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 投稿番号:101001 投稿日:2007年05月11日 14時51分49秒  パスワード
 お名前:mino阿弥
「四家七名字」と駿河方広寺

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

方広寺(浜松市引佐町奥山)には、宗良親王、無文元選禅師の位牌もあり南朝の拠点と思われます。尹良親王と良王親王の位牌は津島にあり「四家七名字」の方々とは、当然接点があってしかるべきであろうと思いますが、方広寺や井伊氏との関係を示す何らかの史料や所伝はありますか?
大橋家と堀田家も通婚・養子縁組を重ねて明智光秀の叔母も堀田道空(斎藤道三執権)に嫁いでいるようで、「四家七名字」の方々は、何らかの形でお互い縁戚となるのではないかと思います。
織田、徳川家との縁もあり、津島が、歴史的に枢要なポジションにあったような感じがします。しかし、どうもモヤモヤしてはっきりわかりません。研究論文等ありませんか?

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年05月11日 23時04分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

mino阿弥さんへ
 
各種文献、系譜を繋ぐと、津島の祖父江氏と氷室氏を中核に閨閥が形成されていることがわかります。
尾張平手・野口家と三河松平・酒井家が共に世良田家を同祖としています。
小生の下記ページを見れば参考になると思います。
 
姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )の後醍醐源氏編。
 
また貴殿の興味からは、真下和雄著「徳川氏出自考」や源栄治著「祖父江家の歴史」が役にたつと思われます。
[2]箱柳永田さんからのコメント(2007年06月01日 18時03分40秒 ) パスワード

 mino阿弥さんへ
 7000さんのホームページから大橋系図を参照して
   http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html
 浪合記(最後の方)を見れば もっと複雑な事が判ります
 大橋の家は学者もろくに調べてません、(勿論大橋家は沈黙してます)
  訪問して系図を見た人からの感想<5種類以上の少し違ったり簡単な棒系 図から名前が重複する程多くの詳しい分家の分家までのを見ると訳がわから  なくなる>  自分の調べと一番納得のいく系図を写してきたとの事
 尾張三河は平氏が優勢でしたが、出世した人が、系図をこねくり廻したので
 余計に判りにくいのです。
  井伊家の優遇を見れば、自明です   
[3]mino阿弥さんからのコメント(2007年06月19日 10時46分12秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さま、箱柳永田さま、ご教示ありがとうございます。
しばらくHPを拝見しておりませんでしたので、御礼が遅くなり申しわけありませんでした。
以前、群馬県太田市を歴史探訪した折、徳川氏の祖については、いろいろな説がありますが、これだけ徳川氏がこだわって優遇しているということは史実ではないかという感想を持ったこともありました。
私は、「美濃国諸家系譜」、「明智氏一族宮城家相伝系図書」などの出版に関わった事情もあり、「四家七名字」、大橋家について本格的な調査が必要ではないかと考えています。
「古樹紀之房間」HPご参考http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/minoshoke/yamagishi1.htm
先日は、東京で「古代氏族系譜集成」の著者宝賀寿男先生や系図の話は絶対するなという方達と会食しました。大変楽しいひとときでした。
お二方様にもいつの日か、お目にかかりご教示頂ければと思います。
[4]mino阿弥さんからのコメント(2007年06月22日 10時10分58秒 ) パスワード

昨日、弥富の服部家を訪問された知人から聞きましたが、約四万点もの古文書が手付かずにあるようです。学者も古文書が読めなければ、どんな史料があっても猫に小判です。また、形ばかりで身を入れてやろうという人材がいなければなんの進展もありません。史料は放置されるのみです。行動し形にしなければ世に問うことはできないと思います。
[5]箱柳永田さんからのコメント(2007年06月26日 21時35分51秒 ) パスワード

mino阿弥さん

 >行動し形にしなければ世に問うことはできないと思います。
 反対する訳ではないのですが、世間では正しい歴史より、面白い歴史の方が
 信じられている、事実があることをご存知ですか?。

  例えば  吉良と浅野
    忠臣蔵で知るか、浅野事件として勉強するかで 
  大きく印象が変わります  ここに集まっている人にも
 意見が分かれると思いますが、 世間では ドウでしょう 
  
 事実に反して、悪く評価された家は、どうなるのでしょう
  家康ですら評価が上がったのは、戦後です 
   つい最近まで、長田の家は一切の情報を出していません、
 (例え確信のある身内の系図調べにすら 隠していた事実があります)
 日本の歴史教育が、真っ当なバランス感覚を取り戻すまで難しいと思います
   そっとして欲しい家の方が多いと思います 

    貴方の意見は正しいのですが、今は賛成しません  
[6]mino阿弥さんからのコメント(2007年06月27日 10時29分02秒 ) パスワード

おっしゃる通りですね。足利尊氏も逆賊として烙印を押され、その有力武将であった美濃の土岐氏も、同様に評価されてきたきらいがあると思います。斎藤道三も実際どうだったのか誰もわかりません。良く書かれた書は皆無ですが土岐氏の治世に問題がなければ、人心を掌握し反土岐氏勢力を糾合できなかったのではないかと考えられます。長井氏を討ったとされていますが、おそらく道三の父が暗殺され、その仇を討った可能性もあります。しかし、史実として証明することはできません。それなりの何らかの理由があったのではないでしょうか?
また、常に都合の良いように歴史は書き換えられ、公平な歴史の見方がなされて来ていないのが現実であると思います。真実は当事者しか知りえません。数百年にも亘る歴史の誤解は、気がついた方が強く主張されておかれないと更に埋没し訂正されることはないと思います。義朝に目を奪われがちですが所領に関わることが大いにあるのではないかとも思われます。
[7]アカコッコさんからのコメント(2007年07月09日 07時55分28秒 ) パスワード

mino阿弥さんはじめまして。あちこちでご高説などを拝読しております。同じレスでは初めてですね。

>東京で「古代氏族系譜集成」の著者宝賀寿男先生や系図の話は絶対するなという方達と>会食しました。大変楽しいひとときでした羨ましいですね。東京で開催される時には是非参加したいです。

その「古代氏族系譜集成』の宝賀寿男先生のhpです。此方の方をご紹介頂きたかったです。

多くの読者の方々にも読んでいただきたく思いますのであえてUPします。
 
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/namiai1.htm

「南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              −『浪合記』の再検討−」
[8]mino阿弥さんからのコメント(2007年07月09日 09時57分54秒 ) パスワード

アカコッコさま
さすがですね。読んでおられましたか。驚きました。南朝史については、私自身もうひとつよく理解できていません。
駿河方広寺、無文元選禅師(後醍醐天皇皇子)と津島の関連を示す史料があってしかるべきであると考えていますが、わかりません。
岐阜県山県市長滝の伊自良湖近辺には八王子宮と呼ばれる碑があり、その碑を地元では楠木正成の妻久子の墓であると伝えています。
http://ijirako.com (ニュー伊自良湖荘・藤田力弥氏の研究ご参考)
また無文元選禅師開山の了義寺(岐阜市椿洞)の二代即宗和尚は楠木正成の後裔であるという伝承や、菊水の紋の香炉もあります。南朝の足跡が個々には点在しますが、つながりません。もし、この南朝のラインが明らかになれば興味深い全貌が見えてくるのではないかと思われます。

また、先日のような集まりは、おもしろかったので考えています。
ご都合がよろしければ、ぜひご出席下さい。
「系図の話は絶対するな」という方は、「歴史の馬鹿話は聞きたくない」と常に酷評しておられます。それでは来なくてもよいのですが、どうしても来られます。
私の高校(埼玉県志木市)の同級生が宮崎で焼酎を造っており、最近、虎ノ門にアンテナショップを開店しました。
http://www.kane-kyo.com/ 「ダイニングバーかねきょう」
前回も、こちらで集まりました。おついでがあれば、ぜひご利用下さい。
[9]アカコッコさんからのコメント(2007年07月09日 14時29分14秒 ) パスワード

mino阿弥さん、そんな身近な所で行動していたとは、驚きましたより親近感を覚えますね。「虎ノ門」の文字を見ただけでも懐かしいです。まだ琴平町や西久保巴町だったころから、うん十年毎日通っていた場所です。

永田様が大橋家の事に触れられておられましたが、愛知県、岐阜県には多くの大橋家があり、支流・分家にどれだけ本当の事が伝えられているのか疑問に思えます。

松江藩に幕末まで家老職、同じく大洲藩(加藤家・美濃出身)で幕末まで家老職まで務めた大橋家々があります。

武士階級ですと、尾張藩・加賀藩にも津島の大橋家の流れがあり、「士林泝・」には大橋小伝次家の由緒の記載あり、他スレの名古屋市博物館の『名古屋城下デジタル復元地図』に大橋小伝次の居住所が載っております。この系統は大橋重賢の兄弟になっております。
 
また同じ「士林泝・」に棚橋姓の記載があり。
由緒:家譜曰、延元年中、宗良親王、従遠州上洛。至濃州黒血川官軍失利、親王奔赴糸貫川、欲渡、無橋梁。干時齋藤某結杉技三条、以葛藤槌之、以為徒杠、親王大悦、即賜棚橋氏云示。(齋藤越前守藤原利藤末男)などとあり、浪合記や信濃宮伝にも登場しない姓でもこのような記述があるところを見れば、もっと多数の武士達が追従もしくは護衛していたかもしれませんね。

「歴史読本」7月号は『後南朝秘録』と題しており、付録には「歴蔵:熊沢天皇事件論争」として取り上げ、昭和年代に発表された論文が四本収録されており、南信濃から三河にかけては、宗良親王が南朝回復のために最後の努力をせられたところであり、そんな下地があったとか、これもにも結構、興味をひかれます。
[10]mino阿弥さんからのコメント(2007年07月10日 11時23分40秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
美濃は、もともと南朝勢力が多かったと考えられます。「美濃国諸家系譜」には南朝に味方した開田系図などもあり「浪合記」同様詳細に書かれています。
棚橋姓は岐阜地方独特の姓であったと思います。
大橋家については「蓬左文庫・藩士名寄」に持高四百石林八郎左衛門系図があり、稲葉七郎左衛門通兼次男越智通村から始まる系図ですが、その中に、林佐渡守通勝(諸説有)が信長の勘気を蒙り津島大河内氏宅に退去、養子の林惣兵衛正三(稲葉佐渡守正成の父)も大橋清兵衛重長に御預けと書かれています。これは稲生の合戦で討死した林美作守通具の系図であり、真偽は別として貴重なものではないかと思われます。
さっそく、歴史読本は、買ってきます。
[11]アカコッコさんからのコメント(2007年07月12日 13時00分14秒 ) パスワード

「津嶋大橋記」は昌平坂学問所旧蔵本ということで当時の庶民には難解であった楷書で書かれてあります。

信長出世之事。信長尾州織田備後守信秀嫡男也。元祖越前国織田明神之神主也。後仕于斯波武衛家居尾州。武衛家没亡後、信長其武威及強大而先亡一家。時同國津嶋四家七名字之者不隨信長。林新五郎通勝、来津嶋、左和睦。四家七名字十一等之長、大橋清兵衛重長者、信長姉聟也。信長父備後守、及末期、頼清兵衛。 依之十一等之者以連判属幕下執尾張国。
 
◎ 無文元選禅師については、皇室御系図に玄圓法親王(第十三皇子)の次に下記のように記載があります

瞞良親王 母参議藤原宗親女・親子(中納言典侍)。貞治二年、河野伊豫守を従えて、三河に御座せしと云ふ。或は無文禅師と同人かと云ふ。

また『方廣 第32号』より一部転載:無文禅師はこの後、美濃国(岐阜県)武儀郡に帰休庵、さらに岐阜市椿洞に了義寺を開山されております。やがて三河国(愛知県)加茂郡高橋荘に移られ広沢庵を開山になり、そしてついに遠江国(遠州静岡県引佐郡)奥山に御来山になられて方広寺を御開山になられます。

>棚橋姓は岐阜地方独特の姓であったと思います。

そうなんです。旗本川口家の家臣にも棚橋姓が存在し(享保十年・館山庄屋文書)ます。流れから云えば不思議はないのですが。
  
[12]mino阿弥さんからのコメント(2007年07月12日 17時11分37秒 ) パスワード

重ねて、ご教示ありがとうございます。
今日は、取引先のゴルフコンペでしたが大雨と雷で中止でした。

「群書類従巻第百六十七河野氏系図」は、津島大橋角之丞源貞信花押とありますが?
「無文禅師物語」奥山半僧坊大権現御開帳記念として浜松市円福寺新野徳宗師の著書が詳しいと思います。無文禅師は、満良親王の後身であるとの説もあるようですが、よくわかりません。母は亀山帝の皇女昭慶門院とされています。三河の廣澤庵(豊田市猿投町広沢)は西加茂郡高橋荘にあり昭慶門院領として伝領された。荒唐無稽かもしれませんが半僧坊とは河野氏(伊予海賊衆)ではないかと推測しています。中国留学の往還にも随伴し無文禅師を守護してきた人達ではないでしょうか?

まったく真偽のほどはわかりませんが、奈良院第三皇子逸與卿(根尾氏)故有って延喜年中の春奈良の都を退き美濃国大野郡本巣郡両郡の山中根尾谷に移らせ給い御所造立し座します南都より供奉の家臣上北面川口平馬之尉光時・・最後に上北面川口平馬之尉平光時十四代ノ後胤(川口・平・)花押川口氏三名連署という系図があります。美濃における川口氏の祖ではないかと思われます。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2022年07月07日 04時45分08秒 ) パスワード

懐かしい!

>大橋家と堀田家も通婚・養子縁組を重ねて
>明智光秀の叔母も堀田道空(斎藤道三執権)に嫁いでいるようで、
>「四家七名字」の方々は、何らかの形でお互い縁戚となるのではないかと思います。


4名家+7名字  プラス  4名姓の  計15家ということをお忘れなく。

        4名姓の方は  伊勢ということで  ハブしておこうか?


>何らかの形でお互い縁戚となるのではないか

出会った瞬間に  ヲッと気づくのは  お互い縁戚だからでしょうね。
見た瞬間に分かるのは  DNAのせいとしか  思えない。
DNAの記憶が  血沸き肉踊って  懐かしい!  と惹かれてしまう。


    だけど  じっくり見比べたりすると  「違う」というのが徐々に分かる
    でもやっぱり  表面である皮膚の下には  同じ血と骨を共有してる  って思う。


明智光秀の後妻の伏屋姫が名張城主服部保章の孫娘だった  というのは  やっぱり  南朝方がらみ  ってコトでいいかな?


                  半三保長ーーー石見守半蔵正成



千賀地(中服部家)保遠----




                        ーーー平蔵正信ーーーー正尚(徳川秀忠継祖父)
                                         

                  正清


                        ーーー名張城主保章ーー伊賀守保光ーーー伏屋姫(光秀後室)



うまく出るかな?
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2022年07月07日 09時54分45秒 ) パスワード

千賀地(中服部家)保遠 の息子2人の系図を書いたつもり。


               兄が半三保長で有名な息子が石見守半蔵正成(いわゆる服部半蔵)
       
               弟が正清で  息子2人が知る人ぞ知る平蔵正信と名張城主保章。


                      平蔵正信の子が正尚で家康の伊賀越えで活躍した忍者であり徳川秀忠の継祖父

                      平蔵正信のもう1人の子が名張城主の保章で息子の伊賀守保光は若死にし孫の伏屋姫が光秀の後妻。


うまく出るかな?
[20]相良四郎さんからのコメント(2023年04月01日 23時24分02秒 ) パスワード


現在は稲葉七郎左衞門については覚えておりません。
ただ細川がおり不思議に思っており津島党についても父母ともども近縁と謂うのに違いないと確信しております。
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