キーワード::『玉葉』承安3年7月7日の記事を巡って コメントの種類 :その他
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『玉葉』を読んでいくと、承安3年7月7日の記事の最後に、さりげなく「又紀伊と上野と相転ず。この外事無し。又叙位有り。」と書かれていました。不思議に思って調べてみますと、当時紀伊守は藤原光能であり、又上野介は高倉範季でした。範季が上野介に任じたのは長寛2年3月で既に8年経過していましたから、転任に対して不思議はないのですが、光能は承安2年6月に紀伊国主になってわずか1年しか経っていません。この交代にいったいどんな意味があるのか、さらに驚くべき事に、親王任国である筈の上野国に鞍替えした光能が介ではなく国主に就いた云うことでした。九条兼実はさりげなく書いているのですが、上の文面をよく見ると、兼実自身もこの交代の真相を知らされていなかったのではないかと推測され、聞かされた事実のみを茲に書いたのでしょう。ただ、さすがに『中世史ハンドブック』の中の『知行国主・国司一覧』の著者は『玉葉』からの出典としてこの事実を取り上げています。
さて、この事実が何を意味しているのでしょうか、親王任国の上野に国主として赴任すると云うことは、当時の最高権威者である後白河上皇の強い意志が働いていたのでは ? と考えると納得できるのです。そしてその真相を推理していくと、このあと始まる源平の争乱へと続き、さらに又義経と範季とのその後のつながりへと発転していくことになります。
この光能と範季を結びつけたのは、諸稜助重頼という男ではなかったか、彼は源三位頼政の義理の甥であり、その父は下総に住む深栖三郎光重で頼政の父、仲政の養子になり仲政が下野守として任国に赴くとき共に下野に下りました。そして頼政の母と範季の父は兄妹の関係だったのです。一方重頼には今ひとつ、皇后宮侍長という官職を持ち、その上司に皇后宮亮としての藤原光能がいたわけです。
当時鞍馬にいた義経、いや紗那王は自分の出自を知り、父の敵である平家を討ちたいと云う思いが強く、鞍馬からの脱出を考えていましたが、たまたま鞍馬に来た重頼に言い寄り東国への案内を頼みます。このことは『平治物語』や『尊卑分脈』にもかかれているとおりです。
思い悩んだ重頼は叔父の源三位頼政と、上司の光能に相談しました。
話は長くなりますので次回に続けます。
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