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 投稿番号:101026 投稿日:2008年02月26日 21時18分14秒  パスワード
 お名前:泣き虫小僧 URL=http://www13.ocn.ne.jp/^t-adachi
木工頭高倉範季の周辺
キーワード::『玉葉』承安3年7月7日の記事を巡って
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『玉葉』を読んでいくと、承安3年7月7日の記事の最後に、さりげなく「又紀伊と上野と相転ず。この外事無し。又叙位有り。」と書かれていました。不思議に思って調べてみますと、当時紀伊守は藤原光能であり、又上野介は高倉範季でした。範季が上野介に任じたのは長寛2年3月で既に8年経過していましたから、転任に対して不思議はないのですが、光能は承安2年6月に紀伊国主になってわずか1年しか経っていません。この交代にいったいどんな意味があるのか、さらに驚くべき事に、親王任国である筈の上野国に鞍替えした光能が介ではなく国主に就いた云うことでした。九条兼実はさりげなく書いているのですが、上の文面をよく見ると、兼実自身もこの交代の真相を知らされていなかったのではないかと推測され、聞かされた事実のみを茲に書いたのでしょう。ただ、さすがに『中世史ハンドブック』の中の『知行国主・国司一覧』の著者は『玉葉』からの出典としてこの事実を取り上げています。
 さて、この事実が何を意味しているのでしょうか、親王任国の上野に国主として赴任すると云うことは、当時の最高権威者である後白河上皇の強い意志が働いていたのでは ? と考えると納得できるのです。そしてその真相を推理していくと、このあと始まる源平の争乱へと続き、さらに又義経と範季とのその後のつながりへと発転していくことになります。

 この光能と範季を結びつけたのは、諸稜助重頼という男ではなかったか、彼は源三位頼政の義理の甥であり、その父は下総に住む深栖三郎光重で頼政の父、仲政の養子になり仲政が下野守として任国に赴くとき共に下野に下りました。そして頼政の母と範季の父は兄妹の関係だったのです。一方重頼には今ひとつ、皇后宮侍長という官職を持ち、その上司に皇后宮亮としての藤原光能がいたわけです。

 当時鞍馬にいた義経、いや紗那王は自分の出自を知り、父の敵である平家を討ちたいと云う思いが強く、鞍馬からの脱出を考えていましたが、たまたま鞍馬に来た重頼に言い寄り東国への案内を頼みます。このことは『平治物語』や『尊卑分脈』にもかかれているとおりです。
 思い悩んだ重頼は叔父の源三位頼政と、上司の光能に相談しました。

 話は長くなりますので次回に続けます。

[3]足立 勗さんからのコメント(2015年08月24日 14時42分24秒 ) パスワード

木工頭高倉範季のその後

『公卿補任』建久8年、上野介藤原範季が公卿に列した時の記録には次のように書かれています。
 
 受三位 建久8年12月15日
 長寛2年3月17日   遷上野介
 承安3年7月7日   辞介  以猶子範光任紀伊守  
 安元2年庄勝30日  陸奥守 同3月30日鎮守府将軍
 治承三年11月17日  止官 解官  (清盛のクーデター)
 贈從一位      左大臣    (順徳天皇外祖父)


 紀伊國についても見てみましょう。
ここには『玉葉』仁安2年6月30日条、とあります、その記録とは
  今宵小除目あり。紀伊守藤廣家と云々。光能朝臣知行の國なり。
広家というのは光能の嫡男知光のことです。もう一つは『公卿補任』建仁元年の範光が公卿になった時の経歴です。
 
  承安3年7月7日紀伊守 (範季辞上野介申任之)
  安元2年12月8日    遷下野守
  治承4年正月28日    重任
  寿永2年8月16日    遷紀伊守

 この承安3年7月7日の国司交代が何故行われたのかに注目している。
なぜならばこの交代人事は九条兼実さえも知らなかった。即ち後白河法皇勅任の事であり,それだけ秘事に属することだったと云うことである。

さて皆さんは義経の義兄、蒲の冠者範頼が木工頭高倉範季の養い子であることをご存じであろうか、木工頭高倉範季は熱田大宮司家の一族であり、当然源頼朝とも関係が深いそういった関係で範季は蒲方面を版図としていたことがあり、蒲の遊女が生んだ子を範頼として育てた。

 木工頭高倉範季に戻る。範季は知行国の交換を機に、紀伊國は猶子範光に任せて引退しようとしたが二年後の安元2年正月、今度は事もあろうに陸奥の守に任じ子息繁成を伴い任地に赴きます。さらにその3月後の3月、鎮守府将軍にも任じられました。しかも紀伊守になっったばかりの範光もその年の12月今度は下野守として陸奥の直ぐ近くに赴任しました。これらのことは一体何を意味するのか。
陸奥には義経が居ます。あるいは義経は範季に随行するかたちで平泉に入った可能性も考えています。

 というのも金売吉次は義経の陸奥入りを安請け合いしたものの、秀衡の反対に遭ってあきらめ、同行役は陵助重頼にバトンタッチした。承安4年3月3日、義経は陵助重頼とともに東国に下り重頼の父、深栖三郎光重に後事を託す。
 先にも書いたように木工頭高倉範季と深栖三郎光重は遠縁の中であり。光重はかって下野に住み土地勘もあった。

 足立遠元は武蔵国足立郡が本願の地であったが、藤原光能が上野国主になった際娘婿の光能の依頼で目代として上野國を実質支配し都と平泉の情報の中継点の役割を担いました。


                           つづきます。        


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