[1] | mino阿弥さんからのコメント(2007年09月06日 10時28分29秒 ) | パスワード |
「美濃国諸家系譜」所収「大河内家譜」には、大河内元綱(室大橋和泉守平信重女)の娘が水野忠政の室となり法名「華陽院」と書かれています。
また、菅沼氏は、美濃守護土岐家とも関係があると思います。
諸説あり、よくわかりません。
確実な史料、又は何らかの研究論文等ありましたら、お教えください。
[2] | アカコッコさんからのコメント(2007年09月06日 14時31分21秒 ) | パスワード |
mino阿弥さん、お久しぶりですね。
諸説あり!!そうですね。
四家七苗字(大橋家)には関係ないが、旗本の系譜を利用しても、徳川家の箔付けには繋がらないし、菅沼家にはもっと大身の旗本がおられましたので、菅沼定氏家が華陽院殿に関係していたことは間違いないと思われます。(川口家も同様)。
定氏の兄弟定仙は初め今川家に属し、徳川家康につかえ、また武田信玄にしたがい、再び家康公のもとへ。その子定政、実は明智兵部大輔定明が長男とあります。
菅沼家は『浪合記』には登場していないが、「信濃宮伝」には、菅沼、本田、牧野家等々徳川幕府のメンバーとして登場しております。
同様に他スレの長田家は出てこないが、「永田家」として「信濃宮伝」には登場しております。
今度お宅にお伺し、大先達の爪の垢でも頂いてこうようかと考えております。
[3] | mino阿弥さんからのコメント(2007年09月06日 17時33分41秒 ) | パスワード |
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には
明智光継ー光綱ー光秀(明智十兵衛尉・惟任日向守・・)とされ
明智光継の弟であろうところに「頼定」がいます。
「頼定」
土岐次郎、兵部少輔、従五位下
文明二年四月生、母は兄と同母(揖斐左近大夫基春女也)
室は土岐植村源三郎持正女也
武儀郡神野又多芸郡共云々領配知五千貫
大永六年三月三日卒五十七歳
頼定有二子兄曰土岐上総介頼尚弟曰上野介頼朋其子曰兵部大輔定朋
仕徳河家子孫繁盛
(朋は明の誤字か?)
頼定ー定明ー定政ーとなります。
おそらく、こちらの系ではないかと思われます。
土岐沼田藩主家は
(土岐会会報・第六号・土岐一族略系図・土岐實光氏作成によれば)
土岐頼貞ー土岐頼基・・・八代頼定ー九代頼尚ー十代頼明ー十一代定明ー
十二代定政ー十三代定義ー十四代頼行・・・となっているようです。
「美濃国諸家系譜」によれば、大河内氏は四家七名字の大橋氏ですが。
あの最後の、「今度お宅にお伺いし・・」ということですが
拙宅のことでしょうか?
光栄ですが、
10月7日(日)に「美濃源氏フォーラム」があります。
苗木遠山資料館の千早氏「遠山一族の系譜」
谷口研語氏「土岐一族考・原氏・深坂氏・深沢氏・福光氏・舟木氏
本庄氏ほか」という内容です。
ご都合がよろしければ、ぜひご出席くださいますよう。
たぶん当日は、いつも通りゴルフに行っていると思いますが
遅れても必ず、顔を出します。
谷口研語氏もご紹介させて頂きます。
一応、彼はプロですから、いろいろと困らせ甲斐があり
楽しいと思います。
[4] | アカコッコさんからのコメント(2007年09月07日 13時22分41秒 ) | パスワード |
>拙宅のことでしょうか?
いいえそんないきなり訪問するような不躾なことはしません。
菅沼家のご子孫のお宅です。
菅沼家を調べれば、結構興味深い事が分ります。
「寛政譜」によれば、清和源氏 土岐頼光流ともいう。その他色々と書き連ねてありますが、嗣なくしで断絶した家もあり複雑になっている。
紀伊家の臣菅沼家などには頼光十二代土岐大膳大夫頼康、三代嶋田伊豫守瞞貞が子、木和多伊豫守安達が男を土岐信濃守定直とし、普廣院義教(足利)につかえ、命をうけて三河国の住人菅沼信濃守俊治を討伐し、その戦功により所領をもらい、土岐をあらためて、菅沼と称するとあります。
はりまやさんのwebでは:
菅沼氏は室町時代のある時期に、美濃国より三河国額田郡菅沼郷に移り住したといわれる。土岐頼康三代の嶋田満貞の子木和田安逵の男土岐定直が、将軍足利義教の命によって、三河国の住人菅沼俊治を討ち、その諸領を与えられて菅沼を称したという。
しかし、別説によると先の定直は資長といい、土岐光兼の二男とされる。
すなわち、三河国野田の城主富永信資に養われ、後菅沼忠通の婿となり、菅沼を称したとされる。いずれにしてもその始まりは詳らかではない。
又、明智兵部大輔定明は下記webに記載あります。
『喜多村家傳 明智家譜 及び 明智系圖』
上記サイトには光秀北室者伊賀國柘植城主喜多村出羽守保光女也とあり、これは服部出羽保光のち喜多村(北村)氏。服部平太夫の従兄弟。でこれまた服部家に繋がる。
[5] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年09月08日 00時22分08秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
菅沼家は家康関東入国時の関東分封三十九将のうち三人もいる。
菅沼小大膳定利(上野吉井2万石)
菅沼山城守定政(下総守谷1万石)
菅沼新八郎定盈(武蔵阿保1万石)
菅沼家は諸文献を勘案すれば土岐光兼の二男資長に始まる。
系譜についてはhttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004d.htm#004 を参照のこと。
菅沼家は、松平家、今川家、松平家、武田家、松平家と頻繁に主家を替えて生き延びた美濃出身の戦国武士の典型的な家である。
幕末には稲葉家が裏切り、それを見た藤堂家が追随して官軍に寝返った程である。
家康も菅沼家の裏切りを心配したふしがあるが、後に厚遇されたのは閨閥にある。
奥平貞勝の娘が菅沼貞吉に嫁し、家康の娘亀姫が奥平信昌に嫁し、その子忠政が菅沼定利の養子となる。
しかし江戸時代初期に大名家はいずれも無嗣絶家となり、旗本家のみが系を伝える。
[6] | mino阿弥さんからのコメント(2007年09月08日 11時21分02秒 ) | パスワード |
皆様、いろいろとお教え頂き、ありがとうございます。
嶋田氏は、よくわかりませんが埼玉県坂戸市の永源寺を開基
しているようです。(HP有り)
永源寺嶋田系図
頼康
満貞 嶋田伊予守 領三州嶋田
満名 嶋田五郎
満清 嶋田小五郎
定忠 継嶋田名跡
定俊 嶋田常陸介 住三州 矢矧
某 嶋田十兵衛
利秀 嶋田右京亮 入道永源 永源寺開基
重次 次兵衛尉 御旗奉行
利正 弾正忠 初代江戸北町奉行
忠正 長崎奉行二代江戸北町奉行
利由 大目付
・・
ご参考まで。
[7] | アカコッコさんからのコメント(2007年09月10日 11時25分37秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑さん、簡潔かつ明瞭な解説有難うございます。
mino阿弥さん、「嶋田氏」の紹介有難うございます。
表題の菅沼家について続けます。
菅沼定氏系の分家、定勝は二代にわたり、養子が遺跡をついでおりますが、定秀は菅谷若狭守政憲が次男であり、川口源左衛門宗恒の妻は菅谷紀八郎範重が女で、宗恒の子宗直の弟政房は菅谷八郎兵衛正照が養子になっております。
@川口宗恒:妻(菅谷範重が女) →宗直
・・・→政房(菅谷)
A菅沼定勝→貞業→定秀(菅谷)
B菅谷範重→政朝→政憲→定秀(菅沼)
C菅谷範重→政照→政房→範平
D菅谷範重→政朝→政憲→政則
以上のように華陽院殿、菅谷家を通じて菅沼家とは再び縁者になっております。
[8] | アカコッコさんからのコメント(2007年09月26日 07時11分09秒 ) | パスワード |
先日、菅沼定氏の御子孫のお宅を訪問して参りました。手紙のやり取りだけの間柄でしたが、82歳とのことをお聞きしてこの機会を逃したら、拝顔できなくなるではと勝手に思い急遽お伺いしました。
初対面でしたが、気さくなご老体で直ぐに打ち解け、四時間ばかり話をしたり、色々調査された文献や菅沼家系図まで見させて頂きました。
三年前に奥様を亡くされ、現在お一人で生活との事でしたが、頭脳明晰、記憶力抜群で、大学教授、医学博士をなさっていた職業柄か、私なんかと比べようもないほどでした。
そこで結論、まず82歳までの私の寿命があるか(祖父、父供に64歳で死亡)、ボケないで到達するのは困難か?。
こないだ近所で聞いた話では、pcをやっていたが止めた途端に痴呆症になって、彼方此方徘徊するようになり、遠方の警察から保護したので、迎えに来てくださいとの電話が。何で遠くまでは行くのかと思ったら、老人パスをもっているのでバスなどで気軽に乗って行くらしい。
頭を使い、適度な運動(散歩ぐらい)をして健康で。
私も大先達のお年までそうありたいとつくづく感じましたが欲を出さないでその日その日を大切に。
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年09月26日 12時36分43秒 ) | パスワード |
>まず82歳までの私の寿命があるか(祖父、父供に64歳で死亡)
大丈夫ですよ。
お祖父さまお父さまの時代は「人間わずか50年」と言われていた時代ですから
当時の64歳なら短命ではありませんでしょ?
わたくしの父も
祖父は若死にで祖母は71で亡くなりましたから
「50歳を迎えられるか?」
と常々言ってましたが祖母より長生きしておりますし
昨日はテレビが壊れたので中身をバラして掃除機で埃を吸ったら直ったそうです。
バリカンも自分で直しますし先月は掃除機を直してました。
(買えば早いのに、これがボケないで長生きのコツのようですよ)
今年の4月からはスカイプで毎日父の相手をしております。
父からスカイプをしようと言って来ました。
毎日散歩を欠かさず手先仕事をし書き込みをなさっていらっしゃれば
元気で長生きできますよ。
御先祖さまのことをお調べになってHPに更新なさっていらっしゃれば
若い世代のかたとも交流がおできになって張り合いが違って来ると思います。
わたくしは義兄の介護の合間に庭仕事をしております。
種類の違う疲れや張り合いがありますから健康でいられるかしら?と思います。
[10] | アカコッコさんからのコメント(2007年09月30日 07時04分03秒 ) | パスワード |
>大丈夫ですよ。
>お祖父さまお父さまの時代は「人間わずか50年」と言われていた時代ですから
>当時の64歳なら短命ではありませんでしょ?
心強い励ましのお言葉有難うございます。
あまり寿命に執着はないのですが、根気の方が持続しない(こんなところに年齢が現われる)。
このところ知り合いが3人ほどこの夏季にお亡くなりになっており、ちょっとナイーブになっておりました。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」から数百年経た現在、男性平均寿命は78歳ちょっと。医学が驚異的に進歩したが、戦争もなく平和な時代であるがストレス・添加物などの問題があり28歳伸びただけ。
現在私はバードウォッチングの仲間(撮影を含む)は若い人達も多い、色々と刺激をうけております。
散歩仲間(犬の散歩を含む)は老若男女で色々と会話が弾み、あっと言う間に1週間・時間がたってしまいます。
だが大先達は近所の人達とはあまり話さない、何故かと聞くと共通の話題がない(歴史・趣味)とのことで1日中会話がない事の方多い、話し相手が欲しかったとの事、それで私の訪問が歓迎された訳でした。
65歳以上が高齢者という時代、生き方について考えさせるこの頃でした。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年09月30日 14時20分06秒 ) | パスワード |
>根気の方が持続しない
これはありますね。
わたくしの場合は特に最近は本を読む根気が失せました。
ネットは結構うっかり夜更かしをしてしまうぐらい根気はありますが(笑)
原因は緊張感の欠如かと思います。
学生時代とは違ってテストがないし
働いていた時のような責任がないし。
>このところ知り合いが3人ほどこの夏季にお亡くなりになっており、ちょっとナイーブになっておりました。
これはありますね。
知り合いの訃報というのは心にドーンと来ますね。
>現在私はバードウォッチングの仲間(撮影を含む)は若い人達も多い、色々と刺激をうけております。
良い御趣味ですね。
葛西の公園に行きましたが
なかなか良い観察小屋になってますね。
わたくしの恩師はかばんの中に双眼鏡をお持ちで
歩いてる途中でも双眼鏡で観察していました。
ホント、根気を出す何か良い方法はないでしょうかねえ?
[12] | アカコッコさんからのコメント(2007年10月17日 13時45分06秒 ) | パスワード |
>葛西の公園に行きましたが
葛西には行ったことはなにのですが、葛西に張り付いている人がmfには時々現われ情報は良く知っております。
[7]の菅谷八郎兵衛政照が養子になった政房は菅谷家を継いだと思っていましたが、寛政譜を読みましたところ、父に先立ちて死す(元禄4年卒)とありました。政房の子範平(のりひら)が祖父(元禄5年卒)の遺跡(元禄6年)をついでおりましたので、かろうじて川口家の血筋が残存しておりました。(十一歳で厳有院殿(家綱公)にお目見えしのち、菅谷家の養子に入り、三十三歳で死去とあります)
@川口宗恒:妻(菅谷範重が女) →宗直→宗壽
同上→政房(菅谷)
A菅沼定勝→貞業→定秀(菅谷)
B菅谷範重→政朝→政憲→定秀(菅沼)
C菅谷範重→政照→政房→範平
で一件落着かと思いますでしょう。まだ続きがあるのです。
D大久保忠成→忠重→忠兼
E川口宗直(妻が大久保玄蕃頭忠兼の娘)→宗壽
F菅沼定氏→定吉→定俊の妻は大久保玄蕃頭忠成→定政
母上に同じ→定勝
上記の件も大先達からのご教示です。
菅谷家と大久保家で又々縁戚関係に。
旗本家が多数あるのに限られた家々と重縁し派閥でも作ったのかしら。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月17日 22時32分39秒 ) | パスワード |
>菅谷家と大久保家で又々縁戚関係に。
>旗本家が多数あるのに限られた家々と重縁し派閥でも作ったのかしら。
でしょうね。
いろいろな形で血と名を残してきたのでしょうね。
川口家も菅沼家も大久保家も徳川家には大事な家ですものね。
何重にもいろいろな形で関係が続いていたのですね。
江戸時代とか徳川幕府というのは
秀吉後の「勝利者」の歴史ですものね。
勝利者が勝利者間でお互いを支え合ったというのは当然ですし
そうやって断絶しそうになった時に
「あそこにまだいる」
ということで血縁者を連れて来て絶やさないようにしたんでしょうね。
逆に「馬の骨」に対する不信感というのも強かったというのが分りますね。
徳川家に変な心を抱かれては困りますものね。
[14] | アカコッコさんからのコメント(2007年11月13日 07時39分14秒 ) | パスワード |
>逆に「馬の骨」に対する不信感というのも強かったというのが分りますね。
「馬の骨」について以前読んだ司馬遼太郎氏の文が印象に残っておりますので紹介します。
『余話として』 話のくずかごより(文春文庫)
「どこの馬の骨」ということばは、日本語のなかでもユーモアの滋養をたっぷりふくんだ、数少ない佳い言葉のなかに入るのではないか。
『広辞苑』をひくと、−素性のわからぬ人を罵っていう称。とあり、元禄太平記の「よしよしいづくの馬の骨にもせよ」という例がひかれている。
徳川大名の先祖は、たいてい戦国に現われてくる。その連中の出自をしらべてみると、そのほとんどがどこの馬の骨だかわからない。
これが明治のとき華族になって公侯伯子男になったのだから、要するに日本の華族というのは、モトはどこの馬の骨だかわからないのである。
日本歴史のユーモアは、そういうところにある。
[15] | アカコッコさんからのコメント(2007年11月13日 07時42分16秒 ) | パスワード |
元来、子孫というものが先祖に対して責任をもつ必要はいっさいない。
私どもこの世に一人存在しているのは、三百数十年前までさかのぼれば、その間、どれだけの血縁者を持つか、数学的に計算したこともないが、おそらく五十万人や百万人ではきかないであろう。
中略、徳川大名や華族というのは、歴史という本来過ぎてしまったもの、空なるものを実なるものとして仮に成立させ、それを利権化し、法制化してもらってやっと存在した奇妙な家業なのである。
この一事だけでも、大名や華族というものが、権力構造の都合でできたフィクションであることがわかるし、大名が明治維新で一瞬に消え、さらにアメリカ軍の日本進駐で華族が一瞬で消えたのも、結局はそれが虚像であったことの証拠であろう。
こうはいうが、私はその虚像が、虚像だからいけないというわけではない。人間の社会のシンはひょっとすると大いなる虚構でできているかもしれず、人間の精神がもっとも昂揚するものは虚構であるかもしれない。
[16] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年11月13日 11時22分52秒 ) | パスワード |
>「どこの馬の骨」ということばは
>『広辞苑』をひくと、−素性のわからぬ人を罵っていう称。
>とあり、元禄太平記の「よしよしいづくの馬の骨にもせよ」という例がひかれている。
先日の「サイエンスZERO」という番組で
日本人の母方ミトコンドリアの遺伝子の塩基を調べると
16人の母にいきつく
んだそうですよ。
つまり世界のうちのアジアの16地区の出身ということ。
最初の母はソマリアの西あたりにいて
それが氷河期に紅海を渡っていくつかに分れ、その後、全部で80人の母が世界中に散った。
ま、日本人は25%ぐらいが北中国→半島→日本に渡った母の子孫でくくられ
残りの75%が15人の母の子孫ということに。
それも縄文時代の終わり弥生時代の初めに16人の母の子孫達が混血したようで
馬の骨もやっぱり素性は遺伝子の塩基からハッキリするんだそうです。
あ、外見からは全くワカラナイのですよ。
外見が似てるからといって同じ母の子孫とは限らないのですよ。
(この部分は「家紋」に似ている 笑)
どこの馬の骨かは分らなくても
16人の母の子孫達ですから
縄文末期から日本人として混血を繰り返して来たのですから
やっぱり日本人は日本人ですよ。
この番組は面白かったですよ。
16人の母の1人の子孫はベーリング海を渡り北米から南米へと渡っていった子孫なんです。
もの凄く壮大なロマンなんですが
日本人はやっぱり日本人でくくれるから「馬の骨」もユーモアで語れてしまう。
司会者の女性はタイあたり出身の母の子孫だったんです。
最近来た人の子孫かと思ったら
新田義貞の鎌倉攻めの戦いで死んだ人の母と一致してたんです。
日本人というのは縄文時代〜弥生時代にはいろいろな母の子孫達が混じったのだなと
日本人って
コップの中の嵐というか井の中の蛙というか鍋と薬缶が煤で真っ黒けと悪口言い合うというか
「馬の骨」とオトシメ合って
なかなかユーモアに富んでいるではありませんか。
笑
[17] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年11月13日 11時57分30秒 ) | パスワード |
>私どもこの世に一人存在しているのは、
>三百数十年前までさかのぼれば、
>その間、どれだけの血縁者を持つか、数学的に計算したこともないが、
>おそらく五十万人や百万人ではきかないであろう。
これなんですが
やはりこの番組でやってました。
自分がいて
両親が2人いて
そのまた両親が2人ずつで4人いて
とやっていくと
2の10乗で1024人
20乗だと1048576人← 100万人越えましたね
30乗だと1073741824人???10億過ぎた?笑
わたくしは家書によると84代目なんですが
天文学的カズになってしまいますね。
あんまりにもカズが大きいので(ホント?)と不安になってしまいます。笑
>アメリカ軍の日本進駐で華族が一瞬で消えたのも、結局はそれが虚像であったことの証拠であろう。
でも加賀の前田家は東京の殿様の生活を石川県の家臣達が支えたと聞きます。
確かに京都の貴族系の華族の場合はお世話してた使用人達が公務員だったからGHQの命令で霧散したそうですね。
ただの人になった宮さまも仕事をしなくてはならなくなった。
自転車に乗って通勤する某宮さまの映像を見たことがあります。
>人間の社会のシンはひょっとすると大いなる虚構でできているかもしれず、>人間の精神がもっとも昂揚するものは虚構であるかもしれない。
大いなる虚構でも、封建時代に培った「心」が埋まっていますから、
揺るがない尊敬とか敬愛とか残りましたよ。
東京の殿様が困っているなら家臣げ助けようって。
ここのところが江戸時代の武家の子孫の人間関係と
京都出身の貴族系華族の人間関係の違いなのかなと思います。
京都系の方は確かに虚構の人間関係だったんでしょうね。
旧加賀藩士の子孫の友人は前田利家夫妻を頭が悪いなんて言いますが
260数年食べさせてもらっていたのですから
彼が存在しているのも前田利家夫妻の御蔭。
悪口言いつつも。
日本人ってホント凄い民族だと思います。
[18] | アカコッコさんからのコメント(2007年11月17日 10時43分05秒 ) | パスワード |
>おいなる虚構でも、封建時代に培った「心」が埋まっていますから、
>揺るがない尊敬とか敬愛とか残りましたよ。
>東京の殿様が困っているなら家臣が助けようって。
そうですね。三段目のところがチョット違いますが(ハンタイ・・・笑)。
私なんかカラダの芯まで染み付いております。
>ここのところが江戸時代の武家の子孫の人間関係と
>京都出身の貴族系華族の人間関係の違いなのかなと思います
渡辺三男氏が「家系尊重の日本歴史」の中でも公卿と大名の維新後の争いについての記述があります。
明治二年にこれまで公家(公卿)・諸侯(大名)の称を廃止して、すべて華族と称することとし、全華族は、家族とともに東京へ移住することを命ぜられた。
祖父伝来の郷土に居据わることを許さなかった。
薩摩藩主のように、容易に肯せず、岩倉・大久保がわざわざ説得に下ったという例もある。
公卿華族は、大名華族を槍一筋からの成り上がりと軽んじ、大名華族は、公卿華族を門地のみ鼻にかけて貧寒にふるえと蔑み、ともすれば融和に欠けるのを、新政府はいたく憂えて、華族の族称のもとに、同族意識の高揚を、強く期待した。
朝廷においても、あらゆる機会をとらえて、融和に腐心された。
それにより明治七年華族集会所、後の『華族会館』、九年には、『華族類別録』編纂の命令が下された。その目的は、「通達」に付せられた「別紙」に
故旧ヲ忘レズ、同姓相親ミ同族相助ケ、各自前途ノ方向ヲ定メ、遠クハ祖先ノ遺業ヲ墜サズ、近クハ更始ノ鴻業ヲ賛成致ス可キ事
とあるによって、明らかである。
司馬遼太郎氏はそうゆう環境に育っていなかったので、独特の歴史観があるみたいですね。
[19] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年11月17日 13時46分56秒 ) | パスワード |
>薩摩藩主のように、容易に肯せず、岩倉・大久保がわざわざ説得に下ったという例もある。
そう言えば薩摩の殿様は御自分が将軍になるとお思いだったのに、そうではなかった。
それでこのシーンに「一蔵、えろうなったな」と嫌味を言ったという台詞がありましたが
なるほど、それで大久保利通は薩摩に行ったのですか。
どうしてか分りませんでした。
大久保利通のお里帰りに主君に挨拶に行ったのかと思ってました。
久光さんも自分が東京に行くなら江戸城に住むものと思ってたんでしょうね。
>公卿華族は、大名華族を槍一筋からの成り上がりと軽んじ、
>大名華族は、公卿華族を門地のみ鼻にかけて貧寒にふるえと蔑み、
>ともすれば融和に欠ける
この世界についてはロスでしっかり覗きました。
でもロスでは大名系の方達は「サスガ!」でございましたよ。
経済力が!今でも!!
ロスには渡米して成功して豊かになった日本人もいますけど
そういう人に「資金」はあっても
大名系のヒトが持っている「有形無形の資産」は
「別の次元のお話なんだ」というのを実感しました。
「家名における歴史の重み」でございましょうね。
>司馬遼太郎氏はそうゆう環境に育っていなかったので、独特の歴史観があるみたいですね。
お時間ございましたら、お教えくださいね。
司馬遼太郎は関西の出身でしたっけ?
わたくしの古代についての思い方はこの司馬遼太郎に影響されております。
笑
[20] | 箱柳永田さんからのコメント(2007年11月28日 18時35分03秒 ) | パスワード |
暇様へ
>司馬遼太郎は関西の出身でしたっけ?
>司馬遼太郎氏はそうゆう環境に育っていなかった
生まれ育ちは大阪です、祖父の代に百姓を辞めて
播州から引っ越してきたと何かの本で見た記憶があります
播州農民の憧れ
<三木>を名乗れない(名乗らない?)が育ちに影響しているか
と 即挫折馬鹿の永田は推察します
[21] | アカコッコさんからのコメント(2007年11月29日 11時30分14秒 ) | パスワード |
箱柳永田さん、同じスレで久々の遭遇ですね。
<三木>を名乗れない(名乗らない?)が育ちに影響しているかと・・・
どうしてそうゆう発想になるのか、理解できかねますが。
もっと同氏の本を沢山お読みになれば奥が深いと思いますが。
司馬遼太郎のペンネームは歴史家の司馬遷に遼(はるか)に及ばずの意味でして、第2次世界大戦に於ける日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からも伺えますね。
[22] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月02日 11時37分38秒 ) | パスワード |
司馬遼太郎氏の短編のノンフィクションしか読んでおりませんが。
その中に色々と氏の考え方や興味ある事柄が随所に書かれております。
[14]の『余話として』(文春文庫)の中にも興味深い題名が。
『太平記とその影響』より
「私はイデオロギーというものを、たとえば体質的に酒を好まないという程度の意味においてそれを好まないが、ところが太平記には酒臭がにおっている。大胆にいえばイデオロギーの書であるといえるかもしれない。
すくなくとも「平家物語」や「源平盛衰記」にくらべてきわだって太平記を特徴づけるものは、宋学の影響である。太平記において宋学の影響があるかないかということについては、かって多少論議された。証拠がないともいわれたが、これはやや愚論というべく、証拠といえば太平記そのものが証拠なのである。さらに太平記に登場する最も重要な人物は後醍醐天皇だが、この後醍醐が宋学の書を読んだどうかということについても専門家の世界に議論が多い。証拠がないといわれる。しかしながら、これは慎重でありすぎる考え方であろう。
後醍醐天皇の行動、生涯そのものが宋学イデオロギー(大義名分論・正閏論)でつらぬかれており、これまたそれそのものが根拠なのである。
南宋はほろんだ。そのおびただしい議論と学説だけがのこされた。それらが、東シナ海の季節風に乗って日本に伝来した。
日本がこのために、南北朝時代という、日本史上最初のイデオロギー時代を迎える。 つづく・・・
[23] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月03日 11時07分14秒 ) | パスワード |
前につづく
「南北朝時代」というこの六十年ばかりの時代が、太平記があつかっている時間的舞台である。途中、北条氏がたおれ、建武ノ中興が成立し、すぐさま倒れて、武士たちのあたらしい調整権力として、足利尊氏が時代に押しあげられて勢力を得、ついに天下をとり、北条氏がたてた北朝の擁立をつづける。むろん、その皇統はこんにちまでつづいている。
水戸学以前においては、山崎闇斎が「倭鏡」(やまとかがみ)をあらわすことによって南朝を「正」としたことが最初の権威であったろう。
水戸学の大日本史はそれを採り、在野では頼山陽が「日本外史」において南朝正統論をとって、南朝護持のために身命をささげた楠木正成を思想上の英雄としてとりあげ、これが覇者である徳川氏の武権をたおそうとする幕末の志士たちに測りがたいほどに深刻な影響をあたえた。
頼山陽の「日本外史」の南北朝時代の項の記述は太平記をもって下敷きとしているから、直接にも間接にも太平記の影響として評価してもいい。
このイデオロギーがいわば明治政権を設立させたため、すでにイデオロギーとしての政治的生命がおわってしまっているかにみえた。 続く・・・
[24] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月04日 07時40分37秒 ) | パスワード |
一方、北朝正統論という歴史的現実論者も多かった。
北朝を正統とするならば楠木正成は賊になるのではないか。
それでいいのか。
この正成を賊にしてしまっては維新否定になるわけであり、同時に維新後廟堂にのぼった志士あがりの高官も「正成をかついだ」という点で賊になるという論理もなりたつ。
明治四十四年にこの問題が政界を震撼させている。大阪出身の代議士が「政府は北朝を正統としているのか」という旨の質問を突如発した。
ついに桂内閣は屈し、天皇の系譜から北朝数代の天皇を天皇の籍から抹殺し、明治天皇をもって、第百二十一代の天皇とすることを公表した。
そのイデオロギーが去ってしまったこんにち、この程度の観念論が内閣をふるえあがらせたということはうそのような感じがするが、イデオロギーというものは本来そういうもので、イデオロギーによる諸現象というのは、その時代が去ってしまえばまるでうそのような白昼夢になってしまう。続く・・・
[25] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月04日 10時38分04秒 ) | パスワード |
その「南朝正統論」を最初にかかげたのは、後醍醐天皇の側近だった北畠親房の「神皇正統記」をのぞけば、この「太平記」が最初なのである。
この書が、そのこころよいリズムのなかで思想をそれとなく包みこみつつ成立後五百年にわたって庶民である太平記読みがこれを語り、庶民の耳へ入れ続けて行ったことをおもうと、文学書である以前に、歴史をもっともつよくうごかした戦慄的な書物として評価せざるをえない。
:感想:本文は文庫版で16ページあり、全部を掲載は出来ないのが残念ですが、南朝・北朝などの流れが順序たって書かれており、あまり「太平記」について深く考えたことのなく、また読んでも良く理解出来なかった私にとっては司馬遼太郎氏の文章で目からウロコの落ちる思いです。
[27] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月04日 11時23分46秒 ) | パスワード |
アカコッコさん
ありがとうございました。(ぺこり)
なるほどねえ。
「南朝方」
という位置付け。
わたくしがこだわるはずだと思いました。
笑
第二次大戦中の日本兵は「足利の出身」というだけで殴られたと聞いています。
もし「楠木姓」とか「吉野の出」でしたら良い待遇を受けたのでしょうね。
笑
明治政府も大変な矛盾を抱えていたんですねえ。笑
わたくしには「徳川家=新田の出身=南朝方」で
明治政府は徳川家を否定するのに「浪合記」は絶対的に認められなかった
ということですね。
ムカシは力があればそれだけ子供をたくさん残しますから
新田義貞にも男子は記録されないのも結構いたと思います。
明治政府は
「そんな新田の男子は存在しなかった。よって徳川が新田の子孫を標榜するのは」
と否定しまくったんでしょうね。
徳川時代には堂々と否定したんでしょうかねえ?
当時それをやってたというのが学校の授業で習うぐらいの価値を持つ否定なら
ちょっとは明治政府の「浪合記否定」を評価しますが
聞いてないぞ!笑
明治時代になって徳川家を否定するというのは、余りにも人間が小さい。
この出自の問題って、他人のを否定したら、自分だって危ないですよね。笑
素性の正しさなんて言い出したら
日本には古代から平安時代から鎌倉時代から
いくらでもそういうリッパな家がありましょう。
そういう家に比べたら藪蛇になってしまいます。
明治の元勲達なんて殆どが身分の低い出身で、それこそ、他人の家の悪口を言えるレベルじゃないですからね。
なるほど「うちは南朝方だった」という誇りが今でも生きているんだあ
と日本人を実感しましたよ。笑
素直に自分のアイデンティティに満足しました。
笑
[28] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月09日 13時28分21秒 ) | パスワード |
>なるほど「うちは南朝方だった」という誇りが今でも生きているんだあ
と日本人を実感しましたよ。笑
>素直に自分のアイデンティティに満足しました。
同感者がおりまして安心しました。
司馬遼太郎『余話として』の中から
「日本的権力について」より
日本史上の代表的権力というべき徳川権力というものは、どういうものでしょう。
徳川政権は絶対的権力よりもむしろ調整的性格のもので、三百諸侯の上に乗っかった盟主でありという存在であったようです。
三百諸侯のうち譜代大名群は将軍家の与党でしたが、外様大名群は、無言の野党ともいうべき存在でした。家康は関ヶ原の勝利によって天下をとったのですが、このときに協力した野党大名に対し、とくに准譜代の待遇にし、譜代大名に準ずべきものとしました。
准譜代に期待した徳川家への絶対的忠誠というのは、具体的にいえば野党―無言の批判勢力としての外様大名―への監視でありました。長州の毛利家と薩摩の島津家であります。
九州の熊本に准譜代の細川家を置き、天下の巨城である熊本城をまもらせたのは島津への防ぎのためであることはいうまでもありません。その防ぎの装置をいかに巧妙にいかに丹念にやったかをのべますと、細川一手では心もとないと思い、福岡の黒田氏をも准譜代にし、第二戦に配置しました。
しかもその軍事指揮権はこの二つの大藩にもたせず、純粋与党(譜代)である小倉十五万石の小笠原家にその名誉と権威をもたせ、九州探題としてのそれを世襲させました。
それでもなお島津氏がそれらを跳ねかえして山陽道へ兵をすすめた場合をかんがえ、そのときのおさえとして備前岡山と因州鳥取の両池田氏(石高は両家および支藩をあわせて九十一万石)という准譜代をしてそれらを防がせしめるべく配置してあります。
島津・毛利といった野党がなおそれを撃破して京へのぼった場合、伊勢の津に置いてある准譜代の藤堂氏に立ち上がらせて京を防がせしめる。
その間、四国などがさわがないよう、准譜代山内氏に土佐一国をあたえて徳川家のために与党活動をせしめるべく義務づけてあります。
以上が徳川家の毛利・島津対策の骨子であり、准譜代の家々はその防衛上の義務を代々世襲して幕末にいたっています。
幕末、右の准譜代の諸藩―たとえば福岡藩、熊本藩―が、本来野党たるべき批判勢力としての行動をとらず、終始親幕方針をとったために維新に乗り遅れてしまったのは、右のような義務が、大名としての成立条件の基礎にあったからで、当然なことといえます。 続く・・・
:上記のような事は世間一般に言われておることで、特に目新しいことではありませんが、同氏はさらに鎌倉幕府の武士についても、言及しており、歴史学者というより、新聞記者上がりの目、考察力で展開されております。
[29] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月10日 09時26分02秒 ) | パスワード |
>四国などがさわがないよう、
>准譜代山内氏に土佐一国をあたえて徳川家のために与党活動をせしめるべく義務づけてあります。
これは「功名が辻」で知りました。
徳川幕府というのは布石をしっかり打ってると驚きました。
だから260余年間、安泰だったんでしょうね。
野党が野党として機能して出来ないという日本人の意識は江戸時代に培われたんでしょうね。
笑
先週「司馬遼太郎と城を歩く」が熊本城についてでした。
井戸だけでものすごい数が掘ってあって
これは秀吉の朝鮮出兵で清正がウルサンの戦いで篭城した時に水に困ったから
と言ってました。
それから城郭に沿っての壁の中が武器庫になっていて
細川家も清正の城を受け継いで清正の考えを明治維新まで守ったから
だから西南の役で篭城できたんだ
というお話でした。
>徳川政権は絶対的権力よりもむしろ調整的性格のもので、
>三百諸侯の上に乗っかった盟主であり
>という存在であったようです。
いろいろな家に松平姓を与えたり
姫を嫁がせたり
親戚関係という形をとりましたしね。
>幕末、右の准譜代の諸藩―たとえば福岡藩、熊本藩―が、本来野党たるべき批判勢力としての行動をとらず、
終始親幕方針をとったために維新に乗り遅れてしまったのは、
右のような義務が、大名としての成立条件の基礎にあったからで、
当然なことといえます。
みんな徳川将軍家を頂点として関係が縦横に繋がってましたしね。
やっぱりワタクシも堂々と「源氏だった」って言おうかしら。
笑
源平藤橘その他
源氏だ平氏だという線引きなんて出来ませんものね。
その上、徳川幕府に仕えてましたから、
やっぱり
日本人って諸侯だけでなく家来達も血や姓や禄で繋がって雁字搦めだし。
こうやって日本人って纏まって来たんだと思いますね。
そして日本人のメンタリティが出来上がったわけですし。知的レベルも。
そういう徳川幕府の努力があったからこそ
明治政府も日本人を纏めたり雁字搦めにし易かったでしょうね。
[30] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月10日 11時46分08秒 ) | パスワード |
>やっぱりワタクシも堂々と「源氏だった」って言おうかしら。笑
いっそうのこと源氏と平氏のハーフですと(笑)。
私は東京と富山のハーフですので。
暇なのでグーグルで検索して遊んでいましたところ、以前「華陽院殿」について調べていた時、その時点までの調べた事柄を小冊子としてまとめ、関心ある方に差し上げていたことがありました。
がなんとナント古書店市場に2500円の売値がついて(コリャ詐欺だぞ)。
想像するに、差し上げた人が価値がないので、ゴミとして捨ててしまったものを、回収業者が拾いあげ、古本屋さんにもっていって、本屋が値段を付けたかな。
有難いのか、悲しいやら、書いた本人が飽きれています、
グニも付かない事が書き並べてあるだけ、2500円の価値がない、本人が言うのですから間違いない(笑)。
平安末期に関東で結束した武士というのは、開墾地主のことです。そういうものであって、他にヤヤコシイ想念をくっつける必要はない。
律令体制では、アッサリいえば土地は公有でした。
かたちだけでいえば、社会主義体制に似ています。ただし本質は奴隷制とも見られなくはありません。
天皇家と少数の公家貴族、それに僧侶を不労所得者とし、効率よく収奪するために土地を公有にし、人民をオオミタカラという働く機械にしたという点で、そういうことになりましょう。
ところが日本は律令制の落第生ですから、土地公有の面でも落第している。
律令制において私有をみとめるという場合、いろいろ特例がもうけられていたのですが、この特例が常態のようになった。荘園の発生というのは、それであります。
つづく・・・
[31] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月10日 23時28分56秒 ) | パスワード |
>いっそうのこと源氏と平氏のハーフですと(笑)。
あ、いいですね。
笑
>ナント古書店市場に2500円の売値がついて(コリャ詐欺だぞ)。
そうすると5000円前後で売れる本をお書きだった!ということに?
笑
スゴイじゃないですか。
御名刺の肩書きには「作家」もお刷りになっては?
笑
思わぬ所で御先祖さまの御威光が燦然でございますね。
御先祖様供養になりましたね〜
(にっこり)
これで将来極楽でお会いする御先祖さまに顔向けできますね。
>日本は律令制の落第生ですから、土地公有の面でも落第している。
そうなんですよね。
落第生でラッキーでした。
儒教でも日本では「儒学」として学問で終わりましたからラッキー。
あやうく半島の二の舞になるところでした。
理想と現実の違いが分るというのは日本人の強みだったんでしょうね。
土地私有を認めて欲しいと先祖達は大変な努力をしたんでしょうね。
我が家の裏庭に砂漠風枯山水を作りましたが、なんか、おかしい。
それで色々変えましたが
乾いた土に穴を1cm空ける苦労というのを身にしみて感じました。
その時に先祖達がどのような思いで土地を開墾したか
それを守るために血と涙をどれほど流したか
そういうことを実感しました。
植えて3年の樹齢7歳のユーカリの根を掘り起こした時
ウインチを使っても大変な作業でした。
当時はウインチなんてありませんからどんなに大変だったか。
「そうか、こういう思いの末に、今、自分が存在しているのか」と先祖に感謝しましたよ。
[32] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月13日 07時52分12秒 ) | パスワード |
>そうなんですよね。
>落第生でラッキーでした。
>儒教でも日本では「儒学」として学問で終わりましたからラッキー。
日本の現代にうまれててよかった。
だけど親父が土地の百坪でも買っといてくれていたらなぁ(笑)
つづき
「儒教的文治主義をたてまえとした官僚的中央集権制度ですが、その目的は帝権の絶対的専制化にあります。日本は大化改新ごろから奈良期にかけて、ともかく帝権を絶対的なものにしたく、この制度を輸入することによって他の類似勢力―土着勢力―をつぶし、つぶすというこの作業を正当化したのです。つぶすという作業を実際に推進したのは藤原氏でした。
藤原氏は在来の天皇家類似の土着勢力の出身ではなく、単に天皇家側近だっただけの存在であったのですが、この潰し作業を通じて勢力が巨大になりました。藤原氏権力というのは要するに側近権力として出発したのです。
この藤原氏が、権力の機能を天皇と分けあいました。簡単に言いきってしまえば、律令制天皇は、そのモデルである中国の皇帝制のような絶対的専制権をもつことができず、象徴者もしくは祭祀者としての神聖をえただけで、実際の政権は藤原氏がとりました。つまり二重構造であります。
さらに日本は律令制の極端な落第生であったことは、律令制の基本の一つである官吏登用の方法としての試験制度を藤原氏がアイマイにしてしまったことです。
皇帝直裁の試験にさえ合格すれば、皇帝の官吏として宰相にまでのぼれるということは律令制の導入者であった藤原氏みずからが否定し、朝廷の要職は藤原氏の血族によってにぎられ、権力は血脈相続になり、その血脈相続もしだいに複雑になり 中略・
韓国の例をひきます。この国はずっと律令体制で、とくに李朝五百年は模範的な中国体制であったことはすでにのべました。ですから、「天が公有であるがごとく土地も公有だ」と思ってずっとやってきました。自分の田ンボを登記したりしません。「山ふもとの田は、李さんが耕している田だ」というだけで、ずっときていました。そういうところへ、あの悪名高い日韓合併がおこなわれたのです。
日本人がやってきて人のいい韓国人から土地をとりあげたというのは、悪い日本人が役場へ行って勝手に登記して「サッここはおれの土地だ。
文句があるなら裁判所へ行こう」と大声をあげることであります。いかに争って泣いても、裁判所の決定には勝てない。
要するに韓国は日韓合併まではそのような土地の観念でやってきました。
日本の奈良・平安期のようなものであります。 つづく・・・
[33] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月13日 08時37分21秒 ) | パスワード |
今日は朝から雨なので、散歩にもいけず(涙)
つづき
土地公有制でありながら、「自分で開墾した土地は、永久私有をみとめる」という法律が出たのは、天平十五年(743)だといいますから、早くから公有制の一角がくずれていたのです。
力のつよい一族がせっせと荒地をひらいて自分の私有にしましたが、ただ私有にすると、ずいぶん租税をとられます。その租税をとられないヌケミチは、京の公家や寺院に寄進する形式をとることであります。
たとえば関東の開墾地主が、開墾した自分の田を、京のフジワラナニガシに寄進してその貴族に「領家」になってもらう。その貴族になにがしかに米をもってゆけば、租税がたすかり、あとは地主の自由になる。脱税であります。
平安中期ごろから、関東平野の灌漑がすすみ、墾田がどんどんできて、地主がふえてきましたいわゆる武士の発生であります。関東にそういう者がひしめいていました。
ところが、土地公有制度下におけるかれらの土地私有権はじつに不安なもので、ヌケミチの上に立っている。
自分で開墾した土地であるのに、京の公家を所有上の名義人にしなければ私有できない。つねに法の前でおびえざるをえず、それに、不労所得者の存在に対しても腹が立ち、腹が立つ以上に不安であります。
そういう私有権についての不安や矛盾もしくは基底になっている欲望が鬱積して、ついに関東独立運動ともいうべきいきおいで沸騰したのが、源頼朝の挙兵です。
つづく・・・
[34] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月13日 12時09分30秒 ) | パスワード |
韓国とは全く違うのですが
アメリカの成り立ちも日韓関係に似ていると思います。
アメリカの原住民は土地の登記という観念はなく
白人が入って来て登録して法的には白人の個人私有になりました。
>関東の開墾地主が、開墾した自分の田を、京のフジワラナニガシに寄進してその貴族に「領家」になってもらう。
>その貴族になにがしかに米をもってゆけば、租税がたすかり、あとは地主の自由になる。
>脱税であります。
笑いました。
ここに日本人の民族性があるのかもですね。
>私有権についての不安や矛盾もしくは基底になっている欲望が鬱積して、
>ついに関東独立運動ともいうべきいきおいで沸騰したのが、源頼朝の挙兵です。
あ、すごい!
頼朝の挙兵に繋がりましたか。
そういう不満や不安があって、坂東の武士は頼朝に従った、ということでしたか。
そうしますと平家はやはり「古い」んですねえ。
[35] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月13日 15時11分38秒 ) | パスワード |
>頼朝の挙兵に繋がりましたか。
ハイーやっと繋がりました。
頼朝の挙兵は民族の大いなるロマンのひとつとして伝承されてきましたし、むろんロマンとして伝承してさしつかえはないでしょうが、実情はもっと苛烈な欲望の表現であります。
「自分はその欲望によって推された>ということを最も良く知っていたのは頼朝自身であったでしょう。頼朝というのは、できすぎるほどに現実認識のできた人物でありました。
関東の地主勢は、結束して律令体制に反抗したかったのですが、しかしそれでもなお結束するだけの自信がなかったのは、自分たちが百姓にすぎないというひけめがあったからです。
かれらは律令的権威である京都貴族を、腹が立ちながらも必要悪としての権威として認めておりました。
関東の伊豆の蛭ヶ小島という湿田地帯に流されてきていた頼朝というのは、少年の頃に「従五位下右兵衛佐」という官位をもっていたことが、この関東的状況のなかで大きな価値でありました。
かれをかついだのは、地主勢力のなかでも大なる一つとして数えてもいい伊豆の北条氏でした。
北条時政の娘政子が頼朝に通じていたために、時政はいわば舅でありました。
朝は兵をもたない「京のカケラ」にすぎないために、兵は時政とその同調者が出しました。頼朝が石橋山でやぶれたあと、安房へ走るのですが、この流人兼敗残者のもとにみるみる兵があつまってきて日本最大の軍団をつくりあげるのは、右のような事情があったからです。
つづく・・・
[36] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月15日 11時35分08秒 ) | パスワード |
つづき
やがて、変形的な律令政権である平氏をほろぼしてしまいます。
その間、京のカケラである頼朝は一度も京にのぼらない。かれは自分を成立させている関東地主団が、頼朝に対して危険を感じているということを知りぬいていたからです。
京にのぼれば頼朝は平氏のように律令的権威にとりつかれて公卿になり、関東の地主団の欲望と要求を見すてるのではないか、というのが関東地主団のたえざる疑惑でした。
頼朝は天下でおそれつづけたのはこの足元からの疑惑です。
平氏征伐司令官である弟の義経が京都の律令勢力のとりこになったのを見てしつこく追求し、ついに弁明もきかずに殺してしまったというのは、すこしでも関東地主団から疑われることを避けたかったからでした。「頼朝は猜疑心つよし」という性格論に帰納されるべき問題ではないのです。
頼朝の存立の危機にかかわることで、頼朝は関東地主団からほうりだされれば、樹から落ちたただのサルになるわけで、その苛烈な事情を知りもせず知ってやろうともしない義経こそ、頼朝のもっとものろうべき存在だったでしょう。「平家物語」の作者でさえ、そのことに気づいてたのかどうか、すくなくともその記述からみれば気づいていなかった様子です。
ともかく義経の悲劇などはとるにたりないことであります。
頼朝権力のもつ宿命的な悲痛さのほうがすさまじい感じがします。
つづく・・・
[37] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月16日 11時06分15秒 ) | パスワード |
以下、背筋がゾクゾクします。
>京にのぼれば頼朝は平氏のように律令的権威にとりつかれて公卿になり、
>関東の地主団の欲望と要求を見すてるのではないか、
>というのが関東地主団のたえざる疑惑でした。
>頼朝は天下でおそれつづけたのはこの足元からの疑惑です。
>平氏征伐司令官である弟の義経が京都の律令勢力のとりこになったのを見てしつこく追求し、
>ついに弁明もきかずに殺してしまったというのは、
>すこしでも関東地主団から疑われることを避けたかったからでした。
>「頼朝は猜疑心つよし」という性格論に帰納されるべき問題ではないのです。
>ともかく義経の悲劇などはとるにたりないことであります。
>頼朝権力のもつ宿命的な悲痛さのほうがすさまじい感じがします。
すごいですね。
>すこしでも「関東地主団」から疑われることを避けたかったからでした
「関東地主団」
これは良い表現ですね。
自分達の土地の権利を代表してくれる人が頼朝。
この人達の信頼を失っては自分の存在理由が吹き飛びますから義経には困ったでしょうね。
義経を許しては平家の二の舞ですものね。
スゴイ書き込みをありがとうございます。
楽しみにしております。
[38] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月16日 11時23分29秒 ) | パスワード |
もう唸ってしまいました。
やっぱり源頼朝(とか徳川家康という人物)はスゴイですね。
共通点があまりにも多いですね。
歴史を学ぶと自分がどう生きたら良いのか参考になりますね。
逆境も逆手に取れるし。
最近何かで見たのですが
成功するには「信頼」と「現状を判断して先を見る力」が必要だ、って。
先日見た「司馬遼太郎と城を歩く」丸亀編で
坂本竜馬に「剣道なんていくら強くても、しょせん、その程度だ」と言わせているのですが
義経の悲劇に通じるなあ、と思いました。
司馬遼太郎ってスゴイですね。
[39] | アカコッコさんからのコメント(2007年12月22日 07時49分13秒 ) | パスワード |
>やっぱり源頼朝(とか徳川家康という人物)はスゴイですね。
>共通点があまりにも多いですね。
>歴史を学ぶと自分がどう生きたら良いのか参考になりますね。
>逆境も逆手に取れるし。
>司馬遼太郎ってスゴイですね
そうですね。歴史学者はいろいろ立場や地位の制約があって本音を書けないが、同氏は新聞記者で鍛え上げた目で歴史の本質・社会の本質などを鋭い文章で書いてあります。
また伊賀忍者についても短編小説を書かれておりますね。
つづき
鎌倉権力は、すべての日本の権力がそうであるように、頼朝と北条氏の二重装置になっていました。頼朝が死ぬと、北条氏が実権をにぎります。
頼朝が死に、その長子頼家が二代将軍になると、頼家があまりに賢すぎるということで、その専断権をうばわれたということをみても、いかにも日本的権力の原則的な姿であります。
そしてつねに二重構造であることです。ひろくみれば鎌倉体制は守護・地頭などを全国に置くことによって全国支配を確立したようにもみえますが、半面、京都の律令的権力をのこし、たがいに批判勢力として一つの地面の上に噛みあいつつ、二重装置の上で日本的安定を見出しています。
後年、後醍醐天皇という人が出現し、中国の皇帝のような専制権を確立しようとして謀判(当時の言葉)をくわだて、ついに鎌倉の北条武家政権をたおしましたが、後醍醐体制というこの専制体制はまったく人気がなく、足利尊氏によってたおされ、ふたたび日本は二重装置にもどっています。
足利権力は与党、京都の公家勢力は体制内の野党として温存されました。
足利権力は、いっそ京都の公家勢力を一掃してしまえばよさそうなものですが、それをしようとしなかったのは、権力が一枚っきりになるのを本能的におそれたのです。
日本人の独裁ぎらいということは、こういうあたりの機微をみても察することができるのでしょう。
『余話として』(文春文庫)より。
良い勉強になりにました、司馬遼太郎氏に感謝いたします。おわり
[40] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月23日 09時10分59秒 ) | パスワード |
>おわり
ありがとうございました。
お疲れさまでございました。
>後醍醐体制というこの専制体制はまったく人気がなく、足利尊氏によってたおされ、
>ふたたび日本は二重装置にもどっています。
結局日本人というのは二重構造(ホンネとタテマエ、ハレとケ)の民族ということなんですねえ。
>足利権力は、いっそ京都の公家勢力を一掃してしまえばよさそうなものですが、
>それをしようとしなかったのは、権力が一枚っきりになるのを本能的におそれたのです。
談合でも日本社会には必要悪だって言われてますから
二重構造の方が日本という国は安定を保てるんでしょうねえ。
これが日本の成り立ちなんですね。驚
本当にありがとうございました。
[41] | ジョン・カモンさんからのコメント(2011年03月05日 21時01分32秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年05月13日 11時03分36秒
[42] | アカココッコさんからのコメント(2011年03月07日 08時20分28秒 ) | パスワード |
ジョン・カモンさま、はじめまして。以前(2007年)のレスなので、久しぶりに最初から読み直し、あの頃は精力的に活動していたな〜と、懐かしく振り返りました。
菅沼様の件は先様の事もあり、当方の一存では出来ません。
菅沼家のことなどは、寛政重修諸家譜に書かれており、同書によれば、前述菅沼家の家紋は關抜・一重桔梗です。
どこか家紋のサイトで貴殿のお名前を見かけ、家紋は三つ釘抜きとありましたが、ジョン・カモンさんがお探しの菅沼家とは違うみたいですね。
天明由緒(てんめいゆいしょ)とは、伊勢の桑名藩が1722年(享保7年)に作成した家臣団の由緒書「享保由緒」に続き、1781年(天明元年)に号令して実施した由緒である。
天明由緒は九巻から成り立ち、桑名藩士460余名の由緒がつづられている。服部・菅沼家等も。
現在、桑名市立中央図書館の「郷土の蔵」に原本があり、閲覧が可能である。
以前にもご紹介しましたが。[桑名中央図書館「郷土の蔵」:デジタル化資料]
http://kcl.kuwana-library.jp/digital.html
[43] | ジョン・カモンさんからのコメント(2011年03月12日 06時15分48秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年05月13日 09時25分24秒
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