[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 05時47分48秒 ) | パスワード |
治承3年(1179年)清盛には「経済的」な打撃があったという面から書いてみます:
6月17日
清盛の娘の盛子24才にて死去。
法皇は直ちに盛子の荘園を没収。
この事件は清盛のクーデターの最大の原因の1つとして定説になっていると思います。
(もともとは盛子が11歳の時に夫の藤原基実が死去し
基実の子の基通(7歳)の養育のためという理由で
日本最大の荘園である摂関家領の大半を盛子が貰ったけど
これは「平家の横領事件」でもあったので
ドッチもドッチという事件だと思いますけどね)
7月29日
清盛の嫡男重盛が42歳で病死。
法皇は重盛の知行国であった越前国を没収。
これも清盛のクーデターの最大の理由の1つ。
ということで清盛には経済上、激怒の理由がいくつかあった。
それで11月14日、福原から軍勢を率いて自ら上洛し翌15日にクーデターを決行。
この時には清盛を諌めることの出来る唯一の重盛が死んでますから
誰も清盛を止められなかった
ということですね。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 05時59分01秒 ) | パスワード |
高倉天皇は当時はまだ18歳ですからね。
18歳の子供に何が出来たか?
片や凄い性格の実父後白河法皇
片や同じく凄い性格の岳父の清盛。
この2人が喧嘩してるんですからね。
高倉天皇の母は清盛の妻時子とは姉妹関係。
だから高倉天皇にとっては(もういいかげんにしてくれよ)でしたでしょう。
妻は清盛の娘徳子ですしね。
高倉天皇はそれこそ実家と婚家の間に立ってオロオロウロウロしてる典型的な日本の男でしょう。
年齢はまだ10代ですからね。
「なら、言仁を天皇にしたら?俺は知らん!好きにしろ!」
だったんじゃないかしら。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 06時45分03秒 ) | パスワード |
「軍事的」な側面から答えます:
>ほんの数日の間にクーデターを成功させてしまいますが、なぜそれが可能だったのでしょうか?
答え:法皇側には対抗出来る武力が無かったから。
北面の武士なんて飾りだし
平家に対抗出来る武家は存在してなかったから。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 06時52分33秒 ) | パスワード |
>高倉天皇の力はどのようにはたらいていたのでしょうか?
高倉天皇が天皇になれたのはヒトエに清盛の力。
その清盛の味方になるより他に自分の存在は守れなかったと思いますよ。
後白河法皇には分かってるだけで17人お子さまがいらっしゃって
その内6人が女子。
78代になった二条天皇、(そのお子さまの)79代になった孫の六条天皇
そこへ高倉さんが80代の天皇になりました。
これはヒトエに清盛のバックアップの御蔭。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 06時59分16秒 ) | パスワード |
>また清盛に味方をしたのなら、そのように高倉帝が動いた動機について教えてください。
高倉天皇が清盛に味方したというなら
徳子との間に安徳天皇をもうけたぐらいでしょう。
高倉天皇は清盛にとって都合の良い婿だっただけの存在で
実際は清盛にとって腹の立つ婿だったと思いますよ。
なんせ高倉天皇には分かっているだけで7人子供がいるんです。
男の子が4人。
小督が妊娠した時は清盛はオロオロしたと思いますよ。
それにこの小督は清盛にとって自分の婿を2人まで手玉にとった憎い女だったでしょうし。
ま、生まれたのが女で清盛は安堵したでしょう。
>また清盛に味方をしたのなら、そのように高倉帝が動いた動機について教えてください。
清盛に味方せざるを得ず
いつ自分は清盛に出家させられるか譲位させられるか
高倉天皇の本心は疑心暗鬼で一杯だったんじゃないかしら?
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 09時27分49秒 ) | パスワード |
政治的な理由からでは
鹿ケ谷事件など
清盛には後白河法皇が蔭日向でやってる陰謀が許せなかったと思います。
だから「機会」を狙っていた。
そこへ自分の娘や息子の荘園が没収されるという大事件が勃発したのですから
好機到来!
行動に移した
と思います。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 09時39分25秒 ) | パスワード |
後白河法皇の人間性の悪どさから:
天皇になる前は遊び人で問題児で
天皇になってからは陰謀好き。鹿ケ谷事件を起こしたり平家を利用し木曽義仲を利用し源義経を利用してはポイ捨て。
そういう後白河法皇の性格の悪さが
清盛には分かっていたから
後白河法皇を自分の生きている間に何とかしておかなきゃいけないという必要性があったし
重盛に死なれて、後継者の人材に欠けたから
「自分が元気な内に早く決着をつけておかなきゃ」
というのがあったと思います。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月06日 09時56分36秒 ) | パスワード |
清盛は自分の目の黒いうちに安徳天皇を即位させ平家政権を安定化させたかった?
高倉天皇
応保元年9月3日(1161年9月23日) - 養和元年1月14日(1181年1月30日)
在位仁安3年2月19日(1168年3月30日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日)
妻たち
中宮: 平徳子 (建礼門院) 平清盛女
女院: 藤原殖子 (七条院) 坊門信隆女
妃: 藤原 (近衛)通子 近衛基実女
典侍: 藤原 (堀河)豊子 堀河頼定女
掌侍: 平範子 平義輔女
妃: 藤原公子 藤原公重女
妃: 藤原成子 (小督) 藤原成範女
子供達
功子内親王 - 斎宮
範子内親王(坊門院) - 土御門天皇准母、斎院
言仁親王(安徳天皇)
守貞親王(後高倉院、後堀河天皇実父)
惟明親王
潔子内親王 - 斎宮
尊成親王(後鳥羽天皇)
昔は子供が5歳まで育つ可能性というのは低かったので不安だったと思います。
[9] | 静さんからのコメント(2007年06月07日 01時51分45秒 ) | パスワード |
高倉帝が天皇になれたのは清盛の力だったからというのは、よくわかりました。ありがとうございます。
後白河法皇は権力への執着心がつよいので、やはり高倉帝をうとましく
思い、それを高倉帝の方も知っていたということですか。
なにか具体的な出来事ってあったのでしょうか?(詮索しすぎ?)
話はまた変わりますが、私は京都出身で六波羅蜜寺のすぐ近所に住んでいました。まわりには門脇町、池殿町と平家ゆかりの町名が残りますが、清盛の邸で
ある泉殿という名のついた所は見あたりません。三盛町というのが清盛邸のあたりのようです。なぜ三盛というのか??です。
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月07日 08時27分48秒 ) | パスワード |
>後白河法皇は権力への執着心がつよいので、
>やはり高倉帝をうとましく思い、
>それを高倉帝の方も知っていたということですか。
>なにか具体的な出来事ってあったのでしょうか?(詮索しすぎ?)
具体的な出来事というのをヒトコトで表現すれば「院政」ではないでしょうか?
高倉天皇に対しては院政で上に立ち
清盛を牽制し数々の陰謀で失脚させようと画策した。
後白河は譲位後も権力を握り独裁したかっただけ。
清盛が邪魔だった。
だから清盛をコントロールするのに高倉を天皇にした。
六条(孫ですから幼い子供だったけど)を廃位させて高倉に即位させた。
ところが清盛に力を与え
結局自分の首を絞め
日本国は清盛の支配するところとなった。
高倉天皇はどっちにしろ自分は実父にとっても岳父にとっても人形だったというのは分かってたでしょう。
18歳の子供ですよ。
高倉に出来たことは宮廷の美女達と遊ぶことだけだった。
政治に興味を持たず女に夢中だったというのは
これは後白河にとっても清盛にとっても都合が良かったと思いますよ。
ただし清盛にとって高倉が小督に引っ掛かったのは許せなかったでしょうけど。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月07日 08時31分49秒 ) | パスワード |
「池殿町」の名は平頼盛邸の通称“池殿”からついた。
「門脇町」の名は平教盛が住んでいた邸宅が六波羅の惣門の角にあったので門脇宰相と呼ばれたことからついた。
「三盛町」の名はこの地に屋敷を構えていた平家のうち、清盛・頼盛・教盛の三兄弟からついた。
らしいですね。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月07日 08時42分35秒 ) | パスワード |
三盛町と旧泉殿町についてちょっと調べてきました:
>「三盛町」の名はこの地に屋敷を構えていた平家のうち、清盛・頼盛・教盛の三兄弟からついた。
その他にhttp://mii-art-r.com/kenkyu-06923-yamazaki.html に以下のことが載ってました:
平家の屋敷配置を正確に復元することはできないが、一帯の町名に名残を留めている。平家邸宅の位置は図表8の通りである。まず多門町は六波羅邸の東に向かって開かれた惣門にちなんだ町名である。そしてその門の脇に平教盛邸の門脇殿があったとされる、門脇町がある。池殿町は清盛の継母池禅尼の邸宅を池殿にちなむ町名で、池殿はその息子頼盛に引継がれた。三盛町(旧泉殿町)は清盛の邸宅があったところで、三盛町の由来は頼盛の息子が光盛と称していたことによると考えられている。
ですって。
詳しくはURLに行って全文と地図を読んでくださいね。
[14] | 静さんからのコメント(2007年06月08日 01時40分31秒 ) | パスワード |
頼盛や息子の光盛はどちらかというと法皇に近い存在で、都落ちもしなかったんでしたね。だから地名としても残ったんでしょうかね??清盛が西八条に移ったあと、そこが光盛の邸となったとは説明されていないけれども、そういうことなのでしょうか。
それにしても六波羅蜜寺のまわりは六道珍皇寺もきれいになったし、最近は幽霊飴がずいぶん目立つ場所で派手な店構えになって、どちらもかえってうすっぺらな印象になったなと残念です。飴屋さんは以前はもっと東大路に近いところで、看板もほとんど目立たない、飴だけぽつんと売っていました。そんなにおいしいものでもないので、近所の人は買いませんでしたけどね。そういうことも含めあやしげな風情がよかったのですが。
[15] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 03時00分17秒 ) | パスワード |
>頼盛や息子の光盛はどちらかというと法皇に近い存在で、都落ちもしなかったんでしたね。だから地名としても残ったんでしょうかね??
わたくし個人としましては「三盛」というのは
正盛・忠盛・清盛の3代の三盛から来たのかなと思いましたが
なるほど、そう、きましたか。
確かに頼盛の立場は微妙で
後白河法皇の画策にも利用されたりしてたでしょうね。
頼盛も清盛の激怒を買うような事件を起こしたりしてますものね。
政治の世界は10分後にどう引っ繰り返るか自民党内でも予測がつかないそうですから
頼盛も後白河を利用していろいろ動いたのでしょうしね。
平家が滅びてからは鎌倉殿との関係から
案外清盛邸跡を貰ったといういきさつがあるかも知れませんね。
だから
>清盛が西八条に移ったあと、そこが光盛の邸となったとは説明されていないけれども、そういうことなのでしょうか。
これもあるかも知れないし
後白河から貰ったのか
鎌倉殿から貰ったのか
光盛が住んでたのかもですね。
京都の古地図でそのあたりの証拠が見つかると面白いですね。
昔、有名な人物が住んでた所が
今、随分変わってしまったというのは想いが膨らんで楽しいですね。
[16] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 03時19分38秒 ) | パスワード |
>重盛の死後、福原から上ってきた清盛は、ほんの数日の間にクーデターを成功させてしまいますが、なぜそれが可能だったのでしょうか?
後白河にしてみればイロイロ計算違いになってしまった
(後白河法皇は「策士策に溺れるタイプ」だったんでしょうね)
ということだったんでしょうね。
結局は
後白河は清盛を利用したつもりが逆に清盛に利用された
清盛の方が頭が良かった。
源氏を壊滅させたことは後白河は賢い人じゃなかったってことですね。
後に
鎌倉殿と後白河の頭脳合戦は鎌倉殿の圧倒的勝利。
∴
後白河という人物は策は弄するけれど詰めが甘いというか
ま、御自分が日本で最高の権威というのに胡坐をかいてたから
読みが甘いんでしょうね。
[17] | 静さんからのコメント(2007年06月08日 09時27分55秒 ) | パスワード |
後白河天皇はたぬきおやじですね。平家物語には、法皇が直接何らかの行動をする描写はでてきませんね。どんな状況であったか清盛が法皇に面会にうかがったとき、記述ではさりげなく、法皇は席を外されていて会えなかったとあるけれども、法皇に居留守つかわれたんだという場面もありましたね。
「平家」を読んでいると、清盛より法皇の方が、つかみきれない黒幕という存在なので、最初に質問したような疑問を漠然と感じていたという次第です。
地名ということでは、京都はどこでもさぐれば何かでてきて面白いです。
平安神宮のあたりに、「法勝寺町」というバス停がありますが、長い間私は
法勝寺という寺があるのだと思っていました。たぶん京都に住んでいる人の多くは私と同じだとおもいます。銀閣寺前・永観堂など寺の名前がついたバス停は多いですから。
[18] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 12時05分48秒 ) | パスワード |
都合が悪くなると居留守を使う。
清盛もそれをやられているし木曽義仲もやられているし平家の公達もやられているし義経もやられている
だから頼朝は京都にはおいそれとは出向かなかった。
狸オヤジと狐オヤジの化かし合いは頼朝の勝ちだった。
それは頼朝が父の無残な死から(後白河には心を許せない)と知ってたからでしょうね。
父源義朝が後白河に見捨てられたし平家の公達も見捨てられたし義仲も義経も同じ目に遭ってるから
絶対自分は後白河にはやられないぞという決意があったんでしょうね。
>清盛より法皇の方が、つかみきれない黒幕という存在
要するに後白河法皇という人は
天皇には絶対なれない順位だったから
まさか自分に皇位が転がり込むなんて思ってなかったから帝王学もやってないし
たまたま自分が天皇になれて、
天皇という権威の味を知って
どうやったら自分が権力を握り続けられるか、汲々としがみついた人なんでしょうね。
ヒトを利用するだけ利用して
都合が悪くなるとバッサリ切り捨てる。
冷酷な人だったんでしょうね。
有能なトップは適材適所で人材を配するけど
後白河という人は自分の都合だけで人を使い捨てにした人なんだろうなと思います。
要するに
天皇になるべくして生まれてきた人じゃないし、そのように育てられた人でもなかった
そういうことじゃないのかな?
この時代に3人の大人物が存在したけど
頼朝>清盛>後白河
この順番かな?
頼朝もイヤな性格してるしね。でも彼のなした功績(古代を終わらせ中世を始めた)は十分に彼の嫌な性格を超えている。
清盛の悲劇は朝廷に入り込んだところでしょうね。その分、頼朝より古かった。
後白河は本来与えられるべきではない権威を手にしてしまったために朝廷の権威を頼朝になし崩しにされた。
清盛は治承のクーデターをやったばかりに墓穴を掘ってしまった。
頼朝は漁夫の利を手にした賢い人、ってことですね。
後白河は平家が滅びて「こんなはずじゃなかったのにい〜!」と叫んだでしょうね。
あの時代、1番の損をしたのは義経と奥州藤原氏でしょうね。
最期を迎えるに当たって
「え?なんで?どうしてこんな死に方をしなきゃいけないの?」
と1番納得いかなかった人達じゃないのかな?
[19] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 12時20分16秒 ) | パスワード |
>平家物語には、法皇が直接何らかの行動をする描写はでてきませんね。
やっぱり「天皇」とか「皇室」に対する敬意から後白河の悪口はハッキリとは指摘出来ない=書けなかった=からだと思います。
日本人には天皇家があって自分が存在できるわけですから。
ま、ハッキリそうじゃない家もあるけど、
ほとんどの日本人の「家」は天皇を中心にしてるから、(天皇でなくても古代の神とか)
天皇の悪口を書く=自分に唾を吐くこと=だもの。
日本では「○○天皇はアホだった」とか「間抜けだった」とかいう話は普通しないでしょ?
後白河がどんな人物だったか、ホントのところは曖昧にしたいと思います。
[20] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 12時37分06秒 ) | パスワード |
ちょっとヨコですが
先日アメリカの元大統領のカーターさんが現大統領のブッシュさんを「最悪の大統領だ」と言ったそうで
ところがカーターさんは*民主党選出の*「最低の大統領」なんて言われている。
日本ではこういうのを「目糞鼻糞を笑う」って言うでしょ。
アメリカじゃ「おなべがやかんにお前は真っ黒けだと言う」と表現するけど。
The pot calls the kettle black.
謙虚な日本人は鼻糞を笑ったりやかんをまっ黒けだなんて言ったりしないのですよ。
ましてや日本人の心のよりどころである天皇の悪口なんて口が裂けたって言わない。
「後白河法皇は居留守を使った」
このあたりでしょうね。
そうそう80年代に今の皇太子がアメリカのディズニーランドにいらっしゃった時でも
記者仲間では「今、飯、食いに行った」なんて話してても
記事にする時は「浩宮さまは御昼食をおとりになったと書いた」
と聞きました。笑
PS
アメリカの共和党選出の最低の大統領はフォードさんと言われているのも
書いておかないと不公平ですね。
ま、ヒトの悪口というのは「言わない・聞かない」というのが最良の選択です。
あはは
[21] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 12時45分43秒 ) | パスワード |
>地名ということでは、京都はどこでもさぐれば何かでてきて面白いです。
そうですね。
京都は歴史の宝庫ですからね。
三盛町というのも奥の深いネーミングでしょうね。
なんせ1000年を超える日々
人々が生きて生活して死んでまた生きて、
というのを50代以上繰り返してきたのですから
三盛町という名前には1つや2つの由来では語れない意味が込められているでしょうね。
いい所にお住まいなんですねえ。
800年前、静さんの御先祖さまは平家とかかわっていたかもですね。
それか後白河さんに泣かされた御1人かもですね。
笑
[22] | 静さんからのコメント(2007年06月08日 22時17分33秒 ) | パスワード |
いえいえ、実家の両親は、寄る年波には勝てず、階段のある家は危険だということで(昔の京都の家は階段がはしごのように急なので)、六波羅の家は処分してマンション暮らしになってしまいました。だから六波羅に帰る家がなくなってしまったので、とってもさみしいです。
義経については、やはり頼朝の意志を汲むという意識が希薄だったため、勝手なことをして怒りをかってしまったのでしょうね。また頼朝は、そういうことを見過ごさない人だったのですね。
「義経記」での義経は、前半と後半で人物像ががらっと変わっていて、後半は弁慶に頼り切ったよわよわしい人間になってしまい、物語としては破綻しているのでしょうね。
それに対し、「平家」が今ある形に形成されていったのは、作者(複数)の技量だけではなく、平家一族の興隆と滅びの物語をくりかえし人々が享受したからこそなのでしょう。それは、清盛という人物の魅力だったりするのでしょうね。
[23] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月08日 23時52分05秒 ) | パスワード |
今はマンション暮らしですか。
しかたないですね。
暮らしが楽な方がいいですものね。
怪我でもして寝たきりになって死を待つだけの晩年なんて悲しいですものね。
義経には頼朝の心の内は分からなかったのでしょうね。
それは義経が京都で育って
京都や朝廷が心の拠り所だったから
都や朝廷の権威に縛られて
兄より後白河の方が重要だったんでしょうね。
頼朝は京都にはいられなくなった過去があるから
伊豆中心で生きていかなきゃいけないという覚悟が出来てたんでしょうね。
京都や朝廷は自分を守ってくれない、やっぱり伊豆しか頼れない、
そういうのがあったんでしょうね。
日本人として都や天皇を切り離せた頼朝というのは凄い人だったと思います。
必要に迫られたからなんでしょうけど。
後白河や朝廷なんて頼りにならないというのを
結局は清盛も見抜いたし義仲も見抜いたのに、(どうしようもできなかったけど)
でも義経はいつまででも思い切れなくて。
>また頼朝は、そういうことを見過ごさない人だったのですね。
そこが頼朝の凄いところですね。心では葛藤があったんでしょうおけど計算は出来た、かな?
頼朝は後白河や朝廷との関係をなるべく断たなきゃいけないからと弟も切ってしまう。
ズルズルしない所が(日本人はだから頼朝を嫌いなんですけど)たいしたもんです。
頼朝が冷酷で陰湿で嫌な人間性だというのは
頼朝が平広常や長田忠致や義経をキッタところに出てるけど
彼らが粛清されるのには理由があったと、ま、分からないわけじゃない。
頼朝が伊豆以後、坂東の武士を掌握するのに必要だったから。
頼朝は坂東武士を大切に扱ったということですね。
でも義経には頼る人間が弁慶しかいなくなっていた。
奥州藤原氏というのは返す返すも気の毒。
結局は義経も自滅。
>「義経記」での義経は、前半と後半で人物像ががらっと変わっていて、後半は弁慶に頼り切ったよわよわしい人間になってしまい、物語としては破綻しているのでしょうね。
超人義経から悩める義経に。
このギャップが良いのでしょうね。笑
弱い義経に、ま、だからこそ日本人は同情するんでしょうね。
>平家一族の興隆と滅びの物語をくりかえし人々が享受したからこそなのでしょう。それは、清盛という人物の魅力だったりするのでしょうね。
清盛という人はやっぱり偉大な人だったんでしょうね。
いくら悪口を並べても清盛には経済人政治人武将として実力があった。
ま、秀吉でも後継者問題で晩年を汚したように
清盛も治承のクーデターをやらなかったら晩年を汚さずに済んだのにねえ。
平家の公達もああいう滅び方をせずに済んだんでしょうしねえ。
ま、平家の公達はああいう滅び方をしたからこそ坂東の荒武者と対比されて
美しき人々として描かれて、人間としては、得をしてますよね。
坂東武士達のその後は「アッチャ〜!」という感じで
仲間割れというか粛清の嵐というか恐怖政治の生け贄というか
あんなに頑張ったのに、こういう最期なの?と「物語性」が貧弱ですね。
平家も滅び方が良かったですね。
全盛を越えれば腐敗退廃してうやむやになって尻すぼみで消えていくだけ。
でも平家の公達は強烈な個性を我々の心に残して消えていきますものね。
(ホントかどうかは分からないけど)
物語になりますよねえ。
やっぱり背景が京都だからかな。文化とか教養とか、日本人にとっては、憧れるものを身に付けた人々だったからでしょうね。
>それは、清盛という人物の魅力だったりするのでしょうね。
それはやっぱり清盛という人の魅力なんでしょうね。
笑
[24] | 静さんからのコメント(2007年06月09日 01時49分30秒 ) | パスワード |
「平家」を読んで関心することは、人物の登場についての記述に漏れがないところです。
どういう事かというと、俊寛については、祖父の大納言が「…常は中門にたたずみ、歯をくひしばりいかってぞおはしける。かかる人の孫なれば…心もたけく奢れる人にて…」と巻一で俊寛が滅んでいく運命にあることがほのめかされています。
巻二に突然でてくる徳大寺殿についても、ちゃんと巻一の鹿谷のところで押さえている、という具合に、中心的でない人物に至るまで記述がとても行き届いているということです。
そういう記述に気づくと、ちょっとうれしいですね。
このこととは少しずれますが、鹿谷の山荘については、「平家」ではさらっと、「うしろは三井寺につづいて、ゆゆしき城郭にてぞありける」と書かれますが、三井寺は源氏方の寺だから、そこに集まるというのは、それだけで不穏な動きなのでしょうね。それにしても今も残る山荘跡へ続く坂道は、車一台がやっと通れるほどの狭さで、途中からは山の中になるので、法皇はどうやってそんなところまで行けたのかと??歩いてならなんとかなりそうですが、法皇の移動はやはり牛車ですよね。
[25] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月09日 03時25分14秒 ) | パスワード |
>中心的でない人物に至るまで記述がとても行き届いているということです。
>そういう記述に気づくと、ちょっとうれしいですね。
そうですね。
伏線になってたのか、と気づくとトクをした気分で倍おもしろく分かり易くなりますね。
>法皇の移動はやはり牛車ですよね。
「輿」というのもありますから
牛車じゃなかったら輿かな?
でも輿の方が視界が広くてもっと怖いですよね。
落ちそうな気がするし。笑
あ、楽しい陰謀の相談に出掛けるのだからワクワクしてコワイなんて思わなかったのかな?
笑
[26] | 創さんからのコメント(2007年06月10日 00時14分41秒 ) | パスワード |
URL=http://www.urban.ne.jp/home/sochan/ |
角川叢書「平清盛の闘い」(元木泰雄)の受け売りですが(微苦笑)
治承三年のクーデターのキーポイントは、言仁親王の誕生を挙げておきます。
つまり、彼が生まれたことにより清盛は“高倉−言仁”の院政の外戚となって自由に権力を振るうことが可能になるからです。
そのまえの鹿ヶ谷事件の時には、後白河に手出しをすることができませんでしたが(もちろん重盛らの反対もあったでしょうし)、重盛が没した今は、容赦なく後白河院政に対して強権を発動できるようになりましたから。
元木氏は、(クーデターの)直接の動機はやはり治承三年六月十七日の盛子の死亡と摂関家遺領の没収、立て続けに嫡男重盛の死去。そして、最終的な引き金になったのは同年十月九日の除目で欠員になっていた権中納言に盛子の遺児である基通(従二位右中将、20歳)ではなく、基房の子、師家(わずか8歳、前日に従三位になったばかり)が補任されたことであろう、としています。つまり、師家は基房の後継者として摂関家嫡流の地位を約束されたことになります。となれば、没収された遺領は、師家のものになるのは確実です。
平家は、基房とは「殿下乗合事件」をはじめいろいろとありましたから、この遺領のことについて清盛は、基房と後白河の陰謀としたのでしょう。事実、清盛はクーデターで入京した翌日に基房・師家を解官し、かわって基通を従二位右中将から、一気に関白・内大臣・氏の長者としています。
[27] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月10日 09時03分13秒 ) | パスワード |
創さん
すっごい!
「オムツ戦争」もありましたか(笑)
<1>のおさらいになりますが
藤原基房というのは摂政関白藤原忠通の次男で
長男・基実が24歳で亡くなってしまったので嫡男基通は幼かったから
基房が摂政+氏の長者になれたんでしたね。この時、22歳。
それで
長男父子(基実と基通)は清盛の息がかかった側であり
次男(基房)は後白河と組んで陰謀を・・・(笑)
だって25歳の年、「殿下乗合事件」があって重盛・資盛父子と喧嘩してますから平家に恨みはたっぷりあったわけですね。
後白河方だったから9年後の治承のクーデターで基房は清盛によって解任された。(大宰府や備前に流された)
さらにずっと後に木曽義仲によって基家が担がれて摂政に。
こういう流れがあるから清盛は早く徳子の生んだ男子を天皇にさせたかった
それで治承のクーデター。
それでまず基通を関白・内大臣・氏の長者にして周りを固めたって次第でしたか。
[28] | 静さんからのコメント(2007年06月10日 10時06分56秒 ) | パスワード |
「平清盛の闘い」を今、購入してしまいました。
面白そうな本をご紹介いただきありだとうございます。
基房は、その後返り咲いたりするのですか?
[29] | 静さんからのコメント(2007年06月10日 11時59分44秒 ) | パスワード |
「平家」巻九河原合戦にでてくる「六条高倉なるところに、はじめて見そめたる女房の…」というのが、基房の娘だそうですね。大系本には注がないので
よくわかりません。
[30] | 創さんからのコメント(2007年06月10日 12時03分01秒 ) | パスワード |
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静さん、どうもなのです。
>「平清盛の闘い」を今、購入してしまいました。
すばやいですね(微笑)
元木泰雄氏は、最近個人的にもっとも注目している研究者のひとりなんです。
院政期から保元・平治の乱を経て治承・寿永の内乱、そして鎌倉幕府の成立まで、この他にもいろんな著作があります。
>基房は、その後返り咲いたりするのですか?
清盛に解官された基房は、太宰権帥として流される途中に備前国で出家し、その地に配流先を変更されますが、翌治承四年十二月には帰洛を許されます。
そして、木曽義仲入京の時には娘の伊子を差し出して義仲と提携。その勢力を持って師家を後鳥羽天皇の摂政兼内大臣としますが、義経に義仲が討たれたことにより再び失脚、師家は罷免され、自身も政界から引退を余儀なくされます。
その後は、表舞台に立つことなく、寛喜二年(1230)十二月二十八日87歳で死去となります。以上はウィキペディアの要約です。
[31] | 静さんからのコメント(2007年06月10日 20時18分38秒 ) | パスワード |
じつは、公民館で「平家物語を読む」会をしていまして、下っ端の私が国文専攻だったこともあり、口語訳したり、時代背景などを調べています。結構楽しんでやっているのですが、歴史はよくわからなくて…
いろいろ詳しく教えていただきありがとうございました。
また、わからないことがあったら質問に来させてください。
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