[1] | アカコッコさんからのコメント(2008年01月08日 07時04分50秒 ) | パスワード |
遅くなりましたが、 あけましておめでとうございます。
(松もとれてからでも良いのかしら?まぁ私はこんなもの)
暇潰しのギャンブラー様、さちこさん、隈さん、そしてお歴々の皆様!
今年もよろしくお願い致します。
下記のような記事が佐倉市のHPに
『青菅のどんどれえは、志津地区青菅で行われる小正月の行事で、江戸時代初期にこの地を知行した旗本川口氏の頃に始まったと伝えられています。
市内でも数少なくなった民俗行事です。
行事は1月14日に近い日曜日の夕方に、正月の門松やしめ縄を「どんどれえ塚」と呼ばれる場所に一か所に集め、高く積み上げて焼いています。以前は14日に小正月の行事として男の子を中心として行われていましたが、現在では区の行事として大人とともに行われています。
「どんどれえ塚」に、「ドウシンボク」と呼ばれる1本の竹を中心に、9本の孟宗竹を直立に立てて火をつけます。周囲から燃え上がった火が「ドウシンボク」に移り地面に倒れると、その倒れた方角で一年の豊凶を占います。
火が下火になった頃に、ザンマタ(二股)の栗の枝に一個ずつ餅を刺し、焼いて食べると一年間風邪を引くことがないと言われています。
また、門松の燃えさしを、家の門口に立てて盗難除け、魔除けとしています。
どんどれえには爆竹の「どんど」という大きな音で悪魔を祓う意味があるようです。
(平成19年(2007)6月29日 市指定無形民俗文化財)』
尾張地方では真清田神社・山田天満宮・南知多町師崎地区など検索で出てきますが。
[2] | 隈さんからのコメント(2008年01月08日 09時22分50秒 ) | パスワード |
アカコッコさん、平熱常連の皆さん、
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。m(__)m
西日本では「どんど焼き」ということが多いみたいですね。
山口県では普通、1月15日辺りに行われることが多いようですが、
何故かうちの最寄りの神社は2月の節分にやってます。
しめ縄を慌てて神社に持っていかなくても間に合うので、楽です。(^^ゞ
[3] | アカコッコさんからのコメント(2008年01月09日 12時34分42秒 ) | パスワード |
>最寄りの神社は2月の節分にやってます。
2月3日ですね、ホントに楽ですね。
なぜ青菅の『どんどれえ』が川口氏の頃に始まったかということで決着が付いたかに触れてみたいと思います。
佐倉藩は堀田家で有名ですが、佐倉藩は江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩であった。
江戸時代前半は、老中・大老となる幕格の中心人物が入封し、罷免、致仕、失脚のたびに藩主の入れ替わりが激しい藩であった。
ちなみに、武田(徳川)家→松平家→小笠原家→土井家→石川家→松平(形原)家→堀田家→松平(大給)家→大久保家→戸田家→稲葉家→松平(大給)家→堀田家などとなっております。
尾張・三河・美濃出身の家々ですので、どの家が「左義長」を始めたかの判定に迷いますね。
下総国葛飾郡青菅は慶長十一年川口久助が采地として拝領、知行地の中心として陣屋が置かれ、その後元禄十一年まで九十余年に亘り四代、地頭として知行いた土地で、川口家移封後は印旛郡に編入された。
陣屋跡の総門付近には川口家国替えの際に土着せしめた家々があり、川口家の家臣達の御子孫と言われております。
現在でもその風習その連綿を繋いでいる地区なので、『どんどれえ』の発生を川口氏に、求めたのではないかと思われます。
[4] | アカコッコさんからのコメント(2008年01月12日 13時28分05秒 ) | パスワード |
南知多町師崎地区で左義長が行われると書き込みましたが,
今まであまり聞いた事もなく、気にも留めていなかったのですが、今朝テレビでその南知多町師崎漁港からの中継があり、下関と並んで「ふぐ」の産地ですとの紹介で美味しそうに食べている画像が流れていました。
、『どんどれえ』の発生を川口氏に、求めたのではないかのつづき。
青菅には尾張の痕跡と川口氏に結びつける土壌がほかにもあったのです。
設楽家住宅(佐倉市青菅)
古建築学の権威、千葉大学名誉教授 大河直躬氏の調査に因れば、設楽家住宅は、千葉県はもとより東日本全体でも最も古い部類の古民家であり、御当主、設楽晋氏所有の古文書に記載のあるように、慶安年中(1650年頃)に建て替えられた建物であるらしいという。またこの建築物は、いわゆる、分棟型の建物であり、土間部分と座敷部分を後から繋げて大屋根を一体にして葺きなおした住宅である。分棟型の建物は東海地方の太平洋岸に見られる建築で、この土地のような内陸部に存在することは希有な例であるという。
また建物の構え方から、一般の農家の建物とは考えられず、早期に帰農した武士の居館を彷彿とさせるものであるらしい。
戦前まで土塁が残っていたようで、隣接する家々の屋号は、陣屋隠居、城之内、向かい、総門、入り、陣屋口などの呼称が現在でも用いられている。
なお松戸の本土寺にある梵鐘の寄進者、設楽助太郎が当家の祖であると云われ、設楽氏は千葉氏と同族であるが、むしろ、この建築物は、尾張出身の川口氏の影響にある建物と見るべきであろう。
なおこの建物は、「房総のむら」に千葉県を代表する古民家の一つとして全く新しく復元される住宅の候補となったが、結局復元されなかった。
現在、佐倉市の文化財には登録されているものの、国指定の重要文化財とはなっていない。
だが名主家が何故、尾張様式の建築物を再建する必要性があったのか、疑問がわくところです。
私が土地の古老から聞いた話とはチョット違いますが、いずれにせよ川口氏の痕跡が強く残っている場所です。
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