[1] | 服部さちこさんからのコメント(2007年06月01日 12時58分17秒 ) | パスワード |
服部さんはじめまして。
興味深いお話ありがとうございます。
>桶狭間の戦いの時に今川方として海からやってきた
これは信長公記にある服部左京亮が桶狭間の戦いのとき今川方につき、
大高へ千艘の船を出したことを意味するのではないかと思います。
鳴海なら大高と近いですものね。
今時間ないのでまたコメントします。
例の系図はうちにあるのでメールいただいたら送ります。
おそらくうちと同じ系統の服部家だと思いますので系図はあまり参考にならないかも知れません。
[2] | K Hattoriさんからのコメント(2007年06月01日 14時11分09秒 ) | パスワード |
服部さちこさん、お忙しい中レスありがとうございます。よろしくお願いします。
[3] | K Hattoriさんからのコメント(2007年07月02日 12時00分21秒 ) | パスワード |
一昨日、車で弥富を通ったので、服部邸の前を通らせて頂きました。何となく心引き締まる思いがしました。静かな田園に単線の電車がゴトゴト、なかなか素敵な所でした。
[6] | さなえさんからのコメント(2013年06月04日 11時35分28秒 ) | パスワード |
鳴海のHattoriさまへ
先日のH25年6月1・2日は、有松絞まつりでしたので、私初めて有松に行ってきました。賑やかかったです。有松の町並み(東海道)は、思いのほかきれいに保存されていました。現代のショピングセンターや立体的な道路と江戸時代の町並みのコントラスト、洋服と有松絞の浴衣の方や着物姿の方、人力車のお兄さん・・・なんか、過去と未来が一緒になった不思議な感じでした。
そこで「有松まちなみ保存会」の方が、「桶狭間の戦い」のことや「有松と有松絞のおこり」をお話してくださいましたので、少し書き込みさせていただきます。
有松の町は、桶狭間の戦い以前は、無人の丘陵地帯だったそうです(知りませんでした)。今川が破れて織田になり、豊臣になったかと思ったら徳川の世に・・・とちょうどそのころのお話です。
当時、まだ東海道を整備しているころなんですが、そこは地図で見ても必ず通りたい道なんですが、山道のような荒れ地、盗賊に身ぐるみはがされるというここもあったようで、慶長13年(1608)尾張藩主徳川義直が「諸役御免」を条件に、おもに知多半島の阿久比の方から移住者を募ったとのことでした。
しかし、土地は田畑には適さなかったので、わずかに野菜を作ったりして、あとは、わらじを売るぐらいで、食糧を(藩から?)援助してもらっていたらしいのでした。
[7] | さなえさんからのコメント(2013年06月04日 11時51分18秒 ) | パスワード |
[4]の続き
有松は鳴海の宿場と ちりふの宿場の間の、通り道で、宿場は作れません。
移住者の一人 竹田庄九郎は 絞り染めを思いつき、当時生産がはじまっていた三河木綿に染めて、特産品として売ることを思いついたそうです。
そして、藩の御用達のお墨付きをもらい、専売権をえて繁栄していったということです。
そのあたりの詳しいことは「(株)竹田喜兵衛商店」「(株)井桁屋・服部家」「有松絞り 張長」「久野染工場」さんあたりのホームページにいろいろ書いてますので、参考になさってください。
[8] | さなえさんからのコメント(2013年06月04日 12時14分47秒 ) | パスワード |
[5]のつづき
そこで、思うことは・・・
上記[1]で、さちこさんがおっしゃっていたことと照らしあわせると・・・
鳴海の服部氏の方々の方が、先に移住していらして、その中の服部の一部が、たまたまかはわからないけど、有松に移住していて、栄えたってことになりませんか?
移住者は第一陣から三陣まであったらしいんですけれど、名前がわからなかったので知りたいですね。そのずっと後かもしれないですし・・・ね。
余談になりますが「まちなみ保存会」の活動は、木曽の妻籠や馬篭と同じころにはじまっていたのだそうです。木曽の方は早くから自治体と一緒になって、保存と観光に力を入れていますよね。でも、当時(バブリーな頃?)有松は名古屋市の許可が、なかなか下りなかったのだそうです。
しかし、現市長の河村市長は、(名古屋城も再建していますが)保存にとても強力的だそうです。この春(4月)には、電線を地中に埋める工事も完了したとのことで・・・、なんだか活気を感じました。よかったですね。
「テレビで見る市長さんが、よく有松絞りのシャツを着ていますね。」と言ったら、「献上しているんです。」とのお言葉。まるで、江戸時代といっしょですね。
[10] | K Hattoriさんからのコメント(2013年06月05日 10時02分20秒 ) | パスワード |
丁度6年前の書き込みにレス頂き、ありがとうございます。
時が経つのは早いですね。” 平忠正の孫の長光が服部氏なのはなぜ? ”
というスレッドのHattoriも私なのですが、その時からももう1年になります。
有松の絞り祭りは、息子たちが幼稚園児のころに園のイベントで絞りを着て踊っていましたので良く行きました。
その幼稚園は旧東海道沿いにあるのですが、園の隣の御宅の前に石で出来た長方形の手水?のようなものがありまして、そこに丸に並び矢の紋が彫られていたのを良く覚えています。直接の親類ではなくてもやはりこの土地にはご縁があるのだなと思いました。
私事ですが、明日3人目が生まれる予定(帝王切開)です。服部の血に繋がりを持つ者がまた一人増えるのですが、そのような時にレスを頂いたのも何か偶然ではないような不思議な気持ちを覚えました。
[11] | さなえさんからのコメント(2013年06月05日 20時19分27秒 ) | パスワード |
読んでくださいましたか(ありがとうございます)。
私も、過去に帝王切開で生みました。大丈夫と思いますが・・・応援しています。
[12] | さなえさんからのコメント(2013年06月05日 21時14分59秒 ) | パスワード |
スレッド{伊賀餅と伊賀忍者の関係(3)}の
[41]の、もみじさんのコメント欄
天野屋博兵衛(服部家家系図)を、探してくれたのだけど・・・
天野屋さんのことは、わからないんだけど、
服部家が尾張南西部?にあったことが出ていると思います。となると、私も、弥富市の服部邸宅が気になってきます。
私とこ(三河一色)は、何か関係あったのかしら?と・・・
昔の海岸線だと、船ですぐの距離でしょうからね。後醍醐天皇がらみか、天正伊賀の乱か、織田信長・今川氏(発祥は三河・旧幡豆郡今川村)・徳川家康がらみ(半蔵家とは繋がっていない気がしているが、徳川家は服部に寛容だった気がします)か・・・?
もしかすると、hattoriさんとも、ご縁があったかもしれませんね。
[13] | さなえさんからのコメント(2013年06月05日 21時26分06秒 ) | パスワード |
上記のこと、「服部嘉十郎」「服部宗純」も合わせて検索してほしいです。(お身体、落ち着いてからでいいですよ)
[14] | K Hattoriさんからのコメント(2013年06月06日 10時35分36秒 ) | パスワード |
お気遣いありがとうございます。
生むのは家内ですので大丈夫ですよ(笑)
服部嘉十郎氏、徳の高い方だったようですね。Wikiで見ました。
地元の歴史家の先生に「この辺りの服部さんは皆、元は津島から来たんだよ。」
と伺ったことがあります。そういえば向かいの家の大橋さんは、お寺が津島だ
と仰ってました。昔を知ると、現在のお付き合いもより味わい深くなるものですね。
[15] | さなえさんからのコメント(2013年06月06日 16時00分49秒 ) | パスワード |
上記[10]のコメントで
Hattriさんのこと、ずっと男性だと思っていたけれど、女性だったのね!
帝王切開で大変!!と、思ってしまって・・・びっくりしていました。やっぱり男性でしたか・・・。
でも、奥様大事にしてくださいな。そして赤ちゃんは、かわいいものですね。
スレッド{服部家の歴史}の[70]で、コメントさせていただいたのですが、
三河一色の墓地に、少なくとも4系統の服部(家紋)のお墓があります。これは、のちに変形したのではなく、初めから服部(および湯船庄五地頭)の数家族が移住して、協力して生活していたと考えた方がよさそうです。
鳴海のHattoriさんとか、有松の服部家さんと同じ紋(家系?)もありますね。
[16] | さなえさんからのコメント(2013年06月06日 16時34分40秒 ) | パスワード |
以前、どこかで書いたか書かなかったか、わからなくなってしまったのですが・・・
今の、三河の矢作川は、(以前は地元の矢作古川の方のことで、こちらが本流でした。)たびたび反乱があったらしく、甚大な被害になることもしばしばでした。(西尾市岩瀬文庫の蔵書「百姓伝記(作者不詳・天和年間)」にも記述あり)
そこで、慶長10年(1605)
幕府(徳川家康)の命を受け、「国役普請」で米津清右衛門が当時の桜井村木戸から米津へ開削工事をしたそうです。
それから、上流からの堆積物などでだんだんと埋まってきたところに、さらなる被害があったりして、1644年には米津から鷲塚まで堤防を築くなどして、干拓・埋め立てが進み現在の碧南市、高浜市や西尾市(平坂町・奥田町)一色町の地形が出来上がったようです。
碧南には服部不動産という会社などあり、服部氏がいることは知っていましたが、現在は川に阻まれ、仕事でもなければなかなか行く機会のない具合なんですが・・・
三河湾の港が、米津までひっこんでたなら・・・対岸の鷲塚も船で行けたなあ〜っと、やっと知ったわけです。今は、矢作川もずいぶん浅くなっていますし、雨の後は深くても流れがきついし、マイカーなら持ってるけど船の時代でもなくて・・・ほんとに交流は無くて・・・
でも、昔はあっただろうな〜
桑名のさちこ様の、ひいおじい様だったか・・・は船で豊橋あたりまで行くお仕事されていたと、以前お聞きしましたよ。それに、弥富市だってもっと海近かったでしょう?津島のことは残念ながら勉強不足ですごめんなさい。
海を渡り歩(?)いていたのかな・・・ご先祖様たちは。
[17] | さなえさんからのコメント(2013年06月06日 22時37分48秒 ) | パスワード |
全然関係ないんだけれど・・・
HATTORI hattori hattori
ローマ字で、パソコンに入力(タイピングって古いか?)するときの・・・
リズムが、たまらなく好きです。
変な趣味かしら? でも、そう思いません?
(昔から思ってたけど)発音も、なんか不思議
にほん語っぽくないところが、いいです。
[18] | K Hattoriさんからのコメント(2013年06月07日 10時32分05秒 ) | パスワード |
"HATTORI hattori hattori
ローマ字で、パソコンに入力(タイピングって古いか?)するときの・・・
リズムが、たまらなく好きです。"
よくわかります。指がキーボードの上でタップダンスしてる感じですよね。
先日”伊勢湾の海運と水軍について考える”
というのを見つけました。
あるいは平熱のどこかのスレッドに紹介されていたものでしたでしょうか。
[19] | K Hattoriさんからのコメント(2013年06月07日 10時33分08秒 ) | パスワード |
http://kagiya.rakurakuhp.net/i_258833.htm
すみません、書き忘れました。
[20] | さなえさんからのコメント(2013年06月07日 15時13分46秒 ) | パスワード |
参考になりました。ありがとうございます。
どう言う訳かは、分かりませんが・・・
半田地区には、幽霊がいっぱいいるらしいです。
私は、見えないけれどね。なぜか、そのことを思い出しました。
[21] | さなえさんからのコメント(2013年06月10日 21時47分09秒 ) | パスワード |
「シュリーマン旅行記 清国・日本」 ハインリッヒ・シュリーマン著 石井和子訳 (講談社学術文庫)
を、読んでいます。
幕末の日本 のことが、生き生きと、今目の前で見ているように書かれています。
敗戦後、私の親たちは、日本のこと多く語らず、アメリカ的思想を私たち子供に、教えてきました。でも・・・この本を読んで、時代劇とは全然違った、本当の日本!! 日本の精神を感じて、うれしくなりました(^^)。
いい本です。
(いたるところで、本のお薦めをしてしまいます。すみません。気が向いたら読んでみてね。)
[22] | K HATTORIさんからのコメント(2013年06月14日 12時02分43秒 ) | パスワード |
ところで、浪合記を見ると世良田、酒井、本多、服部等、
三河武士の家系と思しき名前がいくつも出てくるんですね。
尹良親王をお守りした人々の子孫が、約200年の後に日本を
治めることになろうとは。
[24] | K HATTORIさんからのコメント(2013年06月14日 16時27分34秒 ) | パスワード |
それとも浪合記というのは徳川家、家臣団の正統性を
証明すべく書かれたものなのでしょうか?
[25] | さなえさんからのコメント(2013年06月25日 10時13分42秒 ) | パスワード |
たまたまの検索(伊賀守公家 服部)で
「尾張群書系図部集・下」(Googleブック検索)
出ました。p753に家長の以前から皇極天皇に仕えた伊賀守の公家?のようなことが・・・
なので、Hattoriさんよかったら見てみてください。
それにしても、皇極天皇(女帝)とはまた・・・とびっくりしました。
大化の改新やら、蝦夷や百済との関係やら・・・歴史は苦手だったのに、勉強させられてます。先祖服部を調べると・・・。では
[26] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年06月25日 12時04分34秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
びっくりする程の事でもない。
伊賀国一宮は、斉明天皇(皇極天皇重祚)創建の敢國神社。
阿拝郡が有り阿拝郡服部郷発祥の服部氏(秦姓)は祭神を少彦名命としたが、大彦命後裔の阿拝氏(阿閉・阿倍・安倍の表記も有り)は祖神を大彦命とし、明治七年江戸時代の度会延経の説により祭神は大彦命とされた。
[27] | さなえさんからのコメント(2013年06月25日 12時58分00秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑さん
はは〜っ、 どうもありがとうございます。勉強しますっ。
[28] | さなえさんからのコメント(2013年06月25日 13時50分24秒 ) | パスワード |
全然関係ないかもしれないけれど・・・
「伊賀麻績服部流忍術」のHIBARIさんのブログをみつけてしまいました。
麻績城(麻績服部氏)なんて知らなかったけれど、信州の地には何かしら縁を感じます。
現代に忍術なんて、時空を超えたご縁があるかもなんて思っています。たのしいです。(近かったら)息子を教室に通わせて、鍛えてもらいたいです。
[29] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年06月25日 14時02分11秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
K HATTORIさん へ
浪合記は他の文献からも年代的矛盾が少なく、上州から三河への移動ルートがうかがわれます。
「四家七名字」と駿河方広寺を参照されると良いでしょう。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101001_13.html
また松平氏出自も複雑で入り婿を繰り返して清和源氏に辿り着いたのが実情で、賀茂氏の末裔だからこそ三葉葵の家紋を使用したわけです。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01205.htm#002
藤原姓本多氏も立ち葵紋ですね。
[30] | さなえさんからのコメント(2013年06月25日 17時11分12秒 ) | パスワード |
(あちこち書きこんで申し訳ありませんが・・・)
行ってみたい神社が増えました。
信濃宮神社・伊賀良神社・浪合神社 です。
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