【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:100990 投稿日:2007年03月15日 14時15分36秒  パスワード
 お名前:アカコッコ
『愚管抄』と『吾妻鏡』
キーワード:北条氏の陰謀
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード


『吾妻鏡』についての史家の見解は、編纂の時期、北条氏の政権がすでに確立していて、編者はその庇護をうけているために、史実の見解をことさらに歪曲して、北条氏の事迹を正当化することにつとめている点が少なくないということに一致している。
 偏者が数十年を経た当時の日記などを、北条氏絶対の観念的な結果論的な眼で書いたものであるといわれております。
          『鎌倉武家事典』(青蛙社刊・出雲隆著)より。

[1]アカコッコさんからのコメント(2007年03月15日 14時19分45秒 ) パスワード

「愚管抄」の巻六では鎌倉幕府関係の記事で吾妻鏡とは内容の異なるものが多くみいだされる。

頼朝の死後、北条一族の野望のまえに、頼家・實朝のニ将軍をはじめ、有力な重臣の梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛などをことごとく除き、その陰謀を扶けて来た三浦義村と安達景盛は、その子息の時代に〈寶治合戦〉に三浦泰村を討ち、また安達泰盛も失なわせたので、御家人勢力は得宗のまえに殆ど影をひそめてしまった。


建仁三年八月に頼家が危篤に陥ってから翌元久元年七月に修禅寺で殺されるまでの記事はそのなかで最もたるものである。

 吾妻鏡では将軍頼家と比企能員が北条時政を討つことを密議したのを政子が聞き、時政にこれを知らせたことになっている。

『愚管抄』では家督が一万と決定し外祖父の能員が幕府を支配するようになることを恐れた時政の先制攻撃であったことが明確に現われている。

実朝の殺害でも公暁を扇動したのは三浦義村であったかのように記しているのが。
[2]アカコッコさんからのコメント(2007年03月15日 14時26分25秒 ) パスワード

まず『吾妻鏡』から関係記述を拾ってみますと。

建仁三年

 5・19阿野法橋全成(頼朝の弟、幼名今若)反逆を謀って営中で捕われる。
5・20:頼家、全成の室阿波局(時政の女・政子の妹)の引渡しを母政子に求む。
    政子拒否す。
5・25:全成を常陸国には配流する。6・23:阿野全成、誅せらる。
7・20 頼家に遽かに発病 。7・25:阿野全成の子播磨公頼全を、
    京都東山延年寺で誅した。
  
7・23 御病悩既に危急の間、数箇の御祈祷等を始行せらる。
    而るに卜筮の告げる所、霊神の 祟りと。
8・27頼家の病中、北条氏は陰謀を以って遺言と称し、
   将軍の惣地頭職を一幡と千幡に分与すると発表した。
9・2:北条時政は頼家の岳父比企能員を謀殺し、
    世子を襲い、頼家の室と一幡を殺し比企一族を滅した。
  
 将軍家御不例縡危急の間、御譲補ノ沙汰有り。
   関西三十八箇国ノ地頭職ヲ以テ舎弟千 幡君(十一歳)ニ譲リ奉レレ。
   関東二十八ケ国ノ地頭並ビニ惣守護職ヲ以テ御長子一幡君(六歳)ニ
   宛充テラル。爰ニ家督御外祖比企判官能員、
   潛カニ舎弟ニ譲補ノ事ヲ 憤を怨ラミ、外戚ノ権威ニ募リ、
   独歩ノ志ヲ挿ムノ間、叛逆ヲ企テ千幡君並ビニ彼ノ
   外家已下を謀リ奉ルニ擬ス云々。
[3]アカコッコさんからのコメント(2007年03月15日 14時30分22秒 ) パスワード

『愚管抄』には

サテ又関東将軍ノ方ニハ、頼家又叙二位、左衛門督ニ成テ、頼朝ノ将軍ガアトニ候ケレバ、範光中納言辨ナリシ時、御ツカイニツカハシナドシテ有ケル程ニ、建仁三年九月ノコロヲイ、大事ノ病ヲウケテスデニ死ントシケルニ、ヒキノ判官能員阿波国ノ者也ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセタリケルニ、六ニ成ケル、一萬御前ト云ケル、ソレニ皆家ヲ引ウツシテ、能員ガ世ニテアラントシケル由ヲ、母方ノヲジ北条時政、遠江守ニ成テアリケルガ聞テ、頼家ガヲトヽ千萬御前トテ頼朝モ愛子ニテアリシ、ソレコソト思テ、同九月廿日能員ヲヨビトリテ、ヤガテ遠カゲ入道ニシテイダカセテ、新田四郎ニサシコロサセテ、ヤガテ武士ヲヤリテ、頼家ガヤミフシタルヲバ、自元廣元ガモトニテ病セテソレニスエテケリ。サテ本體ノ家ニナラヒテ子ノ一満御前ガアル、人ヤリテウタントシケレバ、母イダキテ小門ヨリ出ニケル。サレドソレニ籠リタル程ノ郎等ノハヂアルハ出ザリケレバ、皆ウチ殺テケリ。

続き文あり。
[4]アカコッコさんからのコメント(2007年03月15日 14時35分17秒 ) パスワード

其中ニカスヤ有末ヲバ、「由ナシ。出セョセョ」ト敵モヲシミテ云ケルヲ、ツイニ出サズシテ敵八人トリテ討死シケルヲゾ、人ハナヽメナラズヲシミケル。

其外笠原ノ十郎左衛門親景、渋河ノ刑部兼忠ナド云者ミナウタレヌ。

ヒキガ子共、ムコノ児玉黨ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレニケリ。コレハ建仁三年九月二日ノ事ナリ。同五日、新田四郎ト云者ハ、頼家ガコトナル近習ノ者ナリ、頼家マデカヽルベシトモシラデ、能員ヲモサシコロシケルニ、コノヤウニ成ニケルニ、本體ノ頼家ガ家ノ
侍ノ西東ナルニ、義時ト二人アリケルガヨキタヽカイシテウタレニケリ。

サテ其十日頼家入道ヲバ、伊豆ノ修善寺云山中ナル堂ヘヲシコメテケリ。頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦ニカウニテ出家シテ、廣元ガモトニスエタル程ニ、出家ノ後ハ一満御前ノ世ニ成ヌトテ、・・・

◎ カスヤ有末・・・糟屋有季のこと、比企能員聟
◎  笠原ノ十郎左衛門親景・・・比企能員聟
◎ 渋河ノ刑部兼忠・・・比企能員舅
◎ ナド云者ミナウタレヌ。ヒキガ子共、ムコノ児玉黨ナド
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月16日 05時30分07秒 ) パスワード

わあ〜
比企家が滅びていくシーンは残酷ですね。

比企家の婿さん達も一緒に亡くなっていらっしゃったのですか。
昔はこうやって皆殺しにされたんですねえ。


鎌倉幕府は北条氏による内部粛清があるから、あの時代は暗黒時代で、人気が無いですね。
[6]アカコッコさんからのコメント(2007年03月19日 07時17分34秒 ) パスワード

>比企家が滅びていくシーンは残酷ですね。
>昔はこうやって皆殺しにされたんですねえ

襲撃があると判っておれば、幼子たちを予め逃すサンタンがあったと思いますが、多分実行していると信じたいですね。

正治ニ年1月20日 丁未 晴
 辰の刻、原の宗三郎飛脚を進し申して云く、梶原平三景時この間当国一宮に於いて城 郭を構え、防戦に備うの儀、人以て怪しみを成すの処、去る夜丑の刻、子息等を相伴 い、潛かにこの所を逃れ出ず。これ謀叛を企て上洛の聞こえ有りと。仍って北條殿・兵庫の頭・大夫屬入道等御所に参り沙汰有り。これを追罰せんが為、三浦兵衛の尉 /比企兵衛の尉・糟屋籐太兵衛の尉・工藤の小次郎已下の軍兵を遣わさるるなり。亥の刻、景時父子駿河の国清見関に到る。而るにその近隣の甲乙人等、的を射んが為に群集す。退散の期に及び、景時途中に相逢う。彼の輩これを怪しみ箭を射懸く。仍って芦原の小次郎・工藤八・三澤の小次郎・飯田の五郎これを追う。景時狐崎に返し合い相戦うの処、飯田の次郎等二人討ち取られをはんぬ。また吉香の小次郎・渋河の次郎 ・船越の三郎・矢部の小次郎芦原に馳せ加わる。吉香梶原三郎兵衛の尉景茂(年三十四)に相逢い、互いに名謁らしめ攻戦し、共に以て討ち死にす。その後六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連等轡を並べ鏃を調うの間、挑み戦い勝負決し難し。然れども漸く当国の御家人等競い集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。また景時並びに嫡子源太左衛門の尉景季(年三十九)・同弟平次左衛門の尉景高(年三十六)、後山に引き相戦う。而るに景時・景高・景則等、死骸を貽すと雖もその首を獲ずと。

  以上 「吾妻鏡目次」より。
    (http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html

 『愚管抄』には

 コレヨリ先ニ正治元年ノコロ、一ノ郎等ト思ヒタリシ梶原景時ガ、ヤガテメノトニテ有ケルヲ、イタク我バカリト思ヒテ、次ツギノ郎等ヲアナヅリケレバニヤ、ソレニウタレテ景時ヲウタントシケレバ、景時国ヲ出テ京ノ方ヘノボリケル道ニテウタレニケリ、子供一人ダモナク、鎌倉ノ本體ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ、ハタシテ今日カヽル事出キニケリ。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月19日 07時53分10秒 ) パスワード

歴史に「もし・たら・れば」は禁句ですが

もし頼家と比企家が梶原を討ち取らなかったら
自分達もあそこまでひどい目には遭わずに済んだのでしょうが


でも鎌倉政権の内部粛清は後世の日本人にはしっかり反面教師になっていますよね。
日本史にはあんまり「粛清」の嵐は吹かなかったような?

勿論徳川幕府の粛清はありましたが
旧ソ連や中共のような何千万人・何億人という数には及びませんよね。


こういう「中世」という歴史が日本にあったということで
日本人は謙虚で真面目な世界に誇る人格の高い民族になったと思います。

だから鎌倉幕府の時代というのは徳川時代と共に「必要悪」だったと思います。


あの景季は年39で亡くなったのですか。


(源平戦の若者達が中年のおじさんになって死んでいくのを知ると
なんだかピンと来ないです 笑)
[8]アカコッコさんからのコメント(2007年03月23日 12時39分34秒 ) パスワード

頼家の死亡については。

7月14日 :未の刻、将軍家俄に以て痢病を患わしめ給う。諸人群参すと。

7月15日: 将軍家御不例。猶御平癒の儀無し。仍って鶴岡宮に於いて真読大般若経を始行せらる。
7月19日:西ノ尅、伊豆国飛脚参着。昨日(十八日)左金吾禪閣(二十三歳)当国修禪寺ニ於イテ薨ジ給ウの由、之レヲ申ス。 云々

『愚管抄』には。

 サテ次ノ年ハ元久元年七月十八日。修禪寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。
 トミニヱトリツメザリケレバ。頸ニヲ(緒)ヲツケ。
 フグリヲ取ナドシテコロシケリト聞ヘキ。
 トカク云バカリナキ事ドモナリ。

 イカデカ〱ソノムクイナカラン。人ハイミジクタケキモ力及バヌコト也ケリ。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月23日 22時41分43秒 ) パスワード

(暗殺だろうな)というのは思いましたが
『愚管抄』による殺害方法は凄まじいんですねえ。


>フグリヲ取ナドシテコロシケリト聞ヘキ。


  日本には「土磔」=1寸刻みの刑=なんてありましたが
 (頼朝が長田にやったとか。うちの先祖も父親を殺した平家の代官にやったそうですが)


大陸や半島の「遅凌刑」を髣髴とさせました。
これは政治犯の人間を吊るして3000回ほど体の肉を削ぎ落とす殺し方だそうで
20世紀に入ってこの処刑の仕方が欧米に写真で紹介されて非難囂々となり
今では禁止になっているらしい。大陸や半島のことは分からない・・・


>フグリヲ取ナドシテコロシケリ

これが本当なら政治的な憎しみが凄いのでちょっと信じられないですけどね。

頼家の取り巻きの比企家などにしたというならありえるかもと理解も出来ますが
一応政子の産んだ子ですから(頼朝の子ですしね)
比企家の人に対してやった話かも知れませんね。


絞殺ですか・・・


やっぱり鎌倉時代というのは学校で教えるには避けて通りたい事実で一杯なのかもですねえ。
[10]アカコッコさんからのコメント(2007年03月27日 12時37分17秒 ) パスワード

實朝の死亡については。

建保七年1月27日
 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
  今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
  次いで公卿
    新大納言忠信(前駆五人)    左衛門の督實氏(子随身四人)
    宰相中将国道(子随身四人)   八條三位光盛
    刑部卿三位宗長(各々乗車)・・・中略・・・随兵一千騎なり。
宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に 譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及
び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い
来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。その後随兵等宮中(武田の五郎信光先登に進む)
に馳せ駕すと雖も、讎敵を覓むに所無し。或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当闍
梨公暁父の敵を討つの由名謁らると。これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。
彼の門弟の悪僧等その内に籠もり相戦うの処、長尾の新六定景と子息太郎景茂・同次
郎胤景等先登を諍うと。勇士の戦場に赴くの法、人以て美談と為す。

[愚管抄]には
  
 拝賀ヲモ関東鎌倉ニハイマイラセタルニ、京ヨリ公卿五人檳榔(ビンロウ)の車グシツヽ集マリケリ。五人ハ、大 納言忠信(内大臣信清息)、中納言實氏(東宮大夫公絰息)、宰相中将國通(故泰通大納言息、朝政奮妻夫也)、正三位光盛(頼盛大納言息)、刑部卿三位宗長(蹴鞠之料本下向云々)。ユユシクモテナシツ拝賀トゲケル。

 夜ニ入テ奉幣終テ、寳前ノ石橋ヲクダリテ、扈従ノ公卿列立シタル前ヲ楫シテ、下襲尻引テ笏モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ・トキント云物シタル、馳カゝリテ下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシラヲ一ノカタナニハ切テ、タフレケレバ、頸ヲウチヲトシテ取テケリ。ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出キテ、供ノ者ヲイチラシテ、コノ仲章ガ前駆シテ火フリテアリケルヲ義時ゾト思テ、同ジ ク切フセテコロシテウセヌ。
 義時ハ太刀ヲモチテカタハラニ有リケルヲサヘ、中門ニトドマレトテ留メテケリ。大方用心セズサ云バカリナシ。皆クモノ子ヲ散ラスガゴトクニ、公卿モ何モニゲニケリ。
 カシコク光盛ハコレヘハコデ鳥居ニマウケテアリケレバ、ワガ毛車ニジョウテカエリニケリ。ミナ散々ニチリテ、鳥居ノ外ナル数萬ノ武士是ヲシラズ。
 此法師ハ、頼家ガ子ヲ其八幡ノ別当ニナシテオキタリケルガ日ゴロオモイモチテ、今日カヽル本意ヲトゲテケリ。一ノ刀ノ時、「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」ト云ケル。公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ。カクシチラシテ一ノ郎等トヲボシキ義村三浦左衛門ト云者ノモトヘ、「ワレカクシツ、今ハ我コソハ大将軍ヨ、ソレヘユカン」ト云タリケレバ、コノ由ヲ義時ニ云テ、ヤガテ一人、コノ実朝ガ頸ヲ持タリケルニヤ。大雪ニテ雪ノツモリタル中ニ、岡山ノアリケルヲコエテ、義時木村ガモトヘユキケル道ニ人ヲヤリテ打テケリ。トミニウタレズシテ切チラシ切チラシシテニゲテ、義村ガ家ノハタ板ノモトマデキテ、ハタ板ヲコヘテイラントシケル所ニテ打トリテケリ。実朝ガ頸ハ岡山ノ雪ノ中ヨリ求メ出タリケリ。同意シタル者共ヲバ皆ウチテケリ。マタ焼ハライテケリ。其夜次ノ日郎従出家スル者七八十人マデ有リケリ。サマアシカリケリ。
[11]アカコッコさんからのコメント(2007年10月03日 09時15分58秒 ) パスワード

『愚管抄』より

サテ義朝ハ叉馬ニモウヱノラズ、カチハダシニテ尾張国マデ落行テ、足モハレツカレタレバ、郎等鎌田次郎正清ガシウトニテ内海荘司平忠致トテ、大矢ノ左衛門ムネツネガ末孫ト云者ノ有ケル家ニウチタノミテ、カヽルユカリナレバ行ツキタリケル。待ヨロコブ由ニテイミジクイタハリツヽ、湯ワカシテアブサントシケルニ、正清事ノケシキヲカザドリテ、コヽニテウタレナンズヨト見テケレバ、「カナヒ候ハジ。アシク候」ト云ケレバ、「サウナシ。皆存タリ。此頸打テヨ」ト云ケレバ、正清主ノ頸打落テ、ヤガテ我自身自害シテケリ。サテ義朝が頸ハト京ヘリマイラセテワタシテ、東ノ獄門ノアテノ木ニカケタリケル。

荘司=荘園を管理する役人。
桓武平氏=高望王−良茂−良正−致頼−公致−致房−行致−致俊−忠致。
「長田壱岐守、平治元於尾張国誅義朝朝臣・進京都。任壱岐守」(尊卑)
長田致頼−大矢致経。「右兵尉」(尊卑)。忠致は致経の弟公致の末孫。
アブサントシケルニ(刀剣で人に切りつける)
カザドリテ(におい、気配を感ずる)
Aに続く
[12]アカコッコさんからのコメント(2007年10月03日 09時22分25秒 ) パスワード

「吾妻鏡」にいく前に。

A「歴史百科」(日本姓氏事典・1978年)に
長田氏(68歳)の投稿が載せられております。

『義朝を殺した長田忠致の最後』

平治の乱で敗れた源義朝が逃れる途中、尾張の野間で長田忠致に謀殺されたのは周知の事実。
それから二十年の後、伊豆に挙兵した源義朝はみごと平家を亡ぼして上洛の途中、野間で長田父子を捕え」汝らは平家に対して二カ国を望みしとか、平家に代わって今美濃尾張(身の終り)を与える」とて磔刑に処した話も広く世に知られている。

したがって忠致は義朝を討ってより引き続き尾張にいたと信じられているが、彼は間もなく駿河の丸子に移り住み、平家に仕えていたのである。

頼朝挙兵の年富士川合戦六日前のこと、頼朝の軍に合流するため富士山麓を南下中の甲斐源氏武田信義の軍を平家方の橘遠茂と共に迎撃して討死を遂げた長田入道の名が「吾妻鏡」に見えるが、これが忠致と同一人であることは、つとに頼山陽が「日本外史」で明らかにしている。

長田の居住地は今は静岡市丸子だが、つい近年までは長田村と称していた。

☆ だが、上洛の途中とありますが、平氏の東征軍を迎撃するため、頼朝は鎌倉を進発したもの。長田入道と忠致が同一人物かどうかは?!。
Bに続く。

「平治物語」の「下向の義朝内海事付けたり忠致心替りの事」段にはもっと詳しい記述があります。
[13]アカコッコさんからのコメント(2007年10月05日 10時24分49秒 ) パスワード

義朝の謀殺されるところは有名なので、あまり紹介や引用されない記述を。

悲劇の影にまた悲劇が。

『平治物語』の「下向の義朝内海事付けたり忠致心替りの事」より

鎌田が妻女よひよりこのことを聞しかば、人してしらせやとおもひけれ共、〔かたはらに〕をしこめられて人一人もつかざりければ、しらするにをよばず。蒲田うたれぬと聞しかば、走いで鎌田が死骸にとりつきていひけるは、「我をばいかになれとて、すてをきてさきにたち給ふぞ、空しくなるとも同道にとこそ契しか」とて、なげきけるが「親子なれ共むつましからず。うき世にあらば、叉かゝることをやみむずらん。さらばつれてゆかん。」とて蒲田が刀をいまだ人もとらざりければ、刀をとりて、心もとにさしあて、うつぶさまにふしければ、かたなはうしろへわけいでつ、年廿八にて鎌田が死骸にふしそひて、同じ道にぞなりにける。

長田此よしをみて「義朝をうつも子どもを世にあらせむが為なり、いかゞせん」となげきけれどもかひぞなき。

「世にあらむとおもへばとて、相傳の主と現在の婿をうち、長田庄司忠致は不黨なり」とぞ人申ける。
[14]mino阿弥さんからのコメント(2007年10月05日 11時24分17秒 ) パスワード

不勉強で全く読んだことありませんでしたので、勉強になりました。
鎌田氏は山内氏流だったと思いますが、昔は本当に悲劇的なことが
多いですね。

「美濃国諸家系譜」所収首藤山内系図では
政家・本名正清 鎌田次郎 兵衛尉
   平治二年庚辰正月三日於尾州野間ノ内海舅長田カ為ニ被討年二十八
この系図は、土佐藩主家となった山内氏が詳述されています。
ご参考まで。

[15]アカコッコさんからのコメント(2007年10月10日 10時14分21秒 ) パスワード

mino阿弥さんこんにちは。美濃関係でお忙しそうですね。


同「長田六波羅に馳せ参る事付けたり尾州に逃げ下る事」の段には清盛公の小気味よい言動とは?。

さるほどに、義朝・正清両人が頸を持て、長田都へ上りける。

 平家の見参に入ければ、神妙なりとて、長田は壱岐守になり、子息先生景致、左衛門尉になされけり。

忠致申しけるは「義朝・正清は、昔の将門・純友にもあひをとらぬ朝敵を、国の乱にもなさず、人の煩にもあらず、すみやかに討てまいらせに候はゞ、義朝の所領をば一所も残さず給候か、しからずは生国にて候へば、尾張国をも給るべきにて候に、国のはてに候壱岐の嶋を給り候ては、今以後何のいさみか候べき」と申ければ、

〔清盛ののたまひけるは、〕「てんせゐ(天性)汝等は罪科の者ぞ。世にあらんとおもへばとて、相傳の主と現在の婿とをうつ、なんじらほど尾籠の者あらばこそ。されども朝敵とかうすれば、一国をもとらする也。それを辞退申さば、とかうにをよばぬ。」と宣へば、猶重而訴訟申ければ、ろうぜきなりとて壱岐の国も召かへされ、左衛門尉も闕官せらる。

伊豫守重盛申されけるは、「けふは人のうへたりといへども、あすは我身のうへたるべし。運つきたらん時はみなかうこそ候はんずれ。諸人のみる所も候へば、向後のため、奴原給て、六条河原へ引出し、廿日に二十のゆびをきり、くびをのこぎりにてきり候はん。」と申されければ、長田此由を聞て、急ぎ国へにげくだる。めんぼくなくぞ覚ける。天下の上下このよしをきゝて、「源氏世に出て後は、長田をほりくびにせらるゝか、はつつけになるか、あはれ長田が終をみばや。」とにくまぬものこそなかりけれ。

[16]mino阿弥さんからのコメント(2007年10月10日 17時20分12秒 ) パスワード

アカコッコさま
掲示板を読んでおられるようですね。
お恥ずかしい限りです。
県史、市史の土岐系図については理解できません。
何の史料的根拠もなく想像で書いているとしか思えません。
一次史料であっても誤りがあり、全体的な背景を考えなければ
正確な史料として使えないと思います。
また、専門家が何の疑問も持たずに利用しているという点も不思議です。
専門家と称される人は、ポーズとして伝記、伝承、系図類の史料価値を
低く見て、素人がそれらの史料を引き合いに出すと徹底的に否定します。
一方では、専門家であっても史料がないため伝記、系図類を持ち出さな
ければ歴史研究は成り立ちません。
矛盾していると思いますが。
もう少し素直になって、間違っていれば頑張り過ぎず改めるべきは訂正
した方がよいと思います。

「とき世とて婿をころすはみのおわりむかしはおさだいまは山しろ」
[17]アカコッコさんからのコメント(2007年11月25日 06時52分26秒 ) パスワード

Bと書いてアップするのを忘れていました。
何でかなと考えてみたら、冬鳥の渡りの季節なので、あちこちウォッチングに出かけましたが、今年は季節の進み具合が安定しないで、鳥達も例年通りの場所時期に現われない、ゼンゼン違った場所にひょっこり現われ、驚いたこともありましたが、四五日前から寒さが厳しくなり、東北・北陸の11月での積雪が記録更新したとか。

子供の時、本門寺のお会式に参拝する各町会の万灯を見る夜なんか、ドテラを着て見ていた記憶があるが、此の頃では普段着で十分な温度。

 11月11日は孫娘のダンスの発表会で府中の劇場へ開演時間前に付近の大国魂神社へふらっと散歩、折りよく、酉の市と七五三のお参りや菊花展などで、大勢の善男善女と子供たちでごったがえしており目の保養になりました。

B『吾妻鏡目次』より

 治承四年、
10月13日 壬辰
  木曽の冠者義仲、亡父義賢主の芳躅を尋ね、信濃の国を出て上野の国に入る。
 仍って住人等漸く和順するの間、俊綱(足利の太郎)の為民間を煩わすと雖も、恐怖の思い成すべからざるの由、下知を加うと。
 また甲斐の国の源氏並びに北條殿父子、駿河の国に赴き、今日暮れて大石の駅に止宿すと。戌の刻、駿河目代、長田入道の計を以て、富士野を廻り襲来するの由その告げ有り。仍って途中に相逢い、合戦を遂ぐべきの旨群議す。武田の太郎信義・次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛の尉有義・安田の三郎義定・逸見の冠者光長・河内の五郎義長・伊澤の五郎信光等、富士の北麓若彦路を越ゆ。
爰に加藤太光員・同籐次景廉、石橋合戦以後、甲斐の国方に逃げ去る。而るに今この人々を相具し駿州に至ると。
[18]アカコッコさんからのコメント(2007年11月25日 07時01分13秒 ) パスワード

11月18日はやはり同じ孫娘の七五三で川崎の稲毛神社へお参りとの事で息子夫婦と孫を連れて現地に集合し、楽しいひとときを過ごしておりました。

『吾妻鏡』目次より

 10月14日 癸巳
  
午の刻、武田・安田の人々、神野並びに春田路を経て、鉢田の辺に到る。
 駿河目代多勢を率い、甲州に赴くの処、不意にこの所に相逢う。
 境は山峰連なり、道は磐石峙つの間、前に進むを得ず、後に退ぞくを得ず。
 而るに信光主景廉等を相具し先登に進む。
 兵法力を励まし攻戦す。遠茂暫時防禦の構えを廻らすと雖も、遂に長田入道・子息二人を梟首し、遠茂を囚人と為す。従軍の失命・疵を被る者その員を知らず。

 列後の輩矢を発つに能わず。
 悉く以て逃亡す。酉の刻、彼の頸を富士野傍伊提の辺に梟すと。

旗本長田家(おさだ家)は、忠致の兄・親致で長田を通した。
 
 その後裔と名乗る訳からには源氏(徳川)の世、すごい覚悟の上だと思います。

 禄高は低いが武家としてのアイデンティティがあり、尊敬いたしますね。


[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年11月25日 17時02分40秒 ) パスワード

「名」というのは物凄い重みがありますね。

子孫はその「名」を未来永劫引き摺りますから
ムカシの名前のままでいる
というのは物凄い覚悟が要りますね。


「楠木」なんてその「名」ゆえにラッキーでしょうし
逆に
「足利市出身」というだけで軍隊で殴られたというハナシを聞いたことがありますし


信長をして「長田は主殺し」と言われましたから
ココを子孫はどう引き受けるか

ま、わたくしでしたら
「平安時代末期鎌倉時代初期の日本史にしっかり書かれてますから隠しようが無いですね」
と開き直りますね。


相手によっては「それでお宅さまは?日本史の中ではお見かけしませんね」と居直るかな?



平安時代に名が出るというのは「馬の骨じゃない」という前提がありますからね
古代豪族の流れとか桓武天皇の出とか清和天皇の出とか。
そうでなかった者が踊り出た場合はキッカケや出自の低さが書かれていますしね。


ムカシの日本というのは出自を誤魔化せなかったというのがありますね。


>旗本長田家(おさだ家)は、忠致の兄・親致で長田を通した。
>その後裔と名乗る訳からには源氏(徳川)の世、すごい覚悟の上だと思います。


徳川の世で御旗本になれたというのはそれなりの功名があったからですし
地方で禄を与えられたというのは「日本の名家だから」ということですし
「名」というのは凄いなあと思います。


武家はみんな回り回って親戚になりますからヨソの家の悪口は言えないですよね。
「人間は皆きょうだい」と笹川さんがおっしゃいましたが
よくよく調べたら自分の血にも混じってるかも知れないですから
ヨソの家の悪口はホントに言えません。


わたくしの周りの長田さん達も一目置かれるかなりの資産家ですし美形ですし
21世紀になっても先祖の御利益に?預かってますし
頑張って没落せずに来たというのも明らかですし。


武士は名を挙げなくてはならないですけど裏目に出る場合もありますから
武士にとっては内心(明日は我が身か)という辛い思いもあったでしょうね。

頼朝の父を殺したということで逆に評価もされたでしょうし
心を入れ替え頼朝に尽くしたのに誅されたということで同情も集めたでしょうし
「福禍はあざなえる縄の如し」で乗り越えて来たというのもありましょうし
たいした「家」ですよね。


>武家としてのアイデンティティがあり、尊敬いたしますね。

さようでございますね。
武門の大変さを身を以って日本の歴史に「名」を刻みましたね。
日本が続く限り「名」が残りますね。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapha.