人口は約24,100人で約5600軒です。
「妹尾」さん表記の方の人口は約23,100人で約5500軒です。
両方の表記ともに「せのお・せお」の読みがありますね。「いもお」
の読みのお家は全く別で、「いもお」地名起源の一族の方ですね。
[2]瀬尾さんからのコメント(2008年06月25日 06時31分37秒 ) パスワード

皆様私用の書き込みを申し訳ありませんでした、
そして時尾様、コメント頂きまして感謝しております。
まさか人口までお調べいただいてるとは。。

しばらく病気で床に伏しておりまして返答が遅くて
申し訳ありませんでした。
自分でも送らばせながらこれからの我家の子の為にも
実際のルーツをもっと深く勉強していこうと思っています。

岡山へ訪れたり同じ姓をもつ誰かと接していったり
具体的な長い旅になりますが少しずつでも頑張ります。
ご親切に本当にありがとうございました。
時尾様もお体悪くしておられるようですがご自愛ください。

ps・
話がとびますがやはり平家パワーはすごいです。
なにやらおびき寄せられるようにビジョンと出会います。
ご先祖様に感謝しております:)



[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年06月25日 08時51分30秒 ) パスワード

瀬尾さま

瀬尾家・妹尾家が
平家方で南朝方だったことは調べるほどもなく
岡山一の名家ということは

ご自分から遡って御先祖さまの明治初めの戸籍を取得し(除籍謄本と呼ぶそうですよ)
また岡山の県や市の教育委員会から史料を手に入れ
岡山旧藩の分限禄などにも記載があるでしょうし
御実家に伝わる家系書などと付き合わせれば

簡単じゃないでしょうか?


それよりも岡山の教育委員会発行の資料から瀬尾家がどのあたりまで遡ることのできる名家か
なかなか面白いと思いませんか?


今年のお盆にでも御実家にお里帰りし
御一族のお年寄りから御家に伝わるお話をこの際まとめ
記録なさることをお勧め致します。


岡山の正史に載る以外の興味深いお話が聞けると思いますよ。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年06月25日 08時58分47秒 ) パスワード

瀬尾太郎兼康が平家の5侍大将の1人で
いろいろな逸話を残していらっしゃることは
御子孫には誇りです。

白河天皇または鳥羽天皇の御落胤の噂は
どのように御家では伝えられているのか
そういうお話も記録なさると良いですよ。


御先祖さまを敬愛し感謝なさって瀬尾家が栄えますように!
[6]瀬尾さんからのコメント(2009年06月20日 08時47分46秒 ) パスワード

追伸 瀬尾太郎兼康公は一子太郎宗康と共に備中板倉川の轟橋で戦死です
1983年で800年たっています。 瀬尾と妹尾 の姓は源平時代
同姓・同文字の一族党はことごとく刑せられる事になっていました。
備中の国に留まるものは 瀬を妹に改め留まり 他国にゆけば 瀬のままで
よかったそうです。瀬尾も妹尾ももともと縁故者です。わかっていますのは
これくらいです、もう少し知りたいですね人物像とか・・・また教えてくださいませ宜しくお願い致します。
[7]ときおさんからのコメント(2009年06月25日 00時59分45秒 ) パスワード

[6]の瀬尾様へ
 ・縁故者 (こがお)様 ・・・かな
私は、ここでは「ときお」です。
>備中の国に留まるものは・・・・
 表だって胸を張って妹尾姓で動けるのは北条氏執権体制が整ってからですから、瀬尾姓にしても然りでしょうね。それまでは名乗り出ることすら不可能で有ったことは想像に違わないと思います。
備中にとどまった妹尾表記の子孫は一筋(娘二人)有ります。この筋の一人の叔父が別国に移住、その子孫が備中に圧倒的に広がった一派です(1300年代以降の赴任定着組)。少し時間のずれが存在しますし、「留まるもの・・・」の根拠は薄いですね。

 瀬尾表記の姓については様々な経緯によって使用されていると思われます。すべての方に通じる訳では無いと思いますが参考意見として述べさせてもらいます。、
 ある大藩の大身の妹尾氏の分流ですが、分流した主家に随身してから瀬尾表記に変えていますよ。また瀬尾表記の方の全国分布をみても有る程度のことが理解が出来ますよ。
 私の知る所では兼康公の一代前が瀬尾表記に成っています。当時で瀬尾姓の者での生存者は一人のみ(その後は不明)と記憶して居ます。なお一族のルーツは平氏でも藤原氏でも橘氏でもなく吉備の国の中枢部を掌握している古墳時代から続く古代氏族の流れと言うのが専門家諸氏の意見の一致するところです。確かに戦記物には瀬尾表記が多いところですが一族は妹尾町発祥ではなくて吉備の中枢部発祥で妹尾町の地に命名したまでです。この事からも伺い知ることが出来ると思います。

「兼康公 妹尾 瀬尾 一族」で検索をかけてみて下さい。このサイトでも二箇所かかると思います。そこでもかなりのことが分かると思います。
よく読んで頂けて分かれば連絡頂いてもかまいませんよ、田舎ですが・・・。尚、メアドは全部使えませんのであしからず。
[8]妹尾さんからのコメント(2010年02月19日 18時00分09秒 ) パスワード

こんにちは。岡山の妹尾町に実家をもち、いまは大阪にすんでいます。
祖父が亡くなる前に、家系図を一度見せてもらったことがありますが、後白河。。の名が遠くに書かれていたことだけは覚えています。
お墓も岡山の今は亡きお城?の近くに祖父ははいっているらしく。。
一度もお墓参りもお墓の場所さえ行ったことがないため、一度手を合わせにいきたいと思っています。
こちらのコメントとても、興味があることばかりで、なんとなくご先祖さまが見えてくる感じで嬉しいです。
[9]瀬尾(せのお)ですさんからのコメント(2010年03月06日 23時28分36秒 ) パスワード

初めまして。
「瀬尾」と書いて「せのお」と読みますと説明し続けて30年以上.
こういうサイトがある事に驚きました.

私は東京在住で、先祖はよくわかりませんが、祖父が長崎の五島列島出身ときいています.
[11]瀬尾さんからのコメント(2010年11月04日 22時17分07秒 ) パスワード

山形県寒河江市の瀬尾です。

お役に立つかどうか・・・

山形県鶴岡市の水沢と言う地区は、殆どの家が瀬尾です。聞けば、平家の有力な家来であった瀬尾が、平家が敗れた際、逃げてきて隠れ住んだ所が水沢だったそうです。

因みに、山形県の内陸にも瀬尾の名字が数件ありますが、関係あるかどうかは不明です。
[12]ときおさんからのコメント(2010年11月06日 00時21分20秒 ) パスワード

[11]の瀬尾様へ
山形の情報、ありがとうございます。
生きた情報はありがたいですね。

>平家が敗れた際、逃げてきて隠れ住んだ・・・
多分にですけど、先祖の伝承がとぎれたためだと思います。、分からないために壇ノ浦から直接逃げてきたとか、平家が敗れた時などと加筆しているようです。何百年も何代もとんでいたりもしますね。

たしかに山形には瀬尾家が140軒前後ありますね。
どのような経緯経路で至ったのかは分かりませんが、

妹尾表記の家で、北陸地方には北条氏直の弟「太田十郎氏房」家臣は後に「結城秀康・忠直」に仕えた人たちもいますね。この流れには「瀬尾」表記に変えた流れも存在します。

その他では、戦国時代に、現東京渋谷の金王丸神社に有った渋谷城に居た妹尾氏、千葉に居た妹尾氏 、佐々氏に従った瀬尾氏なども居ます。

東北地方の妹尾表記でいけば、最上義光の家臣(慶長17年)に成った人物がいます。この兄弟と子孫に「酒井日向守・本多弾正忠政・大納言綱豊に仕えた者や庄内地方の妹尾氏の元祖(丸に蔦紋と記述)などの家が存在」。中には豪傑伝説を残した人物も登場していますね。
「妹尾館跡(妹尾嘉左衛門)」秋田県北秋田郡鷹巣町七日市字長根沢などもありますね。

なお、守護大名細川氏家臣としてや山口の大内氏の家臣として倭寇に参加していた時代に西日本の瀬尾表記の家は広がったようです。阿波徳島から西は九州各地まで ですね。
[13]宮崎の・尾さんからのコメント(2011年02月26日 10時44分23秒 ) パスワード

 何気なき検索しました。私も瀬尾です。宮崎県の三股町にもたくさんの瀬尾家があり、山中に瀬尾家の墓もあります。父祖やおじの話でも瀬尾家は平家の落人であり、かなりの広い範囲で逃げていったそうです。元は岡山のほうから逃げてきたとか。詳しい話はよくわかりませんが瀬尾家は武士であると。
また、私の瀬尾は、・尾です。刀がついています。
 先祖のことは知りたいですがどのように調べるかわかりません。ただ確実なのは、有力な武士で平家の落人であったというですね。
[14]ときおさんからのコメント(2011年02月27日 22時24分53秒 ) パスワード

>[13]の宮崎の・尾さんへ
初めましてですね。平熱パワーにより、ここに到達されたのでは
と想像します。刀は尾のどこかに付くのですね。せお、と読まれて
いるのでしょうね。御一族には、刀に対して気高い尊敬の念をお持ち
のように伺えますね。

 ちょっとお聞きしたいのですが、三股町の南東部に成りますか・・。
「御崎神社」というの在るようですね。なんと訓んで居るのでしょう
か?。また一族の方が氏子か何かで関わって居ませんでしょうか?。
興味が有ります。
 
平家落人の可能性は妹尾氏や瀬尾氏ともにあり得ないと思います。
 [12]にも書きましたが、前期倭寇の時代から瀬戸内の水軍として、
「海賊大将の瀬尾」として活躍しています。

経緯は存じ上げて居ませんが多分1300年代と思いますが、南大隅に
別名、「妹尾城」と言われる山城の存在する地域に妹尾氏が存在して
居ます。

瀬戸内から或いは1300年代に赴任定着した備中地域から分かれて行
かれた可能性の方が確立としては高いと思います。

[3]で「暇潰しのギャンブラーさん」の言われる手法でたどられたら
良いのではないでしょうか。


ちなみに、瀬尾氏の分布ですが、1600年以降の都市部への流入を考
えて、都市部地域を外して見ると茨城が約400軒、岡山が約200軒、
宮崎・徳島・香川が約180軒、鳥取・山形140軒と多い方に成ります。

妹尾氏では岡山がダントツで約1800軒、島根が約300軒、徳島約200軒
鳥取約100軒 となります。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2011年02月28日 01時17分39秒 ) パスワード

ときおさん


>刀は尾のどこかに付くのですね。

「瀬」の字のオオガイの天辺が  「 一 」 → 「 ノ 」じゃなくて 「刀」という字
という意味だと思いますよ。


要するに  身分は  「武士」出身の瀬尾家 ということだと思いますよ。 
それか旧漢字か。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2011年02月28日 01時23分49秒 ) パスワード

ときおさん


>経緯は存じ上げて居ませんが
>多分1300年代と思いますが、南大隅に別名、「妹尾城」と言われる山城の存在する地域に妹尾氏が存在して居ます。

>瀬戸内から或いは1300年代に赴任定着した備中地域から分かれて行かれた可能性の方が確立としては高いと思います。


1300年代でしたら
南北朝の時の南朝方で
懐良親王に従って九州に下向した瀬尾家の流れなんじゃないでしょうか?

もともと平家が滅亡した時に、九州に逃れていて、地盤があったとも考えられませんか?

それか平家時代に九州に土地を持っていて
源平時代に九州に逃げ
更に
南北朝で懐良親王に仕えた

そんなイメージを持ちました。にっこり

[17]ときおさんからのコメント(2011年02月28日 11時42分37秒 ) パスワード

宮崎の瀬尾様へ
ギャンブラー様へ

ギャンブラー様 捕捉、有り難うございます。なかよし、はダミィーです(^^;)。

南大隅は祢寝(根占)氏の根拠地の祢寝(根占)港を見下ろす山城「瀬脇」です。
薩摩の指宿山川港の対岸ですね。古代からの港の様です。
大阪堺の堺港・神戸の大輪田泊・博多の那津の様な港だったらしいです。

都城盆地の三股町は祢寝(根占)港からは北北東60キロ位ですね。
志布志の港からは、北へ30キロですね。

ですから、治承寿永の乱以前に根拠地として日向から大隅に根拠地を得て居たかも
知れませんね。或いは南北朝期間に懐良親王に従って九州に下向し、かつての根拠
地に残留した可能性も有りますね!。


どこかのスレッドで出てきましたね、祢寝(根占)氏が。この分家で家臣の何代目
かの池端ヤジローがフランシスコ・ザビエルを連れ帰って居ますね。

表向き、「当時の池端家は、倭冦取り締まりや中継交易の勘定職をしていた。」裏の
顔は、「池端家は、有名な倭冦の池端水軍をもっていた。」です。

また、領主祢寝氏の分家としての端弥氏に従って池端水軍として貿易に当たって居
た(倭寇もしていた)可能性も有るかも知れませんね。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2011年02月28日 14時18分10秒 ) パスワード

ときおさん

>池端ヤジロー

なんか引っ掛かるな、と思っていたら
芸能人のピーターの本名  池畑慎之介  でした。

この人は母方が鹿児島だそうで  池畑姓からすると  関係ありそうですね。
[26]宮崎の瀬尾さんからのコメント(2011年03月02日 21時40分29秒 ) パスワード

ときおさん
ギャンブラーさん

宮崎の瀬尾です。いろいろ教えてくださりありがとうございます。ギャンブラーさんの言われるように、瀬の字の「一」「ノ」が刀になります。旧漢字なので変換されないようですね。また、皆様の話が私にはよくわからないのですが、瀬尾家は平家に間違いはないのですね。
平家というのは皆が落人というわけではないのですか?(歴史を知らないのでそう思っている。)
父祖の時代は非常に多くの土地や山を持っていたようですが、国の政策とか何とかでなくなった見たいです。
三股町宮村には、「御年神社(みとし)」(御崎ではなく)があります。瀬尾家との関係は私にはわかりません。
武士であるということに叔父たちは、異様に誇りを持っているようで「瀬尾は瀬尾でも刀がついているからな」といっています。

[27]宮崎の瀬尾さんからのコメント(2011年03月02日 22時20分50秒 ) パスワード

ちょっと話がずれるかもしれませんが、映画「最後の忠臣蔵」で主人公・瀬尾孫左衛門(役所広司)が出てくるというのを知りました。この瀬尾孫左衛門も瀬尾家(先祖)と何らかの関係があるのでしょうね。
 なんかいい話のようですね。自分がその瀬尾孫左衛門だったらそうしたかもしれない。(そんな血が流れている)というような、なんだか近親間(瀬尾というだけで!!)にかられそうで、「実話ではない」にしろ、機会があればぜひ見に行きたいと感じる内容がかかれてありました。
公式サイト↓
http://wwws.warnerbros.co.jp/chushingura/
[28]ときおさんからのコメント(2011年03月03日 02時30分38秒 ) パスワード

宮崎の瀬尾さんへ

お話出来て、嬉しく思います。

・の字ですね。一太郎の手書き検索では出てきました。

三股町大字長田に成るようです「御崎神社」は。「みさき・おんざき」或いは「みさき様」だったら旧吉備国の圏域からの信仰となるのですけどね。

>瀬尾孫左衛門・・・・
・確かに実在の人物ですね。在地土豪(有力地侍)でも、安定した時代に仕官した場合は足軽クラスとか家人で若党(藩主の直臣では無い)などの低い家禄に成っていますね。織豊時代から以前だと結構有力な立場に成っている瀬尾・妹尾氏も存在します。
熊本県にも細川家の家臣団で妹尾・瀬尾家がありますね。薩摩島津家の合戦に妹尾氏が出て居たように覚えています。ただ、薩摩川内の地名の妹尾はいもおと成って居ますから別ものです。

妹尾氏で言えば、備中美作圏域及び近隣諸国でも、江戸期には帰農して百姓(有力者・豪農・庄屋)に成っていますが、戦国時代はそれぞれが山城持ちの在地豪族(地侍)として活躍していますね。

>元は岡山のほうから〜有力な武士で平家の落人で・・・
・岡山も有力な武士も平家の家人と言う三点には間違いは有りません。
細かい点では誤解された諸説ありますが、上記三点を北諸県郡の一族が伝承されているのであれば、間違いなく、「せのお・せお一族」だと思います。

ご先祖様は保元平治の両乱に妹尾(瀬尾)太郎兼康として登場して居ます。古くから平清盛の家臣と成っています。源平の合戦の前哨戦、北陸の戦いの倶利伽羅峠・篠原合戦に置いては、平家軍の戦目付として参戦しています。屋島の合戦より以前の寿永2年10月の備中板倉で討ち死にしています。平家物語「瀬尾最後」に詳しいです。
妹尾・瀬尾ともこの方「妹尾太郎兼康」をご先祖としています。もし保元の乱以前の土着なら、妹尾太郎兼康の一代前の瀬尾表記の人物で生き残り一名の方の子孫の可能性もあります。
[29]ときおさんからのコメント(2011年03月07日 03時23分49秒 ) パスワード

あを様へ
以下の@〜Eまでの六つのパターンを見つけました。@については古い歴史的な
背景を感じます。@の南部は扇状地地形で古い時代の開拓地の様にも見えます。
南部2村と北部1村の3村に分村していた郡クラスの領域です。

これらを見ますと、これらの地名を負った「せお氏」「せのお氏」の居る可能性を感じます。どうでしょうか。

@「瀬尾(せのお)」系1ヶ所・・(日光と鬼怒川の間)
   ・広範囲すぎて不明

A「瀬尾町(せのおまち)」1ヶ所・・・・(埼玉県の川越)
   ・侍屋敷町

B「瀬尾谷(せおたに)」系1ヶ所・・・・(京都府綾部)
   ・人名系地名か

C「瀬の尾」(せのお)系1ヶ所・・・・・(吉野ヶ里遺跡隣接)
   ・「川海の瀬地形」か

D「瀬尾の沼」(せおのぬま)系1ヶ所
   ・河跡湖=三日月湖、命名理由不明

E「瀬尾(せび)」系2ヶ所
   ・「蝉(せみ)」か「カワセミ」、或いは「川海の瀬地形」(下甑島・埼玉県飯能市)

ただし、「施火」精霊送りにたく火のことや勢雄(せお)、清尾( せお)は別のことと思われます。


@については下記地図参照して下さい。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.73103889&lon=139.69550556&sc=5&z=13
Yahoo!Japan地図、栃木県日光市(旧今市)瀬尾の地図情報

*妹尾の妹は和名抄の時代から「せ」と読む(元字は「妋」と思います)地名が幾つも吉備の国には有りますし、場所もほぼ特定出来て居ます(妹尾町では有りません)し、限りなく奈良時代のご先祖様も判明し始めて居ます、私の独断ですけどね。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月07日 06時37分33秒 ) パスワード

ときおさん

妹と書いて「せ」と読ませるのは何故か非常に不思議に思ってきましたが
女+夫で「せ」なら、納得がいきます。

すごい!


初めて見ました。
で、ちょっと調べて来ました。

1.
漢字:妋

おん: ふ , よう , う
くん: むさぼるさま, せ, せうと


2.

妋 画数:7
音読み:フ、 ヨウ、 ウ、 ユウ
訓読み:むさぼるさま、 せ、 せうと、 むさぼる、 なせ、 みょうと

英語:ovetous, lustful, show an expression of deep resentment, term of endearment for boys, married couple, spouses



すごい!
ありがとうございました。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月07日 06時47分44秒 ) パスワード

そうしますと、「せのお」さんって
元は  妋尾  → 妹尾  → 瀬尾  って変化してきたのかも知れないですね。

武門として発展していく途中で  名字が女偏では軟弱みたいだから 瀬をつかうようになったのかな?とか

ロマンが広がりますね。


瀬尾・妹尾の名字が坂東にあっても不思議じゃないですね。

向こうに土地を持っていたでしょうし
もし源平の合戦以降に落人になって向こうに行ったとしても宇都宮家や(藤姓の)足利家を頼ったのかも知れないし
そういう家と婚姻関係で移ったのかも知れないし。


でもやっぱり瀬尾家とか妹尾家って岡山あたりがピンと来ます。



下甑島関係ですと(やっぱり源平合戦の落人かな?)なんて想像してしまいます。


源平合戦で敗れて、日本全国に散って、そこで綿々と家名を繋いで来たって
人間、バンザイ!
と言いたくなります。ちょっとウルウルしてます。


ありがとうございました。ぺこり
[32]ときおさんからのコメント(2011年03月08日 01時27分50秒 ) パスワード

あを様へ
「妋」は広辞苑にも、手持ちの漢和辞典にも出て居ませんでした。特殊な漢字でした。
PCでは出てくるのですけどね。

祝詞とか万葉集での漢字でした。使われては居るのですね。
和名抄の931〜938年代には、
岡山市庭瀬の字を「庭妹」と記して(爾比世)と訓み、妹を「世」と訓んでいること
が分かります。


万葉神事語辞典(國學院デジタルミュージアム)の「項目名 ゆだね」
*播磨国風土記に「大神妹妋二柱(おほかみいもせふたはしら)、各(おのおの)競
(きほ)ひて国占(し)めましし時に・・・・」

「鎮火祭の祝詞」に
*「伊佐奈伎(いざなぎ)・伊佐奈美(いざなみ)の命(みこと)、妹妋(いもせ)二
柱(ふたはしら)嫁繼(とつ)ぎ給(たま)ひて、國(くに)の八十國(やそくに)
・嶋(しま)の八十嶋(やそしま)を生(う)み給(たま)ひ・・・」

「延喜式祝詞」に
*「神[かむ]いざなぎ・いざなみの命、妹妋[なせ]二柱嫁継ぎ[とつぎ]たまひて、
國の八十國・島の八十島を生みたまひ・・・・・」

以上の様に「いもせ」の訓みと「なせ」の訓みが出ていました。

妹尾の「妹」は「せ」とは訓まない。だから「瀬」が正しいと言われる方が居ますの
もごもっともだと思います。なにせ辞書に出て居ませんのですからね。
特殊な字に成っていますからね。神主の方なら、ピン〜ときたでしょうけどね!。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月08日 02時13分49秒 ) パスワード

ときおさん


>「妋」は広辞苑にも、手持ちの漢和辞典にも出て居ませんでした。特殊な漢字でした。

はい。

国字かと思いましたが、中国語のネットにもあるようで(読みは フー)
やっぱり中国発なのかなあ?
と思います。



こうして考えていきますと「妹尾」「瀬尾」という名字は備中国の古い古い豪族の子孫なんでしょうね。
[34]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年03月08日 17時18分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「妋」は広辞苑にも、手持ちの漢和辞典にも出て居ませんでした。
 
JIS第三水準(区点1575)なので安物の漢和辞典には不掲載。
講談社版「最新JIS漢字辞典」には掲載されています。
また最新の電子辞書なら手書きでさっと引けます。
 
「妋」は音読みでフ、ユウ、ウの三通り、訓読みはムサボル。
意味は「むさぼるさま」、「恨めしい顔つきをするさま」。
 
「妹」の苗字としての異体字(誤字、俗字など)としては「妋」以外にも「・」があります。
 
※一説に従来「妹」にセの読みが無く、「妋」にセの読みが有り、字体が似通っていることから「妋尾」を「妹尾」と誤りセノオとしたというものです。
 
現在では、備中国都宇郡妹尾庄と下野国都賀郡瀬尾邑の地名が混稽していることも事実です。
[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年03月08日 17時20分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

↑表示できなかった「・」は女+末です。
[36]アカココッコさんからのコメント(2011年03月08日 19時01分23秒 ) パスワード

面白く拝読しております。

IMEパッド-部首で女偏の字を探すと下記のようになります。

 *妋(フ・せ・しょうと)
  *・(バツ、マツ)

 「せ」だとすれば、何も迷う事が無いですね。

[37]ときおさんからのコメント(2011年03月09日 01時45分05秒 ) パスワード

七千傑様・アカココッコ様・あを様へ

七千傑様、また意見をいただけて感激です。有り難うございます。
>・・地名が混稽している・・・
 私もその様に感じます。

アカココッコ様、ほっとするコメント有り難うございます。
鏡のスレッドでは失礼をいたしました。


「妹」の訓みについて、

和銅官命・和銅6(713年)による2文字置き換えから約200年後のことです。

河川の沖積作用によって、「吉備の中山」の南麓部で陸地化して居る沖積地を
「爾比世」と訓みならわしめて居たわけですね。
和名抄の2文字表記で表記されたのが「庭妹」ですね。
ですから、「誤りニワセ」では無いですね。「瀬」表記が後に成りますね。

関係地名で、「百家系図」にも「妋」が使われています。当時は海の中の点で
ある小島の妹尾島とは全く違う土地です(9C〜10Cかな?)。
これ以上の記述は私の独断に成りますのでひかえておきます。

下野国都賀郡瀬尾邑の広さを琵琶湖と見ると竹生島二つ分くらいの大きさで
すね、妹尾島は。妹尾島が完全な陸地と成るのは江戸時代に成ってからです。
[38]ときおさんからのコメント(2011年03月11日 02時25分58秒 ) パスワード

あを様へ
源平合戦の頃の吉備の穴海についての紹介と図のコピペです。

冨山至氏の「古代吉備概図」です。この方には、一部をお教えをいただきました。
http://www18.ocn.ne.jp/~to-pa/Kodi/KIBI/kibimap1.htm
0〜10mの白色は陸地化しています。
吉備津彦の「鬼の城」攻めの時代の地図に成ります。
いわゆる、「朝鮮式山城」と言われる時代背景ですね。

治承寿永の乱の時代は、囲み枠内文字の吉備津彦神社の「備」の字から吉備津神社の「
神」の字から社楯築遺跡の「跡」の字を通り、この図の高梁川河口に向け斜めに島や陸
地沿いに、河川の沖積により陸地化をしています。


「水島の合戦」の場所、
この図一番左下の水色(現代の玉島港)の上の島が、源平の「水島の合戦」の平家本陣
である「柏島」です。この隣の水色(現代の高梁川河口)の左にとがった先の島が源氏
の本陣の有った乙島です。

「福竜寺縄手」の場所、
吉備津彦神社の「社」の字の上の隘路となっている場所が、平家物語の「瀬尾最期」の
「福竜(・)寺縄手」の舞台と成ったところです。「源平盛衰記」系では「福輪(林)寺」
ですね。

源平盛衰記では、
「坊主山と烏山の挟まれた所」で「北は峨々たる山、人跡絶たるが如し。南は渺々たる
沼田、遥に南海に・・・・」と記述されているところです。
*当時は、この坊主山と烏山の南は湿地地帯ですが弥生時代の遺跡も存在しています。



「妹尾島」の場所、
文字で囲い枠、吉備の穴海の枠の左上が早島と言う島です。
この島の右下大きめの二つが妹尾島です。源平の頃は二つが繋がって一つの島に
成っていた様です。
妹尾が海の中の小島だと言うことが分かる図です。

ここの島の領主が備中の国の中枢部を掌握することは、至難の業・神業と言うしかない
ですね。ですから、地政学的にも別場所の出身ということが分かる訳です。
多分に、児島から以北が干拓された江戸時代の地政学での伝承が多く入り込んで居ると
思われるのです。



富山至氏の力作の一つです。面白いのでコピペしておきます。
吉備津彦命と温羅との推定戦闘図
http://www18.ocn.ne.jp/~to-pa/Kodi/KIBI/kibimap3.htm
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月11日 07時56分54秒 ) パスワード

ときおさん


珍しい地図を2つご紹介頂き、ありがとうございました。


吉備津彦命 vs 温羅(うら) の戦いが伝承、というわけじゃないんだ
それで「鳴釜」か、と
不思議な気分になりました。


わたくしは国宝の吉備津神社より重要文化財の吉備津彦神社の方にものすごく親近感を持っています。

なんか  コッチ(重文)が本来の神社で  アッチ(国宝)はちょっと違うんじゃないか  なんてさえ思っています。


それで重文の方がお金が無くて荒れた感じなのが悲しいです。

仕方無いですね、国宝と重文じゃ、国の援助がちゃんとあるか、ちゃんとなんかない、の歴然たる差ですから。


>妹尾が海の中の小島だと言うことが分かる図です。

名門妹尾家が弱小の土地を背景とした家だった
というのは有り得ないというのは納得します。


わたくしは元々岡山の大きな豪族だったんじゃないか、と思ってます。
どういう経緯があったんでしょうね。
大きな豪族の庶子かそのあたりの立場だったのかな?とか
想像しました。


播磨屋さんのページを参照して書いてみます。

元々、妹尾という地名があって、
平治の乱の時には瀬尾を称していて
兼門が義朝方について敗れて瀬尾姓が禁止になって妹尾になって
ご落胤の妹尾太郎兼康は平家方の武将に成長。


藤原氏とか中臣氏とかいうのは信じられないです。
吉備の古い古い豪族だったように感じます。


藤原姓というのはいずれ天皇の皇子を生む娘を出すために称したんじゃないのかな?とかね。
藤原姓出身なら条件バッチリですから。


平家時代に操作があったかもですね。


しっかりロマンな夢を追いましたよ。ありがとうございました。ぺこり
[41]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年03月11日 23時07分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

空の青海のあをさん へ
 
>藤原氏とか中臣氏とかいうのは信じられないです。
 
藤原氏と言うと藤原鎌足と反応しがちだが、古代の備前に藤原県(のち藤原郡さらに藤野郡、和気郡に改称)が存在していた。
中臣氏系の藤原氏でなく、異系の藤原県主や藤原郡司の後裔なのである。
裏付けるように現在の備前、備中では、首位の三宅に次ぎ藤原は二位を占めている。
恐らく妹尾氏は異流藤原氏の後裔では無かろうか?
 
下記URLのQ20.「岡山県に藤原は、なぜ多いのでしょうか?」を参照の事。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月12日 00時48分01秒 ) パスワード

七千傑さん

ありがとうございます。


>「岡山県に藤原は、なぜ多いのでしょうか?」

拝見致しました。

   岡山県は備前国上道郡藤原邑、美作国久米南条郡藤原邑があるほか
   古代の藤原県に養老5年から神亀3年まで藤原郡(以後藤野郡に改称され、神護景雲3年に和気郡に改称)が設置されている。

   おそらく岡山県の藤原氏の多くは、垂仁天皇裔氏族(和気氏など)と推定される藤原県主や藤原郡司の末裔と思われる。


藤原姓は鎌足の子孫限定というわけじゃないのですか。
「藤原さん」は日本的にはラッキーな誤解を引き出せる名字なんですねえ。



ありがとうございました。ぺこり
[43]ときおさんからのコメント(2011年03月12日 04時32分27秒 ) パスワード

あを様へ

地震放送で夜更かしに成りました。あを様は早起きに成るのでしょうか?。

七千傑様、有り難う御座います。藤原が多いのは存じていました。

吉備朝臣姓の一族の様です。宝賀寿夫氏も樹童氏も同じことを言っています。

私の調査や状況証拠もその方向性に向かっています。
どうでしょうか。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月12日 04時53分28秒 ) パスワード

>吉備朝臣姓の一族の様です。


ときおさん

これは、そうでしょうね。


そうしますと古代大豪族の家に生まれたものの、
母の実家がそんなに有力でなかったから
小さな島の名前を俗姓に貰った、というあたりでしょうか?


それか母の実家が妹尾島とか。


すっごく良い回答になったかしら?



今日はうちも昨夜からの津波警報発令中で
バスは止っているし
お店も巨大系は閉まっているし

で、今日は3つ、午後2時までに片付けたい用事があったのに月曜まで延びそうです。
[45]北海道の瀬尾さんからのコメント(2011年03月18日 17時07分28秒 ) パスワード

みなさん、はじめまして

私も瀬尾と申します。
北海道在住です。

子供の頃からこちらでは瀬尾の姓はあまり無く
祖先は何をしていた人なんだろうと漠然と思っていました。

今回たまたまた、ここにたどり着きました。
自分の祖先がここに出ている 瀬尾 氏 と同じルーツなのかは
定かではありませんが、何か嬉しく感じました。
また、ここで他の 瀬尾 氏 の話を知り「どこかで繋がっているのかも」と
思うと嬉しく感じました。

※「妹尾の古い町並み」
http://ichiro-ichie.com/06sanyo/okayama/senoo/senoo01.html
を見た時に何とも言えない心地よさを感じがしたのは
気のせいなのでしょうか?


参考までに自分自身が知っている先祖の話です。
北海道民のほとんどは開拓団として北海道に住みついた様で
自分の曾祖父も今から百数年前に東京から北海道に入り厚真町に
住居をかまえたそうです。
曾祖父の(自分の)先祖は富山県に住んでいたそうです。
また、新潟方面より小樽に入った瀬尾さんも居るそうです。
自分の苗字も戸籍上は刀の方の【 ・ 】です。
今は常用漢字を使っていますが・・・。
家紋は【 桐 】です。

以上です。
今後ちょくちょく ここに寄らせてもらおうと思います。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月19日 00時17分13秒 ) パスワード

北海道の刀の瀬尾さん

初めまして。


明治の初めの頃の御先祖さまの除籍謄本が取得できると良いですね。

戸籍が始まったばかりの明治の初めに既に東京にお住まいでしたら
江戸時代は直参旗本系の瀬尾さんかもですね。

北海道に渡って屯田兵になったということは明治維新がきっかけで武士を廃業したから
でしょうね。


御先祖さまは北海道に渡ってから大変なご苦労があったのでしょうね。
感謝なさいますときっと良いことがありますよ。



厚真町の歴史をお調べになりますと
御先祖さまのことが載っているかも。
[47]北海道の瀬尾さんからのコメント(2011年03月19日 09時35分26秒 ) パスワード

空の青海のあをさん へ

はじめまして
コメントを頂きありがとうございます。


早速ですが、小生 日本史に関しては全く疎く

>江戸時代は直参旗本系の瀬尾さんかもですね。

とありますが
「直参旗本系」とは、どの様なものなのでしょうか?


今度時間がある時に、厚真町に行って調べてみようと思います。
[48]宮崎の瀬尾さんからのコメント(2011年03月27日 19時50分37秒 ) パスワード

北海道の瀬尾さんへ。

はじめまして。宮崎の瀬尾です。
>家紋は【 桐 】です。
私の瀬尾にも刀があり、家紋も桐です。
家紋とかよくませんが・・・。
先祖は、どこかで同じなのでしょうね?
日本は狭いということでしょうか。
私も歴史には疎いですが、ここで、回答してくださる皆様には、頭が下がる思いです。(先祖が何をしていたのかを知ることができびっくり、また、うれしく思っています。)
[49]北海道の瀬尾さんからのコメント(2011年03月29日 10時36分03秒 ) パスワード

宮崎の瀬尾さんへ

はじめまして

不思議なもので、日本の端〜端の繋がりですね〜。
今のネット環境が無いと、この様な出会いもなく
「何処かでご先祖様と繋がっているのかな〜・・・」
なんて感じる事もなかったでしょう。

何か嬉しく感じます。

もしかすると、自分の先祖なのかな〜と
想像させて下さる皆さんに感謝です。

これからもどうぞ宜しくお願い致します。
[50]アカココッコさんからのコメント(2011年04月13日 08時15分49秒 ) パスワード

妹尾関係のレスが上がって来たところで瀬尾・妹尾家の家紋について。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/bz_senoo.html
武家家伝:妹尾氏には家紋三つ巴とあります。
戦国末期、宇喜多家改易後、津山藩森家や松平家に出仕したという。

石川県の家紋(加賀藩)には瀬尾家→「丸に二つ引き」
           同には妹尾家→「丸に抱き茗荷」

尾張徳川家々臣名簿「士林泝・」には瀬尾家「石持に酢漿草」とあります。
名古屋城下デジタル復元図には瀬尾清右衛門・同重次郎の名(同住所)を見出すことができます。



[51]ときおさんからのコメント(2011年05月20日 01時01分02秒 ) パスワード

アカコッコ様へ

情報、有り難うございます。

秀吉の小田原攻めの際、浅野長吉(長政)の攻める太田十郎氏房の居城武州岩槻(岩付)城を妹尾兼延=妹尾三河守兼信(下総守兼綱)が守衛しました。
この筋に家康公や結城秀康公・松平家に多く仕官していますね。最上家や鳥居家、綱豊公、本多家に仕官した人物もいます。後に瀬尾表記の変えられた筋のお家も存在していますね。
安徳天皇と御鏡の時も少しふれましたね。


武家家伝さんの引用されたHPのS氏とは懇意にさせていただいております。
「戦国末期、宇喜多家改易後、津山藩森家や松平家に出仕したという。」
ところがミソと言いましょうか事実無根と言いましょうか・・に成るとこ
ろです。建久7年から200年居住し、そこから2キロ地点に600年居住して
合わせて800年存在している家のことと言うことに成ります。

ですので、多くのことが誤伝されています、ネットで。分からないことも
多く有りますが私の役目でではないかとあちこちの掲示板に顔出しをして
います。管理人のあお様には全部白状しております。ぺこりです。

かしまし三人娘・・・いや、万葉様の如く美しくも悲し「さんしまい」・
・・「ごまい」??。に顔出ししようかな、名前変えて・・・。でも、け
っ飛ばされるかな〜?。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月20日 01時59分30秒 ) パスワード

ときおさん


「平熱同窓会スレ」を用意していますよ。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101238_2.html
[54]ときおさんからのコメント(2012年03月09日 15時56分31秒 ) パスワード

難波経房が子共の居住地の館跡を見いだしました。
中世の山城の関連でです。
子孫は今でも備中国内にいらっしゃると聞きました。

こちらのスレッドにしました。どうも栃木にも関わっていますしね。

経友(太郎)・経遠(二郎)− 経家(三郎)・経房(三郎 )の三兄弟ですね。
ここでも、太郎・二郎・三郎ですね。ただ経遠の子どもが三郎を使っていました。
三男経房の子ども経俊が六郎を使っていました。
さらに経房の次男の俊行が五郎を使っています。長男と思われる某が四郎のようです。

経俊には、備前守経清・内蔵之介経里・伝兵衛尉親経の三人の子どもがいたようです。
いずれも、備前の国でも他国でも有りませんでした。備中国内でした。 私どもの先祖と同じく備中国の中心部からは35キロ前後離れた所で存在していました。

何よりも、経房の次男の俊行が母が「平重盛公の乳人」だった。(武家家伝より)

でちょっと検索しましたら、

城主・塩原八郎家忠1083(永保三年)藤原伊周系塩谷次郎家遠の弟家忠塩原に入る。
白川天皇・藤原信長太政大臣・藤原宗円(宇都宮)領主

1183(寿永二年)平重盛公乳母”妙雲禅尼”塩原に入り門前に草庵結ぶ。
安徳天皇。近衛基通天皇摂政・宇都宮朝綱領主

貴人の乳母は二人が普通。厳密には乳人である「乳母」と、養育係である「姥」に分かれる。
っと言うのも見つけました。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2012年03月09日 18時12分56秒 ) パスワード

書き直し



ときおさん


最近どこかで難波家の某は後白河上皇(その時は法皇かな?)付きの武士で
それで落ち目の平家を追討した
というのを読みました。

その時に、緒方家の某も平家追討に動いた、とか。


事情があって兄弟・叔父甥・一族でも割れるんですね。
武士のツライところですね。
ま、それが浮き上がる機会でもありますが。



>どうも栃木にも関わっていますしね。


そう言えば
新田義貞の新田16騎に「難波備前守」がいますね。

足利は栃木県ですよね。
でも新田の太田は群馬?

   
あっちの土地勘は無くて
ワタクシ的には  東から西へ  群馬県・栃木県・埼玉県 と並んでいるような感覚です。


実際には
栃木県・群馬県
その南に埼玉県かな?


とにかく足利と新田は渡良瀬川を挟んで水争いをしょっちゅうやってた記憶です。
それが南北朝の戦いに続くんじゃないかなと。



それから難波氏ってモトモトは何者なんでしょうね?

貴族の1流れなのか
古代帰化人の子孫なのか
人皇8代孝元天皇の孫の家なのか?

岡山だったら7代孝霊天皇子孫というのは納得なので。




;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;− 武 シ亭 川 別 命 − 豊韓別命(穂積・阿倍・伊賀・阿閉らの祖)       
孝元天皇−大彦命  − 背 立 大 稲 腰 命 −彦屋主田心命(伊賀・阿閉間人の祖)
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;− 波 多 武 日 子 命(難波・三宅の祖)


こんな?
そうするとモトモト難波家と伊賀って親しかったのかな?と思いました。  

岡山大学の医学部に行ってた親戚の子がいて、服部駅、というのにビックリしました。
その妹が服部さんと結婚しているし。

それに父方の従妹が岡山の人と結婚しているし。名字が難波だったら、真っ青!

     でも、どんな名字か知らないです。
     知らない方が良いかもね。
     難波だったら、ここまで先祖のパワーが及ぶのかと、鳥肌ものですから。
[57]ときおさんからのコメント(2012年03月13日 03時55分41秒 ) パスワード

追記

清盛公の家臣として、「兼康と経遠は車の両輪」とまで謳われた一人の経遠のことです。
この難波経遠から数えて14代目は姓を清水に替えていましたね。
もろに備中は高松の城主清水宗治ですね。高松城の水攻めに遭い切腹しましたね。

もろに備中の在です。子孫も備中の吉備津を中心に広がっています。勿論、
吉備津神社の神主に成っていた系統の筋も有ります。
[69]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月15日 14時40分05秒 ) パスワード

こんにちは。
私も旧姓は妹尾です。
他界した祖父は徳島県阿波郡市場出身で、子供のころ一度だけ行ったことがありますが大変大きな武家屋敷だったことを覚えております。
自分のルールに漠然と平家方であったこと、武士であったことは知ってました。
私も結婚し、子供が生まれ、その娘が3才頃、親戚の家に行く途中、倉敷の藤戸を通るたびにお化けがいる」と言うようになりました。
その藤戸への道は「天城街道」といい、源平合戦の古戦場跡です。
乗り出し岩などがあり、娘はあそこも、ここもいっぱいいると不気味なことを言い出します。
私は「どんなお化けがいるの?」と聞くと、[キティちゃんの帽子をかぶったお化け」というのです。「あそこに、大きな耳の付いた帽子をかぶったお化けがいる」と言われた時はほんとに怖くて娘に何かが乗り移ったのかと思いました。
親戚の家に行くのはいつも夜だったのでわからなかったのですが、昼間その親戚の家の周りを改めて見て見ると、娘が指を刺した方角には立派な石塔がたってました。
その後その親戚も亡くなりそれ以来娘も忘れたのか何も言わなくなりました。、何年かして、岡山市内から倉敷に近いところへ引っ越しをし、高校生になった娘はこれも縁なのか、その天城街道を毎日通って学校へ通うようになり、(大人になってもうお化けが見えることはなくなったようです)藤戸合戦で有名な佐々木 盛綱の子孫とも友人関係にありました。
話がそれましたが、祖父は一度だけ家系図を見せたくれたことがあり、昔は大変な名家であったことがしのばれました。
しかしそんな名家の子孫でありながら、名前に恥じないような生活をしてるのかと聞かれたらなんとも言葉がありません。
ただ、遠い昔のご先祖様を思い、たまたま目にしたこのサイトや、目には見えないなにか仕組みのようなものがあるのかもしれないと思い、ご親戚かどうかわかりませんが、メールさせて頂きました。
[70]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月15日 14時44分19秒 ) パスワード

補足です。

娘の「キティちゃんの帽子」というのはおそらく兜をかぶった武将のことだと思います。
子供なのでキティちゃんに見えたのでしょう。。。

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2013年08月16日 02時42分35秒 ) パスワード

旧姓妹尾さま


妹尾家と言えば平家の武門を担っていた一家ですから
平家からのオカルトパワーが来て当たり前と思いますが
あなたには源氏方からも来ているのかも。

   御主人さまが源氏方だったとか?


あのあたりは源平合戦で亡くなった双方の武者達がゾロゾロ船の跡を追って来ると言われています。

わたくしも藤戸がらみで時空800年を超えた経験があります。
ずっと昔ですが。


御先祖さまからのパワーをいただけますように。


ときおさんからレスがあると良いですね。
ときおさんなら、もっと、いろいろなお話が聞けると思います。
にっこり


この板は重くなって来ましたので新しいスレを用意する方が良いかもですね。
ときおさんとは、メールでなら、このままにしておくかなあ・・・
[74]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月18日 09時48分13秒 ) パスワード

空の青海のあをさん様

こんにちは、コメント拝読させて頂きました。

なんとも不思議な体験のお話を頂きありがとうございました。


空の青海のあをさん様、なんだかすごい話ですね、オカルトではなくてそういうことはあるんだとしみじみ思います。

ご主人さまはアメリカの方ですか、厳島神社は私も懐かしい場所です。

見える人、感じる人ってほんとにすごいと思います。

1999年は私も人生にとって世紀末とも言えるくらいの衝撃的な年でした。
時を同じくして色々な体験をしてるところも、また、縁あってここの場所で巡り会えたのも
目に見えないなにかを感じずにはいられません。

藤戸の親戚というのが、母の弟のお嫁さんの実家でして、これまた名字が難波と言います。

私の母方もどうやら平家の流れを組んでいるようです。
県北の今では廃村に近いような田舎村が母の実家ですが、源平合戦の後落ち延びてきたそうです。
平家のどなたがご先祖様家はわかりませんが、もっと後の時代に登場する山中鹿之助は母方の祖母のご先祖様に当たります。

私の主人はおそらく全くどちらにも属してないと思われます。

娘は小さいころから変わった子供で藤戸に行くとお化けお化けと言ってまして、
どんな大人になるのかと少々心配でした。
しかし大人になると全く普通で、高校生活の3年間、きっとご先祖様が家から遠い道のりを自転車で通う娘を
御守り頂いたのだと思っております。
仲良くしていたお友達の中に佐々木綱盛の子孫がいたのも、縁を感じました。

私もちょっと色々調べて見ようかと思っております。

現在関西にある会社の仕事を在宅でやってるのですが、ここの社員さんほとんど奈良の方。
しかも古いこと言ってて、千年もその前もの恨みを今もひきずってるるんです。
(蘇我入鹿とか、中臣鎌足などの出来事)

私は遠い中国地方なので関係ないと思ってましたが、もしかしたらそのあたりも何か関係が出てくるかもしれませんね。。。。




[76]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月19日 15時24分59秒 ) パスワード

空の青海のあをさん様

>旧姓妹尾さまの最初の書き込みでスグに書き込み以上に
  (ああ、平家のお仲間ね)ってすぐに分かりました。
わたくしの脳よりも<背後>が(レスしてやれ、レスしてやれ)ってウルサイですから。笑

すごいです、背後って。。。そんなに感じるのですか?

私はすごく感じるわけではないのですが、遠い記憶がよみがえる感はあるんです。
子供のころ奈良の天理市に一時住んでたのも、因縁めいたものを感じます。
古墳も大好きで、わざわざ見に行きます。
藤の木古墳が出た時は、夢にまで見るほど執着しました。

ときお様からはメールをいただいております、同じく脊椎関係でお仲間なんですね。

私もブロックやってますが,ついに来週熱処理凝固法をやります。
4泊5日の入院です。。。
ご主人さまもお仲間ですね、腰が痛いとほんとに難儀しますね。

合戦の時、たくさんの人を切ったりしたんでしょうねぇ、あちこち手術で切ってます。
刃物の罪なんだと言われたことがあります。もちろん受け入れてますが。

私の背後にもご先祖様がいらっしゃるのでしょうか???
なんだおまえ、もっとしっかりやれと言われてるのでしょうか?

縁あってここで出会えたことはやはりご先祖様の引き合わせなんですね、私に忘れるなと言ってるのでしょうね。

それで藤戸で武将が見えてた娘は、いまはすっかり普通の人となり。

見えるということは何かあるんでしょうか?本人に。

ちょっと気になってきました。。。






[78]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月20日 15時50分39秒 ) パスワード

空の青海のあをさん様

ご先祖様のことに興味があったのは私くらいで、父も母も妹もまったく興味なしと言ったところでした。
だから吉備津さんからの手紙も紛失し、ご供養にもいってないんです。

私が小学校で日本史を習った時、初めて自分のお金で本屋さんに行って買った書物が「平家物語」でした。
そのころ自分が平家に関係があるとは全く知りませんでした。


娘は高校生の時、例の佐々木綱盛の子孫の男の子と同級生でお付き合いをしておりました。
大学生になり娘は関西の大学へ進学しそのまま疎遠になり、今では時々メールをするくらいのお付き合いです。

その後、関西の大学で知り合った男の子が大津市坂本に住んでる子で、おそらく結婚するのではないかと思ってます。

大津なんてほんと、全く無縁の場所ですけど。。。

私は東京へ行く時新幹線で通る米原辺りが気持ち悪くて落ち着かないんです。


藤戸で武将が見えてた子が、関ヶ原近くに嫁に行くのかと思うと、これもなにか仕組みを感じずにはいられません。。。

ご先祖様に守られて毎日を無事に過ごしていられるのですね、とても心強く感じられるようになりましたし、穏やかになることが出来そうです。。。


[80]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月21日 10時09分13秒 ) パスワード

空の青海のあをさん様

いろいろとありがとうございます。

>オットは昨日受診した耳鼻咽喉科の医者から
この医者の分は完治ということで御免になりました。

よかったです、でもお大事になさってください。


空の青海のあをさん様とても力強く生きてらっしゃるのが伝わってきます。
自分に起こることを受け入れて生きていく・・・なかなか出来ないことですよ。
生き方で人生変わりますもんね、どうせなら明るく楽しく毎日を送りたい。



私もどちらかといえば空の青海のあをさん様の義父さまのタイプだと思うのです。
あまり悩まず、現実を受け入れてエネルギッシュに動くタイプです。

この歳でもまだデザイン関係の仕事やらせて頂いてます。
何かしてないと社会から取り残されたような気がするので、社会にかかわっていたい人間です。

一人でどこでも行きます、香港が好きなので一年に一度一人でフラッと出かけます。
杖付いてると結構優先してもらえていいこともあるのですが、やっぱり杖は邪魔です。
周りのみんなはすごく心配するのですが、自分では大丈夫と思ってます。

痛くても何でも杖付いて歩きまわります、緊張感からか、そういう時ってあまり
痛みは感じないものなんですね。

香港は第二の故郷のような・・・日本の次に好きな場所です。




私は脊椎を悪くして産まれ、幼少時代から何度も手術や入退院の繰り返しでした。

性格は活発でよくしゃべる子供だったようですが、脊椎が悪いせいで足が不自由でした。
今の時代と違って、障害者が優先という風潮ではなく、障害者はなるべく外へ出ず、学校も普通学校ではなく養護学校を進められるほどの時代でした。

身体障害というだけで当時は結構差別やいじめもありましたよ。

そんなこんなで、自分自身はいちいち気にせず大人になりましたが、両親になんでこんな体に産まれたのかとか聞いたことも責めたこともありません。

両親が一番つらい思いをしてるはずですからね。。。

この楽天的な性格が幸いして、今回手術後のおもわしくない回復もなんとか乗り切れてるのかな・・・と思ってます。

ほんとに24時間ずっと痛いんですからね。。。たまりません。


佐々木の話を聞いたときは縁があるなぁと思いましたが、ご先祖様が引き離したのであれば、そうかもですね。
笹無山の言い伝えもあまりいい感じではないですものね。



以前、米原辺りが落ち着かないと会社で話したら、みんなその辺では寝てるというのです。
よく寝てられるなぁと思ってました。胸騒ぎしますよね。
馬の蹄の音とか聞こえそうですし、気配感じますよね、たくさんの馬の気配。
京都山科を過ぎたら、緊張感いっぱいになります。



来週月曜日から行ってきます、その前にここでお話を聞くことができて、勇気と元気を頂いてほんとによかった。
ご先祖様のめぐり合わせにも感謝です。

きっとよくなったとご報告できるよう頑張ってきます!!!

この前に、今週末この地区の地蔵盆があります。
お世話役なので、杖付きながらでもしっかりとお掃除&お接待やります!
[82]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月22日 17時33分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

こんにちは、激励いただきありがとうございます。


>日本人に、源氏方の佐々木家が全く人気の無いのは「笹無山伝説」があることで良く表れていると思います。

しかしながら、藤戸には盛綱橋があって、この方のモニュメント(銅像)もあるんです。
馬に跨った勇敢な姿です。
笹無山伝説が伝えられてるのとはうらはらに、藤戸では英雄扱いなんです、びっくりです。
昨年ここへ行ってきましたが、なんだかおかしい話だなぁと思いました。
で、私はその橋は渡らず、遠巻きに銅像を見て、藤戸寺に行きました。
なんとなく渡りたくなかったです。。。



ご主人さまお薬の服用が増えてるとのこと、増やしたら痛みは緩和されてるのでしょうか?

私はトラムセットの副作用に悩まされ、先生に「もう飲まない」宣言しました。
私の場合、薬はほとんど効いてないので、効かないものは飲みたくないです。

実は地蔵盆の当番だということを聞かされてええ〜?っと思ったこともあったんです。
なんでうちが組合当番のときに、地蔵盆まで重なるの〜?って感じでした。

この地区約400軒を廻って、1軒ずつ、お供えと称したお金を頂きに上がるんです。

暑いこの時期に400軒というのが途方もなく無理な感じがして。

でも主人に言われました。

これも業だと思えと。

そうですね、やらせて頂くからにはきちんと心をこめてやらないと。

この地区のお年寄りに頼りながら、明日を迎えます。

なんだかお天気が悪く雨の予報ですが、無事終えて、次の入院行ってきます!

いろいろとお話下さりありがとうございます。
入院の期間、ご先祖様のことを考え、身近に感じるようになれたらと思います。

ほんと、ご先祖様にお会いしたいです!


そちらも暑いのでしょうか?

空の青海のあを様もお身体ご自愛くださいませ。







[83]空の青海のあをさんからのコメント(2013年08月22日 22時53分55秒 ) パスワード

旧姓妹尾さま


   >藤戸には盛綱橋があって、この方のモニュメント(銅像)もあるんです。
   馬に跨った勇敢な姿です。
   笹無山伝説が伝えられてるのとはうらはらに、藤戸では英雄扱いなんです、びっくりです。
   昨年ここへ行ってきましたが、なんだかおかしい話だなぁと思いました。
    で、私はその橋は渡らず、遠巻きに銅像を見て、藤戸寺に行きました。
    なんとなく渡りたくなかったです。。。


この像は建てた気持ちも(偽物)というのがお分かりだからですよ。
(偽物には騙されたくない)(誰が騙されるか)と拒否なさったんですよ。

ま、倉敷市の行政の人気取り策の1つに過ぎないでしょうね。
「義経」人気に乗っただけの。

人の好い息子を殺された老婆の気持ちが人々に伝承された、というのは人間愛から。
でも盛綱像は底の浅い行政の人気取り策。深く考えてない、というのがバレバレ。

それにあの像って上半身のみ?
やっぱり心の底から誰も盛綱が英雄とは思っていないんですよ。


   京都に祇王寺という平家物語ゆかりの、まことに女性好みの寺がありますが
   わたくしもこのお寺に行って、門の前で、同じ気持ちになりました。

      (あ、これは偽物)って。
  
   それで遠巻きに見て、中には入りませんでした。



永い間、赤間神宮に行きたくなかったのも、そういう作為性を感じたからです。

でもバス停で(まだ帰らないで!)と後ろ髪を引かれる思いがあり、
赤間神宮に戻り、
   七盛塚は江戸時代の「有志が建てた」と宮司さんから伺って
       「平家の人々を悼む気持ちは本物だ」
ということで、納得できました。



>私はトラムセットの副作用に悩まされ、先生に「もう飲まない」宣言しました。
>私の場合、薬はほとんど効いてないので、効かないものは飲みたくないです。

立派です。
オットに旧姓妹尾さまの爪の垢を飲ませたいです。

オットはいつでも(強力なオピオイドを静脈注射してもらうための)入院をする気マンマンで
お泊りセットも自分で用意しています。


どーしよーもありません。
かと言って本人が痛いというのを否定はしたくないし。

本人が魂の力で脱出するより他に解決法は無いんですから。


旧姓妹尾さまが、この気持ちを分かってくださって、わたくしも救われます。


わたくしはムカシすごい田舎に住んでて
良く似た経験があり。。。逃げ出しました。。。恥

とても旧姓妹尾さまのような考え+行動にはなれませんでした。


きっと御先祖さまが「よく勤めた!えらかったね」と褒めてくださいますよ。
手術も御先祖さまが見守ってくださいますよ。

大手術の前に、御近所の皆様に喜んでもらえるコトをなさって、徳をお積みになりました。



    肉体の苦しみ  折れそうな心  それらを「魂の力」で打ち勝ってください。


御先祖さまと対話が出来たら良いですね。
手術の成功を心よりお祈り致します。

わたくしの先祖達にも力添えをするように、と祈り伝えます。



お大事に!
[84]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月23日 14時14分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

お地蔵様の朝のお掃除は無事終わって、今夜は組合で拝みます。
明日が朝早くお接待がはじまります。。。


腰が痛いのを気力で乗り切りたいですが、やはり痛い・・・です、やっぱり。

でも何かやってると(仕事で大阪本町を歩きまわってるときとか)は緊張感からか痛さが感じられません。

で、夜になってみんなでご飯行ったりしてると、トイレに行くのも苦痛なくらい
背中&腰が痛くて歩けません・・・。

お地蔵様の背中を拭きながら、「腰の痛いのを持っていってください」とお願いしました。

ご主人様、ご入院して少しでも痛みがとれてよくなるといいですね。
同じ痛さを味わうものとして心より願っています。



空の青海のあを様が書かれてた赤間神宮をHPで初めて拝見しました。


びっくりしました。

これは夢なのか現実だったか思い出せないのですが、私はまだ小さく、着物を着せられて、
袴を着たおじい様(どなたかわかりません)に手をひかれて石段を下りている場面だけが
とても鮮明に残ってるのですが、この赤間神宮のお写真の石段そのものです。

写真にはHP用にフィルターを掛けてるのかもしれませんが、私が覚えてるのはこんな青空の日でした。
記憶では秋ごろのような感じでした、柿の木がどこかにあったのを覚えてます。

しかし私はこの赤間神宮へは行ったことがありません、どういう記憶なんでしょう?
山口県に行ったことがないのです。

たまに思い出して、あそこはどこだったのか、誰だったのかほんとに自分だったのか、夢なのか現実なのか・・・と思いだすことがありましたが…。

柿の木があったので奈良の法隆寺かしら?と思いましたが、数年前に行ったとき、違うなと思いました。
唐招提寺か?薬師寺か?と行ってみましたがどちらも違いました。

自宅にほど近い備中国分寺などもやっぱり違いました。

京都へは公私共にもう数え切れないほど行ってて神社仏閣訪ねますが違います。

とても混乱してしまいました。

空の青海のあを様のご先祖様はこちらの赤間神宮にお祭りされてるどなたかなのですか?


私たちはどんな関係だったのでしょうか???

[85]空の青海のあをさんからのコメント(2013年08月23日 15時26分29秒 ) パスワード

旧姓妹尾さま


わたくしも明日の朝は7時から検査が2つあって
その後、夫のモルヒネのことなどで夫の主治医に行くので

今日はゆっくり書いていられないのですが


赤間神宮には七盛塚と呼ばれる
たくさんの塚などがまとめて建立されています。
   7人分のだけではないです。無数です。


   塚ですからお墓じゃないです。

   江戸時代に有志によって平家の人々の慰霊のために建立されたそうです。


わたくしの御先祖さまの一族は  家長  です。
平の6男の家長 または 伊賀の家長 または 服部家長
平清盛4男の知盛さまの乳兄弟です。
とはいえ20歳は年上だったのでは?と思いますが。
そして壇の浦で知盛さまと一緒に入水したとか。


   ムカシ教科書の件で有名な「家永三郎」という学者がいましたよね。
   この人も伊賀の家長の子孫なのかな?と思います。


   最近では山口で起きた事件の被災者のさだもりさん。
   この人は平貞盛の子孫?で、モロに「さだもり」という名字を使っているのかなと思いました。
   あそこは平家の落人伝説のある所だそうで。


でもわたくしは家長の兄の家継の孫だったように思います。
この家継という字だけで涙が溢れて来ますから。

   当時のわたくしは、ずっと伊賀にいて、京都には行ったことも住んだこともないような田舎の子でした。

   伊賀の東の外れの明昌寺のあたりに祖父?家継の城があって
   そこから伊賀の西の外れの予野という所に歩いて行った記憶があります。

     一緒に歩いた人は子供の時に見たと書いた「背後に見た武将」です。

   この予野という所に千賀地という所があって戦国時代には服部半蔵の屋敷のあったところです。
   ここの花垣神社に女院さまの桜があって、これを見に行ったのです。


   1999年の春にこの場所の桜を見に泊まりがけで行きました。
   「彼」は橋のたもとで待ってました。

   その前の晩、光となって「彼」が来て「明日は待ってるよ」と言ってました。


   桜は今は幼い感じの若い木になってました。
   ひょろひょろでした。


随分ムカシ見た、さる少年の後ろにいた、藤戸に行く3人の平家の武将。
1人は行盛さま
1人は「彼」
もう1人は?
    「彼」の兄だと思っていましたが。


ひょっとすると藤戸の地理に明るい、案内役の、平家の武将だったんでしょうか?

妹尾家の武将だったんでしょうか?

   さっぱり分かりません。



 
>私たちはどんな関係だったのでしょうか???

先祖が平家一門だったと思います。
状況証拠ばかりですが。


それより赤間神宮の女の子はどなただったのでしょう?何をしに行ったのでしょう?

不思議ですね。


手術で大変な思いをなさるのですが
痛みに負けていては痛みで心がツライのですから
他のことを一生懸命考えましょう。

   あの赤間神宮って?あの女の子は?あのおじいさんは?何をしに?
   など。


一生懸命考えて、気が他に行って、その時だけでも、痛みが和らぐと良いですね。
にっこり

  
手術が終わったら赤間神宮に是非いらっしゃってください。
行くのは「七盛塚」を見に、です。


こうして手術後の予定を決めておくのも良いかも。
にっこり


明日はお接待、頑張ってね。
[88]私も妹尾ですさんからのコメント(2013年08月30日 15時04分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

こんにちは、先ほどペインの熱凝固法を終えて退院してきました。

痛みは若干残ってますが、かなり軽くなりましたよ!

お地蔵様のお接待は大雨の中無事終わり、手術も終わり、9月にはいると仕事も
忙しくなります。

母に赤間神宮の話をしましたところ、母も一緒したいと言いますので近いうちに
行ってこようと思っております。

父は自分のご先祖様のことなのに一向に興味がないのですが、親孝行と思い連れて行きます。

そこでどんな反応をするか楽しみです・・・。

空の青海のあを様、

ご主人様はどんなご様子ですか?

空の青海のあを様もお身体をくれぐれもご自愛くださいませ。

[89]空の青海のあをさんからのコメント(2013年08月30日 22時40分37秒 ) パスワード

旧姓妹尾さま



御退院、おめでとうございます。
   暫く、ちょっとは、楽でしょうか?
   効果が長く持つと良いですね。


オットは9月の手術の前の準備段階の予約をキャンセルしました。
予約を入れてた日はわたくしがインフルエンザ?の症状でフラフラしてたので助かりました。



熱凝固法はアメリカではレイディオ・アブレージョンと呼ぶのだと思いますが
アメリカは入院は無くて、朝行って、数時間後に退院、という式です。
   これをアンビュラトリー式手術と言います。

     ヘルニアや盲腸などもこのやり方です。


オットの場合は手術代は総額30万円ちょっとあたりでした。
   自己負担はこの金額から保険会社がどれだけ払ってくれるかです。

   オットは1回目の去年は3万円未満で2回目の今年の手術は無料になりました。



入院は1泊のベッド代が30万円あたりで
その他
医師への支払いや看護士への支払い・薬代・などなど
合計いくらになるか恐ろしいです。


でも持っている保険で、自己負担がゼロから全額まで、何ヶ月も経ってから決まります。

患者は半年は恐怖の日々です。
請求書が雪崩のように送られてきますから。


日本がTPPに参加して医療もアメリカ式になったらアメリカ人の医療費への恐怖を日本人も味わうのかも。



本当に今回の手術で済むと良いですね。


お大事にね。



赤間神宮にいらっしゃる時は、午前の早い時間帯が良いと思いますが、
とにかく観光バスとかち合わないのが良いと思います。

   人気観光スポットに遊びに来た人達と
   魂の交流をしに先祖と対話したい人では
   折角の空気が台無しです。
   笑


何か感じると良いですね。


[98]妹尾家分家さんからのコメント(2015年03月21日 16時16分01秒 ) パスワード

はじめまして

コメント消去などお許しください

私は妹尾家の分家の者にございます

我が一族は平家の生き残りと聞いております

妹尾家の本家の方は妹尾駅を経営してるとお伺いしています

私は今中1で私たちの先祖について勉強しております

祖父の方が妹尾家の分家の方なんですが

昨年他界してしましまして

勉強に使おうと思っておりますのでお話しできませんでしょうか?
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